金与正氏「岸田訪朝」発言、兄の韓国敵視と合わす旋律
編集委員 峯岸 博
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD180W50Y4A210C2000000/
『岸田文雄首相による北朝鮮訪問の可能性に触れた金与正(キム・ヨジョン)氏の談話が波紋を広げている。発言の真意に迫るには、日朝関係だけでなく、兄、金正恩(キム・ジョンウン)総書記の最近めだつ言動と合わせ、朝鮮半島情勢全体の構図でとらえる必要がある。
「日米韓すべてと対立した歴史ない」
金正恩氏が韓国に対し急な動きをみせている。2023年末の朝鮮労働党中央委員会総会で「もはや同族関係ではなく、敵対的な…
この記事は会員限定です。登録すると続きをお読みいただけます。』
『金正恩氏が韓国に対し急な動きをみせている。2023年末の朝鮮労働党中央委員会総会で「もはや同族関係ではなく、敵対的な2国間関係が完全に定着した」と韓国との統一政策の放棄を宣言し、核戦争も辞さないと尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権を威嚇した。南北対話を担ってきた祖国平和統一委員会の廃止、南北を結ぶ京義線の線路の切断、南北統一を象徴する祖国統一三大憲章記念塔の爆破まで及んだ。
【関連記事】「岸田首相の本心見極める」金与正氏の談話全文
憲法改正に加え、国歌に登場する、朝鮮半島全体を指す言葉「三千里」まで削除する徹底ぶり。祖父と父の国家戦略や功績まで否定する行為だ。金正恩氏が唱えた「2つのコリア」論は、朝鮮半島南部の出身者が多い在日コリアン社会にも動揺を与えている。』
『日韓で対照的な振る舞いをみせたのはなぜか。北朝鮮の3代にわたる体制に詳しい研究者によれば、北朝鮮は歴史上、日米韓3カ国すべてと対立するという状況は必ず避けてきた。それは安全保障上も経済上も小国が生き残るための知恵だった。2018年は米朝、南北がともに接近し、日本は蚊帳の外だった。その後、韓国大統領が文在寅(ムン・ジェイン)氏から尹氏、日本の首相が安倍晋三氏、菅義偉氏から岸田氏に代わり、日韓のウエートが変わった。現在の平壌からみると、日米韓のトップのうち岸田首相が最も「フラット」に映っているという。』
『「外務次官談話→見舞い電→金与正談話」は一連の流れ
韓国を排除し日本と直接対話に乗りだす「通日封南」戦略は、昨年末に開いた重要会議、朝鮮労働党中央委員会総会で本格化が決まったようだ。年明けの1月1日に日本で能登半島地震が発生すると、北朝鮮は5日付で岸田首相宛てに「閣下」との呼称を使った丁寧な見舞い電を送った。同じ日、韓国に近い海域では200発程度の砲撃訓練を仕掛け、日韓に対して鮮明なコントラストを示した。』
『突然の南北融和を手始めに初の米朝首脳会談につなげた2018年も、北朝鮮は年明けから対話路線に急旋回した。韓国での平昌冬季五輪に北朝鮮代表団を送った際に「顔」になったのもやはり与正氏だった。それから6年、日朝首脳会談と「2つのコリア」をめぐる一連の言動は、兄妹による「伴奏」なのである。』
『対外攻勢のようにみえながら、苦境の裏返しが実相に近い。「統一」や「同族」という言葉の概念自体も完全に除去するとした「2つのコリア」論は、「南北間で国力の圧倒的な格差が存在するなかで同居したとしても韓国にのみ込まれるだけだという金正恩氏のリアリストとしての発想」(同筋)を映したものだとされる。北朝鮮主導の統一政策の目標をいったん棚上げし、まずは韓国との関係をデカップリングし、劣化した国力を立て直すのを優先させた政策だと解釈できる。』
『韓流に危機感、アイデンティティー再建に苦心
南からの「情報」も金正恩体制には脅威だ。韓国文化の流入に北朝鮮指導部が極めてナーバスになっている。韓国政府が2月に公表した、脱北者6000人余りを対象にした調査結果では、厳しい監視網をかいくぐって中国や韓国のドラマなどの映像を見たことがある人は2016年以降に脱北した人で83%に達している。
北朝鮮では厳しい監視網をかいくぐって多くの人々が中国や韓国のドラマなどの映像を見ている(2月、平壌の金日成広場)=AP
2018年以降の米朝首脳会談や文在寅氏の訪朝などによっても北朝鮮市民の間に「変化」への期待や渇望がかつてなく高まった。それをあおったのは金正恩氏自身であり、今度はその熱を冷まさなければいけなくなっている。
近年になって「わが国家第一主義」とのスローガンを連呼するようになったほか、韓国の映画やドラマを見たり、配信したりした場合に最高で死刑を科す法律を定めるなど、2500万人に徹底的にアイデンティティーを埋め込んでいる最中なのである。』
『日本カードの価値高まる
外交面でも、北京、平壌、モスクワの連携は必ずしもしっくりしていない。ロシアへの急接近の代償として中国の顔色をうかがわなければならない。ウクライナへの侵攻で北朝鮮製の兵器が使われていることに中国は神経をとがらせる。北朝鮮のミサイルに目をつむっても核は絶対に容認しない。』
『与正談話の前日、「反米・社会主義」の同志で苦楽を共にしてきた「兄弟国」のキューバが韓国との外交関係を樹立したことにも平壌は衝撃を受けているはずだ。』
『「日本カード」を手にする外交上の価値が高まっている。米国と核・ミサイル交渉のテーブルについても資金負担や援助の話題に及ぶと必ず「日韓とシェアする」と返されるのが北朝鮮の経験則だ。前述のように2018年以降、日韓双方のトップ交代によって今度は相手にしやすい日本側に目を向けるようになったというわけだ。日本を巻き込んでおくことは、米大統領選後の「トランプ再登板」の可能性に備え、日本からの異論を抑えるための布石にもなる。
金正恩氏も前のめりにはなっていないようだ。2000年代の日朝首脳会談と2010年代の米朝首脳会談が教訓になっている。与正談話でも「個人的な見解だ」「わが国の指導部は朝日関係改善のためにいかなる構想も持っていない」と慎重を期すのはその表れだ。
拉致問題を交渉せずに日本が動かないことは北朝鮮指導部も十分にわかっている。対日接近と「2つのコリア」論で日米韓の分断を誘いながら、「条件を付けずに金正恩氏と向き合う」と繰り返す岸田首相の覚悟と決断を試している。 』