ロシアの2024年カレンダー/祝日・休日
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ウクライナ軍、チャシブ・ヤール崩壊はアウディーイウカと同じで時間の問題
https://grandfleet.info/war-situation-in-ukraine/the-collapse-of-chasiv-yar-for-the-ukrainian-army-is-just-a-matter-of-time-just-like-audiiivka/


『2024.05.3
AP通信は2日「容赦ない砲撃で壊滅的な打撃を受けたチャシブ・ヤールはバフムートやアウディーイウカを彷彿とさせる」と報じ、ウクライナ国防省情報総局のスキビツキー副局長も「アウディーイウカと同じようにチャシブ・ヤールの崩壊も時間の問題だろう」と述べた。
参考:Drone footage shows devastation in Ukraine’s strategic eastern city of Chasiv Yar as Russians near
参考:Ukraine is on the brink, says a senior general
街の崩壊を根本的に食い止めるにはチャシブ・ヤール周辺からロシア軍を押し戻す必要がある
バフムート北西の高台に位置するチャシブ・ヤールはコンスタンチノフカ、ドルジュキーウカ、クラマトルスク、スラビャンスクを守る戦略的要衝で、AP通信は2日「ロシア軍の容赦ない砲撃でチャシブ・ヤールは壊滅的な打撃を受けている。大半の建物は破壊されて黒焦げになり、バフムートやアウディーイウカを彷彿とさせる」と報じた。
ウクライナ国防省情報総局のスキビツキー副局長もEconomistの取材に「チャシブ・ヤールの状況」や「ロシア軍の夏季攻勢」について興味深い予測を披露。
スキビツキー副局長は「アウディーイウカと同じようにチャシブ・ヤールの崩壊も時間の問題だろう」「勿論、今日や明日の話ではないが、全て我々の備蓄と物資次第だ」と言及、つまり「チャシブ・ヤールの喪失は砲撃や空爆による都市(抵抗拠点となりえる市内の建造物)破壊のスピードに左右される」「弾薬の供給量が改善されれば敵火力を抑制でき街を長く維持できる」と言いたいのだろう。
出典:管理人作成(クリックで拡大可能)
ただし、街の崩壊を根本的に食い止めるにはチャシブ・ヤール周辺からロシア軍を押し戻す必要があり、現在のウクライナ軍に反撃を行う戦力的余裕があるとは考えにくいため、最終的にチャシブ・ヤールの崩壊は避けられないのかもしれない。
スキビツキー副局長はロシア軍の夏季攻勢について「ハルキウ方面やスームィ方面への攻撃を準備している」「ロシアがウクライナ侵攻に動員している兵力は51.4万人」「現時点でベルゴロド州に3.5万人グループが配備されている」「このグループは5万人~7万人規模に拡張される予定」「この他にもロシアは約2万人規模の予備戦力を中央に待機させている」と指摘。
出典:Минобороны России
ハルキウ方面やスームィ方面への攻撃時期は「ドンバスにおける我が軍の防衛強度に左右される」と、夏季攻勢自体は「5月~6月の間に始まる」と述べた。
因みにウクライナ人が運営するDEEP STATEはクピャンスク方面について3日「ロシア軍がコトリャリフカに侵入した」と報告している。
出典:管理人作成(クリックで拡大可能)
関連記事:ウクライナ軍指揮官、新たな攻勢も防衛ラインの必要性も認識していなかった
関連記事:アウディーイウカ北の突破口は拡大、ロシア軍がアルハンヘルズケに侵入
※アイキャッチ画像の出典:Генеральний штаб ЗСУ
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投稿者: 航空万能論GF管理人 ウクライナ戦況 コメント: 29 』
『 たむごん
2024年 5月 03日
返信 引用
ウクライナ軍は、限られた軍事資源を、どのように配分するのか難しいですね。
ロシア軍も同様の問題があり、ハルキウ州、ヘルソン州のドニプル側右岸、戦略的な撤退を行っています(企業含めて、あらゆる組織の課題です)。
チャシウヤール、運河沿い塹壕(町側)に注目したところ、掩蓋がないように見えるんですよね。
集落内部、どの程度の陣地があるのか分かりませんが、今後に注目したいと思います。
滑空誘導爆弾だけで、月3000発(1日100発)投下されるため防衛陣地の強度がなければ、厳しい事になります(アウディーイウカは2014年から最前線で強化され続けた街です)。
ロシア空軍は、FAB汎用航空爆弾にUMPK衛星誘導キットを装着した誘導滑空爆弾(ウクライナ側呼称「KAB」)を、毎月3000発もウクライナ軍部隊に向けて投下している。
(2024.05.03 ウクライナが過去最大級のドローン一斉攻撃 「天敵」滑空爆弾のキットを多数破壊 forbes)
17 』
ウクライナ軍指揮官、新たな攻勢も防衛ラインの必要性も認識していなかった
https://grandfleet.info/war-situation-in-ukraine/ukrainian-military-commanders-did-not-recognize-the-need-for-new-offensives-or-defensive-lines/#comment_headline




『2024.05.2
AP通信の取材に応じたウクライナ軍兵士は「現在の陣地から後退しても準備された要塞はほとんどない」と、第47機械化旅団の副司令官も「新たなロシアの攻勢を予想していなかったため防衛ラインの必要性を認識していなかった」「これは責任感の欠如だ」と語った。
参考:No safety in retreat: Ukrainian soldiers say rear defensive lines barely exist amid Russian advance
早く建設しなければならないという圧力から、一部の地方当局者は要塞の進捗状況を水増して報告している
AP通信の取材にバティヤルと名乗るウクライナ軍部隊の指揮官は「要塞建設のスピードを上げることが必要だ。そうすれば現在の場所から準備された陣地に撤退できるようになる」と、第47機械化旅団の歩兵大隊で副司令官を務めるオレクサンドルも「新たなロシアの攻勢を予想していなかったため、多くの人々は強化された防衛ラインを準備する必要はないと思っていた」「事前に要塞化を行っていれば救える命があると理解していなかった」「これは責任感の欠如だ」と指摘した。
出典:Командування Об’єднаних Сил ЗС України
ウクライナ軍が建設を進めている防衛ラインは3つあり、最前線の第1線は兵士が、最前線から2km~5km後方の第2線は工兵部隊が、これより後方の第3線は民間企業が建設を請け負っているものの、オレクサンドルは「第1線の防衛ラインを建設しなければならない兵士らはロシア軍と戦いながら塹壕を掘らなければならない」「この両方をこなすは本当に難しい」と訴え、第2線を建設する工兵部隊の兵士も「我々は何も持たずに戦争へ突入した」と証言しているのが興味深い。
AP通信は「ウクライナの準備不足は旧ソ連から受け継いだ戦力の整理に起因しており、特に工兵部隊の大部分が解体され、所有していた掘削機などの重機も全て売却されてしまった。ある工兵部隊が要塞建設のため東部戦線に到着した際、この部隊が持っていたのは1960年代の古い機材とシャベルだけだった」と報じ、取材に応じた工兵部隊の兵士も「我々が建設したのはシンプルな塹壕だけだ」と述べている。
出典:Сухопутні війська ЗС України
3月中旬にチャシブ・ヤール防衛に投入された第67独立機械化旅団の兵士も「迷路のような塹壕や射撃陣地が用意されていると期待していたが、現地で目にしたのは砲撃かろうじて身を守れる程同の穴だった」「そのため我々は砲撃の中で塹壕を掘り進めなければならず、土壌が砂地だったため砲弾が着弾するたびに掘った塹壕が崩れた」「身を守る塹壕もなく、敵の砲撃に対抗する手段もなかったため、部隊長、中隊長、小隊長、軍曹を含む100人以上が死亡するか行方不明になり、旅団は基盤戦力を失ってしまった」と証言。
同旅団は4月上旬にチャシブ・ヤールから後退、参謀本部から作戦失敗の責任を問われ旅団自体が解散させられたが、第67旅団の指揮官達は「防衛戦に不可欠な戦力や物資がなかった」と述べており、他の旅団がチャシブ・ヤールを守っていても結果は大して変わらなかったのかもしれない。
出典:Генеральний штаб ЗСУ
民間企業が建設を請け負っている第3線も問題が山積しており、要塞建設にコンクリートを供給している企業の経営者は「早く建設しなければならないという圧力から、一部の地方当局者は進捗状況を水増して報告している。その数字を見たことがあるが、私はコンクリートの供給量を知っているため数字が事実ではないと直ぐに分かった」と、ドネツク州の建設会社は「どうして国は工兵部隊に必要な機材を購入しなかったのか、なぜ我々に建設を依頼するまで要塞化を始めようと思わなかったか、これらの準備はロシアとの戦争が始まった2014年に開始されるべきだった」と述べ、何もかもが後手に回っていることを浮き彫りにしている。
関連記事:ゼレンスキー大統領、ロシアやベラルーシと接する全地域への要塞建設を指示
関連記事:守勢に転じたウクライナ軍、建設が進む防衛ラインの様子を報道陣に公開
関連記事:驚くほど脆弱なウクライナ軍の防衛陣地、要塞要素が欠けた初歩的な塹壕のみ
関連記事:ウクライナ軍兵士は準備された陣地ではなく野原に連れて行かれただけ
関連記事:危機的なアウディーイウカ、ウクライナ軍は夏に何も準備してこなかった
関連記事:ロシア軍がバフムートで成功した理由、FPVドローンの大量使用と防衛陣地の欠如
関連記事:ウクライナメディア、アウディーイウカの危機は第2防衛ラインの欠如が原因
※アイキャッチ画像の出典:Генеральний штаб ЗСУ
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投稿者: 航空万能論GF管理人 ウクライナ戦況 コメント: 74 』
ジム・クロウ法
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出典検索?: “ジム・クロウ法” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2017年4月)
有色人種専用の水飲み場(1950年頃)
ジム・クロウ法(ジム・クロウほう、英語: Jim Crow laws)は、1876年から1964年にかけて存在した、人種差別的内容を含むアメリカ合衆国南部諸州の州法の総称。ジム・クロウ制度とも[1]。
概要
主に「黒人の一般公共施設の利用を禁止、制限した法律」を総称していう。
しかし、この対象となる人種は「アフリカ系黒人」だけでなく、「黒人の血が混合している者は全て黒人とみなす」という人種差別法の「一滴規定(ワンドロップ・ルール)」に基づいており、黒人との混血者に対してだけでなく、インディアン(先住民)、ブラック・インディアン(インディアンと黒人の混血)、日系人などアジア系といった黄色人種などの、ヨーロッパ系の白人以外すなわち非白人の「有色人種」(Colored)をも含んでいる。
経緯
南北戦争以前、北部州(共和党支持基盤)は「奴隷制廃止」を掲げていた。しかし、伝統的な南部11州(民主党支持基盤)は反対に「奴隷制維持」を掲げていた。
南北戦争終了後の南北統合期(リコンストラクション)初期、この対立の元に、合衆国軍占領下の南部11州は先手を打って、解放奴隷を抑圧して黒人の準奴隷システムを正当化するような「黒人法(英語版)」(英語: Black Codes、黒人取締り法とも)を制定した。
当時工業で発展し始めていた北部都市(デトロイト・シカゴなど)と異なり、南部では黒人労働力による農業が依然として経済の基礎であった。
そのため、「黒人が白人と平等になっては困る」というのが、南部経済を支える有力な白人農園主たちの本音であったと考えられる。
この黒人取締り法が、ジム・クロウ法の礎になっていった。
南部各州での「黒人取締り法」は制定直後、合衆国議会で1866年公民権法が成立したことによって廃止されたが、リコンストラクション後に連邦政府の干渉が少なくなった中、南部諸州では次々とジム・クロウ法が制定された。
1945年以降、公民権運動が高まるとジム・クロウ法に対して裁判闘争が行われ、1954年から1955年にかけて、連邦最高裁判所は、プレッシー対ファーガソン裁判で確立された「分離すれども平等(separate but equal)」という判例法理を覆し、公立学校における人種別学制度は違憲とする判決を下した(ブラウン対教育委員会裁判、Brown v. Board of Education of Topeka (Brown I) 347 U.S. 483, 74 S. Ct. 686, 98 L. Ed. 873 (1954)、Brown v. Board of Education of Topeka (Brown II) 349 U.S. 294, 75 S. Ct. 753, 99 L. Ed. 1083 (1955))。
1964年7月2日、リンドン・ジョンソン政権は公民権法 (Civil Rights Act) を制定し、南部各州のジム・クロウ法は即時廃止となった。
名の由来
ジャンプ・ジム・クロウの楽譜の表紙
ジム・クロウという名は、ミンストレル・ショー(Minstrel Show、白人が黒人に扮して歌うコメディ)の1828年のヒット曲、『ジャンプ・ジム・クロウ(英語版)』(Jump Jim Crow) に由来する。
コメディアンのトーマス・ダートマス・ライス(英語版)(Thomas Dartmouth “Daddy” Rice) が演じて人気を博し、顔を黒塗りして黒人に扮するブラックフェイス・パフォーマンスを全米に広めた。
ジム・クロウは田舎のみすぼらしい黒人を戯画化したキャラクターであり、着飾った都会の黒人であるジップ・クーン (Zip Coon) とともにミンストレル・ショーの定番キャラクターとなった。
1837年までに、ジム・クロウは黒人隔離を指す言葉としても使われるようになっている。
州法の例
アラバマ州法
病院:白人女性の看護師がいる病院には、黒人男性は患者として立ち入れない。
バス:バス停留所には白人用と有色人種用の2つの待合場が存在し、乗車券販売所も白人用と非白人用があった。座席まで区別されており[2]、モンゴメリー・バス・ボイコット事件の発端になった。
電車:人種ごとに車両が選別されるか、同一車両内でもバスと同様、人種ごとに席が分けられた。
レストラン:白人と有色人種が同じ部屋で食事ができるようなレストランは違法になりさえもした。
フロリダ州法
結婚:白人と黒人の結婚は、禁止された。なお、4世代前までに黒人の血が一人でも含まれれば(16分の1)、純粋な黒人と同様、『黒人』として扱われた。
交際:結婚していない黒人と白人は(結婚自体既に禁止されているが)一緒に居住してはならないし、共同の部屋で夜を過ごしてもならない。この犯罪には12か月以上の禁固刑、もしくは$500(当時)の罰金が科せられた。
学校:白人学校と黒人学校は、厳密に区分された。
ミシシッピ州法の例
平等扇動罪:パンフレット・出版・公共場での演説などで社会的平等・異人種間結婚を奨励すれば、6か月以下の懲役、もしくは$500以下の罰金。
上記州以外に、ジョージア州、ルイジアナ州、ノースカロライナ州、ワイオミング州が類似した法律を持っていた。
ほとんどの南部州
過剰な投票税を課すなどして、黒人が投票するのを防止しようとした。
関連項目
アパルトヘイト
雑婚禁止法
背徳法
パス法
人口登録法
バントゥー教育法
有色人種
アメリカ合衆国の人種差別#アフリカ系住民に対する差別
人種差別
民族浄化
ホロコースト
白人至上主義
公民権運動
脚注
^ 日本大百科全書(ニッポニカ). “ジム・クロウ制度とは”. コトバンク. 2022年7月15日閲覧。
^ 『週刊漫画世界の偉人21 キング牧師』朝日新聞出版、6月19日 2012、p16頁。
カテゴリ:
反黒人感情アメリカ合衆国の政治史 (1865年-1918年)アメリカ合衆国の各州の法律公民権運動アメリカ合衆国の法制史アメリカ合衆国のレイシズムアフリカ系アメリカ人アフリカ系アメリカ人の歴史
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』
南北戦争
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南北戦争
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出典検索?: "南北戦争" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL
南北戦争
上から時計回りに: ゲティスバーグの戦い, 北軍のJohn C. Tidballと野砲、南軍の捕虜、装甲艦「アトランタ」、廃墟と化したリッチモンド、第二次フランクリンの戦い
時 1861年4月12日-1865年5月9日(布告による)[1]
4年3週間と6日
1865年6月22日に最後の砲弾が発射された。
場所 アメリカ南部、アメリカ北東部、アメリカ西部、大西洋
発端 サムター要塞の戦い
結果
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国(北部)の勝利
奴隷制の廃止
アメリカ合衆国の領土保全の成功
アメリカ連合国(南部連合)の滅亡
リコンストラクションの開始
衝突した勢力
アメリカ合衆国の旗
アメリカ合衆国
アメリカ連合国の旗
アメリカ連合国
指揮官
エイブラハム・リンカーン
ユリシーズ・グラント
ウィリアム・シャーマン
ジョージ・マクレラン
デヴィッド・ファラガットほか ジェファーソン・デイヴィス
ロバート・E・リー
ジョセフ・ジョンストン
トーマス・ジョナサン・ジャクソン
ラファエル・セムズほか
戦力
2,200,000人:[2]
アメリカ合衆国陸軍
アメリカ合衆国海兵隊
アメリカ合衆国海軍
698,000人(ピーク時)[3][4]
750,000人 – 1,000,000人[5][2]
アメリカ連合国陸軍
アメリカ連合国海兵隊
アメリカ連合国海軍
360,000人(ピーク時)[3][6]
被害者数
110,000人以上 戦死・戦傷死
230,000人以上 事故死・病死[7][8] 25,000人から30,000人が南軍の捕虜収容所で死去[7][3]
365,000人以上 総死者[9]
282,000人以上 負傷者[8]
94,000人以上 戦死・戦傷死[7] 26,000人から31,000人が北軍の捕虜収容所で死去[8]
290,000人以上 総死者
137,000人以上 負傷者
50,000人の市民が死亡[10]
総計: 705,000人から900,000人以上が死亡[11]
青が北部(アメリカ合衆国)自由諸州。水色が合衆国に留まった奴隷諸州。赤が南部(アメリカ連合国)奴隷諸州。白は準州。[12]
アメリカ連合国(CSA)加盟州の変遷(1860年12月 – 1870年7月)
南北戦争(なんぼくせんそう、英語: American Civil War またはThe Civil War)は、1861年4月12日から1865年4月9日にかけて[13]、北部のアメリカ合衆国と合衆国から分離した南部のアメリカ連合国の間で行われた内戦である。
奴隷制存続を主張するミシシッピ州やフロリダ州など南部11州が合衆国を脱退してアメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまったその他の北部23州との間で戦争となった。
この戦争では史上初めて近代的な機械技術が主戦力として投入された。
英語における「civil war」は単に「内戦」を意味する語だが、アメリカ合衆国では独立後に内戦があったのはこの時だけなので(ユタ戦争などの内乱と呼ぶべき物はいくつかある)、国内では通常これに定冠詞をつけ大文字にして「the Civil War」と表記する。
アメリカ以外の国では自国の内戦と区別するため、国名を冠して「American Civil War」と表記する(南北戦争のネーミングを参照)。
背景
詳細は「南北戦争の原因」を参照
当時、南部と北部との経済・社会・政治的な相違が拡大していた。
南部では農業中心のプランテーション経済が盛んで特に綿花をヨーロッパに輸出していた。
プランテーション経済は黒人奴隷の労働により支えられており、農園の所有者が実質的に南部を支配していた。
南部の綿花栽培の急速な発展は、英国綿工業の発展に伴って増大した綿花需要に負うもので、英国を中心とした自由貿易圏に属することが南部の利益につながっていた。
一方、北部では米英戦争(1812年 – 1814年)による英国工業製品の途絶で急速な工業化が進展しており、新たな流動的労働力を必要とし、奴隷制とは相容れなかった。
また、欧州製の工業製品に対抗するため保護貿易が求められていた。
その結果、奴隷制と貿易に対する認識を異にしていた北部の自由州(奴隷制を認めないという「自由」、奴隷州に対する概念的呼び方)と南部の奴隷州の対立が一層激化した。
しかもこの対立は、アメリカ合衆国が思わぬ方法でその領土を拡張してしまった事からより深刻になってしまう。
この「方法」とは、財政難に陥ったフランス(ナポレオン1世)からルイジアナ・テリトリーを購入(ルイジアナ買収)した事と、メキシコから「独立」したテキサス共和国とカリフォルニア共和国をアメリカ合衆国に加えた事[注釈 1]である。
このことは、それまで上院で保たれていた自由州派(北部)と奴隷州派(南部)の均衡が崩れる事を意味した。
この時、カリフォルニア州を自由州として、ニューメキシコ準州、ユタ準州については州に昇格する際に住民自らが奴隷州か自由州かを決定すること(人民主権)となった。
この協定によって、南部は奴隷州が少数派となること、すなわち自由州側の方が上院議員数が多くなることに危機感を抱いた。
ちなみに開戦の時点で北部の人口は約2200万、南部の人口は約900万だったとされる。南部の人口は、約400万の奴隷人口を含めた数字である。
こうした対立は徐々に先鋭化していき、1857年以降になると、アメリカはドレッド・スコット対サンフォード事件の判決、カンザス・ネブラスカ法、ジョン・ブラウンによるハーパーズ・フェリー襲撃事件といった紛争が立て続けに起こり、南北の対立はもはや鎮静化が不可能な状態にまで達していた。
北部では奴隷制に反対する新政党である共和党が急速に支持を拡大し、一方与党である民主党は北部と南部の対立が激化して、党が南北に割れる事態となっていた。
経過
開戦
1860年11月の大統領選挙では奴隷制が争点のひとつになり、奴隷制の拡大に反対していた共和党のエイブラハム・リンカーンが当選した。
この時点では、奴隷は個人の私有財産であることもあり、リンカーン自身は奴隷制廃止を宣言していなかったが、南部では不安が広がった[注釈 2]。
同年12月にはサウスカロライナ州が早くも合衆国からの脱退を宣言。
翌1861年2月までにミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州も合衆国からの脱退を宣言した。
2月4日にはこの7州が参加したアメリカ連合国を結成、首都をアラバマ州モンゴメリーにおき、ジェファーソン・デイヴィスが暫定大統領に指名された(同年11月に行われた選挙で正式に当選している)。
3月4日にリンカーンが大統領に就任すると、4月12日に南軍が合衆国のサムター要塞を砲撃して戦端が開かれた(サムター要塞の戦い)。
リンカーンは合衆国に残ったすべての州にサムター要塞などの奪回を呼び掛け、軍事的な協力を要請した。
しかしこれは連合国への軍事対決を意味し、このときいまだ合衆国に残っていた奴隷州を強く刺激した。
こうして5月までにバージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州も連合国に合流した。
バージニア州はアメリカ有数の有力州であり、このとき連合国の首都もモンゴメリーからバージニア州のリッチモンドへと移された。
ただし奴隷州でもデラウェア州、ケンタッキー州、メリーランド州、ミズーリ州、それにバージニア州の西部(後にバージニア州から「独立」してウェストバージニア州となる)は合衆国に残った。合衆国に残ったこれらの奴隷州への対応に、リンカーン大統領は非常に苦慮する事となる[注釈 3]。
4月19日にはリンカーン大統領が南部海岸線の海上封鎖を宣言した。
この封鎖は大西洋岸からメキシコ湾岸まで徐々に広がり、南部経済を締め付けていった。
経済学者によっては、海上封鎖はアメリカ海軍の勝利であり、戦争そのものに勝利する主要要因となったとしている[14]。
開戦時の情勢
アラバマ号(英語版)はイギリスで建造され、私掠戦として南軍に提供され、北軍の貿易を妨害した。
南北戦争が勃発した時点では、北部も南部も戦争の準備は全くできていなかった。
合衆国陸軍に所属していた将兵は1万6000人程度であり、武器も米墨戦争時の旧式のものを使用しているだけであった。
また、合衆国海軍も将兵7600名と船舶42隻程度しか保有していなかった。
しかし、それに対して南部は正規軍と呼べるような兵力は保有しておらず、海軍も存在しなかった。
大半の将兵は合衆国軍に残ったが、士官のうち313名が職を辞して南部連合軍に参加した。
この中には後に南軍の将軍として有名になるロバート・E・リーやストーンウォール・ジャクソン、ジョセフ・ジョンストン、それにP・G・T・ボーリガードなども加わっており、南北戦争を長引かせるひとつの要因となった[注釈 4]。
開戦時に北部が優位であった点:
開戦の時点で北部には既存の政府組織が存在していたのに対して、南部は一から政府組織を作り上げねばならなかった。
南部と比較して中央集権的な政治体制であったため、合衆国政府の意思決定がスムーズであった。南部はそれぞれの所属州の発言力が強かったため、南部連合の方針を決める際にデイヴィス大統領は非常に苦慮することとなった。
上記のように北部と南部の間には大きな人口差があり、そのため兵役適齢(当初は18歳から35歳)とされる男性の人口も大きな差があり、北部は約400万前後に対して、南部は100万強だった。
南部では後にこの枠が17歳から45歳までに拡大され、最終的に上限は50歳まで引き上げられた。
しかしそれでも兵のなり手が足りず、敗戦間際には奴隷から志願者を募ろうという案まで提出された。
北部では上記のように工業面が南部より発達していた。鉄道の長さは南部の2倍以上あった。この鉄道を利用し、北部は食料や武器を兵たちに受け渡すことができた。
開戦時に南部が優位であった点:
人的資源の量では劣っていたが、多くの優秀な指揮官が合衆国軍を去って南部連合に合流した。そのため北部では将軍に任命するに足る人物が不足することとなった。
奴隷制を維持し「南部の生き方」を守る、侵攻してくる北軍から郷土を守るといった明確な目的があるため士気が高かった。
一方で北部の目標は「合衆国を守る(=南部を合衆国に連れ戻す)」という曖昧なものであり、南部と比較して戦争に対する温度差も大きかった。
「放っておけばそのうち戻ってくる」と思っている者や「離反したいならさせておけば良い」と思っている者が少なからずいたのである。
東部戦線
詳細は「東部戦線 (南北戦争)」を参照
南北戦争は広大な地域で戦われたが、主な戦線としては東海岸の東部戦線と、アパラチア山脈以西の西部戦線とに大別することができる。
そして、南北戦争の最も主要な戦線であり、規模の大きな戦闘が繰り返し起こったのは東部戦線の方だった。
これは、東海岸の方が開発が進んでおり人口も多かったうえ、北部のワシントン・南部のリッチモンドの両首都も東部に位置していたためである。
さらにこの両首都は直線距離でわずか160kmほどしか離れておらず、両都市間に険しい山岳などの障害になる地形も少なかった。
北部のワシントンなどはポトマック川を挟んで南部領と隣接している状態であり、自然と両軍ともに相手の首都をめざし進撃することが多かった。
こうして、この両都市間の狭い土地で激しい戦いが多く繰り広げられることとなった。
当初リンカーン大統領が動員した戦力は7万5000人、兵役期間は3か月と短期間で、早期に決着がつくと考えていたと言われている。
しかし、南北の最初の本格的な軍事衝突となった1861年7月の北軍のバージニアへの侵攻は、第一次ブルランの戦い(第一次マナサスの戦い、7月21日)での南軍の頑強な抵抗の前に頓挫し、戦争の長期化は避けられない情勢となった。
1862年3月、ジョージ・マクレラン率いるポトマック軍がリッチモンドの南東に上陸し、5月にはリッチモンドに肉薄するところまで侵攻した。
しかし七日間の戦い(6月25日 – 7月1日)で、南軍のロバート・E・リー率いる北バージニア軍に大損害を与えたものの、現有戦力での攻略は無理と見て退却した。
連動してジョン・ポープ率いるバージニア軍[注釈 5]もバージニアへ侵攻するが、第二次ブルランの戦い(8月28日 – 8月30日)でリーに敗北した。
戦勝の勢いでリーはメリーランドへの侵攻を試みるが、アンティータムの戦い(9月17日)の結果、後退を強いられた。
戦局が持ち直したのを見た大統領リンカーンは同年9月、奴隷解放宣言を発した(本宣言は翌1863年1月)。
この頃からリンカーンは、奴隷制に対する戦いを大義名分として前面に押し出すようになり、その成果もあって連合国がイギリスやフランスから援助を受けようとする努力は失敗に終わった。
1863年、リーは再度の北部侵攻に出たが、ゲティスバーグの戦い(7月1日 – 7月3日)の末、再び後退を強いられた。
7月13日、ニューヨーク徴兵暴動。
11月19日、ゲティスバーグの戦いにおける戦没者のための国立墓地献納式典においてリンカーン大統領が行ったのが、ゲティスバーグ演説として知られる有名な演説である。
西部戦線
詳細は「西部戦線 (南北戦争)」を参照
一進一退の状況が続いた東部戦線とは異なり、西部戦線では終始北軍が優勢に戦いを進めた。
ケンタッキー州が合衆国残留を決めたため、防御に適したオハイオ川を防衛線とすることができず、そのはるか南に戦線を置かざるを得なかった。
西部戦線での最初の戦闘は、1861年8月10日にミズーリ州スプリングフィールド近くで北軍と南軍側のミズーリ州兵との間で起こったウィルソンズ・クリークの戦いである。
この戦いで南軍は勝利したもののミズーリ州を制圧することはできず、ミズーリ・ケンタッキー両州は動揺はあったものの北部側にとどまり続けることとなった。
西部戦線での大きな転機となったのは、1862年2月に起きたドネルソン砦の戦いである。
この戦いで北軍のユリシーズ・グラントは南軍の大部隊を降伏させ、北軍はナッシュヴィルをはじめとするテネシー州全域へと侵攻した。
4月のシャイローの戦いで北軍は再び勝利し、ミシシッピ川の要衝であるメンフィスを占領した。
一方、合衆国海軍は制海権を握っているメキシコ湾からの侵攻を試み、1862年4月29日にはニューオーリンズの戦いにおいて南部最大の都市であるニューオーリンズを陥落させた。
こうした北軍の攻勢に対し、南軍はいまだ支配下にあるテネシー州東部のノックスビルから北方のケンタッキー州への侵攻を試みたが、この侵攻作戦はペリービルの戦い(10月8日)とストーンズリバーの戦い(12月31日 – 1863年1月2日)によって失敗した。
グラントは1862年10月にはテネシー軍を率いるようになり、以後この戦線においてさらに重要な役割を果たすようになる。
北軍優勢の中で、ミシシッピ川沿いには南軍側のビックスバーグ要塞がいまだ残存しており、南部の東西を結びつける唯一の要衝となっていた。
しかしグラントはヴィックスバーグの戦い(5月18日 – 7月4日)で同要塞を攻略し、これによって北部はミシシッピ川の支配権を確保するとともに南軍を完全に東西に分断することに成功した。
さらにグラントはテネシー州東部へと進撃し、チャタヌーガの戦い(11月23日 – 25日)の勝利で南部の中心地帯への侵攻路を開いた。
戦中の変化
この戦争は、北部南部ともに社会に大きな変化をもたらした。
南部は中央集権的な北部に対し州権主義を掲げて蜂起したはずであったが、北部との戦争を遂行する上で集権化は避けられず、連合国政府と一部の州の間で対立が生じた。
また、北部による海上封鎖によって南部経済の主力である綿花の輸出は大打撃を受け、南部経済は混乱していった。
北部においても政府の権限は強大化していき、所得税の導入や不換紙幣の発行などで政府の財政を強化する策がとられた。
また南軍の銃器はフランス製の手工業製品が多く、北軍の銃器は品質管理の行き届いた工場生産のものが多かった。
このことは、部品の互換性が南軍の銃器においては難しかったのに対し、北軍の銃器では部分的に破損した銃器から使える部分を集めて新たに使用可能な銃器が再生できることにつながる。
こうした工業力の根底の違いがしだいに戦況を左右することとなった。
戦争の終結
詳細は「南北戦争の終結(英語版)」を参照
1864年3月、グラントが北軍総司令官に就任した。
南軍の一部隊はこの夏には合衆国首都ワシントンD.C.にまで迫ったが、戦争が長期化するにつれて、装備、人口、工業力など総合力に優れた北軍が優勢に立つようになっていた。
またグラントはそれまでの将軍とは違い、開戦で敗北しても引き上げるような事はせず、そのまま敵地にとどまって北バージニア軍と戦い続けた。
さらに、西部においてはグラントから西部の指揮権を引き継いだウィリアム・シャーマンが1864年5月にアトランタ方面作戦を開始し、9月には南部残存地域の中心部に位置する要衝アトランタを陥落させた。
アトランタを灰燼に帰したシャーマンは、続いて南部の継戦能力を奪うために大西洋に向かって焦土進撃作戦を開始した。
海への進軍である。
すでにこの地域に北軍に対抗できる戦力は残っておらず、北軍はあらゆるものを破壊しながら進軍して12月にはジョージア州海岸のサバンナに達した。
さらにここでシャーマン軍は北に向きを変え、1865年1月にはカロライナ方面作戦を開始してサウスカロライナ州へと進撃。
2月17日には州都コロンビアを破壊し、同月18日には海港都市チャールストンを降伏させた。
3月にはノースカロライナ州に入り、州中部のゴールズボロにまで達した。
1865年3月には北軍の最後の攻勢であるアポマトックス方面作戦が開始され、4月1日のファイブフォークスの戦いで打撃を受けた南軍は4月3日に南部の首都リッチモンドから撤退し、西へと退却した。
しかし追いすがる北軍と4月9日にアポマトックス・コートハウスの戦いが起き、リーが降伏して南北戦争は事実上終了した。
お互いにあらゆる国力を投入したことから、南北戦争は世界で最初の総力戦のひとつとなった。
最終的な動員兵力は北軍が156万人、南軍が90万人[注釈 6]に達した。
両軍合わせて50万人近くの戦死者を出し、民間人死者を合わせると70~90万人に上るとされている。
これは今日に至るまで、戦争における合衆国史上最大の死者数である。
なお、北軍の公式戦死者数は36万4511人であるが、南軍の公式な戦死者数のデータは存在しない。しかし、陸軍憲兵司令官の報告書には13万3821人とある[15]。
戦後
奴隷制の終了
1860年(開戦時)と1864年(戦争終盤)の南北両国支配地の比較[16] 年 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 アメリカ連合国
人口 1860 22,100,000 (71%) 9,100,000 (29%)
1864 28,800,000 (90%) 3,000,000 (10%)[17]
自由市民 1860 21,700,000 (81%) 5,600,000 (19%)
奴隷 1860 400,000 (11%) 3,500,000 (89%)
1864 ほとんどなし 1,900,000
兵士 1860?64 2,100,000 (67%) 1,064,000 (33%)
鉄道マイル数 1860 21,800 (71%) 8,800 (29%)
1864 29,100 (98%)[18] ほとんどなし
工業生産 1860 90% 10%
1864 98% ほとんどなし
兵器生産 1860 97% 3%
1864 98% ほとんどなし
綿花(梱) 1860 ほとんどなし 4,500,000
1864 300,000 ほとんどなし
輸出 1860 30% 70%
1864 98% ほとんどなし
奴隷制が崩壊したことは、南部諸州から安い労働力を失うことを意味した。テキサス州では深刻な不況に陥った[19]。
詳細は「リコンストラクション」を参照
南部諸州は北部による軍事占領下におかれ、そのもとで黒人に投票権が与えられた。
しかし1877年以降南部の白人が州内において主導権を取り戻すと、激しい揺り戻しが起きた。
1890年代以降、南部各州では相次いで有色人種に対する隔離政策(ジム・クロウ法)が立法化され、奴隷こそいなくなったものの人種差別 (厳密には人種隔離)はふたたび強化された。
この人種差別状況が改善されるのは、1950年代の公民権運動を待たなければならなかった。
「奴隷解放宣言」により、南部の州で奴隷の扱いを受けていた黒人は解放された。
しかし、南部における黒人に対する差別や偏見はその後も潜在的に残り、KKKなどの活動を生み出す土壌となった。
南部では現在もなお、南北戦争は「北部による侵略戦争」(The War of Northern Aggression:アメリカにおける南北戦争の別名)であったと主張する者もいる。
南部の黒人差別は、後に南部から北部への、黒人の大移動が起こる原因となる。
イギリス政府による損害賠償
アメリカ合衆国は1869年、第3代パーマストン子爵内閣下の造船所で建造された船舶が南北戦争にあたり南軍私掠船(軍艦)として提供され北軍に損害を与えたとしてイギリスに損害賠償を請求した(アラバマ号事件(英語版))。
この交渉により1871年にワシントン条約(英語版)が締結され、スイスのジュネーブに国際仲裁裁判所が創設された。初めての国際仲裁裁判で裁判官5名が判決した最終的な賠償金1,550万ドルはワシントン条約の一部となり、イギリスは1872年にこれをアメリカに支払った。なお、イギリスが北軍の海上封鎖と違法な漁業権割譲により被った損害192万9819ドルはこのとき相殺された[20]。
この条約によりアメリカとイギリスの関係は改善した[21]。
南北戦争の意味
南北戦争については次のような対立軸が考えられる。
奴隷制を否定する北部 vs. 奴隷制を肯定する南部
保護貿易を求める北部 vs. 自由貿易を求める南部
このように、南北は体制や経済構造において別の国とも言えるほどに違う状況にあった。
この対立軸は、19世紀におけるイギリスを中心とした世界経済体制形成の過程で起きた一連の政変・戦争の一環である。
この戦争の直前には日本へ黒船を派遣しており、欧州から始まった産業革命の波は東西から東アジアに達していた。
農業国としてイギリスから独立して100年が経ち、工業経済化を進める北部と、原料供給地としての農業経済を継続したい南部が、一国としてまとまることが難しくなったために戦争が起きた。
南部は独立を求めた。その理由は奴隷制の維持である。
独立しなければ奴隷制廃止の州がどんどん増えて、奴隷制が消滅してしまう。
モンロー主義を掲げ、欧州による経済支配を忌避した合衆国は、強い主権国家を標榜しており、南部諸州の離脱は認めがたかった。
合衆国としての強い基盤を築くためには、独立を求める南部と対立することが避けられない情勢となった。サムター要塞の戦いをきっかけとして、先鋭化した対立環境は火を噴くこととなった。
結果的に北部が勝利し、合衆国は国民国家として発展を続けることになる。
終戦後にアラスカを買収し、北アメリカ大陸は世界的にも安定した情勢を保つことになり移民流入の増大も国力を伸張させた。
列強の一つとなった合衆国は、欧州に対する相対的な国力増大を背景に、中南米や東アジアにおいて国際的な活動を展開することとなった。
また、日本においてはこの戦争で使われた中古小銃類が大量に輸入され、戊辰戦争で兵器として使われている。
特にアメリカで発明されたガトリング砲は、南北戦争ではあまり使用されず、戊辰戦争ではじめて本格的に使われたと言われる。
他、アメリカは1858年に日米修好通商条約を結び、日本の「鎖国」を解除し、日本に大きな影響力を確保したかに見えた。
しかし、その後、アメリカは南北戦争および戦争の戦後処理に手を取られたため、戊辰戦争では倒幕側にイギリスが協力、幕府側にはフランスが協力する図式となり、アメリカは大きく関わらなかった。
南北戦争時の通貨、財政
通貨
北部と南部は戦費調達のために政府紙幣を発行した。
戦争中は金との兌換は停止され、北部ではグリーンバック (紙幣)(英語版)、南部はグレイバック (紙幣)(英語版)と呼ばれる紙幣を発行して、互いの勢力下で流通した。
さらに両政府は利子がついた政府紙幣も発行した。
南北戦争以前のアメリカは、個人や団体が自由に銀行を設立できる自由銀行時代(英語版)であり、複数の銀行券が乱立状態にあった。
しかし北部がインフレーション対策として1863年に全国通貨法を制定し、国債を担保として国法銀行券の発行が可能となった。
この法律によって北部政府のグリーンバックを国法銀行券に置き換えることが可能となり、通貨の統一が進んだ[注釈 7][22]。
南部は北部の3倍以上の額面の13.6億ドルを発行して紙幣が歳出累計額の65パーセントに達した。
グレイバックは増刷によってインフレーションが起き、グリーンバック以上に金に対する価値が下落した。
紙幣の価値は戦況の影響を大きく受け、ゲティスバーグの戦い以降はグレイバックの下落は加速した[23]。
税制
北部では、戦費の調達を安定化するために内国歳入法を成立して、アメリカで初めて所得税が導入された。
他に物品税(酒、タバコ、ヨット、ビリヤード等)や印紙税も導入した。
北部の税収は1862年の5000万ドルから1865年には5.6億ドルと10倍以上になったが、戦費はさらに多額であり、財政赤字は25.9億ドルとなった[22]。
南部では貿易による関税が大きな財源だったが、北部が1861年4月から海上封鎖を始めたために関税収入は急減した。
南部は1861年8月に綿花の輸出税を課し、財産や贅沢品にも戦時課税をしたが、税収は累計で1.4億ドルとなり歳出の7パーセント未満となった[23]。
公債
北部、南部ともに1861年から国債も発行した。
北部は20年物の6パーセント利付国債を5000万ドル、南部は20年物で2種類の担保がある8パーセント利付国債を合計1億5千万ドル発行した。
北部の国債には海外からの投資があり、戦争勃発時はドイツが投資した[注釈 8]。
イギリスとフランスからの投資は戦争の結果が定まってから始まり、1866年の3.5億ドルから1869年の10億ドルと急増した[24]。
南部政府の国債は、州債よりも金利が高くなり、州債はさらに市債よりも金利が高くなって平時と逆転した。
これは、敗戦によって国家や州が解体されるリスクが市よりも高いと人々に予想されたのが原因とされる。
南部は、ヨーロッパでコットン・ボンドと呼ばれる国債も発行してポンドで元利金の支払いを行なった。その理由は、イギリスを南部側として介入させるためだったとされる[25]。
南北戦争を題材とした作品
小説
『若草物語』(1868年、ルイーザ・メイ・オルコット)
『神秘の島』(1874年、ジュール・ヴェルヌ)
『赤い武功章』(1895年、スティーヴン・クレイン)
『風と共に去りぬ』(1936年、マーガレット・ミッチェル)
『アブサロム、アブサロム!』(1936年、ウィリアム・フォークナー)
映画
『國民の創生』(1915年、監督:D・W・グリフィス)
『キートンの大列車追跡』(1926年、監督:バスター・キートン、クライド・ブラックマン)
『風と共に去りぬ』(1939年、監督:ヴィクター・フレミング)
『勇者の赤いバッヂ』(1950年、監督:ジョン・ヒューストン)
『七人の脱走兵』(1954年、監督:ヒューゴ・フレゴネス)
『南部の反逆者』(1957年、監督:ラオール・ウォルシュ)
『ふくろうの河』(1962年、監督:ロベール・アンリコ)
『ダンディー少佐』(1964年、監督:サム・ペキンパー)
『2000人の狂人』(1964年、監督:ハーシェル・ゴードン・ルイス)
『続・夕陽のガンマン』(1966年、監督:セルジオ・レオーネ)
『白い肌の異常な夜』(1971年、監督:ドン・シーゲル))
『The Beguiled/ビガイルド 欲望のめざめ』(2017年、監督:ソフィア・コッポラ)※リメイク
『ロング・ライダーズ』(1979年、監督:ウォルター・ヒル)
『グローリー』(1989年、監督:エドワード・ズウィック)
『南北戦争前夜』(1992年、監督:グレゴリー・ホブリット)
『ゲティスバーグの戦い/南北戦争運命の3日間』(1993年、監督:ロナルド・F・マックスウェル)
『潜水艦CSSハンレー』(1999年、監督:ジョン・グレイ)
『楽園をください』(1999年、監督:アン・リー)
『コールド マウンテン』(2003年、監督:アンソニー・ミンゲラ)
『ゴッド&ジェネラル/伝説の猛将』(2003年、監督:ロナルド・F・マックスウェル)
『CSA ~南北戦争で南軍が勝ってたら?~』(原題:THEY WON CSA、2004年、監督:ケヴィン・ウィルモット )
『アメリカン・シビル・ウォー』(2006年、監督:ブライアン・ジェームズ・エゲン、ドン・マックスウェル)
『リンカーン』(2012年、監督:スティーヴン・スピルバーグ)
『ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男』(2016年、監督:ゲイリー・ロス)
テレビドラマ
『南北戦争物語 愛と自由への大地』(1985年、監督:リチャード・T・ヘフロン)
『ブルー&グレー』 (1982年11月 監督:ラリー ホワイト&ルー レイダ)リンカーン大統領役 グレゴリー・ペック
テレビアニメ
『キリン名曲ロマン劇場 金髪のジェニー』(1979年、監督:土屋啓之助)
『ハウス世界名作劇場 愛の若草物語』(1987年、監督:黒川文男)
ゲーム
『War of rights』(PC steam 2018年12月4日)
『コマンドマガジン日本版第29号「ゲティスバーグの戦い」』(国際通信社)
『コマンドマガジン日本版第59号「アンティータム会戦」』(国際通信社)
『コマンドマガジン日本版第83号「ブルー&グレー」』(国際通信社)収録ゲームは、CHICKAMAUGA(チカマウガの戦い), ANTIETAM(アンティータムの戦い), SHILOH(シャイローの戦い),CEMETARY HILL(セメタリー・ヒル)
『ハウス・デバイデッド (A House Divided)』(GDW社/1981年 ファランクスゲームズ)
『大戦略南北戦争 (The Civil War)』(Victory Games社/1983年 ホビージャパン社)
『ノース&サウス わくわく南北戦争』(ファミリーコンピュータ、1990年 コトブキシステム)
『The War for the Union』(1992年 Clash Of Arms社)
『For the People』(1998年 AvalonHill社)
『Civil War: Nation Divided』(Xbox 360/PS2、2008年11月4日、Activision社)
『Civilization 5』拡張パック第2弾「Brave New World」に、南北戦争シナリオマップが含まれている(2013年7月 Firaxis Games社)
音楽
『自由の喊声』
『ジョージア行進曲』
『ジョニーが凱旋するとき』
『リパブリック讃歌』
脚注
[脚注の使い方]
注釈
^ 米墨戦争の結果アメリカ合衆国はメキシコ割譲地と呼ばれる広大な領土を収得した。
^ リンカーンは新たに合衆国に加わる州に奴隷制を広めるのに反対だったため、南部は徐々に自由州が増えて議会でのバランスが崩れる事によって最終的に奴隷制が廃止される事を怖れたのだろう。
^ 合衆国の首都であるワシントンD.C.はちょうどバージニア州(連合国)とメリーランド州(合衆国)の間にあるため、メリーランド州が南部連合国に寝返った場合は首都が北部州から完全に切り離される危険性があった。
^ 北部に残った士官より南部に去った士官たちの方が、全体的に質が高かったと言われている。
^ 軍の名称としては南軍の北バージニア軍と酷似し混乱の元なので、この戦いの後に廃止されている。ただし、更に紛らわしいテネシー軍の呼称は、なぜか両軍で使われ続けた。なお、英語で書いた場合、北部のそれはArmy of the Tennesseeである。これはテネシー川にちなんでおり、テネシー川(流域)軍を意味する。南部のそれはArmy of Tennesseeである。こちらはテネシー州からきており、正確にはテネシー州(の)軍となる。
^ 上記のように南部で徴兵適齢期に達していた市民は約100万人だった。つまり南部は動員可能な兵力をほとんど全て招集したと言う事がわかる。
^ 北部の通貨制度は伊藤博文の現地調査によって日本に影響を与え、1872年に明治政府は国立銀行条例を制定した。
^ ドイツが北部国債に投資したのは、ドイツからの移民が北部を中心としていた点にあるとされる。
出典
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『歴史群像 No.26 南北戦争 THE CIVIL WARの全貌』、1996年、学研
関連項目
南北戦争における名誉勲章受章者の一覧
アメリカ合衆国の人種差別
オールドバルディー
リンカーン大統領暗殺事件
The Civil War (documentary) by Ken Burns, broadcast on PBS in 1990
麻雀のローカル役#南北戦争
オークランズ・ヒストリック・ハウス・ミュージアム
レフォルマ戦争
トーマス・ブレーク・グラバー - 南北戦争で余った武器を日本で売りさばいた。
フォーティエイターズ
奴隷制度に対するキリスト教徒の見解
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、南北戦争に関連するカテゴリがあります。
『南北戦争』 - コトバンク
表話編歴
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国関連の主要項目
表話編歴
南北戦争
原因
軍隊 – 戦線 – 作戦 – 戦い – 州
軍隊
北軍 (USA)
陸軍 海軍 税関監視艇局
南軍 (CSA)
陸軍 海軍 海兵隊
戦線
東部 西部 南部沿岸 ミシシッピ川流域 太平洋岸 北軍による海上封鎖
作戦
アナコンダ ニューメキシコ バレー方面 半島方面 北バージニア方面 メリーランド方面 ストーンズリバー ビックスバーグ方面 タラホーマ方面 ゲティスバーグ方面 モーガンの襲撃 ブリストー方面 ノックスビル方面 レッド川方面 オーバーランド方面 アトランタ方面 1864年のバレー方面 バミューダ・ハンドレッド方面 リッチモンド・ピータースバーグ方面 フランクリン・ナッシュビル方面 プライスの襲撃 海への進軍 カロライナ方面 アポマトックス方面
主な戦い
サムター要塞 第一次ブルラン ウィルソンズ・クリーク ドネルソン砦 ピーリッジ ハンプトン・ローズ シャイロー ニューオーリンズ コリンス セブンパインズ 七日間 第二次ブルラン アンティータム ペリービル フレデリックスバーグ ストーンズリバー チャンセラーズヴィル ゲティスバーグ ビックスバーグ チカマウガ チャタヌーガ 荒野 スポットシルバニア・コートハウス コールドハーバー アトランタ モービル湾 フランクリン ナッシュビル ウィルミントン ファイブフォークス
各州の状況
アーカンソー州 アイオワ州 アイダホ州 アラバマ州 アリゾナ州 イリノイ州 インディアナ州 ウィスコンシン州 ウェストバージニア州 オクラホマ州 オハイオ州 オレゴン州 カリフォルニア州 カンザス州 ケンタッキー州 コネチカット州 コロラド州 サウスカロライナ州 ジョージア州 テキサス州 テネシー州 デラウェア州 ニュージャージ州 ニューハンプシャー州 ニューメキシコ州 ニューヨーク州 ネバダ州 ネブラスカ州 ノースカロライナ州 バーモント州 バージニア州 フロリダ州 ペンシルベニア州 マサチューセッツ州 ミシガン州 ミシシッピ州 ミズーリ州 ミネソタ州 メーン州 メリーランド州 モンタナ州 ユタ州 ルイジアナ州 ロードアイランド州 ワシントンD.C.
主要人物
戦後
関連項目
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表話編歴
アメリカ合衆国 アメリカ合衆国が参加した戦争
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カテゴリ:
南北戦争エイブラハム・リンカーンジェファーソン・デイヴィス
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』
南北戦争(世界史の窓)
https://www.y-history.net/appendix/wh1203-046.html

『1861~65年、アメリカ合衆国が南北に分かれて戦った戦争。
主な争点は黒人奴隷制度の存続をめぐってであったが、産業構造の違い、連邦制の性格などをめぐる対立もあった。
4年にわたる激戦の結果、北軍が勝利し、南部の分離は実現せず、アメリカは統一国家として存続し、19世紀後半に工業化を軸とした大国として成長する基盤が築かれた。
1861年に起こったアメリカ合衆国(USA)とそこから分離したアメリカ連合国(CSA)と間の戦争。
アメリカを北部と南部に分断した内戦であるが形式的には二国間の戦争であった。
アメリカ史ではthe Civil War(内乱の意味)と言われる。
建国以来の南部と北部の地域的性格の違いに、黒人奴隷制問題が加わり、西漸運動で西部に新しい州が出来るに従い、自由州と奴隷州のいずれにするか、ぬきさしならぬ対立に至った。
4年にわたる戦闘の結果、1865年に北部が勝利したことによって、産業資本を中心とした近代国家としての統一は保たれ、また奴隷制廃止によって市民社会としての体裁が整えられた。
しかし、南北の対立、黒人差別問題はその後もアメリカ合衆国の抱える最大の問題として継承されることとなる。
アメリカの南北対立
アメリカ合衆国は、独立以来、その領土を西部に広げるとともに、次第に北部と南部の基幹産業のありかたの違いからくる主張の対立が次第に明確になっていった。アメリカの南北対立は、次のように要約することができる。
地域と人口 南部:11州 人口 白人550万人・黒人350万人の900万。北部(境界州含む):23州 人口2200万人。
産業 南部:奴隷制綿花プランテーションを中心とした農業地域。北部:商工業を中心に発展。
政治体制 南部:連邦政府の権限を制限し、州の自治権を拡大する反連邦派に近い。北部:連邦政府の権限を拡大し統一を強める連邦派にちかい。
貿易政策 南部:主産物の綿花の輸出を増やすため自由貿易を主張。北部:イギリス製工業製品と競争するため保護貿易を主張。
黒人奴隷制 南部:綿花プランテーションを維持するためには奴隷制は必要と主張。北部:奴隷制拡大に反対し、労働力・購買力として期待。
黒人奴隷制をめぐる対立
連邦議会においては、黒人奴隷制をめぐる対立が当初から激しかった。
特に領土が西部に拡大して新しい州が成立したとき、自由州にするか奴隷制にするかで対立が深まった。
1820年には妥協点としてミズーリ協定が成立、北緯36度30分以北には新たな奴隷州は作らないことが取り決められた。
しかし、アメリカ=メキシコ戦争によって獲得されたカリフォルニアが自由州となると、南部は対抗して逃亡奴隷法を制定させ、黒人の解放運動を厳しく取り締まろうとした。
そのころ『アンクル=トムの小屋』が発表されて、北部では奴隷制に批判が強まったが、南部を基盤とした民主党が運動して、1854年にカンザス・ネブラスカ法を成立させ、奴隷州か自由州かの選択を住民に任せると事とし、ミズーリ協定を廃棄に追いこんだ。
このことに反発した北部には共和党が結成され、両者の対立は次第に緊迫していった。
さらに最高裁のドレッド=スコット判決がミズーリ協定を憲法違反とする判決が出たことは奴隷制反対派の憤激を買い、ジョン=ブラウンの蜂起などが起こった。
リンカンの当選と南部の分離
1860年11月の大統領選挙で奴隷制度拡大反対を掲げる共和党のリンカンが当選すると、南部諸州の反発が強まり、12月に連邦離脱を決定した。
翌1861年、リンカンが大統領に就任、それに対抗する形で南部諸州はアメリカ連合国を成立させ、ジェファソン=デヴィスを大統領に選出した。
アメリカ連合国の首都は初めはアラバマ州モントゴメリーであったが、間もなくヴァージニア州のリッチモンドに遷された。
リンカンは、南部諸州の分離独立を認めず、対立は決定的となった。南部諸州は、綿花輸出先のイギリスと、ナポレオン3世のフランスの支援を期待していた。
南北戦争地図
南北戦争 州境は現在のもの。番号は左の文を参照。
南北戦争開戦時のでの対立
北部の連邦諸州(自由州) 1.メイン、2.ニューハンプシャー、3.ヴァーモント、4.マサチューセッツ、5.ロードアイランド、6.コネティカット、7.ニューヨーク、8.ニュージャージー、9.ペンシルヴェニア、10.オハイオ、11.ミシガン、12.インディアナ、13.イリノイ、14.ウィスコンシン、15.アイオワ、16.ミネソタ、17.カンサス、18.オレゴン、19.カリフォルニア
境界州 奴隷州であったが北部との結びつきが強く、中立策をとった、20.デラウェア、21.メリーランド、22.ケンタッキー、23.ミズーリ、24.ウェストヴァージニア(1861年にヴァージニアから分離、63年に州昇格)
南部のアメリカ連合国加盟(奴隷州) 25.ヴァージニア、26.ノースカロライナ、27.テネシー、28.アーカンソー、29.サウスカロライナ、30.ジョージア、31.フロリダ、32.アラバマ、33.ミシシッピー、34.ルイジアナ、35.テキサス
戦争の経過
1861年4月13日、南軍が北軍のサムター要塞を攻撃して戦争が始まる。
はじめは、騎馬の戦闘力に長ける南部人を組織し、リー将軍などの有能な指揮官がいたので南軍が軍事的に優勢であり、イギリス・フランスも南軍に肩入れし、北軍は押されていた。
戦争は合衆国からの分離をめざす南部諸州と、連邦国家としての統一を維持しようという北部リンカン政権の戦いとして始まったが、リンカン大統領にとって大義ある戦争目的に欠けるところがあり、イギリスやフランスが南部を支持する動きがあることが懸念材料であった。
戦争目的の転換 1862年9月、リンカンは奴隷解放宣言の予備宣言を出し、南部諸州に対して黒人奴隷を解放を迫った。
さらに、翌1863年1月1日に本宣言を出して、戦争の目的を黒人奴隷制度の廃止にあることを明確に示した。
これによってイギリス、フランスなどの国際世論は北部に理があるとして支持に転換した。
また、1862年にはホームステッド法を施行して西部の農民の支持を受けて、さらに北部工業地帯の経済力を生かして次第を挽回し、1863年7月のゲティスバーグの戦いで北軍が大勝、最後は北軍のグラント将軍が南軍のリー将軍を降服させ、1865年3月にアメリカ連合国の首都リッチモンドが陥落、1865年4月9日に南軍のリー将軍が降伏、一部の抵抗は6月は時まで続いたが戦争は終結した。
南北戦争の死者
南北戦争は1861年4月に始まり、65年4月まで4年間続き、その間、大きな戦闘が約50回、小さな戦闘は無数にあった。
両軍併せて61万8千人、北軍は36万人、南軍が25万8千人の戦死者であった。
62万に近い死者の数は、第一次世界大戦の約11万、第二次世界大戦の約32万と比べてあまりも大きい。
アメリカが体験した戦争の中でもずば抜けて大きな犠牲者の数であった。<猿谷要『物語アメリカ史』p.99>
参考 よみがえる南北戦争 National Geograhic 特集「南北戦争 時代を超える戦場の記憶」
戦争の意義
建国以来の南北の地域的対立、連邦政府に対する州の独立性の強さ、などの国家としての弱点から起こった戦争であったが、それが北部の勝利という形によって克服されたことによって、何よりもアメリカ合衆国の統一が維持強化されたこと、また国家の経済基盤が北部中心の工業力に移り、戦争前から始まっていたアメリカの産業革命がさらに進展することとなった。
最大の争点であった黒人奴隷制度は廃止されるという大きな前進がもたらされたが、現実には新たな黒人差別問題の出発点ともなった。
いずれにせよ、南北戦争はアメリカ合衆国という大国の成立、その工業化による繁栄と多人種国家としての苦悩の出発点であった。南北戦争のアメリカ合衆国が、19世紀末から20世紀にかけて世界に大きな存在となっていく。
Episode are から is へ
(引用)南北戦争は、アメリカ史上最大の犠牲をもたらした戦争であった。
また、中国での太平天国の乱(1851~64)と並んで、19世紀最大の戦争であった。・・・
アメリカが分裂の危機に陥ったこの戦争を乗り越えて、ようやく本格的な国民意識が芽生えた。この戦争以前は、アメリカ人も外国人も、この国を「The United States are ….」と複数形で呼んでいたという。
戦後は、are が単数形 is になるのである。
以後、1960年代に国家としてのアイデンティティーが大きく動揺するまで、アメリカ史は1世紀にわたってナショナリズムの時代を過ごした。いわば思春期である。
<村田晃嗣『アメリカ外交 希望と苦悩』2005 講談社現代新書 p.62-63>
南北戦争後のアメリカ
奴隷解放宣言に続き、1865年に議会で憲法修正第13条が成立して黒人奴隷制の廃止が確定した。
南北戦争で北軍が勝利した直後にリンカンは暗殺されたが、戦後は共和党に主導された議会は南部諸州に対し、連邦軍を駐留させ、南部諸州の「再建」の条件として奴隷制廃止の憲法修正の批准をせまり、それに従って次々と南部諸州の復帰が実現した。
その過程で、憲法修正第14条では黒人の市民権が承認され、さらに憲法修正第15条で黒人投票権が承認された。
戦後の黒人差別復活 アメリカ南部諸州は1870年までに憲法修正事項を承認して連合国に復帰し、統一は再現された。
しかし、1877年4月までに連邦軍の南部からの撤退し「再建期」がおわると、南部諸州では事実上黒人投票権は奪われ、さらに社会生活や学校教育などで隔離されるようになり、黒人差別が復活していった。
その背景には、解放された黒人が経済的に自立することは困難であったため、シェアクロッパー(分益小作人)という状態に置かれ、貧困が続いたことがあった。
こうして奴隷解放はただちに黒人が平等な諸権利を獲得したことにはならず、むしろ南部諸州では黒人に対する暴力が横行し、白人の差別主義者の中にはクー=クラックス=クランといわれた秘密結社を作り黒人を迫害する者も現れた。
南部ではさまざまな黒人取締法が制定され、黒人は身分上は自由ではあるが社会的には差別された存在となり、ジム=クロウと呼ばれるようになり、1896年には最高裁判所が黒人分離政策は合法であると判定されるに至る。
このような黒人差別が法的に解消されるのは、南北戦争から約百年後の1964年に公民権法、翌年の投票権法の成立などがするまで待たなければならなかった。
また、2008年はオバマが黒人として初めて大統領に選出されるまでに至ったが、現代もなお人種問題はアメリカ合衆国の深刻な病巣となっている。
南北戦争と世界
フランスのナポレオン3世が、南北戦争の勃発に乗じて、メキシコに出兵した。
メキシコではフアレスを中心とした自由主義者による抵抗が強く、ナポレオン3世の野望はくじかれ、それをきっかけに第三帝政は下り坂となり1870年の普仏戦争で崩壊する。
そのころイタリアではイタリア統一の動きが進み、1861年、ヴットリオ=エマヌエーレ2世を国王とするイタリア王国が成立した。同じ年、ロシアでは農奴解放令が出されている。
南北戦争はアジアにも影響を及ぼしている。
南北戦争でアメリカの綿花輸出がストップしたため、インドのイギリス向け綿花生産は急増した。
清では前年にアロー戦争が終わり、太平天国の乱が続くなかで西太后がクーデタで権力を握った。
1853年、日本の開国を主導したアメリカだったが、南北戦争のため、いったんアジアから後退し、代わってイギリスの日本への進出が強まる。
日本は開国後の輸出超過が物価高騰を招き、攘夷事件がさかんに起こって幕末の混乱が深刻化していった。
南部にとっての南北戦争
南北戦争は、全人口の比率で北部が南部の2.5培(軍役適齢者の自由人男性では北部が4.4培)、鉄道の総マイル数で北部が2.4培、産業生産高で10倍、武器製造で32倍など、北部が圧倒的に優位だった。
南部は綿花生産高で世界の4分の3近くを占めていたが、それは遠くヨーロッパに運ばれなければ価値を生み出さなかった。
それでも有利と考えられる利点がいくつかあった。軍事的には南部人は高い意識を持ち、常駐の軍人の数、軍事学校の数などで北部より多く、銃器の扱いは北部人より慣れていた。
(引用)しかし南北戦争で何よりも重要なポイントは、「南部軍は自分たちの土地のために、自分たちの土地を舞台にして、戦争を戦った」という点である。
南部の軍隊は戦場となる土地を熟知していた。
また、戦争遂行の意味自体が抽象的であった北部軍とくらべて、南部軍には「土地を守る」という確固とした目的があった。
南北戦争の目的が奴隷解放にあったという見方は、多くの歴史書で、現在ではまったくされなくなっている。<ジェームス・バーダマン『ふたつのアメリカ史』2003 東京書籍 p.115>
南北戦争で北部軍がとった焦土作戦は、南部に深い傷を残している。
特に北部軍のシャーマン将軍は徹底的に無慈悲かつ暴力的に南部に侵攻した。
シャーマン将軍のやり口は“海への進軍”と呼ばれたが、それは南部人を大西洋まで追い詰めることであり、戦争終結後も長く南部人の記憶に残った。
シャーマン将軍の部隊は1864年夏にアトランタを占拠し、11月15日には鉄道車庫や機械製作所など次々と襲い、戦火は住宅地域まで及び、待ちは一面焼き払われてしまった。
北部軍は大西洋岸サバナに向かう途中、「なんでも好きなだけ略奪を行ってもよい」という指令が出されていた。
ジョージア州の40から60マイルにわたる範囲の作物は焼き払われ、鉄道は破壊され、まともに立っている建造物はほとんどなくなるほど、すっかり荒廃した。<ジェームス・バーダマン『同上書』p.118>
このような北部軍の行為の記憶は、南部人が北部人をヤンキーとよんでいることに現れている。
もともとヤンキーという言葉はニューイングランドのピューリタンに対する呼び名であり、質素で、野心家で、欲深く、巧妙な人々のことを指しており、彼らの商業活動が世界中に知られたことで広がったが、南部人にとってはこうした価値はまったく尊敬できないばかりか、しみったれ、強欲、守銭奴といった言葉の代名詞となった。
<ジェームス・バーダマン『同上書』p.125>
→ ヤンキーについてはアメリカの南北対立を参照。
11章3節 用語リストへ
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書籍案内
猿谷要
『物語アメリカの歴史
超大国の行方』
1991 中公新書
青木冨貴子
『風と共に去りぬ』のアメリカ
―南部と人種問題―
1996 中公新書
ドリス・カーンズ・グッドウィン/平岡緑訳
『リンカーン』中
2013 中公文庫
文庫本で全三巻。中が南北戦争、下が奴隷解放を扱う。
貴堂嘉之
『南北戦争の時代』
シリーズアメリカ合衆国史②
2019 岩波新書
ジェームス・バーダマン
『ふたつのアメリカ史』
[南部人から見た真実のアメリカ]改訂版
2003 東京書籍
アメリカ南部ミシシッピ生まれの著者(早稲田大の米文学教授)が南部の視点からアメリカ史を解説。
Amazon Video 案内
『風と共に去りぬ』
出演V.リー/C.ゲーブル
監督V.フレミング
1936年に発表されたマーガレット=ミッチェルの小説を39年に映画化、アカデミー作品賞などを受賞し大当たりした。南北戦争で翻弄された南部プランターの娘スカーレット=オハラの物語。黒人の描き方など問題は多いが、第二次世界大戦前の1939年に作られたとは思えない、総天然色の素晴らしい画面を楽しむだけでもよいが、後半の戦後の南部社会が描かれているところに注目。
『グローリー』
出演:D.ワシントン/M.ブローデリック
監督:E.ズウィック
南部を脱走した黒人奴隷が志願して北軍の最初の黒人部隊を編成する。その苦難を描いて、1989年アカデミー賞3部門で入賞した作品。南北戦争を描いた映画としては異色。
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』
中共に戦争をあきらめさせる米軍の切り札は潜水艦なのだが、…。
https://st2019.site/?p=22069
『Bill Rivers 記者による2024-4-19記事「A Rockefeller of the Seas」。
※この記者は2017~19年にマティス国防長官のスピーチライターであった。
中共に戦争をあきらめさせる米軍の切り札は潜水艦なのだが、それが予算不足で建艦ペースが巻き上がらない。どうしたらよいか?
過去の伝統に戻り、億万長者のイニシアチブで無人潜航艇を先行納品してもらったらよい。
南北戦争中の1862にテネシー川を支配することによって南軍の西部諸邦を大いに脅威してやった北軍艦隊は、セントルイスの実業家 James B Eads がグラント将軍のために一肌脱いだもので、その甲鐵艦の最初の1隻は今でも国有財産ではなく、私有財産だという。
イーズは、4000名以上の職工を働かせてこの河川艦隊を建造させ、グラントに引渡した。
プロジェクトのスタートから100日以内に、その艦隊は進水している。その間の建造費用すべて、彼の個人資産で賄った。
もちろん、連邦政府との契約があった。しかし、代価が支払われたのはかなり後だった。
今日の話をすると、米海軍は2028年になるまで「年に2隻」のペースでは攻撃型原潜を取得できないそうである。これは海軍が2023-3に発表している。
台湾近海は浅海である。そこでは「無人半没艇」や「ロボット潜航艇」が活躍できる。それを、今日の米国の富豪たちは、自己資金で建造して米海軍に納品できるはず。後払いで米政府から補償を受ければいいのだ。そんな公平な仕組みを考えようではないか。
2023年に議会調査部は、米海軍は全世界で31隻の原潜を作戦させられるとしている。インド・太平洋域だけでもこれでは足りない。まして全世界用としては。
31隻というのは必要量の「五分の三」なのである。建造もメンテナンスも、ペースが、本来の必要水準まで追いついていないのだ。
『WSJ』紙が調べ上げた事実。『ヴァジニア』級の攻撃型原潜は現状では、年に「1.2隻」しか新造ができない。本来なら「2.0隻」を建造し続けないといけないのに。
だとすれば中共は2027に台湾侵攻すれば、その時点で米海軍は最も潜水艦戦力が弱体化しているので好機に乗ずることが可能だ。
台湾防衛に関して米海軍の最後の期待はいまや、急速量産が可能な無人の水中ロボットだけだ。しかしその政府予算も未だついていない。「レプリケーター」イニシアチブは、DoD内部の一政策提言であって、政府は公式にその予算はつけていない。もっか、議会にはたらきかけて、その将来予算を確保しようと道を模索している最中なのだ。
他方、米国内外の複数の中小メーカーは、今すぐにでも、AUV(自動潜航艇)を製造開始して米政府に納品することは可能なのである。足らないのは米政府の初期発注資金だけなのだ。
民間造船所が米海軍を助けたのは、南北戦争が最初ではない。1813のエリー湖の勝利に貢献したのは、ノアとアダムのブラウン兄弟が自己資金で建造したブリグ船であった。
「富+スピード=抑止」という方程式が、今の対支政治では、妥当するのである。
遅すぎる調達では、対支の抑止にまったくならないのだ。それがいくら高性能の兵器でも、調達が何年も先では、もう手遅れなのだ。中国による侵略を止められずに、既成事実をつくられてしまう。
米国は富んでいるのに予算がない。しかしここに予算の必要がある。だったら、われわれはもっとクリエイティヴになるべきだ。
ベゾス、マスク、ザッカーバーグらは、1862年のイーズのように行動すべきだ。彼らの資金力で、中小のベンチャー・メーカーを動員することは簡単だ。
パブリックとプライベートを臨機に結びつける枠組みを、発明するべきなのである。』
米国防情報局、オープンソース情報を片手間で扱うのではなく専門家が必要
https://grandfleet.info/us-related/u-s-defense-intelligence-agency-needs-experts-to-handle-open-source-information-not-just-one-person/
『2024.05.2
米国防情報局のグレッグ・リックマン副長官は「以前のオープンソース情報は諜報機関が収集した情報の上に振りかける塩だったが、その役割は逆転してしまった」と述べ、オープンソース情報の収集を専門に扱うプロが必要だと述べた。
参考:US intelligence needs ‘professional cadre’ for OSINT to replace ‘amateur’ IC analysts: Official
情報を素早く理解して届けることは『どちらが優れた爆弾を持っているか』と同じか、それ以上に重要なこと
米国防情報局のグレッグ・リックマン副長官は「オープンソース情報は諜報機関が収集した情報の上に振りかける塩だった。しかしオープンソース情報の爆発的な増大は情報収集と分析の在り方を大きく変え、パラダイムが逆転した現在ではメインコースに振りかける塩は諜報機関が収集した情報の方だ」
「我々は世の中に出回っている大量の情報を収集し、その意味を理解し、これを活用できるよう情報を加工することに苦戦しており、諜報機関の分析官が片手間でOSINTの真似事をやっている」「アマチュアではなくオープンソース情報の収集を専門に扱うプロが必要だ」と言及した。
出典:U.S. Air National Guard photo by Technical Sgt. Luke R Sturm
米国のインテリジェンスコミュニティ(United States Intelligence Community=IC)はオープンソースを扱う専門家の必要性を認識しており、2015年にIC19番目の独立組織としてNational Open Source-Intelligence Agency(NOSA)を設立、アヴリル・ヘインズ国家情報長官とCIAは今年3月「IC OSINT戦略」を初めて発表。
ヘインズ長官はIC OSINT戦略について「OSINTを専門分野として確立し、情報分析の在り方を変革し、米国の優秀なイノベーターや志を同じくする海外のパートナーとの新しい協力の第一歩だ」「新しいOSINT分野の人材確保と技術開発は重要項目の1つだ」「国防情報局は企業全体に対する訓練と防御戦術に重点を置いているが、ICはオープンソース情報の扱い方について大きな変革を必要としている」と述べ、情報分野における危機感についても「過去20年間と異なる環境が自身の眠りを妨げている」と表現している。
出典:U.S. Secretary of Defense/CC BY 2.0
ヘインズ長官は「情報の爆発的な増大が起こる中、ウクライナ危機、中東危機、中国の問題が大きくなっている。この3つが同時に発生しても情報を上手く活用できなければ我々は何もできないだろう。物事の意味を素早く理解し、これを意思決定者や兵士に手に届けることは『どちらが優れた爆弾を持っているか』と同じか、それ以上に重要なことだ」と述べているのが興味深い。
オープンソース情報が増大したため相対的に「諜報機関が収集した情報」の有効性が低下しただけで「オープンソース情報さえあればいい」「諜報機関が収集した情報は価値がなくなった」という意味ではないが、オープンソースから有益な情報を引き出すためには専門家が必要で「国家として取り組む必要がある」というのは新鮮な視点だ。
関連記事:新領域からの攻撃阻止に失敗したスウェーデン、NATO加盟が遠く
関連記事:ロシアの偽情報や干渉に蝕まれる民主主義、スウェーデンは対心理機関を設置
※アイキャッチ画像の出典:U.S. Air Force photo by Wesley Farnsworth
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投稿者: 航空万能論GF管理人 米国関連 コメント: 13 』
『 TKT
2024年 5月 02日
返信 引用
まあ今さらそんなこと言っても遅いよ、特にウクライナ兵にとっては遅すぎる、完全に手遅れというべきでしょう。
日本陸軍の諜報の神様といわれたスウェーデン日本大使館の武官であった小野寺真少将のテレビドラマが昔、NHKで、ムーミンの翻訳者である奥さんの役を薬師丸ひろ子が出演してやっていましたが、小野寺真少将が重視していたのもむしろオープンソースの情報でした。
小野寺真少将は、中立国のスウェーデンの首都であるストックホルムでドイツ軍とソ連軍の情報を比較して、ドイツ軍が劣勢、不利であるという報告を日本陸軍の参謀本部に送り続けていましたが、親ドイツ派の作戦参謀の多い参謀本部では、小野寺真少将の報告はずっと無視されていました。
当時でも中立国のスウェーデンやスイス、スペインなどでは独ソ両軍の大本営発表、スタフカや総統大本営とは違う情報、記事が入ったわけです。
特にドイツと貿易を続けているスウェーデンでは、ドイツが不利になると輸入品が値上がりしたり、物不足になったりしました。経済情報も一種の貴重な軍事情報なわけです。
特に長期戦や消耗戦になればそうです。日本はソ連とは中立条約を結んでおり、ソ連に対する情報収集には日本軍の方がむしろ有利だったわけです。ドイツのゲーレンの方がむしろおかしい、極端に楽観的な分析をしていたわけです。
今の米軍、NATO軍はゲーレンの過ちを再び繰り返しているように見えますが、今、見習った方がいいのは小野寺真少将のような人ではないでしょうか?
16 』
『 れんちゃ
2024年 5月 03日
返信 引用
かつてあるレベル以上の詳細情報というものはとても貴重なものでした。
しかし、現在の我々は高度なネットワークと情報収集にアクセス出来る特殊な状況にいるとされています。
例えば、このサイト一つにしても、かつては専門機関が取り扱う様なデータを軽く用いる事が可能となっており、多くのニュースや情報機関の分析報告や民間や私的な検証分析報告等をすべて並べて比較検討するという事が可能となっています。
当然ながら、秘匿情報や現地の詳細な情勢等については情報機関の方が多くを得られる訳ですが…ここまでの条件が揃った場合、より重要なのは「情報を比較検討したりその情報から何を読み出せるのか」という能力が重要になってきます。
つまり、時によっては民間の名もなき者のつぶやきが物事の深層により近付いている事があるという事なのでしょう。
また、公的なデータであれ詳細不明なデータであれ、その中には誤報や誤解、意図的な虚報、それらに振り回されたものなども紛れ込んできます。
特定のグループが今まで思いつかなかった面白い分析であった場合も、そこから情報ソースの再確認や、どこかから受けた影響等を差し引いて再分析する専門家が必要となるという訳なのでしょうね。
コロンブスの卵とはよく言ったもので、常にプロが発見で先んじられるとは限らないという事です。むしろ、後になって重要な見落としに気付くなんていうのは過去の事例からもよくある話ですので…
例えば、どこかにウクライナに供与弾薬が眠っているなんていう発想もプロに任せたままだったならば当面は出てこなかったでしょうね。彼らは専門性が高い上に、その範囲が狭すぎたり、ルールに縛られ過ぎていて実は気付いていても言えなかったりする事もあります。
1 』
フランス政府、「11歳未満は携帯禁止、インスタは15歳を過ぎてもダメ」検討
https://news.yahoo.co.jp/articles/4ed288a095612244693674c1d4933a7812169a5d
『5/2(木) 11:44配信
フランス政府が3歳未満の動画視聴と13歳未満のスマートフォン使用自体を禁止する方針を検討している。幼児・子供の視力と集中力など様々な面に否定的な影響を与えるという理由からだ。
先月30日(現地時間)、ガーディアンによると、フランスのエリゼ宮殿は、子どものスマートフォン使用に関する研究を行った神経学者・精神科医など専門家10人は、子どもの映像視聴とスマートフォン使用を厳しく制限しようという報告書を最近提出した。
報告書は3歳未満の乳幼児の場合、テレビを含む映像視聴の全面禁止、3~6歳は教育的な映像を大人がいる時に限って視聴するよう制限しなければならないと強調した。
さらに、携帯電話の使用は11歳から、携帯電話を通じたインターネット接続は13歳からするように勧告した。
SNSの使用は15歳から許容する一方で、「倫理的なSNS」に限定しなければならないと強調した。ティックトック・インスタグラム・スナップチャットは倫理的なSNSから除外されると専門家たちは主張した。
また産婦人科病棟で赤ちゃんが親と絆を形成できるように携帯電話、テレビの使用を最大限自制し、保育園などでもコンピューター、テレビを禁止しなければならないと勧告した。
特に、報告書は「両親が絶えず自分の携帯電話を確認するのは、子供と会話し、一緒に食事し、遊ぶことに集中する能力を妨害する行為」と批判した。
また「大人たちが幼い子供にご飯を与えながらスマートフォンを見たり、テレビをずっとつけておいたりするのは情緒的に害になる」と伝えた。
専門家らは「子どもたちを(IT機器の)画面に閉じ込めて統制し、収益をあげる戦略から保護しなければならない」と強調した。
報告書の作成に参加した精神科医のアミン・ベニャミナ氏は「画面が子供の視力・新陳代謝・知能・集中力・認知能力に否定的な影響を与える」と指摘した。
ただ、今回の報告書を受けたフランス政府がどのような方針を打ち出すかは不確実だとガーディアンは報じた。エマニュエル・マクロン大統領は1月、子供たちの映像視聴とスマートフォンの使用に「禁止や制限があることもあり得る」と言及したことがある。
これに先立って、先月、英国でも子供のスマートフォン使用が行き過ぎているという懸念が提起され、当局が16歳未満に販売を禁止する方針を検討中だという報道が出た。
英国の通信・メディア規制機関であるオフコムは5~7歳の子供24%がスマートフォンを持っており、76%がタブレットPCを使用すると発表した。この年齢帯の65%が音声・映像通話のためにオンラインに接続し、50%がリアルタイムストリーミング映像を見ていることが分かった。
一方、英紙テレグラフは、内閣が16歳未満に対するスマートフォンの販売を禁止する方針を検討中だと消息筋の話として報じた。市民団体パーレントカインドが3月、保護者2500人を調査した結果、58%が「16歳未満のスマートフォン禁止案」に賛成すると答えた。
しかし、現在、英国の未成年者が使用する携帯電話は、ほとんど親が提供したものである可能性が大きいため、スマートフォン販売禁止案は実効性が落ちるとBBCは指摘した。
BBCは「英国の両親の相当数は子供の位置を知るために、連絡をするために携帯電話を買ってあげるが、同年代の友達がSNSを使う環境でこれを防ぐことは難しい」と伝えた。このため、子供のスマートフォンの使用をめぐって親のジレンマが大きくなっているとメディアは付け加えた。』
中国、南米に「一帯一路」働きかけ 訪中の3外相と会談
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM011WE0R00C24A5000000/
『2024年5月1日 19:16
【北京=田島如生、ブラジリア=水口二季】中国が南米諸国との外交を活発にしている。アルゼンチン、ペルー、ボリビアの外相が相次ぎ訪中し、王毅(ワン・イー)共産党政治局員兼外相と会談した。中国が主導する広域経済圏構想「一帯一路」の推進を掲げて南米の取り込みを図る。
中国外務省によると王氏は4月30日、北京でアルゼンチンのディアナ・モンディノ外相と会談した。アルゼンチンで2023年12月に右派ミレイ政権…
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『アルゼンチンで2023年12月に右派ミレイ政権が発足後、初めての外相訪中となった。
王氏は「一帯一路」の推進へ航空・宇宙や海洋の分野で協力し、貿易を発展させるべきだと説いた。「アルゼンチンの経済・金融の安定に向けた努力を支持する。力の及ぶ範囲内で支援し続けたい」と表明した。
中国が南米などに接近する背景には、米国との対立長期化をにらみ貿易や投資の相手国を分散させるべきだとの判断がある。バイデン米政権は中国製電気自動車(EV)などの過剰生産を問題視し、対中関税の引き上げも視野に入れる。
アルゼンチンはミレイ大統領が23年の大統領選で「共産主義者とは手を組まない」と述べ、中国と距離を置く考えを打ち出した。大統領に就任後、前政権が決めたブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカで構成するBRICSへの加盟を撤回した。
とはいえ経済面で中国への依存度が高く、対中関係を重視せざるを得ない。23年の輸入額は2割が中国からで、隣国ブラジルに次ぐ規模だった。輸出先でも中国が3位となった。
モンディノ氏は会談で「中国との友好を追求する政策は変わらない」と語った。「一帯一路」の枠組みのもと、貿易・投資や金融、観光、宇宙、海洋を巡る連携に意欲を示した。中国企業によるアルゼンチンへの投資拡大も呼びかけた。
アルゼンチン外務省によると、モンディノ氏は今回の訪中で中国の国家発展改革委員会や商務省の幹部とも経済協力を協議した。中国通信機器大手の華為技術(ファーウェイ)や中国機械設備工程のトップらと会い、アルゼンチンへの投資を促した。
「中国とアルゼンチンは未来をみすえ、相互支援とウィンウィンの協力を堅持しなければならない」。王氏はモンディノ氏との会談後の記者会見で強調した。南米諸国と組み「平等で秩序ある多極的な世界」をめざすと訴えた。
王氏は28日にボリビアのソーサ外相、29日にペルーのゴンザレス外相ともそれぞれ北京で会談した。いずれも「一帯一路」などに基づくインフラ整備やデジタル経済の推進に関する連携を申し合わせた。』