北戴河にいた軍長老の名 曽慶紅隣席で習氏に無言の圧力
編集委員 中沢克二
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOFE15CG70V10C23A9000000/
※ 「遅浩田」…。
※ 初めて聞いた名前だ…。
『「この夏、あの『海辺』にいたのは、力のある選(え)りすぐりの長老だ。ほんの数人だけである」「そのうちの一人は、(中国人民解放)軍の長老だ」「問題の(長老らとの)会合後、トップ(中国共産党総書記の習近平=シー・ジンピン)は、自らの側近を前に感情をあらわにした」
中国の内情をうかがい知ることができる複数の人物の証言である。海辺とは河北省の海浜にある保養地、北戴河を指す。そこは毎夏、長老と習ら現役指導…
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『そこは毎夏、長老と習ら現役指導部メンバーが重要事項について意見交換する場だ。
ところが今夏は、奇妙なことに、いわゆる意見交換の場ではなかった。現役の最高指導部メンバーは、出席者した数少ない長老らの代表者一人だけが口にした彼らの「総意」にじっと耳を傾けるだけだったのだ。
習近平国家主席(15日、北京で会談したカンボジア首相側のSNSから)=AP
どういうことなのか。代表者は先々週、このコラムで詳しく紹介した元国家副主席の曽慶紅(84)である。だが、もう一人、極めて重みのある人物がいた。長年、軍の重要ポストを務めた威厳ある長老だ。
その名は、遅浩田。この夏、94歳になった。「習近平時代」の中国の若い人々は、名さえ知らない人物だろう。しかし、1980年代から中国に関わる人々にとっては、忘れられない名だ。多くの有名軍人を輩出してきた山東省の出身である。
「改革・開放」政策にカジを切った鄧小平(故人)は、最高実力者として軍の掌握と、軍近代化に努めていた。1980年代、軍政畑の長い遅浩田を要の総参謀長に抜てき。遅浩田はその後、10年にわたり国防相を務めた。
一部、重なる形で制服組トップ級の中央軍事委員会副主席と、国務委員(副首相級)も歴任した。非の打ちどころのない輝かしい軍歴だ。軍のご意見番として尊敬を集めてきたのは当然だった。
恒例の旧正月を前にした現指導部による長老への「挨拶回り」を紹介する中国の発表文でも遅浩田の名は、生粋の軍出身者として最も前にある。これは序列の高さを意味する。遅浩田は鄧小平生誕100周年の際も軍を代表して記念文を寄せた。
1990年代、北京に駐在していた筆者は、その威厳ある軍人、遅浩田の現役国防相当時の声を現場で直接、耳にした。1998年3月26日のことだ。日中防衛交流で訪中した当時の陸幕長、藤縄祐爾と北京で会談した際だった。
中国軍の長老で元中央軍事委員会副主席の遅浩田氏(1998年3月26日、北京で)
「(日中)防衛交流で信頼が増し、地域の安全保障にも貢献できる」。遅浩田は藤縄に告げた。上の写真は当時、北京で撮影したものだ。今の秘密主義と違って、軍もオープンだった。会談前の時間、控室で遅浩田はリラックスしていた。我々、日本人記者が写真撮影を頼むと気軽に応じていたのである。
軍長老・遅浩田氏は沈黙し一言も発せず
それから25年。この夏、遅浩田は、曽慶紅とともに北戴河入りし、隣席にどんと構えた。ところが、その場で軍長老は一言も発しなかった。基本的に沈黙を保ったままだったという。興味深い。
習が中央軍事委トップの主席に就いた後、新たに打ち出したスローガンは「(共産)党の指揮(命令)を聞き、それに従う軍隊」だ。これを軍内の隅々に浸透させるため軍施設に掲げられる全看板まで入れ替えた。それまでは、前々任の中央軍事委主席、江沢民(故人、ジアン・ズォーミン)の時代から続く彼の言葉が掲げられていた。
おかしい。習の打ち出した標語を素直に聞けば、従来は共産党の指揮に従わない軍隊だった、ということになる。人民解放軍は、そもそも共産党を守る軍隊として設立された。軍は初期の共産党そのものである。だからこそ、1989年には、共産党独裁体制を守るため、学生らの真摯な民主化要求運動を武力弾圧し、多くの死者まで出した。
まさに、ここが肝だ。今から振り返れば、習は「党の指揮を聞き、それに従う」というスローガンで、実質的に自らへの絶対の忠誠を求めたといってよい。今や中央軍事委メンバーで共産党中央を代表する「文民」は、習ただ一人である。
習は、鄧小平と、その息がかかった江沢民に近い軍内勢力の一掃に動く。そして自らへの絶対忠誠を確立するため、引退していた徐才厚ら制服組の元トップクラス(元中央軍事委副主席)の元老に対しても「腐敗問題」で厳しい調査を始めた。
そして多くに無期懲役という厳しい処断が下された。拘束された徐才厚は、ストレスもあってか、膀胱(ぼうこう)がんが悪化して全身に転移し、2015年3月、入院中のまま死亡した。
摘発された後、死去した徐才厚・元中央軍事委員会副主席(左)=2012年9月、北京の人民大会堂で、右は賈慶林・元全国政協主席
その後も軍要人の失脚は続く。中央軍事委政治工作部のトップだった張陽は、重大な規律違反の疑いによる軟禁中、自宅で首つり自殺した。第19回共産党大会が閉幕した後の2017年11月のことだ。旧勢力一掃の厳しい追及は今も続く。
一方、今年、軍内でここまで大事件が起きても軍の規律は絶対である。現役組は共産党を守る軍人としての矜持(きょうじ)もあって、どんなに不満があっても、それを口にできない。代わりに軍長老が、軍内の真の危うい雰囲気を北戴河会議などを通じて現役指導部に伝える。それが軍長老の役割でもある。
ただし、今や習は共産党中央の別格の指導者だ。1990代の軍長老、遅浩田でも、習を前に直接、批判的な発言をするのは「ご法度」。だからこそ代表者、曽慶紅を前面に立て、自らは発言しなかった。
それでも習は居心地が悪かっただろう。いまだ軍内ににらみを利かせる長老が隣に座っているからこそ、曽慶紅の厳しい諫言(かんげん)を無視できないのだ。実力組織である軍の長老による無言の圧力は大きい。
長老の独自会合は半ば公
そもそも今回、長老らは北戴河に先立ち、北京郊外とみられる場所で、じっくりと意見交換していた。これまで習は、長老らが個別に会ったり、集まって勝手に意見交換したりするのを非常に嫌っていた。
そこで出るであろう「習批判」が人口に膾炙(かいしゃ)すれば、権力基盤に響きかねない。そこで習は、様々な「お触れ」を出し、長老が独自会合を開くのをけん制してきた。自分の側近らをフル活用し、監視の目も光らせてきた。
ところが、今夏の長老らの事前協議の集まりは「(いわゆる)秘密会合ではなかった」とささやかれている。習指導部も半ば公認した会合。認めざるをえなかったともいえる。
中国の政治、経済、社会が相当な苦境にあることは、習も認識している。かつてなく高い失業率もあって、若者らは既に動き出している。昨年末の「白紙運動」の広がりは、共産党幹部には衝撃だった。「この状態下で共産党体制の行方を真摯に心配する老人の声まで全て封殺するのは得策ではない」。そういう判断のようだ。
長老らの核は、習と同様、革命期から共産党で要職を務めた幹部の子弟である「紅二代」「太子党」だ。曽慶紅もそうである。混乱回避には、彼らの声も一定の範囲内で聞く必要があった。ただ、習とすれば、これは単なる「ガス抜き」という認識だっただろう。
しかし、長老らの総意に基づいて曽慶紅が口にした習指導部への諫言は、極めて厳しい内容だった。もはや、単なるガス抜きではなくなった。この雰囲気は、1カ月近くかけて各地の共産党内にも伝播(でんぱ)し、内部で微妙に波紋を広げている。
中国全人代の全体会議で宣誓する李尚福国防相(3月、北京の人民大会堂)=共同
消息不明である国防相の李尚福(65)の現状については、なお公式発表がない。だが既に失脚に追い込まれたという情報が世界を駆け巡っている。これには駐日米大使のエマニュエルまで言及した。李尚福は、外相から解任された秦剛と同様、副首相級の国務委員を兼任している重要人物だ。
相次ぐロケット軍幹部失脚、習氏が進める大粛清の意図
この異常な軍への措置は、何らかの政治的な意図を持つ習が、十分に準備した後、主導的に措置をとった「軍内粛清」なのか。それとも、追い込まれる形で行動に出ざるをえなかったのか。それは謎のままだ。
ただ、ひとつだけ、はっきりしているのは、軍がある種の混乱の中にあるという事実だ。それは当然だった。8月の北戴河会議と、その前の長老らの会合があったとみられる頃、軍には大きな異変があった。
まず8月1日、核・ミサイルを運用するロケット軍の司令員の拘束が明らかになる。司令員と政治委員というトップ2人は前日の人事発表で、既に更迭されていたことが判明していた。さらにロケット軍の元副司令員が7月初めに死亡していた事実も判明。自殺という見方が出ている。混乱の裏には「機密情報の漏洩」という重大事件があるとの情報も中国内で出回りつつある。
核・ミサイルに関わる専門軍種であるロケット軍の新たなトップ2に抜てきされたのは、何と海軍の出身者と、空軍の出身者だった。急に部外者がきても専門的運用が要るロケット軍をうまく動かせるはずがない。現場に強い不満があることは、想像に難くない。
続いて軍の事務、対外関係を一手に担う国防相の李尚福まで理由不明のまま解任される場合、組織内がさらに混乱しないはずはない。しかも、李尚福は比較的、高齢にもかかわらず、習自身があえて抜てきした人材とみられていたからだ。
異常な軍内粛清の動き、国防を担う現場の混乱、そこにくすぶる様々な形の不満……。これらが、北戴河会議に、軍内ににらみを利かせる真の長老、遅浩田が現れたことに関係していることだけは間違いない。(敬称略)
中沢克二(なかざわ・かつじ)
1987年日本経済新聞社入社。98年から3年間、北京駐在。首相官邸キャップ、政治部次長、東日本大震災特別取材班総括デスクなど歴任。2012年から中国総局長として北京へ。現在、編集委員兼論説委員。14年度ボーン・上田記念国際記者賞受賞。』