『ドイツ領ニューギニア(ドイツりょうニューギニア、英: German New Guinea、独: Deutsch-Neuguinea)は、ドイツ植民地帝国が初めて獲得した地域である。1884年から第一次世界大戦勃発後オーストラリアが占領した1914年まで保護領であった。ニューギニア島北東部(カイザー・ヴィルヘルムスラント)及び周辺の島嶼部から構成。総面積は249,500平方キロメートル[1]。
第一次世界大戦が勃発すると、オーストラリア軍は1914年、カール・フォン・クレヴィッツ船長らの抵抗叶わずカイザー・ヴィルヘルムスラント及び近隣の島々を攻略。また、日本も現存する太平洋地域のドイツ領のほとんどを占領した。1914年9月11日にオーストラリア海陸軍遠征部隊(en:Australian Naval and Military Expeditionary Force)がビタパカの戦い(en:Battle of Bita Paka)でノイポンメルン島(後のニューブリテン島)の無線局を攻撃したのが、唯一の大きな戦闘であった。オーストラリア側は6名が死亡し4名が負傷、第一次世界大戦初の被害を出した。一方ドイツ側はこれより深刻で、ドイツ人当局者1名及び現地警察30名が死亡、ドイツ人当局者1名と現地警察10名が負傷。こうして、9月21日には植民地の全ドイツ軍が降伏した。
これらの切手は現在1アメリカドル程度から500アメリカドル以上(使用済5マルク切手の場合)で取引されている。高額面切手の使用済は殆どなく、未使用に比べ10~20倍の価格で取引されている。偽の消印も存在するため収集に当たっては注意を要する。なお、オーストラリア占領以後、在庫していた透かしなし切手や、書留郵便のラベルに「G.R.I.」(Georgius Rex et Imperator(ゲオルギウス・レクス・エト・インペラトル)の略、イギリス国王およびインド帝国皇帝を兼務するジョージ5世の意)の銘と、当時英連邦の通貨単位であったペンスまたはシリング建の額面が加刷された。』
ナポレオン戦争により、1807年にジャン=アンドシュ・ジュノーに率いられたフランス軍がポルトガルに侵攻した。このためポルトガル宮廷はリスボンからリオデジャネイロに遷都し、以降、リオの開発が進んだ。1815年にリオデジャネイロはポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国の首都に定められた。ポルトガル政府はバンダ・オリエンタル・ド・ウルグアイ(葡: Banda Oriental do Uruguai)のホセ・アルティーガス(英語版)率いる連邦同盟(葡: Liga dos Povos Livres、1815年 – 1820年)との戦いを進めてバンダ・オリエンタルを支配下に置き、征服した地域にシスプラチナ州を設立した。1820年ポルトガルを自由主義的な立憲君主制国家に変革しようとする革命が起こり、リオデジャネイロのジョアン6世に帰国を要請し、1821年にポルトガル宮廷はリスボンに帰還した。
一方、摂政として残留したブラガンサ家の王太子ペドロがジョゼ・ボニファシオに代表されるブラジル人ブルジョワジー勢力に支持され、1822年2月18日にブラジル独立戦争が勃発した。1822年9月7日に「イピランガの叫び」(葡: Grito do Ipiranga)と呼ばれる独立宣言が行われ、ペドロが初代皇帝ペドロ1世(在位1823年 – 1831年)として即位し、ブラジル帝国はポルトガルから独立した[8]。
1831年にペドロ1世が退位するとさらに地方の混乱は増し、最南部のリオ・グランデ・ド・スール州では牧場主とガウーショがファラーポス戦争(英語版)(葡: Guerra dos Farrapos、Revolução Farroupilha – 「ファロウピーリャの反乱」とも)を起こした。 『我が子の遺体を前にするパラグアイ兵』(ホセ・イグナシオ・ガルメンディア画)
1840年にペドロ2世が即位すると事態は落ち着きを見せ、1848年にプライエイラ革命(葡: Insurreição Praieira – 「プライエイラの反乱」とも)を鎮圧したあと、ブラジル史上初の安定期が訪れた。ペードロ2世は領土的野心を持っていたウルグアイ、パラグアイへの介入を進め、その結果として1864年にパラグアイのフランシスコ・ソラーノ・ロペス大統領はブラジルに宣戦布告し、パラグアイ戦争(葡: Guerra do Paraguai、西: Guerra de la Triple Alianza – 「三国同盟戦争」とも)が勃発したが、カシアス公率いるブラジル帝国が主体となった三国同盟軍はパラグアイを破壊した。
一方、独立後も大農園主の意向によって奴隷制は維持され続けたが、アメリカ合衆国の南北戦争後は西半球で奴隷制を採用する独立国はブラジル帝国のみとなったため、三国同盟戦争後からオーギュスト・コントの実証主義の影響を受けた知識人によって奴隷制批判がなされた。三国同盟戦争後に制度的に確立した軍の青年将校(葡: Tenentes – 「テネンテス(英語版)」)たちは実証主義思想に影響を受け、次第に奴隷制の廃止と帝政の廃止をも含めた国民運動が生まれた。この運動により1888年5月13日に黄金法(英語版)(葡: Lei Áurea)が公布され、西半球で最後まで維持されていた奴隷制が廃止されたが、ペドロ2世は奴隷制廃止によって大農園主からの支持を失い、翌1889年のデオドロ・ダ・フォンセッカ元帥のクーデターによって帝政は崩壊した。
1930年にカフェ・コン・レイテ体制に対する反乱が各地で勃発し、リオ・グランデ・ド・スール州のジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスが1930年革命(ポルトガル語版)を起こし、独裁政治を確立しようとした。1932年にはサン・パウロ州の反ヴァルガス勢力によって護憲革命(英語版)(葡: Revolução Constitucionalista de 1932)が勃発したが、この反乱を鎮圧するとヴァルガスはブラジル全土に対する支配権を確立した。1937年にはヴァルガスはクーデターによってイタリア・ファシズムに影響を受けたエスタード・ノーヴォ(ポルトガル語版)体制を確立し、11月10日に新憲法を公布、12月2日に発布した[9]。ヴァルガス時代には大学の整備、国家主導の工業化、ナショナリズムの称揚と移民の同化政策、中央集権体制の確立が進んだ。