※ 『2015.02.21』に発表されたものだ…。
※ おそらく、「クリミア侵攻」後のシンポジウムでの発表資料と思われる…。
※ 十分、今現在の「クリミア事態」の参考にもなるものだ…。
新世界秩序への動き--
ウクライナ危機で見え始めた新たな世界秩序
麗澤大学シンポジウム(2015.02.21) 石郷岡 建
https://www.reitaku-u.ac.jp/research/images/2015/03/84b23bb838f9498d64daa56afce7db62.pdf











































※ 『2015.02.21』に発表されたものだ…。
※ おそらく、「クリミア侵攻」後のシンポジウムでの発表資料と思われる…。
※ 十分、今現在の「クリミア事態」の参考にもなるものだ…。
新世界秩序への動き--
ウクライナ危機で見え始めた新たな世界秩序
麗澤大学シンポジウム(2015.02.21) 石郷岡 建
https://www.reitaku-u.ac.jp/research/images/2015/03/84b23bb838f9498d64daa56afce7db62.pdf













































マウリヤ朝
http://www.y-history.net/appendix/wh0201-042.html
クシャーナ朝
http://www.y-history.net/appendix/wh0201-051.html
グプタ朝
http://www.y-history.net/appendix/wh0201-066.html
ヴァルダナ朝
http://www.y-history.net/appendix/wh0201-080.html
デリースルタン朝
http://www.y-history.net/appendix/wh0503-005.html
ムガル帝国
http://www.y-history.net/appendix/wh0804-004.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%82%AC%E3%83%AB%E5%B8%9D%E5%9B%BD











米英の核兵器開発と対ソ連/ロシア戦争(4/4) | 《櫻井ジャーナル》 – 楽天ブログ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202207260001/
『 冷戦は独ソ戦の延長
日本が降伏してからもチャーチルのソ連を敵視する姿勢は変化せず、彼は1946年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行う。「冷戦」の幕開けだ。東側と西側の間に鉄のカーテンが降りているという表現はドイツが降伏して間もない段階ですでに使われていた。
それだけでなく、FBIの文書によると、チャーチルは1947年にアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている。(Daniel Bates, “Winston Churchill’s ‘bid to nuke Russia’ to win Cold War – uncovered in secret FBI files,” Daily Mail, 8 November 2014)
ウィンストン・チャーチル自身はイギリスの貴族を父に、またアメリカの富豪を母に持つ人物。父親のランドルフはジョン・スペンサー-チャーチル公爵の三男で、素行の評判は良くない。カネ使いが荒く、親しくしていたネイサン・ロスチャイルド男爵から多額のカネを借りていたという。ランドルフは1895年に死亡しているが、死因は梅毒。ネイサンは19世紀のイギリスを支配していたグループの中心的な存在で、セシル・ローズのスポンサーだ。
第2次世界大戦後、ウィンストン・チャーチルは「冷戦」の開幕を宣言した。チャーチルの背後には巨大金融資本がいるのだが、その金融資本はナチスを資金面から支えていた。情報分野でイギリスとアメリカが連携しているのは必然だ。
アメリカの金融街からも多額の資金がナチスへ流れている。そうした役割を果たしていた金融機関のひとつがブラウン・ブラザーズ・ハリマン。その幹部だったジョージ・ハーバート・ウォーカーはユニオン・バンキング(UBC)なる会社を設立、プレスコット・ブッシュやW・アベレル・ハリマンに経営を任せた。UBCの実権はハインリッヒ・ティッセンが持っているとも言われているが、この人物の兄、フリッツ・ティッセンはドイツの鉄鋼産業に君臨、ナチスの後ろ盾になっていた実業家である。
プレスコット・ブッシュはウォーカーの娘と結婚、アレン・ダレスとはウォール街仲間だった。プレスコットの息子、ジョージ・H・W・ブッシュをアレン・ダレスは幼い頃から知っていた可能性が高い。
冷戦は米英支配層の対ソ連戦争の延長線上にあり、イギリス支配層の対ソ戦は19世紀に始まる。その後、さまざまな謀略が展開されたが、その謀略にまんまと引っかかったひとりがミハイル・ゴルバチョフである。
1985年にソ連の最高指導者になったゴルバチョフはスターリンと対立していたニコライ・ブハーリンを「別の選択肢」として研究していたグループに属し、西側の「民主主義」を信じていた。1990年から91年にかけてゴルバチョフは冷戦の終結というアイデアに魅了され、米英金融資本の罠にかかってしまう。彼は冷戦の本質を理解していなかったとも言えるだろう。その時、ゴルバチョフの周辺にはジョージ・H・W・ブッシュを含むCIA人脈に買収されたKGBの中枢グループに取り囲まれていた。(了)』
米英の核兵器開発と対ソ連/ロシア戦争(3/4) | 《櫻井ジャーナル》 – 楽天ブログ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202207260000/
『 米英金融資本とナチス
ドイツの敗北が決定的になっていた1943年1月、ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相はフランスのシャルル・ど・ゴールらとカサブランカで会談、米英両政府の高官たちは同年5月にワシントンDCでも会談する。「無条件降伏」という話が出てきたのはカサブランカにおける会議においてだが、これはドイツの降伏を遅らせることが目的だったとする見方もある。
そして7月に実行されたのがシチリア島上陸作戦。その際、レジスタンスの主力だったコミュニストを抑え込むため、アメリカ軍はマフィアの協力を得ている。ノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月だ。その間、アレン・ダレスたちはナチスの高官と接触して善後策を協議しはじめている。いわゆる「サンライズ作戦」だ。
その後、アメリカの軍や情報機関はナチスの幹部や協力者を逃走させたり、保護したり、雇用する。ラットライン、ブラッドストーン作戦、ペーパークリップ作戦などという暗号名が付けられている。戦時情報機関のOSSやその後継機関であるCIAはルーズベルト政権をクーデターで倒そうとした巨大金融資本と関係が深い。その象徴的な存在がウォール街の大物弁護士だったウィリアム・ドノバンやアレン・ダレスである。
アメリカとイギリスの特殊部隊、つまりイギリスのSOEとアメリカのSO(OSSの一部門)はレジスタンス対策として「ジェドバラ」を1944年に組織、この組織が大戦後、アメリカの特殊部隊やCIAにつながった。
つまり、1943年以降、アメリカとイギリスはソ連を仮想敵国として動き始めている。特にチャーチルの反ソ連感情が強く、1945年4月にルーズベルト大統領が急死、5月にドイツが降伏すると、ソ連への奇襲攻撃を目論んでいる。JPS(合同作戦本部)に対して作戦を立案を命令、5月22日には「アンシンカブル作戦」が提出された。
その作戦によると、攻撃を始めるのは1945年7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦は発動しなかった理由は。参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)
日本では8月15日に国民へ敗北を伝える天皇の声明が放送された。「玉音放送」とか「終戦勅語」と呼ばれているものだが、その半月後の1945年8月30日、グルーブス中将に対してローリス・ノースタッド少将はソ連の中枢15都市と主要25都市への核攻撃に関する文書を提出した。9月15日付けの文書ではソ連の主要66地域を核攻撃で消滅させるには204発の原爆が必要だと推計している。そのうえで、ソ連を破壊するためにアメリカが保有すべき原爆数は446発、最低でも123発だという数字を出した。(Lauris Norstad, “Memorandum For Major General L. R. Groves,” 15 September 1945)
1949年に出されたJCS(統合参謀本部)の研究報告にはソ連の70都市へ133発の原爆を落とすという記載がある。1952年11月にアメリカは初の水爆実験を成功させ、1954年にSAC(戦略空軍総司令部)は600から750発の核爆弾をソ連に投下、118都市に住む住民の80%、つまり約60000万人を殺すという計画を立てる。
1957年に作成された「ドロップショット作戦」は実戦を想定していたようだが、それでは300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊することになっていた。沖縄の軍事基地化はこの作戦と無縁でないだろう。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
アメリカが必要なICBMを準備でき、しかもソ連が準備できていないタイミングで先制核攻撃をすると考えた好戦派の中には統合参謀本部議長だったライマン・レムニッツァーや空軍参謀長だったカーティス・ルメイが含まれる。彼らは1963年後半に先制攻撃する計画を立てたが、邪魔者がいた。大統領だったジョン・F・ケネディだ。ケネディは1963年11月22日に暗殺された。(続く)』
米英の核兵器開発と対ソ連/ロシア戦争(2/4) | 《櫻井ジャーナル》 – 楽天ブログ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202207250001/
『ソ連を攻撃するための原爆
ヤルタ会談の後、連合国側の状況は大きく変化していた。フランクリン・ルーズベルト米大統領が4月12日に急死、副大統領でシオニストを後ろ盾とするハリー・トルーマンが昇格したのだ。ルーズベルトの急死でニューディール派の影響力は急速に低下、ウォール街の巨大資本がホワイトハウスを奪還することになる。
ソ連軍による中国東北部の占領はトルーマン政権にとって容認できないことだった。彼は国民党に中国を占領させようとしていたからだ。ソ連と東ヨーロッパ情勢に関する交渉と絡め、中国からの撤兵をアメリカはソ連に認めさせたという見方がある。そうした交渉で原爆投下は影響を及ぼしただろう。
大戦中、ドイツや日本も核兵器の研究開発を進めていたが、連合国側で最も積極的だったのはイギリス。1940年2月にバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づいてプロジェクトが始まり、MAUD委員会なるものが設立された。
この委員会のマーク・オリファントがアメリカへ派遣されてアーネスト・ローレンスと会ったのは1941年8月。そしてアメリカの学者も原子爆弾の可能性に興味を持つようになったと言われている。この年の10月にルーズベルト大統領は原子爆弾の開発を許可、イギリスとの共同開発が始まった。日本軍が真珠湾を奇襲攻撃する2カ月前のことだ。
1943年には核兵器用のウランとプルトニウムを製造するため、テネシー州オーク・リッジに4施設が建設され、そのひとつはオーク・リッジ国立研究所へと発展した。ワシントン州に建設されたハンフォード・サイトではプルトニウムを製造するため、1944年9月にB原子炉が作られている。
こうして「マンハッタン計画」が始まったが、その計画を統括していた陸軍のレスニー・グルーブス少将(当時)は1944年、同計画に参加していたポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、その計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)
マンハッタン計画が本格化した頃、すでにドイツ軍の主力がスターリングラードでソ連軍に降伏、独ソ戦の勝敗は決していた。ソ連への軍事侵攻はアドルフ・ヒトラーの命令で全戦力の4分の3を投入、その部隊が敗北したのだ。残りの4分の1が西ヨーロッパで戦っていた相手はコミュニストを主体とするレジスタンスだけだ。(続く)』
米英の核兵器開発と対ソ連/ロシア戦争(1/4) | 《櫻井ジャーナル》 – 楽天ブログ
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202207230001/
『トリニティでの核爆発実験
今から77年前の7月24日、ハリー・トルーマンはアメリカ大統領として原子爆弾の投下を許可した。その8日前、つまり7月16日にニューメキシコ州のトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が行われ、成功したことを受けてのことだ。その翌日からポツダム会談が始まる。
当初の実験予定日は7月18日と21日の間だったのだが、トルーマンの意向で会談の前日に行ったという。核兵器の開発を目的とする「マンハッタン計画」はアメリカとイギリスが共同で行っていたもので、トルーマンが意識した相手はソ連ということになる。
アメリカ、イギリス、中国は7月26日に「ポツダム宣言」を発表、ウラン型原爆「リトル・ボーイ」が8月6日に広島へ投下され、その3日後に長崎へプルトニウム型「ファット・マン」が落とされた。この投下日はソ連の参戦を意識してのものだったのだろう。
ソ連の参戦は1945年2月、クリミアのヤルタ近くで開かれたアメリカ、イギリス、ソ連の首脳による話し合いで決まっていた。ドイツが降伏し、ヨーロッパでの戦争が終結してから2カ月から3カ月後にソ連が日本に宣戦布告する条件を取り決めている。
では、ドイツはいつ降伏したのか?
ドイツ軍最高司令部の作戦部長だったアルフレート・ヨードルは連合軍のドワイト・D・アイゼンハワー司令官と交渉、5月7日にフランス北東部にあるランスで無条件降伏および停戦文書に署名。その文書は中央ヨーロッパ時間の5月8日午後11時01分に発効することになったのだが、ドイツ軍を敗北させたソ連軍の影は薄く、スターリンは怒る。
この文書へイワン・ススロパロフが署名しているが、署名について赤軍総司令部が承認していない上、この将校には降伏文書に署名する権限が与えられてなかった。つまりススロパロフをソ連の代表とは見なせない。そこでスターリンはベルリンでソ連軍の最高司令官が立ち会って行われるべきだと主張、5月8日の深夜(モスクワ時間では5月9日)に署名されている。
ソ連は日本に対して8月8日に宣戦、日本が占領していた中国東北部や千島列島などへ攻め込んだ。ギリギリのところで約束を守ったということになるだろう。ソ連が参戦することを知っていたアメリカはその前に広島へ原爆を日本へ投下したわけだ。
なお、ヤルタで結ばれた協定の中には、現在のサハリン南部や近くにある全ての島々はソ連へ返還し、千島列島はソ連へ引き渡すことも含まれてる。(続く)』
【人事部長の教養100冊】「歴史入門」F.ブローデル
https://jinjibuchou.com/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%85%A5%E9%96%80
※ この人のことは、知らんかった…。
※ 地政学関係の文献、読んでて、出てきたんで、ちょっと調べた…。
※ 地政学の学者というよりも、「歴史学者」として有名な人らしい…。




『「歴史入門」
フェルナン・ブローデル
目次
基本情報
どんな本?
著者が伝えたいこと
著者
こんな人におすすめ
書評
要約・あらすじ
学びのポイント
基本情報
初版 1995年(日本)
※原書は1985年発行「資本主義のダイナミズム」
出版社 中央公論新社等
難易度 ★★☆☆☆
オススメ度★★★☆☆
ページ数 193ページ
所要時間 2時間00分
どんな本?
歴史を史実の羅列ではなく、3つの時間軸(地理的(長期)、社会的(中期)、個人的(短期))と3つの階層(日常生活、市場経済、資本主義)で捉え、歴史学に変革をもたらしたブローデルの入門書。
著者が伝えたいこと
歴史は、瞬く間に過ぎていく個人史及び出来事史という「短期」、ゆっくりとリズムを刻む社会史である「中期」、最も深層において、ほとんど動くことのない自然や環境、構造という「長期」があり、特に「長期」を重視すべきだ。
例えば産業革命も、それ単体で見るのではなく、その下層部にある日常の経済生活や市場経済、周辺部にある奴隷制や農奴制等の在り方など、産業革命に至る長期的流れと合わせて把握すべきである。
著者
フェルナン・ブローデル(1902 ? 1985)
ブローデル
フランスの「アナール学派*」を代表する歴史学者。 20世紀の最も重要な歴史学者の1人に数えられる。代表作は『物質文明・経済・資本主義』。
パリ大学卒業後,9年間アルジェリアのリセで教え,地中海地方に興味をいだいた。その後ブラジルのサンパウロ大学を経て,パリの実務高等研究学校の教授となる。
第2次世界大戦ではドイツ軍の捕虜となり,約5年間ドイツの収容所で暮した。その間,記憶から書上げた博士論文をもとにして著わした『フェリペ2世時代の地中海と地中海社会』 が代表作となった。 84年にはアカデミー・フランセーズの会員に選ばれている。
アナール学派・・・政治、外交、戦争中心だったそれまでの歴史学を批判し、気候や地形、農業、技術、交通、通信、社会グループ、精神構造なども含めた経済学・統計学・人類学・言語学等を横断する社会史の視点を尊重した一派。アナールは「年報」の意で、彼らが発刊した雑誌名から名付けられた。
こんな人におすすめ
歴史を俯瞰的に眺めてみたい人、アナール学派に関心のある人
書評
日本語版のタイトルは『歴史入門』だが、原題は『資本主義のダイナミズム』。歴史学というより、社会学や経済史に近い。
それほど難しいことは書いていないのでスラスラ読める。しかし、ブローデルの自著である『物質文明・経済・資本主義』を講演用に要約した内容となっているので、「ああ、資本主義の歴史を時系列でではなくて、構造的に把握しようとしているのだな」と大括りで理解できれば十分だろう。
歴史入門 (F・ブローデル)
Amazonで見る
楽天市場で見る
Yahoo!ショッピングで見る
要約・あらすじ
第一章 物質生活と経済生活の再考
■歴史の根底には、人間の無意識の習慣・行動がある。例えばヨーロッパは地理的に小麦が適しており、家畜と結びついて肉食となって体格を増した。アメリカ大陸はトウモロコシを選んで余剰労働力で公共工事を促進した。
■ヨーロッパの市場経済は、14世紀のペスト流行からの回復期以降に発展した。15世紀には各地に市ができ、16世紀にはアントワープ等の国際的大市ができ、17~18世紀にはアムステルダムやロンドンが国際金融センターとして機能するようになる。
■ヨーロッパの経済は、取引所や信用形式といった道具と制度によって、他地域より発展していた。日本やマレー半島、イスラム世界もほぼ同様だが、自給自足的経済を続けた中国は大きく出遅れていた。
第2章 市場経済と資本主義
■人々が村で自給自足的に生活している段階を「物質生活(=日常生活)」と呼ぶなら、次の段階はそれらを交換することにより発生する「市場経済」である。
■小売業や卸売業といった市場経済の基礎部分は、取引が透明で、競争原理が働く。しかしその上に乗る資本の動きは、船主であれ保険業者であれ銀行家であれ、少数の者に握られていて、一般市民からは見えにくい。
■封建体制では、土地という富の源泉が次世代にも相続される、安定した秩序を保っていた。そして資本主義でも、商取引・高利貸し・遠隔地交易・行政上の役職等を通じ、何世代かにわたってゆっくりと領主階層の富がブルジョアに移転していった。
■しかし、この傾向が見られるのはヨーロッパと日本くらいである。例えば中国は国家が土地を所有して徴税し、経済を監視・統制していた。商人と官吏との腐敗はあったが、大きな力を持つには至らなかった。イスラム世界でも、土地は世襲ではなく、領主が死ねば、その土地と全財産はスルタンなり皇帝なりに戻された。
■つまり、資本主義の発展と繁栄には、社会秩序の安定性と、国家による経済への中立性という社会的条件が必要なのである。
第3章 世界時間
■歴史的に世界には「経済圏」が存在してきた。ローマ時代のローマとアレクサンドリア、14世紀のヴェネチアとジェノヴァ、18世紀のアムステルダムとロンドン、欧州外ではロシア、トルコ帝国、インド、マレー半島、中国などである。
■これらの「経済圏」が資本主義の母体となった。経済圏は常に経済力の強いところへ移動していく。ヨーロッパで経済圏が地中海から北海へ移動したのは、宗教の差でも、商才の差でもなく、単に北海近辺の商人が自分たちの粗悪品にヴェネチアの商標を付けて売りさばくような争いの結果に過ぎない。
■同時に、そのような経済圏の周辺には、奴隷制、農奴制といった前近代的な制度も併存していた。奴隷的労働が無ければ、資本主義は成り立たない。奴隷制→農奴制→資本主義と順番に出現してきたわけではない。
■イギリスで産業革命が起きたのは偶然ではない。まずその底辺には「日常生活」があった。技術革新の多くは職人が生んだものであるし、産業家も多くは下層階級だった。次に力強い生産と交換のプロセス、つまり市場経済があった。加えて、市場の拡大や労働力の確保等の条件が揃っていたのである。
学びのポイント
地理的時間軸(長期)
ヨーロッパが選択した小麦は、定期的に大地を休ませることを必要とし、家畜の飼育も必要とした。この結果ヨーロッパでは常に農業と家畜が結びつき、肉食の傾向を帯びることになった。
一方、米の栽培には動物の入り込む余地はなく、米作地域では肉食は少ない。トウモロコシは生産性が高く、アメリカ大陸の農民への強制労働を可能にした。(要約)
ブローデルが、歴史を見る上で必要とした3つの時間軸の一つ「地理的時間軸」に関する例示。直接的にではないにせよ、地域に拠る主食の違いが、その後の歴史に大きな影響を与えている可能性があるという内容。これは普通、歴史の教科書には書かれない。
最近ではアメリカの地理学者であり医学者ジャレド・ダイヤモンドが、著書『銃・病原菌・鉄』でこの点に着目し、民族や集団による権力の集中度合いや技術の差は、固有の遺伝的優位性によるものではなく、主に環境の差異に起因していると主張した。
マックス・ヴェーバーへの批判
歴史的に、キリスト教会は利付き貸出について反対の姿勢を貫いてきた。
マックス・ヴェーバーは、こうした資本主義に対する疑念は宗教改革によって初めて解消され、それが北ヨーロッパ諸国における資本主義の躍進に繋がったとするが、それはいささか短絡的であり、誤っている。
北ヨーロッパ諸国はただ、それ以前に、長きにわたって反映し続けてきた地中海沿岸の資本主義を引き継いだだけなのである。北ヨーロッパは、技術の面でも商業の面でも新しいものを生み出さなかった。
アムステルダムはヴェネチアを模倣し、ロンドンはアムステルダムを模倣し、NYはロンドンを模倣した。それは世界経済の重心が移動しただけであり、地中海から北海への中心の移動も、新興地域による旧勢力への勝利を意味するだけである。
ドイツの社会学者マックス・ヴェーバーは著書『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において、概ね以下のように主張した。
・プロテスタントにおいては「人間が救われるか救われないかは予め決まっている」という予定説を採る。
注)なお、カトリックは「○○すれば天国に行ける」という因果説を採る。もともとプロテスタントは、ローマ教皇レオ10世が「この贖宥状(免罪符)を買えば天国に行ける」と資金集めしたことに対抗する勢力だった。
・自分が救われるかどうか分からないという状況は、人間に恐怖と緊張状態を強いる。よってプロテスタントでは、神から与えられた職業(=天職)に励むことで救済を確信する証を得ることを奨励された。
・また、天職に励んだ結果としての蓄財も、安くて良質な商品やサービスを人々に提供したという「隣人愛」の実践の結果として肯定された。
・この「禁欲的な労働」と「利潤追求の正当性」が資本主義の発展に寄与した。
・カトリック圏である南ヨーロッパ諸国では、日が昇ると働き始め、仲間とおしゃべりなどをしながら適当に働き、昼には長い昼食時間をとり、午後には昼寝や間食の時間をとり、日が沈むと仕事を終える。実質的な労働時間は短く、おおらかで人間的ではあるが、生産性の低く資本主義には馴染まない。
一方、ブローデルは「いやいや、単に経済の覇権が地中海から北海方面に移動しただけでしょ」と主張する。
どちらが正しいかは難しいところだが、カトリック教徒が多かったヴェネチアやジェノヴァでもそれなりに経済が発展していたことを考慮すると、「利潤追求に対する後ろめたさが和らいだ」というヴェーバーの主張はあまり正しくないのかもしれない。
しかし、「禁欲的な労働」という側面では、南欧諸国の人々が北欧諸国に比べると、おおらかで若干怠惰な面があるのは事実だろう。事実、EUのお荷物と言われている国々には地中海沿岸国が多い。ユーロ圏で財政状況がとりわけ厳しいポルトガル(Portugal)、イタリア(Italy)、ギリシャ(Greece)、スペイン(Spain)の4カ国は、その頭文字を取ってPIGSと呼ばれている。
もっとも、これも宗教的な違いではなく、単なる気候の差なのかもしれない。温かい地域の人々は、気候も安定しているため、それほど苦労せずに穀物を育て、食料を確保できる。しかし、寒冷な地域の人々は、痩せた土地で冷害にも苛まれながら、様々な工夫を凝らして生活を成り立たせている。そして自然と勤勉になる。
世界に視点を広げてみても、主に熱帯である赤道~北緯・南緯30度くらいまでは、いわゆる先進国は見当たらない。気候が人々の気質に影響を与える一つの要因である、よい例ではないだろうか。
OECD加盟国
歴史入門 (F・ブローデル)
Amazonで見る
楽天市場で見る
Yahoo!ショッピングで見る 』
中東はどのように今に至ったのか
2018-05-09
https://www3.nhk.or.jp/news/special/new-middle-east/how-we-got-here/







『今年4月、アメリカとイギリス、フランスはアサド政権が化学兵器を使用したとしてシリアに対して軍事攻撃を行いました。攻撃は限定的なものに終わり、地域情勢に大きな影響がなかったのはその後の経過のとおりです。しかし、仮にシリア側による報復攻撃があったら、どうなっていたか???偶発的な出来事が大きな戦争につながりかねない、極めて緊迫した局面だったことも事実です。
「中東が注目を集めるのは大きなテロや戦争の時だけ」。そんな風にとらえる人もいるかもしれません。しかし個別のニュースを追うだけでその潮流を理解するのは困難です。
中東はどのようにして今にたどり着いたのか。その混迷を大きな流れの中でどう見たらいいのか。この記事ではそれを読み解いていきます。
目次
※クリックすると各見出しに移動します
独裁体制がもたらした安定
アメリカと石油とイスラエル
「アラブの春」で秩序は崩れた
アサド政権はなぜ踏みとどまった
国境を無視した「建国」
「ポストIS時代」のリスク
「責任者不在」の中東 向かう先は
独裁体制がもたらした安定
まず、現在の中東の姿を見てましょう。「中東」がどの範囲を指すのか。広義では西アジアから北アフリカにかけての広い範囲がこれに当たります。以下の地図では、便宜上、東はイランから、西はチュニジアまでを表記していますが、アフガニスタンやアルジェリア、モロッコなどが含まれることもあります。
このうち中東の「ど真ん中」にあるイラクとシリアを中心とした地域ではずっと不安定な情勢が続いてきました。
内戦が続くシリアでは、アサド政権の軍や、民兵組織、外国の軍、反政府勢力、さらに過激派組織と、さまざまな勢力が入り乱れて戦闘が繰り返されてきました。7年を経た現在、アサド政権の優位は揺るぎない情勢となっています。
内戦の過程で、国境はあいまいなものとなりました。イラクとの国境は過激派組織が自由に行き交い、トルコとの国境は、過激派組織に加わるために世界各地からやってきた若者たちにとってシリアへの入り口となる一方、家を追われた人たちにとっては出口となりました。
今の混乱に陥る前、中東は比較的安定していました。その安定をもたらしていたのは、独裁的な政権です。20年、30年と1人の独裁者が君臨したり、絶対的な権力を持った王族が支配したりする国が少なくありませんでした。
こうした国々では国民が常に監視され、反体制派とみなされると理由もなく逮捕され、拷問を受けることさえ珍しくありません。国民を押さえつけることで独裁的な支配が実現し、それによって治安の安定を実現してきたのです。
アメリカと石油とイスラエル
その独裁を許してきたのがアメリカです。アメリカは1930年代にサウジアラビアで石油の利権を獲得してから、この地域で巨額の利益を上げてきました。石油を安定的に確保し、利権を守るためには「中東の安定」は絶対条件となりました。
そしてアメリカが中東で「国益」と位置づけるもう1つの要素が同盟国イスラエルです。アラブ諸国の反対を押し切る形で1948年に建国された「ユダヤ国家」はみずからの存在を守るため、中東でいわば四面楚歌の状態で紛争を繰り返してきました。
嘆きの壁(エルサレム)
こうした中、1979年、アメリカはアラブの「盟主」エジプトに接近し、イスラエルとの間に歴史的な平和条約を仲介しました。アメリカはその後、エジプトの独裁的な政権に対して軍事的な支援を続けています。
かつてこの地を委任統治領としていたイギリスがパレスチナの地を離れて以降、国内にユダヤ人を多く抱えるアメリカにとって、イスラエルの安全保障は一貫した中東政策の柱です。アラブ諸国と敵対するイスラエル、そしてその後ろ盾となるアメリカを軸として、中東情勢は長年推移してきました。
石油の確保とイスラエルの安全。それを守るためにアメリカが欲した安定は、結果として中東の独裁的な体制を維持させたのです。
「アラブの春」で秩序は崩れた
その日、NHK国際部の中東班は現地から発信された画質の粗い動画の信ぴょう性をめぐって議論になっていました。「この顔は本人じゃないか」「これだけでは判断できない」。動画に映っていたのは、砂漠地帯とみられる荒涼とした場所で、複数の男たちにリンチされるリビアの独裁者、カダフィ大佐でした。
2010年の年末に北アフリカのチュニジアで始まり、瞬く間にアラブ諸国に広がった、いわゆる「アラブの春」。独裁を終わらせ、民主化を実現しようという当時の動きはそれまでの「冬」と対比する形でそう呼ばれました。
中東ではほとんどの国で、デモが厳しく規制されていましたが、人々は当局の弾圧を恐れずに街頭に繰り出し、民主化を訴えました。チュニジアとエジプトでは大統領が退陣。40年余りの独裁が続いたリビアでは、内戦に発展したあげく、カダフィ大佐が殺害されました。独裁政権によって維持されていた中東の秩序がもろくも崩れていく様は、中東を取材していた記者たちにとっても、信じがたい展開でした。
絶対的な権力も、変えようと思えば変えられる???「アラブの春」は人々に意識の変化をもたらしましたが、混乱も招きました。
エジプト革命記念日(2012)
エジプトでは独裁政権の崩壊後、独裁体制下で弾圧されてきた宗教組織、ムスリム同胞団が台頭し、選挙で同胞団出身のモルシ大統領が勝利しました。しかし保守的な政策を掲げるモルシ大統領に「アラブの春」を経験したリベラルな若者たちは反発し、相次ぐデモで首都カイロは再び混乱。これに乗じて軍が事実上のクーデターを起こした結果できたのが、現在のシシ政権です。「民主化」に沸いたはずのエジプトは、結局、軍の力を背景にした独裁的な政治体制に逆戻りした形となりました。
アサド政権はなぜ踏みとどまった
「カイロが大阪だとすれば、ダマスカスは京都だ」。ある特派員経験者は口癖のようにそう語ります。「シリアは本当にきれいな国だったんだよ。でもこうなってしまっては…」
エジプトやリビアで「アラブの春」が猛威を振るう中、当初のシリアは落ち着いているように見えました。チュニジアでベン・アリ政権が崩壊し、暫定政権が発足した直後の2011年1月18日、日本を訪れていたシリアの大統領補佐官はNHKの取材に対して次のように答えています。
「チュニジア政府が欧米との関係ばかり強化し、国民を無視してきたのに対し、シリア政府は国民の声に耳を傾けている。同じような問題は起きない」
このインタビューの2か月後、シリア南部のダラアで政治的な自由を求める大規模な抗議活動が起き、治安部隊との衝突で4人が死亡しました。これが今日まで続き、35万人が犠牲になる内戦に発展したのです。
なぜシリアでは独裁政権が倒れなかったのか。その背景には古代から人やモノが行き交い、多様な宗教や民族からなるシリア特有の事情があります。
シリアの宗教・宗派構成
シリアの人口構成を宗教・宗派別に見ると、最も多いのはイスラム教スンニ派で74%余り。続いてシーア派系のアラウィ派で13%余り、キリスト教のさまざまな宗派合わせて10%と続きます。
アサド大統領自身はアラウィ派で、政権の中枢もアラウィ派で占められています。軍や治安機関の上層部にもアラウィ派が登用されていますが、スンニ派やキリスト教徒、それに民族的にアラブ人とは異なるクルド人も取り込んだ支配体制が形成されています。
エジプトやチュニジアでは、独裁的な大統領を支えてきた軍が民衆の声を背景に大統領に退陣を迫り、内戦に発展したリビアでは軍が次々に離反して指導者が孤立し、最終的に政権が崩壊しました。
シリアが同じ道を歩まなかったのは、ほかの宗教・宗派を取り込んで、一蓮托生(いちれんたくしょう)で大統領を支える仕組みを作り上げていたことが挙げられます。
国境を無視した「建国」
抵抗する反政府勢力と、そのせん滅を図るアサド政権という構図を主軸に拡大していったシリアの混乱は、内戦へと発展する過程で一層複雑化していきます。イランや、さまざまな民兵組織がアサド政権を支援するために参戦し、反政府勢力側も離合集散を繰り返しました。2013年8月、シリア情勢について特派員は「内戦の複雑化、泥沼化がエスカレートしていく中、シリアは破綻国家となりかねない危機的な状況」と伝えています。アルカイダ系の過激派が勢いを増していたのは、ちょうどこの頃でした。
その過激派が「イスラミックステート」の樹立を宣言したのは2014年6月。シリアとイラクにまたがる、従来の国境を無視した一方的な「建国」は世界を震かんさせました。
過激思想の拡散で世界からジハーディストを集め、急速に勢力を拡大したISは、シリア内戦にかかわる多くの勢力にとって脅威となりました。シリアやイラクの政府軍、反政府勢力も各地でISとの戦闘を開始。アメリカ主導の有志連合が反政府勢力を支援する形で介入し、ロシアもアサド政権を支援するために参戦しました。
これによってISは徐々に弱体化し、去年7月にイラク最大の拠点モスル、10月にはシリア北部のラッカを失います。「建国」から3年余りでジハーディストたちの理想郷は事実上崩壊しました。
「ポストIS時代」のリスク
ISは中東に何を残したのか。急速な台頭と凋落は、その前後でシリア情勢を劇的に変えました。一時、劣勢にあったアサド政権はロシアの支援で息を吹き返し、反政府勢力に対して圧倒的な優勢に立ちました。
それによって、中東で大きく勢いを増すことになった国があります。イラク、シリア、レバノンと、自国から陸続きの広大な範囲で影響力を確保することになった「シーア派の大国」イランです。
イランの影響力拡大は、中東の長年の火種に油を注ぎました。「スンニ派の盟主」を自任するサウジアラビアとの覇権争いです。イランによる核やミサイルの開発を警戒するサウジアラビアは、アメリカのトランプ大統領をいち早く取り込み、就任後、最初の外遊先とすることに成功。さらに「敵の敵は味方」の論理でイランを最大の敵国とするイスラエルに接近しているとも指摘されています。
そして、ISとの戦いで勢いを増したもう1つの勢力がクルド人です。シリアやイラク、トルコ、イランにまたがる地域におよそ3000万人が暮らし、国を持たない世界最大の民族とされます。ISとの戦いの先鋒に立ち、勢力を拡大したクルド人勢力ですが、ISの掃討後、再びそれぞれの国との間で対立が表面化しています。イラク北部では住民投票を実施し悲願の独立を目指しましたが、イラク政府が送った部隊に抑え込まれ、さらに内紛も重なって失敗に終わりました。自治が始まったシリア北部でも、自国への影響を懸念するトルコ軍が軍事作戦を開始。紛争が拡大する懸念も出ています。
ISの脅威が去り、サウジアラビアとイランの覇権争い、そしてクルド人の悲願という中東の2つのリスクが顕在化したのです。
「責任者不在」の中東 向かう先は
中東で取材をすると、どの国にいても、国民がアメリカの事情にやたらと詳しいことに驚かされます。それはアメリカがいかに積極的に中東に関与してきたかを示しているのかもしれません。
かつて中東では、1991年の湾岸戦争、2003年のイラク戦争など?その是非はともかく?アメリカが思い切った関与をして秩序を守り、あるいは形づくってきました。しかし、国民に多大な負担を強いたイラクでの教訓から、前のオバマ政権は、積極的な関与を控えました。
トランプ大統領はオバマ政権の中東政策をことごとく批判し、エルサレムをイスラエルの首都と認めました。これまでになくイスラエル寄りの姿勢はパレスチナ側の怒りを買い、中東和平の見通しはつかなくなっています。さらに核開発を制限する見返りに、欧米などが制裁を解除するとしたイラン核合意からの離脱を表明し、先鋭化するイランとの対立は地域の不確実性を一層高めることになりそうです。
トランプ大統領を称える看板(エルサレム)
しかし、一見するとオバマ時代の反対を行くかのようなトランプ政権も、4月にシリアの化学兵器の使用疑惑を受けて行った攻撃のように一時的、局地的な攻撃はしても、戦局を変えるほどの関与をするつもりはないようです。シェール革命で、アメリカが巨大な埋蔵量を持つエネルギー大国となり、中東に依存する必要がなくなった今、「アメリカ第一主義」を掲げるトランプ大統領は多大な負担をしてまでかかわる必要がないと考えているのかもしれません。
アメリカの関与が弱まる中、相対的に中東で影響力が高まっているのはロシアです。シリアをめぐり、トルコやイランとの関係を深めるロシア。一時は、中東和平交渉にも関与する姿勢を見せました。しかしロシアが中東にどう関与しようとしているのかはまだ見えてきません。
「アラブの春」やシリア内戦の混迷を経ていったん壊れかけた中東の秩序は、今後、再構築される段階に向かうとみられます。秩序をいかに自分たちに有利になるように形づくるか。それぞれのプレーヤーの思惑が交錯するとき、そこには常に新たな衝突のリスクが付きまとっています。
#中東概論(4) 』
NHK高校講座 | 世界史 | 第11回 西アジア・中東の新展開
https://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/sekaishi/archive/resume011.html
※ 中東の歴史を学ぶとき、その王朝がアラブ系なのか、イラン(ペルシャ)系なのか、トルコ系なのかは、押さえておいた方がいい…。
※ それが、「王朝の支配構造」にも影響を与え、ひいては現在のサウジアラビア、イラン、トルコなんかの「影響力」にも、大きな影を落としている…。























『第11回
西アジア・中東の新展開
世界史監修:東京大学名誉教授 羽田 正
学習ポイント
西アジア・中東の新展開
政井マヤさん
野呂汰雅さん
羽田正先生
ここは歴史の専門家も来店する無国籍雑貨屋。
政井マヤさん、野呂汰雅(たいが)さんと一緒に、世界史のおもしろさを探っていきます。
お話をうかがうのは、東京大学名誉教授の羽田正先生です。
イスラームの誕生
世界中で信仰されている宗教「イスラーム」。
現在、およそ18億人の信者を擁するイスラームは、7世紀の初め、アラビア半島に誕生しました。
その後、8世紀にかけて、イスラームの信仰者ムスリムは、カリフと呼ばれる指導者のもと、東は中央アジア、西はイベリア半島におよぶ広い地域を支配するようになります。
当初アラブ人が中心だったムスリムの王朝は、イラン人、トルコ人が参入し共存が図られることで、統治の体制が大きく変わっていきます。
ムスリムによる王朝の移り変わりを通して、7世紀から11世紀ごろまでの西アジア・中東の歴史をひもといていきます。
イスラームの教え
スーフィー
カーバ神殿
コーヒーを飲む3人。
羽田先生 「コーヒーは、もともとアラビア半島で、人々が薬として飲んでいました。」
マヤ 「UAEとかサウジアラビアとかがあるところですよね。」
羽田先生 「そうですね。そのアラビア半島で、だいたい500年ぐらい前、15世紀ぐらいに、スーフィーと呼ばれるイスラームの修行者の人がいるんですが、そういう人たちが夜の修行の時に、眠気覚ましにこれを飲んでいたんです。」
汰雅 「根本的なことになるんですが、『イスラーム』と『イスラム』は同じですか?」
羽田先生 「同じですね。アラビア語の発音だとイスラームって伸ばすんです。でも、例えばトルコの人は『イスラム』と言っているし、イランの人は『エスラーム』と言っていて、いろんなローカルな発音があります。
イスラームが誕生したのは、アラビア半島の『メッカ』というところです。ここには、カーバという神殿があって、ここに向けて皆さん年に1回巡礼にやってきて、カーバ神殿のまわりをぐるぐるまわったりするんですが、その信者がイスラーム教徒。『ムスリム』といいますが、今は18億人ぐらい、世界中にいるんです。」
メッカ
ムハンマド
世界に18億人の信者を擁するイスラーム。
その始まりは、7世紀のアラビア半島です。
アラビア半島西側に位置するメッカは、貿易の中継都市として繁栄し、おもにアラブ人が住んでいました。
のちにイスラームの創始者となる「ムハンマド」はメッカの商人の家に生まれ、貿易の仕事に携わっていました。
ヒラー山
預言者
やがてムハンマドは、メッカ郊外のヒラー山の洞窟にこもり、瞑想にふけるようになります。
40歳をすぎた610年ごろ、ムハンマドに、唯一絶対の神「アッラー」の言葉が伝えられました。
ムハンマドは、神の言葉を預かった者、つまり「預言者(よげんしゃ)」となったのです。
預言者ムハンマドは、“この世が終わる時に、天国に迎えられるためには、アッラーの教えに従って生きることが大事だ”と説きました。
しかし、メッカでは、部族ごとの神に対する信仰心が強く、ムハンマドが伝えた教え、イスラームは危険な思想として迫害を受けました。
メディナに移住
ウンマ
622年、ムハンマドは少数の信者とともに、メッカから300キロ北にある「メディナ」に移住します。
この地で、ムスリムと呼ばれるイスラームを信仰する人が、次第に増え、やがて共同体がつくられます。
この共同体は「ウンマ」と呼ばれ、ムスリムの共同意識を生みだしていきます。
ムスリムが増えたメディナで兵力を整えたムハンマドは、630年、故郷のメッカを征服します。
さまざまな部族の聖地・メッカにあるカーバ神殿から偶像を撤去し、イスラームの聖地としました。
その後、ムハンマドはアラブの部族を支配下に入れ、アラビア半島を統一します。
コーラン
ムハンマドがこの世を去ると、ムハンマドに伝えられたアッラーの言葉がまとめられ、聖典・コーランとなります。
教義の中心は、“神がムハンマドを通じて伝えた教えを守る”ということで、アラビア語で記されました。
その教え・規範は、政治、社会、文化の活動すべてにおよびました。
預言者と予言者
汰雅 「ムハンマドの描かれている絵、全部白く覆われているのか、塗られている感じだったんですが、あれは、何でなんですか?」
羽田先生 「ムハンマドは、普通の信者からみれば特別な人ですよね。すると崇拝する人が出てくる、だろうと。でも、ムハンマドは預言者っていうだけで、これは神の言葉を預かっている人なんですね。」
汰雅 「僕らが思う“よげんしゃ”は、未来を予想してって感じなんですが…。」
羽田先生 「字が違いますよね。言葉を預かる人なんです。だから、神が語っている言葉を預かって、皆さんに伝える人っていうのが預言者で、そういう意味では普通の人間なんですよ。
すると、そういう人を崇拝するのはよろしくない。なぜかっていうと、イスラームでは神が絶対で、崇拝すべきなのは神だけなんですね。ムハンマドに顔があって、それをみんなが変に崇拝することのないように、絵ではああいう白いものが書かれている。もちろん、実際のムハンマドは、ああいったものはつけていなかったんですけどね。」
汰雅 「そもそも、イスラームの教えは、どういうものがあったんですか?」
羽田先生 「これは、“唯一の神を信じましょう”。唯一の神というのは、THE GOD。アッラーっていうのはアラビア語のTHE GOD、『神』という意味なんですが、これを信仰する。そして、“神の前では人間はみんな平等である”と考えるわけですね。アッラーがこの世界を創ったし、滅ぼすこともできる、もうまもなくこの世は終わるはずであって、終わる以上、そのあとは天国に行くか地獄に落ちるしかない。もし天国に行きたければ、アッラーの教えに従って、彼が勧めることをやりなさい。ということをイスラームは言っているんですね。(ムハンマドが)そういう言葉を伝え、コーランに書かれています。」
5つの分類
汰雅 「天国行く人、地獄へ行く人は、どのように決めていたんですか?」
羽田先生 「イスラームでは、人間が生活する時のあらゆる行動は、この5つに分類できるんです。一番上の『すべきこと』というのは、例えば礼拝、巡礼、さらには断食であったり、これらはコーランに書かれていることですね。同時に、『してはいけないこと』も書かれていて、お酒は飲まない、豚肉は食べない、というのが記されていて、そういうことをやると、ダメなわけです。」
汰雅 「豚肉は、なんでダメなんですか?」
羽田先生 「もともとアラビア半島には、豚はあまりいないんですが、豚肉を食べると衛生上問題があって、当時病気になる人が多かったんです。こういうものは食べない方がいいと神がお命じになった、ということですね。」
マヤ 「生活習慣もその中に入っているんですね。」
汰雅 『した方がよいこと』っていう、あいまいなところは、どういうことなんですか?」
羽田先生 「私たちの常識で、“親孝行しましょう”とか“子どもはちゃんとかわいがりましょう”っていうことが、『した方がよいこと』のところに入ると考えていいと思います。私たちの価値観とあんまり変わらないと思います。
真ん中の『どちらでもよいこと』っていうのが、ほとんどですね。
さっき、我々が飲んだコーヒーなんかも、実はどちらでもよいことだし…。
特に『してはいけないこと』をやったからといって、いきなり地獄に落ちるわけではなくて、『してはいけないこと』をやってしまったら、『すべきこと』や『した方がよいこと』を繰返すことによって減点がなくなり、人間の生涯終わる時に、最終的にプラスであれば天国に行ける、そういう考え方ですね。」
マヤ 「柔軟性のある宗教ってことなんですね。」
羽田先生 「それが特徴ですね。」
イスラームの広がり
アブー・バクル
正統カリフ時代の領土
7世紀、ムハンマドが没するとアブー・バクルがムハンマドの後継者「カリフ」に選ばれ、共同体・ウンマの政治指導者となりました。
以後、第4代アリーまで、選挙によってカリフが選ばれた 時期を「正統カリフ時代」と呼びます。
カリフは、アラブ人のムスリムからなる軍隊をアラビア半島から各地に派遣、進出していきます。
651年、ササン朝を滅ぼし、現在のイランやイラクを領土とし、ビザンツ帝国からシリアやエジプトを奪い、征服地を広げていきます。
アリー
ウマイヤ朝時代の領土
アラブ人ムスリムの支配領域が拡大すると権限が強くなったカリフの座をめぐり争いが起きます。
その結果、第4代カリフのアリーは暗殺され、661年、対立していたウマイヤ家がシリアのダマスカスを都として、「ウマイヤ朝」を樹立します。
ウマイヤ朝では、ウマイヤ家がカリフを世襲(せしゅう)しました。
そして、アラブ人ムスリムが支配者となる政権を作り上げました。
ウマイヤ朝の時代にもアラブ人ムスリムは征服活動を続けます。
8世紀の初めには、東は中央アジアや北インドに達し、西では北アフリカの地中海沿岸におよび、さらにイベリア半島にも進出、領土を広げました。
征服地では、先住民のユダヤ教徒やキリスト教徒は、人頭税・ジズヤと土地税・ハラージュを納めれば、生命・財産の安全と信仰の自由が保障されました。
カリフの役割
マヤ 「カリフは選挙で決められたり、世襲になったり、いろんな形があったみたいですけど、どういった存在だったんですか?」
羽田先生 「これは、ムスリム全体の最高指導者ですね。政治的にも宗教的にもあらゆる面でリーダーであるはずなんですが、カリフたちは預言者ではないわけですから、どうしても宗教的な側面では“象徴”の意味しかなくなってきますよね。でも、政治社会上のリーダーであることは間違いないです。一種の皇帝、あるいは王とそれほど変わらないと考えてもいいかもしれないですね。」
マヤ 「そういったカリフのもと、ウマイヤ朝が拡大していくわけですけれども、征服された側に対して、イスラームへの改宗を強制することは?」
羽田先生 「原則としては、なかったと。もちろん場合によりますから、絶対なかったとはいえないと思いますね。多くの地域には、キリスト教徒やユダヤ教徒が多く、ゾロアスター教徒もいました。
こういう人たちは、ムスリムの支配を認めれば、その人たちの生命や財産は保障されますし、信仰は自由だったということです。この意味ではイスラームという宗教は、ほかの宗教と共存する方法を知っていたといえるかもしれませんね。」
マヤ 「ただ、ジズヤやハラージュといった税は、異教徒に対して徴収されたわけですよね。それから逃れるためにイスラームに改宗しますということにすれば、税金は…。」
羽田先生 「本来であれば、イスラームに改宗すれば、そういうのは払わなくていいはずなんですが、実際は征服者(アラブ人)と被征服者(非アラブ人)の関係があるので、イスラームに改宗しても被征服者の人たちは税金を徴収されました。」
汰雅 「そうなってくるとイスラームの教えでいう、信者はみんな平等っていうのが、ちょっと変わってくると思うんですが…。」
羽田先生 「そうですね。イスラームに改宗しても、征服した側のアラブ人と征服された側の非アラブ人の間には、やっぱり区別や差別があったということになりますよね。」
カリフとスルタン
アッバース朝の宮殿跡
バグダードの中心に円形の都市
ウマイヤ朝では、征服地の非アラブ人がイスラームに改宗しても、人頭税のジズヤと土地税のハラージュは徴収されました。
そんな不平等な体制に不満を持つ非アラブ人と、暗殺された第4代カリフ・アリーを支持する人々が、ウマイヤ朝に対する反体制運動を起こします。
彼らは、ムハンマドの叔父の子孫をカリフに擁立、750年、ウマイヤ朝を倒します。
こうして生まれたのが、「アッバース朝」です。
ティグリス川のほとりには、首都バグダードが建設されます。
その中心には、直径2キロ・周囲7キロほどの城壁をめぐらした円形の都市があり、最盛期のバグダードの人口は100万を数え、当時では世界最大規模の都市となりました。
4つの幹線ルート
アッバース朝では、非アラブ人もムスリムであれば、人頭税が免除され、アラブ人であっても土地税が徴収されました。
民族間の不平等な制度は廃止されたのです。
さらに、行政機構を整備してイラン人などを官僚に登用するなど、現地の実情にあわせた統治を進めました。
交易にも力を入れました。
各地に4つの幹線道路が生まれ、東西のさまざまな産物や文化がバグダードに集まり、繁栄を支えました。
ブワイフ朝がバグダードに進出
9世紀、アッバース朝のカリフは、騎馬戦士として優れていた中央アジアの遊牧民・トルコ人を奴隷とし、親衛隊として用いるようになります。
彼らは、軍事訓練を受けたのち、コーランを学びイスラームに改宗、「マムルーク(奴隷軍人)」と呼ばれるエリート軍人として軍隊の中核を担うようになります。
そんな中、イラン人による軍事政権「ブワイフ朝」が誕生し、バグダードに進出。
アッバース朝のカリフを保護下におくと、カリフの委任を受ける形をとり、統治を行います。
アッバース朝は実権を失い、王朝としての実質的な終焉を迎えました。
セルジューク朝
11世紀になると、イスラームに改宗したトルコ系騎馬遊牧民の一団が中央アジアから西アジアへと進出、「セルジューク朝」をおこします。
強力な軍隊を整えたセルジューク朝は、ブワイフ朝を倒し、1055年にバグダードに入城。
ブワイフ朝に代わって保護下においたアッバース朝のカリフから、「支配者の地位」を意味する「スルタン」の称号を授かります。
こうしてトルコ系の人々が実質的な支配者となりました。
スルタンの称号は、これ以降、君主の称号として広く用いられるようになります。
カリフとスルタンの関係
汰雅 「セルジューク朝の騎馬遊牧民って、相当強かったわけじゃないですか。なんでアッバース朝を倒すところまでいかなかったんですか?」
羽田先生 「アッバース朝は、カリフですよね。カリフは信徒の長と呼ばれていて、やっぱり権威なんですよ。だからムスリムにとって、そう簡単に倒すような存在ではないわけですね。」
マヤ 「スルタンもムスリムのリーダー格というか、君主の称号ですよね。カリフとスルタンというのは、どういう関係って考えたらいいですか?」
羽田先生 「カリフは、もともと宗教と政治、両方のリーダー。最高指導者だったわけですが、この頃になると宗教的な権威だけになって、世俗的な力はなくなっているわけですね、軍事力とかもなくなって。軍事力を持っていたのが、スルタンですね。」
汰雅 「日本でいうと、江戸時代の天皇と将軍みたいなイメージって考えたらいいですか?」
羽田先生 「天皇は宗教的だったかどうかはわかりませんが、そういうイメージですね。
ただし、少し時代が進んでくると、たくさんの人がスルタンを名乗るようになってきて、結果としてムスリムの指導者の、世俗的な君主の相当部分はスルタンになってしまうんです。
そういう意味では将軍のように1人だったわけではないから、少し違うかもしれないんですが、似ていますね。」
文化を理解し尊重する社会
マヤ 「先日、コンビニの駐車場で、ムスリムの方がお祈りをしているのを見かけました。
いま、日本に暮らし働くムスリムの方が、増えていますよね。企業や公的な場所に礼拝室を設けたり、信仰に配慮したハラルフードを扱う店も増えてきました。
お互いに文化を理解し尊重する社会でありたいですよね。」
それでは次回もお楽しみに!』