幻の「アジア通貨基金」構想、米中対立下で再燃?

幻の「アジア通貨基金」構想、米中対立下で再燃?
編集委員 高橋徹
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD07AT40X00C23A4000000/

『2023年4月11日 5:00

懐かしさを伴うその名称は、象徴的といえる場所で、しかし意外な人物の口から飛び出した。

「我々の国際的なインフラを部外者が決めてはいけない。必ずしも競合するためでなく、バッファーとして、国内、域内、アジアで独自の力を持つべきだ」

2月10日、マレーシアのアンワル首相は訪問先のタイで、今後の新たな経済危機に備えるためだとして、唐突に「アジア通貨基金(AMF)」の必要性に言及した。

AMFは1997年…

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『AMFは1997年のアジア通貨危機時に日本が提唱した構想だ。国際通貨基金(IMF)を補完する、アジア独自の常設機関として設置を目指したが、実現しなかった。

「なぜ提唱したか? アジアのことをよく知らないIMFが、危機対応に失敗したからですよ」

かつて構想を主導した「ミスター円」こと元大蔵省(現財務省)財務官の榊原英資・インド経済研究所理事長が、当時の経緯を振り返る。

マレーシアのアンワル副首相兼財務相㊧とアジア通貨基金構想を主導した榊原財務官(98年3月当時、クアラルンプール)=ロイター

「象徴的な場所」とは、タイこそがアジア通貨危機の震源地だったからだ。90年代の高度成長を目当てに流入した過剰なマネーは、経済指標が伸び悩むと逆流した。中央銀行は通貨バーツを買い支えたが、外貨準備が底をつき、米ドルとの交換レートを一定範囲に保つドル・ペッグ制を放棄した。つっかい棒が外れたバーツは瞬時に暴落し、信用不安は感染症のごとく周辺国へ広がった。

本質は資本収支危機だったのに、IMFは緊急支援の条件として、緊縮財政や高金利政策といった経常収支危機への対応を求めた。病状と処方箋のミスマッチにより、支援を仰いだタイやインドネシアは深刻な不況に陥った。紋切り型のIMFの対応に、アジアの当局者からは失望の声が漏れた。

「意外な人物」と書いたのは、当時のアンワル氏はマレーシアの副首相兼財務相として、IMF支援に賛成していたためだ。反対するマハティール首相と対立し、98年に解任される。支援を拒んだマハティール氏は、ドル・ペッグや資本規制、利下げによる景気刺激といった逆張りの手段を講じ、タイやインドネシアに比べ短期でV字回復を果たした。

通貨危機の震源地となったタイは深刻な不況に陥り、建設途中で野ざらしになった高層ビルもあった(99年6月、バンコク)=ロイター

なぜAMF構想は幻に終わったのか。IMFの筆頭出資国である米国が、自国抜きの金融秩序づくりに強硬に反対したからだ。中国が態度を明確にしなかったことも大きかった。89年の天安門事件で悪化した対米関係が雪解けに向かうさなかにあり、その流れにブレーキをかけたくはなかったのだろう。

「当時のローレンス・サマーズ米財務副長官から『おまえは友達だと思っていたのに』と抗議の電話を受けた。米国は中国にも相当な根回しをした」(榊原氏)

時計の針を巻き戻すようなアンワル発言を、関係者はどう聞いたのか。

発言の4日後、来日したインドネシアのスリ・ムルヤニ財務相に水を向けると「AMFという最初のアイデアから進化してきたものをみれば、私たちはすでに仮想的な集団資金プールを手にしている」と答えた。

彼女が言うように、通貨危機後にアジアの金融協力は大きく前進した。

「ASEANプラス3(日中韓)」の枠組みで政策協議が深まり、2000年にタイ北部の古都チェンマイで開いた財務相会合で「チェンマイ・イニシアチブ(CMI)」が創設された。対外支払いが困難になった域内国に対し、他国の外貨準備から短期資金を融通する仕組みで、現在の融資枠は2400億ドル(約32兆円)に設定されている。

アジア通貨危機は、ドル建てで借りた短期資金を自国通貨建ての長期投資に回す、いわゆる通貨と期間のダブルミスマッチが一因だった。その反省から、03年には域内通貨建ての資金調達の場を育成する「アジア債券市場育成イニシアチブ(ABMI)」を立ち上げた。11年には域内の危機リスクを早期発見するための監視機関として「ASEANプラス3マクロ経済調査事務局(AMRO)」を設立した。

危機対応のCMI、危機予防のAMROは、日本が提唱したAMFの機能を因数分解したものと考えていい。時間をかけ、形も変わったが、AMFは事実上実現したともいえる。

にもかかわらず、なぜいまAMFか。スリ氏はこうも話していた。「多くの進展はあった。でもまだ検証はされていない。そして信頼性の点で改善の余地がある」

根底に横たわるのは、アジア通貨危機のトラウマだ。CMIの改善の足跡が、それを如実に示す。

ひとつは「脱IMF」だ。資金受け入れ国のモラルハザードを防ぐという理由で、CMIは原則としてまずIMFからの支援合意が前提条件になっている。これを「IMFリンク」と呼ぶ。IMFと無関係に参加国の合意だけで融通できる割合は当初は融資枠の10%しかなかったが、段階的に引き上げ、20年の改定で40%まで高まった。

もうひとつは「脱米ドル」である。CMIはドル供給が前提だったが、20年には域内諸国の通貨の利用も可能にした。AMROは日本円や人民元に加え、シンガポールドルやタイバーツ、さらにインドネシアやマレーシア、フィリピンの通貨利用の可能性に言及している。

ASEANは域内の通貨・金融協力を進めてきたが、なお道半ばだ(22年11月の首脳会議、プノンペン)=ロイター

ただし、見方を変えれば、60%分はなおIMFに主導権を握られている。過去に一度も発動されていないCMIは「抜かずの宝刀」といわれる。幸いにもそれほど深刻な経済危機が起きていないためだが、IMFリンクによる使い勝手の悪さも大きな要因だ。

また足元で米利上げがアジア通貨に下落圧力をかけ、各国が追随利上げを余儀なくされているように、ドルに振り回される現実は変わっていない。

進展はしたが、なお不十分なCMIを上書きする格好で、もしAMF構想を推進するなら、その今日的な意義は何だろうか。

「CMIは国家同士の合意事項にすぎず、発動にもその都度、各国の同意が必要。IMFのような国際機関としてAMFがあれば、CMIより機動性が高まる」と亜細亜大の赤羽裕教授はみる。それはとりもなおさず、脱IMFと脱ドルの加速につながる。

またかつてとの大きな違いは、中国の台頭だ。CMIが発動されていない理由をもうひとつ挙げるなら、多国間支援の機先を制し、中国が相対で支援している図式が浮かぶ。

たとえばラオス。IMFは数年前から同国の対外債務の増加を「高リスク状態」と警告している。それでも大きな問題が生じていないのは「中国が表に出ない形で外貨を手当てしているからだ」と京都大の三重野文晴教授が解説する。

ラオスはインフラ開発などで対外債務を増やしている(ラオス北部ボーテンの鉄道駅)=小林健撮影

同教授によれば、ASEAN主要国は経済成長に伴う貿易黒字や外貨準備の積み上げで、いまや資本の受け手というより出し手に変貌しており、地域の通貨・金融協力の課題を追い越した面があるという。そして「外貨不足が起きるとしたらラオスやカンボジア、ミャンマーといった域内後発国。いずれも中国の影響力が強い国だ」と話す。

脱IMFや脱ドルで米国の影響を薄めても、それに中国と人民元がとって代わる事態は、ASEANには好ましくない。国際機関としてAMFを設立し、そこに中国を巻き込むことができれば、制御はしやすくなる。中国主導の国際機関「アジアインフラ投資銀行(AIIB)」が当初の予想に反し、同国の覇権主義的な振る舞いとは一線を画して透明性のある運営がなされている現状が、そうした発想に説得力を与える。

いまのところアンワル氏の提言を具体的に後押しする動きは出ていない。が、「アジア独自の力」を待望するのは、同氏だけではない。3月末に今年の議長国インドネシアで開いたASEAN財務相・中央銀行総裁会議は、米ドル依存への脱却に向けて域内決済で地域通貨の使用を促進するタスクフォースの設置に合意した。

インドネシアのジョコ大統領は「米国がロシアに科した制裁を忘れてはいけない」と語った。ウクライナ侵攻の暴挙に出て、金融制裁を食らったロシアはもちろん自業自得だが、外国の通貨や決済システムに依存する脆弱性に警鐘を鳴らした格好だ。

ASEANはグローバル経済の申し子であり、それを後押ししてきたのは米国や基軸通貨ドルとの緊密な関係なのは疑いない。しかしアジア通貨危機の失意から四半世紀を経て、地力と安定性を増したASEANは、ボトルネックだった金融システムでも自立を手探りする。それはいまの米中対立下でどちらにもくみしないという中立姿勢だけでなく、いずれにも従属したくないという意思表示といえる。アンワル氏が呼び起こした、古くて新しいAMF構想からは、そんなASEANのしたたかさが垣間見える。

=随時掲載

高橋徹(たかはし・とおる) 1992年日本経済新聞社入社。自動車や通信、ゼネコン・不動産、エネルギー、商社、電機などの産業取材を担当した後、2010年から15年はバンコク支局長、19年から22年3月まではアジア総局長としてタイに計8年間駐在した。論説委員を兼務している。著書「タイ 混迷からの脱出」で16年度の大平正芳記念特別賞受賞。』