「米国が沖縄を返還すれば、ソ連も…」 英国公文書館に眠る文書から読み解く「北方領土問題」

「米国が沖縄を返還すれば、ソ連も…」 英国公文書館に眠る文書から読み解く「北方領土問題」の意外な解決策
https://www.dailyshincho.jp/article/2024/03140556/?all=1

『2024年03月14日

ウクライナ侵攻から2年。かの地は領土を奪われた苦しみにあえいでいるが、わが国はそれが80年近く続いている。先頃もロシア前大統領が「日本人の感情は知ったことではない」と返還を完全否定。だが、英国公文書館に眠る文書には意外な解決策が記されていた。【有馬哲夫/早稲田大学教授】

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【写真】「兵士に給料が全額支給されなくなった」と語るウクライナ人男性 支援物資として送られた日本製品とは

 ロシアがウクライナを侵略し、西側を核で恫喝している現在、北方領土の重要性は増している。この地域はロシアの核兵器搭載原潜が頻繁に往来する核戦略上重要な海域に隣接している。また、日本へ侵攻するとなれば、前進基地の一つになるだろう。

 これまで何度も北方領土返還交渉が行われてきた。その資料は日本、ロシア、アメリカに残されている。

 ではこれにイギリスのものを加えたら、何か新しい事実や、視点は出てくるのだろうか。つまり、マルチ・アーカイヴ的アプローチ、複数の国の公文書を比較、参照して多角的に歴史的事実を明らかにする方法だ。本稿では、イギリス国立公文書館所蔵の「南樺太、千島」文書(1964年3月16日付)などをもとに、それを明らかにしていきたい。

ソ連が占領した北方領土(他の写真を見る)

ソ連はポツダム宣言に署名していない

 まず歴史的事実を確認しよう。というのも、これまで、基本的事実が誤認されたり、見逃されたりしてきたからだ。

 1945年8月9日、ソ連は日ソ中立条約に違反して満洲侵攻を開始し、そののち満洲、南樺太、千島全島を占領した。ソ連はこれをヤルタ極東密約とポツダム宣言(正式名称=日本の降伏条件を定めた公告)に従ってやったことなので合法としている。

 しかし、この協定は当事国である日本があずかり知らぬもので、日本はまったく拘束されない。

加えて、民主主義の国では、密約であっても議会の批准が必要だが、この協定はアメリカでもイギリスでも議会で批准されていない。

アメリカ上院に至っては破棄することを決議している(拙著『歴史問題の正解』79~80ページ参照)。

 ポツダム宣言も、あまり知られていないが、ソ連は署名していない。

原爆を投下した後のほうが、日本の処理をめぐるソ連との話し合いは有利になるので、米英はそもそも対日処理を話し合っていないのだ(拙著『原爆 私たちは何も知らなかった』167ページ参照)。』

『利己的で背信的な侵略

 従って日本の領土について規定した宣言第8条に「本州、北海道、九州及び四国並びにわれわれが決める小さな島々」とあるが、この「われわれ」にソ連は含まれない。

8月9日の日本に対する宣戦布告文では、ポツダム宣言に後で加わったと言っているが、一方的に言っているだけで連合国の承認を得たわけではない。

 対日参戦に関しても、アメリカ国務長官ジェイムズ・バーンズにソ連外相ヴァヤチェスラフ・モロトフが「ソ連に対日参戦を求める要請書をいただきたい」と言ったが、バーンズは言を左右にして与えなかった。

のちに、バーンズとハリー・S・トルーマン大統領は、ソ連に日ソ中立条約に違反する口実を与えるつもりはなかったと回顧録などに書いている。

 つまり、満洲侵攻など日本に対する侵攻は、米英や連合国とソ連の協定に基づくものではなく、合意も得ていない、日ソ中立条約に反した、利己的で背信的な侵略だったということだ。

“ダレスの恫喝”

吉田茂

サンフランシスコ平和条約に調印する吉田茂(他の写真を見る)

 ソ連も加わった1945年9月2日、戦艦ミズーリ号上で交わされた降伏文書の中でも、停戦を合意しただけで、領土については何も決めていない。

つまり、南樺太、千島を軍事占領し、そのまま停戦したからといって、それらの地域がソ連のものになったと決めたわけではない。

しかも、ソ連軍が歯舞、色丹の占領を完了させたのは降伏文書調印の3日後の9月5日だ。

 サンフランシスコ平和条約において、日本は南樺太・千島を放棄させられた。そうしなければ、占領が終わらず、独立が回復できないのだから、これは自発的なものではなく、こめかみに銃を突きつけられての「放棄」だった。

 しかも、この条約は、第25条に「但し、各場合に当該国がこの条約に署名しかつこれを批准したことを条件とする」とあり、条約に署名しなかったソ連は、この条約の恩恵を受けられない。

つまり、日本が放棄した北方領土をソ連が手に入れることはサンフランシスコ平和条約に反する。

 さらに、この条約への署名を拒否したときアンドレイ・グロムイコ代表は、「この条約はソ連の北方領土に対する主権を認めていない」という理由を挙げている。

言い換えれば、日本と連合国とはこの条約において、北方領土に対するソ連の主権、つまり領有を認めていないのだ。

 1956年の日ソ国交回復交渉においても、日本は平和条約締結後に歯舞、色丹を返還することをソ連に約束させたが、国後、択捉を諦めたとは言っていない。

「2島(国後、択捉)をソ連に渡すなら、サンフランシスコ条約により、アメリカはそれと同等のもの、すなわち沖縄をもらい受けることになる」といういわゆる“ダレス(当時のJ・F・ダレス米国務長官)の恫喝”もあり、2島(歯舞、色丹)返還で妥協することはできなかった。』

『“非自治”を国連に働きかけ

 このような経緯から出てくる疑問は、日本が放棄させられ、ソ連の領土ともならなかった北方領土は、とくに米英において、どう位置付けられていたのかということだ。

そして、北方領土問題とは南樺太と千島なのか、それとも北方4島に限定されるのかということだ。

そのヒントを与えてくれるのがイギリスの「南樺太、千島」文書だ。

 この文書の正式な名称は「南樺太、千島、これらを非自治地域とみなすことについてのコメント」となっている。

つまり、1964年ごろ、日本の外務省は南樺太、千島を非自治地域に指定するよう国連に働きかけ、イギリスに支持するよう求めていたのだ。それに対する回答を用意するためにこれらの文書は作成された。

 ここでいう非自治地域(Non Self Governing Territories)とは国連憲章第11章に規定されたもので、「人民がまだ完全に自治を達成するに至っていない地域」、つまり、いまだ国家を形成するに至っていない地域を指す。

1946年以降、多くの地域がこれに指定され、その中のかなりの数が独立国への道を歩んだ。

 日本はソ連の侵略によって奪われた南樺太と千島をこの非自治地域のリストに入れようとしていた。つまり、日本領でもソ連領でもない第3の選択肢だ。

ソ連に外交攻勢

 なぜ1964年のタイミングなのかといえば、国連は1960年の非植民地化宣言を受けて、1963年に適用を受けるべき64地域の改定リストを承認したばかりだったからだ。

国連のこのような流れにのって南樺太、千島を非自治地域のリストに加え、ソ連による占拠が不当であることを国際社会にアピールし、ソ連からこの地域を切り離そうと図ったのだ。

 実際、1962年に核ミサイルの配備をめぐって対立したキューバ危機で、アメリカの戦争も辞さない強硬姿勢に屈したあと、ソ連の政権が大きく揺らいでいた。

その結果、1964年10月に最高指導者ニキタ・フルシチョフが失脚した。そこでソ連はこれまでの対日政策を大転換する可能性があった。

 日本は同年12月の国連総会に椎名悦三郎外務大臣を送り、演説の中で北方領土についてこう問題提起した。

「紛争が生じる前に、その原因となる問題点を解決するため、建設的態度と相互理解の精神をもってより積極的に協力すべきであり、(中略)この点で、わが国の北方領土の問題も、できるだけ速やかに、円満かつ公正に解決されることを強く希望せざるを得ません」
 また、同年、国連24カ国植民地地域委員会にソ連の北方領土占拠の不法性を訴え、この領土問題について委員会でソ連と話し合う用意があると覚書を送っている。政権が安定しないソ連に外交攻勢をかけていたのである。

 では、これに対するイギリスの態度や、日本の支持要請に対する答えはどうだったのか。』

『外交巧者イギリスの思惑

「南樺太、千島」文書では、日本の立場、アメリカの立場、イギリスがこれまで取ってきた立場について述べた後で、イギリスとしては、日本が決定的に有利な状況になるまでは、支持の表明は控えるべきだと結論している。

 言い換えれば、日本の試みが成功するのが決定的でないなら、イギリスがこの問題にコミットすることによって無駄にソ連の恨みを買いたくないということだ。いかにも外交巧者イギリスだ。

 さらに、この文書はこう述べている。

「わが国政府は、吉田氏(吉田茂元首相)のサンフランシスコ平和会議での(南樺太と千島を回復すべしという)声明は、リバルディア(ヤルタ会談が開かれたクリミアの宮殿)合意にもサンフランシスコ条約にも合致しないと信じている」

 つまり、少なくともこのときのイギリス外務省高官は、ヤルタ極東密約を考慮すべきものと考えている。

 アメリカは上院で破棄したが、イギリスはその批准を議会にもかけず、秘密協定のままにしていた。

公式に破棄していない以上、国民の合意を得ていない秘密協定であっても、外交上配慮すべしと考えているのだ。

「アメリカが沖縄を返還するなら…」

 しかし、何よりも大きいのは、日本がサンフランシスコ平和条約においてアメリカが沖縄を信託統治すること、また、同時に調印された日米安保条約によってそこにソ連、中国等を封じ込めるための軍事基地を造ることを認めていたことだ。

 文書はこう述べている。

「われわれはロシアが日本の領土を占領している問題を持ち出すことによって、ロシアがアメリカによる日本の基地の『占領』を非難するのを容易にしてはならない」

 アメリカは沖縄などに、ソ連を仮想敵国の一つとする軍事基地を造っている。

一方、ソ連は千島に軍事基地を造っていなかった。

これでは北方領土問題を出すたびに、ソ連がアメリカによる沖縄などの軍事基地化を非難する機会を与えることになる。

 フルシチョフも解任前の9月に訪ソした日本の国会訪ソ親善議員団に対し、「アメリカが沖縄を日本に返すなら、ソ連も2島(歯舞、色丹)を返還する」と言っていた。

 アメリカが沖縄を日本に返還するなら、ソ連も同じことをするということだ。それをアメリカがするはずがないのを知っているので、イギリスは日本の要求を支持することは無理だと判断した。』

『ソ連崩壊後の宮澤総理攻勢

 かなり失望する結果だが、現在では希望が持てる結果であるともいえる。

なぜなら、その後アメリカは沖縄ほか信託統治していた日本の領土を返還したからだ。

ロシアはだいぶ前から、これに見合う、北方領土返還に関する動きを起こさなければならない状況に置かれていた。これまでの対日政策を大転換する可能性があった。

 今ならば、日本の北方領土に関する要求をイギリスは支持せざるを得ないだろう。

その際に非自治地域としてロシアから切り離されるべきは、北方4島だけではなく、ソ連の一方的侵略によって不当に奪われた南樺太と千島である。

 これが可能になれば、住民投票によってこの地域の帰属を決めることになるだろう。

もちろん、それは強制的に退去させられた南樺太と千島の元住民およびその子孫に対して行われなければならない。

 この後日本が北方領土について大攻勢に出るのは、ソ連崩壊後の1992年のことだ。

その詳細は同年3月13日以降作成された「日本/ロシア 北方領土(Northern Territories)」という一連の文書として残されている。

 これらの文書によれば、当時の宮澤喜一総理は執拗(しつよう)にロシア大統領ボリス・エリツィンに領土問題についての話し合いを求めている。

そして、イギリスにもロシアとこの問題を話す「多国間協議」の場に加わるようこれもまた繰り返し要請している。

 これに対してイギリスは、「私たちの見解は、北方領土問題に関する多国間協議に加わるべきではない。それは最終的には2国間協議になるからだ。これまで通り、第三者として支援し続けるべきである」という方針をとった。

 こう対応しつつも、イギリスは極東密約をまだ議会で破棄していないことを気にしていた。

北方領土問題を再び国連に持ち込む好機

 その代わり、世界有数のインテリジェンス機関を使ってエリツィンのこの問題に対する意向を探り、その情報を逐一日本側に与えていた。

 それはこのような趣旨のものだった。

「エリツィン自身は交渉することに前向きだが、彼の周辺のナショナリストが北方領土を絶対渡さないと反対している。その圧力は極めて強いので、無理に進めようとしても無駄だろう。余り圧力をかけ過ぎて、彼の権力を弱めることになれば、元も子もなくなる。したがって今は経済援助を行って、好意をつなぎとめるだけにとどめたほうがいいだろう」
 結局、宮澤総理はこの助言に従った。

 だが、周知のように、その後ロシアは、領土拡大を目指すウラディーミル・プーチンが政権の座につき、北方領土返還は遠ざかってしまった。

 現在、ウクライナ侵略でロシアに非難が集まり、領土についての関心が高まっている。これは北方領土問題を再び国連に持ち込む好機ではないか。また、なんらかの有利な決議を引き出せるのではないか。

「南樺太、千島」文書は、その際、これらを非自治地域にしてロシアから切り離し、そののち住民投票によって帰属を決めるという道があることを示している。

有馬哲夫(ありまてつお)

早稲田大学教授。1953年生まれ。早稲田大学卒。東北大学大学院文学研究科博士課程単位取得。メリーランド大学、オックスフォード大学などで客員教授を歴任。著書に『歴史問題の正解』『NHK受信料の研究』など。

週刊新潮 2024年3月7日号掲載

特別読物「『イギリス公文書館』文書から読み解く 『北方領土』第三の選択肢」より 』