W.E.グリフィスと勝海舟
https://www.fukui-rekimachi.jp/griffis/pdf/w.e.griffistokatsukaishu%202020.2.pdf
※ 妻妾同居に関する部分を、抜粋して紹介する。
『3 東京赤坂氷川町、勝安房の十字架
勝はクララと孫たちの将来を考え、自分という保護者がいなくなったら夫梅
太郎の元を離れて帰国し、アメリカで子供たちを教育するよう勧めたようです。
後年においても、クララは夫の父と、その夫人を深く尊敬していました。
勝の家は妻妾同居でした。来日したキリスト教徒が最も嫌忌した日本社会の
在り様でした。クララは、梅太郎も勝が夫人以外の人に長崎で生ませた子である
ことを知っていて結婚しました。彼女は母の影響を強く受けた厳格なキリスト
教徒だったにもかかわらず、終生勝安房を敬い続け、彼を支えた夫人、すなわち
義理の母を、心から慕い続けました。その溢れんばかりの思いは、日露戦争のさ
なかにクラークが執筆した著書
Katz Awa に引用された、クラーク宛ての手紙に
切々とつづられています。
クラークが、その勝の小伝を書くための史料としたのは、彼が日本を離れて十
九年後(1894 年)に再訪した東京で、勝に頼んで書いてもらった、維新に到る簡
潔な歴史、及び当時の回想でした。
頼朝以来国政を執った武家政権の最後、徳川
家が政権を私物とみなさず天皇に返した事で日本が乱世に陥らず、江戸百万の
命も救われた革命の真実。同じく国民統合を目的としながら戦争を手段とした
ドイツのビスマルク、および悲惨な内戦を避け得なかった祖国のリンカーンと
比べながら「ピースメイカー」としての勝を讃えるクラーク。
牧師である彼が「こ
れまでに会った異教徒とキリスト教徒の偉大な人々の中で誰よりも」勝を尊敬
し愛すると読者に告げます。維新において徳川が示した自己犠牲の精神を誰よ
り体現したのが、戦うことなく敵に主家を売り渡した犬侍という汚名を、国と民
を思う決断のゆえに負いながら、なおも主家とその旧臣たちのために心を砕い
て生き続けた、明治の勝安房でした。
勝がクラークと再会する二年前、小鹿が父母に先立ち亡くなりました。維新の
勲功により伯爵家となっていた勝家を「煙のように消してしまいたい」との思い
もあった勝でしたが、旧主徳川慶喜の息子精(くわし)を婿養子として、家を継
がせたのでした。勝は晩年まで、慶喜の名誉回復に努めました。
勝安房もグリフィスも、日記を欠かさなかった人でした。二人の記述からは、
グリフィスが東京在住時に二度、氷川町を訪れていたことがわかります。帰国す
る三日前には、勝に歴史の話をしてもらったようです。その会見は二年後(1876
年)にグリフィスが維新を日本通史のかたちでまとめ世に出した著作
The Mikado’
s Empire の執筆に活かされました。
それからおよそ二十年、勝はクラークの求めに応じ、往時を回顧し、一編の歴
史を書き上げました。それは富田の意志により、「幕府始末」の名で頒布され、
今日に残されました。
知己を千載の下に待つ勝安房を同時代において認めた米国人牧師は、同胞か
ら罪人としての悪罵を一身に浴びながら歴史上の磔刑に架かる道を、あえて選
ぶ他なかった彼の人生に、自らは覚ることもなくキリスト教徒として生きた姿
を見ていました。
ホイットニー家の人々も、「彼が神の王国から遠くにあったこ
となどない」と思っていました。大晦日の夜、供も連れずに出かけ、貧しい家々
を訪ね歩いては、そっと餅代を渡していた義父の、遠い面影をクララは帰国後も
ずっと、覚えていました。
参考文献
E.Warren Clark,
Katz Awa
一又民子訳『クララの明治日記』(クララ・ホイットニーの少女時代の日記)
カッテンディーケ著、水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』(東洋文庫)
蔵原三雪 “The Griffis’Journal of Tokyo Years”(1872~1874 のグリフィス日記)
高橋秀悦『海舟日記にみる幕末維新のアメリカ留学』
山下英一『グリフィスと福井』(福井時代の日記所収)、『グリフィス福井書簡』、
『明治日本体験記』(The Mikado’s Empire 後編の訳述)
『勝海舟全集』より、「幕府始末」「海軍始末」「日記」「書簡・来簡」「断腸ノ記」
(勁草書房版。来簡は講談社版も) 』