福山隆『軍事のプロが分析する謀略の関ヶ原』(ダイレクト出版)

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 「宮崎正弘の国際情勢解題」 
    令和五年(2023)11月7日(火曜日)弐
       通巻第7991号

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『武将の優劣を決めたパワーファクターとは何であったか?
  古今東西、戦争の勝敗の決め手はインテリジェンスにある

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福山隆『軍事のプロが分析する謀略の関ヶ原』(ダイレクト出版)

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 著者は元自衛隊陸将(昔の位でいうと陸軍大将)。軍事のプロからみると、関ヶ原はインテリジェンスの闘いであったとする。

 福山氏には「兵站」を論じた著作もあって、かつて小欄でも論じたことがあるが、戦争の奥義は兵站とインテリジェンスにあることは言を俟たないだろう。

 そして家康が「当時に於いて、軍事戦略・戦術や諜報謀略の力量が圧倒的に群を抜いている」と総括し、各事件を時系列に網羅し、採点するのである。

 1582年が本能寺の変。同年に山崎の戦いで秀吉は明智を破り、1583年にライバル柴田勝家を葬った。1984年は家康との決戦、小牧長久手の役、これで秀吉の天下が決まり、1590年に小田原攻め、その後、二度に亘った朝鮮征伐を経て、1598年に秀吉は死んだ。

二年後に関ヶ原で家康の天下が確立、15年後に大阪の陣で豊臣家滅亡となる。

著者の福山氏は大學で教鞭をとられる所為か本書ではユニークなグラフが用いられ、ヴィジュアルな比較が出来るので分かりやすい。

 秀吉と家康のパワーバランスは「本能寺の変」でお互いゼロから出発し、秀吉は信長軍団で柴田勝家らライバルを葬り、そのピークは小田原攻めと文禄の役だった。

この間、家康は「勝負には勝ったが試合に負けた」、小牧・長久手の役以後、秀吉にしたがって低迷していた。

秀吉の死で逆転となり、大阪の陣で豊臣パワーは壊滅、家康のそれはピークを迎えた。その劇的なバランス交替がくっきりとグラフに出たのが関ヶ原だった、とする。

 氏の定義する「パワー」とは「領国の地政学的優劣、兵力の基礎となる財政力、武将の資質、兵隊鍛錬の巧推、戦術に関する状況判断力、決断力、戦略に関する構想力、外交能力、用兵能力、声望、運、そしてなによりもインテリジェンス(諜報、傍聴、謀略組織とその能力、部下武将の優劣、兵士の数とその精錬度、同盟敵対関係、軍事の優劣、武器の保有量など)である。

 軍事のプロゆえに歴史小説家らの通説、とりわけ正義か不正義か、好きか嫌いかなどのレベルではとらえず、インテリジェンスの度合いを客観的に探り、総合的に戦力評価を展開するのである。

 関ヶ原へいたる過程はおそらく歴史に興味の向きは誰もが知っているが、本書が重視するのは関ヶ原までの諜報合戦の重要性であり、家康は決戦前に、西軍の武将たちへの調略(裏切りへの勧誘)も済ませていた。

 そのディテールが述べられる。

 ▼家康の波瀾万丈が本格化したのは本能寺の変だった

 さて本書通読後、いささか評者と分析がことなるのは本能寺の変、桶狭間、小牧・長久手、そして石川数正への評価だった。 

 すでに拙著で書いたことなので簡約するが、桶狭間は信長のしかけた謀略と狭間への巧妙な誘導であり「一天にわかにかき曇り」、天が信長に味方したのではない。偽造文書を今川の家臣団に本物とみせる演出を講じ、今川義元は偽造文書を見破れず有力な武将ふたりを処分した。

これは今川方二個師団の喪失を意味した。

桶狭間へは『うつけ者』と芝居を演じて油断させ、狭間へ誘い込んだとき義元の軍勢は四、五百。信長方は二千の精鋭だった。

 本能寺は切支丹バテレンを奨励した信長の売国行為に対しての天誅であり光秀の義挙だった。

「ときはいま 天のしもしる 五月かな」
という愛宕における連句会の光秀の句は(天皇の統治する国へ、尚武の精神で)という意味であり蹶起文書なのである(以上は拙著『明智光秀 五百年の孤独』参照)

小牧・長久手で池田勝入斉と森長可を裏で工作し、「中入れ」を進言したのは石川数正の謀略であり、賤ヶ岳の「中入り」をやらかした柴田の敗北を知っている秀吉は二人の裏切りを警戒し、軍監に掘を、総大将に秀次をつけた。秀吉の惨敗だった。

しかし勝負に勝った家康も、秀吉の謀略で織田信雄が裏切り、試合に負けた。

睨み合ったまま家康は頑として動かず、とうとう秀吉は姉を家康の後妻に送り込み、母親を人質に出して、家康を安堵させ大阪へ招いた。天下取りに秀吉は家康のエンドースが必要だったからである。

また家康の右腕だった石川数正がその後、秀吉方へ寝返ったのは囮スパイとし自ら秀吉をたぶらかそうとしたのであり、スパイマスターでもあった秀吉はちゃんと知っていた。

それゆえ数正を大阪の後ろ、岸和田に封じ込めて家康との連絡を切断したのである(以上は拙著『徳川家康 480年の孤独』参照)。

とまぁ戦国武将たちの謀略を語り出したら三日ほどかかりそうである。

ともかく福山氏の説くインテリジェンス戦略が、いまの日本の政治には見当たらない。日本の最大のアキレス腱とも言えるのではないか。

    ◎☆□☆ど□☆☆□く☆◎☆□し☆□△◎よ☆□☆◎ 』