イラクでテロ、13人死亡 ISが警察標的
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021090500246&g=int
『【カイロ時事】イラク北部キルクーク郊外で5日、警察の検問所が襲撃され、AFP通信によると警官13人が死亡した。犯行声明は出ていないが、当局者は過激派組織「イスラム国」(IS)による仕業との見方を示した。』
イラクでテロ、13人死亡 ISが警察標的
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021090500246&g=int
『【カイロ時事】イラク北部キルクーク郊外で5日、警察の検問所が襲撃され、AFP通信によると警官13人が死亡した。犯行声明は出ていないが、当局者は過激派組織「イスラム国」(IS)による仕業との見方を示した。』
[FT]アフガン撤退、EU軍事力をめぐる議論が再燃
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB0611R0W1A900C2000000/
欧州連合(EU)は、独自の防衛力を築き「ハードパワーの本質」を養う必要性を米軍のアフガニスタン撤退から「身をもって学んだ」。EUの防衛産業問題担当委員のティエリー・ブルトン氏はこう語る。

プルトン氏はフィナンシャル・タイムズ(FT)紙に、EU加盟国による共同防衛は「もはや選択肢ではない」と述べ、EUは国境などあらゆる場所で「完全に自立した」軍事行動を取れる能力を備えなくてはならないと指摘した。
米軍のアフガン撤退で、欧州ではどこまで米国政府に頼れるのかという懸念が再燃している。EUは外交でも力を発揮できるのか。経済力に見合うだけの外交・軍事的負担をすべきなのでは、という議論をもたらした。
共同防衛という概念に関して、EUは歩調を合わせられずにいる長い歴史があり、外交官やアナリストの一部は今回も同様の状況になるのではないかと疑問を投げかける。米軍の元欧州総司令官ベン・ホッジス氏はFTに対し、北大西洋条約機構(NATO)と同じような組織を作っても欧州の安全性が高まるわけではなく、資源と人員を浪費するだけだとEUをけん制した。
EU本部は最近、国際危機に即時介入できる体制づくりに議論の焦点を当てている。だがEUは防衛資源を備蓄するというこれまでの試みを活用できていない。
EUが1999年に合意した共同防衛政策には、加盟国が60日以内に5万~6万人の部隊を国外に共同派遣できる体制を整えることが盛り込まれた。07年には世界中の紛争地にいつでも派遣できる1500人の戦闘部隊を2つ構築した。それらが出動したことは一度もない。
ブレトン氏は、EUはNATOを別組織に置き換えるのではなく、存在感が薄い地域でNATOを補強する方策を議論していると強調する。米国のアフガン撤退は、事前協議を受けなかった一部の欧州諸国とって「極めて難しい」決定だったとも話した。
ブレトン氏は「同盟国が中国、おそらくアジアをより重視していくことは理解している」と話す。「アフガニスタンで起きたことも含め、どのみち防衛に関して世界の結束を強めなければならないことを身をもって学んだ」
こうした議論は各国の首都で熱を帯びつつある。フランスのマクロン大統領はNATOの戦略や手段の見直しを主張してきた。
マクロン氏は先月31日、オランダのルッテ首相とエリゼ宮殿で会談した。両国はEUがNATOとの緊密な連携を維持しながらも、経済・軍事で「戦略的自立」を築く必要があると強調した。
共同声明では、両国は「そのために必要な資源を再配分し、欧州が粘り強さを発揮し、安全保障や防衛でもっと大きな責任を負う能力があると証明しなければならないと認識している」と明言した。
EUレベルでは、加盟国は軍艦や戦闘機も動員できる総勢5千人の初動部隊の新設を提案している。だがEU外相に当たるフォンテレス外交安全保障上級代表は、EU内には懐疑論が広がっていると語る。
「カブール空港を守るために配備された米兵の数は約5千人。(サハラ砂漠南部のサヘル地域)で展開している対テロの作戦「バルカン」に派遣したフランス軍の数は5千~6千人。これはさまざまな場面で状況を変えられるだけの人員規模なのだが」と、EU委員会の上級幹部はこぼす。
EU各国の外相らはスロベニアとの非公式協議でこのテーマについて話し合ったとみられる。22年3月と設定した防衛戦略の合意期限に先立ち、10月の外交政策委員会でも議題になる見込みだ。
前出のEU委員会の上級幹部は、初動部隊案は加盟国によるNATO参加では必ずしもカバーされない新たな紛争地に、EUが関わっていくことを保証するためのものだと説明する。「サイバー、宇宙、海洋といった世界の共用地へのアクセスを確保できるかどうかの問題だ。ここでEUがより大きな役割を果たせるようにする必要がある」
欧州諸国は、中東で発生しうる脅威に対抗する場合、NATOへの依存度を高めれば、NATO加盟國であるトルコの利益がEU加盟国のそれと食い違う状況になることを懸念している。
現在はシンクタンクの欧州政策分析センター(CEPA)に所属するホッジス氏は、欧州が防衛能力を強化することには賛成だが、EUが「『何をするために?』と問いたださなければならないような欧州軍の創設は、馬の前に荷馬車を置くようなものだ」とくぎを刺した。
ポーランドやバルト三国などのEU加盟国は、欧州圏内での米軍やNATOの役割に疑問が生じるようなあらゆる提案に引き続き消極的だ。エストニア外交政策研究所所長のクリスティ・ライク氏は「エストニア政府からみて、欧州の集団防衛を強化する枠組みとしてNATOが今後も中核であるのは間違いない。アフガンで米国、そしてNATO全体として失敗したとしても、それが覆ることはない」と話す。
NATO自体もこれに同調する。ストルテンベルグ事務総長はFTに対し、欧州の防衛力を担保する上で「大西洋をまたぐ絆」の重要性はこれからも変わらないと語った。
EUを離脱した英国の役割も重要だ。1万人規模の強力な英仏合同遠征軍が設置されたことでも示された。
ドイツ国際安全保障研究所の防衛アナリスト、クラウディア・メジャー氏は、アフガン撤退がEU加盟国がそれぞれの防衛能力を真剣に考える転換点になるかどうかには疑問符をつける。
独仏で選挙が近づき域内の2大国が「内向き」に傾くなか、メジャー氏はこうした議論が下火になると予想する。「動けるようにするため、欧州が主権と能力を強める必要があることは誰もが同意する。だが言うだけではだめだ」
Sam Fleming and Henry Foy and Victor Mallet
(2021年9月3日付 英フィナンシャル・タイムズ紙 https://www.ft.com/)
(c) The Financial Times Limited 2021. All Rights Reserved. The Nikkei Inc. is solely responsible for providing this translated content and The Financial Times Limited does not accept any liability for the accuracy or quality of the translation.英フィナンシャル・タイムズ(FT)と日経新聞の記者が、アジアのテクノロジー業界の「いま」を読み解くニュースレター「#techAsia」の日本語版をお届けします。配信は原則、毎週金曜。登録はこちら。
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関連リンク
反タリバン勢力との和平促す アフガンでの対立拡大懸念―パキスタン
https://www.jiji.com/jc/article?k=2021090500228&g=int

『【ニューデリー時事】アフガニスタンのイスラム主義組織タリバンに影響力を持つ隣国パキスタンの軍情報機関、3軍統合情報局(ISI)のハミード長官は4、5両日、アフガンの首都カブールでタリバン幹部と会談した。軍当局筋によれば、ハミード氏はタリバンと反対勢力の武力衝突拡大に伴うアフガンの不安定化に懸念を表明し、和平締結を促した。
「対テロ戦」努力むなしく 過激派伸長のリスク再燃―米同時テロ20年
タリバンが唯一制圧できていない北東部パンジシール州では、崩壊した民主政権で第1副大統領だったサレー氏や、旧タリバン政権との戦闘で名をはせた故マスード司令官の息子アフマド氏らが武装闘争を続けている。8月下旬にいったん停戦が成立したが、その後もタリバンの攻撃はやんでいない。
パキスタン軍当局筋は、時事通信の取材に対し「タリバンが(反対勢力の意向をくんだ)包括的政府を早急に樹立しない限り、抵抗はアフガンの他地域に拡大する可能性があるとの情報を得ている」と明かした。実際に東部クナール州などで武装蜂起の動きが見られるという。これに対し、タリバン内部では、停戦を訴える派閥と戦闘継続を主張する派閥の対立があるとされる。
米軍制服組トップのミリー統合参謀本部議長は4日、米FOXテレビのインタビューで、アフガン情勢について「内戦に発展しそうな状況にある」との見解を示した。各地で戦闘が生じる事態になった場合、混乱に乗じて過激派組織「イスラム国」(IS)系武装勢力がテロを起こす恐れが強まる。パキスタンにとっても、対アフガン国境地帯での治安悪化は大きな懸念材料だ。』
すべては米国の「お芝居」か。アフガン首都陥落と自爆テロに残る“疑念”
https://www.mag2.com/p/news/510197?utm_medium=email&utm_source=mag_W000000001_mon&utm_campaign=mag_9999_0906&trflg=1

『しかし、このISIS-Kなどによる動きが、仮にタリバンとのconcerted action(申し合わせたうえでの共同の行動シナリオ)だったらどうでしょうか?
あくまでも推測に過ぎませんが、どうも腑に落ちないことが多くあるのです。
チェックポイントにいたタリバンの兵士もテロの犠牲になったと言われていますが、真実は謎に包まれています。
かりにConcerted actionであったとすれば、恐怖をあおることで、「タリバンはテロとの戦いを行う」と掲げることで、外交的なコミットを続けると宣言する米・欧との関係構築の機会を探ることが出来、また凍結されている支援の再開にもつなげられる可能性が出てきます。
新たな支配者・後ろ盾の座を狙う中ロにとっては、現在の混乱の中で最も避けたいのは、自国へのテロの伝播と国内情勢の不安定化であり、それを防ぐためにタリバンによるアフガニスタンへの支援の幅もサイズも増える可能性が出てくるかもしれません。
もしそうだったら、誰が(どの国が)この指揮棒を振っているのかなあと、国際政治の怖さを垣間見るのですが…。
タリバンによるカブール陥落は、アメリカ軍の撤退の確定と、アメリカ政府の特使とタリバンのリーダーシップとの協議(@カタール)、そしてカブール陥落後、「タリバンとの対話の準備がある」と繰り返す米国政府という言質によって、決定的になったと考えられます。
メディア上では「アメリカ外交の失敗」と大きな非難を受け、アメリカの同盟国からは「アメリカは本当に有事に守ってくれるのか」という疑心暗鬼を生ずる事態になっていますが、もしこれが、批判はされても、アメリカの負担を大幅に軽減し、厭戦ムードにも応え、そのうえで中央アジアにおける影響力を残すためのお芝居だったとしたら…。
カブール陥落から2週間という短い期間で公言通りに米軍を完全撤退させましたが、その完遂のために、バイデン政権がトランプ政権の遺産ともいえる【タリバンとの対話チャンネル】をフルに活用し、タリバンと米国政府双方にとって結果的にwin-winの結果を導き出すための演出だったのだとしたら…。
そしてISIS-Kによって実行されたと言われているカブール国際空港での自爆テロでさえも、COVID-19のパンデミックで各国の関心が「テロに対する戦い」から離れていると思われる中、テロリズム・テロリストという共通の敵を設定することで、国際協調体制の再構築を測ろうとしているのなら…。
これらはあくまでも私の推論に過ぎないかもしれませんが、先行きが見えない国際情勢を分析にする際に、考えておく必要がある重要な問いなのかもしれなません。
とはいえ、ここでもピュアな被害者は、やはりアフガニスタンの一般市民です。彼らに平和で希望に満ちた毎日が、一日も早く戻ることを心から祈っています。』
「独中蜜月」の虚実 習体制へ深めた疑心
風見鶏 欧州総局編集委員 赤川省吾
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGR010ER0R00C21A9000000/


『ドイツ海軍のフリゲート艦バイエルンは8月、インド洋に入った。さっそく海上自衛隊と共同訓練し、在日ドイツ大使館が「対日連携を強化」とツイートした。
同艦はグアムなどを経て11月に日本に至る。「この航海は我々がインド太平洋地域に真剣に向き合おうとしているとのメッセージ」。ベルリンの執務室に電話をかけるとジルバーホルン国防政務次官は力説した。
先んじて軍艦を日本に送った英仏と異なり、ドイツはインド太平洋に領土はない。それでも遠いアジアに海軍を展開するのはメルケル首相らが中国への懸念を深めているからだ。
対中政策の潮目は7~8年前に変わっていた。
2014年、南シナ海で中国と対立する東南アジアにメルケル氏は接近し、各国首脳との会談を重ねた。外交・安全保障政策では中国と距離を置く――。その一歩を踏み出したのだ。
次にドイツ外務省が組織再編に動き、日韓豪などの担当部署を新設。中国以外のアジア太平洋に目配りする体制を整えた。
さらに閣僚の外遊で中国優先をやめた。18年、与党重鎮アルトマイヤー経済相はアジアの初訪問先に日本とインドネシアを選んだ。
ドイツは重要閣僚の外遊で中国優先をやめた(2018年の訪日中、ドイツ企業関係者らと打ち合わせをするアルトマイヤー経済相=左から2人目)
約1週間のアジア歴訪に同行取材中、政府専用機の大臣執務室で食事しながら2人きりで話し込む機会があった。印象的だったのは「日本は価値観をともにする戦略的なパートナー」と何度も繰り返したこと。中国からの招待には、あえて応じなかった、という。
なぜドイツは段階的に中国離れを図ったのか。
中国と深く交流するというドイツの対中政策の指針は胡錦濤(フー・ジンタオ)国家主席と温家宝首相の胡・温体制の時期に確立した。メルケル首相が政策決定した、とされる。
その指針が12年、習近平(シー・ジンピン)体制発足で揺らぐ。「対話で民主化支援」などの欧州流は通じない。「一帯一路」で欧州を切り崩すなど覇権主義がちらついた。懐疑心を強めたドイツは軌道修正したものの、急ハンドルは避けた。
「ドイツ外交は継続性を重んじる。政策を急転換するわけにはいかなかった」。独紙の元北京特派員で、今は企業経営者向け中国情報誌チャイナ・テーブル編集長というドイツ屈指の中国通、フィン・マイアーククック氏は指摘する。
日本は最近まで「ドイツと中国は蜜月」とみていた。なぜ見誤ったのか。
まずドイツの中国離れがゆっくりで、変化に気づかなかった。つぎに日独のすきま風で目が曇った。安倍前政権の発足当初、ドイツは財政政策や歴史認識で立場の異なる日本を公然と批判。その姿勢が「親中」との印象を強めた。
しかも外交対話にこだわる欧州流はデカップリング(分断)をいとわない米国流と温度差がある。「国際社会では時に対立もやむを得ない。ただし非常に丁寧に、できれば外交的に共通の利益を探るべきだ」と社会民主党のシャーピング元党首は取材に語った。
アフガニスタンの駐留失敗で欧州は自信を喪失した。しばらく対中批判を手控えるかもしれない。それでも誤解は禁物だ。対中政策は警戒モードで「輸出に響くから何もしない」という事なかれ主義ではない。
26日はドイツ議会選。次期政権は人権重視だろう。先取りするように財界は中国などの強権国家を非難する声明を発した。「いまの時代は何も言わないことがリスク」との声が独企業から漏れる。翻って日本は強権国家にどう向き合うのか。決断の時が迫る。(欧州総局編集委員 赤川省吾)』
中国、米に圧力緩和要求 気候変動巡る協議終了
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM037PE0T00C21A9000000/

『【北京=羽田野主、ワシントン=永沢毅】米中高官による気候変動を巡る協議が3日までに終わった。中国の天津を訪れたケリー米大統領特使は中国側に気候対策の強化を求めた。中国側は共産党幹部が入れ替わり応対し、米国の対中圧力の緩和が先行すべきだと主張する異例の展開となった。
バイデン米政権で気候変動を担当するケリー氏は8月31日に天津を訪問、9月3日まで滞在した。中国は共産党序列7位の韓正(ハン・ジョン)副首相や中国外交担当トップの楊潔篪(ヤン・ジエチー)中国共産党政治局員、王毅(ワン・イー)国務委員兼外相がそれぞれオンラインで協議に臨んだ。
米国務省報道官によると、ケリー氏は二酸化炭素(CO2)排出削減に向けた「追加措置」を要請した。ロイター通信によると、ケリー氏は一連の協議後、電話で記者団に、気候危機は政治的な問題ではないとして、中国に温暖化対策で「最高の目標」を追求するよう促したと説明した。対話の継続で合意したことも明らかにした。
米紙ウォール・ストリート・ジャーナルによると、ケリー氏は中国の排出削減を加速して早ければ50年に排出量の実質ゼロを達成すべきだと訴えた。
中国国営中央テレビによると、韓氏は「気候変動への対応は中米協力の重要な一部で、信頼を前提とすべきだ」と話した。米国が先に関係改善に動くように対応を求めた。楊氏も「米国の内政干渉で中米関係はひどい困難にあっている」と批判した。王氏は関係悪化の原因は米国にあると主張した。』
アフガンで地位固めたい中国 J・スタブリディス氏
元NATO欧州連合軍最高司令官
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD3156M0R30C21A8000000/

『英国とロシアは19世紀、アフガニスタンを巡り、「グレート・ゲーム」として知られる覇権争いを繰り広げた。地政学的な競争は、アフガンの戦略的な位置付けと、同国が現在のインドやパキスタンに影響を及ぼす可能性を意識していた。英国も旧ソ連もやがて、「帝国の墓場」と呼ばれるアフガンからの撤収を余儀なくされた。
現在、米国が訓練したアフガン政府軍のあっけない崩壊やイスラム主義組織タリバンの勝利、米側の撤収を受けアフガンは2001年に戻ったかのようだ。当時は、(女性の就労などの基本的人権を侵害するような)厳格なイスラム主義者が統治していた。何かが変わり、新たなグレート・ゲームが始まるのだろうか。
James Stavridis 元米海軍大将。2009~13年北大西洋条約機構(NATO)欧州連合軍最高司令官。カーライル・グループ所属。
新しいタリバンが自国民により優しくなることはないだろうが、自国を国際的なテロ活動の基地とすることを認めれば、約20年に及んだ荒野での生活が待つことを学んだと思われる。ジハード(聖戦)を世界に広めるより、アフガンの支配に集中する公算が大きい。
だが支配は容易ではない。北部には軍閥が残り、長期にわたりタリバンに恭順の意を示すことはないだろう。タジク人やハザラ人といった主要民族は、タリバンを(多数派の)パシュトゥン人の狂信者とみなして反発している。アフガンには外敵を追放した後、内部で抗争を繰り広げた歴史がある。
米国の撤収後、他国はアフガンでどのような役割を果たすのだろうか。地域の枠組みは、突然の出来事に衝撃を受けている。中国やパキスタン、インド、ロシア、イランはアフガンと利害関係があり、今後の展開を左右しそうだ。
中国が、タリバンの主要な国際パートナーになることを目指しているのは明らかだ。中国は、アフガンの基本的人権には関心がないだろう。半導体から電気自動車(EV)の電池までのサプライチェーン(供給網)確立のため、レアアース(希土類)などの資源について地位を固めたいようだ。
パキスタンはいままでも、タリバンを支援してきた。パキスタンを脅かす反政府勢力を抑制し、新たなアフガンにインドが足掛かりを築くのを防ぐためでもあった。インドとしてはアフガンとの関係を構築することで、パキスタンに圧力をかける狙いがある。中国と密接な関係にあるパキスタンは、連携して鉱物資源を開発し、インドがアフガンで役割を果たすのを阻止しようとするだろう。
ロシアは何よりも安定を望んでいるようにみえる。イスラム過激派のテロが北側に輸出される傾向に、歯止めをかけるためだ。イランはかつてタリバンと対立関係にあった。タリバンはイスラム教スンニ派で、イランはシーア派の国だ。ただ、イランはおおむね、米軍がアフガンの基地から追放されたことを歓迎している。
米国はアフガン撤収後も、衛星による監視活動や人的ネットワークなどによる情報収集を続けるとみられる。タリバンと国際テロ組織アルカイダなどの深いつながりを示す証拠がみつかれば、米国はグレート・ゲームに再び参加するかどうか、どのように参加するかを検討することになるだろう。北大西洋条約機構(NATO)などは、米国の周辺で活動することになりそうだ。
当面、アフガンの支配的な勢力を指導するのは近隣の国々、特に中国になるとみられる。グレート・ゲームは続くが、主な参加者は周辺国になると予想される。
関連英文はNikkei Asiaサイト(https://s.nikkei.com/38eGUQm)に
過剰な関与避けられるか
中国は順調に超大国への道を歩んでいるように見えるが、インペリアル・オーバーストレッチ(帝国的な過剰関与)と呼ばれる現象が落とし穴になりかねない。過去にも膨張を続ける大国が国外の事象に関わりすぎ、負担に耐えきれずに衰退してきた。中国も国内経済の成長鈍化を前に広域経済圏構想「一帯一路」を打ち出したが、もろ刃の剣だ。
外部に経済圏を拡大するほど外部の権益を守るコストも増大するからだ。中国はアフガンを一帯一路に組み込もうと多くの投資をしてきた。権益を守るためアフガンに軍隊まで派遣する事態は想定しにくいが、追加で多額の資金を求められる状況はあり得る。行き過ぎた関与を回避し、アフガンを勢力圏に取り込めるのか。中国にとってアフガンは一帯一路の試金石となる。(編集委員 村山宏)』
星条旗新聞の2021-9-3記事「Nearly 2,700 Afghan evacuees leave naval bases in Spain and Italy」
https://st2019.site/?p=17401
『スペインとイタリアにあった米海軍基地には2700人近い脱出アフガン人が一時滞留していたが、すべて米本土へ転送された。
1900人はシチリア島のシゴネラ米海軍航空基地にいた。
750人は、スペインのロタ軍港にいた。
全員、ワシントンの「ダレス国際空港」か、フィラデルフィア国際空港へ運ばれた。
シゴネラには最大4000人を収容できる準備をしていた。ロタは3000人という。
過去2週間、在欧の4箇所の米軍基地に3万8000人近いアフガン人がやってきた。その半分はすでに米本土へ転送された。』
Mark Magnier 記者による2021-9-2記事「9/11, 20 years later: did the tragedy give US-China relations a respite?」
https://st2019.site/?p=17401
『9-11のあと、米国は中共に国連決議を妨害されないようにするため、中共ににじりよった。
中共は、ウイグル人の活動グループを「テロ組織」認定するように米国に迫り、米国はそれを呑んだ。EUと国連もその米国に倣ったのである。
さらに当時のブッシュ政権は、当時の陳水扁中華民国総統による、台湾独立運動も抑制せんとした。北京の言うなりになって。』











『出自
ドバイにあるサウディ・ビンラディン・グループのオフィス
ウサーマ・ビン・ラーディンの父のムハンマド・ビン・ラーディンは、イエメンのハドラマウト地方の貧困家庭の出身で、第一次世界大戦前に家族と共に、イエメンからサウジアラビアのジッダに移住し、1930年に荷夫から身を興し、ジッダで建設業を起業した。ファイサル国王の目にとまり王室御用達の建設業者となり事業は急成長を遂げ財閥「サウディ・ビンラディン・グループ」を柱とするビン・ラーディン一族を形成した[注 1]。一族の巨額な財産分与が様々な方面に流出した結果、そのいくつかがイスラム教原理主義テロ組織の資金源になっているとされる。
ムハンマド・ビン・ラーディンは22回の結婚をし54人の子供を儲けることになったが、妻子の大半は40代を過ぎて事業が拡大してからの子供たちである。また、最初の妻以外は短期間で離婚している。ウサーマ・ビン・ラーディンはムハンマドの17番目の子であった。ビン・ラーディン一族は50億ドル以上の資本を所有しており、その内、2億5000万ドル以上がウサーマに分配されていた[14][注 2]。』
『出生から青年期まで
ウサーマ・ビン・ラーディンは、サウジアラビアのリヤドで、建設業で財を成したイエメン出身の父ムハンマド・ビン・ラーディンと、その10番目の妻でシリア出身の母アリア・ガーネム(後のハミーダ・アル=アッタス(英語版))の間に生まれた[15][16]。生年月日は、ビン・ラーディン本人が1998年のインタビューの中で1957年3月10日であると語っている[16][17]。
父ムハンマドはビン・ラーディンが生まれた直後にガーネムと離婚し、彼女はその後ムハンマド・アル=アッタスと再婚して別の4人の子を儲けたため、幼少期のビン・ラーディンは実父と離れて3人の異父弟・1人の異父妹と共に生活することになった[16]。ビン・ラーディンは敬虔なスンナ派ムスリムとして育てられ[18]、1968年から1976年にかけてはジッダの世俗的なエリート校で教育を受けた[16][19]。その後、ジッダのキング・アブドゥルアズィーズ大学に進学して経済学と経営学を学んだ[20]。ビン・ラーディンが1979年に土木工学の学位を取得したという報告や[21]、1981年に行政学の学位を取得したという報告が存在する一方で[22]、学位を取得する前に大学をやめたとする報告も存在する[23]。
大学時代、ビン・ラーディンの関心は宗教に向かい、「クルアーンおよびジハードの解釈」と慈善活動に精力的に参加したほか[24]、詩作にも興味を示し[25]、バーナード・モントゴメリーやシャルル・ド・ゴールの著作を好んで読んだと言われている[26]。思想の面では、ムスリム同胞団に加入し、サイイド・クトゥブの思想に引き付けられた。さらに大学で教鞭をとっていたムスリム同胞団のアブドゥッラー・アッザームの教えを受け、師と仰ぐようになった(のちにビン・ラーディンは、自身に影響を与えた人物として、クトゥブとアッザームの名を挙げている)。ビン・ラーディンは厳格なサラフィー主義から、音楽や映画などに対して不寛容であった。その一方で、競走馬に大きな関心を寄せていたほか、サッカーを好んでプレーし、英国のクラブであるアーセナルFCのファンでもあった[26]。』
『アルカーイダの結成
詳細は「アルカーイダ」を参照
1988年、ビン・ラーディンはMAKから独立した新組織「アルカーイダ」を立ち上げた。ローレンス・ライトの調査によれば、アルカーイダは1988年8月11日に、ビン・ラーディン、アッザーム、およびジハード団の幹部数名による合意によって結成され、その目的はビン・ラーディンの資金とジハード団の専門知識を組み合わせることで、ソ連軍がアフガニスタンから撤退した後も世界の別の地域でジハードを継続することにあった[37]。
1989年2月にソ連軍のアフガニスタンからの撤退が完了した後、ビン・ラーディンはサウジアラビアに帰国した[38]。サウジアラビアでビン・ラーディンとその軍団は、ソ連という「強大な超大国」を倒した英雄として扱われた[30][39]。帰国した後のビンラーディンは一族の建設会社(サウディ・ビンラディン・グループ)を手伝ったが、一方でサウジアラビアの体制に反抗する姿勢を示したため、当局から警戒された[30][38]。』
『湾岸戦争と米軍駐留・サウジアラビアからの追放(1990–2000年)
1990年8月2日、サッダーム・フセインのイラク軍がクウェートに侵攻し、サウジアラビアとの国境に到達した。サウジアラビアがイラクからの脅威に直面する中、ビン=ラーディンはファハド国王およびスルターン国防相と会談を行い、国内に異教徒のアメリカ軍を駐留させる代わりに、自らのムジャーヒディーン軍団によってサウジアラビアを防衛する計画を提案した[40]。しかし、サウジアラビア王家はビン・ラーディンによる提案を拒絶し、最終的にはアメリカ軍のサウジアラビア駐留を認めた[41]。1990年8月7日、アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュはアメリカ軍のサウジアラビア派遣を発表し、同軍は8月8日からサウジアラビアへの展開を開始した[42]。
ビン・ラーディンは、非イスラム教徒がアラビア半島に常駐することは預言者ムハンマドによって禁じられていると解釈しており[43]、メッカ・マディーナという2つの聖地を抱えるサウジアラビアに異教徒のアメリカ軍が進出したことに憤慨した[44]。それと同時に、駐留を許したサウジアラビア王家(サウード家)を「背教者」として糾弾した[43]。湾岸戦争が引き金となったアメリカ軍のサウジアラビア駐留は、ビン・ラーディンを急速に反米活動に傾倒させていった。
1991年、サウジアラビア王家はアメリカ軍との同盟関係への批判を繰り返すビン・ラーディンを国外追放に処した[38][44]。サウジアラビアを追われたビンラーディンとその一派は、当初はアフガニスタンで亡命生活を送ったが、1992年までにスーダンに移動した[38][44]。アフガニスタンに滞在中の1992年3月から4月にかけ、ビン・ラーディンは激化するアフガニスタン内戦の仲裁を試み、グルブッディーン・ヘクマティヤールに対して他のムジャーヒディーン指導者と協力するよう呼びかけていた[45]。』
※ 以下、省略。