オアシスの道(オアシス・ルート)
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『 世界史研究 > 諸地域世界の交流 > 陸と海のネットワーク
公開日 2017-09-24
最終更新日 2023-09-04
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海の道(マリン・ルート)
オアシスの道(オアシス・ルート)
中央アジアの乾燥地帯にあるオアシス都市を結び、東アジア・西アジア・南アジア間を最短距離で結ぶ交通路である。
このルートの主たる輸送手段は、乾燥に強いラクダによる隊商(キャラヴァン)である。
このルートのオアシス都市は、東西交渉の発展と拡大の中で興隆し、多くの都市国家が栄えた。
オアシスの道(オアシス・ルート)
海の道(マリン・ルート) 草原の道(ステップ・ルート) 三つの道 東西交流の三つの道地図
東西交流の三つの道地図 ©世界の歴史まっぷ
オレンジ線がオアシスの道
中央アジアの乾燥地帯にあるオアシス都市( オアシス都市国家)を結び、東アジア・西アジア・南アジア間を最短距離で結ぶ交通路である。
このルートの主たる輸送手段は、乾燥に強いラクダによる隊商(キャラヴァン)である。
長安から西行して黄河上流の蘭州を過ぎると砂漠が広がり、中国の最も西の端にある敦煌からは、タリム盆地を挟んで南北両道に分かれる。
北道にはハミ・トゥルファン(高昌こうしょう)・クチャ(亀茲きじ)などがあり、南道にはローラン(楼蘭)・コータン(于闐うてん)・ヤルカンド(莎車さしゃ)などがある。
こうして西行を続けるとパミール超えにかかる。
パミール高原を超えて西トルキスタンへ入り、サマルカンド・ブラハからイラン高原・シリアへ、またパミール高原から北インド方面に行くことができる。
このルートのオアシス都市は、東西交渉の発展と拡大の中で興隆し、多くの都市国家が栄えた。
アケメネス朝 新思想の成立 マガダ国 紀元前500年前後 アケメネス朝ペルシア版図 と周辺諸国の地図 アケメネス朝ペルシア版図と周辺諸国地図
アケメネス朝ペルシア版図と周辺諸国地図 ©世界の歴史まっぷ
アレクサンドロス大王 アルゲアス朝 5.ポリスの変容とヘレニズム時代 アレクサンドロス3世 アレクサンドロス大王東方遠征進路地図
アレクサンドロス大王東方遠征進路地図 ©世界の歴史まっぷ
西方では、紀元前6世紀末からアケメネス朝( アケメネス朝)が進出し、続いて紀元前4世紀後半にはアレクサンドロス3世の東征( アレクサンドロス大王)によって中央アジアからインド西境にいたる統一がおこなわれ、これによってヘレニズム文化と呼ばれる独特の文化が形成された。
また東方では、紀元前2世紀後半の張騫の派遣に始まる前漢 武帝(漢)の西域進出、1世紀末、後漢の班超による西域経営、7世紀から8世紀前半における唐の西域経営など、中国の政権が安定すると、常にこと地域への進出が試みられた。
イラン系のソグド商人に代表される隊商民は、オアシスの道を東西に移動し、また各オアシス都市は中継貿易によって利潤をあげた。
漢代のオアシス都市国家地図 オアシス都市国家 亀茲 漢代のオアシス都市国家地図
漢代のオアシス都市国家地図 ©世界の歴史まっぷ
仏教伝来要図
仏教伝来要図©世界の歴史まっぷ
このルートは、物資や利益をもたらしただけでなく、東西の文化交流においても重要な意味をもった。
シルク・ロードの呼び名にもなったように、中国産の生糸や絹は重要な商品であったが、養蚕の技術も次第に西方に伝播していった。
製紙法も中国で発明されたが、751年のタラス河畔の戦いにおいて、捕虜となった唐人の紙漉き職人によって西方に伝えられ、757年にはサマルカンドに紙工場が建てられた。
また西方の文物もこの道を通って東方に伝えられた。
タラス河畔の戦いでは、アッバース朝と唐(王朝)の二大国が中央アジアの覇権を争った。
この結果、唐(王朝)が敗北し、西域の経営から後退することとなる。
ヘレニズム文化やイラン系の文物は中国を経由して我が国の正倉院の宝物などにも影響が見られる。
また中国とインドとの交通もこの道を通じて行われ、インドで生まれた大乗仏教がこの道を経由して中国に伝播した。
正倉院は、奈良東大寺の宝物倉。8世紀に建立されてから一度も災害にあわず、中国などではすでに失われてしまった当時の貴重な文物を伝えている。
養蚕の西方への伝播
養蚕の技術は、古代中国人の創始によるものであり、中国では絹を重要な輸出品としていた。
このため中国では蚕の輸出を禁止していた。
言い伝えによれば、コータンの王が蚕を得ようとして中国の公主(皇帝の娘)の降嫁を願い、攻守の髪に蚕を忍ばせて持ち出したという。
こうして養蚕の技術は、次第に西方に伝播し、ビザンツ帝国では、大規模な絹織物工場がつくられるにいたっている。
諸地域世界の交流年表
紀元 年 関連事項
紀元前6世紀 スキタイ人、南ロシアで活躍
344 アレクサンドロス3世の東方遠征開始
209 冒頓単于即位、匈奴全盛
紀元前2世紀 前漢の武帝(漢)即位、西域経営を推進
139 張騫、大月氏に派遣される
紀元後 97 甘英、ローマ帝国に派遣される
166 大秦国王安敦の使者、中国に至る
2世紀 仏教が中国(後漢)に伝わる
399 法顕(東晋の僧)、インドに赴く
401 鳩摩羅什、洛陽に至る
600
621
長安にゾロアスター教寺院建立
629 玄奘(唐の僧)、インドに赴く
635 唐に景教(ネストリウス派)伝来
651頃 唐にイスラーム教伝来
671 義浄(唐の僧)、インドに赴く
694 唐にマニ教伝来
700 751 タラス河畔の戦い、製紙法が西伝
1000 1096 十字軍(〜1291)
1200 1219 チンギス・カン、中央アジア遠征
1241 ワールシュタットの戦い
1245 プラノ・カルピ二、モンゴルへ出発
1252 ウィリアム・ルブルック、モンゴルへ出発
1258 フレグ、バグダードに入城
1275 マルコ・ポーロ、大都に至る
1294 モンテ・コルヴィノ、大都で布教
1300 1346 イブン・バットゥータ、大都に至る
1400 1405 鄭和の南海遠征(〜33)』