海上自衛隊航空基地の成り立ち(全 2 回)
http://www.nids.mod.go.jp/publication/commentary/pdf/commentary277.pdf
『1945 年の終戦により陸軍省及び海軍省が解体された後、旧陸海軍人は時おかずして再軍備検討を始め
た。特に厚生省第二復員局残務処理部の旧海軍人メンバーによる研究が、後の海上自衛隊の前身である
海上警備隊創設の切っ掛けとなったことはよく知られている1。
彼らは研究の当初から海軍により運用さ
れる航空軍備の必要性を訴えており、そのために全国の旧陸海軍の航空基地の状況をリストアップして
いた2。
1952 年 4 月に海上保安庁内に発足した海上警備隊(同年 8 月保安庁に統合され警備隊)もまだ航空機
を保有していなかったが、発足当初から航空部隊の整備に着手する計画であり3、警備隊となった後の
1952 年度補正予算でついに回転翼機 9 機の予算が認められる4。
この最初の回転翼機は、重要港湾(東京
湾)の入り口で航路の集束地であるという理由で千葉県の館山航空基地に装備された5。
その後、警備隊
は回転翼機だけでなく固定翼機も装備するようになり、1954 年の海上自衛隊発足以降も全国に航空基地
を整備していくこととなる。
旧軍は終戦時に基地を失い、その多くは米軍が使用しあるいは民間に払い下げられることになったが、
長い占領の時期を経て改めて航空部隊を全国に展開しようとした際、どのような調整や問題に直面した
のだろうか。
本稿は、そうした観点で草創期における海上自衛隊の航空基地の成立経緯について取り上げたものである。
特に長大な滑走路を必要とする大型固定翼哨戒機のために整備された、鹿屋航空基地
と下総航空基地の二つについて、どのような経緯で海上自衛隊の航空基地となったのかを見ていく。
なお、本稿は前、後編の 2 回に分け、前編の今回は鹿屋航空基地を、後編は下総航空基地を見ていくことにしたい。
自治体の誘致と鹿屋航空隊
鹿児島県にある鹿屋航空基地は海上自衛隊がまだ警備隊であった 1953 年 12 月に、館山に次いで二番
目に開隊した航空基地である。開隊当初はビーチクラフト社のメンター2 機の配備であったが、現在は哨
戒機運用部隊の第 1 航空群などが所在する海上自衛隊の重要な航空基地の一つである。当地は元々、旧
海軍の航空基地があった場所で終戦時に米軍に接収されて第 5 空軍が駐留し、その後接収が解除されて
1948 年 4 月からは大蔵省南九州財務局の管理、1950 年 12 月からは警察予備隊の駐屯地として使用され
るに至った6。
『海上自衛隊二十五年史』によれば、警備隊は固定翼機用の最初の基地としてはできるだけ中央に近
い場所とする方針であり、大阪の大正飛行場を検討していた7。
そのような中、1953 年 2 月に元衆議院議
員で鹿屋市長も務めた永田良吉が保安庁第二幕僚監部(以下、「二幕」と記す。)を訪れ、「鹿屋基地は海
軍が建設した由緒ある処であり、海上航空が再建されるのであれば第一番に鹿屋を選んで貰いたい。保
安隊の陸上部隊に飛行場を使用させるとは何事ぞ」と述べたという。当時、二幕総務課で勤務していた元
呉地方総監の香取穎男が回想している8。
永田は早くから航空機の有用性に着目し、鹿屋へ海軍航空隊を誘致した張本人でもある。永田が鹿児
島県議会議員であった 1922 年、彼の尽力で町営の笠野原飛行場が開かれ、そこに地域活性のために航空
隊を誘致しようと永田自身が各方面に働きかけたことが海軍鹿屋航空隊の開隊の切っ掛けとなった。永
田が衆議院議員となった後の 1936 年に、海軍が笠野原から西方にある現在の場所に土地を選定し基地を
開設したのである9。
1933 年 7 月 7 日の朝、地主も知らぬ間に測量されてすぐに土地買収委員が土地を買い上げたという。
相場より安い金額で土地を売却することになった農家は新しい耕地を買うこともできなかったが、飛行
場建設の日雇いや、海軍工廠が出来た後にそこで働くなどして、兼業農家になったとのことだ10。
1936 年
5 月の航空隊誕生の祝賀式の日には地元住民が日の丸の小旗を振って「鹿屋航空隊を祝う歌」を歌い、基
地開設の前後には地元の大隅鉄道は国営となり、更に上下水道も完成、観光団も急増するなど、鹿屋は
「燃え立つような新興気分」であった11。永田は自身の飛行機好きもあるが、長年飛行場による地域活性
化の構想を描いており、この時に一度その実が結ばれたと言える。その鹿屋基地は前述のとおり終戦後
米第 5 空軍が進駐したが、1948 年 3 月に 5 空軍が移駐した後は市街も火が消えたような寂しさとなり、
当時公職追放の身であった永田が鹿屋市長の田平藤一に働きかけ、今度は警察予備隊を誘致した。
1961 年に刊行された永田の伝記『永田良吉伝』へ当時の防衛庁長官赤城宗徳が寄せた「序文」には、
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永田について「(昭和)28 年に航空隊設置の議起こるや、率先誘致に奔走されましたことは、今なお、我々
の記憶にあらたなところ」とあり、永田が警察予備隊の誘致のみならず警備隊の設立間もない頃から鹿
屋への積極的な警備隊の航空隊誘致を行っていたことが分かる12。
なお、永田が旧軍航空隊の誘致を行っ
ていた 1923 年頃、当初は同郷の先輩を頼って陸軍と交渉していたが遅々として進まず、挙句は大喧嘩に
なり「陸軍には頼まんぞ」と捨て台詞を残した後、海軍との交渉に至ったという。永田自身、「海軍のわ
かりのよいのには真にうれしいでした(ママ)」と語っているが13、こうしたエピソードを知ると香取の
回想にある「保安隊の陸上部隊に飛行場を使用させるとは何事ぞ」との発言も少し頷ける。
鹿屋に駐屯し
た警察予備隊は、保安隊となり陸上自衛隊となった後の 1955 年に鹿児島県国分市へと移駐した。
警備隊の鹿屋航空隊開隊に関しては、『海上自衛隊二十五年史』には鹿屋市民の歓迎と、鹿児島県や関
係各部の積極的な協力があったと記載されている。また、当時の新聞も「市民は好むと好まざるとにかか
わらず、いままた保安隊と警備隊の陸海防衛力を擁して旧軍都の夢を追っている」と報じており14、そこ
には市民の基地に対する「負」の感情はほとんど感じられない。鹿屋市が発行する『鹿屋市史』において
は、鹿屋市街地の住民が自衛隊を歓迎した半面、飛行場付近の住民からは反対の声や騒音公害等を訴え
る声が高まったとあるものの数行程度の記載にとどまり、「しかし伝統に輝くこの飛行場は、再び飛行機
に掩われて行くのである。」と続く15。
P2V-7 供与に向けて
こうして 1953 年 12 月に開隊した鹿屋航空基地であるが、1955 年 3 月から同年末にかけて滑走路拡張
工事が行われている16。
開隊間もない鹿屋航空基地の施設は旧海軍時代に建設されたままのもので、滑走
路にはうねりがあり、誘導路は傷んで砂利がむき出しで、配備されたメンターのプロペラが砂利で傷つ
くこともあったという17。
しかし開隊約 2 年後には拡張工事の結果、滑走路の長さ耐荷重とも当時の日本
で第 1 級と呼べる飛行場となる。海上自衛隊は鹿屋基地以降、1956 年の大湊及び大村、その翌年に八戸
と次々に航空基地を整備していくが、これらの新規航空基地の整備より優先して鹿屋の滑走路拡張を行
った理由は、米国から供与される当時最新鋭の対潜哨戒機と言われた P2V-7 の受入れのためであった。
警備隊が海上自衛隊となる直前の 1954 年 6 月、二幕は「MSA 援助に関連する米側意図の判断並びに
これに応ずる警備隊業務計画の改定要領について」という文書を作成している。当該文書は、日米相互防
衛援助協定18による米側支援を最大限に引き出すために、警備隊の 1954 年度以降の業務計画を米側の意
図を汲んだ内容に修正するべきとの方針をうたったものである。その文書内で P2V-7 関係個所を概略記
述すると以下のような趣旨になる。なお、資料内ではただ「P2V」と記載されているが、「最新鋭」とさ
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れていることから「P2V-7」であると推察できる。
①1955 年度初頭に P2V が供与されることが確定したので必要な基地施設を整備するよう、54 年度業
務計画を改訂する、②米側がこの最新鋭を譲渡してくれることは有難いことであり、受け入れ態勢には
万全を期さねばならない、③米海軍が対潜航空兵力として P2V を考えているにもかかわらず、日本の基
地施設の現状が困難であるので、米側は日本側に基地整備を急ぐよう希望している19。
この件に関し『海上自衛隊二十五年史』では、警備隊が米側の援助を受けるに際し、在日軍事援助顧問
団(Military Assistance Advisory Group Japan:MAAGJ)に最新鋭の P2V-7 の供与を要請したところ、1954
年 3 月に MAAGJ から連絡があり、日本には受け入れられる基地がないので差し当たり別の機種(PV2)
を供与すると回答があったと記載されている。二幕はなるべく早期に P2V-7 の供与を得るために、鹿屋
航空基地を P2V-7 用に整備する方針を固めて保安庁の承認を得て、これを MAAGJ に伝えた20。1953 年
に館山、鹿屋と立て続けに基地が開設された後、次の航空基地が大湊に開設されるまで約 2 年のブラン
クがあるが、その間にこの滑走路拡張工事がなされており、当時の海上自衛隊が何よりも最新鋭の哨戒
機の取得を優先させていたことが分かる。
先に述べた「MSA 援助に関連する米側意図の判断並びにこれに応ずる警備隊業務計画の改定要領につ
いて」には、米海軍が「日本の主要海上交通路を有効に掩護するためには太平洋沿岸に数個の海軍用航空
基地を整備するべきであって、その位置及び数量は日本側で決定すべき問題である」との見解を示して
いると記載されており、こうした米海軍の見解が海上自衛隊の航空基地の整備に何らかの影響を与えて
いたことは想像に易い。加えて鹿屋の滑走路拡張には、より直接的に米海軍がその建設の推進に関与し
ていた可能性を示す証言もあった。
元海上自衛隊幹部学校長の鈴木英は、1955 年の初めから「FTG」と称された作業がなされていたと回
想している。FTG とは協同企画グループ(Free Talking Group、日米の防衛協力のために組織された自衛
隊各幕レベルのグループ)のことではないかと考えられるが21、鈴木はその検討作業の中身において「在
日米軍の任務としていざとなった時アメリカに友好を持った政府を残すこと」「そのために関東地区の主、
それから九州の南半分、という 2 つの目標があがっていました」と続けている22。
鈴木によれば 1955 年当時、FTG の基本的作戦として米側から提示された計画の中に九州の南半分を目
標としたものがあり、鹿屋はその圏内に入っているために立派な飛行場を造ることに「米側が同意する」
と示したと述べている。それらが「公文書には残されていない」と前置きした上で、鈴木は「要するに前
線を下げても又、取り返すという作戦ですね。沖縄から飛んできてね。そのためにも鹿屋地区には立派な
飛行場を造れということでした」と続けている。日本の有事を想定した日米共同作戦計画案の策定作業
の中で、既に鹿屋基地が日本の防衛上重要な基地として位置付けられていたことが分かる証言である。
おわりに
先に述べた永田良吉は後に、「自衛隊の飛行機は騒音じゃなくて、金をばらまいていると思えばよか」
「今の航空隊、あれはいくさ道具ではない。毎日街に出て金を落とすからドル箱よ」と語っており23、財
政にあえぐ鹿屋市の浮揚策を、過去に一度実現した航空隊によるものに期待していた。
当時の地方財政
への自衛隊の期待に関しては、元防衛事務次官の加藤陽三も警察予備隊設置当時の 1950 年代初頭を振り
返り、戦後の不況の中にあって全国各地からの部隊誘致を断るのに大変苦労したと述べている24。
まさに
鹿屋もその一つであったと言えるが、その後の経済発展とともに状況は一変する。元々、旧陸海軍基地の
跡地は終戦時に接収した米軍の使用状況を考慮する必要があったうえ、地方開発との競合もあり、基地
構想は困難を極めることとなった。
前述の加藤は自身が官房長となった 1960 年代前半が「丁度基地問題
が一番難しくなった時代」とも述べており、いずれの基地も周辺の整備事業や補償に相当の予算を支出
して対応したという25。
次回、後編は千葉県の下総航空基地について述べる。下総航空基地が海上自衛隊の航空基地として開
隊したのは 1962 年、加藤の言う「基地問題が一番難しくなった時代」に整備された航空基地である。
1 海上自衛隊の創設の経緯は、NHK 報道局「自衛隊」取材班『海上自衛隊はこうして生まれたー「Y 文書」が明かす創設の秘密―』(日本放送
出版協会、2003 年)、ジェイムス・E・アワー著、妹尾作太男訳『よみがえる日本海軍 海上自衛隊の創設・現状・問題点 上』(時事通信
社、1972 年)などに詳しい。
2 厚生省第二復員局残務処理部メンバーによる旧陸海軍航空基地のリストアップについては、防衛研究所所蔵の「航空軍備建設に関する研究」
旧海軍残務処理機関『海軍残務処理機関における軍備再建に関する研究史料3/3(複製)』において、国内 84 箇所の基地を確認した。
3 「海上自衛隊の基本運営方針」平 17 防衛 02433100、国立公文書館所蔵。当該史料は 1952 年 7 月 15 日付の「海上警備隊内令第 1 号」であ
り、「将来出現を予想される航空に関しては海上部隊である警備隊の特質を鑑みこれが処理対策を適切にして海上警備力の全能発揮に万遺憾な
からしめる」との記述がある。
4 海上自衛隊 25 年史編さん委員会『海上自衛隊二十五年史』渡邉昭夫監修、佐道明広他編『堂場文書 DVD-ROM 版』(丸善学術情報ソリュ
ーション事業部開発センター、2013 年)78 頁。
5 『創出関係資料 4(1/4)』(大野義高 海上自衛隊航空部隊(回転翼)創設の経緯)』平 17 防 02119100、国立公文書館所蔵、4 頁。
6 海上自衛隊鹿屋航空基地『基地のあゆみ 開隊 25 周年記念』(海上自衛隊鹿屋航空基地、1979 年)22 頁。
7 海上自衛隊 25 年史編さん委員会『海上自衛隊二十五年史』80 頁。
8 香取穎男「創設期の鹿屋航空隊」研究委員会固定翼分科会『海上自衛隊苦心の足跡 第 7 巻 「固定翼」』(公益財団法人水交会、2017 年)
17 頁。
9 永田良吉伝刊行同志会編集部『永田良吉伝』(永田良吉伝刊行同志会、1961 年)。永田は鹿屋市長を 1943 年 11 月から 46 年 10 月ま」でと
1956 年 10 月から 64 年 10 月までの 2 期を務めており、本書は 2 期在任中に刊行されている。
10 鹿屋市史編さん委員会『鹿屋市史(改訂版)下巻』(鹿屋市、1995 年)830 頁、831 頁。
11 大場昇『評伝 永田良吉-最後の井戸端政治家-』(大場昇、2010 年)184-186 頁。
12 永田良吉伝刊行同志会編集部『永田良吉伝』5 頁。
13 同上 301 頁、655 頁。
14 『朝日新聞 鹿児島版』1954 年 3 月 21 日朝刊 8 頁。
15 鹿屋市史編集委員会『鹿屋市史 下巻』(鹿屋市、1972 年)912 頁。
16 防衛施設庁史編さん委員会『防衛施設庁史第 2 巻各論編-第 5 部-』(防衛施設庁総務部総務課、1979 年)161 頁。
17 香取「創設期の鹿屋航空」22 頁及び『自衛力の確立 2(1/3)(鮫島博一 海上防衛体制の確立へ 第一部)』平 1701983100、国立公文書
館所蔵、46 頁。
18 「日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定」1954 年・条約第 6 号。米国の国内法である「相互安全保障法(Mutual Security
Act)」に基づく協定であることから MSA 協定とも通称される。
19 第二幕僚監部「MSA 援助に関連する米側意図の判断並びにこれに応ずる警備隊業務計画の改定要領について」(1954 年)『創出関係資料 5(3
/5)(寺井義守 海上自衛隊の創設期における将来構想)』平 17 防衛 02125100 付録、国立国会図書館所蔵。
20 海上自衛隊 25 年史編さん委員会『海上自衛隊二十五年史』83 頁。
21 「第 48 回国会参議院決算委員会議録第 7 号」(1965 年 3 月 18 日)において、当時防衛局長だった海原治が FTG について答弁している。国
会議事録検索システム、http://kokkai.ndl.go.jp/minutes/api/v1/detailPDF/img/104814103X00719650318
22 『創出関係資料 6(4/5)(鈴木英元海将回想記録)』平 17 防衛 02131100、国立公文書館所蔵、41 頁。
23 大場『評伝 永田良吉-最後の井戸端政治家-』290 頁。
24 加藤陽三『私録・自衛隊史』(「月間政策」政治月報社、1979 年)231 頁。
25 同上 231 頁、232 頁。』