年表 9世紀 – アル・ラーズィーがコーヒー豆を原料とする飲料「バンカム」の記述を残す。 10世紀末/11世紀初頭 – イブン・スィーナーが「バンカム」の記述を残す。 13世紀頃 – 焙煎されたコーヒー豆で飲み物が淹れられるようになる。 1511年 – メッカでコーヒー弾圧事件(メッカ事件)が起きる。 1550年代 – イスタンブールにコーヒーを供する店が開店する。 17世紀初頭 – イスラーム法でコーヒーが公式に認可された飲み物となる。 1605年頃 – ローマ教皇クレメンス8世によってコーヒーに洗礼が施される。 1610年- イスラーム教徒ババ・ブーダンがメッカ巡礼の帰途イエメンから苗をインドに持ち帰えり、インドにてコーヒー栽培が始まる。 1650年 – オックスフォードにコーヒー・ハウスが開店する。 1652年 – ロンドンにコーヒー・ハウスが開店する。 1658年 – オランダ東インド会社によって、スラウェシ島とセイロン島でコーヒーの栽培が試みられる。 1669年 – ルイ14世に面会したオスマン帝国の使節を介してパリでコーヒーが流行する。 1671年 – マルセイユにフランス最初のコーヒー・ハウスが開店する。 1672年 – パリにコーヒー・ハウスが開店する。 1674年 – 「ロンドンの家庭の主婦」により、コーヒーに対する抗議文が発表される。 1679年/80年頃 – ハンブルクにコーヒー・ハウスが開店する。 1680年 – オランダによってジャワ島にイエメンから取り寄せたコーヒーの木が移植される。 1696年 – ニューヨークにコーヒー・ハウスが開店する。 18世紀頃 – 日本にコーヒーが伝来する。 1712年 – ヨーロッパに初めてジャワ産のコーヒーがもたらされる。 1715年 – フランス領レユニオン島でコーヒーの栽培が開始される。 1718年 – オランダ領スリナムでコーヒーの栽培が開始される。 1721年 – ベルリンにコーヒー・ハウスが開店する。 1723年 – マルティニーク島にコーヒーが移植される。 1732年 – イギリス領ジャマイカにマルティニーク島のコーヒーが移植される。 1740年 – フィリピンでコーヒーの栽培が開始される。 1750年-1760年頃 – グアテマラでコーヒーの栽培が開始される。 1773年 – ボストン茶会事件が起こる。 1773年/74年 – ブラジルのリオデジャネイロでコーヒーが栽培されたことが記録される。 1777年 – プロイセン王フリードリヒ2世によりコーヒー禁止令が出される[284]。 1800年頃 – ドゥ・ベロワにより、ドリップ・ポッドが改良される。 1800年頃 – パリでパーコレータが発明される[285]。 1842年 – コーヒーサイフォンの原型となるダブル・グラス・バルーンが発明される。 1870年代 – セイロン島、東南アジアでさび病が流行し、コーヒー産業が大打撃を受ける[286]。 1870年以降 – リベリカ種の栽培が開始される。 1878年 – 日本で初めてコーヒーの栽培が試みられる(小笠原諸島)。 1888年 – 日本初の本格的なコーヒーを供する飲食店・可否茶館が開店する。 1893年 – ケニア・タンザニアにコーヒーが伝わる。 1898年 – ベルギー領コンゴでロブスタ種が「発見」される。 1900年代 – キリマンジャロ山でコーヒーの栽培が開始される。 1901年 – パンアメリカン博覧会にインスタントコーヒーが出展される。 1907年 – ペーパードリップが開発される。 1938年 – ネスカフェの販売が開始される。 1958年 – 缶コーヒーが発明される。 脚注 [脚注の使い方] 注釈 ^ 当時のロンドンの人口が約600,000人であったことを理由として、3,000軒という数の信憑性を疑問視する意見が存在する[88]。 ^ 「ロンドンの家庭の主婦」による声明文は実際に女性によって書かれたものではなく、コーヒー・ハウスに出入りする文筆家やコーヒーの普及に脅かされるアルコール業界の要請を受けた人物によるものだと考えられている[93]。 ^ 大淀三千風が編んだ、元禄2年(1689年/90年)序のある『日本行脚文集』収録の「丸山艶文」には、コーヒーの別名の1つである「皐蘆(なんばんちゃ)」についての記述が存在する。しかし、「丸山艶文」で言及される「なんばんちゃ」はコーヒーではなく、紅茶だと考えられている[162]。 ^ 1878年(明治11年)生まれの物理学者寺田寅彦は、幼少期に「おくすり」として牛乳を飲まされた際、この臭気消しのコーヒーに魅了される[173]。ここには、明治中期のコーヒー糖と称する一種のインスタントコーヒーも出てくる(「路傍の石」にも登場)。 ^ 昭和30年代まで放香堂ではコーヒーが取り扱われていたが、その後販売されていない[178]。 出典 ^ a b c d e f “辻調おいしいネット”. カフェ・マニアックス. 2014年3月20日閲覧。 ^ a b c 猫井登『お菓子の由来物語』幻冬舎ルネッサンス、2008年9月、180-181頁。ISBN 978-4-7790-0316-5。 ^ ワイルド 2007, p. 53. ^ 臼井 1992, p. 8. ^ ワイルド 2007, p. 54. ^ 臼井 1992, p. 11. ^ Ukers, William H.. 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Amoebaの通信 Amoebaは、通信形態として、2地点間のメッセージ通信を使った遠隔手続き呼び出し (RPC、リモートプロシージャコール) とグループ通信の、2つの通信形態をサポートしている[10]。 この2つの通信形態は、通信プロトコルとして Fast Local Internet Protocol (FLIP) を使う。
グループ通信のプロトコルは、k 個のプロセサ群の損失 (クラッシュ) に耐えるように設計されている[13]。 グループの作成時には、この k という弾性係数を指定する。 k の大きさにしたがって、Amoebaはプロセサの冗長度を増減させる。 冗長度が増えると、耐故障性は高くなるが、実行は遅くなる。
Fast Local Internet Protocol Fast Local Internet Protocol (FLIP) は、ネットワーク層における通信プロトコルであり、Amoebaで使われている。 FLIPは、Amoebaの開発中に、並行して開発された。 Amoebaを構成するコンピュータ群は、すべてFLIPを使って相互に通信を送受信する。 概念的には、Amoebaでのネットワーク層プロトコルを、FLIP以外のIPなどの別のネットワーク層プロトコルに置き換えることは、可能である。 FLIPは、Amoeba以外のシステムでも実装することが可能である。 実際にUNIXで動くFLIPが実装されている。 すなわち、AmoebaとUNIXコンピュータの間でFLIPを使って通信することが可能であるし、さらにはAmoebaに依存せず、UNIXコンピュータ同士でFLIPを使って通信することも可能である。 またアンドリュー・タネンバウムは、FLIPの「MS-DOS用のバージョンを作れないという理由は見当たらない。」と述べている[14]。
関連項目 分散オペレーティングシステム 分散コンピューティング マイクロカーネル アンドリュー・タネンバウム 脚注 [脚注の使い方] ^ a b c A. S. タネンバウム ほか (1995) p.667 ^ a b A. S. タネンバウム ほか (1995) p.669 ^ A. S. タネンバウム ほか (1995) p.675 ^ A. S. タネンバウム ほか (1995) p.679 ^ A. S. タネンバウム ほか (1995) p.680 ^ a b c A. S. タネンバウム ほか (1995) p.683 ^ A. S. タネンバウム ほか (1995) pp.671-672 ^ a b c d A. S. タネンバウム ほか (1995) p.705 ^ A. S. タネンバウム ほか (1995) p.674, pp.715-718 ^ A. S. タネンバウム ほか (1995) p.684 ^ A. S. タネンバウム ほか (1995) p.690 ^ A. S. タネンバウム ほか (1995) p.691 ^ A. S. タネンバウム ほか (1995) p.696 ^ A. S. タネンバウム ほか (1995) p.700 ^ A. S. タネンバウム ほか (1995) pp.698-701 ^ “Why was Python created in the first place?”. Python FAQ. 2008年2月11日閲覧。 参考文献 『OSの基礎と応用 設計から実装, DOSから分散OS Amoebaまで』プレンティスホール出版、トッパン、東京、1995年。ISBN 4-89471-206-7。 外部リンク ウィキポータル 関連ポータルのリンク ウィキポータル FLOSS Amoeba WWW ホームページ – アムステルダム自由大学 分散オペレーティングシステムAmoeba – Fireball Software Distribution – SourceForge.net カテゴリ: 分散オペレーティングシステムオープンソースソフトウェア分散処理並行計算通信プロトコル情報技術のプロジェクトアンドリュー・タネンバウム 最終更新 2025年1月28日 (火) 07:01 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』
このころ、CPU社とアンディ・ホッパーは、彼の学位論文の成果である Cambridge Ring というネットワークシステムを商業化すべく Orbis Ltd を立ち上げたが、ケンブリッジ大学コンピュータ研究所との関係を強化したい CPU社は彼をCPU社のディレクターとして雇い入れた。CPU社はOrbisを買い取り、ホッパーの所有するOribis株はCPU社の株と交換された。エイコーンのブランドとしての成長と共にCPU社の役割は変化していき、間もなくCPU社は単なる持ち株会社となってエイコーンが開発も行うようになった。カリーはいずれかの時点でシンクレアと決別し SoC を退職したが、エイコーンに正式に参加するのはしばらく経ってからである。
Acorn System 1(1979年4月9日) 後に Acorn System 1 と改称された Acorn Microcomputer は、ソフィー・ウィルソンの設計である。技術者や研究者向けのシステムだが、非常に低価格であったため(約80ポンド)、ホビーストにも受け入れられた。2枚の基板で構成されており、1枚にはLEDディスプレイ、キーパッド、カセットインタフェースが装備され、もう1枚にCPUなどのコンピュータ本体が実装されていた。ほとんど全てのCPU信号にEurocardコネクタ経由でアクセス可能であった。
次の System 2 では、System 1 のCPU基板を19インチ(480mm)Eurocardラックに装着可能にしたもので、各種拡張機能をオプションで装備可能であった。典型的な System 2 には、キーボードコントローラ、外部キーボード、テキストディスプレイ用インタフェース、カセットOS、BASICインタプリタなどが装備されていた。
System 3 では、フロッピーディスクがサポートされ、System 4 では2台目のドライブを内蔵可能な大きめの筐体となった。System 5 は System 4 とほぼ同じだが、MOS 6502 の2MHz版を使っている。
Atom 1979年5月、Science of Cambridge でZX80の開発が始まった。これを知ったカリーは、一般市場向けの Atom プロジェクトを立ち上げた。カリーら設計者は、カリーの自宅でマシンの設計を行った。このころ、エイコーン・コンピュータが株式会社化され、カリーは完全にエイコーンで働くようになった。
カリーは一般市場への参入を望んでいたが、エイコーン内の他の派閥は、実験機器市場向けに開発を行っている企業がホームコンピュータのような馬鹿げた製品を扱うことには反対していた。反対派が Atom に疑問を差し挟めないようコストを切り詰めるため、カリーは工業デザイナー Allen Boothroyd にマイクロコンピュータシステムの外部キーボードとしても使えるようなケースの設計を依頼した。System 3 の中身をそのキーボードに詰め込み、典型的な安価なホームコンピュータ Acorn Atom が完成し、それなりの成功を収めた。
ソフトウェア開発のため、社内に独自のLANを設置していた。これを Econet と名づけ、Atom にも装備することが決定された。1980年3月、とあるコンピュータショーで8台の Atom を使い、ファイルを共有したり、別のマシンに表示をしたり、別のマシンからキーボード入力を受け付けたりといったデモが披露された。
BBC Micro と Electron
BBC Micro(1982年) Atom がリリースされた後、エイコーン内では Atom の後継となる16ビットプロセッサを自社開発すべきかどうかを議論した。長い議論の末、ハウザーは妥協案としてCPUは6502のままでシステムとしての拡張性を大幅に強化した Proton というマシンを提案した。エイコーンの技術者らは Proton こそ正しい選択肢だと考えた。
Acorn Electron 1982年4月、シンクレアは ZX Spectrum をリリースした。カリーはこれに対抗すべく、200ポンドを切る Acorn Electron の開発を立ち上げた。これは BBC Micro の廉価版であり、基本機能のほとんどが共通となるよう回路を集積回路化して低価格化している。しかし1983年8月にリリースしたものの、このカスタムチップの供給が十分でなかったために十分な台数が出荷できない状態が続き、1984年になって別の半導体製造業者と契約してやっと問題を解決した。
エイコーン・コンピュータ・グループ (1983年–85年) BBC Micro は非常によく売れ、エイコーンの利益は1979年にはわずか3000ポンドだったものが、1983年6月には860万ポンドに達した。1983年9月、CPU社は清算され、エイコーンは「エイコーン・コンピュータ・グループ(Acorn Computer Group plc)」として非上場証券市場で扱われるようになり、Acorn Computers Ltd はそのマイクロコンピュータ部門となった。最低入札価格120ポンドで、同グループの時価総額は約1億3500万ポンドとなった。CPU社の創設者であるハーマン・ハウザーとクリス・カリーは一躍億万長者となった(ハウザーの5325万株は約6400万ポンド、カリーの4300万株は約5100万ポンド)。
新たなRISCアーキテクチャ Atom の時代から、エイコーンでは MOS 6502 プロセッサからどう移行していくかを模索していた。例えば1982年には 65816 を使った16ビット機 Acorn Communicator をリリースしている。
1981年8月12日、IBM PC が登場した。これは BBC Micro のようなホビースト向けだったが、実際に成功したのはビジネス市場だった。後継の XT は1983年初めに登場した。CP/Mを搭載したZ80ベースのマシンやこれらPCの成功により、ビジネス市場が多少高価であっても十分に需要のある市場であることが証明された。したがってエイコーンがビジネス市場向けのマシンを開発することは自然の流れだった。エイコーンは既存技術を使ったビジネスマシンの開発計画を立てた。すなわち、BBC Micro のメイン基板を流用し、Tube 経由で CP/M、MS-DOS、UNIX(XENIX)が動作する追加プロセッサを実装する方式である。
Electron は1983年にリリースされたが、カスタムチップの供給問題で1983年のクリスマス商戦に十分な製品を供給できなかった。宣伝はうまくいったため30万台の注文が入ったが、出荷できたのはわずか3万台だった。しかし、消費者は出荷を待ってはくれず、コモドール64や ZX Spectrum へと流れていった。フェランティとの契約で出荷数の問題は1984年には改善されたが、エイコーンが部品供給業者らと結んだ契約は、状況に応じて生産量を減らせるような柔軟なものではなかった。同年末にはエイコーンは25万台のElectronの在庫を抱えるという事態に陥った[2]。
エイコーンは収入の大部分を開発に費やしていた。BBC Master が開発中であった。ARM プロジェクトも進行中だった。Acorn Business Computer は多大な開発費をかけながら、それまでのところ 32016 ベースのバージョンが若干売れただけで、ほとんど利益を生んでいなかった。そしてアメリカ市場進出のための連邦の認可作業は難航していた。全ての拡張機器の試験が必要で、電磁波放射量を減らす必要があったのである。約2000万ドルがアメリカ進出に費やされ、BBC Micro の NTSC 版はほとんど売れなかった。ただし、1984年の映画『スーパーガール』で学校にあるコンピュータとして BBC Micro が登場している。
ARMアーキテクチャを使った最初の商用製品は ARM Development System で、BBC Master の Tube 経由の追加プロセッサとしての実装であった。約4000ポンドで、ARMプロセッサと3個のサポートチップと4MiBのRAM、開発ツール群と拡張版 BBC Basic が同梱されていた。
ARM を使った二番目の製品は Acorn Archimedes というデスクトップ・コンピュータであり、1987年にリリースされた。Archimedes はイギリス、オーストララシア、アイルランドで人気となった。当時としては極めて強力なマシンだったが、時代はすでにPC/AT互換機が主流となっていた。エイコーンはラップトップ型の Archimedes などもリリースし、1994年には Risc PC をリリースした。Risc PC には後に200MHz以上の StrongARM プロセッサも搭載された。これらはビジネス用途ではほとんど売れず、教育用や娯楽用として主に売れた。
ARM Ltd エイコーンの半導体製造パートナーだったVLSIテクノロジー(英語版)は、ARM CPU とそのサポートチップの新たな応用を捜し求めていた。ハウザーはハンドヘルド機器を開発する会社を立ち上げ、そこで使うためのスタティック版プロセッサARMv2aSが開発された。
Appleは全く新しい機器Apple Newtonを開発していた。プロセッサに対しては、電力消費量、コストパフォーマンスなどの様々な要求があり、クロックを任意の時点で停止可能なスタティック性も求められていた。これらの要求のほぼ全てに応えられるプロセッサとしては ARM しかなかったが、まだ問題があった。例えば、ARM にはメモリ管理ユニットが内蔵されておらず、MEMC という外部サポートチップで実現していた。しかしエイコーンにはそのような開発をするリソースがなかった[3]。
セットトップボックス 1994年、エイコーンの子会社 Online Media が創設された。Online Media は当時のビデオ・オン・デマンド(VOD)のブームに乗って設立された会社で、ネットワーク経由でビデオコンテンツを選択して視聴する双方向番組システムの開発を目指していた。1994年9月、Online Media は Anglia Television、Cambridge Cable、Advanced Telecommunication Modules Ltd(ATML)と共にVODサービス Cambridge Trial を開始した[6]。これは、ATMネットワークによってTV会社と契約者をつなぎ、デリバリサービス、ホームショッピング、オンライン教育、オンデマンドのソフトウェアダウンロード、World Wide Web といったサービスを提供する実験的事業だった。ネットワークには、光ファイバーと銅線ケーブルが使われ、スイッチは Cambridge Cable の既存のネットワーク用に道端に設置されているキャビネット内に置かれた。オリベッティの研究所がこの実験で使われた技術を開発した。ICLのビデオサーバがサービスを提供し、ハウザーらが創設したATMLがATMスイッチを製造した。実験は2Mbit/sの速度で開始され、後に25Mbit/sまで速度を上げた[7]。契約者は Online Media 製のセットトップボックスを使用した。実験当初の6カ月は10台のVOD端末が使われ[7]、第二段階で100軒の個人宅と8つの学校に対象が拡大され、150台以上の端末が使われた。この実験には、ナショナル・ウエストミンスター銀行、英国放送協会、郵便局、テスコ、地元の教育委員会などもそれぞれ何らかの形で協力している。
Online Media は独立採算可能となることが期待されたが、VODのブームが具現化することはなかった。
ネットワークコンピュータ BBC Two の番組 The Money Programme でラリー・エリソンが1995年10月に出演してインタビューを受けた。これを見た Online Media の Malcom Bird はエリソンの言うネットワークコンピュータ(NC)が基本的にエイコーンのセットトップボックスと同じであることに気づいた。オラクルとオリベッティの話し合いの後、Bird はエイコーンのセットトップボックスを持ってサンフランシスコに飛んだ。オラクルはすでにサン・マイクロシステムズやアップルとNCの開発について交渉中だった。Bird のオラクル訪問の後、エリソンがエイコーンを訪れ、契約が結ばれた。エイコーンがNCの標準を定義することになったのである。
エイコーン解体(1998年-2000年)とその後の技術開発 セットトップボックスは期待したほど売れず、ネットワーク・コンピュータもほとんど売れなかった。これらは普通のコンピュータより低価格であることが強みだったが、パーソナルコンピュータの急激な低価格化でその利点も無意味となった。また、家庭への回線の帯域幅もどんどん拡大していった。1996年から1998年にかけて、オリベッティはエイコーン・グループを手放し、一連の取引で5400万ポンドを得た。エイコーンはリストラを開始し、子会社を吸収して部門とした。Acorn RISC Technologies はワークステーション部門となったが1998年末には廃止され、エイコーンはデスクトップコンピュータやセットトップボックスの製造を止めた。そのころ新たなマシン Phoebe(または Risc PC 2)がほぼ完成していたが、販売されることなく終わった。製造のために確保されていた筐体は安く売られた。
ARM社は順調で、1998年には株式公開(IPO)を果たした。
1999年1月、エイコーン・コンピュータは名称を Element 14 Ltd とし、チップとソフトウェアのIP開発企業、特にデジタルテレビ市場に注力する企業となった[12]。このころ、エイコーン・グループの時価総額はARMの時価総額の24%程度になっていた。そのため、株主からエイコーンの保有するARM株を売却させようとする(そうして得られた金を配当に回させる)圧力が働いた。また、ARM側もこの状況に対して動こうとした。エイコーンのような脆弱な企業がARM社の株の多くを保有していることは危険だからである。1999年6月1日、Morgan Stanley Dean Witter Investments Limited (MSDW)がエイコーン・コンピュータ・グループを買収した。これによってエイコーン・グループは上場廃止となり、同社が保有していたARM株はエイコーンの株主に分配された。
セットトップボックス部門はMSDWによって Pace Micro Technology に20万ポンドで売却され、Pace は1999年7月26日に RISC OS の権利を得た[13]。 Stan Boland を中心としたエイコーン経営陣はMSDWから Element 14 部門を150万ポンドで買い戻した。その後 Element 14 はいくつかのベンチャーキャピタルから825万ポンドを集め、運営が続けられた。同社はアルカテルのDSL技術者をヘッドハンティングすることに成功した[14]。その後、Element 14 はブロードコムによって2000年11月に3億6600万ポンドで買収された[15]。
エイコーンの商標の復活 2006年、エイコーンの商標権はフランスの企業 Aristide & Co Antiquaire De Marques からノッティンガムの新たなエイコーン・コンピュータにライセンス供与された[16]。同社はWindowsベースのコンピュータ企業であって、元のエイコーン・コンピュータとは無関係である。
関連項目
ウィキメディア・コモンズには、エイコーン・コンピュータに関連するカテゴリがあります。 オリベッティ 脚注 ^ From Atom to ARC, Acorn User 1988 ^ Technologies time forgot: the Acorn Electron, Silicon.com ^ a b Low power hardware for a high performance PDA, M. Culbert, in Low Power Electronics, 1994. Digest of Technical Papers., IEEE Symposium, 1994. ^ a b c Acorn Group and Apple Computer Dedicate Joint Venture to Transform IT in UK Education, press release from Acorn Computers, 1996 ^ ARM milestones, ARM website ^ ARM7500 Press Release, Advanced RISC Machines Ltd press release, 1994年10月18日 ^ a b Cambridge Corners the Future in Networking, TUANZ Topics, Volume 05, No. 10, November 1995 ^ Five Go Nuts in Cambridge, Wired UK magazine 2.09, September 1996 ^ Acorn Looks to the Stars With New Galileo Operating System, Acorn Computer Group press release, 1997年2月10日 ^ Acorn World ’97 Transcripts ^ European Telecoms Brace for Change, Byte magazine, June 1997 ^ Acorn renamed, refocused as Element 14, EE Times, 1999年1月14日 ^ Element 14 BBQ ^ Element 14 snatches Alcatel DSL designers, Electronics Weekly, 2000年2月9日 ^ Broadcom buys Element 14, Electronic News, 2000年10月9日 ^ DRS Number 03682, Acorn Computers Limited and Roy Johnson, Nominet UK Dispute Resolution Service 参考文献 Personal Computer World review of the BBC Micro (BBCとの契約の詳細がある), December 1981 Personal Computer World “ARM’s Way” (Lisa、バークレーRISCの影響、製造時期など), April 1988, Electronics Weekly “The history of the ARM CPU”, ‘The ARM RISC Chip: A Programmers’ Guide’ by Carol Attack and Alex van Someren, published 1993 by Addison-Wesley より “From Atom to ARC – The ups and downs of the development of Acorn”, from October, November and December 1988 editions of Acorn User. “ARM’s Race to Embedded World Domination” Paul DeMone, 2000。MC68000を6502の代替として検討した話が含まれている。 “Sophie Wilson’s most admired CPU” Sophie Wilson Flotation of Acorn on Unlisted Securities Market, Electronics Times, 6 October 1983 外部リンク The Acorn Atom pre-history RISC OS and Acorn pages Atom Review Acorn Computers 新しいエイコーン・コンピュータのウェブサイト。かつてのエイコーンとは無関係。 About Acorn computers and ARM processors Acorn information from Retro Madness Reference Material at Drobe Launchpad、RISC OS と エイコーンのハードウェアについての資料 RISC OS Ltd. ライセンス供与を受けて RISC OS を開発している企業 AdvantageSix RISC OS の動作するコンピュータや組み込みシステムを開発する企業 Castle Technology 現在の RISC OS の所有者 典拠管理データベース ウィキデータを編集 全般 VIAF 国立図書館 ドイツ カテゴリ: かつて存在したコンピュータ企業かつて存在したイギリスの企業 最終更新 2023年9月6日 (水) 01:30 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』