インドネシア、覚醒した「資源ナショナリズム」の波紋

インドネシア、覚醒した「資源ナショナリズム」の波紋
編集委員 高橋徹
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD030J10T01C23A1000000/

『憲法の3選禁止規定で2024年10月に退任するインドネシアのジョコ大統領の後継候補が出そろった。プラボウォ国防相(72)、ガンジャル前中部ジャワ州知事(55)、アニス前ジャカルタ特別州知事(54)の3人である。11月末の選挙運動解禁を合図に、来年2月の大統領選に向けた戦いが幕を開ける。

直近の世論調査では大統領の長男ギブラン氏(36)を副大統領候補に起用したプラボウォ氏が支持率で首位に立つ。ただ…

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『ただし大統領は10月末、3人を大統領宮殿での昼食会に招き、自身は中立の立場だと伝えた。誰が勝っても、2期10年の任期終盤を迎えてなお8割超の支持率を保つジョコ氏の影響力は無視できない。いまの政策はおおむね継承されるとの見方が多い。

とりわけ経済がそうだ。ジョコ氏は「資源の高付加価値化」を唱え、未加工の鉱物の輸出制限に旗を振ってきた。20年1月のニッケル鉱石を皮切りに、今年6月にはアルミニウムの原料となるボーキサイト鉱石の輸出を禁止した。来年6月には銅精鉱やスズ、金など5品目を追加する予定だ。

先行したニッケルの成功体験は大きい。ジャカルタ・ポスト紙によると、17年に17兆ルピア(約1630億円)だった輸出額は昨年、19倍の323兆ルピアに急増した。鉱石がフェロニッケル、ニッケルマットなどの加工品へ置き換わり、輸出単価が上がった。生産能力の増強を支えたのは中国だ。エネルギー・金属鉱物資源機構(JOGMEC)によれば、精錬所の7割は中国系資本だという。

来年2月の大統領選は、ジョコ大統領の長男ギブラン氏㊧を副大統領候補に迎えたプラボウォ国防相が支持率で一歩リード(10月25日、ジャカルタ)=ロイター

加工だけではない。電気自動車(EV)の生産コストの4割に達する蓄電池で、うち4割を占める正極材にニッケルは不可欠だ。韓国・現代自動車がジャカルタ近郊で完成車の生産を始め、同社とLG電子グループ、さらに中国の寧徳時代新能源科技(CATL)が電池工場の建設を進めるなど、組み立てでも外資参入が相次ぐ。

米地質調査所の推計では、インドネシアの22年のニッケル鉱石の産出量は世界のほぼ半分、埋蔵量はオーストラリアと並んで2割を占め、いずれも最大だ。量の強みに世界的なEVブームが加わり、1次産品から中間財、さらに最終財へと、新産業創出への波及効果は理想的な広がりをみせている。

「我が国の人口ボーナスは2030年まで続く。そしてこのチャンスは1度しかない。私が学んだラテンアメリカの歴史では、彼らは1950年代、60年代、70年代にはすでに中所得国の地位にあった。しかし50年たったいまでも途上国のままだ。なぜか。当時のチャンスを生かせなかったからだ」

現代自動車はEV「アイオニック5」のインドネシア組み立てを開始している=ロイター

ジョコ氏は5月、将来の先進国入りを展望する支持者向けの演説で、こう付け加えた。「長年、我々は原材料を輸出してきた。これは繰り返してはならない過ちだ」

インドネシア憲法は「天然資源の国家管理と国民の最大限の福祉のための利用」をうたっている。世界有数の資源大国はしかし、その強みを経済発展に必ずしも生かし切れてはこなかった。背景には政治体制の変遷が深くかかわる。

半世紀前、中東を震源とした73年と79年の2度の石油危機は、アジアの産油国インドネシアを潤した。国民の政治的権利を制限し、経済発展を優先する「開発独裁」の代名詞だった当時のスハルト政権は、降ってわいた資源ブームを無駄にしなかった。石油収入をインフラ開発に振り向け、製造業を育てる「上からの工業化」を進めた。

ところが中国市場の台頭に伴う21世紀初めの資源ブームは様相が異なった。原油こそ純輸入国に転じたものの、パーム油や石炭などの輸出が経済成長をけん引した。が、それらの収入を製造業に投じるメカニズムは働かず、スハルト政権期に3割近くまで高まった製造業比率は2割へ低下してしまった。いわゆる「資源国のワナ」である。

何が違ったのか。この間に起きたのは、98年のスハルト独裁体制の終えんだ。その後の民主化の進展で、かつてのような強引な工業化政策は難しくなった。

「スハルト政権の崩壊後、インドネシアは『脱工業化』ではなく『非工業化』に向かってしまった」と日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所の浜田美紀・開発研究センター長は話す。工業化の次の段階として、サービス産業などへ経済が高度化するのではなく、1次産品頼みに先祖返りしてしまった、という指摘である。

04年から10年間、政権を担ったユドヨノ前大統領は、そうした状況に危機感を深めていたのだろう。09年に施行した「新鉱業法」で資源分野の高付加価値化を義務付け、14年に未加工鉱物の全面禁輸を実施した。11年に中長期の経済政策を発表した際の演説で、ユドヨノ氏は「市場の『見えざる手』は重要だが、政府の『見える手』も必要だ」と訴えた。

14年に発足したジョコ政権はその路線をさらに強化した。国内の加工能力の不足から高付加価値製品への輸出シフトが思うように進まず、17年にいったん禁輸を緩めた。そして中国からの精錬工程への投資誘致で態勢を整え、20年に改めてニッケル鉱石の禁輸に踏み切った。その後のサクセスストーリーはすでに見た通りだ。

当然ながら摩擦は生じる。欧州連合(EU)は世界貿易機関(WTO)協定に違反していると提訴し、昨年11月に紛争処理小委員会がEUの訴えを認める裁定を下した。インドネシアはすぐに上級委員会へ上訴した。

今年6月には国際通貨基金(IMF)がインドネシア経済に関する報告書で「輸出の付加価値を高め、対内投資を誘致し、技術移転を促進する野心を歓迎する」としつつ、ニッケル禁輸を段階的に廃止し、同様な規制を他の鉱物に拡大しないよう勧告した。一方で政策の有効性を評価しながら、他方で禁輸に反対する矛盾した内容に、同国内では「国際機関が我が国の輸出政策をコントロールしようとするのは、現代の植民地主義の一形態だ」(アイルランガ経済担当調整相)といった反発が広がった。

「先進国にすれば、途上国が自国産業保護のために輸入制限を設けることはあっても、まさか輸出を制限するとは思ってもみなかっただろう」。国士舘大の助川成也教授は「インドネシアの鉱石禁輸は、先進国が途上国に押しつけた、WTOに象徴される自由貿易体制へのアンチテーゼ」とみる。

経済のグローバル化に伴い、途上国は豊富な資源や安価な労働力を生かし、国際的なサプライチェーン(供給網)に参画する機会を得た。ただしWTO体制下で、自国へ進出する外資に対して輸出や現地調達を義務付けることは禁じられた。そうした重荷から解放された先進国企業は「世界最適調達」を唱え、自らの利益の最大化に走った。

ニッケル鉱石の禁輸は川中や川下への投資を呼び込み、新産業育成につながりつつある(南スラウェシ州のニッケル鉱山)=ロイター
以前なら、途上国は資本と技術、市場を持つ先進国の言い分を受け入れるしかなかっただろう。「グローバルサウス」と総称される新興国・途上国の経済力や発言力が増すなかで、そんな状況は変わりつつある。自由貿易の名のもと、産業育成への手足を縛られてきた途上国の間で「反乱」が起きている、というのが助川氏の見立てだ。

「禁輸を他の鉱物に広げるな」というIMF勧告は杞憂(きゆう)かもしれない。産出シェアはスズこそ24%と高いが、ボーキサイトは5%、銅は4%。突出するニッケルと違い、市場の「見えざる手」は、他国からの代替調達へいざなう可能性がある。

心配なのは、むしろ他国への波及だ。すでに中南米のメキシコやチリがEV用電池に欠かせないリチウムの国有化を決め、アジアではフィリピンがニッケル鉱石の輸出制限に動く。マレーシアもレアアース(希土類)の鉱石輸出の禁止を検討し始めた。インドネシアで目覚めた「資源ナショナリズム」の影響力は軽視できない。

ただグローバルサウスの中で、インドネシアに触発されて同様の政策に動ける国は、おそらく限られるだろう。先進国に資源を収奪される途上国、といった古くて新しい「南北問題」と同時に、持つ者と持たざる者の格差という「南南問題」をも浮き彫りにするのが、戦略物資を巡るいまのさや当ての図式といえる。

=随時掲載

高橋徹(たかはし・とおる) 1992年日本経済新聞社入社。自動車や通信、ゼネコン・不動産、エネルギー、商社、電機などの産業取材を担当した後、2010年から15年はバンコク支局長、19年から22年3月まではアジア総局長としてタイに計8年間駐在した。論説委員を兼務している。著書「タイ 混迷からの脱出」で16年度の大平正芳記念特別賞受賞。』