戦国最強・武田氏はなぜ滅亡したのか?  決定打となった“金山管理の重臣”穴山梅雪の寝返り

【どうする家康】戦国最強・武田氏はなぜ滅亡したのか?  決定打となった“金山管理の重臣”穴山梅雪の寝返り
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 ※ なるほど…。

 ※ 重臣穴山梅雪の裏切りは、知っていたが、彼が金山管理を行っていた話しは、知らんかった…。

『松本潤演じる徳川家康が、東国遠征から近江・安土城に帰る織田信長をもてなした様子を描いたNHK大河ドラマ『どうする家康』の第26回「ぶらり富士遊覧」(7月9日放送。15日再放送)。そのきっかけとなったのが、織田・徳川連合と敵対していた武田勝頼の死による武田氏の滅亡だ。歴史作家の島崎晋氏によると、戦国最強と呼ばれた武田家が没落した背景には「経済的要因」が挙げられるという。島崎氏が解説する。

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『どうする家康』第26回「ぶらり富士遊覧」では、武田方が押さえていた要衝・高天神城(浜松城の東方。現在の掛川市にある)の落城から穴山梅雪(田辺誠一)の寝返りを経て、武田勝頼(眞栄田郷敦)が最期を迎えるまでの1年弱が駆け足で描かれた。

 版図だけを見るなら、父信玄の時代を超えはしたが、高天神城を失ってからの没落はあまりに速かった。没落の原因は一つではないが、その理由を考えるヒントになるのが、第22回「設楽原の戦い」において、武田の騎馬隊が次々と織田軍鉄砲隊の餌食になる光景を眺めながら、羽柴秀吉(ムロツヨシ)の口から出た「もはや兵が強いだけでは戦には勝てん。銭持っとるもんが勝つんだわ」というセリフである。

 改めていうまでもないことだが、経済的に豊かな戦国大名のほうが動員力は高い。鉄砲をはじめとした最新の武器も揃えられれば、敵を買収する金銭にも事欠かない。戦場で敵軍と衝突するより前に、必勝不敗の態勢を整えることができれば、最低限の損失だけで勝利を収めることができる。状況は若干異なるが、第17回「三方ヶ原合戦」において武田信玄(阿部寛)が口にした「戦は勝ってから始めるものじゃ」と相通ずるところがある。

 織田信長(岡田准一)の場合、単純な経済力だけでなく、和泉国の堺と近江国長浜の国友村という鉄砲の二大生産地、および物流の拠点と動脈を抑えていたから、物量の点では常に優位に立つことができた。

 一方の武田氏の場合、本国の甲斐はもとより、のちに支配下に置いた信濃国と西上野も山ばかりで、耕作に適した平地が少なく、コメだけに頼っていては生き残りさえ覚束なかった。そのため、戦国乱世が本格化した15世紀後半には金山の開発が開始された。』

『実は薄かった武田家の経済基盤

 信玄の代には税制が簡略化され、家ごとに賦課する棟別銭と、耕作地の面積に応じて賦課する田役に大別された。田役は収穫物を換金してから収める田地銭と労働を提供する普請役からなり、堤防の建設・修繕に必要な労力は普請役によって担われた。毎年の収穫高を安定させるには水害を防止する必要があるため、通称「信玄堤」が造営されたが、その労力は普請役によって担われた。

 耕作地の占める比重が他国に比べて低いことから、豊作の年でも歳入不足が否めなかったため、信玄は金山開発と並び、換金性の高い特産品の生産加工を奨励。これにより、甲斐と言えば漆の名産地として知られるようになった。

 一連の改革で武田領の財政は大幅に改善されたが、戦争の連続ではそれも焼け石に水。武田家臣団の結束は多分に信玄のカリスマ性に負うところが大きかった。

 信玄から家督を継いだ勝頼は甲斐・信濃・西上野・駿河に加え、遠江の高天神城をも版図に加え、初めて海への出口を切り開いた。しかし、織田・徳川軍に惨敗した1575年の長篠・設楽原の戦いでは物量の差が如実に表われた。兵の数もさることながら、海外からの輸入に頼っていた鉛と硝石(それぞれ弾丸・火薬の原料)という、鉄砲を有効活用するに不可欠な軍需物資の多寡が、勝敗を決定づけたと言っても過言ではない。

 鮮やかな戦勝で、カリスマ性を獲得しようとした勝頼の目論見は脆くも崩れた。こうなっては、無理を重ねてきた財政に綻びが生じるのは避けがたく、苦しい台所事情をうかがわせる出来事もその後にあった。

 越後国が上杉謙信亡き後の後継者争いで揺れているとき(1578~1579年)、勝頼は北条氏康からの要請もあって、上杉景虎(北条氏康の実子)を後押ししていた。ところが、景虎と争っていた上杉景勝の陣営から、所領の割譲と黄金の進呈を持ちかけられると、たちまち景勝支持へと転じたのだ。』

『武田家は「金欠」だった?

 この一件は勝頼の評判を落とす結果となったが、それよりも注目すべきは、武田家中が著しい金欠に陥っていた可能性である。武田領内での金の産出量が減少を始めたからと説明されることもあるが、そもそも信玄時代の金の産出量からして過大評価されてきた疑いもある。

 たとえば、信玄と金に関して、碁石のような形態をした碁石金にまつわる逸話がある。
 信玄は軍功を挙げた者にすぐ恩賞を与えられるよう、戦場でも常に碁石金をそばに置き、自分の手ですくって与えたというのだが、その実例を伝えるのは江戸時代に入ってから編纂された『甲陽軍鑑』という書物のみ。しかも一件しか記述がないことから、貨幣経済史を専門とする川戸貴史はその著『戦国大名の経済学』(講談社現代新書)の中で、西脇康の先行研究『甲州金の研究 史料と現品の統合試論』(日本史史料研究会、2016)を引き合いに出しながら、「事実としてそのまま信じるのは危うい」としている。

 つまり、碁石金の製造は甲斐国が徳川領になってからの可能性があるわけだが、川戸も前掲書で「武田信玄が活躍した時代にも甲斐で金の採掘が行なわれ、武田氏の影響下で流通していたことは確か」で、「それが同氏の財政を一定程度、潤していたことも否定できない」とし、武田軍の強さを「支えた要素の一つに金の生産があったと見ることは、無理な話ではないだろう」と結論付けている。


家臣の寝返りが武田氏滅亡の決定打

 そうなると、鉱山の管理が誰の手で行われていたかが問題になる。当時、武田領内の金山では「黒川金山」と「湯之奥金山」の存在が抜きん出ており、黒川は武田宗家の直轄だったが、甲斐国南部の河内地方にあった湯之奥金山は、同地を所領とする穴山梅雪の管理下にあった。武田家重臣の梅雪は勝頼の親類でもあっただけに、「万が一にも裏切ることはない」と思われていたのだろう。』

『その梅雪が寝返ったのであれば、産出した金から得られる収益が勝頼のもとに届けられることはありえない。梅雪は河内と地続きの駿河国江尻城代も務めていたから、梅雪の寝返りは織田・徳川軍の甲斐国内への進撃を容易にしただけでなく、武田氏の財政基盤を根本から覆すことにもなった。

 勝頼は譜代家老の小山田信茂がいる岩殿城に落ち延びようとするが、信茂の寝返りにより果たせず、ついには進退に窮し、嫡男の信勝や正室らとともに天目山(現・甲州市)で最期を遂げた。

 武田氏の滅亡は、梅雪が寝返った時点で不可避となっていた。「腹が減っては戦ができぬ」とはよく言ったもので、勝頼は経済の軽視と父へのコンプレックスで死期を早め、自ら墓穴を掘ったとも言えるかもしれない。

【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近刊に『featuring満州アヘンスクワッド 昔々アヘンでできたクレイジィな国がありました』(共著)、『イッキにわかる!国際情勢 もし世界が193人の学校だったら』などがある。』