中国、日本の防衛白書に抗議 「軍事活動を中傷」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM289000Y3A720C2000000/
『【北京=田島如生】中国外務省は28日、日本が公表した2023年版防衛白書に「強烈な不満と断固とした反対」を表明し、抗議した。毛寧副報道局長は記者会見で「中国の正常な国防と海空の軍事活動を中傷し…
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中国、日本の防衛白書に抗議 「軍事活動を中傷」
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM289000Y3A720C2000000/
『【北京=田島如生】中国外務省は28日、日本が公表した2023年版防衛白書に「強烈な不満と断固とした反対」を表明し、抗議した。毛寧副報道局長は記者会見で「中国の正常な国防と海空の軍事活動を中傷し…
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ルメール仏経済・財務相、29日から中国訪問
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR28B9E0Y3A720C2000000/
『パリ=北松円香】フランスの経済・財務省は28日、ルメール経済・財務相が29日から中国を訪問すると発表した。何立峰(ハァ・リーファン)副首相と会談するほか、中国電気自動車(EV)大手の比亜迪(BYD)など現地企業の経営陣と面会する。訪問は31日まで。
ルメール氏の訪中は、中国企業による対仏投資促進など仏中の経済関係強化が目的だ。29日に…
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ゼレンスキー氏「ロシアは再び侵略する」 圧倒が必要に
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR28DYC0Y3A720C2000000/
『【ロンドン=湯前宗太郎】ウクライナのゼレンスキー大統領は28日、侵攻を続けるロシアに関して「我々がウクライナ全土から追放した後でさえも、再び侵略することをためらうとは思わない」との見解を述べた。将来も侵略を止めるには、同国を圧倒する必要があるとの認識を示した。
ゼレンスキー氏は首都キーウ(キエフ)での演説で、「再侵略の試みが狂った人間の病的な妄想にすぎないと思わせるほど、ウクライナは勝利しなけれ…
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『ゼレンスキー氏は首都キーウ(キエフ)での演説で、「再侵略の試みが狂った人間の病的な妄想にすぎないと思わせるほど、ウクライナは勝利しなければならない」と強調した。将来の平和を守る上では、圧倒的な勝利が必要との認識を示した。
ロシア国防省は同日、同国南西部ロストフ州のタガンログでウクライナのミサイルを撃墜したと発表した。爆発に伴うミサイルの破片により、10人以上が負傷したとみられる。国防省によると、ロシアは同州の別の都市でもミサイルを撃墜した。
28日は首都郊外のモスクワ州でも、ロシアはウクライナの軍用無人機(ドローン)を打ち落としている。防空システムにより破壊したため、死傷者や被害はなかったという。
【関連記事】
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国民・領土・主権を守る 自衛隊トップの危機感
吉田圭秀統合幕僚長
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA1247I0S3A710C2000000/
『【この記事のポイント】
・現時点の防衛力では日本の安全を守れる状況にない
・先端技術をつかむため、先行するスタートアップとも関係築く
・AIや無人化装備、民間の力で補う組織の構造に変革を
日本を取り巻く安全保障環境が激変している。ウクライナを侵略したロシアは核をふりかざし、中国は台湾統一の野心を隠さない。北朝鮮は弾道ミサイルの発射を続けており、東アジアは緊張を高める。いまの防衛力で日本を守りきれるのか。…
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『いまの防衛力で日本を守りきれるのか。自衛隊トップの吉田圭秀統合幕僚長に聞いた。
政府は2022年末に国家安全保障戦略など安保関連3文書を決定した。反撃能力の保有、サイバーや宇宙など新領域への対応に加え防衛費を大幅に増やす方針を盛り込んだ。
――いまの自衛隊の防衛力で日本を守ることができるのか。
「現時点の防衛力では日本の安全を保てる状況にない。だから安保関連3文書で防衛費を国内総生産(GDP)比2%まで増やし、防衛力を抜本強化すると決めた」
弱く見られてはならない
――日本の何を守るのか。
「国家を守る。国家の三要素である国民、領土、主権を守る。主権が危うい状況になったウクライナのような事態で三要素をいかに守り抜くかということだ」
「国家安保戦略は国益を明確に定めた。国家の平和と安全とさらなる繁栄、普遍的価値と国際法に基づく国際秩序の維持だ。国益論は戦争と結びついた戦前の経緯からタブー視された部分があったが、今はフラットに語れる環境になってきた」
――防衛政策への世論の支持や理解は十分でない。
「日本が置かれている戦略環境を認識してほしい。国際社会は力による現状変更を許さず、法の支配に基づく国際秩序を維持できるか否かの分水嶺にある。インド太平洋地域で最前線に立っているのが日本だ」
「国民の自衛隊に対する考え方は大きく変化しつつある。ロシアのウクライナ侵略は対岸の火事ではない。国民が北朝鮮や中国の示威行動を肌で感じ取った結果、防衛への意識は高まった。世論調査でも防衛費の増額や反撃能力の保持を多くの人が支持した」
「日本はインド太平洋地域で最前線に立っている」と話す=積田檀撮影
――ウクライナの教訓をどうとらえているか。
「ロシアはウクライナ軍の能力や国民の抵抗意思を過小評価した。ウクライナが北大西洋条約機構(NATO)の外にあったのも要因だ。ウクライナのような深刻な事態が日本周辺で起きる可能性を排除できず、強い危機感を持っている」
「教訓を踏まえ日本がなすべきことは2つある。1つは自身の防衛力を過小評価されないよう抜本強化すること。そして米国の核を含む戦略で同盟国を守る拡大抑止をしっかり担保することだ」
――北朝鮮の核・ミサイル技術が向上している。ミサイル防衛で国を守ることができるとは思わない。
「ミサイル防衛能力を強化するだけでは国民の生命、財産を守れない。北朝鮮の能力が著しく高度かつ複雑になった。変則軌道で飛び、迎撃するのが難しくなっている」
「3つの分野を強めないといけない。ミサイルで目標をたたく反撃能力を保有し、迎撃能力を進化させる。ミサイル落下時の被害を最小限にする地下の避難用シェルターを増やして国民保護の態勢を整える」
――反撃能力をどう運用するか説明が足りないという指摘がある。
「国民との対話のキャッチボールはまだ足りない。我々も丁寧に説明をしていく。一方で手の内は相手に知らせないのが肝だ。運用に関わることを明かせば、相手に攻撃を思いとどまらせる力が低下する」
――米国は有事で日本を守ってくれるか。
「米国の核の傘で日本を守る策を話し合う『拡大抑止協議』を2010年から濃密にやってきた。6月下旬の協議では情報の共有や演習の質の向上、ミサイル対処力を強めると確認した。外務・防衛担当の閣僚レベルでも踏み込んだ議論をしている」
6月、沖縄県・石垣島に展開する航空自衛隊の地対空誘導弾パトリオット(PAC3)=共同
米インド太平洋軍の前司令官は21年の米議会公聴会で、中国が27年までに台湾を侵攻する可能性を指摘した。米本土の部隊が駆けつけるのに3週間を要すると発言した。
米国に頼りすぎはリスク
――冷戦時代の自衛隊は2週間の継戦能力が必要だと言われた。今は3週間を耐え抜かないといけない。
「自衛隊が独力でどの程度頑張れるかは作戦運用に関わるのでコメントは控える。日本への侵攻について相手国が費用対便益を計算し、侵攻を思いとどまらせるようにできる態勢を速やかにつくる」
「国家安保戦略は27年度までに日本が主たる責任を持って日本への侵攻を阻止できるようにする目標を立てた」
――世界の力学の変化で日米同盟も変質した。
「これまではいざとなれば傍らにいる米軍の抑止力に頼れた。米国への依存が大きすぎると、米国内で費用対効果を問う声が出る。日本が自立的にできる部分を増やすことで同盟の対処力を強める」
――日本が自国でできることもある。
「平時の自衛隊は警戒監視や情報収集で力を発揮することが重要だ。人工知能(AI)や量子暗号など先進技術の優位性も維持しなくてはならない」
「日米豪、日米豪印などパートナーシップを広げる。インド太平洋地域や欧州の現状を守る勢力としっかり結束していくべきだ」
ワシントンで1月に協議した日米の外務・防衛担当相=外務省提供
防衛力の強化を下支えするのは強い経済力だ。日本の防衛産業は企業の撤退が相次ぎ、防衛力を裏付ける基盤が揺らいでいる。
スタートアップとも関係築く
――民間企業の協力が欠かせない。
「防衛装備の研究開発や実装をより早くする。今までは新しい装備をつくるのに10年以上かかった。原型が出てきたらすぐに部隊に入れて戦力化し、研究開発と並行して能力を強化する」
――日本企業は防衛への関与を前面に掲げてこなかった。
「先進技術は今までの防衛産業だけではつかみ切れない。先行するスタートアップとの関係を築き上げていく。民生技術を防衛に転用する仕組みをつくり、官民を挙げて防衛装備の輸出も推進する」
「産業界だけではなく、アカデミア(学術界)とも連携を深める。アカデミアは長らく軍事にあまり触らない風潮が強かった。直接的な対話を始め、今の安全保障を理解していただくよう努力する。まずは距離を詰めていきたい」
――陸上自衛官の候補生が6月に小銃で3人を死傷させた。国民の安保への理解に水を差した。
「武器を扱うことを国家から許されている組織としてあってはならない。大変重く受け止めている」
――自衛官の志願者が減っている。
「人材の確保と育成は大きな問題だ。女性の比率を現行の7〜8%から50年までに14%へ引き上げる。出産や育児で退職しないような働きやすい環境をつくり、定着率を上げる。AIや無人化装備、民間の力で補う組織の構造に変えなければいけない」
「サイバーや情報、兵たんのスペシャリストを育て、上にも横にもとんがった人材を増やす。調整型のジェネラリストばかりだと現状維持思考のマネジメント能力にたけた人が増える。今は将来の方向性を示す現状変革型のリーダーシップこそ求められる」
よしだ・よしひで 1962年東京生まれ。筑波大付属駒場高から東大工学部に進学し、86年に陸上自衛隊入隊。2015年から国家安全保障局で総合的な安全保障戦略の立案に携わる。23年に陸海空の自衛隊を束ねる統合幕僚長に。防大以外の卒業者が統幕長に就くのは初めて。
経済や外交含む総合力を
インタビューで印象に残った言葉に「一服の清涼剤」がある。防衛省・自衛隊は防大出身者以外を「一般大」と呼ぶ。東大出身の吉田氏は陸上自衛隊に入隊したばかりのころ、一般大の隊員同士で「われわれは自衛隊の『一服の清涼剤』になろう」と声を掛け合った。
防大出身者が多数の自衛隊の同質性は強みであり、弱みである。同質性は時に組織の維持、発展、深化の妨げになるからだ。吉田氏の起用そのものが激変する安全保障環境に対応するための自衛隊の深化への決意ととらえられる。
防衛力を強化して何を守るのか。国民の生命・身体・財産という死活的な国益をはじめとする平和と安定だ。経済成長を通じたさらなる繁栄、そして自由、民主主義、基本的な人権の尊重、法の支配といった普遍的な価値である。これらを国民の共通認識にする作業が防衛力強化への理解につながる。
防衛力強化は経済力と表裏の関係であり、経済成長が前提となる。東大在学中の吉田氏は大平正芳内閣が提唱した「総合安全保障」の考え方に影響を受けた。安保とは経済や外交を含む総合力である。「極めて重要な分野になる」という当時の確信が原点にある。(吉野直也、竹内悠介)
写真 積田檀、映像 高橋丈三郎
多様な観点からニュースを考える
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植木安弘のアバター
植木安弘
上智大学グローバル・スタディーズ研究科 教授
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ひとこと解説 吉田統合幕僚長の危機感は、昨年のロシアのウクライナ侵略と中国の軍備拡大や北朝鮮の核・ミサイル開発の急速な発展を背景に日本を取り巻く安全保障環境が劇的に変わったことを如実に表している。
軍事力を背景としたパワーポリティクスが前面に出てきており、日本にとっても武力衝突や戦争、核の恫喝の脅威や使用の可能性が現実の問題となってきた。
日本は、敗戦や原爆の経験からこれまで長い間平和国家としての道を歩んできたが、露中北朝鮮からの脅威の拡大には現実的な対応が必要だ。
ウクライナ戦争がどのように決着するかにもよるが、当面軍事面と外交面の双方で戦略的な対応が必要で、そのための国民レベルでのより活発な議論も期待したい。
2023年7月29日 6:53 』
ゲラシモフの防衛戦略 (mickryan.substack.com)
https://milterm.com/archives/3296
『7月6日に紹介した、ウクライナと将来の軍のリーダーのための教訓に続いて、ロシア軍のウクライナでの戦争の今後の動向に関する退役豪陸軍少将ミック・ライアン氏の記事を紹介する。ウクライナにおけるロシアの特殊軍事作戦の総指揮を執っていると思われるゲラシモフ将軍の戦略に関するミック・ライアン氏の分析であり、ロシア軍とプーチンとの間に立つ優秀と言われる将軍の苦悩もうかがわせる。(軍治)
ゲラシモフの防衛戦略
受動的な防御とは言い難い
Gerasimov’s Defensive strategy
Hardly a Passive Defence
Mick Ryan, AM
mickryan.substack.com
2023/07/24
プリゴジンの反乱(Prigozhin mutiny)後、初めて公開したビデオでのゲラシモフ(出典:@michaelh992)
我々の南と東の土地にいるロシア軍は、我々の戦士を阻止するために全力を投入していることを、我々全員がはっきりと-可能な限りはっきりと-理解しなければならない。そして、1,000メートル進むごとに、我々の各戦闘旅団の成功のたびに、感謝に値する。
ゼレンスキー大統領 2023年7月14日
ウクライナのロシア占領軍はここ数カ月、守勢に回っているが、だからといって、ウクライナのあらゆるレベル、あらゆる地域で守勢に回っているわけではない。ウクライナにおけるロシアの特殊軍事作戦の総指揮を執っていると思われるゲラシモフ将軍は、防衛戦略(defensive strategy)を実施している。しかし同時に、戦術レベルや作戦レベルで攻撃的な活動も行っている。
ゲラシモフの最初の戦略的オプション:Gerasimov’s Initial Strategic Options
ゲラシモフの防衛戦略(defensive strategy)を探る前に、ウクライナが2023年の攻勢を開始した時点でゲラシモフに用意されていたオプションを確認しておこう。2023年6月の記事で、私はゲラシモフに可能な3つの大まかな行動指針(courses of action)を探った。プーチンは戦争を長引かせることに優位性を見出しているため、彼の戦略的オプションはかなり狭かった。そのため、ウクライナから奪取した領土を保持することが、ゲラシモフの戦略の中心とならざるを得なかった。
私が6月に確認したゲラシモフに可能な大まかな行動方針(courses of action)は以下の3つだった。
オプション1:屈しない(Hang Tough):ゲラシモフの最初のオプションは、当面はじっと耐え、ウクライナの攻勢の初期段階の展開を観察することだった。そのため、ゲラシモフはウクライナの主力がどこに集中するかを見極めるため、できるだけ長く待機したかったのだろう。ゲラシモフは、おそらく昨年のへルソン-ハリコフ間のワンツーパンチを意識して、陽動(feints)やその他のウクライナ側の欺瞞(deception)に目を光らせていただろう。
ゲラシモフにとって、現在占領しているウクライナの全領土を保持し、ウクライナの攻勢を吸収し、ウクライナの戦果を最小限に抑えることが望ましいオプションであったことは明らかだ。そうすることで、ゲラシモフはおそらく、ウクライナの攻勢が頂点に達すれば、今年後半にロシアが何らかの攻勢作戦(offensive operations)を展開するのに十分な戦闘力を保持することを望んだだろう。
オプション2:(更に)屈しない(Hang Tough(plus))。ゲラシモフの次のオプションは、オプション1のバリエーションであったが、ウクライナの弱点への限定的な攻撃的ジャブであった。これは、すでに弱体化している戦力から攻撃作戦のための戦闘部隊と支援部隊を編成する必要があるため、より複雑なオプションとなる。これはおそらくウクライナのインテリジェンス収集計画にすぐに現れ、ターゲットにされるだろう。オプションの一つではあるかもしれないが、ロシアは今年、攻勢作戦で大きな獲得を得るものをかぎつける勘(flair)を発揮していない。
オプション3:防衛の方向転換(Reorient the Defence) 。おそらく政治的に最も困難だが、軍事的には効果的なのは、クリミアとドンバス周辺のロシア防衛の方向性を変えることだろう。これは、ロシアが2022年2月以降に不法占拠した領土の大部分(すべてではない)を放棄することを意味する。そうなれば、ルハンスク、ドネツク、クリミアの3つの地域に防衛を集中させることになる。
そうすれば、前線を大幅に短縮し、ロシア軍にとって重要な移動予備を構成することができただろう。しかし、これではクリミアへの「陸橋(land bridge)」が消えてしまい、プーチンにとっては政治的に不可能である。これは、今後数カ月でロシア側に不利な状況に陥った場合の予備手段としては有効かもしれないが、現在の環境ではオプションとして好意的に考慮されることはないだろう。
ゲラシモフの反応:オプション2を実行:Gerasimov’s Reaction: Option 2 is Executed
ゲラシモフがオプション2に決めたことは明らかだ。彼の主な取組みは明らかに、ドネツクから西のへルソンに至るウクライナ南部の地盤を維持することだ。この地域はウクライナの経済的将来にとって不可欠な地域であり、ロシアがこの地域を占領することは、ウクライナが重要な鉱山や農地にアクセスすることを否定することになる。また、ウクライナがクリミアに対して長距離打撃(long-range strikes)を行ったり、ロシア占領下のクリミアに対して将来軍事作戦を展開できる位置まで前進したりする能力を低下させる重要な緩衝材にもなる。
ゲラシモフにはいくつかの支援の取組みがある。ひとつは、ウクライナの民間人をターゲットにしたドローンやミサイルによる打撃(strikes)である。最近では、オデーサに対する打撃(strikes)も含まれている。もうひとつの支援は、ウクライナ東部のバフムート周辺での防衛の取組みである。東部のウクライナ軍はバフムート周辺を獲得し、ますます有利な戦術的位置につけている。この活動の主眼は、バフムートの奪還ではなく、6月にワグネル・グループが撤退した後、現在そこで交戦しているより精鋭のロシア軍を追い詰めることにある。
ゲラシモフは全体的な防衛態勢を維持する一方で、ウクライナ北東部で一連の攻撃(series of attacks)(攻勢(offensive)と呼ぶには大げさすぎる)を開始した。ロシア軍はスヴァトフ-クレミンナ軸で攻勢作戦(offensive operations)を展開しているが、6月4日と7月23日の以下の2枚の地図が示すように、この軸でのロシアの進展は限定的である。
2023年6月初旬のルハンスク(左)と現在のルハンスク(右)(出典:ISW)
とはいえ、ロシア軍がある程度の攻勢能力(offensive capability)を保持していることを示している。ゲラシモフは、ウクライナの占領地を保持するための全体的な防衛戦略(defensive strategy)において、完全に受動的であるつもりはない。ゲラシモフはドネツクでも攻撃(attacks)を開始し、ウクライナ参謀本部によれば、過去1カ月間にロシアの攻撃(assaults)はアヴディフカ、ネヴェルスケ、クラスノホリフカ、マリンカ、ノヴォミハイロフカ付近で撃退されたという。ルハンスクとドネスクの攻撃(attacks)は大規模なものではなく、ウクライナ領土の大部分を占領する可能性は低い。しかし、これらの地域でウクライナ軍を守勢に立たせ、南部での突破口を開くために控えている予備兵力の投入を引き出す可能性もある。最後に、ゲラシモフはプーチンの支持を維持するために、わずかな成功を収めようとしている。
ゲラシモフの評価:ウクライナ反攻の最初の7週間:Gerasimov’s Assessment: The First Seven Weeks of the Ukrainian Counter Offensive
ウクライナの戦闘力の大部分はまだ投入されていないが、ゲラシモフにはウクライナ南部と東部におけるウクライナ軍とその攻撃の実施(conduct of their attacks)を観察し、学ぶための7週間以上の時間があった。この戦争におけるゲラシモフのこれまでのパフォーマンスは、それほど印象的なものではなかったかもしれないが、彼でさえ、この7週間からいくつかの教訓を得ることができ、それを今後数カ月の間に自分の配置と戦術を適応させるために利用することができただろう。
このように、ゲラシモフはウクライナ攻勢作戦の最初の数週間からどのような気づきを得たのだろうか。もちろん、プリゴジンの反乱(Prigozhin mutiny)に対処し、自らの立場を強化し、ワグネルに親和的な将官をミニ粛清する合間に、何らかの学習を行ったことが前提である。
第一に、ゲラシモフはウクライナ南部の広範な防御陣地(defensive positions)を整備する取組みが報われたと安心したことだろう。ゲラシモフは、ドクトリン上の防御的な機動の計画(doctrinal defensive scheme of maneuver)を展開したことで、ウクライナの攻撃(attacks)を吸収しつつ、中期的にウクライナの戦闘力を低下させつつ、南部での戦闘力を維持するための息抜きができたと感じているのだろう。ウクライナ軍は南部で前進を続けているが、ゼレンスキー大統領が言うように、望むよりも遅々として進んでいない。中隊レベル以上の諸兵科連合作戦(combined arms operations)に課題があり、ウクライナ軍旅団の質にもばらつきがある。フランツ・ステファン・ガディとマイケル・コフマンが最近ウクライナを訪問した際の見解は、一読の価値がある。
とはいえ、ウクライナの前進が遅いために、ロシアはウクライナの戦闘部隊や支援部隊を消耗させる時間ができている。南方におけるウクライナの挑戦は、ロシアが「ウクライナの反攻は失敗した(Ukraine’s failed counteroffensive)」「ウクライナを支援することはいかに無意味か(how supporting Ukraine is pointless)」というメッセージで世界的な偽情報戦役(global disinformation campaign)を展開することも可能にしている。この戦略的メッセージは、7月21日の安全保障理事会でのプーチン自身の次のような発言によって強化された。キエフ政権の西側キュレーターたちが、現ウクライナ当局が数カ月前に発表した反攻作戦の結果に失望していることは、今日、明らかだ。少なくとも今のところ、結果は出ていない。キーウ政権に投入された莫大な資源、戦車、大砲、装甲車、ミサイルなどの西側兵器の供給、わが軍の戦線を突破しようと最も積極的に利用された何千人もの外国人傭兵やアドバイザーの派遣は、何の役にも立っていない。
第二に、ゲラシモフは南部の戦力の相関関係を注意深く観察している。南部のロシア軍は比較的フレッシュだが、ウクライナ軍はかなりの犠牲者を出している。ウクライナ側の焦点の一つは、ロシアの複雑な偵察・打撃(recon-strike complex)、特に野戦砲の劣化である。戦争初期には、ロシア軍は砲兵システムの数とそのための弾薬で大きな優位に立っていた。
しかし、西側の牽引砲、自走砲、ロケット砲システムの提供や、西側の精密弾薬、両用改良型通常弾(Dual-Purpose Improved Conventional Munitions :DPICM)の供給により、この優位性は著しく低下している。ゲラシモフは今後数週間、この砲兵システムの戦いを注視し、ウクライナがこの重要な戦場能力で総合的に優位に立つような転換点がないことを願っている。ロシアの砲兵の消耗がどのように進んでいるかは、2023年6月に入ってからのロシアの大砲の損失に関するグラフをご覧いただきたい。
(Source: http://www.ukr.warspotting.net)
第三に、ゲラシモフは、ウクライナ軍がロシアの南部防衛組織(defensive scheme)をゆっくりと闘い抜く際に経験するかもしれない困難を悪化させ、引き出す方法を模索しているだろう。ゲラシモフがそこで成功を収めたと思えば、南部やの他の占領いたウクライナの地域に地雷原を含むさらに多くの防衛施設を建設することで、この「成功(success)」を強化するかもしれない。おそらくゲラシモフは、機械化された工兵車両を大量に配備する大規模なNATOプログラムがなければ、そしておそらく地雷原を迅速に除去・貫通する新しい方法がなければ、ウクライナの今後の進展は困難なままだろうと評価している。
とはいえ、英国、フランス、ドイツ、イタリアだけでも、250両以上の装甲工兵車両、250両近い車両敷設橋、500両の装甲回収車両を保有している(出典:The Military Balance、2021年)。しかし、このような西側の追加支援が実現したとしても、ウクライナ南部で確認されている旅団レベルの諸兵科連合の課題をいくつか改善するためには、大規模な集成訓練(large-scale collective training)が必要となる。
第四に、ゲラシモフはおそらく、ウクライナの攻勢が頂点に達した後のロシアの作戦のオプションについて考えていることだろう。彼の想定は、ウクライナが南部と東部で大きな突破口を開くことはないというものだろう。もしその想定が現実のものとなれば、ゲラシモフは今年後半、前線の他の地域での攻勢活動を検討することになるかもしれない。そして彼は、(ロシアから見て)失敗したウクライナの攻勢をきっかけに、停戦の申し出(offer of a ceasefire)が実行可能かどうかについて、ショイグやプーチンと話し合うことになるだろう。
とはいえ、今年ゲラシモフが展開した効果的でない攻勢は、兵士の死傷者数に加え、軍の弾薬と装備の膨大な割合を消費した。このため、ゲラシモフが現在あるいは2023年以降に攻勢活動を行うことは、完全に阻害されるわけではないが、制約されることになるだろう。
最後に、ゲラシモフはまだプリゴジンの反乱(Prigozhin mutiny)の余波にのまれているのだろう。個人的な評判への影響に対処しなければならないだけでなく、おそらくワグネルのシンパを根絶やしにする取組みの先頭に立っているのだろう。このことは、ウクライナにおけるロシアの指揮系統の上下の信頼に影響を及ぼしているだろう。
7週間が終わった後のこれからの長い道のり:Seven Weeks Down and a Long Way to Go
ゲラシモフにはまだ複数の課題がある。より高度な軍事戦略やロシアの軍事作戦の調整だけでなく、ロシア軍とプーチン大統領の間の政治・軍事的インターフェイス(politico-military interface)を提供し続けなければならない。
ウクライナにおける過去10年間の軍事改革と敗北を見事に生き抜いてきたゲラシモフ将軍は、ウクライナで現在の防衛戦略(defensive strategy)を実行し続ける可能性が高い。ウクライナにおけるロシア軍総司令官は、彼の計画によって、ウクライナ軍が南部のロシア軍防衛網を突破する前に終結することを望んでいることだろう。
ウクライナ側もロシア側も、北部の夏から秋にかけての長期の戦役(long campaign)を想定していただろう。2023年初頭のウクライナとロシアの参謀本部の戦略評価では、戦線の長さ、現地の各軍の規模、双方の目的達成への決意を考慮すれば、これは長期の戦役(long campaign)になると想定していただろう。それが現実となった。
両陣営とも、このウクライナの2023年反攻作戦(counter offensive)での最初の経験を経て、両陣営は、今後の長期にわたる軍事作戦のために、現状を把握し、学び、適応し、頭を下げたように見える。 』
防衛白書、軍事情勢の政府見解 「中国が軍備増強前倒し」
よくわかる3つのポイント
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUA267ZJ0W3A720C2000000/




『防衛省は28日、2023年版の防衛白書を公表した。世界の軍事情勢や日本の防衛政策に関する政府の公式見解をまとめて年に一度発行する報告書だ。23年版は中国やロシアなどの軍事的脅威を踏まえ「新たな危機の時代に突入」したと指摘した。
・防衛白書とは?
・22年版からの変更点は?
・22年末に決めた安保関連3文書の反映は?
(1)防衛白書とは?
防衛白書は日本を取り巻く安全保障環境や日本の防衛力整備の方針を国内外へ周知して理解を得るための刊行物だ。初めて作成したのは旧防衛庁時代の1970年。当時の中曽根康弘防衛庁長官が「国の防衛には何よりも国民の理解が不可欠だ」と主張して創刊した。
2022年版の防衛白書。装丁は年ごとに変わる
70年版は94ページだった。2023年版は510ページに上る。軍備増強を進める中国に関する記述や北朝鮮の核・ミサイル開発などの説明が増えた。宇宙・サイバーなど防衛政策にかかわる領域が広がったこともあり分厚くなった。
防衛白書に書かれた記述は政府の公式見解となる。各国の軍事動向を日本政府がどう分析し、評価しているかの表明でもある。安保上の脅威が高まれば前年から表現ぶりを変える。毎年の変化が注目されるゆえんだ。
(2)22年版からの変更点は?
23年版は中国の軍事動向への警戒を強める内容となった。中国について「国際社会の深刻な懸念事項でこれまでにない最大の戦略的挑戦」と評した。台湾海峡を巡っては「国際社会全体で急速に懸念が高まっている」と指摘した。
22年版はそれぞれ「国際社会の安保上の強い懸念」「国際社会の安定にも重要」という表現だった。
中国と台湾の軍事バランスは23年版で「中国側に有利な方向に急速に傾斜する形で変化」していると警鐘を鳴らした。「圧倒的な兵力差」があると指摘し、陸海空の戦力を比較する表を載せた。
たとえば潜水艦の保有数は中国軍がおよそ70隻、台湾軍が4隻だ。駆逐艦やフリゲート艦などの水上艦は90隻と30隻。近代的戦闘機も1500機と321機で開きがある。
中国が21世紀半ばまでの実現を掲げる「世界一流の軍隊建設」との目標は「前倒しを検討している可能性」に言及した。
中国軍とロシア軍による共同活動は「日本への示威行動を明確に意図し日本の安保上、重大な懸念」だと提起した。「懸念を持って注視」との姿勢だった22年版から踏み込んだ。
核・ミサイル開発を続ける北朝鮮には「従前よりも一層重大かつ差し迫った脅威」と書き込んだ。22年版にはなかった「従前よりも一層」を加えて警戒度の高まりを表現した。
(3)安保関連3文書を反映
今回は政府が22年末に国家安保戦略など安保関連3文書をまとめてから初めての白書だった。
戦後長らく続けてきた方針を転換した「反撃能力の保有」に関しては1ページ分をつかった解説をつけた。「ミサイル攻撃が現実の脅威」となり「既存のミサイル防衛網だけで完全に対応することは難しくなりつつある」と必要性を訴えた。
継戦能力に関し「十分ではない。現実を直視し有事に粘り強く活動でき、実効的な抑止力となる」ようにすると唱えた。弾薬の確保や火薬庫・燃料タンクを整備し、装備品の稼働率を上げると主張した。
情報戦への対応や防衛産業の活性化に関する記述を拡充し、重要性を強調した。元陸上自衛官の女性が性被害を訴えた問題を受け「ハラスメントをいっさい許容しない」とも盛り込んだ。
(竹内悠介)
【関連記事】中ロの共同活動「重大な懸念」、23年版防衛白書
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詫摩佳代
フランス国立社会科学高等研究院(EHESS)訪問研究員 / 東京都立大学教授
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分析・考察
現代社会では、戦争のコストが大きいので、伝統的な戦争は起こり得ないというのがいかに幻想であるかが、ウ戦争の勃発で明らかになりました。
抑止破綻は戦争へと直結しうるし、一旦、戦争が始まってしまえば、終わらせるのはとても難しく、抑止力の強化によって戦争を始めさせない努力が大事だという指摘(高橋杉雄編著「ウクライナ戦争はなぜ終わらないのか 」)はもっともだと思います。
白書でも指摘されている通り、現状での日本の反撃能力や継戦能力は不十分であり、この現実を我々は直視する必要があります。政府の差し迫った現状認識は時宜を得た適切なものですが、それがどれだけ多くの国民に共有されるのかが、今後の課題だと思います。
2023年7月28日 18:05 』
防衛装備移転 自民VS.公明 なぜ難航?今後の焦点は? | NHK政治マガジン
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/101102.html
※ 今日は、こんな所で…。




『連立政権を担う自民・公明両党。東京での選挙協力をめぐり対立が表面化したのは記憶に新しい。時を同じくして、両党の立場の違いは別の分野でもあらわになっている。自民・公明両党による防衛装備品の輸出ルールの見直しに向けた協議。7月まで12回にわたって開催するも結論は出なかった。集団的自衛権の行使など、それ以上に主張が食い違う問題でも合意にこぎ着けてきた両者。なぜ今回は結論まで至らなかったのか。今後の焦点とともに探る。
(立石顕)
共に“転換点”と強調も隔たりは大きく
自民党・小野寺元防衛相
「戦後の日本の安全保障政策の大きな転換につながるので、丁寧に慎重にやっていくことが大切だ」
公明党・佐藤国会対策委員長
「歴史の大きな転換点の議論をしている責任感と強い使命感を持って議論しよう」
協議で両党のトップがともに「転換点」と強調した防衛装備品の輸出ルール見直し。しかし、このテーマは去年、防衛力の抜本的な強化策を決定した際に結論を先送りにしていたもので、両者の主張の隔たりは大きかった。
最大の隔たり。それは今は実質的に認められていない、戦闘機や戦車といった殺傷能力のある装備品の輸出をどこまで認めるかだ。
自民は見直しに走りたい
自民は「殺傷能力」があっても広く輸出を認める方針で協議に臨んだ。
協議が始まったのは4月25日。統一地方選挙の後半戦が終了した2日後だ。見直しに慎重な公明党の選挙への影響に配慮した。一方でG7広島サミット(5月19日~21日)の開催も意識していた。ウクライナのゼレンスキー大統領も来日したこのサミットを契機にルールを見直すことで、ウクライナに新たな支援策を打ち出せないか、との思惑もあった。
「日本も国際社会と同レベルの支援をしなければ、日本が有事に巻き込まれた際に国際社会から支援を受けられなくなる」(政府内)
政府内でも見直しの必要性を訴える声があがっていた。
また中国が台頭する中、日本からの装備品の輸出を拡大することで、東南アジアの国々などと安全保障上の関係を深めるツールになるとの考えもあった。
公明「平和国家の歩み」を重要視
これに対し公明党は、「殺傷能力」のある装備品の輸出には慎重な立場だった。その根底にあるのは、戦後の「平和国家としての歩み」を尊重するという考えだ。
日本が戦後、殺傷能力のある武器を輸出していた時期があったのをご存じだろうか。
朝鮮戦争では在日米軍向けに武器を生産していたほか昭和40年代前半にかけては東南アジアなどへピストルや銃弾などを輸出していた。
それが変わったのは昭和42年。佐藤内閣が共産圏などへの武器の輸出を禁止したのだ。軍事に転用される可能性がある大学のロケット技術を輸出していたことが問題視されたためだ。
その後、昭和51年。三木内閣が実質的に輸出を全面禁止に。日本は平和国家として、国際紛争を助長しないとの考えからだった。
その考えを尊重すべきというのが「平和の党」を看板に掲げる公明党の主張だ。平成26年、安倍政権時に「防衛装備移転三原則」を策定。これにより、輸出できる装備品は増えたが、公明党の主張も踏まえ、殺傷能力のある装備品の輸出は実質的に認めてこなかった。これが今のルールだ。
「自制してきた歴史をしっかりと踏まえなければならない」
今回の協議でも公明党は、慎重な姿勢を崩さず、合意には至らなかった。
政府関係者は、こうつぶやいた。
「自民党と公明党の距離が想像以上に大きく、両党の間合いを詰めるため協議を重ねたが、時間切れになってしまった」(政府関係者)
見えない出口・岸田が動いた
ただ、安倍政権時に憲法解釈の変更まで行った、集団的自衛権の行使をめぐる協議と比べれば、議論のテーマは絞られている。協議を重ねてもなぜ合意に至らないのか疑問だったが、協議のメンバーである与党議員への取材でその理由が少し見えてきた。
12回の協議の内、ヒアリングと呼ばれる専門家や業界団体の意見を聴く会が8回を占めた。
与党議員は、官邸から、結論を出す時期や方向性が示されるのを待っていた面があったと明かす。
「官邸サイドから『こうしてほしい』という意向が示されず、いつまでに決めなければならないという危機感が生まれなかった」(与党議員)
その一方で次のような声もあった。
「あえて結論を出さないことで、世論の反応を見極めたかった」(与党議員)
両党は結局、互いの意見を並べた「論点整理」を7月5日に公表。政府に対し、「論点整理」を踏まえた考え方を示すよう求め、秋に協議を再開することとなった。
それから20日たった25日。
総理大臣・岸田文雄は、小野寺や佐藤を官邸に呼び、両党が求めていた、政府としての考え方のとりまとめを急ぐ方針を伝え、それを踏まえ協議を再開するよう指示した。この問題を決着させたいという岸田の意欲が垣間見えた。協議の再開が早まる可能性が出てきた。
政府内からは次のような声も出ている。
「9月に予定される国際会議で 新たな方針を示すことも念頭にある」(政府内)
一方、同じ日に岸田と会談した公明党代表の山口那津男は、「(総理は)期限を決めて結論を出すという趣旨ではないと明確におっしゃっていた。外交日程と関係があるということではないという話だった」と強調した。
一致点も
7月5日に公表された論点整理からは両党の主張が一致した点も明らかになった。今のルールでは、安全保障面で協力関係のある国に対する輸出の対象を「救難」「輸送」「警戒」「監視」「掃海」のいわゆる「5類型」に用途があてはまる装備品に限定している。これが殺傷能力のある装備品を輸出してこなかった根拠となっている。
論点整理では、この「5類型」にあてはまる輸送機や艦艇などに、砲などの武器を搭載するのは可能ではないかとの認識で一致した。また共同開発した装備品であれば、殺傷能力がある戦闘機でも、第三国に輸出することを認める意見が大半を占めた。公明党も、見直しを何もかも拒否しているのではないことがうかがえる。
最大の焦点“5類型”
一方で隔たりが最も大きいのが、先ほど紹介した「5類型」そのものの見直しだ。
「救難」「輸送」「警戒」「監視」「掃海」に限定しているこのルールを撤廃すれば、この分野に当てはまらない戦闘機やミサイルなど、殺傷能力のある装備品の移転が大幅に拡大できるようになる可能性がある。
自民党はこのルールの「撤廃」を主張。
これに対し公明党は「必要に応じて追加にとどめるべき」と主張し、この点が再開後の協議で最大の焦点となる。
現場の企業はどう見る?
国内で装備品を生産する企業(防衛産業)は今回の協議をどう見ているのだろうか。
ある企業の関係者は次のように話す。
「もっと早くに結論を出してほしかった。せめて一致した点は早く実行に移してほしい」(企業関係者)
一方、大手企業の幹部は…
「ルールの見直しだけでなく、トップセールスなど政府を挙げて取り組む体制整備が必要だ」(大手企業幹部)
国内では防衛産業から撤退する企業が相次いでいる。その要因の一つが相手が自衛隊に限られているために少量の受注生産しかなく、割に合わないという点にある。輸出のルールを見直せば、防衛産業の行く末にとっても大きな転換点となる可能性がある。
再開後の協議に注目
NHKの世論調査(7月)
7月のNHKの世論調査では殺傷能力のある武器の輸出を認めるかどうかについて「賛成」が24%「反対」が63%だった。長年、殺傷能力のある装備品の輸出を認めてこなかった日本。今の安全保障環境を踏まえ、見直しが必要なのかどうか。両党が再びぶつかり合う協議は、日本の安全保障政策にとって大きな「転換点」となる可能性もあり、精緻な議論が求められる。』
マレーシア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A2
※ 一部を抜粋して、紹介する。








『先史
前5000 - 3000 東南アジア島嶼部でオーストロネシア語化が進行。
1世紀頃 航海術が発達し、アジアの海上交易が活発化する。
古代
4 - 5世紀 東南アジアのインド化が進展。
7世紀頃 マラッカ海峡経由ルートがアジアの海上交易の主要ルートになる。
670頃 スマトラ南部にシュリーヴィジャヤ王国が成立。
中世
13世紀 アラブ商人やインド商人と共にイスラム教が伝来し、仏教とヒンドゥー教の時代が終わった。
1400年 マラッカ王国成立。1408年 マラッカ王国の独立を当時の明が承認。
近世
15世紀、日本と交易関係があり、日本から銀、刀、漆器、屏風を、東南アジアの象牙、スズ、砂糖、鉄、を、取引していた。歴代宝案には東南アジアの王国と琉球王国間の公式な船の行き来は、1424年から1630年の間で、全部で150回にのぼり、そのうち61回はシャム行きのもの、10回はマラッカ行のもの、10回はパタニ行きのもの、8回はジャワ行きのものだったという記録が残っている。[1]
1511年 ポルトガル、マラッカを占領
1542年 マラッカからポルトガルの鉄砲が日本に伝来した。(鉄砲伝来)
1549年 イエズス会のフランシスコ・ザビエルがマラッカを出発し、日本到着。
1641年 オランダ、マラッカを占領
1777年 隣国シャム (現在のタイ) のソンクラー国主に福建省漳州府海澄県出身の華僑・呉譲が就任。以後、ソンクラー国を拠点としてシャム軍がパタニ王国、クダ・スルタン国への侵略の動きを見せ始める。
1786年 シャムの攻撃を恐れたクダ・スルタン国は、非常時におけるイギリスによる兵力援助の約束と引き換えに、イギリス東インド会社にペナン島を賃貸した。イギリス東インド会社は、中国やインドからの移民増加政策を行った。
1791年5月1日 シャムが隣国のパタニ王国 (現在のタイ深南部三県) まで攻めて来たため、イギリスに派兵を要求したが断わられた。ここにクダ・スルタン国はフランシス・ライト(英語版)に5年間騙されていた事が発覚した。クダ・スルタン国は10,000人からなる大軍によるペナン島回復戦を計画したが、事前にフランシス・ライトに察知され、ペナンを取り返すどころか対岸の拠点セベラン・ペライを奪われてしまい、ペナンを正式にイギリスに明け渡した (ペナンの歴史)。
近代
イギリスによる植民地統治時代
1795年 イギリス、マラッカを獲得。
1805年 トーマス・ラッフルズがペナンに派遣され、ペナンで積んだ経験が後のシンガポール建設の参考となった。
1819年 トーマス・ラッフルズがシンガポールの地政学上の重要性に着目、ジョホール王国の内紛に乗じてシンガポールを獲得した。
1821年 クダ・スルタン国はシャムに征服され、統治された。
1824年 イギリス・オランダ両国にて、マレー半島 (マラッカ海峡) を中心とする地区の勢力範囲を定めた英蘭協約を締結 イギリスはスマトラ島西海岸のベンクーレンとオランダのマラッカを交換し、ペナン・シンガポール・マラッカのマレー半島に英領植民地を得る。
1826年 イギリスとシャムがバーニー条約を締結し、イギリス領マラッカ海峡植民地成立
1836年 フランシス・ライトの息子でペナン出身のウィリアム・ライトが南オーストラリアのアデレード建設を開始
1840年 ジェームズ・ブレマー率いる英国極東艦隊が海峡植民地シンガポールから阿片戦争へ出撃。ジェームズ・ブルックがサラワクの反乱の鎮圧に協力
1841年 サラワク王国がブルネイ・スルタン国から独立
1842年 ジェームズ・ブルックがサラワク王国の国主となる
1855年 イギリスとシャムが通商貿易に関するボーリング条約 (不平等条約) を締結。
1874年 イギリス領マラヤ成立
1882年 阿片戦争で有名なランスロット・デントのデント商会のデント兄弟がイギリス北ボルネオ会社による北ボルネオ (スールー王国とブルネイ王国) の統治を開始
1888年7月 イギリス北ボルネオ会社により統治されるイギリス保護国北ボルネオが成立
1909年 英泰条約によってクダ・スルタン国はイギリスに移譲されイギリス領マラヤになる。Unfederated Malay States
戦争とマラヤ危機
マラヤ連邦
1941年 日本軍がコタバル近郊に上陸 (マレー作戦)。太平洋戦争の開戦。
1942年 日本軍がマラヤ(日本占領時期のマラヤ)及び北ボルネオ(日本占領時期のイギリス領ボルネオ)全域を占領。クダ王国はシャムの占領下、その他の地域は日本軍の軍政下に入る。
1945年 太平洋戦争の終結に伴い、マラヤ・北ボルネオがイギリスの支配下に復帰。
1946年 イギリスがマラヤに有するクダ・シンガポール以外の植民地の集合体としてマラヤ連合が発足。北ボルネオのサラワク王国がイギリス領サラワクになる。
1948年マラヤ連合の再編とクダ王国の加入によってマラヤ連邦が発足。連邦発足直後からマラヤ危機が発生 (1948年 – 1960年)。
1957年 マラヤ連邦 (初代国王トゥアンク・アブドゥル・ラーマン、初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマン) が独立。
「マレーシア」の成立
マレーシア
マハティール・ビン・モハマドは、1981年~2003年の前在任期間中、日本を手本に国の開発を進める「ルックイースト政策」を採用し、自国を「東南アジアの優等生」と呼ばれるまでに成長させた
1962年 - 1966年 インドネシアとマレーシアの対立。
1963年 シンガポール、イギリス保護国北ボルネオ、イギリス領サラワクがマラヤ連邦と統合し、マレーシアが成立。
1965年 シンガポールがマレーシアから追放される形で分離独立。
1968年 - 1989年 共産主義者の反乱。
1969年 5月10日、1969年総選挙実施。5月13日、マレーシア史上最悪の民族衝突であるマレー人と中国人の間の衝突5月13日事件が起きる。
1970年 7月緊急条例発布。9月、ラーマン首相辞任。第2代首相にアブドゥル・ラザク就任。
1974年 クアラルンプールを連邦の首都に定める。
1975年 ラザク首相、急死。フセイン・オン、首相に昇格。第3代首相に。
1981年 マハティール首相就任 ( - 2003年)
1981年 マハティール首相がルックイースト政策を提唱。
1984年 サバ州沖合のラブアン島が連邦直轄領になる。
1991年 ワワサン2020の開始。
1999年 首相官邸がクアラルンプール郊外の新行政都市プトラジャヤに移転。首都機能が2010年までに移転される。
2003年 アブドゥラ・ビン・アフマッド・バダウィ首相就任
2009年 アブドラ首相は、2008年3月の総選挙で国民戦線が3分の2議席を確保できなかったため、二期目の任期4年を残し首相を退任。4月にマレーシア与党連合・国民戦線の中核政党統一マレー国民組織(UMNO)のナジブが首相に就任した。
2013年2月11日、en:2013 Lahad Datu standoff。
2015年7月2日 国策投資会社1MDBからナジブ・ラザク首相の個人口座へおよそ7億ドルが振り込まれた公文書記録をウォール・ストリート・ジャーナルが報じた。下旬、会社幹部が逮捕者を出す一方、内務省は経済紙に発禁命令を出した。
2018年 2018年マレーシア総選挙 』
『政治
詳細は「マレーシアの政治(英語版)」を参照
政体は立憲君主制である。また、小選挙区制をとるが、都市部と農村部の間の一票の格差は最大9倍に及び、農村部の票が強い状態となっている[10][11][12]。
元首
「マレーシアの国王」を参照
マレーシアの国王の官邸
国家元首たる国王(アゴン)は13州のうち9州にいるスルタン(君主)による互選で選出され(実質的には輪番制)、任期は5年。世界でも珍しい、世襲ではなく選挙で選ばれる、任期制の国王である(選挙君主制)。
行政
「マレーシアの首相」を参照
マレーシアの首相の事務所
アンワル・イブラヒム首相
行政府の長は首相であり、国王は内閣の補佐を受けて行政を担当する。
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立法
「マレーシアの国会」を参照
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マレーシアの国会
元老院 - マレーシア議会上院
代議院 - マレーシア議会下院
司法
「マレーシアの司法(英語版)」を参照
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』
『列柱社会
「ブミプトラ政策」も参照
マレーシアは、人口の6割をマレー系、3割を華人系、1割をインド系が居住する国家である。居住の形態は、伝統的にはそれぞれのエスニシティが集団で居住する形式をとっていた経緯があり、また政治の支持基盤も民族毎であるという特色がある。
与党勢力
国民戦線 (Barisan Nasional) (BN)
統一マレー国民組織 (UMNO) (マレー系)
マレーシア華人協会 (MCA) (華人系)
マレーシア・インド人会議 (MIC) (インド系)
国民同盟 (Perikatan Nasional) (PN)
先住民族団結党 (PPBM/BERSATU)
マレーシア民政運動党 (グラカン/GERAKAN)
全マレーシア・イスラーム党 (PAS)
野党勢力
希望同盟 (Pakatan Harapan) (PH)
民主行動党 (DAP)
人民正義党 (PKR)
国民信任党 (AMANAH)
統一パソクモモグン・カダザンドゥスン・ムルト組織 (UPKO)
「マレーシアの政党」も参照
セグメントごとの支持基盤、エスニシティ間の対立を回避するために、国民戦線では、エスニシティのリーダー間の協調が図られている。先述の5月13日事件がその契機となった。 』
『地理
詳細は「マレーシアの地理」を参照
マレー半島地形図
マレー半島南部(国土の4割)とボルネオ島北部(同6割)を領土とする。マレー半島でタイと、ボルネオ島でインドネシア、ブルネイと接する。領海はシンガポール、フィリピン、ベトナムと接する。
インドネシアとはボルネオ島で広く隣接する。ほぼ同じ言語の国であり、ともに最大の宗教がイスラムである(ただし、マレーシアではイスラムは国教となっているがインドネシアではそうではない)。なおボルネオ島はインドネシアではカリマンタン島と呼ばれている。
シンガポールとはジョホールバルの南からコーズウェイ(土手道)で、またジョホール州西部からはセカンドリンクと呼ばれる大橋で結ばれており経済的なつながりが強いが、政治的には衝突することが多い。
ブルネイとはボルネオ島のサラワク州で国境を接し、同じ言語、宗教の国である。なおブルネイには飛地があり、マレーシアとの国境線は2本ある。
フィリピンとは海域で接している。フィリピン諸島とボルネオ島の間に連なるスールー諸島にかつては王国が存在した。
一般的にはマレー半島の部分が「半島マレーシア(地区)」(Semenanjung Malaysia)、ボルネオ島の部分は「東マレーシア(地区)」(Malaysia Timur) と呼ばれる。
東マレーシアのサバ州および、サラワク州は独立性が高く、ほかの州(サバ州、サラワク州との相互往来を含む)との往来はマレーシア国民であってもパスポートを必要とする。
マレー半島部分は南北740キロ、東西320キロで、ティティワンサ山脈が走る。
ボルネオ島のキナバル国立公園にはUNESCO世界遺産に登録され、マレーシア最高峰のキナバル山(標高4,095メートル)がそびえる。
熱帯気候だが海に囲まれるため気温はあまり高くなく、湿度は1年を通じて高い。4月から10月の南西モンスーンと11月から3月の北東モンスーンの影響で年間降水量は2,500ミリに達する。マレー半島をカバーする山地はテナッセリム丘陵と呼ばれ、北はタイまで延びる。半島には南北に伸びる東西2列の山地があり、東側はビンタ山脈、西側はティティワンサ山脈と呼ばれる。最高峰は東側のタハン山(標高2,187メートル)と西側のコルブ山(標高2,183メートル)である。』
『民族間の経済格差
マレーシアは人種別に一人当たりのGDPが異なる。
2012年の統計の民族別の世帯平均月収は、華人が6,366リンギ、インド系が5,233リンギ、マレー系が4,457リンギだった[30]。
華人がもっとも豊かなのは、マレーシア経済において支配的な立場にあるためだが、ペトロナスやプロトンといった政府系企業においては、ブミプトラ政策の影響でマレー系が独占的な立場[31] を有する。
ただし、縁故採用の常態化といった問題から、すべてのマレー系住民が同政策の恩恵を受けているわけではない。結果として、マレー系コミュニティにおける経済格差は他民族と比較して極端に大きく、経済格差の規模は東南アジア最大である[32]。
都市部と農村部の経済格差問題もあり、マレーシア国内で月収が1,000リンギ以下の世帯が全体の8.6%にあたる49万8,800世帯に上っているという[33][34]。政府は、2013年より最低賃金制度を導入し、低所得者層の収入の増加を図ろうとしている[35]。
マレーシアで有力な経済人は華人系が圧倒的に多く、個人総資産額の上位の大半が華人系で占められている[36]。
代表例としては、製糖事業で財を成したケリーグループを率いるロバート・クオック(郭鶴年)やパーム油(マレーシアの主要輸出品)関連事業を手がけるIOIグループの最高責任者リー・シンチェン(英語版)、シンガポールに拠点を持つ不動産業大手ホンリョングループ総帥クェック・レンチャン(英語版)が挙げられる。
また、華人系実業家の多くは、シンガポールや香港と関係が深く[37]、マレーシア政府との結びつきが弱いことに特徴がある。マレーシア企業でありながら拠点が国外(シンガポールや香港など)にあったり、事業の主要な収益源が海外である場合も少なくない。
一方、マレー系実業家の多くは政府と癒着関係にあり、官製企業の主要役職を務めていることが多い。たとえば、プロトン社長のサイド・ザイナル・アビディンや、ペトロナスCEOにして原油輸出に関する国営企業AET(英語版)の会長を務めるシャムスル・アズハル・アッバスなどである。
インド系は概して貧しい傾向にあるが、通信大手マクシス・コミュニケーションズの買収に成功した投資家にして国内第2位の富豪であるアナンダ・クリシュナン(英語版)のような例外も存在する。また、印僑の父とポルトガル系マレー人(マラッカの少数民族)の母を持つトニー・フェルナンデス(エアアジア代表)のような人物も存在する。 』
『国民
マレーシアの人々
詳細は「マレーシアの人口統計(英語版)」を参照
多民族国家・民族構成
マレー半島は海のシルクロードと呼ばれており、中世の頃に中国、インド、中東そしてヨーロッパからも貿易商人が訪れた。
3つの主要民族と地域の歴史が複雑に入り混じって並存するマレーシアは、民族構成がきわめて複雑な国のひとつであり、多民族国家である。単純な人口比では、マレー系(約65%)、華人系(約24%)、インド系(印僑)(約8%)の順で多い。
マレー系の中には、サラワク州のイバン族、ビダユ族、サバ州のカダザン族、西マレーシアのオラン・アスリ (orang asli) などの先住民も含まれ、各民族がそれぞれの文化、風習、宗教を生かしたまま暮らしている。
マレー半島北部(タイ深南部の国境周辺)では、かつてパタニ王国が存在したことから、同地域にはタイ系住民のコミュニティが存在する。ただし、これらの住民は「タイ王国に出自を持つマレー人」といった存在であり、一種の政治難民である(パタニ連合解放組織など)。もっとも、隣国同士だけに一般的な人的交流も盛んであり、主な大都市に存在するタイ系コミュニティは上記の歴史的経緯と特に関係はない。
ほかにも、先住民ではない少数民族として民族間における混血グループが複数存在し、華人系の混血(ババ・ニョニャ)やインド系とマレー系の混血(チッティ)、旧宗主国などのヨーロッパ系移民とアジア系の混血(ユーラシアン)が少数民族集団(マイノリティグループ)を形成している。
華僑系住民
マレーシアの華人の歴史は、主に広東省などから貿易業の移住者が始まりとされ、英国植民地時代には錫鉱労働者、清朝崩壊(あるいは中国国民党の追放)後の政治難民もいる(浙江財閥など)。
華人系マレーシア人の多くが話す中国語は、広東語や福建語、客家語、潮州語(まれに上海語)といった南方系方言であり、中国本土で一般的に使われる標準中国語の普通話(北方系方言由来)とは異なる。
ただし、多くの華人系の子女は中華系の学校に就学し、標準中国語(Mandarin) を学び、標準中国語と普通話は差異が小さいため、普通話との意思疎通は可能である。
一方、プラナカンのように中国語がまったく話せない華人系住民も少なくなく、また中国語での会話はできるが漢字が読めない華人系は多数存在する。
ちなみに、かつてマラッカ海峡を拠点とした海賊(後期倭寇)の末裔もいるとされるが、統計的に言えば「華人系」のカテゴリに吸収される。華人系には極少数であるがイスラム教徒もいる[39]。
イギリス統治下において奴隷的な立場で連れられてきた賃金労働者の子孫(苦力など)[40] も多数存在している。
プラナカン(海峡華人)
華人系の中には英語のみを母語とする家系が存在する。
これら英語話者の華人系住民は、英国統治下の時代に「英国人」として海峡植民地(ペナン、マラッカ、シンガポール)において支配階層(英籍海峡華人公会[41])を形成していた華僑の末裔であり、錫鉱労働者などの(出稼ぎ)労働者として移り住んだグループ(トトックと呼ばれる[42])と区別してプラナカン(海峡/英語派華人[43])と呼ばれる[44]。
その多くが旧宗主国に忠誠を誓ったため、故郷(中国本土)との関係が希薄となった。
現在でも本土との関わり合いはほとんどなく、逆にシンガポールやインドネシアに住む華人グループとの結び付きが深い。
たとえば、シンガポールの人民行動党は、独立以前のシンガポール周辺地域におけるプラナカン系の民族政党という出自を持ち、現在でもマレーシアの華人系政党(民主行動党)と友好関係にある[45]。
ちなみに、シンガポールの初代首相リー・クアンユーは、プラナカンの代表的な人物である。
プラナカンとマレー人や英国人などの他の民族との混血のことをババ(男)・ニョニャ(女)と呼ぶ。いずれも華人系であり、混血化が起きてからかなり経つ場合もあるため、プラナカンとババ・ニョニャの区別は曖昧[46] なこともある。
インド系住民
「印僑」とも呼ばれることのあるインド系は南インド出身者(タミール人)が多く、マレーシアにおけるインド文化もタミール人の風習を色濃く受け継いでいる。
ただし、かつてはアーリア系の北インド出身者も少なくなく、高い社会的地位を享受していた[47]。
しかし、70年代を通してマレー系の地位が飛躍的に向上したことから、富裕層であった北インド出身者の帰国が相次ぎ、結果として貧困層が多い南インド系が主流となったといわれる[48]。
現在はサイバージャヤといった地域でIT系の技術者として働くために本土から移民してきた新世代も増えつつある。ごく小規模だが、パンジャーブ人(シク教徒)のコミュニティも存在し、弁護士・会計士などの職業についているものも多い。
タミール系移民がイスラムに改宗した「ママック(英語版)(あるいはママッ)」と呼ばれる民族グループもある。
ママックは「ママック・ギャング(英語版)」で知られる通り、インド系に横たわる貧困問題を背景としてマフィア化が進んでいる[49]。「ママック」は蔑称とされることもある[39]。
なお、マハティール元首相は母親がマレー系、父親がインド南部のケーララ州からの移民であり、「マレー系」であるのか「インド系」であるのか出自問題が議論されたこともある。
混血系住民
ユーラシアンとは「ヨーロッパ (Euro-) とアジア (Asian)」を意味する少数民族のことであり、旧宗主国からやって来たヨーロッパ人とアジア系移民との混血系を指す。
ほかに、ポルトガル系とマレー系の混血をクリスタン(英語版)と呼称し、オランダ系あるいは英国系との混血のみをユーラシアンとする考え方もある[50]。これらユーラシアン系の大半はマラッカおよびペナン周辺に居住区を構えている。
また、華人系とインド系の結婚もみられ、両民族間で生まれた子どもをチンディアン[51] と呼ぶ。
民族対立
マレーシア史上最大の民族対立事件である5月13日事件以降、華人系とマレー系の対立構造が鮮明となった。
詳細は「5月13日事件」を参照
マレー系の保守政治家の一部が「他民族が居座っている」または「間借り人である」といった趣旨の差別発言をすることがあるが[52][53]、マレーシア建国時(憲法上「マレーシアの日」と呼ぶ[54])の協定(1957年制定マレーシア憲法第3章[55])において、マレー半島およびボルネオ島の該当地域で生まれたすべての居住者に国民となる権利が認められているため、正確な理解とは言えない。
この発言にも見られるように、マレーシアは多民族社会とはいえ、その内情は必ずしも平和的なものではなく、民族間の関係は常に一定の緊張をはらんだものとなっている。
実際、各民族の居住地域は明らかな偏りがあり、たとえば華人系はジョホール・バルやクチン、ペナン(ジョージタウン)、イポー、コタ・キナバルといった都市部に集団で居住していることが多く、インド系は半島南部やボルネオ島西部の農村部、あるいは大都市圏のスラム化した地域に多い。
唯一、最大都市クアラルンプールのみが国全体の民族比率に準じているが、生活習慣の違いといった理由から、民族間の交流はあまり盛んではない。
2008年には、住民を起訴なしで無期限拘束できる国内治安法に対する大規模な反対集会が開かれ、翌年にも同様のデモが行われた[56][57]。』
『言語
マレー語、英語、中国語、タミル語で書かれた看板
「マレーシアの言語(英語版)」を参照
公用語の名称は「マレー語」か「マレーシア語」であるかの議論が今も続いている。
広義の「マレー語」はインドネシア語などを含む場合があるため、政府が「マレーシアの国語としてのマレー語」を「マレーシア語 (Bahasa Malaysia)」と呼ぶことを定め、この呼称が2007年より正式に使われているとの説を採る一部の学者に対して、憲法第152条の明記やら大学教育機関での名称を考慮して、あくまでも「国語はマレー語 (bahasa Melayu) である」とする多数の学者がマレーシア国内外に存在する。
1967年まで公用語であった英語は、現在は準公用語として広く使用され、マレーシア語とともに各民族間の共通語の役割を担っている。
マレー人はマレー語を母語にしているが、東マレーシアのサバ州・サラワク州ではイバン語、ビダユ語、カダザン語などを母語とする先住民もいる。
またマレー半島でも東海岸では、少ないながらもアスル語(先住民オラン・アスリの諸言語)話者も存在する。
マレー語は固有の文字を持たなかったため、アラビア文字を改良したジャウィ文字が使用されていた。
現在ではローマ字表記が用いられているが、ジャウィ文字もごく一部で使用されている。
一部のマレー系民族主義者のグループから道路標識などを全面的にジャウィ文字にすべきなどといった主張もされることもあり、中華系からの反発を呼んでいる。
華人は、かつて中国南部から移ってきた人々が多く、広東語、福建語(閩南語)、潮州語、客家語、福州語などの地方語が母語になっているが、中国語の学校教育は標準中国語(華言)で行われているのでこれが共通語になっている。
漢字の字体については、学校教育など公的な場では簡体字が使われるが、商店や商品包装などでは繁体字が使用される場面もある。
インド系住民は多くがタミル語を母語としている。
英語を母語とするマレー人、華人、インド人が多い。また中国地方語の種類も多く、世界でも有数のマルチリンガルが多い環境となっている。
近年、華人以外も中国語教育が盛んで、少なくともホテルや観光地、ビジネスでは中国語だけで事足りるほどであり、これは同じく華人の多い隣国タイとは大きな違いである。ただし、中国語がかなり話せても漢字はほとんど書けないという人も多い。 』
『宗教
プトラ・モスク
「マレーシアの宗教(英語版)」を参照
イスラム教が国教であり、マレー系を中心に広く信仰されている。
中国系は仏教、インド系はヒンドゥー教徒が多い。
また、イギリス植民地時代の影響でキリスト教徒もいる。
2010年の国勢調査によれば、イスラム教61.3%、仏教19.8%、キリスト教9.2%、ヒンドゥー教6.3%、中国民俗宗教1.3%、その他2.1%、とほぼ民族人口比を表すような構成比になっている[58]。
東アジアの非イスラム教国に住むムスリム(イスラム教徒)は、一般にマレーシアの見解に従うことが多い。
なお、マレーシア政府は先住民族を原則としてムスリムとして扱い、イスラム以外の信仰を認めていない(ブミプトラ政策の影響)。しかし、実際には無宗教であったり、伝統宗教(アニミズム)やキリスト教を信仰する先住民も存在する。
イスラム教徒と婚姻関係を結んだ場合、イスラム法の関係で非ムスリムも必ずイスラムへ改宗し、イスラム風の名前を名乗らなければならないため、ムスリムであることが法的義務とされるマレー系住民と結婚する他民族は少ない[59]。
ただし、オラン・アスリと呼ばれる先住少数民族は、登録上はマレー人とされるが必ずしもムスリムではない[60] こともあり、特にサラワクでは華人系との婚姻が珍しくない。
なお、マレーシアにおいては、婚姻時、姓が変更されることはなく、夫婦別姓である[61][62]。 』
『教育
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出典検索?: “マレーシア” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年1月)
マラヤ大学
「マレーシアの教育(英語版)」を参照
「マレーシアの大学」も参照
マレーシアの公用語はマレーシア語であるが、タミル語と中国語、英語も教授言語となっている。
小中学校では、民族別にマレーシア語、中国語、タミル語が教える学校によって異なって使用されており、いずれの学校でもマレーシア語と英語が必修科目になっている。
教育制度はかつてイギリスの植民地であったことからイギリスとよく似ている。
教育制度は小学校6年(primary school、またはSekolah Rendah Kebangsaan・Standard 1~6)、中等学校3年と高等学校2年(secondary school、またはSekolah Menengah Kebangsaan・Form 1~5)、大学進学課程2年(Lower 6とUpper 6)、大学3年~6年。
マレーシア教育省は学問修了の国家的な試験を実施しており、小学校修了時はUPSR、中等学校Form 3でPMR、高等学校Form 5でSPM、その後の高等教育過程学年のLower 6にてSTPM、Upper 6にてSTTPMなどの試験を受ける。
複雑なのは、マレー系の小学校を修了しUPSRを受験した者は、試験の結果に関わらずそのまま中等学校のForm 1に進級できるのだが、中国系またはインド系の小学校の修了試験でマレー語の科目で成績が悪い場合はForm 1に進級することはできず、1年の予備学年 (Peralihan/Remove Class) を履修してからでなければ、Form 1には進級できない。Form 5終了時のSPM試験の成績優秀者は、新聞の全国版に大々的に発表される。
公立の中国語学校は小学校までしかなく、卒業後は一般の(マレー語主体の)公立学校や、私立学校に進むことになる。
公立の学校の中には、数は少ないが中国語を課外授業として選択できる学校や、正規の授業として中国語を取り入れている学校(華中と呼ばれる)もある。現在、華中は人気があるため、UPSRの結果がよくなければ入学も困難である。
中国系の私立学校は独立中学校 (Chinese Independent High School) と呼ばれ、マレー風の名前のつく私立学校の5年間のKBSMとは別の6年間の中国語を主体とした教育を行っており、そこに通う子供たちはSPM PMRの中国語版とも言える「独立中学統一試験」を受けることになる。
この試験は台湾や日本やアメリカなどマレーシア以外の国で高校の卒業資格として認められるため、卒業後は台湾をはじめとする海外の大学に留学する子供の割合が多い。
華僑には教育熱心な家庭が多く、シンガポールに隣接するジョホールバルでは、より高度な教育を受けさせるために、子弟をシンガポールに越境通学させる家庭もある(朝夕にはシンガポールに通う学生のための通学バスや、学生専用の税関レーンまで存在する)。
主な高等教育機関としては、マラヤ大学(1949年設立)、マレーシア国民大学(1970年設立)、マレーシア工科大学(1975年設立)、マレーシア科学大学(マレーシアサインズ大学)(1969年設立)などが挙げられる。』
マレー人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E4%BA%BA







※ 赤い点は、先住民族(オーストロネシア系先住民)の集落がある場所。
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
マレー人
Malay
Melayu
ملايوマラッカのエンリケハムザ・ハスハン・トゥア
ハサナル・ボルキアDato Latマハティール・ビン・モハマド
サルマ・イスマイルシティ・ヌールハリザSurin Putsuwan
Sheikh Muszaphar ShukorTunku Abdul RahmanPengiran Anak Sarah
1行目: マラッカのエンリケ • ハムザ・ハス(英語版) • ハン・トゥア(英語版)
2行目: ハサナル・ボルキア • ラット • マハティール・ビン・モハマド
3行目: サルマ・イスマイル(英語版) • シティ・ヌールハリザ • スリン・ピッスワン(英語版)
4行目: シェイク・ムザファ・シュコア • トゥンク・アブドゥル・ラーマン • ペンギラン・アナク・サレハ(英語版)
総人口
およそ2780万人
居住地域
マレーシアの旗 マレーシア 14,749,378人 (2010年推定)[1]
ブルネイの旗 ブルネイ 261,902人 (2010年推定)[2]
インドネシアの旗 インドネシア 8,789,585人 (2010年推定)[3][4]
タイ王国の旗 タイ王国 3,354,475人 (2010年推定)[5][6]
シンガポールの旗 シンガポール 653,449人 (2010年推定)[7]
言語
マレー語、インドネシア語、ジャウィ語、タイ語、英語
宗教
イスラム教スンナ派(約99.9%)
マレー人(マレーじん)とは、本来はマレー半島、スマトラ島東海岸、ボルネオ島沿岸部などに住んでマレー語を話し、マレー人と自称する人々(民族)のことを指し、マレー語ではムラユ Melayu と呼ぶ。漢字では馬来人と表記した。移住により南アフリカの人種構成にも影響を与えた。
広義にはマレーシア、シンガポール、ブルネイ、インドネシア、フィリピン、タイ南部、カンボジアの一部など東南アジア島嶼部(マレー諸島)の国々に住む人々の総称であるが、これは人種的な意味(南方系古モンゴロイドのインドシナ人種とオーストラロイドの混血であるインドネシア・マレー人種)で用いることが多い。
起源
プロト・マレーモデル
プロトマレーはオーストロネシア人を起源としており、紀元前2500年~紀元前1500年の間の長期にわたる移動の末、マレー半島に移住した[8]。 The Encyclopedia of Malaysia: Early Historyには、マレー人の起源について、3つの説が記載されている。
雲南説(メコン川移住説)(1889年出版)-
プロトマレーは雲南に起源を持つという説は R.H Geldern, J.H.C Kern, J.R Foster, J.R Logen, Slamet Muljana, Asmah Haji Omarによって支持されている。この仮説を支持する他の証拠として、マレー半島で見つかったの石器が中央アジアのものとよく似ていること、マレー人の習慣がアッサム地方の習慣によく似ていることがある。
船乗り説(スンダ説)(1965年出版)-
プロトマレーは海洋事情に精通し、かつ農業技術を持った船乗りであると信じられている。彼らは広大な海洋を島から島へ長距離航海し、今日のニュージーランド、マダガスカルまで至った。そして、彼らは2000年近くにわたり、案内役、船員、労働者としてインド人、ペルシャ人、中国人の貿易に従事した。長年にわたって、彼らは多くの土地に定住し、多くの文化、信仰を取り入れた。
台湾説(1997年出版)-
中国南部からの集団の移住が6000年前にあり、一部が台湾に移動(今日の台湾先住民がその子孫)し、その後フィリピン、ボルネオ(およそ4500年前)(今日のダヤク族他)に至った。
この集団はさらに分かれ、スラウェシ、ジャワ、スマトラへ至った。
彼らはオーストロネシア語族に属す言語を話す。
マレー半島に至ったのは最後であり、およそ3000年前のことである。ボルネオからは一部集団が Campa(今日のベトナム中南部)に約4500年前に移住した。ドンソン文化の担い手やホアビンヒアン文化の担い手がベトナムやカンボジアから移住してきた痕跡も存在する。
これらの集団はみな、台湾起源の遺伝子と言語を有しており、台湾(先住民)の集団は中国南部に起源をたどることができる[9]。
第二波マレー人
第二波マレー人は青銅器時代にプロトマレーに続いてやってきたオーストロネシア人である。
彼らはより高度な農耕技術と冶金に関する新たな知識を携えていた[10][11][11][12]。
第二波マレー人は、先住者とは異なり遊牧民ではなく、en:kampongに定住した。彼らの暮らしは普段は河川沿いや海岸沿いに適合したものであり、概して、自給自足を行っていた。 紀元前1世紀の終わりまでに、kampongsは外の世界との交易を開始した[13]。第二波マレー人は今日のマレー人の直接の祖先と考えられている[14]。
遺伝子分析
現代のマレー人の遺伝子研究は、マレー人が複雑な遺伝的混合を経ていることを示している。
遺伝子分析からは、マレー人は遺伝的に多様であり、内部の集団間で相当な変異があることが明らかになった。
変異は長期間にわたる地理的隔離と独立した混合によっておこった可能性が考えられる。
研究からは、典型的な単一の遺伝子構成ではなく、4つの祖先(オーストロネシア人、プロトマレー、東アジア人、南アジア人)に由来する構成成分をもつことが示されている。
マレー人の遺伝子を構成する最も大きな成分はオーストロネシア系先住民とプロトマレー由来のものである[15]。
オーストロネシア人の構成成分は台湾のアミ族やアタヤル族の人々と関連があり、東南アジア人のオーストロネシア系成分の遺伝子分析からは「出台湾」説が支持される。
一方でその成分の多くは土着のものであり、台湾由来のものはもっと少ないと主張する人もいる[16][17]。
プロトマレーは雲南から移住してきたことが遺伝的に証明されており、それは4000-6000年前である[18]。
南アジア人 インド人との混合は古代(インドネシア・マレー人の一部では2250年前と推定されている)と考えられる。
一方で東アジア人(中国人)との混合は最近(100-200年前)と考えられるが、ジャワでは一部15世紀よりも前に起こったようである[18]。
その他にも少数の構成成分として、ネグリト(マレー半島の先住民)や中央アジア人やヨーロッパ人があり、彼らとの混合は175-1,500年前に起こったと推定される[15] 。
マレー人内においても、マレー半島の南部と北部で遺伝的にクラスターが異なっている[19]。
Y-DNA
マレー人のY染色体ハプログループは、以下となっている[20]。
出アフリカ後 南ルート[21](オーストラロイド系)
F(xK):7.7%
K(xN,O,P):7.7%
出アフリカ後 北ルート[21](モンゴロイド系)
O1a:38.5%
O1b1a1a:7.7%
O2:23.1%
サブグループ
マレー人はインドネシアにおいて、他の民族集団に囲まれて居住している。マレー人はインドネシアにおいて最も広範囲に広がっている民族の一つで、この図では緑色をマレー人、その他マレー系民族集団を濃い緑または薄い緑で記している。この図からはマレー人がスマトラ島の東海岸とカリマンタン島の沿岸部に居住しているのが判る。
集団名 歴史上の地域 主な居住地域
バンカ・ブリトゥン・マレー
バンカ・ブリトゥン州
バンコク・マレー[22][23] ミンブリー区、ノーンチョーク区、 ラムルークカー郡(英語版)
ムアンパトゥムターニー郡、 アユタヤ県
ブンクル・マレー
ブンクル州
ブラウ・マレー(英語版)
ブラウ県(英語版)
ブルネイ・マレー[24][25][26][27]
ブルネイ帝国(7世紀-14世紀)
ブルネイ(1363年-現代)
ブルネイの旗 ブルネイ
ラブアンの旗 ラブアン、サラワク州の旗 サラワク州、サバ州の旗 サバ州
ブギス・マレー[28]
[29]
(マレー人に同化したブギス族)
リンギ・スルタン国(1700年-1777年)
セランゴール・スルタン国(1745年-現代)
セランゴール州の旗 セランゴール州、ジョホール州の旗 ジョホール州、パハン州の旗 パハン州
リアウ州、 リアウ諸島州
ダイリ・マレー
アサハン・スルタン国(1630年-1946年)
ダイリ・スルタン国(1630年-現代)
ランガット・スルタン国(1568年-現代)
スルダン・スルタン国(1728年-1946年)
北スマトラ州
ジャンビ・マレー
ジャンビ王国(7世紀)
ダルマスラヤ(英語版)(1183年-1347年)
ジャンビ・スルタン国(1460年-1907年)
ジャンビ州
ジャワ・マレー[28][29]
(マレー人に同化したジャワ人) ジョホール州の旗 ジョホール州、セランゴール州の旗 セランゴール州
ペラ州の旗 ペラ州、ケダ州の旗 ケダ州
ジョホール・マレー[25][26][27]
ジョホール王国(1528年-現在)
ムアール・スルタン国(1707年-1877年)
ジョホール州の旗 ジョホール州
ケダ・マレー(英語版)[25][26][27][30]
ブジャン・バレー(英語版)文明(1世紀)
ランカスカ(英語版)(2世紀-14世紀)
ケダ王国(7世紀-12世紀)
ケダ・スルタン国(英語版)(1136年-現代)
クバン・パス(英語版)王国(1841年-1864年)
プルリス王国(1842年-現代)
ケダ州の旗 ケダ州、プルリス州の旗 プルリス州、ペナン州の旗 ペナン州
ペラ州の旗 ペラ州、 サトゥーン県、 トラン県
クラビー県、 プーケット県、 パンガー県
ラノーン県、 ナコーンシータンマラート県
パッタルン県、 ソンクラー県、 ヤラー県
タニンダーリ管区
クランタン・マレー(英語版)[25][26][27]
チ・トゥ王国(英語版)(1世紀-6世紀)
クランタン・スルタン国(1267年-現代)
ジェムバル・スルタン国(1638年-1720年)
クランタン州の旗 クランタン州
Loloan Malay ジュンブラナ県
マラッカ・マレー[25][26][27]
マラッカ王国(1402年-1511年)
ムラカ州の旗 ムラカ州
ミナンカバウ・マレー[28][29]
(マレー人に同化したミナンカバウ人)
ヌグリ・スンビランの首長領(1773年-現代)
ヌグリ・スンビラン州の旗 ヌグリ・スンビラン州、セランゴール州の旗 セランゴール州
パハン・マレー[25][26][27]
パハン・スルタン国(1470年-現代)
パハン州の旗 パハン州
パレンバン・マレー
シュリーヴィジャヤ王国(7世紀-13世紀)
パレンバン・スルタン国(1550年-1823年)
南スマトラ州
パタニ・マレー[25][26][27]
ナコーンシータンマラート王国(英語版)(10世紀-15世紀)
ランカスカ(英語版)(2世紀-14世紀)
パタニ王国(1516年-1771年)
Singgoraスルタン国(1603年-1689年)
レーマン・スルタン国(1785年-1909年)
パッターニー県、 ヤラー県、 ナラーティワート県
ソンクラー県、 クラビー県、ケダ州の旗 ケダ州
クランタン州の旗 クランタン州
ペラ・マレー[25][26][27]
ガンッガ・ネガラ(英語版)(2世紀-11世紀)
ペラ・スルタン国(1528年-現代)
ペラ州の旗 ペラ州
ポンティアナック・マレー
ダンジュンプラ王国(880年-1590年)
Matamスルタン国(1590年-1948年)
ポンティアナック・スルタン国(1771年-1950年)
サンバス・スルタン国(1675年-1944年)
西カリマンタン州
リアウ・マレー
リアウ-リンガ・スルタン国(1824年-1911年)
ビンタン・スルタン国
シアク王国(英語版)(1725年-1949年)
プララワン・スルタン国(1791-1946年)
Kuntu Kamparスルタン国(1234年-1933年)
イドゥラギリ・スルタン国(1298年-1963年)
ロカン・スルタン国(1569年-1940年)
リアウ州、 リアウ諸島州、 リマプルコタ県(英語版)
パサマン県(英語版)
サラワク・マレー(英語版)
サラワク・スルタン国(1598年-1641年)
サラワク州の旗 サラワク州
シンガポール・マレー
シンガプラ王国(英語版)(1299年-1398年)
シンガポールの旗 シンガポール
スリランカ・マレー スリランカの旗 スリランカ
タミアン・マレー
Bukit Karang Kingdom(1023年-1330年)
ベヌア・タミアン・スルタン国(1330-1528年)
アチェ・タミアン県(英語版)
トレンガヌ・マレー[25][26][27]
トレンガヌ・スルタン国(1708年-現代)
トレンガヌ州の旗 トレンガヌ州
脚注
[脚注の使い方]
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^ CIA World Factbook 2012
^ Badan Pusat Statistika Indonesia 2010
^ Figure obtained based on the percentage of Malays in 2000 census and the total Indonesian population in 2010 census
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関連項目
マレー語
インドネシア語
アフリカーンス語
ケープマレー
マフィリンド、ASEAN
典拠管理 ウィキデータを編集
国立図書館
フランス (データ) イスラエル アメリカ 日本
その他
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最終更新 2023年6月5日 (月) 20:49 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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マレーシア:権威主義体制の粘性と改革の可能性
https://www.nippon.com/ja/in-depth/a08602/


『 2018年に独立以来初の政権交代を果たしたマレーシア。しかし、マハティール、アンワール両氏による新政権は2年足らずでその枠組みが瓦解した。22年11月には、長年にわたり政治経済改革を訴え続けたアンワール氏が首相の座についたが、政治制度改革はなかなか進みそうにない。
2018年5月のマレーシア下院議会選挙で、マハティール・モハマド率いる野党連合希望連盟(Pakatan Harapan: PH)が、222議席のうち過半数となる121議席を獲得した。与党連合国民戦線(Barisan Nasional: BN)は敗北を認め、独立以来の長期政権が幕を閉じた。
2010年代の東南アジアでは、タイ国軍によるクーデター、ジョコ・ウィドド大統領やロドリゴ・ドゥテルテ大統領による政治的・市民的自由の制限が顕著になり、「権威主義化」や「民主主義の後退」が政治分析のキーワードとなった。PHの勝利は「暗闇のただ中にある地域の希望」となるはずだった 。
しかし、20年2月、PH政権は発足から2年足らずで瓦解する。与党連合から離反したマレー人議員がBNやイスラーム党(Parti Islam Se-Malaysia: PAS)などの在野勢力と共にプタリン・ジャヤのシェラトンホテルに集まり、下院の過半数の掌握を主張し(「シェラトンの変」)、翌月には政変の首謀者の一人であるムヒディン・ヤシンが首相に就任した。ムヒディン率いるマレーシア統一プリブミ党(Parti Peribumi Bersatu: Bersatu)とPASは国民連盟(Perikatan Nasional: PN)を結成し、BNと連立を組んだ。人々はこの間、パンデミックに直面しながら民意を反映しない与党連合に統治されることになった。
22年11月の総選挙では与党連合が再び分裂し、PN、BN、PHの3つ巴の戦いとなり、アンワール・イブラヒム率いるPHが81議席を獲得して第一党になった。BN政権期に副首相の座にありながら、アジア通貨危機をめぐるマハティールとの対立によって失脚したアンワールが、24年という時を経て首相に就任したことは、国内外で大きな注目を集めた。しかし、PHの獲得議席は下院の過半数には届かず、BN(30議席)とサラワク政党連合(Gabungan Parti Sarawak: GPS、23議席)などとともに奇妙な連合を形成した 。
マレーシアの主な政治勢力・政党(2023年7月現在)
与党 PH(希望連盟) 民主行動党(DAP)、人民公正党(PKR)=アンワール首相が総裁、国民信託党(AMANAH)など
BN(国民戦線) 統一マレー国民組織(UMNO)、マレーシア華人協会(MCA)、マレーシアインド人会議(MIC)など
GPS(サラワク政党連合) 統一ブミプトラ伝統党(PBB)、サラワク人民党(PRS)、サラワク人民統一党(SUPP)など
野党 PN(国民連盟) イスラーム党(PAS)、マレーシア統一プリブミ党(Bersatu)など
2018年、22年選挙の政党連合別議席獲得割合
BN長期政権はなぜ倒れたのか。PH政権はなぜ瓦解したのか。マハティール、アンワールによるPH政権はマレーシアの政治経済を改革したのか、それとも、BNの遺制はまだ生きているのか。
権威主義の強靭性という特集のテーマに寄せて、18年以降の政治動向をマレーシア政治史の中に位置付けながら考えてみたい。
BNの権威主義体制
2018年総選挙は、マレーシア政治史で特筆されるべき出来事になった。1957 年の独立以来の連盟党(Alliance Party)とその後継政党連合BNによる61年間にわたる統治に終止符を打ったからである。
BNは野党も参加する定期的な選挙によって権力を得たが、選挙区は頻繁に操作され、BN支持の強いマレー人やその他のブミプトラ(先住民族)の票に重みがつけられた。また、扇動法や結社法、国内治安法など、英植民地期から独立期にかけてつくられた法律が個人の政治的・市民的自由を制限し、政権の反対者を沈黙させるために執行された。
彼らが裁判所に救済を求めるようになると、BNは司法人事に介入し、裁判所の独立性・中立性を削いだ。BNによるインフラ開発事業や民営化をめぐっては決定プロセスの不透明性が指摘され、閣僚らによる汚職疑惑がついて回ったが、法律の適用や司法への介入によって、BNは批判を退けることができた。開発事業をはじめとする利権の配分は、BN政治家の忠誠心を高め、各選挙区での票固めに有利に働いた。このような制度・慣行は独立期から着実に蓄積されていき、マハティール・モハマド政権期(1981-2003年)におおむね完成した。
2018年選挙
長期政権の最後の首相となったナジブ・ラザク(2009-18年)は、こうした仕組みを総動員した。自らが設立し経営諮問委員会の長となった国営投資会社1マレーシア開発公社(1MDB)をめぐるスキャンダルが暴露されたためである。
成長産業への投資をうたう1MDBには多額の国家財政が注ぎ込まれたが、やがて子会社の債務、取り巻きビジネスマンによる不正資金流用、さらには関連会社からナジブ個人の口座への26億リンギの送金などさまざまな疑惑が野党やメディアによって暴露された。史上最悪ともいえる汚職スキャンダルは、補助金削減や物品・サービス税(GST)の導入を一因として生活費の高騰に苦しむ有権者の嫌悪を引き起こした。
BN内の最大与党統一マレー国民組織(United Malays National Organization: UMNO)からも、首相への疑義が噴出した。ナジブは扇動法や2012年に成立した治安違反(特別措置)法(Security Offences [Special Measures] Act: SOSMA)によって批判者を次々と逮捕した。また、ムヒディン副首相(当時)やマハティールらUMNO内の反対派には、更迭・党籍剥奪によって応酬した。
UMNOを離れたマハティールらは、Bersatuを形成し、積年の対立を乗り越えてアンワール率いるPHに合流した。PHは、GSTの撤廃などによる生活費上昇への対応、最低賃金の引き上げ、1MDBスキャンダルの追及、政治制度改革、投票年齢の18歳への引き下げなどを公約として掲げ、「新しいマレーシア」「法の支配」「国家のプライドの回復」をスローガンに選挙戦を戦った。ナジブは、選挙区変更や反フェイクニュース法の立法などによって権力維持を図ったが、PHは、従来の支持基盤である都市部の華人やインド人票をさらに増やし、またBNを支持していたマレー人の一部からも支持を取り付けることに成功した。下院の過半数を失ったBNからは、構成政党が次々と離反し、UMNOからも離脱者が出た。
改革の行方
マハティール率いるPH政府が最初に着手したのは、ナジブとその妻の訴追だった。選挙の1週間後にはナジブ私邸の家宅捜索、翌月以降にはナジブや1MDB関係者の起訴が続いた。ナジブの腹心で総選挙後にUMNO総裁になったザヒド・ハミディも慈善団体に関連した資金洗浄や背信で起訴された。これ以外にも、政府は検事総長、汚職対策局、選挙管理委員会人事の刷新、投票年齢の引き下げ、最低賃金の引き上げを敢行した。
しかし、政治制度改革は、リベラルな有権者が期待するほどの成果を上げなかった。扇動法や警察法、結社法などの法律は温存され、平和的集会法など改正された法律も微修正にとどまった。これに加えて、小学校でのジャウィ文字(マレー語のアラビア文字表記)教育の導入をめぐり、非マレー人団体からの抗議も相次ぎ、PHの強固な支持層であるリベラルな非マレー人有権者を落胆させた。
他方で、2018年選挙の公約だった国連人種差別撤廃条約の批准は、マレー人与野党からの激しい反発を引き起こした。マレー人およびその他のブミプトラの「特別の地位」への挑戦とみなされたからである。「特別の地位」は憲法で規定され、就学・就業機会、政府入札、ビジネス・ライセンスの交付等における優遇政策の根拠となってきた。この憲法規定への異議申し立ては禁止されており、規定の修正には上下両院の2/3の過半数に加えて、スルタンからなる統治者会議の承認が必要となる。憲法によって強固に守られたこの権利は、マレー人保守層による「マレー人の優位(Ketuanan Melayu )」の主張の根拠ともなってきた。
マハティールが検事総長や財務大臣など、長年にわたりマレー人が担ってきたポストに非マレー人を任命したこともあり、UMNOを中心とした在野マレー人勢力はPHに反マレー連合のレッテルを貼り、集会やSNSを通じてマレー人の反PH感情を煽った。こうした戦略が功を奏し、マレー人有権者のPHへの支持は時間と共に低下していった。
その結果、政権発足後に行われた補欠選挙のほとんどで、PHは負けた。やがて、首相ポストをめぐるマハティールとアンワールの対立、最大与党でアンワールを党首とする人民公正党(Parti Keadilan Rakyat: PKR)内のリーダーシップ争いもあいまって、PH内の不協和音は増幅し、「シェラトンの変」という顛末(てんまつ)を見る。
もっとも、PN-BN連合は極めて不安定だった。というのも、汚職容疑により実刑判決を受けたナジブの恩赦や自身の裁判の取り下げを目論むザヒドら一部のUMNO議員は、下野したアンワールとの共闘による政府転覆というカードをちらつかせ、ムヒディンに圧力をかけ続けたからである。結局ムヒディンはこの圧力に屈し、2021年8月にUMNOのイスマイル・サブリ・ヤアコブが首相ポストを継いだが、彼もまたザヒドらからの強い圧力によって、予定よりも早い解散総選挙を強いられた。
こうして行われた2022年11月の総選挙に勝利したアンワールは、持続可能性、繁栄、イノベーション、敬意、信頼、思いやりの6つの価値を核とする「マレーシア・マダニ(文明的なマレーシア)」を政権のスローガンに掲げた。23年2月には、奢侈品やキャピタルゲインへの課税、中所得者の所得税率の引き下げや中下層所得者向けの手当の充実を盛り込んだ予算修正案が、また、4月には殺人、テロなど11の罪について、強制死刑制度を廃止する法案が成立した。
アンワール氏への期待と落胆
長きにわたり、同性愛や汚職容疑で繰り返し有罪判決を受けたアンワールには、政治の自由化への大きな期待がかかった。しかし、現在までのところ、政権は政治制度改革に慎重な姿勢を示している。閣僚らは、扇動法やナジブ時代の立法であるSOSMAの修正を拒否し、オンラインメディアへの監視を継続し、民族、宗教、スルタンに関する挑発や中傷を避けるためにコミュニケーション・マルチメディア法を修正する意向を示している。
他方で、前政権と同様、過去の政権による不正の追及には余念がない。PN政権期にパンデミック対策として導入された建設業者支援のための資金の一部がBersatuに還流していた疑いで、23年3月にムヒディンが逮捕・起訴された。ムヒディンの支持者が、逮捕には十分な根拠がなく、政治的動機によるものであるとして反対デモを起こすと、アンワールは平和的集会法にもとづいてこれを捜査した。ここでも明らかになった政治制度改革の停滞は、人権団体や弁護士からの落胆と批判を引き起こしている。
アンワールの国内政治における優先順位は、「シェラトンの変」再来を防ぐことにあるように見える。74議席を握る野党連合PNは、政権転覆の脅しをかけ続けている。他方で、ナジブの恩赦や汚職裁判取り下げを求めるザヒドらUMNO議員は、裁判の行方次第でアンワールへの支持を撤回するオプションを常に持っている。このような政局のなかでの政治制度の改革は、政敵の牙を抜く手段を自ら手放すことを意味する。また、自由主義制度の拡充は、もともと政治の自由化に関心のないUMNOの機嫌を損ねることになるかもしれないし、それがブミプトラの特別の地位に関わるものとなればなおさらのことであろう。こうした事情から、アンワール政権においても、権威主義体制が抜本的に改革される見通しは必ずしも明るくない。
なぜ改革は挫折するのか
政治制度改革の分野では、2つのPH政権による自由化へのためらいを見て取ることができる。運転手がBNからPHに変わっただけで、車は同じ、向かっている先も同じなのかもしれない。
政権を握る者にとっては、激しい競争の中で、自らの権力を守るために権威主義的手法に訴える誘因は常にある。権力者の自制の難しさという自由民主主義をめぐる普遍的な問題に加えて、マレーシア固有の問題もある。それが、ブミプトラの特別の地位である。
21世紀のマレーシア政治を振り返ると、改革の試み(あるいは宣言)は頻繁にあった。2003年にマハティールの後継者となったアブドゥラ・バダウィは、政治の自由化をうたった。前任者の権威主義的な統治を嫌った若者や都市部有権者の支持を回復するためだ。しかし、これに呼応してブミプトラ優遇政策の是非が議論されるようになると、UMNO は急進化し、首相はその圧力に屈し、優遇政策の継続を明言せざるを得なかった。さらに、選挙の透明性やインド人の権利を求める社会運動が起きると、アブドゥラは警察を使ってこれを抑え込んだ。こうした抑圧を背景に下院議席を減らしたアブドゥラに代わって首相になったナジブもまた、当初は改革を掲げ、政治の自由化や、優遇政策の根拠を民族から所得水準へと変えることを宣言した。しかし、いずれも、UMNOやその他マレー人団体からの激しい反発に遭い、骨抜きになった。
こうした過程を経て、非マレー人票の大部分はPHの票田として固定化された。しかし、人口の7割近くを占め、また票に重みのある農村部に多いマレー人やその他ブミプトラ有権者の支持を得なければ、選挙には勝てない。しかも、今回の選挙でPASが最大政党になったことにも明らかなように、汚職のイメージの強いUMNOは忌避するものの、PHの改革アジェンダにも賛同しないマレー人有権者が多く存在する。このようなマレー・イスラーム保守層の存在は、PHによる自由化へのためらいの一つの要因となっている。
改革の弁証法
それでは、誰が政権を取っても、BNが作り上げた権威主義体制は強靭性を保ち続けるのか。ここでは、2018年以降のいくつかのポジティブな変化を指摘しながら、漸進的に改革が進んでいく可能性を示してみたい。
まず、反汚職の世論が常態化したことである。 18年選挙、22年選挙でUMNOが議席を劇的に減らした理由の一つは、それぞれナジブとザヒドという汚職容疑のあるリーダーに対する有権者の拒否感だった。これ以降、マハティール、ムヒディン、イスマイル・サブリの各政権は閣僚の資産開示を要求し、アンワールはさらなる透明化を指示している。政治家にとって、汚職に関わるコストは以前よりもずっと高くなっている。
また、イスマイル・サブリ政権期には、党籍変更禁止法(Anti-hopping Law)や投票年齢引き下げの早期実施などの改革が実現した。この背景には「シェラトンの変」以降の不安定な政権運営を引き継いだイスマイル・サブリ政権が議会や司法改革を約束する代わりに、野党側が予算案など重要な審議において反対票を投じないことを約束した「変革と政治的安定に関する覚書」がある。権威主義体制の担い手だったBNが、自らの延命のために野党PHの改革アジェンダを受け入れるという方法でもって、制度改革が実現したことは特筆に値する。
いずれの事例も、汚職や選挙を経ない政権奪取など、民主主義を揺るがす事件が起きた後に、その反動として、党派を超えて改革が支持される可能性を示している。もっとも、改革が起こるためには、政権交代が現実的となる程度の政治的競争があることが前提ではある。政権交代の可能性はまた、司法機関が特定の勢力におもねらず、独自の判断をすることによる改革の道も開くかもしれない。
2022年総選挙でPASが最大議席を獲得したこと、その支持者に若者も多く含まれたこと、そしてアンワールが権威主義的な制度を利用していることは、リベラルな有権者を落胆させた。しかし、改革の可能性は小さくないかもしれない。
バナー写真:プトラジャヤのモスクで礼拝を終えた、マレーシアのアンワール・イブラヒム新首相=2022年11月24日(AFP=時事)』
『鈴木 絢女SUZUKI Ayame 経歴・執筆一覧を見る
同志社大学法学部教授。専門は東南アジア政治研究。1977年横浜市生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。博士(学術)。同志社大学准教授などを経て2020年から現職。』