1155年にノルマンディー公が五港同盟を結んで得た船で海軍を作った。百年戦争の開戦時、イングランド海軍はフランス海軍に戦力で劣っていたが、1340年のスロイスの海戦においてフランス艦隊を一掃した。しかし、1372年と1419年のラ・ロシェル沖におけるフランスとカスティーリャとの海戦で、イングランド海軍はかなりの損害を負った。そして、イングランド本土の港がジャン・ド・ヴィエンヌ (Jean de Vienne) とフェルナンド・サンチェス・デ・トバル (Fernando Sanchez de Tovar) の指揮する艦隊の襲撃による被害を受けた。幸いなことにフランスは海軍力の戦略的重要性を理解していなかったため、制海権は間もなくイングランドの手中に戻った。
1805年から1914年まで、「ブリタニアは大洋を制した」(Britannia rule the waves、派生してルール・ブリタニアの詩・愛国歌として知られる)という言葉通り、世界中の海で圧倒的な支配力をもった。1805年以前もイギリス海軍の戦略的な失敗は、アメリカ独立戦争中に行われた1781年のチェサピーク湾の海戦だけで、この時は有能なコント・ド・グラス(Comte de Grasse)の指揮するフランス艦隊に敗北した。
実務上の指揮はファースト・シー・ロード(海軍大将)を含む国防会議のメンバーによってなされる。国防会議は海軍の管理をアドミラルティ・ボードに委任しており、国防大臣が議長を務める。アドミラルティ・ボードは、艦艇を管理するネイビー・ボードを指揮下に置いており、こちらは海軍士官と国防省の公務員から成る。これらはロンドンのホワイトホールにある国防省舎 (MoD Main Building) に所在している。
艦隊航空隊(Fleet Air Arm)は、イギリス海軍の航空機による作戦をつかさどる部門である。
イギリス軍では陸上基地で運用する対潜哨戒機は空軍の管轄になっている。
階級
「イギリス軍の階級」および「軍隊における階級呼称一覧」も参照
NATO階級符号 階級章 階級 英語 日本語 OR-1 該当階級なし OR-2 British Royal Navy OR-2.svg Able Rating 水兵 OR-3 該当階級なし OR-4 British Royal Navy OR-4.svg Leading Rating 上等水兵 OR-6/OR-5 British Royal Navy OR-6.svg Petty Officer 兵曹 OR-7 British Royal Navy OR-7.svg Chief Petty Officer 上等兵曹 OR-8 British Royal Navy OR-8.svg Warrant Officer class 2 二等兵曹長 OR-9 British Royal Navy OR-9.svg Warrant Officer class 1 一等兵曹長 OF(D) British Royal Navy OF-Student.svg Officer cadet 士官候補生 OF-1 British Royal Navy OF-1a.svgUK-Navy-OFD.svg Midshipman 見習士官 UK-Navy-OF-1b-collected.svg Sub-Lieutenant 下級海尉 OF-2 UK-Navy-OF-2-collected.svg Lieutenant 海尉 OF-3 UK-Navy-OF-3-collected.svg Lieutenant commander 少佐 OF-4 UK-Navy-OF-4-collected.svg Commander 中佐 OF-5 UK-Navy-OF-5-collected.svg Captain 大佐 OF-6 British Royal Navy OF-6-collected.svg Commodore 代将 OF-7 British Royal Navy OF-7-collected.svg Rear admiral 少将 OF-8 British Royal Navy OF-8-collected.svg Vice admiral 中将 OF-9 British Royal Navy OF-9-collected.svg Admiral 大将 OF-10 British Royal Navy OF-10-collected.svg Admiral of the Fleet 元帥
イギリス海軍および予備艦隊所属の戦闘艦艇にはHMS(His or Her Majesty’s Ship 陛下の船の意)の頭文字がつけられ、補助艦隊所属の補助艦艇にはRFA (Royal Fleet Auxiliary) の頭文字がつけられる。イギリス海軍の軍艦旗には、ホワイト・エンサイン (the white ensign) が定められており、補助艦隊はブルー・エンサインの一種を用いる。艦艇にはアメリカ海軍と異なり、分類シンボル (Hull classification symbol) ではなく、ペナント・ナンバーが付与される。
『アルマダの海戦(アルマダのかいせん)、アルマダ戦争(アルマダせんそう、英語: Battle of Armada, Armada Wars)は、スペイン無敵艦隊(英語: Spanish Armada、スペイン語: Grande y Felicísima Armada)のイングランド侵攻において、1588年7月から8月(旧暦7月)に英仏海峡で行われた諸海戦の総称である。
1587年4月29日から30日(旧暦4月19日 – 20日)、フランシス・ドレーク率いるイングランド艦隊が準備妨害のためカディス港に来襲し、スペイン船37 – 24隻が破壊または捕獲された[21]。その後、ドレークはポルトガル沿岸部を襲撃して100隻以上を破壊または拿捕し、この際に捕獲した大量の樽材を焼却している[22]。樽材の新規確保が難しかったためスペインは生乾きの粗悪な板を使用することになり、このあとの遠征で飲料水・食料品へ甚大な被害を与えることになる[23][注釈 4]。これにより、艦隊計画を大幅に変更する。(「スペイン王の髭焦がし」事件 (Singeing the King of Spain’s Beard) )
7月31日(旧暦7月21日)の夜、イングランド艦隊は攻撃を実行するために無敵艦隊の風上に針路を変えて、有利な位置を占めた。夜明けとともにイングランド艦隊が無敵艦隊の右翼後方から接近し、砲撃を加えた。その後、イングランド艦隊は左翼後方のビスケー湾船隊へ攻撃を加えた。船隊司令リカルデ提督(es)の乗艦サン・ファン号(San Juan)[注釈 5]とエル・グラングリン号(El Gran Grin)の2隻がイングランド艦隊の攻撃の矢面に立たされた[46]。2時間ほどの双方決定的な打撃を与えられない砲撃の応酬ののちに、メディナ=シドニア公の援軍が駆けつけたためハワードは後退を命じた[47]。(プリマス沖海戦)
戦闘後、スペインのガレオン船サン・サルバドル号(San Salvador)が爆発事故を起こして炎上し、続いてアンダルシア船隊司令ペドロ・デ・ヴァルデスの乗艦ヌエストラ・セニヨーラ・デル・ロサリオ号(Nuestra Senora del Rosario)が衝突事故を起こして行動不能に陥り、救出はかなわず、メディナ=シドニア公はやむなく両船を遺棄した[48]。サン・サルバドル号は主計総監と金庫を載せた会計艦であったため、その放棄はスペイン側の士気を甚だしく低下させた[49]。
イングランドでは数年にわたり国威が高揚し、エリザベス伝説は彼女の死後も長く生き残り、そして成長した。スペイン海軍の撃退はヨーロッパ中のプロテスタントに勇気を与え、神がプロテスタント信仰を加護しているという信念は記念メダルに刻印された「神は風を起こし、そして彼らは追い散らされた」(He blew with His winds, and they were scattered)という文言によく現れている。そのほかにもユリウス・カエサルの言葉「来た、見た、勝った」(Veni, vidi, vici)をもじった「彼は来た、彼は見た、彼は逃げた」(Venit, Vidit, Fugit)を刻印した、より陽気なメダルもある。
やがてテュルク系遊牧民自身でも文字(突厥文字)を使って物事を記すようになると、Old turkic letter R1.pngOld turkic letter G1.pngOld turkic letter Y1.pngOld turkic letter O.png(Uyγur)[35]と表記した。
訥都六設(ナテュルク・シャド)の孫にあたる吐務は、大葉護(だいヤブグ)と号し、柔然の臣下であった。彼には2人の子がおり、長男は土門(古テュルク語: Old Turkic letter N1.svgOld Turkic letter G1.svgOld Turkic letter Q.svg Old Turkic letter N1.svgOld Turkic letter M.svgOld Turkic letter O.svgOld Turkic letter B1.svg – Bumïn qaγan – ブミン・カガン)、次男は室點蜜(古テュルク語: Old Turkic letter N1.svgOld Turkic letter G1.svgOld turkic letter Q.png Old Turkic letter I.svgOld Turkic letter M.svgOld Turkic letter T2.svgOld Turkic letter S2.svgOld Turkic letter I.svg – Istemïi Qaγan – イステミ・カガン)といった。吐務が死ぬと土門が後を継いだ。5世紀後半は柔然隷属下の奴役部族が絶え間なく逃亡・反抗を繰り返していたが、487年に高車諸部族10万人が30年に及ぶ大規模な反乱を起こすと、力が衰えた柔然の突厥部への統制は緩和された。制約を脱すると畜産品や鍛鉄による手工芸品を生産して、西魏や西域との貿易を行い、6世紀初頭には西魏との間に正式な通商が結ばれた。
永淳元年(682年)、阿史那骨咄禄がイルティリシュ・カガン(古テュルク語: Old Turkic letter N1.svgOld Turkic letter G1.svgOld turkic letter Q.png Old Turkic letter S2.svgOld Turkic letter R2.svgOld Turkic letter T2.svgOld Turkic letter L2.svgOld Turkic letter I.svg – İltiriš-qaγan)と号して唐の羈縻支配を脱し、独立を果たす(突厥第二可汗国)。阿史那骨咄禄は武則天政権の唐にたびたび侵入・略奪を行い、中国を苦しめた。そんな中、唐朝は武則天の帝位簒奪によって一時的に滅ぼされ、周が建てられる(690年)。
ファイル:Kul Tigin.jpg 東突厥のキュル・テギン
阿史那骨咄禄が亡くなり、弟の阿史那默啜(古テュルク語: Old Turkic letter N1.svgOld Turkic letter G1.svgOld turkic letter Q.png Old Turkic letter N1.svgOld Turkic letter G1.svgOld Turkic letter P.svgOld Turkic letter Q.svg – Qapγan-qaγan – カプガン・カガン)の代になると、初めのうちは周朝に入朝したものの、次第に傲慢になり、遂には周朝を滅ぼして唐朝を復活させようと中国侵攻を謀った。これに対し武則天は唐の廬陵王を皇太子とすることで、東突厥の中国侵攻を思いとどまらせた。その後の神龍元年(705年)、武則天が廬陵王に譲位して唐は復活を果たす。晩年の阿史那默啜は西方攻略に忙殺され、鉄勒討伐中に戦死する。阿史那骨咄禄の子である默棘連は阿史那默啜の一族を殺して毘伽可汗(古テュルク語: Old Turkic letter N1.svgOld Turkic letter G1.svgOld turkic letter Q.png Old Turkic letter A.svgOld Turkic letter G2.svgOld Turkic letter L2.svgOld Turkic letter I.svgOld Turkic letter B2.svg – Bilgä Qaγan – ビルゲ・カガン、在位:716年 – 734年)となり、闕特勤(古テュルク語: Old Turkic letter N2.svgOld Turkic letter G2.svgOld Turkic letter I.svgOld Turkic letter T2.svg Old Turkic letter L2.svgOld Turkic letter U.svgOld Turkic letter K.svg – Kül Tigin – キュル・テギン)や暾欲谷(英語版)(古テュルク語: 𐱃𐰆𐰪𐰸𐰸 – Tonyuquq – トニュクク(英語版)、阿史徳元珍)とともに、安定した国づくりを行い、唐とも友好的な外交を行った。
『制限主権論(せいげんしゅけんろん;ロシア語 Доктрина ограниченного суверенитета、英語 The doctrine of limited sovereignty[1])とは、1968年にソビエト連邦の主導するワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに対する軍事介入(プラハの春事件)を正当化するために持ち出した論理であり、「社会主義陣営全体の利益の為には、そのうち一国の主権を制限しても構わない」という考え方のことである[2]。
すなわち、内政不干渉の原則(1648年のウェストファリア条約に遡り、1945年の国連憲章第2条第7項[3]でも再確認された)を尊重しつつも、社会主義陣営全体の利益の護持を目的とする場合に限っては例外的に武力介入を伴う内政干渉が許容される、という論理である。この時のソ連指導者レオニード・ブレジネフの名前からブレジネフ・ドクトリン、ブレジネフ教義(ロシア語 Доктрина Брежнева、英語 The Brezhnev Doctrine)とも称される。1979年のアフガニスタンへの侵攻でもこの論理が用いられた。