戊辰戦争と輸入西洋式銃

戊辰戦争と輸入西洋式銃
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『「戊辰戦争」は、明治時代初期に起こった「新政府軍」と「旧幕府軍」による内戦の総称です。1868年(慶応4年)1月に京都で始まり、翌年の5月に北海道の函館で終結しています。そんな戊辰戦争は日本刀などの刀剣類も用いられましたが、大量の輸入西洋式銃が投入された近代的な戦争でもありました。

その影には1853年(嘉永6年)の黒船来航以来、通商を許可された欧米各国より派遣された商人がいます。商人らは日本で小銃や弾薬などを諸藩に輸入し販売。どんな輸入西洋式銃が日本へもたらされたのか紐解いていきましょう。

目次

戊辰戦争が起きるまで
日本に西洋式銃を売った外国人
戊辰戦争で活用された輸入西洋式銃
戊辰戦争にかかわりのある西洋銃
日本初の国産銃とかかわりのある西洋銃
アメリカで活躍した西洋銃

戊辰戦争が起きるまで

大政奉還

15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が将軍になった翌年の1867年(慶応3年)1月に、「孝明天皇」(こうめいてんのう)が崩御します。孝明天皇は、朝廷と幕府の協力体制である「公武合体」(こうぶがったい)を望んでいた人物だったため、倒幕派の諸藩らは口を挟むことができませんでした。

しかし孝明天皇が亡くなったことで倒幕派の中心となっている薩摩藩や長州藩が、武力で幕府を倒そうと画策。危機を察した徳川慶喜は、戦を回避するため同年11月に朝廷に政権を返上する「大政奉還」を行い自ら江戸幕府を終わらせました。

大政奉還後も、徳川慶喜は将軍時代と変わらない勢力を持ったまま政治に関与。「これでは江戸幕府と同じだ」と考えた倒幕派は強硬手段に出ます。御所を占拠し「王政復古の大号令」(おうせいふっこのだいごうれい:天皇を中心とする政治体制に戻すこと)を発すると徳川家を排除し新政府の樹立を宣言したのです。

新政府は徳川慶喜に、役職と領地を返納させる「辞官納地」(じかんのうち)を要求し徳川家の弱体化を狙います。さらに新政府側は、旧幕府側を挑発しようと各地で放火や強盗を起こしました。怒った旧幕府側がついに薩摩藩邸を襲撃。その知らせは大阪にいた徳川慶喜や周囲の幕臣にも届きます。幕臣らの「新政府軍を討つべし」といった声が高まっていたことから、徳川慶喜は武力衝突を避けることができないと考え新政府軍との戦を決意したのです。

1868年(慶応4年)1月の「鳥羽・伏見の戦い」を皮切りに、新政府軍は江戸に進撃。江戸への総攻撃は直前に中止となったものの、主戦派の旧幕府側が「上野戦争」を起こしました。そして抵抗を続ける旧幕府軍によって東北「北越戦争」、「会津戦争」へと転戦し、さらに北海道の「函館戦争」へと続きます。こうした一連の内戦となる戊辰戦争は、翌年の1869年(明治2年)に鎮圧されました。

月岡芳年「会津若松戦争之図」(刀剣ワールド財団所蔵)

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日本に西洋式銃を売った外国人

すぐに終結するかと思われていた戊辰戦争でしたが、新政府軍と旧幕府軍、どちらも大量の輸入西洋式銃を導入していたため、なかなか決着することはなかったと言います。そこには銃火器や弾薬の輸入を目的とした欧米各国による商人の存在がありました。外国人商人達は日本の内戦を大きな商機と見て、販路を広げようとしていたのです。

倒幕派とイギリス商人「トーマス・グラバー」

1862年(文久2年)に薩摩藩がイギリスに敗れた「薩英戦争」や、1863年(文久3年)に長州藩が同じくイギリスに敗れた「下関戦争」にて、攘夷思想(外国人を排除する考え)が強かった2藩はヨーロッパに立ち向かうのは難しいことだと考えを改めることになります。

戦争以降、薩摩藩や長州藩はイギリスに接近して軍備増強を図って倒幕運動を推し進める方向へと転換。イギリス商人「トーマス・グラバー」の「グラバー商会」を通じて、「ゲベール銃」などを購入します。トーマス・グラバーは生糸や茶を扱う商人でしたが、日本の政治情勢に商機を感じ武器の輸入販売に切り替えました。

薩摩藩や長州藩をはじめ、幕府側の諸藩にも銃や火砲、弾薬を販売します。ゲベール銃の次は「エンフィールド銃」へ、さらにエンフィールド銃の改造機「スナイドル銃」が主流となればスナイドル銃を日本へと輸入しました。

トーマス・グラバーは、戊辰戦争終結後も日本に留まり、日本人女性と結婚。明治時代以降は、炭鉱開発や造船所の設立など手広い経営を行います。外国人としては破格の扱いである「勲2等旭日重光章」を下賜されるなど、明治維新に大きく貢献した人物として評価されているのです。

江戸幕府と「ナポレオン3世」の贈り物

薩摩藩や長州藩がグラバー商会から武器を購入していたのと同じ頃、江戸幕府はフランスの「ナポレオン3世」より2,000挺の小銃が贈られていました。贈られた銃はフランスが開発したボルトアクションライフルの「シャスポー銃」です。シャスポー銃は現代とほぼ同じ機構を持つ銃になり、薬莢(やっきょう)後ろの雷管を撃針が突き破る摩擦で発火させ発射する方式になります。

そこで問題は、シャスポー銃の専用薬莢が紙製だったことです。乾燥した気候のフランスならば使いやすかったのですが、日本の高温多湿では紙や火薬が湿って不発射や遅発が多かったと言います。そして銃が2,000挺あったとしても、明らかに弾薬が足りませんでした。そののち、「江戸城」(現在の東京都千代田区)が新政府軍に引き渡された際、武器蔵には未使用のままのシャスポー銃がしまわれていたと言います。

旧幕府軍と「スネル兄弟」

薩摩藩や長州藩にグラバー商会が付いていたのと同じように、旧幕府軍にも武器を売る商人がいました。それはプロイセン人の「スネル兄弟」です。兄「ヘンリー・スネル」と弟「エドワルド・スネル」の2人は、日本の横浜開港後に父と店を構え西洋雑貨などを販売していました。

エドワルド・スネルはスイス領事館の書記官も務めていましたが、弟の代理で兄のヘンリー・スネルがスイス領事とともに大阪へ出張。乗り合わせた船で越後国(現在の新潟県)の長岡藩藩主「牧野忠恭」(まきのただゆき)と家老「河井継之助」(かわいつぎのすけ)と出会います。このときの縁によってスネル兄弟は、北越戦争の旧幕府側となる「奥羽越列藩同盟」(おううえつれっぱんどうめい)に小銃や最新式の「ガトリング砲」などを供給するきっかけとなるのです。

また兄のヘンリー・スネルは、武器売買の関係で会津藩藩主「松平容保」(まつだいかたもり)より会津に招かれ「平松武兵衛」の名や、羽織、脇差を拝領。羽織と脇差を気に入ったヘンリー・スネルは、平素もそれらを身に着け前線を視察し大砲を撃つなどしたと記録されています。

戊辰戦争で活用された輸入西洋式銃

戊辰戦争では多くの輸入西洋式銃が投入されました。新政府軍と旧幕府軍が活用した銃火器について解説しています。

ゲベール銃

ゲベール銃は、1670年代(寛文10年~延宝7年)にフランスで開発された小銃です。弾薬の装填は、「前装式」(ぜんそうしき)と言い、銃口から火薬と弾丸を入れる「先込め式」(さきごめしき)となります。点火方式は最初、日本の火縄銃と同じ「マッチロック式」でしたが、後に「パーカッションロック式」(雷管式)に替わりました。

日本で公式にゲベール銃が輸入されたのは1832年(天保3年)のこと。江戸幕府で長崎町年寄を務めた「高島秋帆」(たかしましゅうはん)が、オランダ式大砲術と共にゲベール銃を購入したのが最初です。

和製管打式ゲベール銃(壬申刻印)
種 別 和製西洋式銃 全 長(cm) 137.5
銃身長(cm) 99.9 口 径(cm) 1.8
所蔵・伝来 刀剣ワールド財団〔 東建コーポレーション 〕
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エンフィールド銃

「エンフィールド銃」は、イギリスで製造された「パーカッションロック式」(雷管式)の前装式銃です。パーカッションロック式は管打式(かんうちしき)とも言い、撃鉄を落とす衝撃で雷管(点火装置)が発火し弾丸を発射する仕組みになっています。装弾数は単発のみでしたが、銃身に螺旋状の溝「ライフリング」を入れたことから、発射力と命中率が上がりました。

日本には文久年間(1861~1864年)頃、輸入されるようになりましたが、当初は「ミニエー銃」と混同していたためエンフィールド銃として認識されたのは幕末の1867年(慶応3年)頃だったと言います。

エンフィールドライフル銃(イギリス)
種 別 輸入古式西洋銃 全 長(cm) 124.5
銃身長(cm) 84 口 径(cm) 1.4
所蔵・伝来 刀剣ワールド財団〔 東建コーポレーション 〕
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スナイドル銃

スナイドル銃は、正式名称を「エンフィールド・スナイダー銃」と言いますが、日本ではオランダ語読みで「スナイドル」と呼ばれていました。エンフィールド銃を改良して作られたスナイドル銃は、パーカッションロック「後装式」(銃身後尾から弾込めを行うこと)ライフルとして誕生。後装式ライフルは弾込め時に、銃口を手元に戻す作業がなくなったことから発射させるまでの時間が早くなりました。

スナイドルエンフィールド MkⅡ(紙薬莢後装式小銃)
種 別 輸入古式西洋銃 全 長(cm) 124.4
銃身長(cm) 84.2 口 径(cm) 2
所蔵・伝来 刀剣ワールド財団〔 東建コーポレーション 〕
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シャスポー銃

シャスポー銃は、プロイセン王国(ドイツの前身)が採用していた「ドライゼ銃」を改良して製造しています。ドライゼ銃には世界初の「ボルトアクション」が取り入れられており、シャスポー銃もこの仕組みを活用しました。

ボルトアクションとは、金属製の「槓棹」(こうかん:[ボルトハンドル]とも)を回転させて弾薬の装填と排莢(はいきょう)を行う銃です。

江戸時代末期にナポレオン3世より江戸幕府に贈られたものの、紙製薬莢を使用していたシャスポー銃は日本の高温多湿の気候では使用できず日の目を浴びることはなかったと言われています。そののち、明治時代になり陸軍の「村田経芳」(むらたつねよし)が、残されていたシャスポー銃を改良して初の国産銃「村田銃」を完成させました。

シャスポーMle1866歩兵銃(1型)
種 別 輸入古式西洋銃 全 長(cm) 131
銃身長(cm) 79.5 口 径(cm) 1.1
所蔵・伝来 刀剣ワールド財団〔 東建コーポレーション 〕
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ガトリング砲

ガトリング砲は、アメリカの発明家「リチャード・ジョーダン・ガトリング」が、1861年(万延2年/文久元年)に開発した火器になります。名称に「砲」と付くことから大砲と同様と思われがちですが、実際は銃身を束ねた回転式の連発銃です。

長岡藩の家老・河井継之助は、江戸時代末期に商人のヘンリー・スネルと出会った縁から、スイスの「ファーブル・ブランド商会」よりガトリングガン2門を購入しています。戊辰戦争の「長岡城攻防戦」では、河井継之助自ら射手を務めたと伝えられているのです。
コルトM1874ガトリングガン 1/2模型
種 別 機関砲 全 長(cm) 110
銃身長(cm) – 口 径(cm) 6.0
所蔵・伝来 刀剣ワールド財団〔 東建コーポレーション 〕
詳細はこちら

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