2奉行所制、判例主義、調停…光る徳川家康の司法センス 近・現代司法研究の園尾隆司弁護士に聞く
https://bizgate.nikkei.com/article/DGXZQOLM13EP2013122023000000?n_cid=bg-rec&utm_source=NK&utm_medium=banner&utm_campaign=bg-rec

※ 今日は、こんな所で…。
『戦国三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)における天分・才能の比較となると、家康はどうも分が悪い。カリスマ性は信長に及ばず、独創性では秀吉に一歩譲る。しかし、「司法センスは家康が断然トップだ」と近現代の司法制度を研究する園尾隆司弁護士(西村あさひ法律事務所、元最高裁総務局長)は断言する。企業法務など民事関係を幅広く手掛ける園尾弁護士は「訴訟手続きなどは、家康をはじめとする江戸時代の司法システムが現在も息づいている」と説く。令和の司法現場からみた「家康論」を追った。
画期的だった江戸の南北両奉行制
まだ刑事・民事の区別も無い時代ながら、「家康は一般民衆に対する司法のあり方に注意を払っていた」と園尾氏。一例が関ケ原合戦後の江戸奉行所の南北分割(1604年)だ。「同じ区域に2つの裁判所を設置する画期的なシステムだった」(園尾氏)と評価する。実際、世界の司法史上でも類例のない試みだったという。
北町奉行所は現在のJR東京駅八重洲口、南町奉行所はJR有楽町駅前と近くに置き、月替わりの当番制とした。「相互にけん制させる仕組みとして、贈収賄などの不正行為を防止する狙いだった」と園尾氏は解説する。江戸の市井の人々は、1カ月待てば好きな方の奉行所に訴え出ることができた。どちらかの奉行所の訴訟件数が多ければ、もう一方は何かしらの問題を抱えているのかもしれない。奉行双方が婚姻関係を結ぶのは禁止された。この2奉行制度を江戸幕府は1619年に大坂(大阪)、33年に長崎と次々に重要拠点に設けていった。園尾氏は「徳川幕府は家康の思想を受け継いで、徹底した公正さの確保を目指した」とみる。
中世における訴訟は「公正・公平」にはほど遠く、買収などがたびたび行われていたという。戦国時代の後期には分国法の整備が進んだが、民間同士の争い事は「雑務沙汰」と軽視されていた。園尾氏は、家康が(1)自治権の一定の容認(2)公権力の中立・公正――の2点に力点を置いたとみる。例えば、寺社への地元領民の年貢は当事者同士の合意に任せるが、問題が生じた場合は当地の代官が責任をもって裁定する。園尾氏は「公正な司法を行き届かせ信頼されることが、全国統治を維持するための急所であることを家康は見抜いていた」と強調する。
江戸期に実現していた「判例主義」
園尾隆司氏 40年間の裁判官経験のうち、23年間は民事訴訟事件・倒産事件の民事事件を担当。17年間は司法行政事務に携わり2004年最高裁判所事務所総務局長、07年静岡地裁所長。17年東日本大震災事業者再生支援機構取締役。著書に「民事訴訟・執行・破産の近現代史」(弘文堂)など多数
原告の訴状はまず江戸幕府の奉行所が吟味し、その後被告へ通達する。裁判では原告・被告とも、町や村の名主・庄屋らの同伴(差添人)が必要だった。現代の弁護士的な立ち位置だ。
「内済」と呼ぶ調停制度も設けられており、当事者のほかに原・被告双方の差添人が参加した。「判決は口頭で言い下すのではなく、正式な書式の裁許状を読み上げた。原・被告らは裁許状を書き写すことが許された」(園尾氏)。江戸の南北町奉行ポストは幕臣のエリートコースで大岡忠相(越前守)、遠山景元(金四郎)らが就く一方、長谷川平蔵(池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」のモデル)は現場の捜査能力が抜群だったにもかかわらず、念願の奉行職にはあと一歩で届かなかった。
仏モンテスキューに通じる? 江戸の司法思想
「全国的に重要な裁判は北・南町、勘定、寺社奉行らで評議する『評定所』で裁決した。現在の最高裁に当たる」と園尾氏。長崎奉行らは早馬で江戸の評定所に裁許案を持参して判断を仰ぎ、評定所からの裁許状を受け取って早馬で戻り、現地で申し渡しをする仕組みだったという。園尾氏は「奉行所の判決は、その後の裁判における『法令』となった。現代の判例主義がすでに江戸期の段階で実施されていた」と話す。こうした日本近世の司法改革は家康から3代将軍・家光の1630年代に至ってほぼ完成した。園尾氏は江戸幕府の司法に対する取り組みに、18世紀フランスの思想家モンテスキューの「法の精神」に通じる思想を感じるという。同書は統治機構を法の支配に基づき互いに抑制し均衡させる構想を説いたもので「江戸幕府も幕閣、各セクションが互いに連携・けん制し合う仕組みだった」と園尾氏は語る。
「民事訴訟・執行・破産の近現代史」(弘文堂)
家康自身が司法センスを磨くようになった契機は、20代初めの「三河一向一揆」(1563?64年)かもしれないと園尾氏は推測する。今川家から独立したばかりの家康と「守護不入」の自治権を主張する浄土真宗・本證寺との対立が深刻化し、同宗を信じる約半数の家臣が一時的に家康から離反する内乱状態に陥った。武田信玄に完敗した三方ケ原の戦い、本能寺の変後の伊賀越えと並び家康の三大危機とされる事件だ。「大名権力と自治権、領民との関係について家康は深く考えざるを得なかっただろう」と園尾氏は言う。
他方、実際に司法改革に着手した時期は「関東に移封された1590年代から」(園尾氏)だった。駿河、三河など東海・中部五カ国からの関東移転は、それまでの徳川家臣と地元領民の様々なしがらみからの決別につながったからだ。家康の関東入り後、鎌倉代官が自治や公正な裁判を保証する旨の触れ書きなどが現存しているという。強大な政治力、軍事力を駆使すれば全国制覇を達成できる。しかし、長期にわたって政権を維持していくには民衆からの厚い信頼が欠かせない――。家康は信長・秀吉らの成功と失敗を身近に見た経験から、司法の重要性を学んだのかもしれない。
現代日本の司法制度は明治維新以降、文明開化の一環としてドイツなどから導入されたと説明されることが多い。「しかし、実際は江戸時代の司法システムが、時代的な制約を超えて日本社会に定着していた」と園尾氏は結論づけている。
(松本治人)
【日経からのお知らせ】
日経SDGsフェス大阪関西 変革から共創へ ―2025年大阪・関西万博に向けて―
ライブ参加(無料)お申し込み受付中
日本最大級のSDGsイベントに参加してみませんか? 「日経SDGsフェス大阪関西」は2月14~16日の3日間、大阪・梅田を起点に、開催まで1年余に迫った2025年国際博覧会(大阪・関西万博)のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」の真の実現のために、わたしたちが次の世代に何ができるかを話し合います。吉村洋文大阪府知事や、各界で活躍する万博のテーマ事業プロデューサーがライブ登壇。さまざまな社会課題の解決に向けて、自治体・企業・大学・団体などがともに議論します。リアル会場とオンライン配信のハイブリッド方式で開催します。
参加登録は下記の特設サイトから受付中です。ぜひ、この機会にご登録ください。
開催期間:2024年2月14日(水)~16日(金)
詳細・お申し込みはこちら 』