対中関税大幅引き上げ:繰り返される米国による経済制裁の本質

対中関税大幅引き上げ:繰り返される米国による経済制裁の本質
https://cigs.canon/article/20240523_8117.html

『JBpress(2024年5月17日)に掲載

  1. 米国政府の対中追加関税引き上げの中身

6月14日、米国政府が中国に対して追加関税引き上げを発表した。

その主な内容は、中国製の電気自動車(EV)に対する輸入関税を現行の25%から100%に引き上げるほか、半導体、太陽光パネルは25%から50%へ、その他の車載用電池、鉄鋼・アルミ等は25%にまで関税を引き上げるというものである。

不公正な取引慣行に対する制裁措置を定めた米国の国内法である「通商法301条」に基づく措置として実施された。

これに対して中国は「通商法301条」に基づく制裁措置が世界貿易機関(WTO)のルールに違反するものであると批判。

「自国の権益を守るために断固した措置を採る」と発表するともに、追加関税の即時撤廃を要求した。

日本のメディアも、「米国内で中国製EVはほとんど流通しておらず、追加関税の根拠はあいまいだ。WTOのルールでは今回のように『相殺措置』として追加的な関税を課すには、国内産業が実質的な損害を受けていると立証する必要がある」(日本経済新聞、5月14日)と今回の米国の発表を批判的に論評している。

  1. 通商法301条に基づく経済制裁の問題点

通商法301条は米国の国内法である。

各国が自国内で定めたルールを外国に対して適用すれば、相手国もそれに対して報復措置を実施し、対立がエスカレートして保護主義的な貿易戦争に陥るリスクが高まる。

自由貿易が阻害されれば、各国が自由に貿易することができなくなり、世界全体の経済発展にとって大きな障害となる。

特に自国内で生産できる品目が限られている中小国家が受けるダメージが大きい。

かつて第1次、第2次世界大戦の引き金となった要因の一つが保護主義の激化に伴う経済のブロック化だった。

第2次世界大戦後、二度とこのような世界大戦を招くことがないように各国が協力して推進したのが自由貿易体制の構築だった。

1947年に世界各国が署名した「関税および貿易に関する一般協定」(General Agreement on Tariffs and Trade)、略称GATT(ガット)により、国際貿易の自由化に向けた世界共通のルールが初めて設定された。

その理念が継承されて1995年には世界貿易機関(WTO、World Trade Organization)が設立された。

各国が保護主義による貿易摩擦を激化させることがないよう、自国利益を守るために自由貿易を制限する場合には、まずWTOに提訴し、その審査を経て相手国の保護貿易的行動によって被害が生じたことが認定されれば、制裁措置を実施することが認められる。

それが国際的に合意された本来の手続きである。

しかし、今回の米国の対中経済制裁はそうした手続きを踏まえず、米国の国内法に基づいて一方的に経済制裁を発動したものである。

これが各国で合意したルールに反しているのは明らかである。

中国が法治を重視するのであれば、WTOに提訴し、米国の採った措置に対してWTOが下す判断を待ち、その上で適切な対抗措置を講じるべきである。

これまで中国自身も米国の経済制裁に対して、WTOによる判断を待たずに、米国に対して報復制裁を実施してきた。

その内容は米国が中国に対して実施する厳しい制裁の中身に比べてマイルドであるが、国際的に合意されたルール上の手続きを踏まえていないという点では米国政府の行動と同様の問題がある。

  1. 法治重んじる日本の立場と外交姿勢

このように米中両国はいずれも国際的なルールから逸脱し、制裁と報復を繰り返してきているが、これは法治の理念に反している。

日本政府はこれまでも、WTOを中核とするルールに基づく多角的貿易体制の下での各国の連帯を繰り返し強調してきた。

特に中国に対しては、貿易問題に限らず、ルールに基づいて行動するよう強く求めてきている。

しかし、問題は米中両国に共通している。

特に米国は、国内政治における議会対策、大統領選挙対策として、対中強硬姿勢を示すために国際的に合意されたルールを無視して経済制裁を実施していることは誰の目にも明らかである。

それにもかかわらず、これに対して日本政府が批判しないのは公平性を欠いていると言わざるを得ない。

かつて、1980年代から90年代にかけて、日本自身がこうした米国の国内政治事情に基づく対日圧力に苦しんだ歴史は、内閣府経済社会総合研究所作成の「バブル/デフレ期の日本経済と経済政策」(平成23年3月発行)第1巻第4章日米貿易摩擦にも克明に記録されている。

自国がそうした経験で苦しみ、その問題の本質をよく理解しているにもかかわらず、同盟国だからということで問題点を指摘しないという姿勢は国際的な信頼を得にくい。

  1. 日本では数百年前から周知、法治の欠陥

国際社会において法治の仕組みは、米中のような超大国が他の中小国を制御するために利用するものであり、超大国は自国の利益を優先し、ルールを無視するのが常である。

このためルールを厳格に定めるほど中小国は自由を奪われ、超大国との格差が広がる。

その問題点は国際社会での法治に限ったことではなく、法治そのものの特質である。

この点については、日本の江戸時代の知識人は誰でも読んだと言われる名著に明確に述べられている。

江戸期において日本の聖人と呼ばれて広く尊敬されていた中江藤樹(1608~1648年)の代表作「翁問答」である。

その中に法治について次のような記述がある。

「君のこころ明らかにして道を行ひ、国じゅうの手本かがみと定めたまふが政(まつりごと)の根本なり。法度の箇条はまつりごとの枝葉なり。(中略)本を捨てて末(枝葉)ばかりにて治むるを法治といひて、よろしからず」

筆者解釈:君、すなわち国家のリーダーが誰の目からも明らかなように人としてあるべき道を実践し、国民の手本となることが政治のあるべき姿の根本である。法制度の各規定は国政の枝葉の部分である。国家統治の根本である人の道を重んじる心を捨てて、末梢の細かいルールに基づく国家統治のあり方(ガバナンス)を法治と呼んでおり、好ましいことではない。

「法治はかならず箇条あまたありてきびしきものなり。(中略)法治は厳しきほど乱るるものなり」

筆者解釈:法治は必ず様々な規定の項目によって人々を厳しく統治するものである。法治は厳しいほど(人々がルール遵守ばかりを重視し、人としてあるべき道を自ら主体的に考えなくなるため)社会は乱れる。

「徳治は先我が心を正しくして、人の心を正しくするものなり。(中略)法治は我が心は正しからずして、人の心を正しくせんとするものなり」

筆者解釈:徳治はまずリーダー自身が自分の心を正しくして、その上で人の心の正しさを求めるものである。法治とは、リーダー自身は自分の心を正しくすることなく、人の心を正しくしようとするものである。

以上から明らかなように、江戸期の知識人であれば、現在の国際社会における米中両国の行動の問題点の本質をすぐに見抜いていたはずである。

その問題行動を起こしている両国に対して日本は、「心を正しくすること」を公平に求めるべきである。

米中両国のみならず、両国の姿勢を正そうとする姿勢を示していない日本を含めて、今の国家リーダーは、目先の利益にばかりとらわれて国としてのあるべき道を踏み外していると、江戸期の人々であれば誰でもそう思うのではないだろうか。

瀬口 清之 研究主幹 』