Bab Kisanの門、現在は聖パウロを記念した教会 ダマスカスの旧市街は、北と東、および南の一部を塁壁に囲まれている。現存している門は七つある。最も古いものはローマ時代にまで遡る。城砦の北から時計回りに:
Bab al-Faraj (救いの門) Bab al-Faradis (果樹園の門) Bab al-Salam (平和の門)以上三つは旧市街の北側にある。 Bab Touma (トマスの門)北東の隅にあり、同じ名前のキリスト教徒の区画へ通じている。 Bab Sharqi (東門)東の壁にあり、ローマ時代の設計が残っている唯一のもの。 Bab Kisan、南東にあり、聖パウロがここから籠に入って塁壁から吊り下げられてダマスカスから脱出したという伝説が残っている。現在は閉鎖されており、この故事を記念する教会がその場所に建てられた。 al-Bab al-Saghir (小さい門)南側にある。 加えて、Bab a-Faraj、Bab al-Faraidis、スーク・ミドハト・パシャへの入り口にあるBab al-Jabiya、およびスーク・al-Hamidiyyaの入り口近くにあるBab al-Baridは、かつてはスークへの入り口の区域を指していた、ダマシーンという名で呼ばれている。城壁の外にある二つの区域もまた、「門 (bab)」の名を持っている。Bab MousallaとBab Sreijaであるが、どちらも城壁の外の南西にある。
[脚注の使い方] ^ كتاب الدرس التام في التاريخ العام الملخص من كتب التواريخ الأوروبية والعربية في الساحة الخديوية. مطبعة وادي النيل المصرية. (1872). p. 172 ^ “Online Etymology Dictionary”. Etymonline.com. 2010年6月20日閲覧。 ^ “Damascus – Wiktionary”. En.wiktionary.org (2010年5月9日). 2010年6月20日閲覧。 ^ List I, 13 in J. Simons, Handbook for the Study of Egyptian Topographical Lists relating to Western Asia, Leiden 1937. See also Y. AHARONI, The Land of the Bible: A Historical Geography, London 1967, p147, No. 13. ^ “(in Book Reviews) ”Ancient Damascus: A Historical Study of the Syrian City-State from Earliest Times Until Its Fall to the Assyrians in 732 BC.”, Wayne T. Pitard. Review author: Paul E. Dion, ”Bulletin of the American Schools of Oriental Research”, No. 270, Ancient Syria. (May, 1988), p. 98”. Links.jstor.org. 2010年6月20日閲覧。 ^ “”The Stele Dedicated to Melcarth by Ben-Hadad of Damascus”, Frank Moore Cross. ”Bulletin of the American Schools of Oriental Research”, No. 205. (Feb., 1972), p. 40”. Links.jstor.org. 2010年6月20日閲覧。 ^ “Average Conditions Damascus, Syria”. BBC Weather (July 2011). 2010年11月3日閲覧。 関連項目 古代都市ダマスカス(ダマスカスは世界遺産となっている。) ダマスコのイオアン – キリスト教の聖人 w:Rulers of Damascus – シリア歴代の支配者一覧 ダマスカス鋼 アンティオキア教会 在シリア日本国大使館 外部リンク
エドワード・ギボン 『ローマ帝国衰亡史』 テオドール・モムゼン 『ローマ史』 J. B. Bury, History of the later Roman Empire: from the death of Theodosius I. to the death of Justinian, (New York: Dover publications, 1958). A.H.M. Jones, The later Roman Empire 284-602: a social economic and administrative survey, (Norman: University of Oklahoma Press, 1964). P・ブラウン著、宮島直機訳『古代末期の世界―ローマ帝国はなぜキリスト教化したか?―』刀水書房、2002年 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ^ パーテルは父を意味するが、16世紀に現れた父権主義とは性質が異なる。 出典 ^ Simons, G. L. (1999). Korea: The Search for Sovereignty. Palgrave MacMillan. p. 70 参考文献 ローマの歴史/インドロ・モンタネッリ 関連項目
注釈 ^ ギリシャではエーゲ海のミロス島でしか産出しない[6]。 ^ 山羊、羊に関しては野生種の存在がギリシャでは確認されていないため、アナトリア方面から移入してきたことが確実視されている[8]。 ^ この地域にはマグーラと呼ばれる小高い丘が存在するが、これは西アジアのテルに相当する新石器時代の集落址であることが多い[9]。 ^ この名称はこの時代に発達した哲学、諸芸術、自然科学を代表とするものが現在人類にとって普遍的な存在であることから原点という意味で古典期(クラシック)と呼ばれている[31]。 ^ ただし、この自由というのはあくまでもローマ支配下での自由であり、ギリシャのローマ従属を明らかにしたものでしかなかった[40]。 ^ 古代ギリシア語は30ほどの文字を組み合わせることによって表記することができたが、線文字Bは明らかにそれ以上の文字が存在したため、古代ギリシア語とは関連がないと考えられていた。しかし、これは古代ギリシア語を文字で表す際に母音、子音などを使用していたのに対して線文字Bは音節文字と表意文字からなっていたためであった。そのため、多くの研究者らは線文字Bはインド・ヨーロッパ語族が使用したものではないと考えていた[56]。 出典 ^ a b 桜井 2005, p. 16. ^ a b 周藤 1997a, pp. 20–21. ^ 周藤 & 村田 2000, pp. 19–20. ^ 周藤 1997a, p. 21. ^ 周藤 1997a, p. 22. ^ a b 桜井 2005, p. 17. ^ 木戸 1977, p. 188. ^ 桜井 2005, p. 19. ^ a b 桜井 2005, p. 20. ^ 桜井 2005, pp. 17–20. ^ a b 桜井 2005, p. 21. ^ 桜井 2005, p. 22. ^ 桜井 2005, pp. 22–23. ^ 周藤 & 村田 2000, p. 22. ^ 桜井 2005, p. 24. ^ 周藤 & 村田 2000, p. 23. ^ a b 周藤 & 村田 2000, p. 24. ^ 周藤 & 村田 2000, pp. 25–26. ^ 周藤 & 村田 2000, pp. 26–27. ^ a b 周藤 & 村田 2000, p. 27. ^ 桜井 2005, pp. 48–49. ^ 周藤 1997b, p. 56. ^ a b 桜井 2005, p. 50. ^ 桜井 2005, p. 68. ^ 桜井 2005, p. 69. ^ 桜井 2005, pp. 69–70. ^ 周藤 & 村田 2000, pp. 27–28. ^ 桜井 2005, pp. 56–58. ^ a b 桜井 2005, p. 75. ^ モアコット 1998, p. 37. ^ 周藤 1997b, p. 58. ^ 周藤 & 村田 2000, pp. 28–29. ^ ロバーツ 2003, p. 124. ^ ロバーツ 2003, p. 126. ^ 桜井 2005, pp. 103–104. ^ 桜井 2005, pp. 105–108. ^ 桜井 2005, pp. 110–113. ^ 桜井 2005, pp. 114–117. ^ 桜井 2005, pp. 125–126. ^ a b 桜井 2005, pp. 126–127. ^ 桜井 2005, pp. 127–128. ^ 桜井 2005, pp. 120–122. ^ 桜井 2005, pp. 6–9. ^ モアコット 1998, pp. 13–16. ^ 周藤 1997a, p. 1196. ^ 桜井 2005, pp. 95–96. ^ 周藤 & 村田 2000, pp. 110–111. ^ 周藤 & 村田 2000, p. 111. ^ レベック 1993, p. 144. ^ 桜井 2005, p. 58. ^ 桜井 2005, p. 159. ^ モアコット 1998, pp. 132–133. ^ 周藤 2006, p. 38. ^ 周藤 2006, pp. 38–39. ^ a b 周藤 2006, p. 39. ^ a b 周藤 2006, pp. 40–41. ^ [1]NHKスペシャル『知られざる大英博物館』「古代ギリシア」の回 ^ NHKスペシャル『知られざる大英博物館』古代ギリシアの回 ^ 「ふしぎ発見!」が世界初の試み パルテノン神殿を色鮮やかに再現 参考文献 ピエール・レベック著 青柳正規監修『ギリシア文明 神話から都市国家へ』創元社、1993年。ISBN 4-422-21068-8。 ロバート・モアコット著 青木桃子訳 桜井万里子監修『古代ギリシア 地図で読む世界の歴史』河出書房新社、1998年。ISBN 4-309-61182-6。 周藤芳幸著『世界の考古学3 ギリシアの考古学』同成社、1997年。ISBN 4-88621-152-6。→周藤 (1997a)と表記 周藤芳幸著『図説 ギリシア エーゲ海文明の歴史を訪ねて』河出書房新社、1997年。ISBN 978-4-309-72564-2。→周藤 (1997b)と表記 周藤芳幸、村田奈々子『ギリシアを知る事典』東京堂出版、2000年9月。ISBN 978-4-490-10523-0。 周藤芳幸著『古代ギリシア 地中海世界への展開』京都大学学術出版会、2006年10月。ISBN 978-4-87698-816-7。 桜井万里子著『古代ギリシアの女たち アテナイの現実と夢』中公文庫、1997年。ISBN 978-4-12-205418-9。 桜井万里子著『ギリシア史』山川出版社〈世界各国氏〉、2005年。ISBN 978-4-634-41470-9。 関連項目
こうしたローマ人による搾取に対しては、紀元前149年の護民官、ルキウス・カルプルニウス・ピソ・フルギが、恐喝された金銭の返却請求法(Lex Calpurnia de repetundis)を成立させており、そのためのプラエトルが主宰する常設査問所(quaestio)が設置されていた。これはその当時はローマ市民権を持ったものだけが請求できたのだが、紀元前122年の護民官、ガイウス・センプロニウス・グラックスによって、外国人が直接訴えることができるように改変され、紀元前81年のコルネリウス法(Lex Cornelia de repetundis)でもその権利は残された。返還請求はまず民事として行われ、そこで被告が罪を認めた場合は直ちに損害賠償額の算定(litium aestimatio)に移るが、否定した場合には公訴事実を争うことになる。紀元前70年の1月、キケロはプラエトルのマニウス・アキリウス・グラブリオに訴訟を申請し、4000万セステルティウス(以下HS)を恐喝したとして査問所に被告の名が登録(nominis receptio)された[49]。
登場人物
ルキウス・カエキリウス・メテッルス (紀元前68年の執政官):前70年のシキリア担当プロプラエトル。ウェッレスの後任[50]。 クィントゥス・カエキリウス・ニゲル:前72年の恐らくシキリア西部担当クァエストル。ウェッレスの配下[51]。 マルクス・カエキリウス・メテッルス:前69年のプラエトル。恐喝罪査問所担当[52]。 クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・クレティクス:前69年の執政官[53]。 クィントゥス・ホルテンシウス・ホルタルス:当代一の弁論家。前69年の執政官[53]。 『カエキリウスとのディウィナティオ』 実はキケロが告発者に決まる前に一悶着あった。ウェッレスは自分の下でクァエストルを務めていたカエキリウス・ニゲルに強要恐喝罪で予め告発させていた。キケロも同じ罪で告発したため、どちらがより告発者としてふさわしいか、審判人による判定(Divinatio、神格化)[54]が必要だった。その時行われたキケロの演説が、『カエキリウスとのディウィナティオ(Divinatio in Caecilium)』である[55]。この演説では相手側弁護士のホルタルスが使ってくるであろう、「ジレンマ」を実演してみせ、それに対応できないカエキリウスの能力のなさを明らかにしつつ、自分ならホルタルスに対抗できることを見せつけることで、告発者として選ばれている[56]。
この前年の紀元前67年、ポンペイウスに対して、地中海の海岸線から約75km以内を範囲とするプロコンスル待遇でのインペリウム付与法案(Lex Gabinia de bello piratico)が通過したが、この前66年、対ミトリダテス戦争の指揮権にまでその適用範囲を広げる法案(Lex Manilia de imperio Cn. Pompei)が提出された[79]。これにはホルタルスら守旧派が弱々しい反対の声をあげたが、キケロは『マニリウス法について(De lege Manilia)』もしくは『グナエウス・ポンペイウスのインペリウムについて(De imperio Gn. Pompei)』という演説を行い[80]、過去のポエニ戦争などの例を挙げて賛成した[81]。