例えば、当日に天安門広場での抗議活動を取材していたワシントン・ポスト紙のジェイ・マシューズは問題になった日に広場で誰も死んでいないとしている。広場に派遣された治安部隊は学生が平和的に引き上げることを許していたという。(Jay Mathews, “The Myth of Tiananmen And the Price of a Passive Press,” Columbia Journalism Reviews, June 4, 2010)
学生の指導グループに属していた吾爾開希は学生200名が殺されたと主張しているが、マシューズによると、虐殺があったとされる数時間前に吾爾開希らは広場を離れていたことが確認されている。北京ホテルから広場の真ん中で兵士が学生を撃つのを見たと主張するBBCの記者もいたが、記者がいた場所から広場の中心部は見えないことも判明している。(Jay Mathews, “The Myth of Tiananmen And the Price of a Passive Press,” Columbia Journalism Reviews, June 4, 2010)
また、内部告発を支援しているウィキリークスが公表した北京のアメリカ大使館が出した1989年7月12日付けの通信文によると、チリの2等書記官カルロス・ギャロとその妻は広場へ入った兵士が手にしていたのは棍棒だけで、群集への一斉射撃はなかったと話している。銃撃があったのは広場から少し離れた場所だったという。(WikiLeaks, “LATIN AMERICAN DIPLOMAT EYEWITNESS ACCOUNT O JUNE 3-4 EVENTS ON TIANANMEN SQUARE”)
イギリスのデイリー・テレグラム紙が2011年6月4日に伝えた記事によると、BBCの北京特派員だったジェームズ・マイルズは2009年に天安門広場で虐殺はなかったと認めている。軍隊が広場へ入ったときに抗議活動の参加者はまだいたが、治安部隊と学生側が話し合った後、広場から立ち去ることが許されたという。マイルズも天安門広場で虐殺はなかったと話している。(The Daily Telegraph, 4 June 2011)
1155年にノルマンディー公が五港同盟を結んで得た船で海軍を作った。百年戦争の開戦時、イングランド海軍はフランス海軍に戦力で劣っていたが、1340年のスロイスの海戦においてフランス艦隊を一掃した。しかし、1372年と1419年のラ・ロシェル沖におけるフランスとカスティーリャとの海戦で、イングランド海軍はかなりの損害を負った。そして、イングランド本土の港がジャン・ド・ヴィエンヌ (Jean de Vienne) とフェルナンド・サンチェス・デ・トバル (Fernando Sanchez de Tovar) の指揮する艦隊の襲撃による被害を受けた。幸いなことにフランスは海軍力の戦略的重要性を理解していなかったため、制海権は間もなくイングランドの手中に戻った。
1805年から1914年まで、「ブリタニアは大洋を制した」(Britannia rule the waves、派生してルール・ブリタニアの詩・愛国歌として知られる)という言葉通り、世界中の海で圧倒的な支配力をもった。1805年以前もイギリス海軍の戦略的な失敗は、アメリカ独立戦争中に行われた1781年のチェサピーク湾の海戦だけで、この時は有能なコント・ド・グラス(Comte de Grasse)の指揮するフランス艦隊に敗北した。
実務上の指揮はファースト・シー・ロード(海軍大将)を含む国防会議のメンバーによってなされる。国防会議は海軍の管理をアドミラルティ・ボードに委任しており、国防大臣が議長を務める。アドミラルティ・ボードは、艦艇を管理するネイビー・ボードを指揮下に置いており、こちらは海軍士官と国防省の公務員から成る。これらはロンドンのホワイトホールにある国防省舎 (MoD Main Building) に所在している。
艦隊航空隊(Fleet Air Arm)は、イギリス海軍の航空機による作戦をつかさどる部門である。
イギリス軍では陸上基地で運用する対潜哨戒機は空軍の管轄になっている。
階級
「イギリス軍の階級」および「軍隊における階級呼称一覧」も参照
NATO階級符号 階級章 階級 英語 日本語 OR-1 該当階級なし OR-2 British Royal Navy OR-2.svg Able Rating 水兵 OR-3 該当階級なし OR-4 British Royal Navy OR-4.svg Leading Rating 上等水兵 OR-6/OR-5 British Royal Navy OR-6.svg Petty Officer 兵曹 OR-7 British Royal Navy OR-7.svg Chief Petty Officer 上等兵曹 OR-8 British Royal Navy OR-8.svg Warrant Officer class 2 二等兵曹長 OR-9 British Royal Navy OR-9.svg Warrant Officer class 1 一等兵曹長 OF(D) British Royal Navy OF-Student.svg Officer cadet 士官候補生 OF-1 British Royal Navy OF-1a.svgUK-Navy-OFD.svg Midshipman 見習士官 UK-Navy-OF-1b-collected.svg Sub-Lieutenant 下級海尉 OF-2 UK-Navy-OF-2-collected.svg Lieutenant 海尉 OF-3 UK-Navy-OF-3-collected.svg Lieutenant commander 少佐 OF-4 UK-Navy-OF-4-collected.svg Commander 中佐 OF-5 UK-Navy-OF-5-collected.svg Captain 大佐 OF-6 British Royal Navy OF-6-collected.svg Commodore 代将 OF-7 British Royal Navy OF-7-collected.svg Rear admiral 少将 OF-8 British Royal Navy OF-8-collected.svg Vice admiral 中将 OF-9 British Royal Navy OF-9-collected.svg Admiral 大将 OF-10 British Royal Navy OF-10-collected.svg Admiral of the Fleet 元帥
イギリス海軍および予備艦隊所属の戦闘艦艇にはHMS(His or Her Majesty’s Ship 陛下の船の意)の頭文字がつけられ、補助艦隊所属の補助艦艇にはRFA (Royal Fleet Auxiliary) の頭文字がつけられる。イギリス海軍の軍艦旗には、ホワイト・エンサイン (the white ensign) が定められており、補助艦隊はブルー・エンサインの一種を用いる。艦艇にはアメリカ海軍と異なり、分類シンボル (Hull classification symbol) ではなく、ペナント・ナンバーが付与される。
『アルマダの海戦(アルマダのかいせん)、アルマダ戦争(アルマダせんそう、英語: Battle of Armada, Armada Wars)は、スペイン無敵艦隊(英語: Spanish Armada、スペイン語: Grande y Felicísima Armada)のイングランド侵攻において、1588年7月から8月(旧暦7月)に英仏海峡で行われた諸海戦の総称である。
1587年4月29日から30日(旧暦4月19日 – 20日)、フランシス・ドレーク率いるイングランド艦隊が準備妨害のためカディス港に来襲し、スペイン船37 – 24隻が破壊または捕獲された[21]。その後、ドレークはポルトガル沿岸部を襲撃して100隻以上を破壊または拿捕し、この際に捕獲した大量の樽材を焼却している[22]。樽材の新規確保が難しかったためスペインは生乾きの粗悪な板を使用することになり、このあとの遠征で飲料水・食料品へ甚大な被害を与えることになる[23][注釈 4]。これにより、艦隊計画を大幅に変更する。(「スペイン王の髭焦がし」事件 (Singeing the King of Spain’s Beard) )
7月31日(旧暦7月21日)の夜、イングランド艦隊は攻撃を実行するために無敵艦隊の風上に針路を変えて、有利な位置を占めた。夜明けとともにイングランド艦隊が無敵艦隊の右翼後方から接近し、砲撃を加えた。その後、イングランド艦隊は左翼後方のビスケー湾船隊へ攻撃を加えた。船隊司令リカルデ提督(es)の乗艦サン・ファン号(San Juan)[注釈 5]とエル・グラングリン号(El Gran Grin)の2隻がイングランド艦隊の攻撃の矢面に立たされた[46]。2時間ほどの双方決定的な打撃を与えられない砲撃の応酬ののちに、メディナ=シドニア公の援軍が駆けつけたためハワードは後退を命じた[47]。(プリマス沖海戦)
戦闘後、スペインのガレオン船サン・サルバドル号(San Salvador)が爆発事故を起こして炎上し、続いてアンダルシア船隊司令ペドロ・デ・ヴァルデスの乗艦ヌエストラ・セニヨーラ・デル・ロサリオ号(Nuestra Senora del Rosario)が衝突事故を起こして行動不能に陥り、救出はかなわず、メディナ=シドニア公はやむなく両船を遺棄した[48]。サン・サルバドル号は主計総監と金庫を載せた会計艦であったため、その放棄はスペイン側の士気を甚だしく低下させた[49]。
イングランドでは数年にわたり国威が高揚し、エリザベス伝説は彼女の死後も長く生き残り、そして成長した。スペイン海軍の撃退はヨーロッパ中のプロテスタントに勇気を与え、神がプロテスタント信仰を加護しているという信念は記念メダルに刻印された「神は風を起こし、そして彼らは追い散らされた」(He blew with His winds, and they were scattered)という文言によく現れている。そのほかにもユリウス・カエサルの言葉「来た、見た、勝った」(Veni, vidi, vici)をもじった「彼は来た、彼は見た、彼は逃げた」(Venit, Vidit, Fugit)を刻印した、より陽気なメダルもある。