渋沢栄一の「士魂商才」

北の国から猫と二人で想う事 livedoor版:渋沢栄一の「士魂商才」
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『渋沢栄一(1840~1931)は自身の信条に「士魂商才」との言葉を用いた。
「和魂漢才」、「和魂洋才」といった言葉は、日本人として大和魂を維持しながら外国の優れた思想、技術を取り入れて活用する重要性を説いたものだ。これを真似て渋沢は「士魂商才」を説くのだ。渋沢は次のように説く。

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“人間の世の中に立つには、武士的精神の必要であることは無論であるが、しかし、武士的精神のみに偏(へん:かたよって)して商才というものがなければ、経済の上から自滅を招くようになる。ゆえに士魂にして商才がなければならぬ。”出典:論語と算盤(角川ソフィア文庫)

渋沢は自分自身が大蔵省を辞し、民間人として商人として生きることを選択した際、多くの人々に「賤(いや)しむべき金銭に眼(まなこ)が眩(くら)み、官を去って商人になるとは実に呆れる」と批判された。だが、渋沢はこれらの批判を意に介することはなかった。明治日本において改めるべき点は多々あるが、商売が振るわないようでは日本の将来はありえないと信じていたからであり、商業そのものを卑しめる思想から脱却せねばならぬと考えていたからでもある。

eded55e1儲かれば何をしても構わないという強奪、詐欺のような商売は、長続きしない。「真正の利殖は仁義道徳に基づかなければ、決して永続するものでない」との信念があったのだ。

それゆえに、渋沢は「論語の教訓に従って商売し、利殖を図ることができる」と考えた。
また、「士魂商才」を説く渋沢は明治人の気概として、国家の行く末を考え続けた人物であったことも忘れてはならないだろう。商業こそが明治日本に必要だと考えた渋沢ではあるが、商人が国家の存在を閑却(かんきゃく:なおざりにする)すべきではないと指摘しているのだ。

“如何(いか)に自ら苦心して築いた富にした所で、富はすなわち、自己一人(いちにん)の専有だと思うのは大いなる見当違いである。要するに、人はただ一人(ひとり)のみにては何事もなし得るものでない。国家社会の助けによって自らも利し、安全に生存するもできるので、もし国家社会がなかったならば、何人(なんぴと)たりとも満足にこの世に立つことは不可能であろう。”出典:同上

渋沢の哲学に従えば、国家なくして商人の成功はあり得ない。したがって、成功した商人ほど国家、国民に還元することを考えるべきであるということになる。それゆえに、渋沢は次のように続けている。

“富の度を増せば増すほど、社会の助力を受けている訳だから、この恩恵に酬(むく)ゆるに、救済事業をもってするがごときは、むしろ当然の義務で、できる限り社会のために助力しなければならぬ筈と思う。”出典:同上 

近年、株主資本主義から公益資本主義への転換がさかんに主張されている。「論語」と「算盤(そろばん)」の両立を説いた渋沢の哲学が今こそ見直される時期ではあるまいか。参照記事

、、、どうやら自民党員、政治家は、「だから企業にパーティー券を押し付けて何が悪い」とでも曲解するだろうが、だとしても、それを選挙の賄賂や接待、遊興に使ったのなら、2重3重に悪事を働いたことになる。民心が離れて当然だろう。

過去ブログ:2020年9月最古級「論語」写本を発見 中国でも消失:2019年3月有朋自遠方来。不亦楽乎。:2008年12月儒教社会主義をめざす中国?: 』