カテゴリー: 世界の歴史、関連
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ヴァイキング
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0








『ヴァイキング(英: Viking、典: viking、独: Wikinger)とは、ヴァイキング時代(Viking Age、800年 – 1050年)と呼ばれる約250年間に西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナヴィア、バルト海沿岸地域の武装集団を指す言葉。
通俗的には、ヴァイキングは角のある兜を被った海賊や略奪を働く戦士であるとされるが、このイメージは後世の想像の影響が強く、実際には略奪を専業としていたのではなく交易民でもあり、故地においては農民であり漁民であった。
各地に進出し、北ヨーロッパの歴史に大きな影響を残したが、次第に海上の民としての性格を失い、13世紀までには、殆どのヴァイキングは消滅した。 』
『名称
ヴァイキングという呼称の語源は古ノルド語: víkingr(氷語: víkingur、フィヨルドから来たもの)。古ノルド語: vík(氷語: vík)は湾、入り江、フィヨルドを意味する。スカンジナビア半島一帯に点在するフィヨルドのことをヴィークと呼んだため、その「ヴィークの人々」を指して「ヴァイキング」と呼ぶようになったと考えられている。後の研究の進展により、ヴァイキングは「その時代にスカンディナヴィア半島、バルト海沿岸に住んでいた人々全体」を指す言葉に変容した。そういった観点からはノルマン人とも呼ばれる。
また、『サーガ』や『エッダ』などに「ヴァイキングに行く」という表現がみられるところから「探検」「航海」「略奪」などを意味するのではないかという解釈がある[1]。
背景彼らは北方系ゲルマン人で、9世紀に入って侵略などを活発化させた。どうして彼等が域外へと進出したのかについては下記のような学説がある。
現在の説ヴァイキングによる拡大と侵攻は中世温暖期(10世紀 – 14世紀)にはじまり、小氷河期(14世紀半ば – 19世紀半ば)に収束しているが、その直接的なきっかけは不明であり、いくつかの説が存在する。
キリスト教と宗教的対立ヴァイキング時代の始まりとされるリンディスファーンの蹂躙は、カール大帝によるザクセン戦争、すなわちキリスト教徒による異教徒に対する戦争と時期を同じくする。歴史家のRudolf SimekとBruno Dumézilはヴァイキングによる攻撃は同社会におけるキリスト教の広まりに対する反撃ではないかと位置付けている[要出典]。Rudolf Simek教授は“初期のヴァイキングの活動がカール大帝の統治時代と時を同じくするのは偶然ではない”と分析する。カール大帝はキリスト教を掲げ、侵攻と拡大を繰り返しており、スカンディナビアにおけるその脅威は想像できる。また、キリスト教の浸透はスカンディナヴィアにおいて問題化していてノルウェーではそれが原因で1世紀に渡り深刻な対立が生じていた。通商・貿易面では、スカンディナヴィア人はキリスト教徒による不平等な条件の押しつけで苦しんでいたことが判明している。名誉を重んじ、名誉が汚された場合は近隣を襲撃することを厭わない文化において、上記のような原因で外国を襲撃することは考えられる[要出典]。
技術的優位性からの富を求めた侵略ヴァイキングは通商・貿易を業としていた民族である。そのため、ヴァイキングは中世ヨーロッパが未だ暗黒時代とされる頃から、東アジア・中東とも交流を行い、航海術だけではなく、地理的な知識・工業的な技術・軍事的な技術も周辺のヨーロッパ諸国を凌駕するようになった。その結果、富を求め近隣諸国を侵略していったとされるものである。
その他の説人口の過剰を原因とする説がある。寒冷な気候のため土地の生産性はきわめて低く、食料不足が生じたとされる。山がちのノルウェーでは狭小なフィヨルドに平地は少なく、海上に乗り出すしかなく、デンマークでは平坦地はあったが、土地自体が狭かった。スウェーデンは広い平坦地が広がっていたが、集村を形成できないほど土地は貧しく、北はツンドラ地帯だった。このため豊かな北欧域外への略奪、交易、移住が活発になったという仮説である。しかし、生産性が低く、土地が貧しいのなら、出生率が上がるとは考えにくく、今では否定的に捉えられている。 人口過剰説として、中世の温暖期も原因とされることがある。温暖化により北欧の土地の生産性が上がったが、出生率がそれを上回って上昇したため、域外へ進出することを招いたという説である。 大陸ヨーロッパではゲルマン民族移動など民族大移動の真っ只中であり、弱体化したヨーロッパに南下して付け入ったという説もある。 能力を理由とする説もある。ヴァイキングの航海技術が卓抜だったため(後述)、他の民族は対抗できなかったというものである。
風俗
史実に近い形で描かれたヴァイキング。ただしここに描かれている人物はノヴゴロド公リューリクであり、半伝説的な人物である事には留意されたい。ヴァイキング戦士の格好は、同時代の西欧の騎士と同様の、頭部を覆う兜とチェーンメイルが一般的であった。丸盾と大型の戦斧が、ヴァイキングの装備の特徴となる。
ノルウェーの10世紀の遺跡から出土した兜は、目の周りに眼鏡状の覆いがついていたが、角状の装飾品は見当たらない。むしろ同時代の西欧の騎士の兜が、動物や怪物を模した付加的な意匠を施す例があったのに対し、ヴァイキングの兜は付加的な意匠は乏しいと言える。
族長クラスは膝下までのチェーンメイルを身につけたが、一般のヴァイキングは膝上20cm程度のものを身につけていた。ヴァイキングとノルマン人の定義には曖昧なものがあり厳密な区分ができないが、ヴァイキングのチェーンメイルは黒鉄色、ノルマン人のチェーンメイルは銀白色、といった区分をする場合があり、アイルランド語ではヴァイキング・ノルマン人を「ロッホランナッホ (Lochlannach)」、つまり「白と黒」と呼んでいた。
ノルマン人と呼ばれる時代には、水滴状で鼻を防御する突起のついた兜が普及した。一体形成で意匠はさらに単純なものとなり、ノルマン・ヘルムと呼ばれた。これはノルマン人以外の西欧の騎士の間にも普及し、初期十字軍の騎士の一般的な装備ともなっている。
ステレオタイプ
一般に、角のついた兜と毛皮のベスト、といった服装が、ヴァイキングの服装のステレオタイプとして知られている[2]。しかしこれは史実ではなく、当時のヴァイキングの遺跡からはこのような兜は出土していない[3]。角のついた兜は、古代ローマ時代にローマと敵対したケルト人の風俗が、後世になってヴァイキングの風俗として訛伝されたものである。なおかつケルト人は数多くの部族に分かれていた集団であり、兜の意匠は様々であり、角のついた兜はその中の一種類に過ぎず、さらに兜を被る事ができたのは一部の部族長クラスに限られる。
ヴァイキングは広く金髪であると言うイメージを持たれている。実際には多くのヴァイキングは茶色い髪を持ち、スカンディナヴィア出身者以外の遺伝子の影響も大きく、血統内にはアジアや南欧由来の遺伝子も存在した[4]。
ヴァイキングの舟
オーセベリ船
(ヴァイキング船博物館、オスロ)
詳細は「ヴァイキング船」を参照ヴァイキングは「ロングシップ」と呼ばれる喫水の浅く、細長い舟を操った。ロングシップは外洋では帆走もできたが、多数のオールによって漕ぐこともでき、水深の浅い河川にでも侵入できた。また陸上では舟を引っ張って移動することもあり、ヴァイキングがどこを襲撃するかを予想するのは難しかった。まさに神出鬼没といえる。このため、アングロ・サクソン人諸王国や大陸のフランク王国も手の打ちようがなく、ヴァイキングの襲撃を阻止することはできず、甚大な被害を受けることになる。戦闘に主に用いられた。[要出典]ロングシップのほか、戦闘にも貿易にも使用できたと考えられているクナールなど、ヴァイキングは何種類かの船を併用していた[5]。
ヴァイキング船については、オスロ市ビグドイ地区にあるヴァイキング船博物館、およびデンマークのロスキレにあるヴァイキング船博物館が中心となって研究がおこなわれている。また、ヴァイキングには、船を副葬にする慣習(船葬墓)があり、ノルウェー・ヴェストフォル県トンスベルグ近郊のオーセベリ農場の墳丘墓で見つかったオーセベリ船や、[要出典]同じくノルウェーのヴェストフォル県サンデフィヨルドのゴクスタ墳丘で見つかったゴクスタ船など、いくつかの船が完全な形で発掘され、ヴァイキング船の研究に大きな役割を果たした[6]。オスロのヴァイキング船博物館には、オーセベリ船およびゴクスタ船、トゥーネ船が展示されている。
商業
ヴァイキングの航海 緑色はヴァイキングの居住地(植民地)、青線は経路、数字は到達年。黒海やカスピ海、北アメリカ大陸のニューファンドランド島にも到達しているヴァイキングは通常の商業も活発に行っており、ユトランド半島東岸のヘーゼビューや、スウェーデンのビルカは商業拠点として栄えた。ビルカからの交易ルートは、例えばブリテン諸島、イベリア半島、イタリア半島、バルカン半島、ヨーロッパロシア、北アフリカに達した。9世紀のイスラム・ディレム銀貨がバルト海のゴトランド島から大量に発掘されるなど、西アジアへの交易路はルーシの地を経て東ローマ帝国やイスラム帝国へと出る、いわゆるヴァリャーグからギリシアへの道によって東方世界とつながっており、コンスタンティノープルとの貿易も、ヴァイキングの通商路である。この事実から、ヴァイキングたちにとっても航海の主たる目的は交易であり、略奪の方がむしろ例外的なものだったと考えられる。
初期のヴァイキング
リンデスファーン修道院の廃墟西暦700年代末頃からヴァイキング集団はブリテン諸島やフリースラントへの略奪を始めたが、この頃には季節の終わりには故郷へと戻っていた。
本格的なヴァイキングの時代が始まるのは、793年の北部イングランドのリンデスファーン修道院襲撃からとされる[7][8]。以後、795年にはヘブリディーズ諸島のアイオナ修道院を略奪し、北海沿岸を襲撃していくようになった。だが、9世紀半ばからは西ヨーロッパに越冬地を設営して、さらなる略奪作戦のための基地とするようになった。いくつかの場合、これらの越冬地は永続的な定住地となっていった。
中世初期の文献資料は、ヴァイキングに敵意を持つ西欧人の記した記録や伝承記が多い。中世の西欧人にとってノルマン人(ヴァイキング)とペスト(黒死病)は二大脅威だったのである[1]。
793年、ノルマン人と思われる一団によって、ブリテン島東岸のリンディスファーン修道院が襲撃された。このことは「アングロ・サクソン年代記」に記されており、西ヨーロッパの記録に記された最初のヴァイキングの襲撃とみなされている。
ヴァイキングは、9世紀にフェロー諸島、次いでアイスランドを発見した。そしてアイスランドからグリーンランド、アメリカ大陸(ニューファンドランド島と推測される)へ進出した。彼らはまた、ヨーロッパの沿岸や川を通って渡り歩く優れた商人であったことから、グリーンランドを北端にして南はロシアの内陸河川を航行してイスタンブールに進出していった。
ヴァイキングは海岸線を伝い、現在のフランスやオランダにあたる地をしばしば攻撃した。デーン人は、834年にフランク王国を襲撃、843年にはロワール川の河口に近いナントを襲った[1]。10世紀に入るとパリがヴァイキングにより包囲され、ロワール川流域も荒廃した。10世紀初め、ヴァイキングの一首領ロロが西フランクを襲撃しない見返りとして、シャルル3世によってキリスト教への改宗と領土防衛を条件に、フランス北西部のセーヌ川流域に領土を封じられた[9]。これがノルマンディー公国の始まりである(なお、ロロの子孫で西フランク(フランス)王の臣下でもあったウィリアム1世がのちにイングランドに侵攻し、ノルマン朝を開いている。これが1066年のノルマン・コンクエストである)。
ヴァイキングの西欧への侵入は当初は略奪目的が少なくなかったものの、9世紀末以降は、ロロの例にみられるごとく定住化の傾向が顕著になる。これは、ヴァイキングの故郷であるデンマーク一帯に統一権力形勢の動きが起こることと連関があり、故国で志をえない有力者が部下とともに移住するケースとみられる[10]。
各国のヴァイキング
デンマークおよびノルウェー
デーンロウ:黄色の部分
ヴァイキングの入植地オーフス再現モデルアングロ・サクソンの史料においては、デンマークから来たヴァイキングはデーン人 (Daner, Dane) と呼ばれ[11]、ヴァイキングの代名詞となった。また、ノルウェーのヴァイキングは、ノース人 (Norsemen, Norse) と呼ばれる。この2国は主に西方に広がる北海方面へと進出した。
804年、フランク王国のカール大帝はザクセンを併合し、これによりフランクとデンマークは国境を接することとなった。これに危機感を抱いたデンマーク王ゴズフレズは、スラヴ人の商業都市レリクを808年に滅ぼして商人を自らの商業都市であるヘーゼビューへと移住させ、以後ヘーゼビューはデンマークの商業中心となっていった。その後、810年にはフランク王国の北端となったフリースラントへと侵攻している。次代のヘミングの代には一時和平が成立したものの、834年にはフリース人の商業中心であるドレスタットを襲撃し、以後フランク王国北岸への攻撃を強めていく。841年には、フランク王ロタール1世はデンマークの二人の首長、ロリクとハラルドにワルヘレン島やフリースラントなどを与え、懐柔を試みる。ロリクはこの時、ノルマン侯国をドレスタットを中心として建設し、数十年ほど国を維持する[12]。しかし、デーン人の南進は収まらず、さらにフランク王国自体が王位争いにより3分割されるに及んで、ヴァイキングの活動はさらに活発になった。
840年代にはロワール川河口やナント、ブルターニュを襲い、850年代にはジブラルタル海峡を回って地中海にまで進出し、イタリア半島やローヌ川流域を襲撃している。863年にはドレスタットを3たび襲撃し、この襲撃をもってドレスタットは完全に衰退する。
セーヌ川 (Seine) 河口に大軍の集結地を作り、そこから繰り返し北フランス各地へと出撃した。851年にはイングランド本土へ侵攻して東部イングランドを蹂躙し、865年にはふたたびイングランドに来襲してノーサンブリアからイースト・アングリア一帯を占領し、さらにイングランド南部をうかがった。これに対し、ウェセックス王国のアルフレッド大王は877年にデーン人を撃退し、翌878年のウェドモーアの和議によってイングランドは北東部と南西部に二分され、南西部をウェセックス王国が、北東部をデーン人の領域(デーンロウ)とすることが取り決められた。これ以後、150年にわたってイングランドの歴史はアングロサクソン諸王国とヴァイキングの闘争に支配される。911年にはセーヌ河の「ノースマン」(北の人=ヴァイキング)は首長ロロの下に恒久的に定住し、ノルマンディー公国を形成することになる。
ヴァイキングはノルマン人とも言われるが、ノルマン人が居住したことからノルマンディーという地名が生まれた[11]。後世の歴史学的用語としてはともかく、当代においてはノルマンディー公国以降のヴァイキングがノルマン人と呼ばれる[注釈 1]。[要出典]
ノルマンディー公国成立後も、デーン人の進出は続いた。11世紀のデンマーク王族カヌートは父がヴァイキングを先祖とするデーン人で母が西スラヴのポーランド人の王族であるがイングランドとデンマークを結ぶ北海帝国の主となり、カヌート大王(在位1016年 – 1035年)と呼ばれる。しかしその後、1035年にカヌートが死去するとすぐにこの帝国にはほころびが生じ、1042年にはエドワード懺悔王がイングランド王位に就く。しかし彼の死後、ノルマンディー公ギョームは1066年にアングロサクソン・イングランドを征服(ノルマン・コンクエスト)し、ノルマン王朝を築いた。
一方、地中海中央部のイタリア半島南部においては、999年ごろより聖地巡礼の帰路に立ち寄ったノルマン人たちが傭兵としてとどまり、ビザンツ帝国領や諸侯領のいりまじっていた南イタリアで徐々に勢力を拡大していく。こうしたなか、ノルマンディーの騎士ロベール・ギスカールは1059年、プッリャ公となり、やがて南イタリアを統一し、1071年には東ローマ帝国の拠点だったバーリを攻略。(ノルマン・東ローマ戦争)さらに1076年までに、当時イスラム勢力の支配下にあったシチリアを占領し、ノルマン朝(オートヴィル朝)を開いた。1130年にはルッジェーロ2世が王位につき、シチリア王国が成立した(ノルマン人による南イタリア征服)。
イタリアに渡ったノルマン人のうち、ターラント公ボエモンは、第一次十字軍に参加し、1098年にアンティオキア公国を建国した。
ノース人の北方進出
インゴールヴル・アルナルソン
シンクヴェトリルのアルシング開催地
ランス・オ・メドーの家ノース人はまた、独自に北方へと進出していた。8世紀にはオークニー諸島やシェトランド諸島、9世紀にはフェロー諸島やヘブリディーズ諸島、東アイルランドに進出した。ノース人のヨーロッパ航路は、オークニー諸島・シェトランド諸島からアイルランド海峡を経て南下するものが主だった。9世紀半ばごろには、拠点としてアイルランド東岸にダブリンが建設された。
フローキ・ビリガルズソンらの航海によってアイスランドの存在が知られると、874年には、インゴールヴル・アルナルソンがアイスランドへと入植し、レイキャヴィークに農場を開いた。彼はアイスランド最初の植民者であるとされる。これ以降、ノルウェーからの移住者が続々とアイスランドにやってきて入植していった。これらの入植は、やがて『植民の書』と呼ばれる書物にまとめられた。930年、アイスランド各地のシング(民会)の代表がシンクヴェトリルへと集結し、全島議会アルシングを開催し、以降毎夏開催されるようになった。
985年に赤毛のエイリークがグリーンランドを発見し、ここでもただちに入植がはじまった。その息子レイフ・エリクソンは北アメリカにまで航海し、そこをヴィンランドと命名した。1000年のことである(ノース人によるアメリカ大陸の植民地化)。この後もヴィンランドへは数度航海が試みられ、ソルフィン・カルルセフニは再到達に成功している。1960年にはカナダのニューファンドランドにあるランス・オ・メドーでノース人の入植地跡が発見され、この到達が事実であることが確認された。これらの航海は、『グリーンランド人のサガ』および『赤毛のエイリークのサガ』というふたつのサガによって語り継がれ、この二つのサガを総称してヴィンランド・サガとも呼ばれる。しかし、このヴィンランド植民の試みは、スクレーリングと彼らの呼んだ先住民との対立によって潰え、ランス・オ・メドーも数年で放棄された。グリーンランドも数世紀植民地を維持したものの、寒冷化による食糧事情の悪化によって1430年前後に壊滅し、グリーンランド以西の植民地活動は最終的には失敗に終わった。
なお、開拓者の消滅後もデンマーク=ノルウェー王国は、グリーンランドを自国の領有地であると考え続け、18世紀以降、この島に対するデンマークの領有権主張の始まりとなった(デンマークによるアメリカ大陸の植民地化)。またノルウェー人も、20世紀初頭に「赤毛のエイリークの土地」と呼んでグリーンランドの領有権を主張していたが、現在、グリーンランドはデンマークの自治領となっている。
スウェーデン
地図中の青線(バルト海上の紫線を含む)が「ヴァリャーグからギリシアへの道」を示すスウェーデンのヴァイキングは、しばしばスヴェア人と呼ばれる。北方ドイツやフィンランド、東スラヴ地域へも進出した。東スラヴの地へ初期の進出は、8世紀後半から9世紀半ばにかけてあったとされる都市国家群のルーシ・カガン国の建国であった(国家群の民族構成には、ノース人の他、バルト人、スラヴ人、フィン人、テュルク系民族も含まれている)。彼らはフランク王国の「サンベルタン年代記」などでノース人、あるいはスウェーデン人であったと伝えられている。このルーシ・カガン国が最期、発展してキエフ・ルーシとなったのか、あるいは単にキエフ・ルーシに吸収されたのかは不明である。また、リューリクがノヴゴロド公国で新しい公朝を立てたといわれているが、この論争はゲルマニスト・スラヴィスト間の対立として知られ、とくに『ルーシ年代記』にみられる「ルーシ」の同定、さらに「ルーシ」が国家形成で果たした役割をどう評価するかが論点となっている。ただし、現代では反ノルマン説は根拠に乏しいとして否定されている(反ノルマン説を提起するのは、多数の東欧の歴史家である。この問題は、史実的な問題というよりも政治的な問題である)。また、ノルマン人がルーシ国家の創設に深く関わっていたのは事実である。さらに、リガ湾やフィンランド湾に流れ込む河川を遡り、9世紀にはバルト海と黒海を結ぶ陸上ルートを支配するようになった。彼らは東ローマ帝国の都コンスタンティノープルにまで姿を現している(839年頃)。このルートは直接イスラム世界へとつながるものであり、フランク王国経由ルートにかわりこのバルト海ルートが一時スカンディナヴィアと東方世界とをつないでいた[13]。伝説的な要素も含む『原初年代記』によれば、882年にはドニエプル川を南下し、リューリクの息子イーゴリが、オレグを後見人にキエフ大公国を建国。彼らはヴァリャーグと呼ばれる。またサガ(スノッリ・ストゥルルソン「ヘイムスクリングラ」)やリンベルトによる聖人伝「聖アンスガールの生涯」によると、9世紀のスウェーデンのエリク王(族王)の時代には、エストニアとクールラント(今のラトヴィアの一部)を支配していたが、それを失ったらしい。なお、スウェーデン・ヴァイキングには、フィン人も参加していたとフィンランドでは主張されているが、史実的な裏付けはない。
フリースラント
詳細は「:en:Viking raids in the Rhineland」を参照この時期においてフリースラントといえば、現在のブルッヘからユトランド半島西岸までの領域を指す。この領域はフリースラント・フランク戦争の影響で徐々にフランク人の勢力下に入りつつあったが、フランク人らによるキリスト教化政策や文化的同化政策はうまく進んでいなかった。それ故にしばしばフリースラントの住民ら自身がヴァイキングとして周辺を荒らしまわることもあった。
それと同時期に、フリースラントの諸都市が北欧のヴァイキングに襲撃され始める。ヴァイキングらはフリースラント北部のen: Wieringen地域に拠点を構えることが多かった。またヴァイキングの首長がフリジア公などと名乗りフリースラントを実質的に支配下に置くこともあった。
北米大陸
ヴァイキング後裔国家ルーシ原初年代記によるとリューリクとその息子たちは東スラヴの各部族に要請されて一帯の統率者となり、860年から880年にかけてノヴゴロド公国やキエフ大公国に新しい公朝を立てた。ただし、これは伝承的色彩の濃い史料に基づいており、リューリクが果たして本当に実在したヴァイキングだったのかを含めて、15世紀まで不確実性が残るが、いずれにせよ、この一帯に定住したヴァイキングは次第にスラヴ人に同化して消滅していった。ルーシでは、スラヴ人君主ながら親スカンディナヴィア政策を取ったキエフ大公ウラジーミル1世までがヴァリャーグ人時代であったと言える(ノルウェー・ヴァイキングであるオーラヴ・トリグヴァソンや後にノルマン・コンクエストに関わるハーラル3世が親衛隊としてキエフ大公国に仕えた他、ルーシにおける半伝説的存在であったリューリクを高祖とするリューリク朝が東スラヴ人の国家ではあったものの、1598年まで存在していたなどの影響が残った)。リューリクは、862年にラドガを自分の都と定めたが、ヴァイキングたちにとってもラドガは東方の拠点の一つでもあり、ラドガの周囲にはリューリク及びその後継者たちのものとされる陵墓も現存する。990年代にノルウェー・ヴァイキングのエイリーク・ハーコナルソンがラドガ湖を襲い、ラドガの街に火をかけたことがサガに記されているほか、11世紀にスウェーデン王女とノヴゴロド公ヤロスラフ1世が結婚した時の条件として王女のいとこのスウェーデン貴族にラドガの支配を任じたことが年代記とサガに記されている。また、ラドガの発掘品からもラドガが次第にヴァリャーグの街となっていったことが確認でき、少なくとも二人のスウェーデン王(ステンキルとインゲ1世)が青少年期をラドガで過ごしている。しかし12世紀以降、ラドガはノヴゴロド公国(ノヴゴロド共和国)の所有する、交易のための死活的に重要な前哨地となり、さらに正教会の教会と要塞が建てられ、北欧との関係は薄れていった。
ノルウェー人の築いた植民地は、アイスランドの植民の成功を除き、全て13世紀から16世紀までに、北欧本国からの連絡が途絶えてしまったとされる。しかしその後も僅かながらの「白いエスキモー」、「金髪のエスキモー」に遭遇したと言う、船乗りたちの話が北欧に伝えられたのである。しかしヴァイキングの活動は急速に失われつつあった。
こうして初期のヴァイキングの自由、そして独立した精神は失われてしまったのである。海賊、交易民的な性格を失っていったヴァイキングは、次第にノルマン人と呼ばれる頻度が多くなっていく。
イングランド、ノルマンディー、シチリア、あるいは東方に向かったヴァイキング・ノルマン人たちは、その地に根付き、王となり、貴族となった。やがてノルマン人としてのアイディンティティを喪失し、現地に同化していった。
一方でヴァイキングの故地たる北欧においても、徐々に強固な国家形成がなされていき、その住民たちも、デーン人、スヴェア人、ノース人、アイスランド人へと、それぞれの国家の国民、民族として分離していく。
こうして、13世紀までには、殆どのヴァイキング・ノルマン人は消滅していく事になる。
考古学者による研究では、ヴァイキングの内、ノルウェー人の祖先は主にアイルランド、アイスランド、グリーンランドへ、スウェーデン人の祖先はバルト諸国へ、デンマーク人の祖先はスコットランド、イングランドへ移住したとされる[14]。
バイキングの戦いバイキングの襲撃と戦術 バイキングの装備(英語版)
タイムライン
詳細は「fr:Chronologie des invasions vikings」を参照
対バイキング
ブルフ(英語版)(イギリスの対バイキング用要塞群)
著名なバイキング
ヨムスヴァイキング - バルト海のヨムスボルグを本拠地とするバイキング ノルウェー王オーラヴ1世 - キリスト教化していく転機を作った。 ラグナル・ロズブローク - 大異教軍を率いイギリスやフランス(パリ包囲戦)を襲った。 ビルカの女性ヴァイキング戦士 骨なしのイーヴァル(英語版) エギル・スカラグリームスソン 赤毛のエイリーク のっぽのトルケル ハールヴダン・ラグナルスソン 剛勇のビョルン シグヴァルディ』
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『フィンランドの歴史(フィンランドのれきし)では、フィンランドの歴史について記述する。』
『先史時代
石器時代
現在の北欧の全域は1万3000年前までの間は氷床が広がっていたが、ヴュルム氷期が終わって気温が上昇すると、氷が解けて海面が上昇すると共に氷河の重さに抑えられていた陸が隆起した[1][2]。
約9000年前、後にバルト海になるアンキュルス湖の東側へ南方や東方から人々が移動するようになり、狩猟や漁業を行った[1]。
紀元前3300年頃にヴォルガ川周辺の文化が持ち込まれ、櫛目文土器を使い始めた[1]。
ウラル語族のフィン人の祖先はフィンランド湾の南に広がり、サーミ人の祖先は北へ分かれた[1]。この頃から北ゲルマン語群の文化と交流が始まり、言語や文化に影響を受けた[1]。
紀元前1500年頃に青銅器時代が始まるまでに南部や西部では農業が始まったが東部や北部では狩猟と漁業が中心のままだった[1]。
青銅器が伝わった頃のフィンランドの遺跡は少なく、サーミ人はアスベスト土器を用いた[2]。
民族移動時代
5世紀から6世紀のフィンランドを前期民族移動時代と呼び、8世紀末までを後期民族移動時代として区分する[3]。
後期民族移動時代には錫製装飾品で有名な「サーミの金属舞納遺構」がある[3]。
8世紀から11世紀にかけてスウェーデン、ノルウェー、デンマークに国が作られたが、フィン人もサーミ人も国を作る事はなかった[4]。
フィン人は大まかにスオミ、ハメーンリンナ、カレリア(Karelians)の3つのグループがあったが、政治的には十分にまとまっていなかった[4]。
この頃の主な産業は夏の農業(大麦、ライ麦)と冬の狩猟(テン、リス、ミンク)であった[4]。後者の動物の毛皮は交易品として重用された[4]。
スウェーデンによる支配
北方十字軍
北方十字軍の進路。赤1150年スオミ族に対する制圧・緑1238年1239年ハメ族に対する制圧・青1293年-1294年カレリア族に対する制圧
キリスト教が広まる前のフィンランドでは北欧神話とは異なる多神教の信仰が存在した[5]。
西隣のスウェーデンは12世紀初めにキリスト教化し、スウェーデン王のエリク9世は1155年または1157年に北方十字軍を編成してトゥルクを中心とするフィンランド南西部を支配したとされる[6]。
しかし当時の史料は無く、短期間の武力行使とキリスト教の布教が行われたものの征服には至らなかったと推測されている[7]。
布教を行った司教ヘンリク(英語版)は農民に殺害され、エリク9世と共に称えられた[7](cf. スカンディナヴィアのキリスト教化#フィンランド)。
北欧で最初にキリスト教化したデンマークは1191年から1202年の間、フィンランドやエストニアを攻撃した[7]。
1219年、デンマークはエストニアの拠点を攻略してタリンに城を築いた[7]。
フィンランドのトゥルクを中心とする地域はスウェーデンの勢力に入り、13世紀初めにカトリックの司教座が設置された[8][5]。
ハメーンリンナを中心とする地域は西のトゥルクからのカトリックと東のノヴゴロド公国からの東方正教会の両方から布教を受けた[8]。
スウェーデンとノヴゴロドの間では12世紀から争いが続き(スウェーデン・ノヴゴロド戦争)、ロシア側の記録によれば1240年にネヴァ川でノヴゴロドのアレクサンドルがネヴァ河畔の戦いでスウェーデンに勝利した[8]。
スウェーデンは約9年後に反撃し、13世紀中頃までにはハメーンリンナはスウェーデンの支配下におかれた[8][9]。
13世紀末にスウェーデンはカレリアの西部を獲得し、ヴィープリにヴィボルグ城(英語版)を建てた[8]。
1323年、オーレシェク講和条約(英語版)によってカレリア地峡を分割する形でノヴゴロドとの境界線が定められた[8][9]。
領土の確定で一定の安定を見た後、フィンランド人の地主、僧侶、官僚たちの自治集会が成立し、1362年にスウェーデン国王を選出する8つの地区の1つと認められた[10]。
彼らはスウェーデン人に同化されたが、フィンランド人の文化は、農民の間に遺された。
この時代にスウェーデンから移住したスウェーデン人たちは、スウェーデン系フィンランド人と呼ばれ、19世紀初頭まで続く「スウェーデン=フィンランド」を形成した。カルマル同盟
1397年にカルマル同盟が成立するとデンマークが統治に関与してスウェーデンからの圧力は減ったが[11]、エリク13世による重税にスウェーデンもフィンランドも苦しんだ[10]。
スウェーデン王となったカール・クヌートソンは連合王の地位を巡ってクリスチャン1世と争い[12]、カールの後を継いだ甥の大ステン・ストゥーレ(英語版)はスウェーデンの摂政を勤めた。大ステン・ストゥーレは1471年にクリスチャン1世と戦って勝利し、1483年までにはフィンランドを支配した[10][11]。
1507年にデンマークはオーランド諸島を攻略し、1509年にかけてポルヴォーやトゥルクを攻撃した[13][14]。
フィンランドの貴族や農民はストゥーレ一族に味方したが、1520年に小ステン・ストゥーレ(英語版)が戦死してスウェーデンは降伏した[12][14]。
勝利したクリスチャン2世がストックホルムの血浴と呼ばれる粛清を行うと、これに対抗してグスタフ・ヴァーサがダーラナで挙兵した。
グスタフ・ヴァーサは1523年にスウェーデン王として選出され、リューベックの協力でデンマークを退けスウェーデンを独立させた[12][14]。
バルト帝国
1523年のスウェーデンの独立によりデンマーク人の勢力は後退した。
グスタフ・ヴァーサ(グスタフ1世)は軍隊整備の制度改革を行い、国家財政のために増税とカトリック教会の財産の没収を行った[15]。
スウェーデンとフィンランドはルター派になり、教皇ではなく国王が司教を任命するようになった[15]。フィンランド語による新約聖書などがアグリコラによって出版された[16]。
タタールのくびきを脱したモスクワ大公国との国境争いは15世紀から継続していたが[10]、16世紀初めには期限付きの停戦協定が結ばれた[14]。
グスタフ1世の後を継いだエリク14世の治世にはエストニアを巡ってデンマーク、ポーランドとの間で戦争となり、北方七年戦争が行われた[17][18]。
この頃のフィンランドの人口は約25万人でスウェーデンの約25%に相当した[19]が、フィンランドの徴兵負担は他の地域より高かった[注釈 1][20]。
富裕農民は軍隊の為に騎手を用意することで徴兵を回避できた為、その他の農民に負荷が集まった[21]。
税と徴兵の負担により、フィンランドの農民は棍棒戦争(英語版)と呼ばれる内乱を起こしたが鎮圧された[21]。
三十年戦争、北方戦争でスウェーデンの勢力は拡大し、1658年にはロスキレ条約により最大版図となる領土を獲得した[22]。
フィンランド人の兵士は、三十年戦争で勇猛さを発揮し、「ポーランド軍にはタタール人(コサック)がいる様に、スウェーデン軍にはフィン人がいる」と言われ、恐れられたという。
17世紀後半に小氷河期が訪れ、フィンランドでは飢饉が発生した[23]。1695年から1697年にかけて10万人以上が飢饉により死亡したと推定されている[24]。
スウェーデンは1700年に始まった大北方戦争に敗れ、1713年にフィンランドはロシアによって制圧された[25]。
1721年のニスタット条約によりフィンランドはスウェーデンへ返還されたが、バルト海沿岸の多くのスウェーデン領が失われた[25]。フィンランドではこの戦争の間に約5万人が病気などによって死亡した[24]。
1741年から1743年にかけて、スウェーデンがロシアとハット党戦争を行うとフィンランドは再びロシアに占領された[26]。
1743年のオーボ条約(英語版)によってフィンランドはスウェーデンへ戻されたが、国境は変更されてロシアが西へ拡大した[26]。
1788年にスウェーデンがロシアと第一次ロシア・スウェーデン戦争を開始すると、スウェーデンの貴族将校たちが国王に反してエカチェリーナ2世へ和平とロシアの協力の元でフィンランドの独立を求めるアニアーラ事件が起きた[27]。
計画は失敗し、スウェーデンとロシアの間の戦いは国境を変更せずに終わった[27]。
現代のフィンランドの歴史家は、これをロシア帝国の策略とする、愚かな犯罪的反乱予備罪だったと決定付けている。[要出典]
しかしこれはフィンランド人のナショナリズムの現われの一端ではあった。フィンランド人はその歴史上地理的に緩衝地帯としての役割を宿命付けられて来た。
中世の初頭から冷戦終結後までフィンランド人は、スウェーデン人(西方教会、パン=ゲルマン主義、資本主義)とロシア(正教会、汎スラブ主義、共産主義)との間の緩衝国であり、東西交流の窓口であった。
フィンランド大公国
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この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。
出典検索?: “フィンランドの歴史” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年4月)
ナショナリズム1807年、ロシア皇帝アレクサンドル1世はティルジット条約においてナポレオンの対英大陸封鎖(大陸封鎖令)に参加する見返りとして、フィンランド領の獲得を承認させた。
このため、1808年ロシア帝国はスウェーデン政府に宣戦布告(フィンランド戦争)、既にフィンランド人にはスウェーデン人に対する不満が渦巻いていたが、フィンランド軍は孤軍奮闘した。
しかしスウェーデン軍は、ロシア軍に大敗すると算を乱して逃亡し、翌年の1809年春にロシア軍はフィンランドの全域を制圧した(フレデリクスハムンの和約、ハミナの和平)。
アレクサンドル1世はフィンランド大公となり、フィンランドを立憲君主制の大公国とした(フィンランド大公国の成立)。内政はフィンランド人が担当し、公用語はスウェーデン語、後に待望のフィンランド語が追加された。
開明的な啓蒙君主であったロシア皇帝アレクサンドル2世の下、「自由の時代」を謳歌し、フィンランド人の民族的基礎が着々と築かれていった。
今でもフィンランド人はアレクサンドル2世を敬愛しており、その銅像とちなんで名付けられたアレクサンドル通りとが有名である。
しかし文化も宗教も異質なロシア人に支配されることによって初めて自らのアイデンティティの問題に直面したのである。
そして民族としての独立した精神は名実共に確立し、フィンランド文化も頂点に達するのである。
民族叙事詩カレワラが出版されたのは1835年のことであった。
「我々はスウェーデン人には戻れない。しかしロシア人にもなれない。そうだフィンランド人でいこう(Ruotsalaisia emme enää ole, venäläisiksi emme voi tulla; meidän täytyy olla suomalaisia.) 」と謳われたのはこの頃である。
1848年のヨーロッパ革命(1848年革命)の年、デンマークで絶対王政は崩壊し、民主主義が成立すると、フィンランド人の間でも学生を中心に民主化運動とナショナリズムは高まりをみせ、学祭で「我等の地」が歌い上げられる。
民主主義が浸透しつつある西側、絶対王政を崩さない東側という対比の下、フィンランド人の間に北欧への復帰の世論が強まっていくことにもなった(汎スカンディナヴィア主義)。
ロシア化政策
ロシアはアレクサンドル2世が暗殺された後、次第に反動的[要出典]になっていった。
特に1871年に成立したドイツ帝国に動揺したロシアは、中央集権化を進めるために帝国内の各民族への統制を強めていくことになる。
1894年の露仏同盟により露独関係の亀裂は決定的となり、ロシアはきたるべき対独戦争の準備のため強権化をエスカレートさせていった。
そうしたものの一つとして1899年にニコライ2世が署名した二月詔書には「フィンランドの自治権廃止宣言(フィンランド語版、英語版)」(ロシア化政策)が含まれており、フィンランド人の自治は剥奪され、フィンランド語も禁止され、公用語としてロシア語が強要された。
20世紀に入るとロシア帝国内で各民族の民族意識が高まり、強権化によりかえって帝国内は混乱を極めていった。
フィンランド人も民族意識に目ざめ、ロシアへの反発を強めて行く。
そして日露戦争のさなかの1904年6月17日、フィンランド民族主義者オイゲン・シャウマン(フィンランド語版、英語版)がフィンランド総督ニコライ・ボブリコフを暗殺するという事態に至る[注釈 2]。
日露戦争終了後、第一次ロシア革命が起こり、ロシア皇帝ニコライ2世は「フィンランドの自治権廃止宣言」を撤回した。
フィンランドは独立こそ果たせなかったが民主的な憲法を制定し、普通選挙法、女性参政権などが実現、総選挙により議院内閣制に基づく政府が発足する。
選挙権拡大により、社民党が躍進した。
しかし、世界は第一次世界大戦に至る緊迫感に包まれ、ロシアは再びフィンランドを弾圧し、政府は解散され憲法は停止される。
自治と独立を望むフィンランド人は息の根を止められたかに見えた。
この時代、フィンランドとロシアの政治的緊張は目に見えて高まったが、経済的にはロシア帝国を輸出先としてフィンランドは経済成長を遂げた。
特に西側の最新技術を元に工業化を推進し、ロシア帝国に輸出する東西貿易の窓口として国力を充実させたのである。こうした発展は、後の独立のための基盤になった。
フィンランド共和国
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出典検索?: “フィンランドの歴史” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年4月)2度の世界大戦
ロシアの支配からの独立運動は日本が1904年日露戦争でロシアを破ったことなどから高まりを見せ、第一次世界大戦では、フィンランドはロシア軍の前哨基地となったが、職業軍人を除いて参戦する義務を負わず、国力を温存させた。
1917年にロシア革命によりロシア帝政が倒されると、社民党は政権を奪取し、憲法を復活させた。
ケレンスキーとの暗闘の後、社民党は下野し、有産階級の諸政党の連立政権が引き継いだ。
ボリシェヴィキとの交渉が成立し、フィンランド人は独立を宣言した。
しかし、労働者階級はソビエト連邦への参加を求めて蜂起し、内戦に突入する。
両陣営の勢力は互角であり、労働者階級は都市部とくにヘルシンキに集中していた。
1918年、赤軍がヘルシンキなど南部地域を掌握(フィンランド社会主義労働者共和国)したため、白軍はヴァーサへ逃れたが、ここで政府はマンネルヘイムを指揮官に任命し、ドイツ人・スウェーデン人も義勇軍を送った。
白衛軍は勢力を取り戻し、タンペレの決戦で白軍が勝利した。
余勢を駆って白軍はカレワラ発祥地、カレリアに出兵。
この是非を巡り連立政権は王党派と共和派に分裂した。
王党派(保守党、スウェーデン人民党)は、ドイツ帝国に接近して王国の樹立を画策、ヴィルヘルム2世の義弟ヘッセン・カッセル方伯フリードリヒ・カールを国王に選出しフィンランド王国を成立させた。
しかしドイツは第一次世界大戦に敗れ、ドイツ革命によって帝政が崩壊。総選挙で共和派(農民党、自由党)と社民党が大勝すると、フィンランドは共和国としてパリ講和会議で認知された(ヨーロッパにおける民族自決)。
1921年にスウェーデン人が多数を占めるオーランド諸島がスウェーデン王国との領有権問題に発生すると、両国の交渉により国際連盟に裁定が委ねられた。
この結果、オーランド諸島は、フィンランドに属する自治領となった。オーランド諸島は、現代においてもスウェーデンとの重要な窓口の一つである。
第二次世界大戦では、ソビエト連邦と2度に渡って戦い、その結果カレリア地峡やペッツアモを失い、多額の賠償金を負った(ソ芬戦争。第1次は冬戦争、第2次は継続戦争と呼ばれる)。
この時フィンランドは、スウェーデンに助力を求めたが、中立主義をとられ、やむなくナチス・ドイツに接近した。第二次世界大戦でのドイツの敗北と同じくしてフィンランドも敗戦国となり、ソ連から戦争犯罪に問われることになった。
冷戦と現代
ソ連からの圧力に屈し、マーシャル・プランを拒絶せざるを得なかったが、戦後のフィンランド人は独自の努力と中立国スウェーデン人からの援助によって復興へ邁進することとなった。
1952年、ヘルシンキオリンピックを開催した。
同年に対ソ賠償を完済し、財政的な負荷がなくなったため、急速に福祉国家建設へ邁進することとなる。
外交面においては冷戦時代は、北大西洋条約機構 (NATO)にもワルシャワ条約機構にも加盟せず、中立を貫きノルディックバランスを構成する。
しかし共産主義勢力のクーデター騒ぎやロシア人の度重なる内政干渉に動揺し、国内政情に不安定な要素を提供することになった。
そのため、長い間対ソ批判はタブー化された。政府もロシア人の干渉を未然に防ぐために親ソとも言えるような言動を繰り返し、かくして「フィンランド化」という言葉まで生まれた。
しかしそれは、フィンランド人自身の独立維持へのすさまじいまでの努力の結果であった。
賠償金の支払いに工業製品の代物弁済を求められたフィンランドであったが、このことは、フィンランド製品がソ連など東側諸国への進出をもたらし、フィンランドを先進国へと昇華させるきっかけにもなった。
また、その賠償のための搬送ルートを東側への拡販ルートとして流用し、東西貿易の窓口として莫大な利益を上げることとなる。福祉国家戦略の優越性と相まって、人口1人当たりGDPは、他の北欧諸国とともに世界一になった。
その後冷戦の終わりと共に囚われの鎖から解き放たれたが、既にロシア人は最大の貿易相手国であり、経済的なパートナーとしてなくてはならない存在であった。
それゆえソビエト連邦崩壊後、政治的な自由とは裏腹に経済的な苦境に見舞われた。GDPは約4割も減少し、財政赤字を増大させたのである。
そのため、経済的な便益を求めて1995年にスウェーデンと共に欧州連合に加盟した。
欧州連合に加盟したことで、欧州連合諸国や北欧諸国との政治・経済は密接となった。
情報通信産業に活路を見出したフィンランドは国家を挙げてIT革命に邁進し、21世紀初頭の現在、北欧諸国とともに世界トップグループの一員となった(世界経済フォーラム調査)。』
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自己家畜化
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%B6%E7%95%9C%E5%8C%96『自己家畜化(self domestication)とは、野生生物が人間との共同生活に適応する過程のことであり、とくに人間が直接家畜に適した形質を選抜して繁殖させること(人為選択)なしに、それが達成されていることを指す[1] 。
犬や猫は部分的にはそのように進化した、あるいは進化していると考えられている。
一方でヒト科の動物が、協調的で従順な行動を進化させたことも自己家畜化とする場合がある。
リチャード・ランガムによれば、同種間あるいは異種間のあいだで攻撃性の低下が有益な環境下で進むとされる[2] 。自己家畜化には進化の副産物として、脱色、性的二型の縮小、幼形化が含まれることがある。』
『野生生物の場合
野生動物は、攻撃的な行動が減少することで、人間の近くでの生存率が向上することがある。
そうやって生存率の向上した個体同士で、(人間の積極的な繁殖選抜をすることなしに)繁殖することが、攻撃性の低い形質を遺伝的に固定することになる。
こうした自己家畜化は、人間の作り出す環境から発生する食糧の入手可能性を増加し、またそれを利用する能力の進化も促される。
この攻撃性の低下は、ホモ・サピエンスの周辺環境に限定しなくても適応度を上昇させることがある。
自己家畜化によって生じる形質が個体間距離の近接化につながり、集団性が高くなることで自己家畜化が有利になる場合もある。
自己家畜化された動物の環境は、野生の表現型とは異なる行動や外見の変化をもたらす可能性がある。
こうした変化しやすい形質としては、脱色、フロッピーな耳、カールした尾、小さな歯、小さな頭蓋構造、幼少期の行動、性的二型の減少、発育の停止などが含まれる[3]が、これらに限定されるものではない。 遊び好きの増加、攻撃性の低下もまた、自家家畜化の進んだ種で観察されている。
猫
「ネコ」も参照
約1万年前、人が定住化し、植物を栽培化する中で、備蓄した穀物を狙うネズミ対策が重要になった。
その中でリビアヤマネコの一部は人の周辺で生活をし、住居近くのネズミを利用するようになった。
人がネコを受け入れる中で、ネコ自身も野生の時代にもっていた人に対する攻撃性を減退し、従順さを増加させるようになったと考えられる[4]。
攻撃的な行動の減少と「飼いならしさ」の増加の永続化を支持し、猫を人間社会でますます許容できるようにしたとする[5][6]。
犬
「イヌの起源」も参照
リチャード・ランガムはイヌの家畜化において自己家畜化の過程があったと推測している。
ランガムによれば、イヌの頭蓋骨はオオカミの幼体の頭蓋骨と類似しており、先史時代において人が積極的に家畜化したのではなく、オオカミ自体が人と互恵的な関係を築く中で自ら家畜化したのではないかという。
食料の自足に不安のあったオオカミのうち、人に対する攻撃性や警戒の少ない個体が人間の住居近くの残飯や屠殺の残骸を利用できることで生存し、その中から原始的なイヌが生まれたとしている[7][8][9]。
ボノボ(パンパニスカス)
「ボノボ」も参照ブライアン・ヘアは、ボノボは自己家畜化したと主張している。
ボノボはチンパンジーと近縁にもかかわらず、攻撃性が低い[10]。
たとえばオスのチンパンジーは食物資源や、メスへのアピール、あるいは群内順位のために威圧的なディスプレイをすることが見られる他、両性とも子殺しをすることがある[11]。
しかしながらボノボのオスはチンパンジーのように他の個体に接触するようなディスプレイをせず、枝引きずりディスプレイのときも他個体はチンパンジーのように逃げることはせずに落ち着いて見ている。
メスも母子、姉妹に限らず連合関係を結ぶことで、交尾を求めるオスに対し拒絶することを最小限にとどめている。
ボノボはオス同士の同盟をつくることで知られるチンパンジーとは異なり、オスーメス間の組み合わせは多様であり、とくに母ー息子間での結びつきが強い。
集団内の関係だけでなく、集団間の関係についてもボノボとチンパンジーは異なり許容度が高く、複数の群が同じ餌場を同時に利用することも観察されることがある。
さらに、ボノボの大人はチンパンジーの大人よりも遊ぶ傾向にあり、子供っぽさをしめす。[12]
こうした特性の違いについての遺伝的基盤についてはわかっていないことが多いが、前頭眼窩皮質、運動野、海馬といった中枢神経に違いが見られる[13][14][15]。こうした領域は、摂食習慣、運動協調、感情と関連している[10]。
自然淘汰の観点からは、なぜボノボにとって自己家畜化が有利だったのかは議論の余地がある。
一説によれば、自己家畜化は安定した社会構造を強化し、社交的な行動を促進することを示唆し、自己家畜化は、主に種内動態の変化によって動機づけられているとされている。
ボノボの集団(菜食や移動のまとまり)サイズは、スクランブル競争が生じる頻度が低下しているため、チンパンジーの集団よりも安定している[16]。単位集団(群)の全メンバーの16〜21%が参加しており、小規模の集団(母子やオスのまとまり)しか作らないチンパンジーよりも大きいことがわかっている[17]。
行動学的・神経学的な証拠だけでなく、形態学的にもボノボの自己家畜化説を支持する証拠は多い。
近縁種のチンパンジーとは異なり、最大20%の頭蓋骨の減少、顔の突起の平坦化、および減少した性的二型を持っている。ボノボの歯は小さく。尻周り毛は白く(white tail tuft)、唇はピンクであり、一般的に幼少霊長類で観察されるこういった特徴は、成人のボノボでもみられる。
マーモセットサル( Callithrix jacchus )コモンマーモセット
神経学者のAsif A. Ghazanfar は、コモンマーモセットの親子の発声交換と体毛の発達に関係があると指摘している[18] 。
マーモセットの幼獣は親から声をかけられるほど顔の白い毛の面積が広がる。
高ストレス環境下では、副腎とそれに対応する神経堤細胞が発達することで体毛近傍にメラノサイトが発達することになり結果的に白い部分が減る。
逆に白い部分が増えるということはストレスが低いことを示しており、霊長類一般で見られる自己家畜化の結果である。
Ghazanfarはこの観察から協調的な子育てが自己家畜化の選択圧であることを主張している。マーモセットの場合、二卵性双生児の育児の必要性がその原動力であり、ヒトの場合は長い幼児期間が協調的な子育てを要請したとしている。
人間では
類人猿
現代人
身体解剖学
反応性攻撃性
人口密度仮説
言語ベースの陰謀
理論的批評
関連項目家畜化 在来種 動物行動学 社会生物学 進化心理学 シナントロープ 』
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【詳しく】プーチン大統領なぜ執着?キエフ・ルーシの歴史とは
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220514/k10013622761000.html






『ウクライナ侵攻に踏み切ったプーチン大統領。ウクライナを“兄弟国家”と呼び「強い執着」があると指摘されています。そのよりどころとするのが、1000年前にあった「キエフ・ルーシ」と呼ばれる国の存在です。
いったい、どういう国なのか。元駐ウクライナ大使で『物語 ウクライナの歴史』の著者の黒川祐次さんに、キエフ・ルーシの歴史について話を聞きました。
プーチン大統領がこだわる「キエフ・ルーシ」とは?
《以下、黒川さん》
キエフ・ルーシは9世紀末から13世紀にかけて、今のウクライナやロシアなどにまたがる地域にあった国です。
「キエフ大公」と呼ばれる君主が支配し、最盛期はヨーロッパ最大の版図を誇った大国だったと言われています。
その中心的な都市だったのが、今のウクライナの首都キーウ(キエフ)でした。
そもそもキエフ・ルーシの成り立ちは?
キエフ・ルーシを形成したのは東スラブ人です。スラブ人は、ラテン、ゲルマンとともにヨーロッパを構成する三大民族のうちの1つですね。
12世紀に編さんされた『原初年代記』という歴史書の伝説によると、東スラブ人のポリャーネ氏族の3兄弟、キー、シチェク、ホリフとその妹が町をつくって、一番上の兄の名を取ってキーウ(キエフ)と名付けたそうです。これが今のウクライナの首都にもなっているキーウの始まりだとされています。
その後、実質的に国を作ったのは北欧から海を渡ってきたバイキングで、オレフ(ロシア語名オレーグ)という人物が創始者でした。882年にキエフ公となったオレフは首都をキーウに移しキエフ・ルーシを建国しました。
栄えたのはいつ?
最盛期を築いたとされるのは2人の君主です。
まず、キエフ大公の「ヴォロディーミル」(在位978~1015・ロシア語名ウラジーミル)は、公国をヨーロッパ最大の版図を持つ国にまで拡大したとされています。キリスト教を国教化したことから「聖公」とも呼ばれるほどです。
また、ヴォロディーミルの息子の「ヤロスラフ」(在位1019~1054)は内政や外交に優れた才能を発揮し「賢公」とも呼ばれた存在です。現在は世界文化遺産にも登録されている聖ソフィア大聖堂を建設しました。
どうして栄えたの?
キエフ・ルーシがヨーロッパ有数の大国となったのは、活発な貿易と商業の発達が関係しています。中世のヨーロッパは圧倒的に農村社会で、王侯や貴族たちは商業を低くみていたのに対し、キエフ・ルーシは商業を重視して富を得ていたと考えられます。
例えば、12世紀までにフランスに運ばれた絹織物は「ルーシ物」と呼ばれるほどで、貿易が盛んでした。これに伴い都市も発達し、領土の全人口の13%から15%ほどが都市に住んでいたと推計されています。
なぜキリスト教を取り入れたの?
かつてキエフ・ルーシはアニミズム的な多神教が支配的だったとされています。しかし、国の規模が大きくなる中、キエフ大公の統治を正当化し結束を強めるのに、一神教は都合がよかったのでしょう。
また、キリスト教国となることで、ビザンツ帝国を中心とした「文明国の共同体」の一員に認められ、ヨーロッパ各国との婚姻政策などの外交面でも役に立っていたと考えられます。
“栄光の国”がなぜ滅んだ?
最終的な要因は、13世紀にユーラシア大陸で猛威を振るっていたモンゴルの侵攻だと言われています。ただそれ以前にキエフ・ルーシは衰退過程に入っていたようです。
まず国の内部で制度が変わり、各地を治める地方の貴族が力を持ち始め、バラバラに動くようになった結果、公国全体の君主「大公」の力は低下していったと考えられます。
またヨーロッパやその周辺の勢力図が外部要因によって変化すると、キーウを通過する交易路の重要性が低下し、国の繁栄をもたらしていた経済の停滞を招いたと推察されます。
モンゴルの侵攻で1240年に首都キーウが陥落すると、キエフ・ルーシは事実上崩壊します。オレフが建国してからおよそ350年後のことでした。モスクワが力を持ったのはなぜ?
これとは対照的にモスクワは森林地帯で、交易による収入もあまり見込めないことから、比較的モンゴル軍の攻撃を受けにくかったことなどもあり、力を蓄えていきました。
こうしたことがキーウとモスクワの力関係が逆転するターニングポイントになったと考えられます。
キエフ・ルーシは崩壊後はどうなったの?
ウクライナ側がキエフ・ルーシ崩壊後の継承国としているのが「ハーリチ・ヴォルイニ公国」です。
この公国は、キエフ・ルーシ崩壊後も1世紀にわたって現在のウクライナの西部で栄え、今の西部の主要都市のリビウもこのときに町が建設されています。
ウクライナの歴史家の1人は、ハーリチ・ヴォルイニ公国が今のウクライナの人口の9割が住む地域を支配していたとして「最初のウクライナ国家」だとしています。
《ここまでが黒川さんの話です》
プーチン大統領の考えは
では、こうしたキエフ・ルーシの歴史をプーチン大統領はどう考えているのでしょうか?
去年7月の論文では、ロシアとウクライナがともにキエフ・ルーシにルーツを持つとして両国は「兄弟」であり「一つの民族」と主張しています。この中でプーチン大統領はロシアとウクライナは「精神的、人間的、文化的なつながりは数百年にわたって築き上げられた」として、両国民の一体性を強調しています。その結び付きの始まりこそキエフ・ルーシであり、「ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人は皆、かつてヨーロッパ最大の国家であった古代ルーシの子孫」と述べています。
また論文では、キエフ・ルーシは滅亡後、モスクワを中心とする東側とポーランド・リトアニアの支配下に置かれた西側に分かれたものの、17世紀に「モスクワが再統一の中心となって国家としての古代ルーシの伝統を受け継ぐことを定めた」とロシア側の正統性を強調しています。
「キエフ・ルーシは誰のものか」
一方のウクライナ側はキエフ・ルーシをどう考えているのでしょうか?
黒川さんはこう説明しています。
「さきほど指摘したように、キエフ・ルーシは滅亡後、西ウクライナに栄えたハーリチ・ヴォルイニ公国に継承されたという考えがあります。『最初のウクライナ国家』とも呼ばれるこの公国の系譜が現在のウクライナまでつながるとされています。そのため、ウクライナ側は“自分たちこそキエフ・ルーシの正統な継承者だ”と主張するのです」
「したがって、ウクライナはロシアの一地方などではなく、1000年以上前からの栄光の歴史を引き継ぐ国だと。一方のモスクワはこそキエフ・ルーシの一地方(東北地方)に過ぎず、民族も言語も違い、ロシア帝国やソビエト連邦に至っては非常に強い中央集権制でそのシステムは全く異なる、というのがウクライナ側の歴史の考え方ですね」
プーチン大統領の主張には、他の歴史研究者からも疑問の声もあがっています。
ウクライナ史に詳しい神戸学院大学の岡部芳彦教授は「ウクライナ側から見れば、ロシアのキエフ・ルーシ起源説は16世紀のモスクワ・ツァーリ国のイヴァン雷帝の頃に唱えられ始めたことで、その論理はいわば“後付け”です。ウクライナの歴史家が指摘するように、ロシアの起源はキエフ・ルーシまでさかのぼるよりも、むしろ13世紀後半以降に成立したモスクワ大公国が拡大してできたと思われる」と説明します。
そのうえで岡部教授は「ウクライナからみると“ロシアがルーシの名前を盗んだ”というんです。プーチン大統領は“キエフ・ルーシは自分たちの歴史だから自分たちのものだ、だから起源を取り返せ”というわけですが、それは起源の論争が侵略と拡大の理屈に使われているわけです。ウクライナ側からすると全く逆の解釈ですので、当然受け入れられないということになります」と話しています。
「キエフ・ルーシは誰のものか」
1000年前の国に起源を求める歴史論争は、今もまだ現実の政治の中に影を落としているようです。
(ウクライナの歴史については【詳しく】のシリーズで数回にわたってお伝えする予定です。次回は「コサック」を取り上げます。)』
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民族浄化とは、どういう事か? 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/28679179.html※ 今日は、こんなところで…。
※ 「将棋」だったら、取った「駒」を使うことができる…。
※ しかし、対象が「人間」の場合は、「取った」だけでは、こちら側の都合よく「使うこと」は、なかなか難しい…。
※ そこで、人格形成前の「子ども」を狙って、「再教育(≒洗脳)」を図るわけだ…。
※ ウンザリな話しだが、洋の東西・時代を問わず、「行われて来た」ことだろう…。
※ いわゆる、「先進国」においては、もっと「ソフィスティケート」され、「あからさま」じゃ無い形で行われているに過ぎない…。※ 「あからさま」にやることは、「人権侵害」として、非難されることになるんでな…。
『 ロシアは、ドンバス地方のロシア系ウクラナイ人を迫害から救うという事を建前に、ウクライナ全体を併合し、ロシアに取り込む事を狙っています。
実際にウクライナから民間人を強制移住させて、大陸を挟んで真反対のサハリンへ送り込み、「再教育」を施しています。
そこで何が行なわれているかは、正確には不明ですが、民族の社会と文化を破壊して、歴史から抹消するいわゆる「民族浄化」を行う場合、世の東西を問わず、まったく同じ事が行なわれます。
目的が同じなので、やることも似てくるわけです。同化ではなく根絶やしにしようと思うと、ナチス・ドイツの行った強制収容所のような施設で、まとめて「処分」して息の根を止める事になります。
こうした詳細な記録は、良くも悪くもアメリカの方が記録として残っています。なので、ロシアの例ではありませんが、アメリカが過去に行った民族浄化政策を見れば、大体、ロシア支配下のウクライナ人が受けている仕打ちが推察できます。
アメリカでは、先住民族を対象に、最盛期に408校の寄宿学校がありました。特定の民族を併合し、文化を破壊し、歴史から抹殺しようとする場合、子供を親から引き離して洗脳するのが第一歩になります。親は、人格が既に確定してしまっているので、どうとでも洗脳できる子供を親から引き離して、教育を与えるわけです。
ここで言う先住民とは、インディアン(今は、この言葉は使ってはいけないそうです。アメリカ先住民と言わないといけない)、エスキモー、ハワイ王国の人々です。洗脳し、文化的な同化を推進する為の寄宿学校ですから、反抗は許されず、それに対しては、激しい体罰で応じました。結果として、19校の記録だけで、500人の子供が寄宿学校内で死亡した事が確認されました。もちろん、現地の言葉は使用禁止で、英語を話さないといけません。
これは、カナダなんかも同じで、最近、古い寄宿学校を解体して再開発を行ったさいに、身元不明の大量の子供の白骨死体が埋められているのが発見されて騒ぎになりました。1800年代~1900年代なかばくらいまでは、宗主国が植民地に対して同化を強制するのは、当たり前の事だったので、そもそも差別であるとさえ考えられていませんでした。実際、この時代には、異民族の子供が一般の学校には行けず、そんな事をしたら、白人の子供の親から石を投げられて追い出される時代だったので、寄宿学校にでもぶちこまないと、教育もできなかったのです。
こういう施設には、当然ながら宗教系の団体が経営に関与してきますから、もちろん改宗も強制されます。そして、両親の元で親しんだ現地の文化を否定する事を教えられます。漏れ伝え聞いている話だと、拉致された先のウクライナ人の子供も、作文でウクライナを非難する事を強要されて、拒否すると食事が与えられないという罰を受けているようです。もしくは、ロシアは素晴らしいと絶賛し、新しい祖国として忠誠を捧げるような作文を書かせます。
アメとムチで教育が行なわれると、そもそも自我が確定していない子供は、自分達の今の境遇を招いたウクライナという国を憎むようになります。
まぁ、それが目的で教育しているので、最終的には両親から感じる祖国の文化に嫌悪感を抱くようになります。
これも、両親に再び会える機会があったらという条件付きですが。
そのまま、年齢を重ねたら、軍隊に放り込んで、ロシアの為に危険な最前線で命を張ってもらうのが、投資に対する成果です。
今でも、ロシア軍の中で、死亡率が高いのは、ロシアから見て他民族で構成された部隊です。積極的に危険な前線で、突撃攻撃を強制されるので、死亡率がダントツです。
恐らくは死亡者数が2万人に近づいているのに、ロシア国内で余り問題になっていないのは、死んでいるのが辺境の異民族出身の割合が高いからです。弾除けに異民族を使うのは、どこの戦争でも伝統です。
これからも判るように、そもそもロシアのウクライナ侵攻は、建前にしている「ドンバス地方のロシア系ウクラナイ人を迫害から救う」ではなく、ウクライナのロシアへの併合。
つまり、大ロシア主義の実現である事は明確です。ついでに、ロシア正教の支配権の拡充も狙っています。
実際、プーチン大統領の時代になってから、ロシア正教と軍隊の一体化が進んでいて、ロシア軍お抱えのロシア正教会の大聖堂も完成しています。噂ですが、現在の大主教は、KGB出身という話もあります。だとすると、宗教家とは思えない発言を連発している理由も判ります。
プーチン大統領より前の時代は、そもそも共産主義が宗教否定の社会なので、ロシア正教会の財産は没収されて、それでも信教を止めない人々によって、支えられていました。
つまり、迫害されていたので、超貧乏でした。しかし、プーチン大統領は、国政の立て直しの精神面において、ロシア正教会の組織を利用する事を進めて、優遇を始めました。
これは、画像が出回っているのですが、今の大主教が執務している姿を映した画像で、腕に数百万円の高級腕時計を巻いているのが確認されています。今のロシア正教の高職者は、富豪クラスの金持ちです。そして、大ロシア主義の拡張に全面協力しています。
それゆえ、純粋な宗教家ではなく、プーチン大統領の息のかかった人間を大主教に据えたのではないかと、噂になっているのです。
真実は、どうあれ、プーチン大統領にとって、宗教も人心掌握のツールでしかないのは確かです。映像などで、盛んに敬虔な信徒である事をアピールしていますが、まぁ、信教はしていないでしょうね。利用する事は考えていても。
独裁者として国を収めるに当って、模範のケースを示さないといけないので、上半身裸で馬に乗り肉体を誇示したり、ピアノをエレガントに弾いてみたり、敬虔な信徒として礼拝する姿をカレンダーやポスターで流布しているわけです。国家が個人とイコールの独裁国家では、必要な事です。北朝鮮も盛んに真似してますしね。
憎しみというのは、方向性さえコントロールすれば、人を支配するのに、とても有効です。
祖国を憎む子供を育成する事で、対ウクライナの理想的な要員を得る事ができます。
仮に彼らが成長して、ロシアに併合された祖国に管理者として派遣されたとして、そこでウクライナ人を支配する事に何の躊躇も無いでしょう。
厳しい子供時代を過ごさなければならない原因を作ったのは、微かな記憶しかない祖国と教えられているからです。』
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ウクライナのロシア軍占領地で行われている事 : 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/28654317.html※ 今日は、こんなところで…。
『これは、ロシアに限った事ではなく、植民地が欧州列強の当然の権利として認められていた時代には、どの国でもやっていた事です。ただ、現代で同じ事をやろうとしているのが愚かであるというだけの話です。
・相手の言語を奪う。
ドンバス地方やヘルソンなどのロシア軍支配地域では、ウクライナ語を廃したロシア語での教育が始まっています。いくつかの、このブログの記事で解説したように、スターリン時代のソ連がウクライナ地方を制圧した時に、同じ事をしています。もともと、ウクライナでは、ロシア語も話せる人が多いです。というのは、スターリン時代に行われた人工飢饉であるホロモドールで、餓死したウクライナ農民と入れ替わりで、ロシア人の入植者がタダで農地を手に入れているからです。文化の土台である言語を奪われると、その土地の文化は急速に衰退して死滅します。植民地の言語を絶滅させるのは、奴隷支配の第一歩です。
これは、欧州がアフリカの旧植民地で行っていた事でもあり、現代でも政治家として出世するには、現地の言葉ではなく、フランス語や英語ができる必要があります。つまり、当時の宗主国の政治家と、交渉できる言語能力が無いと、事実上、国のトップにはなれないという事です。また、当時の欧州列強が勝手に引いた国境が、今のアフリカ諸国の国境になっている事が多いので、部族が歴史と関係無く寸断されて、一つの国の中で何種類ものローカル言語が混在しているのも、彼らの罪です。その為、国民の声を糾合する言語が無く、意志の疎通すら困難な国がゴロゴロしています。地味ながら、アフリカが貧困から抜け出せない一つの原因です。植民地支配するには、現地の部族が理解し合えず、なんなら憎み合っていたほうが統治しやすかったのです。
今でも、植民地支配の爪痕が良く残っているのはハワイです。ここも、もともとは王国があったのですが、アメリカが入植するにあたって、現地の言葉を絶滅させ、子供には先祖の文化を野蛮で価値の無いものと教え込みました。現地の子供が学ぶ学校教育で、徹底的な洗脳が行われた結果、観光資源としてしか、王国時代の文化は残っていません。
歴史を見ると、ロシアが特別酷い事をしているわけではないのですが、現代で時代錯誤な大ロシア主義を掲げて、領土で国力を誇示しようとしている点が「滑稽」です。このブログで何度か取り上げているように、今の世界の国力のリソースは、システムです。植民地時代のリソースは、土地と労働力が重要だったので、アメリカはアフリカに行っては、黒人を拉致してアメリカの綿花農園で奴隷労働させていましたし、植民地の拡張に目を血走らせていたわけです。しかし、今は経済に国境が無くなっているので、大きな力を持つのは、そうしたものより、仕組みを支配するシステムを押さえる事です。
・支配地からの徹底的な収奪
これも、このブログで何度か取り上げていますが、植民地支配で重要なのは、抵抗する気持ちを挫くくらいギリギリの生活を押し付けて、労働の成果として上がってくるモノを、収奪しつくす事です。力で支配するには、農奴のように社会での地位を固定化して、限界まで収奪して抵抗する力を削ぐのが一番に効力があります。
欧州で中世が人類史の中で長く続いたのは、身分の固定が強固だったからです。農民の子は農民。貴族の子は貴族。この強固な社会の階級制度が、文化の停滞と引き換えに、権力の持続力を担保していました。国民が親の人生以外の可能性を考えられない社会というのは、権力的には安定しているのです。その為、海外資本を取り入れて、多様性の進んだ中国社会では、習近平氏の肝いりで、国民の愚民化政策が進んでいます。どういう事かと言うと、世界の情報とアクセスする窓口である英語の義務教育からの排除。農作業の体験授業の義務化。道徳での習近平思想(劣化毛沢東思想)の義務化で、つまり、これから育つ子供たちに、労働者になる以外の選択肢を狭めようとしています。
現在、ヘルソンなどのロシア軍の支配地域では、農産物の70%を差し出す農家に対して、種まきを許可するという恐ろしい収奪政策が行われています。スターリンの引き起こした人工飢饉であるホロモドールの再現かとも言われている生きる権利さえ侵害しそうな政策ですが、武力で支配されるという事は、こういう事です。特にヘルソンは、前線のロシア軍の劣勢が伝えられているので、支配している間で、持ち出せるだけの資源を強奪しようとしているように見えます。ロシア軍の特徴なのですが、盗めるだけ盗むという行動があります。旧ソ連がドイツを制圧した時も、ドイツ内の線路を引き剥がして、強奪する徹底ぶりでした。これは、満州でもやられています。
事実上の後方基地になっているベラルーシでは、ウクライナの民家から盗んできた家具や電化製品を、故郷の実家に送る兵士で、郵便施設がごった返しています。略奪は正規軍・非正規軍を問わず、ロシア兵の役得になっています。
・拷問・強※
どこの戦場でもそうですが、兵士の最大の娯楽が「拷問・強※」です。武器を持たない相手を、一方的にイタブッたり、女性を強※するのは、常に生命の危機のある戦場にいる兵士にとって、「生」を実感できる大きな娯楽です。その為、制圧された敗戦国の都会では、爆発的に私生児が増えます。今回のウクライナ侵攻でも、ポーランドへ脱出した難民の中から、さらに他の国へ移動する女性が増えています。ポーランドの法律では、裁判で被害が証明された時以外の妊娠中絶が禁止されているからです。望まない妊娠をした女性は、さらに中絶が可能な国を求めて彷徨うしかありません。』
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ロシアのネオ・ナチ : 机上空間
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/28659611.html『ロシアのプーチン大統領が、ウクライナ侵攻の理由として上げているのが、ウクライナのネオ・ナチとウクライナ現政権との癒着、そして、ロシア系ウクライナ人に対する迫害です。最初に理っておきますと、これは、まったくの虚偽ではありません。ロシア親派の前大統領であるヤヌコビッチ氏が、国外逃亡を余儀なくされた時、政権打倒を祝う群衆の中で、ネオ・ナチの旗が翻っていました。
この革命騒動は、最も一般化すると、EU参加を求める国民と、それをロシアの影響を受けて、阻止しようとしたヤヌコビッチ氏が、対立し、市民のデモ隊に対して、秘密警察による暴力による鎮圧を計った事により、抗議活動が全国的に広がり、政権が倒れたと説明されています。まぁ、概要を短文で説明しろと言われたら、間違いではありません。しかし、国政というのは、そう単純なものでもなく、争いのあるところには、すきを狙って、様々な勢力が入り込んできます。
このブログで何回か説明した通り、歴史的な経緯で、ウクライナにおけるナチス・ドイツというのは、スターリンのソ連の圧政から解放してくれた解放軍と認識されています。実際、ドイツ軍がウクライナを制圧した時は、歓迎されて、ソ連に協力していた共産党員が、ドイツ軍へ突き出されています。その為、国政とナチズムというのは、切っても切れない縁でした。ネオ・ナチによる、ウクライナの左派議員への襲撃なども起きています。
それと、良く誤解されるのですが、ゼレンスキー大統領がユダヤ系の家系だから、ネオ・ナチと関係があるはずがないと説明する人がいますが、ウクライナにおける排斥すべき人種は、ユダヤ人ではなく、ロシア系ウクライナ人です。これも、何回か歴史的な経緯を説明していますが、スターリンが起こした人工飢饉であるホロモドールで、餓死したウクライナ人の土地を引き継ぐ形で入植してきたのが、ロシア系ウクライナ人です。なので、地方によっては、日常の言語がロシア語の地域があります。つまり、ウクライナというのは、人種間紛争の坩堝と言って良い土地柄なのです。
ゼレンスキー大統領も、就任直後ぐらいは、ネオ・ナチと対立路線を見せていましたが、結局のところ、ドンバス地方やクリミヤでロシアの圧力が高まると、カウンターで対抗する戦力として、ネオ・ナチの勢力と握手しています。勲章も授与していますし、国家の会合にネオ・ナチのリーダーを呼んでいます。必要から武装勢力と手を結ぶというのは、国情が不安定な国では良くある事です。それで、国を乗っ取られるのも、良くあります。カンボジアのポルポト政権なんかが好例です。
では、ロシアにネオ・ナチはいないのかと言えば、まったくそんな事はありません。ロシアのネオ・ナチは、ウクライナとは違って、侵略の歴史の結果ではなく、エリツィン大統領時代に混乱したロシア経済の結果として生まれました。エリツィン大統領は、改革派の騎手として、様々な政策を実行しますが、この時に西側に良いように取り込まれて、かなりロシアの資産を食い物にされています。大統領の任期後期には、病気と精神の衰弱で、まともに政権を維持できなくなり、エリツィンの親族が政治に口を出して、利権を漁るという腐りきった状態になっていました。この時のクレムリン宮殿大改修工事に関わるスキャンダルを揉み消して、功績を認められたのが今のプーチン大統領です。この事のプーチン氏は、権力の譲渡が完了するまで、徹底して、エリツィン氏の飼い犬を演じていました。
経済の混乱は、道徳の低下を生み、ロクに教育を受けられない多数の若者を生みました。どの時代でも、貧乏でコネの無い人間の頼みの綱は、その国の軍隊です。新兵として入隊した若者の10%が、読み書きができなかったと言います。そんな昔の話ではありません。
経済が困窮すると、一番簡単な不満の捌け口は、全ての責任を特定の対象に押し付ける事です。ロシアの場合、自分達よりも余裕のある暮らしをしているように見える外国人に向きました。ここでの外国人は、ロシア人以外と言う意味で、白豪主義とは少し違います。ただ、ロシア人の人種的な純血とか、外国人の排斥を言っているので、ナチズムとは親和性が高く、彼らの旗印は、鉤十字のシンボルですし、ナチス式の敬礼もします。頭は、連帯感を出す為に、スキンヘッドが標準で、多くの場合、入れ墨もセットです。典型的な右翼スタイルですね。
しかし、彼らは、深い絶望を味わった分、実際に酷く暴力的で、外国人旅行者を人種に関係無く、徒党を組んで襲撃したりします。ロシアという広い国土の中には、人種で言えばアジア、アラブ人。宗教で言えば、イスラム教徒もいますが、ロシア人(スラブ系民族)、ロシア正教徒以外は、全て排斥の対象です。なので、最終的には、全てロシアの国土から駆逐するべきと主張しています。実際、ロシアを旅行する場合、スキンヘッドを見かけたら、近づかないというのは、常識です。
ナチスに侵略された歴史を持つロシアにとって、これは都合の悪い事実なので、多くのロシア国民は知らないフリをしています。もしくは、愛国というオブラードに包んで、存在しない事にしています。場合によっては、非難の対象にもなります。ただ、経済的困難に巻き込まれた(悪い時期に生まれた)若者の攻撃性は、そんな事では収まるはずもなく、他民族に対するリンチや暴行、襲撃という形で噴出しています。悪いのは全部外国人というのは、ロシア政府も暗に利用してきた責任回避の方便でもあったので、強く取り締まる事はありませんでした。
ネオ・ナチと言っても、結局は、その地域のナショナリズムと結びつく、人種的優越性・外国人排斥・人種的純血崇拝の思想なので、迫害の対象がユダヤ人とは限らないし、その原因は、戦争や支配、差別や貧困から生まれた不満です。なので、ネオ・ナチの支部は、世界中にあります。アメリカにもあります。そして、政情が不安定な国では、国政レベルの影響力を持っているのです。
ネオ・ナチ一つをとっても、その国の歴史・経緯があるので、定型文で語れるものではありません。なので、国際紛争を評価する場合、ロシアの言い分にも正しいところがあるとか、ウクライナにも悪いところがあるとか言っても埒が明かないのです。つまり、解決するのに取った手段が、国際秩序に反しているかどうかで判断するしかありません。「力による一方的な現状の変更」を行使した時点で、他の事がどうであっても、ロシアが全面的に罰せられなければなりません。
仮に、ウクライナ人が、国内でロシア系ウクライナ人狩りを、ガンガンやっていたとしても、それに対する制裁は、一国の独善的な判断ではなく、国連で事実の調査を行い、合議の結果として、ウクライナに罰が与えられなくてはならないのです。もし、それが事実なら、経済制裁でも国連軍の派遣でも、あらゆる手段を使って、ウクライナに制裁すれば良いだけの話です。そうでない時点で、全ての非はロシアにあります。常任理事国が、やってはいけない事を、やったのです。』
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戦争賠償
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B3%A0%E5%84%9F『戦争賠償(せんそうばいしょう、戦時賠償とも)は、戦争で生じた損害の賠償として、ある国が他の国へ金品や資産を提供すること。
多くの場合賠償金の形を取る。
通常、戦争賠償が支払われるのは敗戦国から戦勝国に対してのみであり、逆の例は少ない。賠償する対象は戦勝国の費やした戦費も含まれ、戦争法規違反には限らない。
よく似た概念語として「戦後補償」があるが、一般に戦争賠償は国家間、戦後補償は国家対個人の賠償・補償を指す場合に使われる。
第二次世界大戦を例にとるならば、日本の場合は国家間の戦争賠償、ドイツの場合は国家対個人の戦後補償にも応じている(ただしドイツの公式な立場は「個人が戦争で受けた被害を自国政府以外に請求することはできない」というものであり、ドイツ国民以外の戦争被害の請求は認めていない)。
ドイツの個人に対する賠償の場合は、敗戦国であっても戦勝国に対し自国民が受けた被害(戦勝国内や独立国内に遺棄されたインフラや資産など)に対する賠償を請求し実際に賠償がなされたことがあり、この点は敗戦国にのみ負担が偏るという賠償に対する批判に類しない。
また、遺棄された在外資産は中間賠償と呼ばれる賠償の一部という形態をとることもある。 』
『歴史
戦争賠償の慣習は、ポエニ戦争で共和政ローマがカルタゴに賠償金を課した例など古代からみられた。
だが戦争賠償が戦後処理の手段として一般化するのは、ヴェストファーレン条約の締結により近代的な国際秩序が形成され、戦争の主目的が敵領土の併呑や奴隷労働力の獲得から一定の政治目的の達成へと変質した17世紀以降のことである。
戦争賠償を巡っては様々な政治問題が発生した。
日露戦争
日露戦争の講和条約、ポーツマス条約締結は戦争賠償の有無を巡って難航した。
日本は賠償金の支払いを要求したが、ロシア帝国は国内の政情不安のため講和に応じただけで、海軍は太平洋艦隊とバルチック艦隊が壊滅的大損害を被ったが、陸軍力はまだ粉砕されておらず強気であった。
対して日本は、旅順攻囲戦、奉天会戦や日本海海戦で、持てる戦力を全て出し切り、巨額の戦時国債を発行しており、それ以上戦争を続けることは軍事上も経済上も不可能であった。
そこで、日本の全権大使小村壽太郎は、ロシア皇帝ニコライ2世が出してきた「賠償金は支払わないが樺太南部の割譲は認める」とする譲歩案を呑むしかなかった。
ポーツマス条約の「屈辱的な」内容を知った日本国民の中には小村を売国奴と罵る者もおり、日比谷焼き討ち事件が発生するなど混乱が続いた。
第一次世界大戦
「第一次世界大戦の賠償」も参照
4年以上の長期戦となった第一次世界大戦の結果、欧州連合国は多額の対アメリカ・イギリス向け戦争債務を抱え込んだ。
パリ講和会議では敗戦国である中央同盟国に対して賠償金を支払わせることが決定された。
ドイツに対しては1921年4月29日のロンドン会議において1,320億金マルクと総額が決定された。
しかし賠償金調達のためにマルクの為替レートは急激に低下し、ドイツは賠償金支払いの延期を求めた。
しかしフランスは、支払いを確保するためとしてルール地方を占領したが、これは逆効果であった。
ルール工業地帯を失い、さらに同地のストライキを支援するために紙幣の大増刷を行ったため、ドイツ経済は破綻し、ハイパーインフレーションに陥った。1ポンド=20パピエルマルクだった為替レートは、1ポンド=500億パピエルマルクまでマルク安が進んだ。
このため連合国も従来の賠償金取り立て方式は継続不可能であるとみるようになった。またオーストリアも経済破綻し、同国への賠償請求は事実上棚上げされた。
1924年、新マルク(レンテンマルク・ライヒスマルク)の導入で通貨が安定すると共に、賠償金の支払いプロセスにアメリカを参加させた。
協議の結果、ドイツに賠償支払いのための債権発行を認め、1年に25億金マルクの支払いを行うドーズ案が採択され、ドイツ経済は安定期を迎えた。
しかしドイツ経済はやがて減速し始め、ドイツは賠償金総額の再確定と減額を求めた。
1929年、賠償金支払い年数を59年とし、賠償金総額を358億金マルクとするヤング案が了承された。
ところが世界恐慌の発生で再び世界経済、特にドイツ経済は再びどん底の状態となった。
1931年にフーヴァーモラトリアムで一年の支払い延期を認めたが、結局、支払い不能が明らかになり、1932年のローザンヌ会議でヤング案の停止と、賠償金残額を30億金マルクまで減額することが決定された。しかしドイツの経済混乱は右派、特にナチスの台頭を招き、ドイツはローザンヌ案を批准することはできなかった。
1933年にヒトラー内閣が成立してナチスが政権を取ると、7月に外債のモラトリアムを宣言し、ドーズ債、ヤング債の利子支払いを拒否したが、実際にはアメリカを除く国々に住む債権者に対する利払いは行われていた。
第二次世界大戦によって利払いは完全に中止され、その後の冷戦下で継承国が決まらなかったため、1953年に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)政府は西側諸国との間に戦前の債務の支払いを約束するとともに、ドイツ統一まで支払いを猶予するロンドン債務協定(en:Agreement on German External Debts)を締結した。
ドイツ再統一後、ドイツ政府はドーズ債、ヤング債の利払いを再開した。2010年10月3日、ドイツ政府は支払い要求のあった債権に対する利払いを完了させた[1]。完済まで実に89年を要した。
第二次世界大戦
「第二次世界大戦後におけるドイツの戦後補償」および「日本の戦争賠償と戦後補償」も参照
第二次世界大戦の結果、ドイツは、1945年に合意されたポツダム協定で、連合国へ生産設備や動産による現物賠償を行った。
1953年に西ドイツはロンドン協定において再統一までの賠償支払いを凍結することを宣言し、1953年8月には東ドイツ(ドイツ民主共和国)とソビエト連邦の間で、賠償請求権の放棄が合意された。
1990年9月12日のドイツ最終規定条約により、ドイツ政府の第二次世界大戦交戦国に対する戦争賠償金問題は終結した。これはホロコースト被害者諸個人に対する賠償問題は含まれない。
日本は各国との個別の合意により、総額1兆300億円の賠償金を支払っている[2]。
その他の旧枢軸国は、1947年に締結されたパリ条約で、連合国に対する以下の賠償金の支払いに合意した(いずれも1938年価格)。
イタリアは、ユーゴスラビア、ギリシャ、ソビエト連邦、エチオピア、アルバニアへ3億6,000万ドルを支払う。 フィンランドは、ソビエト連邦へ3億ドルを支払う(後に完済)。 ハンガリーは、ソビエト連邦、チェコスロバキア、ユーゴスラビアへ3億ドルを支払う。 ルーマニアは、ソビエト連邦へ3億ドルを支払う。 ブルガリアは、ギリシャとユーゴスラビアへ7,000万ドルを支払う。
湾岸戦争
湾岸戦争の後、イラクは国連安全保障理事会決議687を受け入れ、サッダーム・フセイン政権のクウェート侵略によって同国が負った損害を賠償している。
クウェートの官民から提出された3,500億ドルという損害見積もりに対して、これまでに国連賠償委員会(UNCC)で521億ドルが承認され、イラクからは2005年までに192億ドルの支払いが行われている[3]。
戦争賠償に対する批判
ジョン・メイナード・ケインズは、戦争賠償の国際経済に与える影響は破滅的であると指摘した。
ヴェルサイユ条約でドイツが課せられた賠償金は疲弊したドイツの経済問題をさらに悪化させ、その結果生じたハイパーインフレはワイマール共和国を失敗させ、ナチスとヒトラーの台頭をもたらした。
第一次世界大戦の戦後処理の失敗の教訓は第二次世界大戦後の戦後処理において生かされ、戦勝国はドイツからは賠償金ではなく動産や機器による賠償を受けた。
関連項目
日本の戦争賠償と戦後補償 日本の戦後補償条約一覧 日本の戦争犯罪 戦争犯罪 戦争責任 』
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思索の人、ジョージ・F・ケナンの遺産 ―― 決して満足しない精神
https://www.asahi.com/international/fa/TKY201201060297.html※ 今日は、こんなところで…。

『2012年1月10日発売号
ニコラス・トンプソン/ニューヨーカー誌エディター
■考えることを止めない
(封じ込め戦略のアウトラインを示した)ジョージ・ケナンの名声に影を落とす著作が最初に発表されたのは1967年。600ページものこの大著のフロントカバーには、孤独を漂わせ、読者をみつめる若者がいた。
物語は、周りに溶け込めない中西部の少年時代の話から始まる。この少年こそ、外交経験を知識として身につけ、アメリカでもっとも優れたソビエト分析者になる人物だった。
短期間だったとはいえ、彼は非常に重要な時期に、トルーマン政権の国務省で政策企画部長を務め、第二次世界大戦後の世界を再設計する仕事をしている。
彼はモスクワからの長文電報(1946年)とフォーリン・アフェアーズで発表したX論文(1947年)を通じて、その後、「封じ込め政策」として知られる戦略を描き出し、マーシャルプランの設計にも大きな役割を果たした。
ケナンは、ドイツを分割しておくことの危険、ソビエトとの軍拡レースのリスクを指摘した素晴らしい政策メモランダムもまとめている。
だが、その後程なく、彼はワシントンのやり方に苛立ちを感じるようになり、ワシントンも彼を厄介な存在とみなすようになる。
ケナンは聡明であるがゆえに苛立ち、遠大なビジョンの持ち主であるがゆえに不満を抱いた。
この著作は彼がアメリカに失望し、政府を去るところで終わる。
『ジョージ・ケナン回顧録1925―1950(上巻)』を世に送り出したのはケナン自身だった。
この回顧録は、20世紀の自伝としては自己批判と省察にあふれている点で傑出している。その後、私を含む数多くの作家や研究者が彼の伝記をまとめ、タマネギの皮を一枚ずつはぐようにケナンの実像に迫ろうと試みた。新たに発見された文書や日記によって、それまで知られていた彼の実像がますます鮮明に描き出されるようになった。
そして、2011年11月、歴史家のジョン・ルイス・ギャディスの手になるケナンの公的な伝記がついに世に送り出された。『George F. Kennan: An American Life=ジョージ・ケナン あるアメリカ人の一生』は、緻密なインタビュー、そして、自分の夢を書き留めた彼のメモを含むケナンのすべての日記を前提にまとめられている。
ギャディスが描き出しているのは、『ジョージ・ケナン回顧録』で彼がヒーローとみなすような、賢明で、物事を深く考える人物だ。
ケナンは同時代に起きた主要な戦争のすべてを予見していた。
1940年、彼はアメリカがドイツとの戦争にいつ介入するか、アメリカが勝利を収めるのに何年かかるかを的確に予測していた。
1950年夏には、朝鮮戦争においてダグラス・マッカーサーに大きな権限を与えることのリスクを彼は警告した。
1966年には、ベトナム戦争を戦い続けることの危険を分析し、栄誉ある撤退を促している。
ケナンは、この間ずっと厳格な自己批判、自虐的な考えを自分のメモとして書き残している。ギャディスが引用している日記の一節は次のようなものだ。「自分がひ弱で、幼稚で、役に立たないだめな人間に思えることがある」。彼の聡明さと自己卑下は常に表裏一体をなしていた。
彼の影響力が頂点に達していた1949年、政策企画部長を辞任することを考えていたケナンは、ディーン・アチソン国務長官(当時)に宛てた手紙で「寄生虫に侵され断末魔状態の社会秩序のなかで有力なポストにあることは不幸な慰めでしかありません」と書いている。
これと同じ態度が、その後の40年間における歴史家、エッセイスト、そして核兵器に頼る愚かさを批判した評論家としての彼の人生にもみてとれる。
ギャディスの著作が明らかにしているように、ケナンが退屈で凡庸な存在だったことは一度もなく、また彼が人生に退屈したこともなかった。
たびたび病にかかったが、病身にあっても彼が思索を止めることはなかった。
彼の人生は、いかにすれば自分が、そして自分の国がよりよい存在になれるかを考えることにあった。
生産的な時間も数多くあった。101歳まで生きた彼は、96歳のときに最後の著作を世に送りだしている。
1950年代半ばに彼は「人間、少なくとも私のような人間は、何かに突き動かされるか、追いかけられるか、取り憑かれて、毎日を地球最後の日であるかのように送らないと、まともな生活はできない」と書き残している。
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Nicolas Thompson ニューヨーカー誌のシニアエディターで、The Hawk and the Doves: Paul Nitze, George Kennan, and the History of the Cold Warの著者。ニューアメリカン財団のフェロー。
<フォーリン・アフェアーズ・リポート2012年1月号掲載>
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