カテゴリー: 世界の地理、関連
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ヨーロッパで使われる言語を色分けした図(英語)
ヨーロッパの言語(ヨーロッパのげんご)は、大多数がインド・ヨーロッパ語族(印欧語)に属している。
2018年現在、ヨーロッパの総人口は7億4,400万人となっているが、その中の約 94% がインド・ヨーロッパ語を母語としている。
このインド・ヨーロッパ語のうち3大語族とされるのがロマンス諸語、ゲルマン語派およびスラブ語派で、これら言語話者の総人口は2億人に及ぶ。
この数はヨーロッパ人口の90% に近い。
また、ヨーロッパ圏内で話されるインド・ヨーロッパ諸語の中でも少数派となる語族には、ギリシャ語(約1,300万)、バルト語 (約700万)、アルバニア語 (約500万)、ケルト語 (約400万)、アルメニア語 (約400万) およびインド・アーリア語群 (ロマ語 約150万) がある。
インド・ヨーロッパ諸語以外を母語とするヨーロッパ人は約4,500万人いるが、そのほとんどがウラル語族またはチュルク語族のいずれかに属する言語を話している。
これ以外の少数派 (バスク語、セム語およびコーカサスの各種言語等) は、ヨーロッパ人口の1%に満たない。
アフリカ言語やアジア言語といった言語話者がかなりの規模で移民として加わり総人口の約4%を占めているが、その中で話者人口が最大なのがアラビア語である。
なお現在、ロシア語、フランス語、イタリア語、ドイツ語および英語の5つの言語話者でヨーロッパ人口の5,000万人以上を占めている。
この中で、ロシア語を母語とするヨーロッパ人の数が最大だが、英語については、第二言語または外国語として使用する2億人の話者を含めると、英語話者の総人口が最大になる。(「ヨーロッパにおける英語」を参照)
インド・ヨーロッパ語族
→詳細は「インド・ヨーロッパ語族」を参照インド・ヨーロッパ語族は数千年前に使われていたとされるインド・ヨーロッパ祖語から来歴しているとされる。インド・ヨーロッパ祖語から派生した各言語は約4,000年前の欧州青銅器時代(鐘状ビーカー文化)に拡がったと考えられる。
今日の欧州におけるゲルマン語派の分布:
北ゲルマン語群
アイスランド語
フェロー語
ノルウェー語
デンマーク語西ゲルマン語群
スコットランド語
英語
フリジア語
オランダ語
低地ドイツ語
ドイツ語点で表示されているのが多言語が一般的である地域
ゲルマン語派
→詳細は「ゲルマン語派」を参照ゲルマン語派は西欧、北欧、中央における主流言語である。
ゲルマン語派のネイティブの話者は推定2.1億人で、主なものはドイツ語(約9,500万人)、英語(約7,000万人)、オランダ語(約2,400万人)、スウェーデン語(約1,000万人)、デンマーク語(約600万人)、ノルウェー語(約500万人)である。
下位の分類として、西ゲルマン語群、北ゲルマン語群、東ゲルマン語群に分かれる。
東ゲルマン語群は死語となったが、唯一ゴート語のみは写本(コデックス)として言語学的資料が残っている。
西ゲルマン語群はアングロ・フリジア語群(英語など)、低地ドイツ語、低地フランク語(オランダ語など)、高地ドイツ語(標準ドイツ語など)にさらに分類される。
20世紀におけるロマンス諸語
ロマンス諸語
→「ロマンス諸語」および「イタリック語派」を参照ロマンス諸語は主に南欧、西欧に拡がっている。
ネイティブ話者が推定2.15億人で、主なものはフランス語(約7,200万人)、イタリア語(約6,500万人)、スペイン語(約4,000万人)、ルーマニア語(約2,400万人)、ポルトガル語(約1,000万人)、カタルーニャ語(約700万人)、シチリア語(約500万人)、ヴェネト語(約400万人)、ガリシア語(約200万人)、サルデーニャ語(約100万人)、オック語(約50万人)である。
下位の分類として、ロマンス諸語はイタロ・西ロマンス語、東ロマンス語、サルデーニャ語に分かれる。
ロマンス諸語地域は「ラテン・ヨーロッパ」と呼ばれることもある。
イタロ・西ロマンス語はさらにイタロ・ダルマチア語と西ロマンス語に分類される。
スラブ語地域の国勢地図:
西スラヴ語群
東スラヴ語群
南スラヴ語群スラヴ語派
→「スラヴ語派」および「スラヴ人」も参照スラヴ語派は南欧、中欧、東欧に拡がっている。
ネイティブ話者が推定2.5億人で、主なものはロシア語(ヨーロッパロシアで1.1億人)、ポーランド語(約4,500万人)、ウクライナ語(約4,000万人)、セルビア・クロアチア語(約2,100万人)、チェコ語(約1,100万人)、ブルガリア語(約900万人)、スロヴァキア語(約500万人)、ベラルーシ語(約300万人)、スロベニア語(約300万人)、マケドニア語(約200万人)である。
下位の分類として、西スラヴ語群、東スラヴ語群、南スラヴ語群に分類される。
バルト語派のバルト海地域における歴史的分布
その他
ギリシャ語
バルト語派
アルバニア語
アルメニア語
ケルト語派
インド・アーリア語群(欧州全土でのロマ語など)、イラン語群(北コーカサス地域のオセット語など)非インド・ヨーロッパ語族
ユーラシアにおけるチュルク語族の分布
チュルク語族
→詳細は「チュルク語族」を参照オグズ語群:欧州においては、東トラキアや移民コミュニティーでは使われるトルコ語、北アゼルバイジャンや南ロシアのアゼルバイジャン語、ガガウズのガガウズ語が含まれる。
キプチャク語群:欧州においては、主にクリミア半島で使われているカライム語、クリミア・タタール語、クリムチャク語や、タタールスタンで使われているタタール語、バシコルトスタンで使われるバシキール語、北コーカサスで使われるカラチャイ・バルカル語、北西カザフスタンで使われるカザフ語が含まれる。オグール語群:歴史的に東欧の先住民族の多くで話されていたが、現在ではチュヴァシで話されるチュヴァシ語以外は死語となっている。
ユーラシアにおけるウラル語族の分布
ウラル語族
→詳細は「ウラル語族」を参照ウラル語族は北ユーラシアでの原語であり、フィン・ウゴル語派とサモエード語派に分類される。フィン・ウゴル語派にはバルト・フィン諸語があり、その中にはフィンランド語(約500万人)やエストニア語(約100万人)、マリ語(約60万人)を含み、サーミ語(約3万人)も近い。フィン・ウゴル語派のもう一派はウゴル諸語で、欧州でのその代表格はハンガリー語(約1,300万人)である。
サモエード語派では、ウラル山脈で仕切られる欧州の最北東にあるネネツで使われるネネツ語がある。
その他の言語
バスク語族(約75万人):ピレネー山脈の西にあるバスク地方のバスク人で話されるバスク語を中心とした孤立した言語。
北コーカサス語族:コーカサスとトルコの北に位置する地域で使われる互いに関係していない2つの語族の総称。北東コーカサス語族(チェチェン語やアヴァル語など)と北西コーカサス語族(アブハズ語とアディゲ語、カバルド語など)の2つの系統が提唱されている。
カルムイク語:カルムイクのカルムイク人が使用するモンゴル語族の言語。
カルトヴェリ語族:南コーカサス語族とも呼ばれる。ジョージア国内で話されているグルジア語(約350万人)、メグレル語、スヴァン語、主にトルコで話されているラズ語の4つの言語から成る。
マルタ語(約50万人):マルタ島で話されるゲルマン語派とロマンス諸語の影響のあるセム語派の言語[1][2][3][4]。
アラビア語キプロス方言:キプロスの消滅の危機に瀕する言語である。ほとんどの話者がニコシア居住のマロン派住民で、キプロス・マロン派アラビア語とも呼ばれる。
手話
→詳細は「手話の一覧 § ヨーロッパ」を参照ヨーロッパには数十の手話が存在し、最も普及している手話語族はフランス手話語族で、その言語はイベリア半島からバルカン、バルトに至る国々で見られる。手話・触知言語の正確な歴史的情報を得ることは難しく、数百年前のヨーロッパ各地に手話のコミュニティが存在したことを記した民俗史がある。イギリス手話語族とフランス手話語族は、おそらく最も古く、継続して話されている手話言語であることが確認されている。エスノローグによれば、ドイツ手話語族 と並んで、この3つは最も多くの手話話者を抱えているが、現代の手話人口について適切な統計を取っている機関は非常に少なく、正当なデータを見つけるのは困難である[要出典]。
標準化の歴史
欧州で使用されている文字の分布:
ギリシア文字
ギリシア文字とラテン文字
ラテン文字
ラテン文字とキリル文字
キリル文字
グルジア文字
アルメニア文字文字
ヨーロッパで使用されている文字は、主にラテン文字とキリル文字である。
その他に、フェニキア文字を元に作られたギリシア文字、グルジア文字、アルメニア文字など地域によって使用されている。
歴史的には、ギリシア文字を元に、古イタリア文字を経てラテン文字に変化したとされる。
欧州連合の言語
→詳細は「欧州連合の言語」を参照欧州連合は2021年現在、27カ国約4.5億人により構成されており、全欧州人口の6割を占める。
欧州連合では「公用語・公式に使用する言語」として24言語を設定している[5]。
この設定では、域内で各国がこれらのどの指定言語でのコミュニケーションが保証されることと、公式文書が指定言語で発行されることである[6]。
欧州連合と欧州評議会では、域内各国の教育においても多言語主義の推奨において協力することが確認されている[7]。協定文書であるヨーロッパ言語共通参照枠(CEFR)は、コミュニケーションに必要な適格能力を定義し、教育者が教育プログラムの設計するための役立つ標準的なガイドラインである。
脚注
^ Alexander, Marie (2009年). “2nd International Conference of Maltese Linguistics: Saturday, September 19 – Monday, September 21, 2009”. International Association of Maltese Linguistics. 2 November 2009閲覧。
^ Aquilina, J. (1958). “Maltese as a Mixed Language”. Journal of Semitic Studies 3 (1): 58–79. doi:10.1093/jss/3.1.58.
^ Aquilina, Joseph (July–September 1960). “The Structure of Maltese”. Journal of the American Oriental Society 80 (3): 267–68. doi:10.2307/596187. JSTOR 596187.
^ Werner, Louis; Calleja, Alan (November–December 2004). “Europe’s New Arabic Connection”. Saudi Aramco World. オリジナルの2012-09-29時点におけるアーカイブ。 2016年2月5日閲覧。.
^ “Languages Policy: Linguistic diversity: Official languages of the EU”. European Commission, European Union (4 June 2009). 9 August 2015閲覧。
^ “Languages of Europe: Official EU languages”. European Commission, European Union (2009年). 2 February 2009時点のオリジナルよりアーカイブ。5 November 2009閲覧。
^ “Common European Framework of Reference for Languages: Learning, Teaching, Assessment (CEFR)”. Council of Europe. 30 October 2009時点のオリジナルよりアーカイブ。5 November 2009閲覧。
関連項目
欧州言語の日
東方ギリシア世界と西方ラテン世界
多言語国家#ヨーロッパ
標準ヨーロッパ語
カテゴリ: ヨーロッパの言語
最終更新 2025年2月9日 (日) 17:10 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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チェコ共和国の地理
https://en.wikipedia.org/wiki/Geography_of_the_Czech_Republic







『(※ 原文は、英文。翻訳は、Google翻訳)
フリー百科事典『ウィキペディア』より
チェコ共和国の地理大陸 ヨーロッパ
地域 中央ヨーロッパ
エリア 115位
• 合計 78,871 km 2 (30,452 平方マイル)
• 土地 97.88%
• 水 2.12%
海岸線 0 km (0 マイル)
国境 2290.7 km [ 1 ]
ドイツ– 810.3 km
ポーランド– 761.8 km
オーストリア– 466.3 km
スロバキア– 252.3 km
最高点 スニェシュカ、
1603.3 m
最低点 フジェンスコ、
115 m
最長の川 ヴルタヴァ、
433 km
最大の湖 チェルネ、
18.4 ha
気候 温帯
地形 低い山々に囲まれた丘陵と低地
天然資源 カオリン、リチウム、グラファイト、黒炭、褐炭、ウラン、木材チェコ共和国は中央ヨーロッパの内陸国です。西はドイツ、南はオーストリア、東はスロバキア、北はポーランドと国境を接しています。国土の大部分は低い丘陵と高原で構成され、国境沿いには低い山々が広がっています。エルベ川とモラヴァ川沿いには低地が 2 か所あります。チェコ共和国の面積の約 3 分の 1 は森林に覆われています。
チェコ共和国は、ドイツのハンブルク港の真ん中にある3万平方メートルの飛び地、モルダウハーフェンも所有している。この飛び地は、内陸国であるチェコスロバキアに、河川で運ばれた商品を海上船舶に積み替える場所を与えるため、ヴェルサイユ条約第363条によってチェコスロバキアに与えられたものである。この領土は2028年にドイツに返還される。
物理的地理
参照:チェコ共和国の地形区分
気候
チェコ共和国のケッペンの気候区分
主要記事:チェコ共和国の気候
チェコ共和国の気候は温帯で、海洋性気候と大陸性気候の中間に位置します。夏は比較的涼しく乾燥しており、ほとんどの地域で平均気温が 20 °C 前後です。冬は比較的穏やかで湿度が高く、ほとんどの地域で平均気温が 0 °C 前後です。相対湿度は60% から 80% の範囲です。
例
プラハの気候データ(1981~2010年の平年値、1775~現在までの極値)
ブルノ (ブルノ・トゥジャニ空港) の気候データ、1981 ~ 2010 年の平年値、1939 年から現在までの極値
オストラヴァの気候データ(1981〜2010年の平年値、1980〜現在までの極値)地質学
主要記事:チェコ共和国の地質
チェコ共和国のほとんどの地域は、地理的に安定したボヘミア山塊に属しています。国土の東部にある西カルパティア山脈の一部だけが、第三紀に隆起した比較的新しい地域です。ボヘミア山塊の基盤は火成岩でできています。堆積岩は主にボヘミアの北東部に見られ、砂岩の地域がかなりあります。変成岩の中で最も一般的に見られるのは片麻岩です。
山
主要記事:チェコ共和国の最高峰一覧チェコ共和国で最も有名な山脈はすべて、国の国境沿いにあります。ボヘミアでは、ボヘミアの森とエルツ山脈がドイツとの国境にあります。次に、チェコ共和国の最高峰であるスニェシュカ山を含むジャイアント山脈を含むいくつかの山脈がある長いズデーテス地方があります。最後の主要な山脈は、東部の モラヴィア・シレジア・ベスキディ山脈です。
河川
エルベ川とモラヴァ川の流域
主要記事:チェコ共和国の川チェコ共和国には 4 つの主要な川があります。エルベ川(地元では「ラベ」) はボヘミア北東部のジャイアント山脈から西に流れ、ドイツ北部を通って北海まで流れます。モラヴァ川はモラビアの大部分を流れ、南にドナウ川に流れ込み、最終的に黒海に流れ込みます。オーデル川はモラヴィア・シレジア地方に源を発し、北に流れてポーランドを通り、バルト海に流れ込みます。4 番目の主要な川はヴルタヴァ川で、チェコ共和国で最も長い川で、ボヘミア南部を流れ、メルニークでエルベ川に流れ込みます。
水域
主要記事:チェコ共和国の池の一覧自然に発生する水域はむしろ少なく、重要な水域のほとんどは人工の池や貯水池です。最大の池はロジュムベルク池で、16世紀にトシェボン周辺に造られた養魚池システムのひとつです。面積で最大の貯水池は1950年代に造られたリプノ貯水池(4,870ヘクタール)で、容積で最大の貯水池は同時期に造られたオルリーク貯水池(7億1600万m 3 )です。最大かつ最深の自然湖はチェルネー湖(18.4ヘクタール) です。
人文地理学
参照:チェコ共和国の都市と町の一覧
人口地理学チェコ共和国の人口密度
天然資源: 金属は青で示されています: Fe — 鉄鉱石、PY —黄鉄鉱、PM — 多金属鉱石 (Cu、Zn、Pb など)、U —ウラン。化石燃料は赤で示されています: C — 石炭、L —褐炭、O — 石油。非金属鉱物は緑で示されています: G —グラファイト、KA —カオリナイト。
主要記事:チェコ共和国の人口統計チェコ共和国の人口はおよそ 1,060 万人と推定されています。人口密度が最も高いのは、オストラヴァの大都市圏と、もちろん首都プラハの周辺地域です。人口密度が最も低いのはチェコとドイツの国境地帯とチェコとオーストリアの国境地帯で、これは主に第二次世界大戦後にドイツ人がチェコスロバキアから追放された結果です。
政治地理学
主要記事:チェコ共和国の地域チェコ共和国は 13 の地域と 1 つの州都に分かれており、州としての地位を持っています。76 の地区からなる古い行政単位は現在も認められており、さまざまな行政部門の所在地となっています。歴史的に、チェコ共和国は西のボヘミア、東のモラビア、北東の チェコ シレジアの 3 つの地域に分けられます。
産業と農業
重工業の影響を最も受けている地域は、チェコ共和国北西部のソコロフ盆地とモスト盆地です。これらの地域の褐炭の広大な鉱床は、主に電力生産に使用されています。チェコ共和国で生産される全電力のほぼ 40% は、これらの地域で採掘された褐炭の燃焼によるものと推定されています。植物農業は、エルベ川とモラヴァ川周辺の低地に集中しています。国土の約 34% は森林に覆われ、約 37% の土地が耕作可能です。灌漑地の推定面積は 385 km 2で、1 人あたりの淡水取水量は毎年 約 164 m 3です。
参照
チェコ共和国の保護地域
チェコ共和国の川
チェコ共和国の最高峰のリスト参考文献
「Základní informationo ČR」(チェコ語)。チェコ共和国外務省。2023 年12 月 13 日に取得。
「プラハの気候 1981–2010 (気温、湿度)」 (チェコ語)。チェコ水文気象研究所。2021年1月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年5月9日閲覧。
「プラハの気候標準 1961–1990 (降水量、降水日数、積雪、日照時間)」アメリカ海洋大気庁2013年2月28日閲覧。
「プラハ、チェコ共和国 – 詳細な気候情報と月間天気予報」。Weather Atlas。Yu Media Group。2019年7月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年7月2日閲覧。
「世界気象情報サービス – ブルノ」。世界気象機関。2011年5月。2016年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年2月28日閲覧。
「ブルノの気候標準値 1961–1990」。アメリカ海洋大気庁。 2013年2月28日閲覧。
「世界気象情報サービス – オストラヴァ」。国連。 2011年1月21日閲覧。
“オストラヴァの時代と記録 1991–2020” . infoclimat.fr 。2022 年3 月 15 日に取得。
パブリックドメイン この記事には、The World Factbook . CIAのパブリック ドメインの資料が組み込まれています。ヴte
チェコ共和国の 記事
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ヨーロッパの地理
カテゴリー:チェコ共和国の地理
このページの最終更新日は 2024年11月19日 (火) 05:04 (UTC)です。
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5分でわかる!スラヴ人は住む場所によって宗教が違う?
https://www.try-it.jp/chapters-11407/lessons-11430/
『ポイント
スラヴ人は住む場所によって宗教がちがう!?
高校世界史 中世ヨーロッパ世界の各国史5 ポ1 地図書き込みアリこれでわかる!
ポイントの解説授業lecturer_avatar 中世ヨーロッパ世界の各国史、第5回。
今回は「中世東ヨーロッパ諸国」の歴史に注目します。
lecturer_avatar ポイントの1つ目は「スラヴ人の特徴」です。今回の授業は 東ヨーロッパ (東欧)が舞台となります。現在の国名でいえば、ポーランドやクロアチア、セルビアなどが東欧に含まれます。
lecturer_avatar 東欧では、6世紀頃から スラヴ人 と呼ばれる民族が登場しました。ポイント1では スラヴ人の特徴 を学習します。
スラヴ人は、住む場所によって宗教が異なる!
lecturer_avatar スラヴ人は大きく3種類に分類されます。 西スラヴ・南スラヴ・東スラヴ の3つです。こちらを見てください。
高校世界史 中世ヨーロッパ世界の各国史5 ポ1 地図書き込みアリ
lecturer_avatar 地図には、スラヴ人の居住地以外にも 神聖ローマ帝国 と ビザンツ帝国 が記されています。そう、スラヴ人たちは これら近隣の大国から影響を受けていたのです。 神聖ローマとビザンツ、どちらが近くにあるかで、スラヴ人が受け入れる宗教も異なっていました。
神聖ローマの近くはカトリック、ビザンツの近くはギリシア正教の影響を受ける!
lecturer_avatar 西スラヴは 神聖ローマ帝国 のお隣です。彼らは神聖ローマの カトリック を受容しました。lecturer_avatar 南スラヴは 神聖ローマとビザンツに挟まれています。 そのため南スラヴ地域では カトリックとギリシア正教が混在していました。
lecturer_avatar 東スラヴは ビザンツ帝国 の近くに位置しています。彼らは ギリシア正教 を受容しました。
高校世界史 中世ヨーロッパ世界の各国史5 ポ1 地図書き込みアリ
lecturer_avatar 以上、スラヴ人の分布と受容した宗教を紹介しました。西はカトリック、東はギリシア正教。南は両方とも影響を受け、宗教が混在していたことを覚えておきましょう。
この授業の先生
新里 将平 先生
「世界史を楽しく,わかりやすく教えたい!」をモットーにストーリー性のある授業展開で、歴史上の人物や国が当時何を考え、どう動いたかを感情を込めて伝える。』
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藩王国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A9%E7%8E%8B%E5%9B%BD



『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
1909年当時のイギリス領インド帝国。イギリスによる直接統治下に置かれた地域はピンク、藩王国、保護国は黄色で示されている。
植民地時代のインド(英語版)
British Indian Empire
イギリス領インド帝国全図
オランダ領インド 1605年-1825年
デンマーク領インド 1620年-1869年
フランス領インド 1668年-1954年
ポルトガル領インド
(1505年-1961年)
インド商務院 1434年-1833年
ポルトガル東インド会社 1628年-1633年
ゴア併合 1961年
イギリス領インド
(1612年-1947年)
イギリス東インド会社 1612年-1757年
東インド会社統治下のインド 1757年-1858年
イギリス領インド帝国 1858年-1947年
イギリス統治下のビルマ 1824年-1948年
藩王国 1721年-1949年
インド・パキスタン分離独立 1947年
テンプレートを表示藩王国(はんおうこく、英語: princely state, native state, Indian state)とは、イギリスが植民地統治していた時代のインド(現在のインド・パキスタン・バングラデシュ、およびミャンマーを含むインド帝国)において、イギリスの従属下で一定の支配権を認められていた藩王(prince)の領国のことである[1]。「土侯国」とも訳される。
ネパール王国とブータン王国はそれぞれグルカ戦争とブータン戦争の結果イギリスの保護国とはなったものの、藩王国としては扱われていない。
歴史
その起源は、18世紀初頭にムガル帝国の皇帝アウラングゼーブが死亡して帝国が分裂したのち、独立した州やその周囲にあった諸領邦のうちで、イギリス東インド会社と軍事保護条約を結び、同盟関係にあった諸国である。
その数は約600あり、広さはニザーム藩王国(ハイダラーバード藩王国)、ジャンムー・カシュミール藩王国のように20万平方キロメートルを超えるものから[2]、数平方キロメートル程度のものまで様々で、総面積は独立前のインド全体の約45%、人口は約24%を占めた。
藩王の称号はさまざまで、ヒンドゥー教徒の場合はマハーラージャ(大王)、ラージャ(王)、デーシュムク(郷主)、タークル(地主)など、ムスリム(イスラーム教徒)ならナワーブ(太守、知事)、ワーリー(支配者)などを称し、ハイダラーバード藩王はムガル帝国時代に由来するニザーム(統治者)を称した[3][4]。だが、イギリス政府からはいずれも「藩王」(prince:「諸侯」の意味)と呼ばれた。
藩王国はイギリスとの軍事保護条約により、防衛・外交権を除いた自治権を認められてはいたが、しばしばイギリスが派遣した政治顧問(駐在官)の内政干渉を受けた。
また、インド総督ジェイムズ・ラムゼイ (初代ダルハウジー侯爵)による「失権の原理」(養子相続を認めない藩王国併合政策)の強行により、イギリス領に併合された藩王国も多かった[5][要ページ番号][6]。だが、インド大反乱後は分割統治に利用できる傀儡勢力として一転して保護されるようになった。
そのため当時、藩王国にインド議会の法律は適用されず、藩王たちは自由に統治した。クリシュナ・ラージャ4世やサヤージー・ラーオ・ガーイクワード3世のような名君の統治した極少数の藩王国では近代国家並みに発展したところもある。だが、大半は支配階級の贅沢に国家予算の大部分が使われる時代遅れの体制だった。
同様の支配体制は宗教・文化が異なるミャンマー(ビルマ)でも行なわれ、現在のカレン州、カチン州、シャン州など少数民族の居住地域に藩王国が建国された。
1947年8月15日、インド・パキスタン分離独立の際、数国を除いてほとんどの藩王国はどちらかの国に併合された[7]。帰属を決めかねていた藩王国に関すると、ジュナーガド藩王国の場合はインドがパキスタンの内地になることを恐れ、1947年に強制併合され、翌1948年の住民投票でインドへの帰属が決められている (Indian integration of Junagadh) 。ムスリムの大藩王国であったニザーム藩王国はパキスタン寄りの立場を示したため、ポロ作戦でインドに強制併合されている。カシュミール地方に存在したジャンムー・カシュミール藩王国の帰属問題は、インド・パキスタンの間でカシュミール紛争になり、現在も係争中である。独立に際してインド政府が多くの藩王国を強制的に併合した理由に、19世紀のインド大反乱の際にほとんどが反乱を鎮圧したイギリス側についたことへの報復の意味合いが含まれているとされる。
ミャンマー(ビルマ)の藩王国は、同国の独立後も(同国の政治的混乱もあり)一定の支配力を保ち続けたが、1962年のネ・ウィンによる軍事クーデターでビルマ式社会主義体制が樹立すると、政府軍の実力行使によって支配層から排除された。また、シャン州などの一部の藩王国は、旧ビルマ共産党などの新興の反政府勢力によって駆逐されたものもあった。
主な藩王国
現・インド
ニザーム藩王国(ハイダラーバード藩王国)
アワド藩王国
グワーリヤル藩王国
インドール藩王国
ナーグプル藩王国
ヴァドーダラー藩王国
サーターラー藩王国
コールハプール藩王国
タンジャーヴール藩王国
マイソール藩王国
ジャイプル藩王国
ウダイプル藩王国
ジョードプル藩王国
ビーカーネール藩王国
ジャイサルメール藩王国
ブーンディー藩王国
トラヴァンコール藩王国
コーチン藩王国
コダグ藩王国
バラトプル藩王国
クーチ・ビハール藩王国
カッチ藩王国
ガルワール藩王国
ジュナーガド藩王国
プドゥコーッタイ藩王国
サンバルプル藩王国
ポールバンダル藩王国
ボーパール藩王国
バーンスワーラー藩王国
ダール藩王国
デーワース藩王国
ラームプル藩王国
ジャーンシー藩王国
オールチャー藩王国
バンガナパッレ藩王国
サヴァヌール藩王国
カルヌール藩王国
ムドール藩王国
カプールタラー藩王国
パティヤーラー藩王国
アジャイガル藩王国
バスタル藩王国
パタウディー藩王国
ビルバリ藩王国
現・パキスタン
バハーワルプル藩王国
カイルプル藩王国
カラート藩王国
ラス・ベラ藩王国
マクラーン藩王国
アンブ藩王国
チトラル藩王国
ディール藩王国
スワート藩王国
フンザ藩王国
ナガル藩王国
バルーチスターン藩王国
シンド藩王国
カラン藩王国
チョーリスターン藩王国
シックゥ藩王国
現・ミャンマー(ビルマ)
カンタラワディ藩王国
カンチ藩王国
ケントゥン藩王国
北センウィー藩王国
シャン藩王国
シポー藩王国
タンペン藩王国
モゥ藩王国
モクマイ藩王国
モンカゥン藩王国
モンナイ藩王国
モンパイ藩王国
モンパウン藩王国
モンパン藩王国
モンミッ藩王国
モンヤイ(南センウィー)藩王国
モンルン藩王国
モンロン藩王国
ヤンウェ藩王国
ロックソック藩王国
その他
ジャンムー・カシュミール藩王国脚注
^ Ramusack 2004, p. 87 Quote: “The British system of indirect rule over Indian states … provided a model for the efficient use of scarce monetary and personnel resources that could be adopted to imperial acquisitions in Malaya and Africa. (p. 87)”
^ Markovits, Claude (2004). A history of modern India, 1480–1950. Anthem Press. pp. 386–409
^ Great Britain. Indian Statutory Commission; Viscount John Allsebrook Simon Simon (1930). Report of the Indian Statutory Commission …. H.M. Stationery Office 9 June 2012閲覧。
^ All India reporter. D.V. Chitaley. (1938) 9 June 2012閲覧。
^ ガードナー 1989.
^ メトカーフ & メトカーフ 2009, p. 140.
^ Vapal Pangunni Menon (1956) The Story of the Integration of the Indian States, Macmillan Co., pp. 17–19参考文献
ブライアン・ガードナー 著、浜本正夫 訳『イギリス東インド会社』リブロポート、1989年。
バーバラ・D・メトカーフ、トーマス・D・メトカーフ 著、河野肇 訳『ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史』創士社、2009年。
関連作品
ディワン・ジャルマニ・ダス 著、佐野光昭 訳『マハラジャ歓楽と陰謀の日々:インド裏面史』荒地出版社、2007年。
関連項目
藩(日本)
ナワーブ
藩王国の一覧
インド帝国、インド連邦
外部リンクウィキメディア・コモンズには、藩王国に関連するメディアがあります。
世界飛び地領土研究会-ハイデラバード藩王国 – ウェイバックマシン(2005年1月31日アーカイブ分)
世界飛び地領土研究会-パキスタンの藩王国 – ウェイバックマシン(2005年10月27日アーカイブ分)
Exclusively on Indian princely states and domains.
カテゴリ: インドの歴史イギリス領インドインドの王朝
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インド
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インド共和国
भारत गणराज्य (ヒンディー語)
Republic of India (英語)
インドの国旗 インドの国章
(国旗) (国章)
国の標語:सत्यमेव जयते
ラテン文字転写: “satyameva jayate”
(サンスクリット: まさに真理は自ずと勝利する)
国歌:जन गण मन(ヒンディー語)
ジャナ・ガナ・マナ
Duration: 1 minute and 4 seconds.1:04
インドの位置
薄緑色は領有権をめぐり紛争中の地域。
公用語 ヒンディー語(連邦公用語)
英語(連邦準公用語)
その他複数の各州公用語
首都 デリー連邦直轄地(ニューデリー)[注釈 1]
最大の都市 ムンバイ(行政人口)
デリー(都市圏人口)
政府
大統領 ドラウパディ・ムルム
副大統領・上院議長 ジャグディープ・ダンカール
首相 ナレンドラ・モディ
下院議長 オム・ビルラ
最高裁判所長官 ダナンジャヤ・Y・チャンドラチュド
面積
総計 3,287,263km2(7位)
水面積率 9.6%
人口
総計(2024年) 1,450,935,791人(1位)
人口密度 488.01[1]人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2021年) 224兆6102億4400万[2]インド・ルピー
GDP(MER)
合計(2021年) 2兆9460億6100万[2]ドル(6位)
1人あたり 2116.444(推計)[2]ドル
GDP(PPP)
合計(2021年) 10兆1811億6600万[2]ドル(3位)
1人あたり 7314.129(推計)[2]ドル
独立- 日付 イギリスより
1947年8月15日
通貨 インド・ルピー(INR)
時間帯 UTC(+5:30) (DST:なし)
ISO 3166-1 IN / IND
ccTLD .in
国際電話番号 91
インド(ヒンディー語: भारत、英語: India)[注釈 2] またはインド共和国(インドきょうわこく、ヒンディー語: भारत गणराज्य、英語: Republic of India)[注釈 3] は[3]、南アジアに位置し、インド亜大陸の大半を領してインド洋に面する連邦共和制国家。首都はデリー(ニューデリー)[3]、最大都市はムンバイ[4]。
西から時計回りにパキスタン、中華人民共和国、ネパール、ブータン、ミャンマー、バングラデシュと国境を接する[5]。海を挟んでインド本土がスリランカやモルディブと、インド洋東部のアンダマン・ニコバル諸島がインドネシアやタイ南部、マレーシアに近接している。
インド本土はインド洋のうち西のアラビア海と東のベンガル湾という2つの海湾に挟まれて、北東部をガンジス川が流れている。
1947年に大英帝国から独立。世界第一位の人口を持つ[5]。国花は蓮、国樹は印度菩提樹、国獣はベンガルトラ、国鳥はインドクジャク、国の遺産動物はインドゾウである。
インドの国の象徴(英語版)
(公式)
国の遺産動物
インドゾウ
国鳥
インドクジャク
国樹
印度菩提樹
国花
蓮
国獣
ベンガルトラ
国の海洋哺乳類
ガンジスカワイルカ
国の爬虫類
キングコブラ
国の遺産哺乳類
ハヌマンラングール
国果
マンゴー
国の象徴の寺
アークシャルダーム寺院
国の象徴の川
ガンジス川
国の象徴の山
ナンダ・デヴィ概要
インドは南アジア随一の面積(世界では7位)と世界第1位の人口を持つ国である[5]。14億人を超える国民は、多様な民族、言語、宗教によって構成されている。国際連合(UN)の予測では、総人口は2023年に中華人民共和国を抜いて世界最大になっており、2060年代には約17億人のピークを迎えると考えられている[6]。また人口密度も世界上位であり、日本より高く中国の3倍である。
南にはインド洋があり、南西のアラビア海と南東のベンガル湾に挟まれている。西はパキスタン、北東は中国とネパールとブータン、東はバングラデシュとミャンマーと地境になっている。インド洋ではスリランカとモルディブが近くにあり、アンダマン・ニコバル諸島ではタイとインドネシアとの間に海上の国境がある。
インド亜大陸の歴史は紀元前3千年紀のインダス文明に遡る。その時代において数々の最古の聖典はヒンドゥー教としてまとまっていった。紀元前1千年には、カーストに基づく身分制度が現れ、仏教とジャイナ教が起こった。
初期の統一国家はマウリヤ朝とグプタ朝において成立したが、その後は諸王朝が南アジアにおいて影響を持った。中世ではユダヤ教、ゾロアスター教、キリスト教、イスラム教が伝わり、シク教が成立した。北の大部分はデリー・スルターン朝に、南の大部分はヴィジャヤナガル王国に支配された。17世紀のムガル帝国において経済は拡大していった。18世紀の半ば、インドはイギリス東インド会社の支配下に置かれ、19世紀半ばにはイギリス領インド帝国となった。19世紀末に独立運動が起こり、マハトマ・ガンディーの非暴力抵抗や第二次世界大戦などのあと、1947年に独立した。
2022年、インドの経済は国内総生産(GDP)で比較すると名目では世界第5位であり、購買力平価(PPP)では世界第3位である。1991年に市場を基盤とした経済改革を行って以降、急速な経済成長を果たしている。インドはBRICSや上海協力機構、G20の加盟国である。しかし、貧困や汚職、栄養不足、不十分な医療といった問題に今もなお直面している。労働力人口の3分の2が農業に従事する一方、製造業とサービス業が急速に成長している。国民の識字率は74.04%である。
ヒンドゥー教徒が最も多く、ムスリム(イスラム教徒)、シーク教徒がこれに次ぐ。カースト制度による差別はインド憲法で禁止されているが、現在も農村部では影響は残っている。アジア開発銀行はインドの中間層(1人1日消費額:2ドル – 20ドル〈2005年PPPベース〉)が2011年から15年間で人口の7割に達するとしている[7]。また、アジア開発銀行と定義は異なるが、中間層(年間世帯所得5000ドル以上3万5000ドル未満)は2000年の約22%から、2017年に約50%まで上昇している[8]。
連邦公用語はヒンディー語だが、他にインド憲法で公認されている言語が21あり、主な言語だけで15を超えるため、インド・ルピーの紙幣には17の言語が印刷されている。人口規模で言えば世界最大の議会制民主主義国家であり、有権者数は2023年時点で約9億7000万人である[9]。
州政府が一定の独立性を持っているため、各州に中央政府とは別に政府があり大臣がいる。核保有国そして地域大国であり、2016年以降はモンゴルの人口に匹敵する程の世界で最も人数が多い軍隊(303万1000人〈2017年〉)[10] を保有し、軍事支出は、2018年では、665億ドルで、GDP比で約2.4%支出しており、世界で4番目であった[11]。
名称
→詳細は「インドの国名(英語版、ヒンディー語版)」を参照インド憲法によれば正式名称はヒンディー語のभारत(ラテン文字転写: Bhārat, バーラト)であり、英語による国名は India (インディア)である[12]。政体名を付け加えたヒンディー語の भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ)、英語の Republic of India を正式名称とする資料もあるが、実際には憲法その他の法的根拠に基づくものではない。
バーラト(サンスクリットではバーラタ)の名はプラーナ文献に見え、バラタ族に由来する[要出典]。
英語(ラテン語を借用)の India は、インダス川を意味する Indus(サンスクリットの Sindhu に対応する古代ペルシア語の Hindušを古代ギリシア語経由で借用)に由来し、もとはインダス川とそれ以東の全ての土地を指した[13]。古くは非常に曖昧に用いられ、アフリカ大陸東海岸をも India と呼ぶことがあった[14]。
「India」は外来語であり、国際的に使用されるのは植民地時代の名残と捉えるナショナリストは、「Bharat」が正式名であるべきだと考える[誰によって?]。2023年のG20サミットでは、インド政府が名札に「Bharat」を使用し、物議を醸した[15][16]。
イラン語派の言語ではインドのことを、やはりインダス川に由来する Hinduka の名で呼び、古い中国ではこれを身毒(『史記』)または天竺(『後漢書』)のような漢字で音訳した[17]。
ただし水谷真成はこれらをサンスクリットの Sindhu の音訳とする[18]。初めて印度の字をあてたのは玄奘三蔵であり、玄奘はこの語をサンスクリット indu (月)に由来するとしている[18]。唐代以降の中国では印度の呼称が一般的になったが、日本では古代から明治にいたるまで天竺と呼ばれた[19][20]。明治期以後、日本では印度または印度をカタカナ書きした「インド」が使われるようになった[21]。
国旗
→詳細は「インドの国旗」を参照1931年にインド国民議会が定めた3色旗を基にしたデザイン。トップのサフラン(オレンジ)色はヒンドゥー教を、または勇気と犠牲を意味する。緑色はイスラム教を、白は平和と真理を意味し両宗教の和合を表している。近年では宗派を連想させることを避けるため、それぞれ勇気、豊穣、平和という意味が付与された。中央には、アショカ王の記念塔になぞらえたチャクラ(法輪)がデザインされている。なお法輪の中の24本の線は1日24時間を意味する。チャクラは、仏教のシンボルであるため、上記2宗教と合わせて、世界四大宗教のうち3つが象徴されている[22]。
歴史
→詳細は「インドの歴史」および「南アジア史」を参照ヴェーダ時代からラージプート時代まで
ナーランダ僧院跡(ナーランダ大学)
紀元前2600年ごろから前1800年ごろまでの間にインダス川流域にインダス文明が栄えた。前1500年ごろにインド・アーリア人(トリツ族、バラタ族、プール族など)がパンジャーブ地方に移住。のちにガンジス川流域の先住民ドラヴィダ人を支配して定住生活に入った。
インド・アーリア人は、司祭階級(バラモン)を頂点とした身分制度社会(カースト制度)に基づく社会を形成し、それが今日に至るまでのインド社会を規定している。インド・アーリア人の中でも特にバラタ族の名称「バーラタ(भारत)」は、インドの正式名称(ヒンディー語: भारत गणराज्य, バーラト共和国)に使われており、インドは「バラタ族の国」を正統とする歴史観を表明している。
前6世紀には十六大国が栄えたが、紀元前521年ごろに始まったアケメネス朝のダレイオス1世によるインド遠征で敗れ、パンジャブ、シンド、ガンダーラを失った。
前5世紀に釈迦が仏教を説いた。
紀元前330年ごろ、アレクサンドロス3世の東方遠征(英語版)では、インド北西部のパンジャーブで行われたヒュダスペス河畔の戦いでポロス率いるパウラヴァ族が敗北したものの、アレクサンドロス軍の損害も大きく、マケドニア王国は撤退していった。撤退の際も当時の現地の住民であるマッロイ人の征服が行われた(マッロイ戦役)。
紀元前317年、チャンドラグプタによってパータリプトラ(サンスクリット: पाटलिपुत्रः、現・パトナ)を都とする最初の統一国家であるマウリヤ朝マガダ国が成立し、紀元前305年ごろにディアドコイ戦争中のセレウコス朝のセレウコス1世からインダス川流域やバクトリア南部の領土を取り戻した。
紀元前265年ごろ、カリンガ戦争でカリンガ国(現・オリッサ州)を併合。このころ、初期仏教の根本分裂が起こった。
紀元前232年ごろ、マウリヤ朝3代目のアショーカ王が死去するとマウリヤ朝は分裂し、北インドは混乱期に入った。
ギリシア系エジプト人商人が著した『エリュトゥラー海案内記』によれば、1世紀にはデカン高原にサータヴァーハナ朝がローマ帝国との季節風交易で繁栄した(海のシルクロード)。
3世紀後半にタミル系のパッラヴァ朝、4世紀にデカン高原でカダンバ朝(英語版)が興り、インドネシアのクタイ王国やタルマヌガラ王国に影響を及ぼした。
これらの古代王朝の後、5世紀に、グプタ朝が北インドを統一した。
サンスクリット文学が盛んになる一方、アジャンター石窟やエローラ石窟群などの優れた仏教美術が生み出された。
5世紀から始まったエフタルのインド北西部への侵入は、ミヒラクラ(英語版)の治世に最高潮に達した。
仏教弾圧でグプタ朝は衰退し、550年ごろに滅亡した。
7世紀前半ごろ、中国の唐から玄奘三蔵がヴァルダナ朝および前期チャールキヤ朝を訪れ、ナーランダ僧院で学び、657部の仏典を故国へ持ち帰った。
7世紀後半にヴァルダナ朝が滅ぶと、8世紀後半からはデカンのラージプート王朝のラーシュトラクータ朝、北西インドのプラティーハーラ朝とベンガル・ビハール地方のパーラ朝が分立した。パーラ朝が仏教を保護してパハルプールの仏教寺院(現在はバングラデシュ領内)が建設され、東南アジア各地のパガン仏教寺院、アンコール仏教寺院、ボロブドゥール仏教寺院の建設に影響を与えた。日本でも同時期に東大寺が建立された。
10世紀からラージプート王朝のチャンデーラ朝がカジュラーホーを建設した。
北インドのイスラム化と南インドのヒンドゥー王朝
11世紀初めより、ガズナ朝、ゴール朝などのイスラム諸王朝が北インドを支配するようになった。
一方、南インドでは、10世紀後半ごろからタミル系のチョーラ朝が貿易で繁栄した。
11世紀には中国(当時は北宋)との海洋貿易の制海権を確保する目的で東南アジアのシュリーヴィジャヤ王国に2度の遠征を敢行し、衰退させた。
13世紀にゴール朝で内紛が続き、アイバクがデリー・スルターン朝(奴隷王朝)を興してデリーに都を置き、北インドを支配した。
バルバンの治世から、中央アジアを制覇したモンゴル帝国の圧力が始まった。
14世紀初頭にデリー・スルターン朝(ハルジー朝)がデカン、南インド遠征を行い、一時は全インドを統一するほどの勢いを誇った。
アラー・ウッディーン・ハルジーの治世にはモンゴル帝国系のチャガタイ・ハン国が度々侵攻してきた。
デリー・スルターン朝(トゥグルク朝)は、内紛と1398年のティムールによるインド北部侵攻で衰退し、独立したヴィジャヤナガル王国やバフマニー朝(その後にムスリム5王国に分裂した)へと覇権が移った。
ヴィジャヤナガル王国
14世紀前半から17世紀半にかけてデリー・スルターン朝から独立したヴィジャヤナガル王国が南インドで栄え、16世紀前半クリシュナ・デーヴァ・ラーヤ王の統治の下、王国は最盛期を迎えた。
しかし、1565年にターリコータの戦いでデカン・スルターン朝に負け、ヴィジャヤナガル朝は衰退していき、王国最後の名君ヴェンカタ2世(位1586 – 1614年)の奮闘も空しく、その没後に王国は滅亡した。
デカン・スルターン朝もその後はお互いに争うようになり、ムガル帝国がムスリム5王国全域を支配した。
ムガル帝国
ムガル帝国の版図の変遷
16世紀、ティムール帝国の末裔であったバーブルが北インドへ南下し、1526年にデリー・スルターン朝(ローディー朝)を倒して ムガル帝国を立てた。ムガルはモンゴルを意味する。
ムガル帝国は、インドにおける最後にして最大のイスラム帝国であった。
第3代皇帝のアクバルは、インドの諸地方の統合と諸民族・諸宗教との融和を図るとともに統治機構の整備に努めた。
しかし、第6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラム教スンナ派のイスラム法(シャーリア)に基づく統治を行ったために各地で反乱が勃発した。
彼は反乱を起こしたシーク教徒や、ヒンドゥー教のラージプート族(マールワール王国、メーワール王国)や、シヴァージー率いる新興のマラーター王国(のちにマラーター同盟の中心となる)を討伐し、ムスリム5王国の残る2王国すなわちビジャープル王国(1686年滅亡)とゴールコンダ王国(1687年滅亡)を滅ぼして帝国の最大版図を築いた。
このころ、ダイヤモンド生産がピークを迎えた。インド産は18世紀前半まで世界シェアを維持した。
アウラングゼーブの死後、無理な膨張政策と異教・異文化に対する強硬策の反動で、諸勢力の分裂と帝国の急速な衰退を招くことになった。
インドの植民地化
タージ・マハル
ヨーロッパ諸国が大航海時代に入り、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがカリカット(コーリコード)へ来訪し、1509年にディーウ沖海戦でオスマン帝国からディーウを奪取した。
1511年にマラッカ王国を占領してポルトガル領マラッカ(英語版)を要塞化することによって、ポルトガルはインド洋の制海権を得た。このことを契機に、ポルトガル海上帝国は沿岸部ゴアに拠点を置くポルトガル領インド(1510年 – 1961年)を築いた。
1620年、デンマーク東インド会社がトランケバルにデンマーク領インド(1620年 – 1869年)を獲得。
1623年のオランダ領東インド(現・インドネシア)で起きたアンボイナ事件でイギリスはオランダに敗れ、東南アジアでの貿易拠点と制海権を失い、アジアで他の貿易先を探っていた。
そのような状況で、ムガル帝国が没落してイギリス東インド会社とフランス東インド会社が南インドの東海岸に進出することになり、貿易拠点ポンディシェリをめぐるカーナティック戦争が勃発した。
1757年6月のプラッシーの戦いでムガル帝国とフランス東インド会社の連合軍が敗れた。
同年8月にはマラーター同盟がデリーを占領し、インド北西部侵攻(英語版)(1757年 – 1758年)でインド全域を占領する勢いを見せた。
1760年のヴァンデヴァッシュの戦いでフランス東インド会社がイギリス東インド会社に敗れた。
一方、翌1761年に第三次パーニーパットの戦いでマラーター同盟は、ドゥッラーニー朝アフガニスタンに敗北していた。
1764年のブクサールの戦いでムガル帝国に勝利したイギリス東インド会社は、1765年にアラーハーバード条約を締結し、ベンガル地方のディーワーニー(行政徴税権、Diwani Rights)を獲得したことを皮切りに、イギリス東インド会社主導の植民地化を推進した。
イギリス東インド会社は一連のインドを蚕食する戦争(マイソール戦争、マラーター戦争、シク戦争)を開始し、実質的にインドはイギリス東インド会社の植民地となった。
インドは1814年まで世界最大の綿製品供給国で、毎年120万ピースがイギリスへ輸出されていた。
これに対して、1814年のイギリスからインドへの綿製品輸出は80万ピースであった。
そこで産業革命中のイギリスは関税を吊り上げてインド産製品を駆逐する一方、イギリス製品を無税でインドへ送った。
1828年には、イギリスへ輸出されたインド綿布が42万ピースに激減する一方、インドへ輸出されたイギリス製綿布は430万ピースに達した。こうしてインドの伝統的な綿織物産業は壊滅した[23]。
1837年のインド
1833年、ベンガル総督は、その職にあったウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクの下でインド総督に改称された。
1835年からウィリアム・ヘンリー・スリーマン(英語版)がカーリーを崇拝する殺人教団「サギー教」の掃討戦(1835年 – 1853年)を開始した。
イギリスは近代的な地税制度を導入してインドの民衆を困窮させた。
インドで栽培されたアヘンを中国へ輸出するためのアヘン戦争(1840年)が行われ、三角貿易体制が形成された。
そしてこのころにタタ財閥やバンク・オブ・ウェスタン・インディアが誕生した。
インド大反乱(1857 – 1858年)をきっかけにして、イギリス政府は1858年インド統治法(英語版)を成立させてインドの藩王国による間接統治体制に入り、バハードゥル・シャー2世をビルマに追放してムガル帝国を滅亡させた(1858年)。
その後、旱魃によるオリッサ飢饉、ラージプーターナー飢饉、ビハール飢饉(英語版)、大飢饉(英語版)が続けて発生し、藩王国からイギリス直轄領に人々が移動したため支援に多額の費用を出費する事態になった。藩王国の統治能力を見限ったイギリス政府はインドの直接統治体制に切り替えることになり、1877年にイギリス領インド帝国が成立した。
1870年代から1890年代にかけて、4,000万人近いインド人が相次いで飢饉で命を落とした。歴史家のニール・ファーガソンによれば、「飢餓の窮状に対する無能、怠慢、無関心の明らかな証拠がある」というが、植民地行政はただ受動的であっただけで、直接的な責任はない。それどころか、ジャーナリストのヨハン・ハリ氏は、「イギリスは飢饉の間、何もしなかったどころか、事態を悪化させるために多くのことをした」と言う。当局は、インド国内で何百万人もの死者が出ていることを気にすることなく、大都会への輸出を奨励し続けたことだろう。歴史学者で政治活動家のマイク・デービスも、飢饉の時に「ロンドンがインドのパンを食べていた」という説を支持している。さらに、ロバート・リットン総督は、「不摂生」「労働能力なし」と言われることもある飢えた人々への援助を禁止した。被災していない地域の新聞は、飢饉のことをできるだけ報道しないようにと指示された。マイク・デイビスによれば、リットン卿は、「自由主義経済に固執することで、インドの人々を曖昧に助けている」という考えに導かれていたという[24]。
イギリス統治時代
→「インド独立運動」も参照
イギリスはインド人知識人層を懐柔するため、1885年12月には諮問機関としてインド国民会議を設けた。1896年にボンベイ(現・ムンバイ)でペストの感染爆発(英語版)が発生した際に強硬な住民疎開を実施したイギリスの伝染病対策官が翌年に暗殺された。このとき、関与を疑われたロークマンニャ・ティラクが逮捕され、出所後に「スワラージ」(ヒンディー語: स्वराज)を唱えた。1899年、屈辱的な金為替本位制が採用され、15インド・ルピーと1スターリング・ポンドが等価とされた。イギリスはインド統治に際して民族の分割統治を狙って1905年にベンガル分割令を発令したが、分割への憤りなどから却って反英機運が一層強まった。ただし、この頃の目標は、イギリス宗主権下の「自治」である。イギリスはさらに独立運動の宗教的分断を図り1906年に親英的組織として全インド・ムスリム連盟を発足させたものの、1911年にはロークマンニャ・ティラクなどのインド国民会議の強硬な反対によってベンガル分割令の撤回を余儀なくされた。
1905年の日露戦争における日本の勝利などの影響を受けたこと、民族自決の理念が高まったことに影響され、ビルラ財閥などの民族資本家の形成に伴いインドの財閥が台頭し民族運動家を支援したことから、インドではさらに民族運動が高揚した。1914年に始まった第一次世界大戦ではインド帝国はイギリス帝国内の自治領の一つとして、英印軍が参戦した。挙国一致内閣のインド相は戦後のインド人による自治権を約束し、多くのインド人が戦った。
1916年にはムハンマド・アリー・ジンナーら若手が主導権を握った全インド・ムスリム連盟がインド国民会議との間にラクナウ協定(英語版)を締結し、「全インド自治同盟(英語版)」(Indian Home Rule Movement)が設立された。第一次世界大戦に連合国は勝利したものの、インド統治法によってインドに与えられた自治権はほとんど名ばかりのものであった。このためインド独立運動はより活発化した。1919年4月6日からマハトマ・ガンディーが主導していた非暴力独立運動(サティヤーグラハ)は、1919年4月13日のアムリットサル事件を契機に、それに抗議する形でそれまで知識人主導であったインドの民族運動を幅広く大衆運動にまで深化させた。さらに、ヒラーファト運動とも連動したことで、宗教の垣根を越えて非暴力・不服従運動は展開された。しかし、1923年になると暴力運動が発生したことによる運動中止とムスリムとの対立再燃によって、国民会議派主体の運動は停滞した。代わりに、全インド労働組合会議やインド共産党が活動するようになった。
1930年にはインド自治のあり方を検討するための英印円卓会議(英語版)が開始された。また、世界恐慌の影響でインド経済も打撃を受ける中、「完全独立」を求めるジャワハルラール・ネルーが台頭してきた。また、再起したガンディーによる塩の行進が行われ、ガンディーの登場はイギリスのインド支配を今まで以上に動揺させた。1937年には地方選挙が実施され、国民議会が勝利した[25]。
1939年に始まった第二次世界大戦においては、イギリスの参戦により自動的にインド帝国もまた再び連合国として参戦したが、国民会議派はこれに対して非協力的であった。太平洋戦争において日本の軍隊が、マレー半島や香港、シンガポールなどアジアにおいてイギリス軍を破り(南方作戦)、さらにインド洋でイギリス海軍に打撃を与え(インド洋作戦)インドに迫った。こうした中、国民会議派から決裂したスバス・チャンドラ・ボースが日本の援助でインド国民軍を結成するなど、枢軸国に協力して独立を目指す動きも存在した。国民会議の一部も断固として分離独理を求める「インドを立ち去れ運動(英語版)」を展開していたが、ファシズムとの闘いを優先したいネルーと、反英闘争を優先したいガンディーの間に溝があった。それでも、1942年8月には戦争継続中に限るイギリス軍の駐留容認を条件に全面的な会の方針となり、運動が本格化した[26]。なお、ガンディーは戦争初期の日本軍に勢いがあったときに、日本軍との連携も考えたが、日本がやっていることも結局は英国の植民地支配と変わらないと考えたことや、ネルー派の反対から具現化はしなかった[26]。
独立
インド初代首相ジャワハルラール・ネルー(左)と、インド独立の父マハトマ・ガンディー(右)
1945年7月5日にイギリスで総選挙が行われアトリー内閣が誕生。その後、8月15日にイギリスを含む連合国に対し日本が降伏した。それに先立って、インパール作戦に失敗した日本軍はビルマ戦線でイギリスに押し返されていた。ボースは戦線に加わり、外から国民蜂起を狙ったが、ネルーはもし侵攻してきたら抵抗するつもりだと述べている[27]。なお、ボースは、日本の敗北を受けて、ソ連と接触しようとする最中に事故死した。この「インパール戦争」(インド国民軍メンバーによる呼称)にてイギリスの排除を試みたインド国民軍の将兵3人が1945年11月、「国王に対する反逆罪」でレッド・フォートで裁判にかけられ、極刑にされることが決まった。この見せしめのような裁判はインドの民衆から大きな反発を呼び、各地で大暴動が勃発。結果的にこの反乱は、インド独立に向けての大衆運動の大きな引き金となった[27]。また、1946年8月16日、ムハンマド・アリー・ジンナーが直接行動の日(英語版)を定めると、カルカッタの虐殺が起こり、国内の宗教間対立も激化した。第二次世界大戦の疲弊と脱植民地化の流れからイギリス本国が独立を容認したものの、インド内のヒンドゥー教徒とイスラム教徒の争いは収拾されず、1947年8月15日、前日に成立したイスラム国家のパキスタンとインド連邦は分離独立した。両国は、独立直後の10月にカシミール帰属問題から印パ戦争を起こし、それは三次まで続き、現在も解決がついておらず、互いに核開発を競うなど憎しみを深めている。
インドの初代首相(外相兼任)にはジャワハルラール・ネルーが、副首相兼内相にはヴァッラブバーイー・パテールが就任し、この新内閣が行政権を行使した。1946年12月から1950年まで憲法制定議会が立法権を行使し、それはインド憲法の施行後、総選挙で成立したインド連邦議会に継承された。司法権は新設置のインド最高裁判所に移行した。さらに憲法制定議会議長のR.プラサードが大統領に、不可触賎民出身で憲法起草委員長のB.R.アンベードカルが法務大臣に就任した。
1948年1月30日、マハトマ・ガンディーは、ムスリムに対するガンディーの「妥協的」な言動に敵意を抱いていた、かつてヒンドゥー教のマラータ同盟のあったマハーラーシュトラ州出身のヒンドゥー至上主義「民族義勇団」(RSS)活動家のナトラム・ゴドセによって、同じヒンドゥー教のマールワール商人ビルラの邸で射殺された。インドは同年9月13日、ポロ作戦でニザーム王国を併合した。
独立後
インドは政教分離の世俗主義という柱で国の統一を図ることになり、1949年11月26日にインド憲法が成立し、独立時の英連邦王国から1950年1月26日に共和制に移行した。憲法施行後、1951年10月から翌年2月にかけて連邦と州の両議会議員の第一回総選挙が行われた。結果は会議派が勝利し、首相にネルーが就任した。ネルー政権下では民主主義が堅持される一方、幅広い支持基盤を獲得した与党・国民会議派が選挙で圧勝を続け、一党優位政党制となっていた[28]。独立後、他の社会主義国ほど義務教育の完全普及や身分差別廃止の徹底はうまくいかなかった。1954年、フランス領インドが返還されてポンディシェリ連邦直轄領となった。1961年12月、インドのゴア軍事侵攻が起き、1961年12月19日にポルトガル領インドがインドに併合された。1962年に中印国境紛争が勃発し、アクサイチンを失った。
第5・8代首相インディラ・ガンディー
1964年にはネルーが死去し、その後継のラール・バハードゥル・シャーストリーも1966年に死去すると、同年から長期にわたってジャワハルラール・ネルーの娘、インディラ・ガンディーの国民会議派が政権を担った[29]。東西冷戦時代は、非同盟運動に重要な役割を果した国であったが、パキスタンとはカシミール問題と、3度の印パ戦争が勃発し、長く対立が続いた。特に第三次印パ戦争(1971年12月3日 – 12月16日)にはソ連とインドがともに東パキスタンを支援して軍事介入し、パキスタンを支援する中華人民共和国と対立した。インドとソ連の関係が親密化したことは、中ソ対立や米国ニクソン大統領の中国訪問(1972年2月)へも大きな影響を与えた。1972年7月、シムラー協定でバングラデシュ独立をパキスタンが承認した。
1974年5月18日、核実験(コードネーム「微笑むブッダ」)が成功し、世界で6番目の核兵器保有国となった。 1976年11月2日、憲法前文に「われわれインド国民は、インドを社会主義・世俗主義的民主主義[30] 共和制の独立国家とし、すべての市民に保証することを厳かに決意する」と議会制民主主義国家であると同時に社会主義の理念が入った。インディラ・ガンディー政権は強権的な姿勢により支持を失い、1977年の選挙ではジャナタ党を中心とする野党連合に敗れて下野し、独立後初の政権交代が起こった[31]。しかし成立したモラルジー・デーサーイー政権は内部分裂によって支持を失い、1980年の選挙では、インディラ・ガンディーと国民会議派が返り咲いた[32]。インディラはその後も首相の座を維持したが、1984年6月に実施したシク教過激派に対するブルースター作戦への報復として、同年10月シク教徒のボディガードにより暗殺された。そこで息子のラジーヴ・ガンディーが首相を引き継いだ。1983年、隣国でスリランカ内戦が勃発したため平和維持軍を派遣した。
1987年4月、ボフォール社からの兵器(野砲)購入をめぐる大規模な汚職事件が明るみに出た[33]。ラジーヴ首相も関わっているのではないかとの疑惑が広まった。これは1989年11月の解散総選挙につながった。1991年5月にタミル系武装組織タミル・イーラム解放のトラの自爆テロでラジーヴも暗殺された。後を継いだナラシンハ・ラーオ政権では、マンモハン・シン蔵相の元で1991年7月から始まった経済自由化(英語版)によって経済は成長軌道に乗り、特にこれ以降IT分野が急成長を遂げた[34]。1992年12月、アヨーディヤーのイスラム建築バーブリー・マスジドがヒンドゥー原理主義者らに破壊される事件が発生、宗派対立となった[35]。
第13・16代首相アタル・ビハーリー・ヴァージペーイー
1996年の総選挙でインド人民党が勢力を伸ばしアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー政権が誕生した。1997年6月25日、初の不可触賎民出身の大統領、コチェリル・ラーマン・ナラヤナンが就任した。1998年5月11日と13日、ヴァージペーイー政権がコードネーム「シャクティ」を突如実施。核保有国であることを世界に宣言した。5月28日と5月30日にはパキスタンによる初の核実験が成功した。1999年5月、パキスタンとのカシミール領有権をめぐる国境紛争がカルギル紛争に発展し、核兵器の実戦使用が懸念された[36]。
2004年の総選挙では国民会議派が勝利して政権を奪回し、マンモハン・シンが首相に就任した[37]。同年12月26日、スマトラ島沖地震が起こった。震源地に近いアンダマン・ニコバル諸島を中心とした地域の被害は甚大であった(死者1万2,407人、行方不明1万人以上)。
2008年11月26日、デカン・ムジャーヒディーンによるムンバイ同時多発テロでは、死者172人、負傷者239人を出した。
連邦下院の総選挙が2009年4月16日に始まり、5月13日まで5回に分けて実施された。有権者は約7億1,400万人。選挙結果は5月16日に一斉開票され、国民会議派は206議席を獲得して政権を維持した[38]。一方、最大野党インド人民党(BJP)は116議席にとどまった。
2014年5月開票の総選挙ではインド人民党が大勝し、10年ぶりに政権交代が実現。5月26日、ナレンドラ・モディが第18代首相に就任し、人民党政権が発足した[39]。2017年6月、印パ両国が上海協力機構へ正式に加盟した。
2019年インド総選挙では、インド人民党が過半数の議席を獲得した[40]。
2024年インド総選挙ではインド人民党がローク・サバーの過半数の議席を獲得できなかったが、与党連合は過半数の議席を維持した[41]。
政治
→詳細は「インドの政治(ヒンディー語版、英語版)」;「インド政府」;および「インド憲法」を参照
大統領府
大統領府
首相府(サウス・ブロック政府合同庁舎)
首相府(サウス・ブロック政府合同庁舎)
円形国会議事堂
円形国会議事堂
インドの政治の大要は憲法に規定されている。インド憲法は1949年に制定、1976年に改正され、以後修正を加えながら現在に至っている。インド人民党(BJP)の基盤となっているのが、国父ガンジーの暗殺者、ナトラム・ゴドセを輩出したヒンドゥー至上主義の極右・ファシスト団体民族義勇団(RSS)であり、党首のナレンドラ・モディもこのRSSの元活動家である[42][43]。モディ率いるBJPは国民の8割を占めるヒンドゥー教徒の優遇を鮮明にし、北部アヨーディヤのイスラム教のモスク跡地に大規模なヒンドゥー教寺院を建立するなど、カーストを問わず支持を集めている[44]。
一方で国連人権審査は、BJPが人権活動家、ジャーナリスト、平和的なデモ参加者を訴追しており、イスラム教徒や宗教的少数派への攻撃とその為の扇動、差別、ヘイトスピーチを発生させているとして警告している[45][46]。
選挙
日本の約9倍の国土に100万カ所以上の投票所が設置される。2024年の総選挙では、投票所の管理や治安面の課題から、投票は州や地域を7つに分けて4月19日から順次実施し、6月4日に一斉開票する。543議席を小選挙区で選び、2議席は大統領が指名する[47]。行政
国家元首は大統領。実権はなく、内閣(Union Council of Ministers)の助言に従い国務を行う。議会の上下両院と州議会議員で構成される選挙会によって選出される。任期5年。→「インドの大統領」も参照
副大統領は議会で選出される。大統領が任期満了、死亡、解職で欠ける場合は、副大統領の地位のままその職務を行う。任期は大統領と同じ5年だが、就任時期をずらすことで地位の空白が生ずることを防止する。また、副大統領は上院の議長を兼任する。→「インドの副大統領」も参照
行政府の長は首相であり、下院議員の総選挙後に大統領が任命する。内閣は下院議員の過半数を獲得した政党が組閣を行う。閣僚は首相の指名に基づき大統領が任命する。内閣は下院に対して連帯して責任を負う(議院内閣制)。また、連邦議会の議事運営、重要問題の審議・立法化と国家予算の審議・決定を行う。→「インドの歴代首相」および「インドの内閣一覧」も参照
立法
議会は両院制で、州代表の上院(ラージヤ・サバー)と、国民代表の下院(ローク・サバー)の二院により構成される。→「インドの国会」も参照
上院250議席のうち12議席を大統領が有識者の中から指名する。任期は6年で、2年ごとに3分の1ずつ改選。大統領任命枠以外は、各州の議会によって選出される。下院は545議席で、543議席を18歳以上の国民による小選挙区制選挙で選出し、2議席を大統領がアングロ・インディアン(British Indians、イギリス系インド人。植民地時代にイギリス人とインド人との間に生まれた混血のインド人、もしくはその子孫の人々)から指名する。任期は5年だが、任期途中で解散される場合がある。有権者の人口が多いため、選挙の投票は5回にわけて行われる。選挙は小選挙区制で、投票は用紙に印刷された政党マークに印を付ける方式であり、今日まで行われている。
なお、インドは民主的なプロセスを経て選挙が行われている国の中で世界最大の人口を誇る。そのためしばしば「世界最大の民主主義国家」と呼ばれることがある。
政党
→詳細は「インドの政党」を参照
司法
→詳細は「インドの司法(英語版)」を参照
司法権は最高裁判所と高等裁判所の2ヶ所に委ねられている。[icon]
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法律
→詳細は「インドの法律(英語版)」を参照
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国際関係
→詳細は「インドの国際関係(ヒンディー語版、英語版)」を参照インドが外交使節を派遣している諸国の一覧図(青)
独立後、重要な国際会議がインドで開かれ、国際的な条約や協約が締結されている。1947年3月、デリーでアジア問題会議が開催され、新生のアジア諸国が直面視する諸問題が討議された。
1949年2月、デリーでアジア19か国会議が開催され、オランダのインドネシア再植民地化が、批判すべき緊急の政治課題として討議された。
1949年11月、コルカタでインド平和擁護大会が開催された。
1949年12月、ビルマ(ミャンマー)に続いて中華人民共和国を承認した。
1950年10月、北インドのラクナウで太平洋問題調査会の第11回国際大会が開催された。ネルーが「アジアの理解のために」と題して基調演説を行った。
1954年4月、中国の首都・北京で中印双方は「中印両国の中国チベット地方とインドとの間の通商と交通に関する協定」に調印し、そこで平和五原則(パンチャ・シーラ)を確定した。それは領土・主権の尊重、相互不可侵、内政不干渉、平等互恵、平和的共存からなっていた。
1955年4月、バンドン(インドネシア)でアジア・アフリカ会議が開催された。14億の諸民族を代表する29か国の指導者が参加した。平和五原則に基づく諸原則を承認した。スカルノ、周恩来、ネルー、ナセルなどが参加していた。
1961年9月、ベオグラード(ユーゴスラビア)で第1回非同盟諸国首脳会議が開催された。チトー、ナセル、ネルーなどがアジアとアフリカの25か国代表が参加した。戦争の危機回避を求めるアピールが採択された。インドの首相ナレンドラ・モディとマレーシアの首相マハティール・ビン・モハマド(2018年5月31日)
インドは日本、米国、オーストラリアとQUADを結成している[48]。領土紛争
→詳細は「カシミール」、「アクサイチン」、「印パ戦争」、および「中印国境紛争」を参照
カシミール地方においてインドとパキスタン、中華人民共和国との間で領土紛争があり、特にパキスタンとは激しい戦闘が繰り返され(印パ戦争)、現在は停戦状態にある。インドの主張するカシミール地方は、ジャンムー・カシミール連邦直轄領及びラダック連邦直轄領となっている。中国の実効支配地域にはレアメタルが埋蔵されている。これとは別に、インド東部アッサム州北部のヒマラヤ山脈南壁は、中国との間で中印国境紛争があったが、中国側が自主的に撤退し、現在はインドのアルナーチャル・プラデーシュ州となっている。
日本との関係
→詳細は「日印関係」を参照
近代以前の日本では、中国経由で伝わった仏教に関わる形で、インドが知られた(当時はインドのことを天竺と呼んでいた)。東大寺の大仏の開眼供養を行った菩提僊那が中国を経由して渡来したり、高岳親王のように、日本からインドへ渡航することを試みたりした者もいたが、数は少なく、情報は非常に限られていた。日本・震旦(中国)・天竺(インド)をあわせて三国と呼ぶこともあった。1903年に日印協会が設立される。第二次世界大戦では、インド国民会議から分派した独立運動家のチャンドラ・ボースが日本軍の援助の下でインド国民軍を結成し、日本軍とともにインパール作戦を行ったが、失敗に終わった。チャンドラ・ボース以前に、日本を基盤として独立運動を行った人物にラース・ビハーリー・ボース(中村屋のボース)やA.M.ナイルらがいる。ラース・ビハーリー・ボースとA.M.ナイルの名前は、現在ではむしろ、日本に本格的なインド式カレーを伝えたことでもよく知られている。
1948年、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、インド代表判事パール判事(ラダ・ビノード・パール、1885年1月27日 – 1957年1月10日)は、「イギリスやアメリカが無罪なら、日本も無罪である」と主張した。またインドは1951年のサンフランシスコで開かれた講和会議に欠席。1952年4月に2国間の国交が回復し、同年6月9日に平和条約が締結された。インドは親日国であり、日本人の親印感情も高いと考えられているのは、こうした歴史によるものがある[49]
1957年5月24日、インドを訪問した岸信介首相を歓迎する国民大会が開催され、3万人の群衆の中、ジャワハルラール・ネルーは、日露戦争における日本の勝利がいかにインドの独立運動に深い影響を与えたかを語ったうえで、「インドは敢えてサンフランシスコ条約に参加しなかった。そして日本に対する賠償の権利を放棄した。これは、インドが金銭的要求よりも友情に重きを置くからにほかならない」と演説した[50]。
チャンドラ・ボース率いるインド国民軍が基礎となって独立戦争を戦ったインドは、その過程での日本との関わりから、東京裁判史観に否定的であり、1994年に駐日インド大使館の協力で日本の取材班が訪印し、インドの識者に対して、日本の戦争賠償や戦争犯罪に対する告発に賛成しなかったラダ・ビノード・パールの評価を尋ねたところ、インド教育省(英語版)事務次官だったP.N. チョプラ博士は、ラダ・ビノード・パールはインド政府の立場を十分に説明しており、過去と現在を問わずインド政府は全てのインド人とともにラダ・ビノード・パールの判決を支持しており、インド政府が公式に東京裁判史観否定の立場をとっていることを明らかにした[50]。
広島の原爆記念日である毎年8月6日に国会が会期中の際は黙祷を捧げているほか、昭和天皇崩御の際には3日間喪に服したほどである[50]。また、1970年代ごろからは、日本プロレス界でインド出身のタイガー・ジェット・シンが活躍し、当時人気があったプロレスを大いに賑わせた。しかし、インド人の日本への留学者は毎年1,000人以下と、他のアジアの国の留学生の数に比べて極端に少ないが、近年ではITを中心とした知的労働者の受け入れが急速に増加している。
2001年のインド西部地震では日本は自衛隊インド派遣を行い支援活動を行った。日本政府は「価値観外交」を進め、2008年10月22日には、麻生太郎、シン両首相により日印安全保障宣言が締結された[51]。日本の閣僚としては、2000年に森喜朗総理大臣(8月18日 – 26日の東南アジア訪問の一貫)、2005年に小泉純一郎総理大臣(デリー)、2006年1月に麻生太郎外務大臣(デリー)、2006年アジア開発銀行年次総会の際に谷垣禎一財務大臣(ハイデラバード)、2007年1月に菅義偉総務大臣(デリーとチェンナイ)、2007年8月に安倍晋三総理大臣(ニューデリーとコルカタ)、2009年12月に鳩山由紀夫総理大臣(ムンバイとデリー)がそれぞれ訪問している。
2011年8月1日に日本・インド経済連携協定が発効した。2012年4月に日印国交樹立60周年を迎え、日本とインドで様々な記念行事が実施された[52]。2014年8月30日、モディが首相として初来日し、安倍首相主催による非公式の夕食会が京都市の京都迎賓館で開かれた。日印首脳会談は9月1日に東京で行われ、共同声明の「日印特別戦略的グローバル・パートナーシップに関する東京宣言」では「特別な関係」が明記され、安全保障面では、外務・防衛閣僚協議(2プラス2)の設置検討で合意、シーレーンの安全確保に向けた海上自衛隊とインド海軍の共同訓練の定期化と、経済分野では日印投資促進パートナーシップを立ち上げ、対印の直接投資額と日本企業数を5年間で倍増させる目標を決定した[53]。
イギリスとの関係
→詳細は「英印関係(英語版)」を参照
17世紀、アジア海域世界への進出をイギリスとオランダが推進し、インド産の手織り綿布(キャラコ)がヨーロッパに持ち込まれると大流行となり、各国は対インド貿易を重視したが、その過程で3次にわたる英蘭戦争が起こり、フランス東インド会社の連合軍を打ち破り(プラッシーの戦い)、植民地抗争におけるイギリス覇権が確立した。1765年にベンガル地方の徴税権(ディーワーニー)を獲得したことを皮切りにイギリス東インド会社主導の植民地化が進み、1763年のパリ条約によってフランス勢力をインドから駆逐すると、マイソール戦争、マラータ戦争、シク戦争などを経てインド支配を確立した。イギリス東インド会社は茶、アヘン、インディゴなどのプランテーションを拡大し、19世紀後半にはインドでの鉄道建設を推進した。イギリス支配に対する不満は各地で高まり、インド大反乱(セポイの反乱、シパーヒーの反乱、第一次インド独立戦争)となった。イギリスは、翌年にムガル皇帝を廃し、東インド会社が持っていた統治権を譲り受け、インド総督を派遣して直接統治下においた。1877年には、イギリス女王ヴィクトリアがインド女帝を兼任するイギリス領インド帝国が成立した。第一次世界大戦で、イギリスは植民地インドから100万人以上の兵力を西部戦線に動員し、食糧はじめ軍事物資や戦費の一部も負担させた。しかし、イギリスはインドに対して戦後に自治を与えるという公約を守らず、ウッドロウ・ウィルソンらの唱えた民族自決の理念の高まりにも影響を受けて民族運動はさらに高揚したが、アムリットサル事件が起きた。
しかし、非暴力を唱えるマハトマ・ガンディー、ジャワハルラール・ネルーにより反英・独立運動が展開された。ガンディーは「塩の行進」を開始したが成功しなかった。
第二次世界大戦では日本に亡命したチャンドラ・ボースが日本の援助によってインド国民軍を結成し、インド人兵士は多くが志願した。
インドは念願の独立後の1950年代以降も、多くのインド人が就職や結婚など様々な理由で、景気の見通しが上向きであった英国に移住した。当時、英国政府は移民の管理に懸命に務めたものの、1961年には既に10万人以上のインド人や隣国のパキスタン人が定住していたと記録に残っている。彼らの多くは英国に既に移住している同郷人が親族を呼び寄せるという「連鎖移住」の制度を利用した。現在、英国に住むインド出身の人々は西ロンドンのサウソール、ウェンブリー、ハウンズロー、バーネット、クロイドン、郊外では東西ミッドランズ、マンチェスター、レスターにコミュニティーを作っている。またイギリスでは医師の3割がインド人である。
インドは歴史的に反英感情がまだ少なからず残っているものの、旧宗主国が普及させた世界共通語である英語を使い、英語圏中心に商売をしている。
アメリカ合衆国との関係
→詳細は「米印関係(英語版)」を参照
冷戦期は非同盟中立(実態は旧ソ連寄り)のインドと、パキスタンを軍事パートナーとしていたアメリカ合衆国との関係はよくなかった。冷戦終結を契機に印米関係は改善を見せ始める。1998年の核実験を強行した際にはアメリカをはじめ西側諸国から経済制裁を受けたが、現在では経済軍事交流をはじめとして良好な関係を築いている。インドではソフトウェア産業の優秀な人材が揃っており、英語を話せる人材が多いためアメリカへの人材の引き抜きや現地でのソフトウェア産業の設立が盛んになっている。そのため、ハイテク産業でのアメリカとのつながりが大きく、アメリカで就職したり、インターネットを通じてインド国内での開発、運営などが行われたりしている。NHKスペシャルの「インドの衝撃」では、NASAのエンジニアの1割はインド人(在外インド人)だと伝えている。また、アメリカとインドは地球の反対側に位置するため、アメリカの終業時刻がインドの始業時刻に相当し、終業時刻にインドへ仕事を依頼すると翌日の始業時刻には成果品が届くことからもインドの優位性が評価されるようになった(→オフショアリング)。
一時期、シリコンバレーは“IC”でもつと言われたことがあるが[誰によって?]、この場合のICは集積回路のIntegrated Circuitsを指すのではなくインド人と中国人を意味する。
英語の運用能力が高く人件費も低廉なため、近年アメリカ国内の顧客を対象にしたコールセンター業務はインドの会社に委託(アウトソーシング)されている場合が多い。多くのアメリカ人の顧客にとってインド人の名前は馴染みがないため、電話応対の際インド人オペレーターはそれぞれ付与された(アングロサクソン系)アメリカ人風の名前を名乗っている。
アメリカとの時差は12時間で、アメリカで夜にITの発注をかけてもインドでは朝である。そのためにアメリカで発注をかけた側が就寝して朝目覚めれば、インドから完成品がオンラインで届けられている場合もある。この言語と時差の特性を利用し、インドにコールセンターを置く企業も増えつつあるといわれている。
アメリカの科学者の12%、医師の38%、NASAの科学者の36%、マイクロソフトの従業員の34%、IBMの従業員の28%、インテルの従業員の17%、ゼロックスの従業員の13%がインド系アメリカ人であり、インド系アメリカ人は100万 – 200万人ほどいると言われている。印僑の9人に1人が年収1億円以上、人口は0.5%ながら、全米の億万長者の10%を占める。彼らはアメリカのITの中枢を担っているためシリコンバレーに多く住んでおり、シリコンバレーにはインド料理店が多い。
また、アイビー・リーグなどのアメリカの大学側はインドに代表団を派遣して学生を集めるための事務所を構えたり、優秀なインド人学生をスカウトしたりするなどの活動もあり、アメリカに留学するインド人学生は多く、アメリカ合衆国移民・関税執行局 (ICE)調査によれば中国人学生の次に多い。インド人学生の4分の3以上が科学、技術、 工学、数学(STEM)分野を学んでいる。
また後述するように、アメリカ国内ではインド人に対する深刻な嫌がらせは基本的に見られない。強いて言うならばアメリカ同時多発テロの際にアラブ系と勘違いされインド系が襲われる事件があった程度である。
オーストラリアとの関係
→詳細は「豪印関係(英語版)」を参照
インドはオーストラリアにとっての重要な輸出市場であり、オーストラリアは市場競争力と付加価値がある専門技術と技術的ソリューションを、様々な分野にわたって提供しているという。インド工業連盟(CII)は、「オーストラリアとのビジネス」と題したセミナーを主催、その開会の場でラーマンは、オーストラリアの専門技術と技術的ソリューションは、インドのあらゆる分野のビジネスで重要視されているとし、資源開発、鉱業、エネルギー、インフラ、建築、飲食、農業関連産業、情報通信技術、映画、メディア、エンターテインメント、小売り、金融と活用されている分野を挙げた。オーストラリアは移民政策としてアジア人を受け入れており、特にインド人は英語が話せるため多くが留学・移民として来ている。アメリカと同様にオーストラリアには多数のインド人が移民しており、距離が近い分、アメリカに行くよりオーストラリアに行くことを選んだインド人も多い。オーストラリアにおけるインド系企業は浸透し、オーストラリアの金融機関のシステム開発は当時から、インド系ソフトウェア会社の存在なしには成り立たなくなっている。
2005年ごろからオーストラリアの若者たちがレバノン人を暴行する事件が相次ぎ、2007年ごろからインド人留学生を狙う暴力事件が相次いで発生した。インド人学生に対する暴行は、おもにメルボルンやシドニーなどオーストラリアの都市部であり、地元の若者がグループで襲い物を奪ったり、ドライバーで刺したりする事件が相次いだ。オーストラリアの地元警察によると、大半が「愉快犯」といい、合言葉は「レッツゴー・カレー・バッシング」だった。相次ぐインド人襲撃を受けて、オーストラリアのインド人学生ら数千人は抗議の座り込みをし、インド国内でも抗議する大規模デモが行われ、外交問題にまで発展した。ボリウッドの大物俳優アミターブ・バッチャンは、クイーンズランド大学から授与されるはずだった名誉博士号を辞退したほか、ブリスベンで行われる映画祭への出席も見合わせた。インドのシン首相は「分別のない暴力と犯罪には身の毛がよだつ。 その一部は人種的動機から、オーストラリアにいるわが国の学生に向けられている」と抗議した。ケビン・ラッド首相はシン首相との会談の際に、事件の背景に人種差別があるわけではないと強調、オーストラリアは今でも世界有数の安全な国だとして平静を呼びかけた。
中国との関係
→詳細は「中印関係」を参照
古代では、インドから中国に仏教がもたらされ、インドに留学した中国僧の法顕、玄奘、義浄らを通じ、交流があった。植民地時代は三角貿易でつながり、近代に独立してからも初代首相のネルーは「ヒンディ・チニ・バイ・バイ」(中華人民共和国とインドは兄弟[54])を掲げ、非共産圏ではビルマに次いで中華人民共和国を国家承認して最初に[要検証 – ノート]大使館を設置した国であった[55]。平和五原則で友好を深めようとするも、1950年代以降は中印国境紛争や、ダライ・ラマ14世とチベット亡命政府をインドが中華人民共和国から匿い、パキスタンを印パ戦争で中華人民共和国が支援したことで冷戦時代は対立関係になり、現在も国境問題は全面的な解決はされてない。しかし、1988年にラジーヴ首相が訪中して国境画定交渉が進み、2003年にはバジパイ首相はチベットを中華人民共和国領と認め[56]、中印国境紛争以来64年ぶりに国境貿易を再開する合意を交わした[57]。さらに中華人民共和国の主導する上海協力機構に加盟して中印合同演習も行うなど緊張緩和も行われている。経済面では2014年に中華人民共和国はインド最大の貿易相手国にもなった一方[58]、2017年にはブータンとの係争地に進行してきた中国人民解放軍にインド側の塹壕を破壊され2か月にわたりにらみ合いになったり、カシミール地方インド領に入り込もうとした中国軍をインド軍が阻止し、投石騒ぎの小競り合いが起こったりするなど、いまだに国境問題は解決されていない。
→「真珠の首飾り戦略」も参照
パキスタンとの関係
→詳細は「インド・パキスタン関係」を参照
宗教の違いや度重なる国境紛争で独立以来伝統的に隣国パキスタンとはかなり関係が悪く、互いに核兵器を向けてにらみ合っている[59]。近年もムンバイ同時多発テロ以降、関係は悪化していたが、2011年には2国間貿易の規制緩和やインドからパキスタンへの石油製品輸出解禁が打ち出され、11年7月には両国の外相が1年ぶりに会談した。2012年9月8日、イスラマバードで会談をして、ビザ発給条件の緩和について合意したほか、農業、保険、教育、環境、科学技術などの分野での相互協力などが話し合われた[60]。しかし、カシミールをめぐっては対立を続けており[61]、空中戦(バーラーコート空爆)や双方の砲撃と銃撃戦も起き両国で非難の応酬がされているなど緊張状態は続いている[62][63][64]。
ロシアとの関係
→詳細は「印露関係(英語版)」を参照
ロシアとは大幅な防衛・戦略上の関係(India–Russia military relations)を結んでおり、インドはロシア連邦製兵器の最大の顧客となっている。[icon]
この節の加筆が望まれています。
国家安全保障共和国記念日パレード
航空母艦ヴィクラント(建造中)
→詳細は「インド軍」を参照
インド軍は、インド陸軍、インド海軍、インド空軍および、その他の準軍事組織を含むインドの軍隊である。インド軍の法律上の最高司令官は大統領だが、事実上の指揮権はインド政府(Government of India)のトップ(政府の長)である首相(Prime Minister of India)が有している。インド軍の管理・運営は国防省(Ministry of Defence)・国防大臣(Minister of Defence)が担当する。インド軍の正規兵力は陸海空軍と戦略核戦力部隊、インド沿岸警備隊の約132万5,000人と、予備役は合わせて約110万人である。世界で6番目の核保有国・原子力潜水艦保有国でもある。インドの準軍事組織は、アッサム・ライフル部隊(5万人)、特別辺境部隊(1万人)である。以前は準軍事部隊とされた国境警備部隊、中央予備警察などを含む中央武装警察隊(約77万人)や、民兵組織のホームガード(約135万人)は 2011年から準軍事部隊に含めないとのインド政府の公式見解である。
グローバル・ファイヤーパワー社発表の世界の軍事力ランキング2014年版によると、インドは世界第4位の軍事力となっている。志願兵制を採用しており、徴兵制が行われたことは一度もない。
近年は近代化を加速させており、軍事目的での宇宙開発、核の3本柱(Nuclear triad、ICBM、SLBM、戦略爆撃機(先述のように狭義のそれはインドは保有しない))の整備、ミサイル防衛システムの開発など多岐にわたる。国防費は2012年度で461億2,500万ドルで、年々増加傾向にある。また、最近では武器そのものの国産化を目指す動きが強くなっており、2023年時点での共和国記念日に開催された軍事パレードにおいては国産化へのシフト変更傾向が現れているとの指摘がされている[注釈 4][65]。
準軍事組織
インドは10の民兵組織を維持している[66]。情報機関
→詳細は「インドの情報機関(英語版)」を参照
インドには多くの情報機関が存在しており、その部門の数は10以上となっている。最もよく知られているのは、インドの対外情報機関である情報調査分析室(英語版)(RAW)と、対諜報活動やテロ対策および、全体的な国内治安を担当・管轄する国内情報機関である国家情報局(英語版)(IB)の2つとなっている。[icon]
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地理インドの地形図
→詳細は「インドの地理」を参照
パキスタン、中華人民共和国(中国)、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマーとは陸上で、スリランカ、モルディブ、インドネシアとは海上で国境を接する。パキスタンや中国とは領土問題を抱える。中国とブータンは、東北部とアルナーチャル・プラデーシュ州とシッキム州北部に接している。ネパールは東北東、バングラデシュはメーガーラヤ州、トリプラ州、西ベンガル州の3州で国境を接する。ミャンマーはアルナーチャル・プラデーシュ州とアソム州東部、マニプル州、ミゾラム州、ナガランド州東部と接している。
インドの陸地はほとんどがインド洋に突き出した南アジアの半島上にあり、南西をアラビア海に、南東をベンガル湾に区切られて7,000キロメートルの海岸線を持つ。多くの地域では雨季が存在し、3つの季節(夏、雨季、冬)に分けられ、雨季を除いてほとんど雨の降らない地域も多い。北インドと中央インドはほぼ全域に肥沃なヒンドスタン平野が広がり、南インドのほとんどはデカン高原が占める。国土の西部には岩と砂のタール砂漠があり、東部と北東部の国境地帯は峻険なヒマラヤ山脈が占める。インドが主張するインド最高点はパキスタンと係争中のカシミール地方にあるK2峰(標高8,611メートル)である。確定した領土の最高点はカンチェンジュンガ峰(同8,598メートル)である。気候は南端の赤道地帯からヒマラヤの高山地帯まで多様性に富む。
インドの発展が遅れた主因は水不足であった[67]。インド亜大陸の平均降水量は年間約1,000ミリメートルであるが、地域差を反映しない。たとえばアッサム州や西ガーツ山脈では1万ミリメートル以上であり、シンド州の一部では100ミリメートルも降らない。加えて時期による降水量差が生活を直撃する。モンスーンのもたらす降水量は5年周期で平均よりも25 – 40パーセント減る。10年に1度はさらに僅少となって、旱魃による飢饉は、灌漑がなければ百万人単位で餓死者を出す[68]。
気候
→詳細は「インドの気候(英語版)」を参照
広大な国土を持つため、地域により気候は大きく異なる。雨季には大きな洪水が発生するほどの豪雨がある地域も多い[69]。2016年5月19日には西部ラジャスタン州ファロディで最高気温が51℃を記録し、1956年に同州アルワルで観測されたこれまでのインド国内の最高気温であった50.6℃を60年ぶりに更新した[70]。北インド
バラナシやタージマハルのあるアーグラーが属する北インド平野では5月が最も気温が高くなり、45℃を超すこともある。3月下旬から9月下旬までは厳しい暑さが続き、特に4月から6月は酷暑となる。7月から9月は雨季だが、1時間程度の激しい雨が降る程度で湿度は高く蒸し暑い。一方、同じ5月にヒマラヤ周辺の峠では積雪のために自動車が通行できないこともある。北インド平野でも冬季、特に12月中旬から1月下旬にはショールが必要なほど冷え込む。北インド平野の西部にあたるラジャスターン州エリアは典型的な砂漠気候で、特に3月下旬から9月下旬までは降雨も少なく厳しい乾燥地帯で、4月中旬から6月ごろは特に酷暑となる。12月中旬から1月下旬の約1か月強は、朝晩には防寒対策が必要なほど冷え込み、昼間と夜間の気温差が大きい[69]。南インド
南インドは年中暑いが、夏季の気温は北インドの方が砂漠気候であるため大幅に上回る。年間を通しての気温差は少なく、低くて20℃超、普段は30 – 35℃程度。6月から9月の雨季の4か月間は激しい豪雨に見舞われ、毎年のように洪水が発生してムンバイのような大都市の都市機能が麻痺することもある。南インドでもベンガルールは標高が800メートルある高原であるため年間を通し過ごしやすく、外国企業が集まるIT都市として発展したほどである[69]。東海岸とコルカタ
コルカタや東海岸は、夏季の気温は高く東海岸では湿度も高い。6月から9月の雨季は気温が40℃近くになり、湿度90パーセントを超えることもある。12月と1月の冬は北インド平野ほどではないが冷え込みがある[69]。ケララ州
年間を通し気温の変動が少なく常夏ともいえるが、5月下旬から9月の雨季の降雨量は多い[69]。ヒマラヤ地方
冬場は気温は低く、奥地では道路が凍結で通行止めになることがある。シムラーやダージリンは他地方が酷暑の時期に避暑地となる。ダージリンの雨季は6月から9月で多雨。ヒマラヤも見えない日が多い[69]。地方行政区分
→詳細は「インドの地方行政区画」を参照
インドは28の州と8つの連邦直轄領から構成される。ただし、ジャンムー・カシミール連邦直轄領、ラダック連邦直轄領はその全域をパキスタンとの間で、またジャンムー・カシミール連邦直轄領の一部とラダック連邦直轄領、アルナーチャル・プラデーシュ州のほとんどを中国との間で、それぞれ領有権をめぐって外交・国際政治の場で激しく争われている。ジャンムー・カシミール連邦直轄領、シッキム州を除いて州独自の旗が禁止されている[71]。多くの少数民族や先住民を抱える民主主義国家であることから、州の分割を求める動きは繰り返し発生し、世論を二分してきた。実際に分割に至った州もあり、2000年には中部と北部、東部で3州が新たに誕生した。14年にも南東部アンドラプラデシュ州の一部がテランガナ州として分割となった[72]。
主要都市
→詳細は「インドの都市の一覧」および「インドの都市圏人口の順位」を参照
都市 行政区分 人口 都市 行政区分 人口
1 ムンバイ マハーラーシュトラ州 13,662,885 11 ジャイプル ラージャスターン州 2,997,114
2 デリー デリー 11,954,217 12 ラクナウ ウッタル・プラデーシュ州 2,621,063
3 ベンガルール カルナータカ州 5,180,533 13 ナーグプル マハーラーシュトラ州 2,359,331
4 コルカタ 西ベンガル州 5,021,458 14 インドール マディヤ・プラデーシュ州 1,768,303
5 チェンナイ タミル・ナードゥ州 4,562,843 15 パトナ ビハール州 1,753,543
6 ハイデラバード テランガーナ州 3,980,938 16 ボーパール マディヤ・プラデーシュ州 1,742,375
7 アフマダーバード グジャラート州 3,867,336 17 ターネー マハーラーシュトラ州 1,673,465
8 プネー マハーラーシュトラ州 3,230,322 18 ルディヤーナー パンジャーブ州 1,662,325
9 スーラト グジャラート州 3,124,249 19 アーグラ ウッタル・プラデーシュ州 1,590,073
10 カーンプル ウッタル・プラデーシュ州 3,067,663 20 ヴァドーダラー グジャラート州 1,487,956
1991年・2001年実施の国勢調査データを元にした2008年時点の推定予測値[73]
経済
→詳細は「インドの経済」を参照
インドの経済は1991年から改革に取り組んでいる。1997年5月に政府は低品質の米の輸入を自由化し、民間が無関税で輸入することを許可した。それまで全ての形態の米の輸入はインド食料公社によって独占されていた。小麦は1999年3月から製粉業者が政府を通さずに加工用の小麦を輸入できることが決まった。2002年4月に米・小麦の輸出制限が廃止された。改革により、IT産業のほか、自動車部品・電機・輸送機器といった分野も伸びており、加えて産業規模は小さいもののバイオ・医薬品といった産業の発展に力を注いでいる。特に2003年以降はおおむね年間7 – 9パーセント、2010年度も8.5パーセントの高い経済成長率を達成している。インドの労働力人口は2050年にかけて毎年約1パーセントずつ増加していくと見込まれており、その豊富な労働力が成長の礎となることが予想されている。また、それらの人口は将来的に実質的な購買力を備えた消費者層(=中間層)となり、有望な消費市場をもたらすものと考えられている。
→「インドにおける協同組合運動(英語版)」も参照
貿易については、産業保護政策をとっていたため貿易が国内総生産(GDP)に与える影響は少なかったが、経済自由化後は関税が引き下げられるなどされ、貿易額が増加、GDPに与える影響力が大きくなっている。主な貿易品目は、輸出が石油製品、後述する農産物と海老、輸送機器、宝飾製品や医薬品、化学品、繊維などである。輸入は原油・石油製品、金、機械製品などである。世界銀行によると、インドのGDPは2021年には3兆1,700億ドルであり、世界で5番目に大きな経済である[74]。 またインドのGDP PPPは8.6兆であり、アメリカと中国に次ぐ3番目に大きな経済となる。
2030年代には15億人を超え、2050年には16.6億人になると予想されている[75]。
インド都市圏第2位のムンバイ。インド国内経済の中心地である。
主な産業
第一次産業主な農産物の生産地域
→詳細は「インドの農業(英語版)」を参照
農業をはじめとする第一次産業は世界第2位の規模を誇り、植物育種や灌漑設備の整備、農薬の普及といった「緑の革命」を実践している。独立後60年あまりで人口が12億人にまで増えたにもかかわらず、自給自足達成国となった[76]。米の主要輸出国の一つで、2006年には450万トンを輸出した。インドの農地面積は1億7,990万ヘクタール あり、農業は労働人口の52パーセントが従事し、GDPの16パーセントを占めるインド経済の中心である。農業部門が経済成長率に及ぼす影響は大きく、一部の例外を除き農業部門が不振であった年は成長率が4パーセント台に押し下げられた。農民の9割近くは2ヘクタール未満の農地しか持たない零細農民であり、農産物の国内流通や貿易の自由化には強く抵抗する。2020年、インド政府はアジア圏の経済連携協定であるRCEP交渉から離脱。同年9月には、生産地近くの卸売市場以外でも自由な取引を認める新法を施行したが、大手小売チェーンによる安値での買い叩きを懸念する農民による抗議デモが発生した[77]。
穀物収穫面積の約4割が水田であり、米の生産量は中国に次いで世界2位である。米輸出量では2012年 – 2013年に世界一を記録した[78]。小麦も生産量でこそ第2位であるが、歴史で述べたように完全自給できていない[79]。2003年時点で砂糖、魚介類、野菜・果実は完全自給できている。大豆の自給率が96パーセントであった[80]。綿花は植民地時代からデカン高原で栽培されており、糸車をもとに国章をつくるだけあって、今なお生産量が中国に次ぎ第2位である。茶も同様である。鶏卵生産量は中国が抜群の世界一で、アメリカとインドが順に続く。インドの養鶏は国内需要の高い鶏肉の生産量を向上させている。インドでは牛が宗教上神聖な動物とされており、牛乳の生産量が1980年から2004年の四半世紀で約3倍、世界一となった[81]。カシューナッツ、マンゴー、ココナッツ、生姜、ウコンと胡椒、ジュート、落花生なども生産している[要出典]。
灌漑はムガル帝国時代から行われてきたが、帝国が衰退してから堆積物に埋もれた。植民地時代に凶作による税収減を看過できなくなってから、それまでの世界史上最大規模の灌漑事業が行われた。それは特にパンジャーブ地方で大きな成果をあげ、インドは食料純輸出国となり、アスワンダム建設に経験が活かされた[68]。
1960年代から農業生産が飛躍的に増加した。もっとも、チューブ式井戸主体の灌漑によるためにエネルギーコストが利益を減じた。1980年 – 2000年の間に化学肥料の消費量は約3倍に増えた。それに、新しい農法がもたらす恩恵においてパンジャーブやハリヤーナーという北西部が優位であるのは植民地時代から変わっていない[82]。
デルタが多いベンガル地方は必ずしも農業に適しない。ここは19世紀前半にコレラのパンデミックの震源となった。カルカッタは西のフーグリー川と東の塩湖に囲まれ、かつては海抜10メートル以下で、排水に難儀した。河川は10月から3月までを除いて逆流した。上水供給と下水処理は各居住区の懐具合に応じて設備が向上していったが、1911年に首都がデリーに移転してからは政治的・経済的混乱がベンガルを苦しめるようになり、当分それ以上の改善が見込めなかった[83]。
第二次産業
マヒンドラマヒンドラXUV500
鉱業は後述の化石燃料のほか、インド・ウラン公社がウランやトリウムを採掘している。その他種種の金属鉱石が産出される[84]。現在、国営企業であったコール・インディアの株売却が進行しており、このまま民営化するのか注目される。インドは世界第14位の工業生産国であり、2007年において工業でGDPの27.6パーセント、労働力の17パーセントを占める。経済改革は外国との競争をもたらし、公的部門を民営化しこれまでの公的部門に代わる産業を拡大させ、消費財の生産の急速な拡大を引き起こした[85]。経済改革後、これまで寡占状態で家族経営が常態化し、政府との結びつきが続いていたインドの民間部門は外国との競争、とりわけ、中国製の安価な輸入品との競争に曝されることとなった。コストの削減・経営体制の刷新・新製品の開発・低コストの労働力と技術に依拠することにより、民間部門は変化を乗りきろうとしている[86] 。
製造業の花形である輸送機械産業はオートバイ、スクーター、オート三輪の生産が盛んであり、ヒーロー・モトコープやバジャージ・オート、ホンダなどが生産販売をしている。インドの二輪車市場は年々伸び続け、2012年には中国を抜いて世界第1位(1,300万台以上)で今後も拡大が続くと見られ、2020年までには2,000万台を大きく超えると推測されている。自動車は、タタ・モーターズ、マヒンドラ&マヒンドラ、ヒンドゥスタン・モーターズなどの地場資本の自動車メーカーのほか、スズキやルノーなどが、1991年まであったライセンス・ラージのためインドの地場資本と提携する形で進出している。自動車生産は1994年が24.5万台であったが、2011年には自動車生産台数は393万台で世界第6位で、輸出もしている。造船、航空機製造も成長の兆しを見せている。
石油・エネルギー産業は1984年にボパール化学工場事故を起こしながらも、石油化学を中心に発展を遂げた。インドの財閥系企業リライアンス・インダストリーズ社が1999年に世界最大級の製油所を建設して以降、2002年に東海岸沖合の深海で大規模な天然ガス田を、2006年には同区内の深海鉱区で大規模な原油・ガス田を発見。2004年にはラージャスターン州で複数の油田が発見された。1993年からはONGCが国有化され、海外にも事業を展開している。こうしてインドは全体の需要を上回る石油製品の生産能力を保有するようになり、今日では石油製品の輸出国となっている。
製薬産業や 繊維産業の世界トップクラスの生産国である。鉄鋼業も盛んであり、エレクトロニクス産業もある。
第三次産業
IT時代の到来と英語を流暢に話し教育された多くの若者たちにより、インドはアフターサービスや技術サポートの世界的なアウトソーシングの重要なバックオフィスとなりつつある。ソフトウェアや金融サービスにおいて、高度な熟練労働者の主要な輩出国となっている。ソフトウェア産業
IT企業の集まるベンガルール
近年の高成長は主にIT部門の成長がもたらしている。インドは先進国企業の情報技術導入が進むなかで、ソフトウェアの開発および販売、欧米企業の情報技術関連業務のアウトソーシングの受注を拡大させている。ソフトウェア産業は1990年代を通じて年率50パーセント近い成長を遂げ、IT不況を迎えた21世紀に入っても20パーセント台の順調な成長を続けており、2003年時点では国内GDPの2.6パーセントを占めるまでに至っている。工科系の大学を中心として毎年30万人を超える情報技術者を輩出していることや、労働コストが低廉であること、さらに、インド工科大学やインド科学大学院といった優れた教育機関を卒業後、待遇面のよさなどを背景にアメリカのシリコンバレーなどに移住するインド人技術者は増加傾向にあり、その結果ソフトウェアの輸出と在外居住者からの本国向け送金は、インドの国際収支を支える重要な外貨獲得源となっている。情報サービス業
インドの大手IT企業インフォシス社
テランガーナ州のショッピングモール
1990年代から2000年代にかけてインド経済を牽引していると言われていたITなど情報サービス業は、2000年代後半には優位性が揺らいできている。また、インド国外だけでなくインド国内にも情報サービス業の大きな市場があるにもかかわらず、インド企業は国外ばかりに目を向けているため、国内市場への欧米企業進出を許している[87]。当初、インド企業の強みであった低コストは、為替変動と国内の人材不足により優位性を失いつつある。加えて、インド企業に仕事を奪われた欧米企業は、インド国内に拠点を設け、技術者を雇うことによって劣勢であったコストの問題を挽回した。同時に、単なる業務のアウトソーシングに留まらず、ビジネスコンサルティングなどの高度なサービス提供によって差別化を図っている[87]。特にIBMの動きは活発で、企業買収を繰り返しわずか2年でインド国内でも最大規模の拠点を築いた。インド国内市場にも積極的に営業を行っており、市場シェアトップとなっている[87]。
こうした状況に、インド国内からは情報サービス業企業の革新を求める声があがり始めたが、上述の通りインド企業の経営陣は海外にばかり目を向け国内市場には長い間目を向けておらず、エリート意識からインド企業の優位を信じて革新に対する意識は低い状況にあるという[87]。また、ギルフォード証券のアナリスト、アシシュ・サダニはインド企業は25パーセントという高い利益率となっていることを述べたうえで、「それほど高い利益率を維持できるのは、未来のための投資を怠っているということの表れなのだ」と評し、今後の成長のためには目先の利益だけでなく、将来へ向けた投資をしなければならないと指摘している[87]。大学や研究機関などには直径十数メートルから数十メートルのパラボラアンテナが地上や屋上に設えてあり、人工衛星を用いてインターネット接続ができる。現在のインドIT産業の規模は2012年に800億ドル(8兆円)から、14年には1,180億ドル(12兆円)に達する見通しで、これはGDPの8パーセントに相当しており、インド経済を支える柱の一つになっている[88]。
小売業は大型店や電子商取引も育ちつつあるものの、売上高の9割は「キラナ」と呼ばれる零細商店が占める[89]。地場財閥系資本の食品スーパーやハイパーマーケットなどモダン流通店舗も急拡大している。小売業大手のリライアンスリテールはインド国内に1,400店の舗展開しており、都市部にはショッピングモールは珍しくない。
医療ビジネスは、インドの医療レベルは飛躍的に進歩し、欧米で研修をした医師が帰国している。英語が第二公用語であるため、医療関係でも英語圏との結びつきが強い。インドでは海外からの医療観光ツアーのPRが行われており、「アポロホスピタルグループ」はインド内外で38の病院を経営し、4,000人の医師を抱えるインド最大の病院チェーンで、特に心臓手術では施術例5万5,000人、成功率99.6パーセントという実績があり、心臓手術では世界五指に入るという。先進国より破格に治療費が安いことが魅力であり、医療費が高い米国とインドの手術費用を比較すると、米国ではおよそ350万円かかる心臓手術がインドでは80万円程度という4分の1以下の安さである。計画委員会のレポートによると、インドには約60万人の医師と100万人の看護師、200万人の歯科医がおり、そのうち5パーセントが先進国での医療経験を持つ。現在、6万人のインド人医師が米国やイギリス、カナダ、オーストラリアの医療機関で働いているという。世界的に見て医師の水準が高く各国で活躍するインド人医師の数は6万人に上り、イギリスでは外科医の40パーセントがインド人医師で占められ、アメリカにおいても10パーセントを超える外科医がインド人医師である。
他の部門ではバイオテクノロジー、ナノテクノロジー、通信、観光が高成長の兆しを見せている。
観光
→詳細は「インドの観光(英語版)」を参照
ジム・コーベット国立公園やハワー・マハル、アンベール城を始めとした数多くの名所を抱えている。交通
→詳細は「インドの交通(英語版)」を参照
道路
→詳細は「インドの道路(英語版)」および「インドの高速道路(英語版)」を参照ムンバイ・プネー高速道路(英語版)
高速道路などは計画・建設中の段階である。デリー、コルカタ、チェンナイ、ムンバイを結ぶ延長約5,800キロメートルの道路(通称「黄金の四角形」)が2006年中に完成した。また、国内を東西方向・南北方向に結ぶ+型の延長約7,300キロメートルの道路(通称「東西南北回廊」)も2007年末に完成する予定である。これらの高速道路は通行料金(Toll)が必要な有料道路(Toll way)であり、ところどころに料金所があるが、一般道と完全に分離しているわけではない。大都市では片道3車線以上で立体交差であるが、数十キロメートル郊外に行けば片道2車線で一般道と平面交差し、近所の馬車や自転車も走る。これ以外の道路も舗装はされているが、メンテナンスが十分でなく路面は凸凹が多い。鉄道
→詳細は「インドの鉄道」および「インドの高速鉄道」を参照ニルギリ山岳鉄道
デリーメトロ
インドの鉄道は国有(インド鉄道)であり、総延長は6万2,000キロメートルを超えて世界第5位である。現在では鉄道が移動の主体となっている。経済格差が激しいのにあわせて、使う乗物によってかかる費用が大きく違う(例としてムンバイ、デリー間では、飛行機の外国人料金が6,000ルピーなのに対し、二等の寝台列車は400ルピーである)。また日本の新幹線を基にした高速鉄道や貨物鉄道も計画されている。インド全土に広がる鉄道網は、以下のように分割管理されている。
インド北部鉄道(Nothern Railway)
インド南部鉄道(Southern Railway):チェンナイ、トリヴァンドラムを含んだ、タミル・ナードゥ州、パーンディッチェーリ連合区、ケーララ州、およびアーンドラ・プラデーシュ州の一部に跨る路線。
インド東部鉄道(Eastern Railway)
インド西部鉄道(Western Railway)
インド北東辺境鉄道(Northeast Frontier Railway)
インド北東部鉄道(North Eastern Railway)
インド南東部鉄道(South Eastern Railway)
インド中南部鉄道(South Central Railway)
インド中部鉄道(Central Railway)
インド中東部鉄道(East Central Railway)
インド東海岸鉄道(East Coast Railway)
インド中北部鉄道(North Central Railway)
インド北西部鉄道(North Western Railway)
インド南西部鉄道(South Western Railway)
インド中西部鉄道(West Central Railway)
インド南東部中央鉄道(South East Central Railway):チャッティースガル州のビラースプルを中心とした、同州とマディヤ・プラデーシュ州東部、マハラシュトラ州東部、オリッサ州西端を含む地域の路線。
以下の鉄道は公社化されている。コルカタメトロ
デリーメトロ
ムンバイ・メトロ
ベンガルール・メトロ
コンカン鉄道:マハラシュトラ州のローハーからカルナータカ州のトークールの南方でインド南部鉄道の路線につながる地点までを結ぶ西海岸の路線。
航空
→詳細は「インドの航空(英語版)」を参照ムンバイのチャットラパティー・シヴァージー国際空港
インディラ・ガンディー国際空港
かつて旅客機は一部の富裕層でしか使われていなかったが、2000年代に入り国内大手資本により格安航空会社(LCC)が多数設立され、それにあわせて航空運賃が下がったこともあり中流階級層を中心に利用者が増加している。→詳細は「インドの空港の一覧」を参照
航空会社としては以下のものがある。エア・インディア(国営のフラッグ・キャリア)
ジェットエアウェイズ(運航停止中)
スパイスジェット(格安航空会社)
ジェットライト(格安航空会社)
IndiGo(格安航空会社)
GoAir
Paramount Airways
首都のニューデリーのインディラ・ガンディー国際空港をはじめ、各地に空港がある。インド政府は、地方都市の割安な航空路線を支援するUDANという制度を設けている。滑走路を備えた空港を整備できない地域も多く、2020年10月末には、グジャラート州アーメダバードとその南東200キロメートルにあるケバディアを結ぶ、インド初の水上飛行機による定期便が就航した[90]。科学技術
→詳細は「インドの科学技術(英語版)」を参照
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宇宙開発
→詳細は「インドの宇宙開発」を参照火星探査計画マーズ・オービター・ミッション
チャンドラヤーン1号(サンスクリット語: चंद्रयान-१)はインド初の月探査機である。無人の月探査の任務には軌道周回機とムーン・インパクト・プローブと呼ばれる装置が含まれる。PSLVロケットの改良型のC11で2008年10月22日に打ち上げられた。打ち上げは成功、2008年11月8日に月周回軌道に投入された。可視光、近赤外線、蛍光X線による高分解能の遠隔探査機器が搭載されていた。2年以上にわたる運用が終了し、月面の化学組成の分布地図の作成と3次元の断面図の完成が目的だった。極域において氷の存在を示唆する結果が出た。月探査においてインド宇宙研究機関(ISRO)による5台の観測機器とアメリカ航空宇宙局(NASA)や欧州宇宙機関(ESA)、ブルガリア宇宙局など、他国の宇宙機関による6台の観測機器が無料で搭載された。チャンドラヤーン1号はNASAのLROとともに月に氷が存在する有力な手がかりを発見した[91]。2013年11月5日、最初の火星探査機打ち上げに成功した[92]。正式名称は「マーズ・オービター・ミッション」で、通称として「マンガルヤーン」と呼ばれている[93]。2014年9月24日に火星の周回軌道に投入され、アジアで初めて成功した火星探査機となった[94]。
国民
人口
→詳細は「インドの人口統計(英語版)」を参照インドの鉄道網と人口密度を示した地図。特に北部に人口が集中している。
2023年国勢調査の人口は14億2000万人[95] であり、総人口は世界第2位の中華人民共和国(14億1,000万人)より僅かに多く、世界第1位である。人口密度は中国の3倍であり、日本よりも高く過密である。インドの人口は1950年以降、毎年1,000万から1,500万人の勢いで増加し続け、政府による人口抑制策を実施したが、2005年には11億人を突破した。国連の予測では今後もこのペースで増加すると考えられており、2023年に中国を追い抜き、世界一の人口を擁する国となった。ただし、2030年代以降は毎年500万から700万人増と人口増加はやや鈍化すると予想されている。
インドは増える若年層に十分な雇用や生活インフラを提供できておらず、地域間の出稼ぎも多い。このため一部の州は、子供が2人以下の世帯を経済的に優遇するなど人口抑制策をとっている[96]。インド全体の人口増加率は、1971年から2001年までに、2%台から1%台の1.97%に下落している[97]。
インドの人口ピラミッド(2017年)
インドの人口の推移と予測
年 人口(万人) 増加率 (%)
1950 3億5,756 ×
1960 4億4,234 2.2
1970 5億5,491 2.3
1980 6億8,885 2.2
1990 8億4,641 2.1
2000 10億169 1.9
2005 11億337 ×
2007 11億3,104 ×
2010 11億7,380 1.4
2020 13億1,221 1.1
2030 14億1,657 0.8
2040 14億8,571 0.5
2050 15億9,000 0.3
2100 17億9,000 0.3
人種・民族
→詳細は「インド人」および「南アジアの民族(英語版)」を参照
インド亜大陸の民族については、インド・ヨーロッパ語族、ドラヴィダ語族、オーストロアジア語族、モンゴロイド系のシナ・チベット語族の4つに大別されるが、人種的には約4000年前から混血している。大半がインド・アーリア語系の分布で、南はドラヴィダ族が分布し、オーストロアジア語族、シナ・チベット語系は少数な分布となっている。
Y染色体やMtDNAの研究結果によると、インド人の大半は南アジア固有のハプログループを有している[98][99]。
ミャンマーと国境が接している北東部は、チベット・ビルマ語族の民族がいる。
言語
→詳細は「インドの言語」、「インドの公用語の一覧」、および「インドの言語の話者数一覧」を参照南アジアの言語の分布(緑=インド・アーリア語派、暗緑=イラン語派、黄=ヌーリスターン語派、青=ドラヴィダ語族、橙=チベット・ビルマ語族、紫=オーストロアジア語族)
インド国内の主要言語割合 (2011年国勢調査)[100][101]
言語 第一言語者数
(万人)[102] 第一言語割合
% 第二言語者数
(万人)[103] 第三言語者数
(万人)[103] 総話者数
(万人) 総話者数÷人口
%
ヒンディー語 5億2835 43.63 1億3900 2400 6億9200 57.1
英語 26 0.02 8300 4600 1億2900 10.6
ベンガル語 9724 8.3 900 100 1億0700 8.9
マラーティー語 8303 7.09 1300 300 9900 8.2
テルグ語 8113 6.93 1200 100 9500 7.8
タミル語 6903 5.89 700 100 7700 6.3
ウルドゥー語 5077 4.34 1100 100 6300 5.2
グジャラート語 5549 4.74 400 100 6000 5
カンナダ語 4371 3.73 1400 100 5900 4.94
オリアー語 3752 3.2 500 39 4300 3.56
パンジャーブ語 3312 2.83 223 72 3660 3
マラヤーラム語 3484 2.97 50 21 3600 2.9
サンスクリット語 0[104][105][106] 0 123 196 319 0.19
インドはヒンディー語を連邦公用語とする。ヒンディー語圏以外では各地方の言語が日常的に話されている。インドで最も多くの人に日常話されている言葉はヒンディー語で、約4億人の話者がいると言われ、インドの人口の約40パーセントを占める。
方言を含むと800種類以上の言語が話されているインドでは、地域が異なればインド人同士でも意思疎通ができない場合がある。
植民地時代に家では英語だけで子供を育てたことなどから、英語しか話せない人もいる。しかし一方で、地域や階級によっては英語がまったく通じないこともしばしばである。
1991年の国勢調査によると、17万8,598人(調査対象者の0.021パーセント)が英語を母語にしており、9,000万人以上(同11パーセント)が英語を第一、第二、ないし第三の言語として話すとしている。インド社会は国内コミュニケーションの必要上から第二公用語の英語を非常に重視しており、結果として国民の英語能力は総じて高い。インドの大学では全て英語で講義を受けるため、インド人学生の留学先にアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどの英語圏が圧倒的に人気が高い。
インド憲法には1950年の憲法施行後15年で英語を公用語から除外するとしている。現在、憲法はヒンディー語で翻訳され、正文とされているが、15年を経過しても英語を除外することができず、公用語法において英語の使用を無期限延長することとしている。
ただし地名に関しては英語離れとでもいうべき動きが進んでおり、ボンベイ、カルカッタ、マドラスという大都市は、それぞれムンバイ、コルカタ、チェンナイという現地語の名称へと公式に改められた。こうした傾向はインド国内でのナショナリズムの拡大・浸透が続く限り進むものと見られるが、連邦公用語のヒンディー語はいまだ全国に浸透していない。特にインド南部タミル・ナードゥ州などではヒンディー語を連邦公用語とすることへの反発が強い。
インドの言語は北部のインド・ヨーロッパ語族インド語派と南部のドラヴィダ語族に大きく分かれる。ドラヴィダ語族の言語は主に南部のアーンドラ・プラデーシュ州、カルナータカ州、ケーララ州、タミル・ナードゥ州で話され、それ以外の地域がインド・ヨーロッパ語族に含まれる。このように北部と南部とで言語が大きく異なっているため、インド・ヨーロッパ語族に含まれるヒンディー語がドラヴィダ語族の人々への浸透の遅れる原因ともなっている。
1980年代以降のヒンドゥー・ナショナリズムの高まりとともに、サンスクリットを公用語にしようという動きも一部で高まっている。もともと中世以前においてはインド圏の共通語であったと考えられているサンスクリットは、各地方語の力が強まりその役割が果たされなくなったあとも、上位カーストであるブラフミンの間では基礎教養として身につけられてきたという経緯がある。しかし古い言語であるだけに、現在(学者・研究者による会議の席上や特殊なコミュニティなどを除けば)日常語として話している人はほとんどおらず、またその複雑さゆえに同言語の学習に多年を要することなどもあり、実際の普及は滞っているのが現状である。
連邦公用語
インド憲法第343条1項により、連邦公用語はデーヴァナーガリー文字で書かれたヒンディー語と定められている[107]。多言語社会であるインドにおいて、国家が国民統合を推し進めるうえで、また実際に行政運営を行ううえで言語は常に重要な位置を占める。独立運動の過程では、植民地の行政言語(公用語)であった英語に代わって、北インドを中心に広く通用するヒンドゥスターニー語を新たに独立インドの象徴として積極的に採用していこうというガンディーらの意見があり、それが反映された。憲法起草段階から現在に至るまで南部のタミル・ナードゥ州を中心に反対意見が根強いが、連邦政府は折につけ各地でヒンディー語の普及を推し進めている。
それ以外にもインド憲法の第8付則では22言語が列挙され、「指定言語」(Scheduled languages)[108] や「第8付則言語」と呼ばれる)。
これら22言語は、憲法によって「公用語」として規定されているわけではなく、あくまで「公的に認定された言語」という曖昧な位置づけに留まっている。たとえば、サンスクリット語やシンディー語などはいずれの州でも公用語として採用されておらず、また逆にミゾラム州の公用語の一つであるミゾ語などは、この22言語の中に含まれていない。
公的に認定された言語
アッサム語
ウルドゥー語
オリヤー語
カシミール語 (ジャンムー・カシミール連邦直轄領に話者がいるが、州の公用語とはしていない)
カンナダ語
グジャラート語
コーンカニー語
サンスクリット語 (古典言語であるため日常語としての話者はほとんどいない)
サンタル語
シンディー語 (グジャラート州に話者がいるが、州の公用語とはしていない)
タミル語
テルグ語
ドグリ語
ネパール語
パンジャーブ語
ヒンディー語
ベンガル語
ボド語
マイティリー語
マニプリ語 (マニプル州の第二公用語としてのみ使用されている)
マラーティー語
マラヤーラム語
州・連邦首都圏・連邦直轄領の公用語
第二公用語は除く。憲法第8附則に明記されている言語、および連邦公用語は太字で示す。英語は全ての地方の公用語となっている。アッサム州 (英語、アッサム語)
アルナーチャル・プラデーシュ州 (英語)
アーンドラ・プラデーシュ州 (英語、テルグ語)
ウッタラーカンド州 (英語、ヒンディー語)
ウッタル・プラデーシュ州 (英語、ヒンディー語)
オリッサ州 (英語、オリヤー語)
カルナータカ州 (英語、カンナダ語)
グジャラート州 (英語、グジャラート語、ヒンディー語)
ケーララ州 (英語、マラヤーラム語)
ゴア州 (英語、コーンカニー語、マラーティー語)
シッキム州 (英語、ネパール語)
ジャールカンド州 (英語、ヒンディー語)
タミル・ナードゥ州 (英語、タミル語)
チャッティースガル州 (英語、ヒンディー語)
トリプラ州 (英語、ベンガル語、コクバラ語)
ナガランド州 (英語)
西ベンガル州 (英語、ベンガル語)
ハリヤーナー州 (英語、ヒンディー語)
パンジャーブ州 (英語、パンジャーブ語)
ビハール州 (英語、ヒンディー語)
ヒマーチャル・プラデーシュ州 (英語、ヒンディー語)
マディヤ・プラデーシュ州 (英語、ヒンディー語)
マニプル州 (英語、マニプリ語)
マハラシュトラ州 (英語、マラーティー語)
ミゾラム州 (英語、ミゾ語)
メーガーラヤ州 (英語)
ラージャスターン州 (英語、ヒンディー語)
連邦首都圏と連邦直轄領デリー首都圏 (英語、ヒンディー語)
アンダマン・ニコバル諸島連邦直轄領 (英語、ヒンディー語)
ジャンムー・カシミール連邦直轄領 (英語、ヒンディー語、ウルドゥー語)
ダードラー及びナガル・ハヴェーリー連邦直轄領 (英語)
ダマン・ディーウ連邦直轄領 (英語、グジャラート語)
チャンディーガル連邦直轄領 (英語)
ポンディシェリ連邦直轄領 (英語、タミル語、テルグ語、マラヤーラム語)
ラクシャドウィープ連邦直轄領 (英語)
ラダック連邦直轄領 (英語、ヒンディー語、チベット語、ラダック語)
婚姻
→詳細は「インドにおける婚姻(英語版)」を参照
インドにおける結婚式は、地方や宗教、地域社会によって異なる面がある。また、その違いには新郎新婦の個人的な嗜好も絡んで来る場合がある[109] 。インドは年間約1,000万件の結婚式を祝っており[110] 、その内の約80%がヒンドゥー教の結婚式(英語版)で占められている。
一方で、インドは児童婚大国の1国と見做されるほど、児童婚が広く蔓延している現状がある。児童婚の程度と規模については、情報源の間で推定が広く異なっている。例えばUNICEFによる2015年から2016年の報告書はインドの児童婚の割合を27%であると推定した[111]。 また幾つかの州では結婚を遅らせようとするインセンティブを導入している。
→「インドにおける児童婚(英語版)」も参照
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人名
→詳細は「インドの人名」を参照
インドにおける姓は、地域毎に異なる様々な制度と命名規則に基づく形で成立している。名前は宗教やカーストの影響も受け、宗教や叙事詩から引用される場合もある。[icon]
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教育
→詳細は「インドの教育」を参照
2002年の憲法改正および、2009年の無償義務教育権法により、6 – 14歳の子どもに対する初等教育の義務化、無償化が図られている。後期中等教育(日本の高等学校に相当)は2年制と4年制に分かれている。高等教育を受けるために大学へ進学するには、4年制の高校で学ぶ必要がある。インドの学校は日本などと同じ4月入学を採用している[112]。インドの教育は公立の場合には、連邦公用語たるヒンディー語と現地の言語で行われている。さらに21世紀突入以降は、事実上の世界共通語にして旧宗主国の公用語でもある英語の授業が早期に行われるようになった。ニューデリーの公立学校では初等教育から教授言語が英語である。インドの私立学校では初等教育から英語で教育が行われている。
保健
→詳細は「インドの保健(英語版)」を参照
医療
→詳細は「インドの医療」を参照
→「インド赤十字社(英語版)」も参照
宗教
アクシャルダム寺院(ヒンドゥー教)
アクシャルダム寺院(ヒンドゥー教)
シャトルンジャヤのジャイナ教寺院都市
シャトルンジャヤのジャイナ教寺院都市
ブッダガヤの大菩提寺
ブッダガヤの大菩提寺
ハリマンディル(シク教寺院)
ハリマンディル(シク教寺院)
メッカマジスト(イスラム教モスク)
メッカマジスト(イスラム教モスク)
コルカタのセントポール大聖堂
コルカタのセントポール大聖堂ムンバイのゾロアスター教寺院
→詳細は「インドの宗教」を参照
インドの人口に占める各宗教の割合はヒンドゥー教徒79.8パーセント、イスラム教徒14.2パーセント、キリスト教徒2.3パーセント、シク教徒1.7パーセント、 仏教徒0.7パーセント、ジャイナ教徒0.4パーセント(2011年国勢調査)[3][113]。また、『ブリタニカ国際年鑑』2007年版によれば、ヒンドゥー教徒73.72パーセント、イスラム教徒11.96パーセント、キリスト教徒6.08パーセント、シク教徒2.16パーセント、仏教徒0.71パーセント、ジャイナ教徒0.40パーセント、アイヤーヴァリ教徒0.12パーセント、ゾロアスター教徒0.02パーセント、その他1.44パーセントである。ヒンドゥー教徒
ヒンドゥー教徒の数はインド国内で8.3億人、その他の国の信者を合わせると約9億人とされ、キリスト教、イスラム教に続いて、人口の上で世界で第3番目である。ヒンドゥー教はバラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。ヴェーダ聖典を成立させ、これに基づくバラモン教を信仰した。紀元前5世紀ごろに政治的な変化や仏教の隆盛があり、バラモン教は変貌を迫られた。その結果、バラモン教は民間の宗教を受容・同化してヒンドゥー教へと変化していった。ヒンドゥー教は紀元前5 – 4世紀に顕在化し始め、紀元後4 – 5世紀に当時優勢であった仏教を凌ぐようになり、以降はインドの民族宗教として民衆に広く信仰され続けてきた。神々への信仰と同時に輪廻や解脱といった独特な概念を有し、四住期に代表される生活様式、身分(ヴァルナ)・職業(ジャーティ)までを含んだカースト制などを特徴とする宗教である。
世界最大の党員数(一億人以上)を有するインド人民党(BJP)の母体となっているのが、ヒンドゥー至上主義団体民族義勇団であり、党首のナレンドラ・モディも同団体出身者である[114][115][116]。RSSやモディ政権によるインドと国内外における非ヒンドゥー教徒などへの弾圧が問題化している。
→詳細は「民族義勇団」および「ナレンドラ・モディ」を参照
ジャイナ教
ジャイナ教とは、マハーヴィーラ(ヴァルダマーナ、前6世紀 – 前5世紀)を祖師と仰ぎ、特にアヒンサー(不害)の誓戒を厳守するなどその徹底した苦行・禁欲主義をもって知られるインドの宗教。仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろし、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保っている。仏教
→詳細は「インドの仏教」を参照
仏教発祥の地であるが、信仰者はごくわずかである。1203年のイスラム教徒ムハンマド・バフティヤール・ハルジー将軍によるヴィクラマシーラ大僧院の破壊により、僧院組織は壊滅的打撃を受け、インド仏教は、ベンガル地方でベンガル仏教徒とよばれる小グループが細々と命脈を保つのみとなった。
一説では、東南アジア・東アジアに仏教が広まったのは、インドで弾圧された多くの仏教関係者が避難したためとされる。
1956年、インド憲法起草者の一人で初代法務大臣を務めたアンベードカルが死の直前に、自らと同じ50万人の不可触民とともに仏教徒に改宗し、インド仏教復興の運動が起こった。
チベット仏教
ラダック連邦直轄領、ヒマーチャル・プラデーシュ州の北部、シッキム州など、チベット系住民が居住する地方では、チベット仏教が伝統的に信仰されている。シク教
16世紀にグル・ナーナクがインドで始めた宗教。シクとはサンスクリット語の「シシュヤ」に由来する語で、弟子を意味する。それにより教徒たちはグル・ナーナクの弟子であることを表明している(グルとは導師または聖者という意味である)。総本山はインドのパンジャーブ州のアムリトサルに所在するハリマンディル(ゴールデン・テンプル、黄金寺院)。教典は『グル・グラント・サーヒブ』と呼ばれる1,430ページの書物であり、英語に翻訳されインターネットでも公開されている。イスラム教
→「インドにおけるイスラーム」を参照
イスラム教徒(ムスリム)もインド国内に多数おり、インド国内ではヒンドゥー教に次ぐ第2位の勢力である。インドネシア、パキスタンについで、インドは世界第3位のムスリム人口を擁する。ヒンドゥー教から一方的に迫害されることはないが、ヒンドゥー教徒の力が強いためにイスラム教徒との勢力争いで暴動が起きることもある。そのためイスラム教徒がヒンドゥー教の寺院を破壊したり、その逆にヒンドゥー教徒がイスラム教のモスクを破壊したりといった事件も後を絶たない。近年はイスラム主義過激派によるテロも頻発している。キリスト教
→詳細は「トマス派」および「インドのキリスト教」を参照
インドのキリスト教徒の多くはローマ・カトリック教会に属しており、インド南部のゴア州やケーララ州などに集中している。これはイギリス統治時代以前のポルトガルのインド侵略による影響が大きい。インドでは東方教会の一派であるトマス派が存在しており、マイノリティであるものの、一定の影響力を維持してきた。これとは断絶する形で、イギリスの植民地化以降はカトリックやプロテスタント諸派の布教が進み、トマス派を含めて他宗派の住民が改宗し、プロテスタントでは20世紀に北インド(合同)教会(Church of North India)、南インド(合同)教会などが起こった。ゾロアスター教
サーサーン朝の滅亡を機にイスラム化が進んだイランでは、ゾロアスター教徒の中にはインド西海岸のグジャラート地方に退避する集団があった。Qissa-i Sanjanの伝承では、ホラーサーンのサンジャーン(英語版)から、4つあるいは5つの船に乗ってグジャラート州南部のサンジャーン(英語版)にたどり着き、現地を支配していたヒンドゥー教徒の王ジャーディ・ラーナーの保護を得て、周辺地域に定住することになったといわれる。グジャラートのサンジャーンに5年間定住した神官団は、使者を陸路イラン高原のホラーサーンに派遣し、同地のアータシュ・バフラーム級聖火をサンジャーンに移転させたといわれている。インドに移住したゾロアスター教徒は、現地でパールシー(「ペルシア人」の意)と呼ばれる集団となって信仰を守り、以後、1000年後まで続く宗教共同体を築いた。彼らはイランでは多く農業を営んでいたといわれるが、移住を契機に商工業に進出するとともに、土地の風習を採り入れてインド化していった。社会
→詳細は「インドにおける社会経済問題(ヒンディー語版)」を参照
社会問題
→詳細は「インドにおける貧困(ヒンディー語版、英語版)」;「インドの環境(英語版)」;「インドの環境問題(英語版)」;および「インドにおける汚職(ヒンディー語版)」を参照
金融
現在、次に列挙する深刻な腐敗が指摘されている。株式ブローカーのHarshad MehtaとKetan Parekh、金融インフラSatyam スキャンダル、Chain Roop Bhansali[117] のミューチュアル・ファンド、複合企業主のSubrata Roy、Saradha Group の金融スキャンダル、NSEL をめぐる金融犯罪、石炭割当をめぐる政治スキャンダル、2G周波数システム設計を政府がN・M・ロスチャイルド&サンズに募らせるなどのモバイルをめぐる数々の癒着[118]。2016年4月から12月にかけてインド準備銀行が実施した金融犯罪統計で、ICICI銀行が最大件数となり、SBIホールディングス、スタンダード・チャータード銀行、HDFCが順に続いた[119]。貧困
2004年から高度成長期に入り、2010年には中間層が2億4,000万人と増加した反面、1日65ルピー未満で暮らす貧困人口は3億人を超えており、貧困に苦しむ人が多い。アジア開発銀行が2011年に発表した予想によれば、インドの中間層が向こう15年間で人口の7割に達するとの見方もある。2009年 – 2010年の国立研究所調査では、都市部で中間層世帯が初めて貧困層を上回った。インド政府は年成長率9パーセントを目標に2012年からの第12次5か年計画で約1兆ドルのインフラ整備計画を打ち出しており、発電所、鉄道、飛行場、港湾、都市交通道路の設備投資も急速に進めると同時に、貧困層を10パーセント削減する予定だった[120]。世界銀行によれば、貧困率(一日2.15ドル未満で暮らしている人の割合)は、1993年には47.6%であったが、2004年には39.9%となり、2019年には10%にまで低下している[121] 。汚職
2019年に行われた独立系の反汚職組織の調査では、過去1年の間、賄賂を支払った経験があるとする国民は少なくとも2人に1人の割合になると報告された。特に汚職が著しいのは不動産登記や土地問題の分野で、4分の1以上が関連当局に支払ったと回答した。警察が19%で、税務当局、運輸関連や自治体関連企業などが後に続いた[122] 。電力供給
砂漠地帯の風力発電パーク
電力の供給能力は経済成長に追いつけず、日常的に停電が発生する。インドの経済成長の主軸とされるIT産業にとって不可欠な通信設備の普及も立ち遅れている。大気汚染
インドでは急速な経済発展に伴って世界最悪の大気汚染が起きており、2018年時点で世界保健機関によれば世界で最も大気汚染が深刻な14都市のすべてはインドである[123]。大気汚染対策として二輪車および三輪タクシーなどの電気自動車化を推し進めている[124]。インドの公的調査機関「科学環境センター」は大気汚染の最大要因を車の排気ガスと分析する。特に 12月中旬から2月中旬に北インドで発生する濃霧期間は、風が吹かず大気汚染が酷くなる傾向にある。対策として欧州連合(EU)の排ガス規制「ユーロ4」に相当する排ガス規制「バーラト・ステージ(BS4)」が導入されている。エネルギー価格の高騰は2018年現在も解消されておらず、国民生活を圧迫する政治問題となっている。衛生
インドではトイレを持たない家庭も多く、政府は屋外排泄行為根絶を目指す「クリーン・インディア」政策を2014年から進めている[125]。ナクザリズムとテロリズム
インドは長い間、テロの被害を受け続けている。インド政府内務省によると、インド国内のいくつかの州は戦闘行為やナクザリズム(ヒンディー語版)の影響を受けており、特にジャンムー・カシミール州、オリッサ州、チャッティースガル州、ジャールカンド州、および北東部の7つの姉妹州が危険な状況に見舞われている。2012年には、国内640地区のうち少なくとも252地区が程度の差こそあれ、反政府勢力やテロ活動の被害に遭っていた[126]。→「インドにおけるテロリズム(ヒンディー語版)」も参照
印僑
→詳細は「インド系移民と在外インド人」を参照
印僑は華僑、ユダヤ人、アルメニア人に並ぶ世界四大移民集団で、インド国外で成功を収めている。大英帝国の植民地時代から世界各国の国へ移民し、特にイギリスの支配下であった英語圏に圧倒的に多いのが特徴である。在外インド人(NRI=印僑)は、インド外務省によれば、2,500万人以上と世界各地に存在しており、その一部は上祖の出身地たるインドへの投資にも積極的である。特にインド系移民の存在感が大きな諸国として東アフリカのタンザニアや、ケニア、モーリシャス、南アメリカのガイアナ、西インド諸島のトリニダード・トバゴ、オセアニアのフィジーなどが挙げられる。治安
→詳細は「インドにおける犯罪(英語版)」を参照
インドは現時点において着実な経済発展を遂げており社会情勢は全般的に安定しているが、それに反して都市部では人口の集中、失業者の増大、貧富差の拡大を背景として一般犯罪の発生件数が増加傾向にある。主な犯罪として窃盗や強盗、詐欺、強姦、誘拐などが多発しており、同国に滞在する際には充分な注意が必要となる。治安はたいへん厳しい状況である。他方では宗教間対立や多民族といった複雑な国内事情もあり、過激派組織が活動している点からテロ事件も発生していて危険性が高まっている現状がある[127]。
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この節の加筆が望まれています。
→「インドの組織犯罪(英語版、ヒンディー語版)」も参照
法執行機関
→詳細は「インドの法執行機関(英語版)」を参照
警察ニザマバード市警察のパトカー
ベースとなっている車両はトヨタ・イノーバクリスタ
インド警察庁(英語版)(IPS)が主体となっている。→「インドにおける州および連邦直轄地の警察(英語版)」も参照
人権
→詳細は「インドにおける人権(英語版)」を参照
少数派への迫害、下位カーストへの暴力が後を絶たない[128]。 パキスタンとの係争地で実効支配を続けるジャム・カシミール州では分離運動もありインド軍による拷問、暴力が報告されている[129]。[icon]
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女性の権利
→詳細は「インドの女性(ヒンディー語版)」を参照
1992年~1993年の統計データによると、インドで女性が世帯主となっている世帯はわずか 9.2% となっている。しかし、貧困線以下の世帯の約 35% は女性が世帯主であることが判明した[130]。[icon]
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→「インドにおける売春(ヒンディー語版)」も参照
マスコミ
→詳細は「インドのメディア(英語版)」を参照
[icon]
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インドには500を超える衛星放送チャンネル(内80以上はニュース専用チャンネル)、約7万社の新聞社が存在し、同時に毎日1億部以上が売られる世界最大の新聞市場を抱えている[131]。新聞
現在インドには約1000紙のヒンディー語の日刊紙が存在し、総発行部数は約8千万部となっている。第二言語である英字紙は、日刊紙の数で見ると約250紙あり、総発行部数は約4千万部となっている[132]。影響力のあるヒンディー語新聞にはDainik Jagranや Dainik Bhaskar、Amar Ujala、Devbhumi Mirror、Navbharat Times、Hindustan Dainik、Prabhat Khabar、Rajasthan Patrika,Dainik Aajがある。インドの日刊紙
10大ヒンディー語新聞
Dainik Jagran
Dainik Bhaskar
Amar Ujala
Rajasthan Patrika
Prabhat Khabar
Punjab Kesari
Patrika[要説明]
Navbharat Times
Nai Dunia
Hari Bhoomi
Ref: Indian Readership Survey Q4 2019 pdf
10大英字紙
The Times of India
The Hindu
The Economic Times
Mumbai Mirror
The Telegraph
The Indian Express
The New Indian Express
Deccan Chronicle
Mid-Day
Mint
Ref: Indian Readership Survey Q1 2019 [1]
10大地方紙Daily Thanthi (Tamil)
Lokmat (Marathi)
Malayala Manorama (Malayalam)
Eenadu (Telugu)
Mathrubhumi (Malayalam)
Mandsaur Today ( Hindi)
Dinakaran (Tamil)
Anandabazar Patrika (Bengali)
Gujarat Samachar (Gujarati)
Sakal (Marathi)
Ref: Indian Readership Survey Q1 2019 [2]
放送
→詳細は「インドにおけるラジオ放送(英語版)」および「インドにおけるテレビ放送(英語版)」を参照
ラジオ放送は1927年に開始されたが、1930年には国家の責任に限られるようになった[133] 1937年に全印ラジオと命名され、1957年からはAkashvaniとも呼ばれるようになった[133]。テレビ番組は放送期間を限定しながら1959年に始まり、1965年に完全に放送を開始した[133]。1991年の経済改革以前、インド国内では情報・放送省が、テレビ局であるドゥールダルシャンを含む視聴覚機構を所有・管理していた[134]インターネット・Web
→詳細は「インドのインターネット(英語版)」を参照
インドでのインターネットは1986年に開通したのが始まりとなっている。当初は教育・研究関係のコミュニティに限定された利用環境であったが、やがて国内全域において一般人がインターネットへアクセスできるように整備されて行った。インドのインターネットユーザーは、2023年までに9億人を超えている[135]。インドでは、オンラインでの言論や表現を制限する法律が強化され、政府に対する反対意見の表明への締め付けが強まりつつある現状が世界的に問題化し、多方面でも注視されている[136] 。
→「インドにおけるインターネット検閲(英語版)」も参照
検閲
→詳細は「インドにおける検閲(英語版)」を参照
インドは世界的に検閲の厳しい国家の1つに数えられている。インドは憲法において表現の自由を法的に保証しているものの[137]、実際には、国内の宗派間における緊張状況が続く現状とその背景に深く関わっている歴史などの事情を考慮し、「宗派と宗教の調和を維持する」といった公式の見解の下、コンテンツに対する様々な制限が課されている。→「インドにおける表現の自由(英語版)」も参照
2024年、フリーダム・ハウスによる世界の自由度年次報告書では、インドの総合値は100点満点中66点(「部分的に自由」の状態)、市民の自由の評価は60点満点中33点、「自由で独立したメディアはあるか」という特定の質問に対する値は4点満点中2点であった[138] 。→「インドにおける大量監視(英語版)」も参照
文化
→詳細は「インドの文化」を参照
食文化
→詳細は「インド料理」を参照
文学
→詳細は「インド文学」を参照
哲学
→詳細は「インド哲学」を参照
音楽
→詳細は「インド音楽(英語版)」および「インドの伝統音楽」を参照
映画
→詳細は「インドの映画」を参照
美術
→詳細は「インドの美術」を参照
被服
→詳細は「インドの衣服(英語版)」および「インドのファッション(英語版)」を参照
建築
→詳細は「インドの建築(英語版)」を参照
世界遺産
→詳細は「インドの世界遺産」を参照
祝祭日
→詳細は「インドの祝日(英語版)」を参照
インドの国民の祝日(National Holidays)は以下の3日である[139]。共和国記念日(1月26日)
独立記念日(8月15日)
ガンディー生誕記念日(10月2日)
このほかに全国的な行事(Gazetted Holidays)と、州ごとに異なる地方的行事(Restricted Holidays)をあわせた年中行事が数百あり、それぞれがひとつないし複数の宗教と関係がある[139]。日付は宗教ごとに決まった暦を使用するため、大部分は移動祝日になる。主要な行事には以下のものがある[139]。マハー・シヴァラートリ(ヒンドゥー教)
ラクシャー・バンダン(ヒンドゥー教)
ホーリー祭(ヒンドゥー教)
ガネーシャ・チャトゥルティー(ヒンドゥー教)
ドゥルガー・プージャー(英語版)(ヒンドゥー教)
ダシャラー(ヒンドゥー教)
イードゥル・フィトル(イスラム教)
ディーワーリー(ヒンドゥー教)
クリスマス(キリスト教)
スポーツ
→詳細は「インドのスポーツ(英語版)」を参照
→「オリンピックのインド選手団」も参照
クリケットクリケット専用スタジアムのナレンドラ・モディ・スタジアム。収容人数は13万2000人[140]。
クリケットはインド国内で最も人気のスポーツとなっている[141][142]。最も象徴的な現代エンターテインメントとも言われ、ボリウッド映画より人気が高いと評される[143]。国内のあらゆる地域でプレーされており、重要なインドの文化の一つとなっている。歴史的には1700年代後半にイギリスの植民地主義者の好意によってインドに伝わり、1792年にインドで最初のクラブであるカルカッタ・クリケットクラブが設立された[144]。イギリス領インド帝国時代には、マハーラージャであるランジットシンジがケンブリッジ大学を卒業し、クリケット選手として大きな功績を残した[145]。インドのクリケットの発展・普及に大きく貢献したことから、「インドクリケットの父」と呼ばれている[146]。ナショナルチームのインド代表は世界屈指の強豪チームであり、クリケット・ワールドカップで2度の優勝(1983年、2011年)、ICC T20ワールドカップで2度の優勝(2007年、2024年)、ICCチャンピオンズトロフィーで2度の優勝(2002年、2013年)を誇る。インドの歴代のテレビ視聴者数もクリケットの試合が上位を占めており、とりわけライバル関係にあるパキスタンとの一戦は絶大な盛り上がりを見せる。2023年には国際クリケット評議会が発表する世界ランキングにおいて全3形式で同時に1位になるいう偉業を達成した[147]。
2024年のT20ワールドカップ優勝後、モディ首相の祝福を受けるヴィラット・コーリ。インド首相執務室にて
インドクリケット管理委員会(BCCI)が国内組織を統轄しており、国内大会はランジ杯、ドゥピープ杯、デオダール杯などがある。またトゥエンティ20ルールのプロリーグであるインディアン・プレミアリーグ(IPL)は最も人気のある国内リーグであり、また世界最大のクリケットリーグであることからも世界中の多くの一流選手が所属している。IPLの1試合当たり放映権料では約11億4000万ルピー(約20億円)であり、サッカーのプレミアリーグを超えている[148]。女子クリケットも急速に普及しており、2023年には女子プレミアリーグ(WPL)が開幕した。インドを代表する歴代の選手では、「クリケットの神様」とも評されるサチン・テンドルカールが挙げられる。その高い功績からマザー・テレサも受賞歴のあるバーラト・ラトナ賞をスポーツ界の人物として初受賞した。ランジットシンジ、スニール・ガヴァスカール、カピル・デヴ、ラーフル・ドラヴィド、マヘンドラ・シン・ドーニも歴代のインドクリケット界を代表する選手である。ヴィラット・コーリは2010年代から2020年代におけるインドを代表する選手である。2020年に国際クリケット評議会より、過去10年間における世界最優秀選手賞を受賞した[149]。インドではスポーツ界を越えたスーパースターであり、インド映画のトップスターを抑え、インドで最もブランド価値の高い著名人に選出された[150]。コーリは2023年にInstagram公式アカウントのフォロワー数がアジア人として史上初の2億5000万を超えた[151]。
フィールドホッケー
フィールドホッケーの国際試合
イギリス統治時代から盛んだったフィールドホッケーも盛んであり、インドホッケー連盟がナショナルチームをはじめとした国内組織を統轄している。ホッケー・ワールドカップでも1975年大会の優勝実績があり、オリンピックでは金8個・銀1個・銅2個のメダルを獲得している。プロリーグとしては2005年より『プレミア・ホッケーリーグ』があり、テレビ中継も開始されている。サッカー
→詳細は「インドのサッカー(英語版)」を参照
インド国内では近年サッカーの人気が若者を中心に急上昇しており、クリケットに次ぐ地位を得ている。2014年にプロサッカーリーグのインディアン・スーパーリーグが、かつて欧州主要リーグで活躍し晩年を迎えた選手を、助っ人として次々とリーグに参戦させ華々しく開幕した。国際的なスポーツマン・芸能人のマネージメントを引き受けるIMGや、インド最大のエンターテインメント企業であるSTARとのタイアップを図ることで、国技であるクリケットに次ぐインド国民が熱狂する「スポーツエンターテインメント」の確立を目指している。全インドサッカー連盟(AIFF)によって構成されるサッカーインド代表は、FIFAワールドカップには未出場(1950年大会は予選通過するも、本大会は出場辞退[152])であるが、AFCアジアカップには4度の出場歴があり1964年大会では準優勝に輝いている。また、南アジアサッカー選手権では大会最多8度の優勝を誇る。AFCチャレンジカップでは2008年大会で初優勝を飾っている。
モータースポーツ
2011年からは、インド国内としては初めてのF1開催であるインドGPを開催している。ただ、これまでサーキット用地買収や運営する国内モータースポーツ連盟の分裂・混乱などの問題が発生、開催時期は当初の2009年から2010年、そして2011年と延期が続いた。インドにとってのF1は2005年より関係が深まっていき、その年にジョーダン・グランプリから参戦し2006年と2007年はウィリアムズのテストドライバーを担当していたナレイン・カーティケヤンが初のインド人ドライバーとなった。2008年よりキングフィッシャー航空の創業者でユナイテッド・ブリュワリーズ・グループの会長を務めるインド人実業家のビジェイ・マリヤが、インド初のF1チームであるフォース・インディアを設立。2010年にはインド人2人目のF1ドライバーであるカルン・チャンドックがヒスパニア・レーシング・F1チームよりデビューしたため、インド国内でのF1への関心は高まりつつあり、インドGPのF1初開催が2011年に現実のものとなった。
その他の競技
インドの伝統的なスポーツであるカバディ、コーコー(英語版)、ギリ・ダンダ(英語版)なども全国で広く競技されている。さらにインド南部ケララ地方古来の武術であるカラリパヤットや、ヴァルマ・カライ(英語版)も行われている。2008年の北京五輪の男子エアライフルではアビナブ・ビンドラー(英語版)が優勝し、同国で個人競技として初めての金メダルを獲得した。また、近年ではテニスもデビスカップインド代表の活躍もあって、急速に人気を博している。他方で、競馬などのスポーツも存在する。著名な出身者
→詳細は「Category:インドの人物」および「分野・時代別のインド人の一覧」を参照
脚注
[脚注の使い方]
注釈
^ 日本の学校教育では(財)世界の動き社『世界の国一覧表』の2002年度版がデリー首都圏の行政機構改革によりニューデリーが包摂されたことを反映して首都を従前の「ニューデリー」から「デリー」に変更しており、同年以降は文部科学省の学習指導要領でも首都を「デリー」としている。
^ インド憲法上の正式名称。
^ ヒンディー語の名称भारत गणराज्य(ラテン文字転写: Bhārat Gaṇarājya、バーラト・ガナラージヤ)を日本語訳したもの。
^ 2023年現在、同国軍が保有する武器の約半分はロシア製となっている。
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参考文献
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『南アジア史4 近現代』山川出版社〈世界歴史大系〉、2019年。ISBN 9784634462113。全国書誌番号:23205607。
関連項目
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日本外務省 – インド (日本語)
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その他
JETRO – インド (日本語)
インド・プロフィール BBCニュース (英語)
“India”. The World Factbook (英語). Central Intelligence Agency. (英語)
インド – Curlie(英語) (英語)
インド – NHK for School
『インド』 – コトバンク
ウィキボヤージュには、インド(ヒンディー語)に関する旅行情報があります。
ウィキトラベルには、インドに関する旅行ガイドがあります。
インドのウィキメディア地図 (英語)
地図 – Google マップ
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主要国首脳会議参加国
表話編歴
G20
表話編歴
東アジアサミット加盟国
表話編歴
南アジア地域協力連合参加国
座標: 北緯21度 東経78度典拠管理データベース ウィキデータを編集
カテゴリ: インドアジアの国共和国連邦制国家イギリス連邦加盟国国際連合加盟国BRICS加盟国上海協力機構加盟国G20加盟国
最終更新 2025年1月14日 (火) 23:23 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』 - 日付 イギリスより
-
これが正しい地球の姿。世界の見方を変える「オーサグラフ世界地図」
https://www.gizmodo.jp/2016/11/authagraph-worldmap.html

『2016.11.04 16:07
103,413author たもり
Xこれが正しい地球の姿。世界の見方を変える「オーサグラフ世界地図」
祝! グッドデザイン大賞
今年のグッドデザイン大賞候補の中から選ばれたのは、鳴川肇氏による世界地図図法 [オーサグラフ世界地図]でした。
オーサグラフは、authalic(面積が等しい)+graph(図)に由来し、その名のとおり、陸地の面積比と形状をほぼ正確に表記した世界地図です。例えば、従来の地図ではグリーンランドがオーストラリアより大きく見えますが、実際はオーストラリアの面積の方がずっと大きく、オーサグラフ世界地図ではそのように描かれています。
世界の見方を変える地図、オーサグラフ世界地図2
オーサグラフ世界地図のしくみがわかるペーパークラフト地球儀
今からでも間に合う。腕に覚えのある人、動画か画像を作ってカリフォルニアに行こう
今からでも間に合う。腕に覚えのある人、動画か画像を作ってカリフォルニアに行こう
Sponsored by アドビ株式会社
現在も広く親しまれているメルカトル図法は大航海時代に発明されたもので、北極海や南極大陸を適正に表記できていませんでした。時代を経てテクノロジーは進化を重ねてきましたが、その一方で世界地図の図法は16世紀止まりだったのです。Advertisement
そこで「大きさや形の歪みをおさえた正確な地球の全体像を示す四角い世界地図」として、オーサグラフ世界地図が考案されました。
制作した鳴川肇氏はこの地図の仕様について…
「全世界が長方形にぴたりと収まり,さらに地理関係を損なわずに全方向につなげられます。 その結果,南極大陸も含め世界全域がくまなく見やすく,さらに行き止まりのない球面世界を平面で再現できる,多中心な世界観を視覚化できる世界地図」
だと語っています。何かを生み出したい人募集
何かを生み出したい人募集
Sponsored by 株式会社ビットキー
ヨーロッパが世界の中心だった大航海時代が遠い昔になった今、世界の各地に目を向けることが求められています。そういった意味でもオーサグラフ世界地図はまさに時代に合った世界地図と言えるかもしれません。オーサグラフ地球儀などのグッズは販売中です。
関連記事:
○ 日本ってやっぱり縦長。地図上の大きさと実際の面積を比べてみたら、世界観が変わった
○ それっぽい地形を作ってくれるファンタジー・マップ・ジェネレーター
○ 世界の領土問題についてほとんど知らない人のためのマップ
○ 世界は1つではない。美しき地図イラストの世界source: Spoon-Tamago
William Turton – Gizmodo US[原文]
(たもり)』 -
インドの地理・特徴・気候を見てみよう
https://rekisi-daisuki.com/entry/2019-12-29







『教科書第2章『アジア・アメリカの古代文明』に入ると、最初に行うのが昔で言うところの四大文明の一つ『インダス文明』を学んでいくことになります。
今回はインダス文明に入る前にインドの地理や気候の特徴などを調べていきます。
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Contentsインドの地理的特徴を見てみよう
インドの風土を見ていこう
土地
インド周辺の気候
作物
スポンサーリンクインドの地理的特徴を見てみよう
古代インドの最初の文明として学ぶインダス文明は、川の大部分が現在のパキスタン領を流れるインダス川周辺で起こった文明です。下の地図だと一番西側の川になります。
古代インドの文明が興った場所の周辺地図
古代インドの文明が興った場所の周辺地図インダス川はチベット自治区のチベット高原から始まりアラビア海へと注ぐ3,180㎞の長さを誇る川です。河口が広い三角形状(=三角江)になっており、世界でも珍しい海嘯(かいしょう)と呼ばれる現象が起きるそうです。
満潮の際、河口に入る潮波の前面が垂直の高い壁状になり、砕けながら川上に進む現象。
海嘯(カイショウ)とは ーコトバンクインダス川の東側にはタール砂漠が広がり、インダス川やタール砂漠の西側には全長450㎞、最高頂3,487mのスライマン山脈が連なります。ヒマラヤ山脈やヒンドゥ・クシュなど高い山脈が近隣にあるため低く感じますが、日本最高峰の富士山より約300m程度低い山ということでそれなりの高さなのが分かります。
ヒマラヤ山脈は言わずと知れた世界最高峰のある非常に高い山。その北方のカラコラム山脈も広義の意味でヒマラヤ山脈に含まれる程なので、こちらの山脈も非常に高いです(wikiパッと見でも高さランキングトップ100の殆どがヒマラヤ山脈とカラコラム山脈です)。
地図を見て分かるように古代インドは当時の先進地域であったオリエント世界と(今はまだ記事にしていませんが)中国の間にある場所という立地条件から多種多様な文明が生まれました。
同時にインド周辺は世界でも有数の高い山や海に囲まれて攻め込まれにくく逆に攻めにくい土地でもあることからオリエント世界ほど大きな領地を得た王朝は少ないように思います(インド亜大陸自体がかなり大きな土地)。
インドの風土を見ていこう
土地
インダス文明はインダス川畔の肥沃な土壌によって育まれました。エジプトと同様に肥沃な土壌は氾濫する川が運んだものと言われており古代インドでは『氾濫農耕』が行われています。
北方にあるカラコラム山脈やヒマラヤ山脈は新期造山帯と呼ばれる地域です。比較的新しい時代(今現在も進行中で)に造山運動が活発になった地域で、風化の期間が短いため高く険しい山が続きます。
造山運動が活発な地域ということは火山岩が豊富な地域でもあります。風化して削られたり自重により崩壊した山脈の一部が近隣に流れて沖積したり、火山活動により吹き出たマグマが噴出し冷え固まった火山岩が削られるなどして土壌が作られていきました。
インドのデカン高原のあたりには玄武岩(火山岩の一つ)で構成される溶岩台地が広がっており、この玄武岩由来の土壌はレグールと呼ばれ小麦の栽培や綿花の栽培に最適です。
※同じ火山岩由来でも火山灰が混ざったり植生の違いで全く異なる土壌が出来上がります
また上の地図だと上流は3つ又(ヒンドゥスターン平野の画像だと一本)になってますが、実際には更に複数枝分かれした川がインダス川へ合流している形です。加えてガンジス川も非常に広い範囲を流れる川であることから、インダス川・ガンジス川流域に弧を描くような形の沖積平野が広がっています(=ヒンドゥスターン平野)。ヒンドゥスターン平野(wikipedelia)より
このヒンドゥスターン平野は現在世界で最も集中的に農業が行われている地域です。
インド周辺の気候
北のヒマラヤ山脈をはじめとする山岳地帯と中央部のデカン高原付近で気候は全く違いますし、タール砂漠の気候も全く異なります。山が多い上に非常に広い領域なので当然と言えば当然かもしれません。
インダス川周辺の平野部南部は一年を通じて乾燥気味の砂漠気候、平野部北部はステップ気候に属しますが、それ以外の場所では大部分が雨季と乾季のハッキリしたモンスーン気候と呼ばれる気候に属します。
南アジア文化遺産の世界 第1回―南アジア世界のひと・歴史・風土と文化遺産の現在〈いま〉
モンスーンは季節風とも呼ばれる風で、夏場には南西から、冬場には東北から風が吹き込みます。ここに山がちな地形が重なってそれぞれの気候の特徴が表れてきます。
地図を見ると理解しやすいのですが、夏場にはインドの出っ張った部分ではアラビア海からの湿った風が吹きつけます。同時に西ガーツ山脈がそびえたつので雨雲が西ガーツ山脈にぶつかって発達し山脈の西側では多くの雨が降ることに。
既に多くの雨が降った雨雲はデカン高原の辺りに到達する頃には多量の雨をもたらす程の雲ではなくなっているので、雨は降るもののそこまで多くはありません。
インド北東部は東ガーツ山脈とヒマラヤ山脈の間からインド洋・ベンガル海の水蒸気をたっぷりと含んだ雨雲が流れ込んでいるため、多雨となります。
アフリカ大陸やアラビア半島の辺りの乾燥した風が吹き込むのはタール砂漠周辺です。
乾季の風は北東から。どこも大陸の乾いた風となっているため、雨の少ない地域が殆どとなっています。
砂漠と言えば水の活用をとことん考える地域。こういった背景がエジプトやメソポタミア同様に古代文明が生まれるキッカケになったと考えられます。
作物
文明が生まれるには多くの人が必要です。多くの人を養うには食料を確保しなければなりません。インダス文明はその条件も備えています。
インダス川周辺では多くの場所で小麦が、一部水の多い場所では米も栽培されています。また、インド周辺地域は地域によって異なる気候や異なる土壌を持つために穀物以外の作物も取ることが可能です。
カルダモン丘陵では名前の由来となった香辛料カルダモン(最古のスパイスとも言われてる)やカルダモン丘陵の西端にあるニルギリ丘陵では茶葉が栽培されています。ニルギリは紅茶好きなら知ってるかもしれませんね。インドのダージリン・アッサムと並ぶほどの銘紅茶の生産地です。
また、雑穀や豆類などの油糧種子といった乾燥に強い作物もインド西部では作られていますし、インド周辺では暖かい地域も多くあるので果物も豊富に獲れます。
インド・パキスタンは17世紀以にあった貿易構造の変化や19世紀にイギリス領となった歴史的経緯や緑の革命(品種改良・化学肥料の投入など)もあって古代の農業と現代では大きく異なりますが、それでも穀物や香辛料・果物などが作れる土壌は大きく変わっていないことでしょう。
これまで学んだ範囲でも、ヨーロッパ発の文明は穀物量がネックになって...メソポタミアやイラン高原に建国された国は(砂漠と海に囲まれたエジプトや険しい山に囲まれたインド周辺と比較すると)攻め込まれやすい環境で他民族の流入が多いこともあって国を強くするために拡張路線へ移行することが結構ありましたが、インドの場合はインド亜大陸内で完結することが多いです。
世界の見方や常識が変わる15の地図。
これが本当の地球だった よりインドとヨーロッパの大きさを比較した地図を見ると御覧の通り非常に大きいので、単にインドでの文明が外へ向かわなかったのは大きさが大きさのためというのも理由になりそうですね。
今後はそんなインド周辺で起こった文明や国について書いていきます。
古代インド
インダス文明とは??
インドで最も古くに起こった文明は前2600年頃のインダス文明。今回は未だ多くの謎に包まれたままのインダス文明と次に起こったインドでの文…ABOUT ME
歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。 』 -





































『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ロシア帝国の歴史では、1721年から1917年まで存在したロシア帝国およびその統治下に入った地域の歴史について詳述する。ロシア帝国ではロシア暦(ユリウス暦)が使用されており、文中の日付はこれに従う。ロシア暦をグレゴリオ暦(新暦)に変換するには17世紀は10日、18世紀は11日、19世紀は12日そして20世紀では13日を加えるとよい[1]。なお、1917年の帝政終焉後に成立したソビエト政権はロシア暦を廃止してグレゴリオ暦に移行し、1918年1月31日の翌日を2月14日としており、これ以降の日付は新暦のみとする。
歴史
前史
ロマノフ朝以前のロシア
→詳細は「モスクワ大公国」および「ロシア・ツァーリ国」を参照
ロシア帝国の源流はモスクワ大公国にある。イヴァン3世(在位1462年 – 1505年)は1480年にジョチ・ウルスの支配(タタールのくびき)を脱し、彼とその子のヴァシーリー3世(治世1505年 – 1533年)の時代にモスクワ大公国はノヴゴロド共和国や周辺諸公国を併合して、北東ロシアの統一をほぼ完成させた[2]。イヴァン3世のとき、初めて「ツァーリ」(王)の称号が用いられた[3][n 1]。ヴァシーリー3世の没後、僅か3歳で即位したイヴァン4世(雷帝)(在位1533年 – 1584年)は1547年に正式に「全ルーシのツァーリ」として戴冠した[4]。イヴァン4世は「選抜会議」政府を組織し、「法典」の編纂、教会・修道院、行政そして軍制の改革を進め[5]、対外的にはカザン・ハン国そしてアストラハン・ハン国を征服してヴォルガ川流域を支配下に置き、シビル・ハン国を攻撃してシベリア進出への道を開いた[6]。1558年にはバルト海への出口を求めてリヴォニア騎士団領に攻め込むが、ポーランド・リトアニア、スウェーデンそしてデンマークの介入を呼び込む結果となった(リヴォニア戦争)[7]。戦争が泥沼化するとイヴァン4世は「選抜会議」政府を退け、ツァーリに忠実なオプリーチニキを用いた恐怖政治を始める[8]。大貴族を迫害するだけでなく、聖職者や庶民も犠牲となり、1570年にはノヴゴロド市民数万人が虐殺された[9]。戦争や凶作に加えて、この圧政により国土は荒廃したが、ツァーリ権力の恐怖が国民に叩き込まれることになった[10]。
ロマノフ朝の成立
→詳細は「動乱時代」および「ロマノフ朝」を参照ミハイル・ロマノフにツァーリ即位を懇願するゼムスキー・ソボル
1672年製作の木版画
1584年にイヴァン4世が死去して、フョードル1世(在位1584年 – 1598年)が即位するが、彼が跡継ぎを残さずに死去したためリューリク朝は断絶した。全国会議(ゼムスキー・ソボル)の支持を受けた外戚のボリス・ゴドゥノフが即位するが、死去したと伝えられていたイヴァン4世の子ドミトリーを名乗る男が現れ(偽ドミトリー1世)、ポーランド軍とともにロシアに侵攻した。1605年にボリス・ゴドゥノフは事態を収拾できずに死去し、偽ドミトリー1世がモスクワを占拠してツァーリに即位した。偽ドミトリー1世は1年程で殺害されるが、偽ドミトリー2世、3世が現れて内戦状態が続き、1610年にはロシア・ポーランド戦争を起こして介入したポーランド軍にモスクワを占領される事態に陥った(動乱時代)。この時期にロシアはスモレンスクを含む西部国境地帯の一部をポーランドに、バルト海沿岸のノヴゴロドをスウェーデンに奪われている[11]。ポーランドの支配に対して総主教ゲルモゲーンをはじめする抵抗運動が起こり、1612年に国民軍の攻撃によってポーランド軍は追われ、モスクワは奪回された。1613年2月、全国会議は古くからの名門貴族ロマノフ家のミハイル・ロマノフ(在位1613 – 1645年)をツァーリに選出して、ロマノフ朝が開かれた[12]。ミハイル・ロマノフの父親フィラレートが総主教に就任して実権を握り、スウェーデン、ポーランドと休戦するとともに国内治安の回復に努めた[13]。1632年、フィラレートは失地回復を目指してポーランドと開戦するが、失敗に終わった(スモレンスク戦争)[14]。戦争中にフィラレートが死去してミハイル・ロマノフの親政に入り、南方のクリミア・ハン国の侵攻に備えるべく全長800kmに及ぶペルゴロド線を構築した上で、対外戦争を控え、もっぱら国内秩序回復に努めた[15]。
アレクセイ(在位1645年 – 1676年)の即位後、程ない1648年にウクライナのザポロジェ・カザークがポーランドに対して反乱を起こして、ツァーリの庇護を求めた[16]。アレクセイはポーランドとの開戦に慎重であったが、全国会議の要請を受け、ザポロジェ・カザークとペレヤスラフ条約を結び、ポーランドとの戦争に突入する[17]。13年に渡って続いた戦争はアンドルソヴォ条約によって終結した。ロシアは動乱時代に失った西部国境地帯のみならず、ドニエプル川左岸のウクライナと右岸のキエフをも獲得した[18]。アレクセイの時代に会議法典(英語版)が定められて都市住民の統制そして農奴制が法的に完成しており、またツァーリによる専制体制化が進められ、全国会議の役割が終焉した[19]。彼の治世に総主教ニーコンの典礼改革を巡って対立が起き、正教会が分裂して古儀式派が成立している[20]。
ロシア帝国の成立(1682年 – 1725年)
ピョートル1世
→詳細は「ピョートル1世 (ロシア皇帝)」および「大北方戦争」を参照
フョードル3世(在位1676年 – 1682年)の短い治世の後、幼い彼の異母弟ピョートル1世(在位1682年 – 1725年)が即位するが、ストレリツィの蜂起 (1682年)(ロシア語版、英語版)によってピョートル1世の外戚ナルイシキン家が粛清され、イヴァン5世(在位1682年 – 1696年)との共同統治となり、姉ソフィアが摂政として実権を握った。ソフィアの摂政政府は進歩的政策を採ったが、クリミア遠征の失敗によって信望を失って失脚し、ナルイシキン家が政権に復帰した[21]。母后ナタリヤの摂政を経て、1694年にピョートル1世の親政が始まった。イヴァン5世が1696年に死去したことにより、ピョートル1世の単独統治となった。当初、ピョートル1世の軍事的努力はオスマン帝国に向けられ、1695年にアゾフ要塞を攻撃するが失敗した。翌1696年にロシア初となる本格的な海軍を編成して再度攻撃を行い、攻略に成功した[22]。その後、1697年から1698年にかけて1年以上、ヨーロッパ視察旅行(大使節団)を行い、西欧の先進技術を学んだ[23]。1698年、ストレリツィの蜂起 (1698年)(英語版)が再発。
ピョートル1世の関心は北方に向けられる。当時のロシアには白海沿岸の年間9か月も凍結するアルハンゲリスクを除いて確固とした港がなく、バルト海へのアクセスはスウェーデンによって塞がれていた[24]。「海への窓」を求めるピョートル1世はザクセン、ポーランド・リトアニアそしてデンマークとの北方同盟を結び、1700年にスウェーデンとの大北方戦争(1700年 – 1721年)に突入した。だが、開戦早々に北方同盟はカール12世率いるスウェーデン軍に敗北を重ね、デンマークは脱落し、ロシア軍はナルヴァの戦いで惨敗を喫する[25]。この後、カール12世がポーランド・リトアニアを転戦したため、ピョートル1世は軍隊を再建する余裕を得た[26]。ロシア軍はスウェーデン軍主力が不在のイングリア、エストニアそしてリヴォニアを制圧する[27]。
1707年、ポーランド・リトアニアおよびザクセンを屈服させたカール12世はロシア侵攻を開始するが、焦土戦術に苦しめられた[28]。1708年にサポロジェ・カザークのイヴァン・マゼーパがロシアから離反してカール12世と同盟するが、ロシア軍の急襲によってヘーチマン国家首都バトゥールィンを占領されてしまう[29]。1709年、ウクライナ東部のポルタヴァの戦いでスウェーデン軍は壊滅して、カール12世とマゼーパはオスマン帝国領に逃れた[30]。ピョートル1世はカール12世を追ってオスマン帝国と開戦するが、プルト川の戦いでオスマン軍に窮地に追い込まれ、プルト条約でアゾフの返還を余儀なくされている[31]。戦争はなお10年以上続くが、北方同盟の優位は揺るがず、ロシア陸軍はフィンランドを制圧、海軍はガングートの海戦で勝利してバルト海の制海権を確保した。
サンクトペテルブルクは1703年にピョートル1世によって建設され、1721年から1918年[n 2]までロシアの首都であり続けた。
1718年にカール12世がノルウェーで戦死しており、1721年に疲弊したスウェーデンが講和を乞うたことで戦争は終結した。ニスタット条約でピョートル1世はカレリア東部、イングリア、エストニア、リヴォニアを獲得し、バルト海への出口を確保した[32]。彼はこの地にモスクワに代わる新たな首都サンクトペテルブルクを建設した。大北方戦争終結時、ロシアは北方での最強国となり、ヨーロッパにおいての列強国の仲間入りを果たすこととなった。ピョートル1世は政府を近代化させ、ロシアの専制国家体制を確立した。西欧化改革を進め、キリスト紀元の採用、キリル文字の簡素化[33]さらには髭に税を課し、西欧風の服装を義務付けた[34]。行政改革として貴族議会を廃止して、9名からなる元老院に代えさせた[35]。イヴァン4世以来の官署制が廃止されて参議会(ロシア語版)制度に改められ[36]、官等表を定めて官僚制度を確立した[37]。さらに「一子相続令」を出して貴族の分割相続を禁じるとともに貴族の国家勤務を強制化した[38]。行政改革の一環として、正教会も行政機構に組み込まれ、総主教位を廃止して、官吏に指導される合議制の宗務院を置いた[39]。地方長官の腐敗による弊害が多かった地方行政の改革も着手され、行政区分を州と地区に分け、地方監察官の設置、裁判の行政の分離などが試みられたもののこれは失敗に終わっている[40]。
18世紀時点のロシアの人口の大部分が農民であり、都市人口の割合は極一部だった[41]。ホロープ(英語版)(家内奴隷、召使)は1723年まで存続しており、ピョートル1世はこの家内奴隷を農奴となして人頭税を課した[42][n 3]。
ピョートル1世の晩年に西欧化政策に反発していた皇太子アレクセイが1716年にウィーンへ亡命する事件が起きた[43]。アレクセイはロシアに連れ戻され、1718年に獄死した。皇后エカチェリーナとの子のピョートル・ペトロヴィチが後継者となったが、この子も翌年には死去している。
1721年10月22日、元老院と宗務院がピョートル1世に皇帝(インペラートル)の称号を贈り、ロシア帝国が成立した。
女帝と幼帝の時代(1725年 – 1762年)
→詳細は「エカチェリーナ1世 (ロシア皇帝)」、「ピョートル2世 (ロシア皇帝)」、「アンナ (ロシア皇帝)」、「イヴァン6世 (ロシア皇帝)」、および「エリザヴェータ (ロシア皇帝)」を参照『女帝アンナ宮廷の道化師』
Якоби, Валерий Иванович画 1872年
1725年1月28日にピョートル1世は後継者を定めずに死去した。近衛隊の支持を受けた皇后エカチェリーナがロシア史上初の女帝として即位した(エカチェリーナ1世 在位1725年 – 1727年)[44]。政治の実権は最高枢密院を牛耳るメーンシコフ将軍が掌握したが[n 4]、エカチェリーナ1世は僅か2年の在位で死去する[45]。代わってピョートル1世に廃嫡されたアレクセイの子がピョートル2世(在位1727年 – 1730年)として即位した。メーンシコフは失脚し、保守派貴族が実権を握り、首都はモスクワに戻された。ピョートル1世の地方行政改革は破棄され、西欧・北欧に倣ったその他の制度も修正を受けている[46]。だが、1730年にピョートル2世は僅か14歳で病死してしまう。
イヴァン5世の皇女でクールラント公未亡人アンナ(在位1730年 – 1740年)が大貴族たちによって推戴された。アンナは即位の条件として提示された最高枢密院に実権を委ねる誓約書にサインするが、即位後に誓約書を破り捨てて、最高枢密院を廃止してしまう[47]。高官たちはシベリア流刑になり、首都もサンクトペテルブルクに移されたが[48]、これによって皇帝専制権力が勝利した訳ではなく、女帝の貴族への依存は一層深まり、アンナは貴族が要望していた「一子相続令」の廃止を行い、貴族の勤務義務も軽減している[49]。政治に関心を持たないアンナはビロンをはじめとするバルト・ドイツ人に政治を委ねたため「ドイツ人の支配」と呼ばれ、ロシア人の歴史家からの評価は低いが、これは必ずしも客観的な見方ではない[50]。ビロンは私腹を肥やしたが、実際に統治を司ったのは有能なオステルマンであり、対オスマン戦争(1735年 – 1739年)を優勢に指導しており、内政では貴族の教育制度が整備されるとともにピョートル1世の工業化路線が踏襲され銑鉄生産は2倍に増えている[51]。その一方で、大凶作により多数農民が逃亡また餓死する事態も起こっていた[52]。
1740年10月17日にアンナは死去した。後継者に指名されていた同じイヴァン5世系のイヴァン6世(在位1740年 – 1741年)が即位するが、彼は生後2か月の赤子だった。
翌1741年に「ドイツ人の支配」が継続することへの不満から近衛隊によるクーデターが起き、イヴァン6世は廃位され、ピョートル1世の皇女エリザヴェータ(在位1741年 – 1762年)が即位した[53]。エリザヴェータはピョートル1世の統治体制への復帰を宣言したものの、やがて政治への熱意を失い寵臣に政治を委ねた[54]。彼女の治世に財政再建や産業振興そして官僚制の確立に成果があり、また農奴制が強化されている[55]。芸術、建築そして科学の分野での高揚が見られ、この時代に冬宮の建設やモスクワ大学が創立された。
ロシアはスウェーデンとのハット党戦争(1741年 – 1743年)に勝利して西カレリア全土を獲得した。オーストリア継承戦争(1740年 – 1748年)ではオーストリア側で参戦した。1756年に勃発した七年戦争(1756年 – 1763年)ではロシア軍は1760年にベルリンを占領し、プロイセン王フリードリヒ2世を破滅寸前に追い込んでいる[56]。
啓蒙専制主義と領土の拡大(1761年 – 1796年)
エカチェリーナ2世
→詳細は「ピョートル3世 (ロシア皇帝)」、「エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)」、および「ポーランド分割」を参照
1761年12月25日にエリザヴェータが死去すると後継者に指名されていた甥のピョートル3世(在位1761年 – 1762年)が即位した。ピョートル3世は貴族の支持を得るために国家勤務義務を廃止したが[57]、プロイセン王フリードリヒ2世を崇拝する彼は優勢に進んでいた七年戦争から離脱してプロイセンと講和を結び(サンクトペテルブルク条約)、また正教会を圧迫したことで人々の反感を受けた[58][n 5]。即位から僅か半年でクーデター(ロシア語版)が起き、ピョートル3世は廃位され、近衛隊や正教会の支持を受けた皇后エカチェリーナが皇帝に即位した[59][n 6]。皇帝に即位したエカチェリーナ2世(在位1762年 – 1796年)はドイツのアンハルト=ツェルプスト侯爵(英語版)家に生まれ、ロシア人の血を一滴もひかない女性だった[60]。
学識が深く啓蒙君主を自任するエカチェリーナ2世は1766年に各身分の代表からなる新法典編纂委員会を組織させ、モンテスキューの『法の精神』やベッカリーアの『犯罪と刑罰』など西欧の啓蒙思想を盛り込んだ急進的な「訓令(英語版、ロシア語版)」(ナカース)を発するが、結局、成果を上げることはできなかった[61]。エカチェリーナ2世は自由経済の促進、宗教的寛容、教育・医療施設の建設、出版文芸の振興と云った啓蒙思想に基づいた近代化諸政策に着手したがいずれも中途半端に終わっている[62]。
エカチェリーナ2世は「訓令」で農奴制の緩和に言及していたが、実際には貴族の要求に応えて農奴制をいっそう強化させていた[63]。このような農奴制の強化を社会的背景として、1773年にプガチョフの乱が勃発した[64]。ピョートル3世を僭称するカザークのプガチョフは貴族の根絶を唱えてヤイク(ウラル地方)で反乱を起こした。カザークだけでなくバシキール人、カルムイク人そして不満を持った農民が参加して急速に数を増した[65]。反乱軍はモスクワを脅かす程の勢力になったが、政府軍によって鎮圧されている[66]。だが、革命の亡霊は彼女と後継者たちを脅かし続けることになる。
芸術アカデミー創立式のエカチェリーナ2世
Valery Jacobi画 1889年
反乱の拡大は地方行政府の弱体にあると判断したエカチェリーナ2世は地方行政改革に着手し、「県行政令」を発布して貴族に地方行政を委ねただけでなく[67]、エカチェリーナ2世は権力基盤である貴族の支持を確固としたものにするため、貴族に諸特権を与えた認可状を出して、広大な国有地を下賜している[68]。この結果、多数の国有地農民が貴族の農奴となり、農奴制がさらに強化される事態となった[69]。対外的には1768年にオスマン帝国と開戦して勝利し、1774年に締結されたキュチュク・カイナルジ条約で黒海北岸部を割譲させ、またクリミア・ハン国をオスマン帝国の宗主権下から離脱させた(第一次露土戦争)[70]。クリミア・ハン国は1783年にロシアに併合されている。併合した領土は「ノヴォロシア」(新ロシア)と呼ばれた。クリミア半島経営にはエカチェリーナ2世の寵臣であるポチョムキン将軍があたり、開拓と黒海艦隊建設が進められた[71]。オスマン帝国とは1787年に再度開戦するが、イギリス・プロイセンがオスマン帝国を支援しており、さらにスウェーデンも参戦してロシアは二正面作戦を強いられた(第二次露土戦争、第一次ロシア・スウェーデン戦争)[72]。スウェーデンとは以後内政に干渉しないことを条件に講和を成立させ、オスマン帝国とは1791年にヤッシーの講和を結びオデッサを含む黒海沿岸地域を獲得した[73]。
また、保護国化が進んでいたポーランド・リトアニアには、即位の翌年に愛人のスタニスワフ・ポニャトフスキをポーランド国王に擁立するがポニャトフスキは国政改革に着手したため、エカチェリーナ2世を苛立たせた[74]。このため、エカチェリーナ2世はポニャトフスキに圧力をかけるとともに保守派への支援を含め、ポーランド・リトアニアへの政治的支配を強めていった[75]。その後、エカチェリーナ2世はオーストリア、プロイセンと共謀して1772年、1793年そして1795年に3度に渡ってポーランド・リトアニアを分割しており、ロシアの領土を西方に広げへて中欧に進出する[76]。
啓蒙君主として知られるエカチェリーナ2世だが、1789年にフランス革命が勃発すると強い衝撃を受けて反動政策に転じ、自由主義思想を弾圧した[77]。農奴制を批判した思想家ラジーシチェフはシベリア流刑に処されている[78]。
1796年11月6日にエカチェリーナ2世が死去した時、彼女の拡張主義政策により、ロシアはヨーロッパ列強に加わっていた。
ナポレオン戦争からウィーン体制へ(1796年 – 1825年)
→詳細は「パーヴェル1世 (ロシア皇帝)」、「アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)」、および「1812年ロシア戦役」を参照アレクサンドル1世
Stepan Semyonovich Shchukin画。19世紀
エカチェリーナ2世は皇太子パーヴェルと不仲であり、彼を廃嫡して孫のアレクサンドルを後継者とすべく準備を進めていたとまで伝えられるが[79]、エカチェリーナ2世の急死により、パーヴェル1世(在位1796年 – 1801年)が即位した[80]。パーヴェル1世は帝位継承法を定めて以後の女帝の可能性を封じ、母エカチェリーナ2世の政治を否定する政策を行った[81]。ラジーシチェフら先帝によって処罰されていた思想家を赦免する一方で、皇帝自身は革命思想を嫌悪しており、過度な思想弾圧を行っている[82]。パーヴェル1世の統治は専横な振る舞いが目立ち、さらに先帝が与えた貴族の諸特権を廃止したため不満を受けた[83]。対外政策では当初は列強諸国とともに反仏政策を取ったが、イギリスと対立を起こすとナポレオンに接近してインド遠征を計画するなど首尾一貫しなかった[84]。1801年3月23日にパーヴェル1世の政策に反発した勢力がクーデターを起こし、皇帝は宮殿内で殺害された[85](パーヴェル1世暗殺事件(ロシア語版))。この事件がロシア帝国での最後の宮廷クーデターとなった[86]。
皇太子がアレクサンドル1世(在位1801年 – 1825年)として即位した。祖母エカチェリーナ2世の方針により啓蒙思想教育を受けたアレクサンドル1世は自由主義に同情的であり[87]、即位すると「若き友人たち」と呼ばれる進歩的な青年貴族を中心とする秘密委員会を組織した。立憲君主制の導入や土地改革と農奴解放、教育制度の改革といった斬新な改革案が議論されたが、参議会制から省庁制への移行、国民啓蒙省の設置そして不徹底な農奴解放などを除きほとんどは議論のままで終わっている[88]。スペランスキーを起用して大胆な国政改革も試みられたが、保守的な貴族の反発を受けて挫折した[89]。
対外的には先帝の中立路線を放棄してイギリス、オーストリアと第三次対仏大同盟を組みナポレオンと対決したが、1805年のアウステルリッツの戦い(三帝会戦)で惨敗を喫した。オーストリアがフランスに屈服して同盟は瓦解した。翌1806年にプロイセンを加えた第四次対仏大同盟を結んで再度ナポレオンと対戦するが、1807年のアイラウの戦いそしてフリートラントの戦いでロシア軍は敗れ、ティルジットの和約を締結する。この講和により、ロシアはナポレオンの大陸封鎖令に参加してイギリスと開戦し、また旧プロイセン領ポーランドの地にワルシャワ公国が建国された[90]。
1808年にイギリスと同盟を結ぶスウェーデンと開戦して勝利し、翌1809年のフレデリクスハムンの和約でフィンランドとオーランド諸島を併合した(第二次ロシア・スウェーデン戦争)[91]。1812年にオスマン帝国からモルダヴィア公国東部とオスマン領ベッサラビアを獲得し(全体をベッサラビアと呼称)、1813年にはペルシアとの戦争にも勝利してグルジア[92]、アゼルバイジャンを併合している(ロシア・ペルシャ戦争 (1804年-1813年))[90]。
ナポレオンのモスクワ撤退
Adolph Northen画
大陸封鎖令の実施を巡ってロシアとフランスの対立が高まり、1812年6月にナポレオンは約60万人の大兵力を率いてロシアに侵攻した(第一次大祖国戦争)[93]。ロシア軍は決戦を避けて焦土作戦を行いつつ後退した[94]。9月にクトゥーゾフ将軍のロシア軍がボロジノの戦いでナポレオンの大陸軍と対戦するが、両軍とも甚大な犠牲を出して、ロシア軍は整然と後退した[95]。大陸軍はモスクワを占領するが、直後に大火(英語版)が起きて町は廃墟と化しており、アレクサンドル1世はナポレオンからの和平交渉に応じようとはしなかった[96]。ナポレオンはモスクワを放棄して撤退を開始するが、冬季の退却戦で大損害を出して大陸軍は壊滅状態となり、ロシア遠征はナポレオンにとって破滅的な大敗で終わった[97]。ロシア軍は敗走するナポレオン軍を追撃して中欧そして西欧にまで進軍し、パリの城門にまで至った。ロシア軍をはじめとする連合軍がナポレオンを撃破した後、アレクサンドル1世は「ヨーロッパの救済者」として知られるようになり、彼はウィーン会議でのヨーロッパの枠組み変更を主宰し、ワルシャワ公国の大部分を獲得してポーランド立憲王国の君主となった[98]。
ナポレオン戦争後、アレクサンドル1世は自由主義的政治思想を捨てて強く反動に傾き、国際的にはキリスト教倫理に基づきウィーン体制を守護する神聖同盟を主唱した[99]。国内的にはアラクチェーエフを重用して反動政治を展開させており、国内政策のうちアレクサンドル1世の発案に基づきアラクチェーエフが実施した屯田制度(英語版)は無残な失敗に終わり、農民の怨嗟を受ける結果となった[100]。晩年のアレクサンドル1世は政治に無関心になり始め、神秘主義に傾倒しており、1825年の南ロシア視察中に不可解な死を遂げている[101]。
ナポレオンに対する勝利により、ロシア帝国は19世紀における主導的な国際政治上の地位を占めたものの、農奴制を維持し続けたことにより経済的な発展が阻害されていた[102]。18世紀後半に始まった産業革命によって西欧諸国の経済成長が加速されていた一方で、ロシア経済は大きく立ち遅れており、列強国ロシアにとって新たな問題となった。政府の不効率、国民の阻害そして経済的後進性は列強国としてのロシアの地位によって覆い隠されていた。
反動の時代(1825年 – 1855年)
デカブリストの乱
Karl Kolman画 1830年代
→詳細は「ニコライ1世 (ロシア皇帝)」、「デカブリストの乱」、「東方問題」、および「クリミア戦争」を参照
1825年11月19日に急死したアレクサンドル1世には跡継ぎの男子がなく、皇位の継承に空白が生じ、弟のニコライ1世(在位1825年 – 1855年)が即位するまでに3週間を要した[n 7]。この混乱に乗じる形で12月14日に自由主義貴族や士官たちが決起した(デカブリストの乱)。専制政治の打倒と農奴制の廃止を主張する、この反乱の背景はナポレオン戦争に遡り、戦争の際に多数の教育を受けたロシア軍士官が従軍しており、西欧の自由主義思想に接した彼らは国内で秘密結社を組織して専制体制の祖国の改革を模索するようになった[103]。将校たちは皇帝への宣誓を拒否し、約3000人の反乱軍が憲法制定を要求して元老院広場に集結した[104]。準備不足のまま決起した反乱は容易く鎮圧され、首謀者たちは絞首刑またはシベリア流刑となった[105]。だが、反乱に対する政府の苛酷な報復によって、逆にデカブリストに対する知識人たちの共感が集まり、彼らはロシアにおける革命運動の最初の殉教者と見なされるようになった[106]。
ニコライ1世は革命から専制体制を守るために「正教、専制、国民性(英語版)」(Православие, Самодержавие, Народность)のドクトリンを標榜して警察国家体制の構築を図った[107]。更なる反乱を阻止すべく、ニコライ1世は革命予防措置を目的とする「皇帝官房第三部」と呼ばれる政治秘密警察を設け、スパイが各地に配置された[108]。検閲法が定められて思想弾圧が行われ、さらに弾圧は教育は学問にも伸び、庶民の高等教育への道が閉ざされた[109]。
ニコライ1世
Владимир Сверчков画1856年
法体系の不備に不満を持ったニコライ1世は左遷されていたスペランスキーを再起用して法令の集成にあたらせ、1830年に「ロシア帝国法律大全」を編纂させ、1833年には「ロシア帝国法典」を発布した[110]。これによって官僚制の発展・整備が促された一方で、軍人出身のニコライ1世の武官重視の姿勢によって「行政の軍事化」の傾向が現れるようにもなっている[111]。この時代、ロシアでは農民暴動が増加しており、ニコライ1世は革命予防のために現行の農奴制を維持しつつ、農奴の状態を改善しようと試みたが、効果を上げることはできなかった[112]。
ニコライ1世の外交的課題はオスマン帝国の衰退による東方問題であった。ロシアはオスマン帝国宗主権下にあるモルダヴィア公国とワラキア公国のドナウ二公国に対する影響力を強めており、1821年にはロシアの支援を期待したウラジミレスクがワラキア蜂起を起こしている[113]。蜂起は失敗したが、オスマン帝国によって任命されたギリシャ人(ファナリオティス)による支配体制に終止符が打たれ、ロシアとオスマン帝国とのアッケルマン条約(1826年)により地元出身の公の選出と両国による共同統治体制が確立する[114]。
ギリシャ独立運動を支援すべく、1827年にロシア海軍は英仏と連合艦隊を組み、オスマン=エジプト連合艦隊をナヴァリノの海戦で殲滅した。翌1828年に露土戦争(1828年 – 1829年)を引き起こした。戦争に勝利したロシアはアドリアノープル条約によってドナウ河口、カフカース地方の黒海沿岸部を獲得し、ギリシャの独立[n 8]、モルダヴィア、ワラキアそしてセルビアの自治を承認させた[115]。ドナウ二公国の宗主権はオスマン帝国に残されたものの、二公国はロシアの保護国となり、クリミア戦争(1853年 – 1856年)まで続くことになる[114]。
セヴァストポリ包囲戦
Franz Roubaud画
ロシアの統治下にある旧ポーランド・リトアニア共和国地域では1830年に反乱が起き、ポーランド国会がニコライ1世の廃位を宣言する事態になったが、ニコライ1世は大軍を派遣してこれを鎮圧した。ポーランドの憲法と国会は廃止され、皇帝が任命する総督が置かれた(11月蜂起)[116]。ヨーロッパで1848年革命が起こった際にも、ニコライ1世は積極的な軍事介入を行い、コシュート・ラヨシュのハンガリー革命軍を粉砕している[117]。ロシアの保護国であったドナウ二公国でも自由主義的要求と二公国統一を求める運動が起こったが、オスマン軍と共同で鎮圧している[118]。反革命外交政策を取るニコライ1世は「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれた[119]。ロシアは東方問題を巡ってイギリス、フランスとの不和が生じており、エルサレムにおける正教会の聖地管理権問題を契機に1853年にオスマン帝国と開戦したが、英仏の介入を招く結果となった(クリミア戦争)[120]。英仏連合軍はクリミア半島に上陸して、セヴァストポリ攻略を目指した。1855年3月2日、ロシア軍の苦戦が続く中、ニコライ1世は心労と肺炎により死去した[121]。
19世紀前半のロシアでは、ロシアの後進性を痛烈に批判したチャーダーエフの『哲学書簡』(1830年)に端を発して、インテリゲンチャ(知識階級)の間で西欧派とスラヴ派との論争が起こった[122]。ホミャコーフを代表的思想家とするスラヴ派は西欧を「堕落したもの」と認識してピョートル1世以前の伝統への回帰を唱え、西欧の個人主義に対比する、ロシアの伝統的な農村共同体(ミール)の集産主義を称揚した[123]。これに対して、ベリンスキーをはじめとする西欧派はスラヴ派の主張を無知と空想の産物に過ぎないと否定し、ロシアの後進性を批判した[124]。
大改革と革命の胎動(1855年 – 1881年)
アレクサンドル2世
1878年頃撮影
→詳細は「アレクサンドル2世 (ロシア皇帝)」、「露土戦争 (1877年-1878年)」、および「ナロードニキ」を参照
1855年3月2日にアレクサンドル2世(在位1855年 – 1881年)が即位した。クリミア戦争の戦況は好転せず、セヴァストポリは1年近くの包囲戦の末、8月に陥落した。ロシアの継戦能力は尽き、翌1856年3月に黒海の艦隊保有禁止、ボスポラス・ダーダネルス海峡の軍艦通行禁止、ベッサラビア南部の割譲といった屈辱的な内容のパリ条約が締結されて戦争は終わった[125]。ナポレオン打倒に主要な役割を果たして以来、ロシアはヨーロッパ最強の陸軍大国と見なされてきたが、近代化された英仏軍に敗れたことにより、その自尊心は大きな打撃を受けることになった[126]。貴族領主に人格的に隷属させられた農奴は全農民の半数近い約2300万人が存在しており、敗戦を契機に諸悪の根源と見なされた農奴制への非難が強まった[127]。後に「解放皇帝」と呼ばれるアレクサンドル2世本人は保守的な考えの人物であったが[128]、改革の必要に迫られ、進歩的官僚を登用して改革に取り組むことになった[129]。アレクサンドル2世は戦争終結の詔勅で改革の意向を明らかにし、さらに貴族団の前で懸案であった農奴解放についての演説を行い「下からよりは、上からこれを行うべきである」と宣言する[130]。
1861年勅令を読む農奴たち
Grigoriy Myasoyedov画 1873年
1861年2月19日(3月5日)に農奴解放令が公布され、農奴には人格的な自由と土地が与えられた[131]。しかしながら、土地が無償分与された訳ではなく、政府が領主に対して寛大な価格で買戻金を支払うことになり、解放された農奴は国家に対してこの負債を支払わねばならなかった[132][n 9]。また、土地の1/3程度が領主の保留地となり、多くの場合、元農奴は耕作地が狭められた上にやせた土地が割り当てられた[133][134]。大概の分与地は農村共同体(ミール)によって集団的に所有されて農民への割り当てと様々な財産の監督が行われ、元農奴は領主に代わって農村共同体に自由を束縛されることになった[135]。農奴制は廃止されたものの、解放から暫くの間、農民の生活は一層苦しくなり、農奴解放令の内容に不満を持った農民の暴動が各地で引き起こされる結果となった[136]。農奴解放によって都市労働者(プロレタリアート)が供給され、工業が活性化し、ブルジョワジー階級が増加してロシアの資本主義経済が加速された[137]。だが、革命家たちは、解放された農奴たちは単に産業革命を始めるための賃金奴隷(en:wage slavery)にされ、ブルジョワジーが領主にとって代わっただけであると信じた。アレクサンドル2世の思惑と異なり、農奴解放令によって逆に社会矛盾が激化することになり、革命の緊張は緩和されなかった[134][138]。
アレクサンドル2世はヨーロッパ・ロシア34県とこれに属する郡に代議制議会を持つゼムストヴォ(地方自治機関)を設置する地方行政改革を行い[139]、さらに司法改革[140]、教育改革[141]そして軍制改革[142]をも実施しており、農奴解放を含めたこれら一連の改革は「大改革」(Великая реформа)と呼ばれる[143]。
ポーランドでも農奴制が問題になっており、農奴解放令が出された1861年に急進派のデモ隊と総督府の兵が衝突する事件が起き、これを契機に緊張が高まり、1863年1月に武装反乱が起こった(1月蜂起)[144]。反乱軍はロシアの革命派との連帯を期待したが、ロシア人の支持は得られず[n 10]、1864年4月に鎮圧され、ポーランドはロシアの直接統治とされた[145]。反乱鎮圧後にポーランドでも農奴解放が実施された。ロシアと違って土地は無償分与され、政府はポーランドのロシア化を推進したが、逆にポーランド人の民族意識を高める結果となった[146]。
このポーランドの反乱と1866年に起こった皇帝暗殺未遂事件(カラコーゾフ事件(英語版))[147]の頃から、アレクサンドル2世は反動政策に転じた[148]。
対外政策では、イギリスそしてフランスと対抗すべくプロイセン(1871年にドイツ帝国)と接近し、1871年にドイツ宰相ビスマルクとの連携により、クリミア戦争の結果、課せられた黒海における軍備制限の撤廃に成功した[149]。1873年にはドイツ、オーストリアとの三帝同盟が成立する[150]。
ロシアは1867年にロシア領アラスカをアメリカ合衆国に売却したが(アラスカ購入)、その一方で中央アジアのコーカンド・ハン国(1868 年)、ブハラ・アミール国(1868年)そしてヒヴァ・ハン国(1873年)を保護国化しており、1879年から1881年にかけてトルクメニスタンを征服した[151]。東アジアでは1858年に清とアイグン条約を結んでアムール川左岸の領有を確定させ、1860年には北京条約で沿海州をロシア領とした[152]。
1870年代にロシアとオスマン帝国は再び衝突した。16世紀以来、オスマン帝国に支配されてきたセルビア人やブルガリア人をはじめとする様々なスラヴ系諸民族が1875年から1877年に次々と反乱を起こし、バルカン危機が激化していた[150]。この時期、ロシアではスラヴ派の流れを汲む汎スラヴ主義が盛んになっており、バルカン半島のスラヴ民族の解放が主張された[153]。1874年にロシアはオスマン帝国との戦争に踏み切った(露土戦争:1877年 – 1878年)。1年程の戦闘でロシア軍はイスタンブール[154]に迫り、1878年3月にオスマン帝国はサン・ステファノ条約の受諾を余儀なくされた[155]。この条約によってセルビア、モンテネグロそしてルーマニアの独立が承認され、さらにバルカン半島南西部に広がる大ブルガリアが建国された[156]。
だが、サン・ステファノ条約に対して危機感を持ったイギリスが開戦をも辞さぬ構えを示したため、ロシアは妥協を余儀なくされた[157]。ドイツ宰相ビスマルクの提唱により開催されたベルリン会議において結ばれたベルリン条約で、列強国によるバルカン半島の分割と国境線の改定が行われ、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴビナの占領権、イギリスはキプロスを獲得しており、ロシアもベッサラビア南部の回復とアルメニアの一部を獲得したが、オスマン帝国の内の自治公国としてのより小さなブルガリアの建国に同意させられた[158]。この結果はロシア人にとって不満なものであり、バルカン問題で利害対立するオーストリアそして会議を主催したドイツに対する遺恨が残されることになった[159]。また、三帝同盟も事実上解消した[160]。
アレクサンドル2世暗殺
作者不明 1881年以降
この時代、これまで貴族中心だったインテリゲンチャの世界に変化が生じ、聖職者や下級官吏、商人など様々な階層の知識人が現れるようになった(ラズノチンツィ:雑階級人)[161]。1860年代のインテリゲンチャの特徴は既存の価値観や権威を否定するニヒリズムである[162]。主な思想家には西欧のそれとは異なるロシア独自の社会主義を提唱したゲルツェン[163]とチェルヌイシェフスキー[164]、無政府主義を主張してヨーロッパの革命運動で活躍したバクーニン[165]がいる。やがて、専制政治の打倒を標榜する革命的な傾向がより強まり、ロシアの農村共同体を基盤とした資本主義を経ない社会主義社会の実現を目指すナロードニキ(人民主義者)が現れる[166][167]。彼らは政府の弾圧を受けながら労働者への宣伝活動を続け、そして、バクーニンの影響を受けた革命家たちが「人民の中へ」(ヴ・ナロード:в народ)を標語に農民への宣伝活動を広げた[168]。1874年は「狂った夏」と呼ばれ、数千の男女が農村に入り、農民に対する革命宣伝を試みている[169][170]。だが、農民は彼らを理解せず、この運動は失敗に終わり、多数の運動家が逮捕される結果に終わった[170][171]。
この後、ナロードニキの一部は「土地と自由」を結成して運動を継続するが、彼らの革命運動は過激化し、官吏を狙った暗殺事件が相次ぎ、1879年にはアレクサンドル2世も標的となった[172]。政府の弾圧により多数の活動家が逮捕され、またテロリズム路線の是非を巡って「土地と自由」も「人民の意志」派と「土地総割替」派とに分裂した[167][173]。1881年2月には冬宮にダイナマイトを仕掛けられる事件が起き[174]、そして、3月1日、テロによる政治革命を標榜する「人民の意志」派がアレクサンドル2世に対する爆弾テロを成功させた[175](アレクサンドル2世暗殺事件 (1881年))。
「上からの工業化」による資本主義経済の発展(1881年 – 1894年)
アレクサンドル3世
1894年以前撮影
→詳細は「アレクサンドル3世 (ロシア皇帝)」を参照
アレクサンドル2世が暗殺されたことにより帝位を継承したアレクサンドル3世(在位1881年 – 1894年)は皇位継承宣言で父の死を悲しみ、専制権力を強固とすることを宣言した[176]。アレクサンドル3世は極度に反動的な思想の教育係ポベドノスツェフ(後に宗務院総監を務める)の影響を強く受けており、彼は教え子に対して言論と出版の自由の危険性や立憲制そして議会制への嫌悪を教え込んだ[177]。アレクサンドル3世は治安維持を目的とした「臨時措置法」を公布して革命運動への弾圧を強め、教育と出版の分野でも規制を厳正化させた[178]。取締りによって人民の意志派をはじめとする国内の革命運動は壊滅状態になり、革命的知識人にも分裂や転向が起こっている[179]。この一方で、治安回復のための「愛民政策」が行われ、貴族階級には金融面での優遇措置を取り、地方行政での貴族の権力を強化させた[180]。農民には人頭税の廃止と農奴解放に伴う償却金支払い軽減および共同体保護策、労働者にも労働条件の改善施策がとられた[181]。
少数民族に対してロシア語と正教を強制するロシア化政策を推進させ、ポーランドやバルト、ウクライナ、カフカースではロシア語の使用が義務付けられた[182]。宗教面ではポベドノスツェフの指導の元で古儀式派に対する弾圧政策が取られており[183]、プロテスタントとカトリック、アルメニア教会には規制が強められ、中央アジアのタタール人は正教への改宗が半ば強制された[182]。また、ユダヤ人に対する迫害が激化し、1881年には大規模なポグロム(ユダヤ人虐殺)が発生している[184]。
アムール鉄道(英語版)建設に従事する囚人。鉄道部門はロシアの工業化で指導的役割を果たした[185]。
1908年から1913年撮影
政治面での反動化が進められる一方で、この時代にロシア経済は目覚ましい発展を遂げた。1861年の農奴解放以降、混乱のために工業の発展は一時的に停滞したが[186]、1870年代に入ると繊維工業をはじめとする軽工業部門が成長した[187]。軽工業が成長した経緯とは、おおよそ次のようなものである。南北戦争のときロシアは戦地アメリカから綿花を輸入できなくなっていた。そこでロシアは綿花地帯の中央アジアへ南下しつつ、ロシア領アメリカ(アラスカ)をアメリカに売却し米国綿アップランド種(Gossypium hirsutum)を輸入するきっかけをつくった。1873年ヒヴァ・ハン国を保護国としたが、中央アジアの産する綿花はコッカリル(John Cockerill)製などの西洋式紡績機械に適合しなかった。1883年、アップランドを中央アジアへ移植することに成功、以後ブハラ・フェルガナ・サマルカンドでも移植を進めた。1890年代には重工業部門でも産業革命が起こった[188]。ロシアの経済政策を主導したのがヴィッテである。1892年に大蔵大臣に就任したヴィッテは酒類専売制、間接税の引き上げ、国債の発行による国庫収入の安定化や保護関税による産業の育成、金本位制の確立を行い、さらに外国資本を導入してシベリア鉄道の敷設、および南部に新興工業地帯を建設させた[189]。
1890年代にロシアの工業は年平均8%の成長を示しており、鉄道は総延長距離22,400㎞(1881年)から53,200km(1900年)に拡大、石炭の産出量は1860年の50倍に増加、バクー油田は世界の産油量の半分を占めるようになった[190]。しかしながら、労働者の労働条件は劣悪であり、労働争議が頻発している[191]。工業化の犠牲となったのが依然として人口の圧倒的多数を占める農民で、政府は農民に重税を課し、そのうえ外貨獲得のために穀物輸出を推進して飢餓輸出まで行われた[192]。
外交面では、アレクサンドル2世の治世末期にドイツ、オーストリアとの関係は険悪化していたが、アレクサンドル3世は即位直後に三帝同盟を復活させている[193]。だが、バルカン問題を巡るロシアとオーストリアの対立はいっそう深刻化しており、アレクサンドル3世は1887年に三帝同盟の更新拒否を決めた[194]。フランスとの二正面対立を回避したいビスマルクの努力により、独露再保障条約が締結されるが、1890年にビスマルクを解任したドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は条約の非更新を決意し、ロシアと独墺の離反は決定的となった[195]。このため、ロシアはフランスと接近するようになり、1894年に露仏同盟が結ばれた[196]。
専制体制の動揺(1894年 – 1905年)
→詳細は「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」、「日露戦争」、「ロシア第一革命」、および「露清銀行」を参照ニコライ2世
1894年10月20日にアレクサンドル3世が死去し、ニコライ2世(在位1894年 – 1917年)が即位した。ニコライ2世は引き続きヴィッテを重用した。ヴィッテは農村共同体を解体して市場経済を導入することにより農民の自主性を促す農業改革を構想するが、貴族層の強い抵抗を受けて頓挫しており、1903年に解任された[197]。20世紀に入ると、再び農民暴動が増加し始め、さらに1900年から1903年にかけて恐慌も起った。労働運動と学生運動が活発化するようになり、1880年代以降なりを潜めていた要人暗殺テロも発生した[198]。自由主義者たちはアレクサンドル2世の大改革の際に設置されたゼムストヴォ(地方自治機関)を中心に地方代表の中央政治機関への政治参加を求める運動を続け、1904年のゼムストヴォ大会で立憲制を要求するまでになった[199]。一方、ナロードニキ運動の流れをくむ社会主義者たちは社会革命党(エスエル)を結成し、全ての土地を実際に働く者たち、すなわち農民に分配する「土地社会化」を主張した[200]。
ロシアにおけるマルクス主義の受容はナロードニキ運動と決別したプレハーノフに始まる[201]。マルクス主義者たちは革命は農民ではなく都市労働者に依拠すると唱え[202]、1880年代後半から1890年代にかけて各地に「闘争同盟」が組織された[203]。1898年にミンスクで社会民主労働党創立大会(英語版)が開かれたが、直後に当局の弾圧を受けて壊滅状態に陥った[204]。レーニンが党再建のイニシアチブをとり、1903年にブリュッセルで第2回党大会(英語版)を行うが、ここで社会民主労働党は漸進主義的なメンシェヴィキ(少数派)とより急進的なボリシェヴィキ(多数派)に分裂する[205]。マルトフ、プレハーノフらのメンシェヴィキはロシアの労働者階級は未だ発展途上にあり、社会主義は資本主義を経た後に実現すると信じており、このため、彼らはブルジョワ的自由主義勢力と協調する傾向があった[206]。レーニン率いるボリシェヴィキは党の規律を強固なものにするために職業革命家による少数のエリートからなる指導部を形成して、権力を掌握するためにプロレタリアート階級の前衛として行動することを主張した[207][n 11]。
対外的にはロシアは東アジアへの進出を強めている。日清戦争(1894年 – 1895年)に勝利した日本に対して、1895年にフランス、ドイツとともに三国干渉を行って遼東半島の割譲を放棄させ、1898年にロシアが旅順、大連を清から租借し、旅順要塞を建設して太平洋艦隊の拠点とした[208]。1900年に義和団事件が起こるとロシアは大軍を送り込み、満州を軍事占領した[209]。
奉天会戦に敗れ退却するロシア軍
1905年撮影十月詔書を歓迎する民衆
イリヤ・レーピン画 1911年
朝鮮半島の権益を巡ってロシアと日本は対立した。日本は三国干渉以来、ロシアを仮想敵国として軍備を増強しており、1902年にロシアの南下を警戒するイギリスと同盟を結びロシアとの対抗を企図した(日英同盟)[210]。ロシアは日本からの満州撤兵要求を強硬に拒否して日露交渉は決裂、1904年1月27日(新暦2月8日)に日露戦争(1904年 – 1905年)が勃発した[211]。また、1905年8月22日に朝鮮国王高宗は、ニコライ2世に送った親書で、日本に文字を教え、風習も伝えたことを明示したうえで、「2000万の国民が涙を流している。さらに鶏や犬さえ鳴けぬほどに生きられない」「日本が我が国の主権を侵奪しようとする陰謀を企てられないように公使をはやく再び派遣するよう涙で訴える」として、日本が違法侵略をしたと告発している[212]。大韓帝国は4000年の歴史を持つ独立国家である一方、日本は1200~1300年代に入ってやっと国家を樹立した。日本のさまざまな風習は朕の国から由来し、文字も朕の国民が教えた。日本人たちは自分たちの先祖のように朕の国を尊敬し、朕の国とあえて敵対的関係を結ぶ考えもできなかった。…日本はあくらつで、ものものしく朕の国の主権を掌握している。現在の韓国がこうも悲しい情況に処した原因は、国家が虚弱で防衛もできず、権利を守ることができなかったためだ。そうだったとしても私たちは数回にわたり独立国家であることを宣言した。今、日本は確かに朕の国に君臨して独立を抹殺させようとしているが、違法である[212]。
ロシアは陸海軍ともに日本を凌駕する兵力を有していたが、この戦争はロシア人の多くにとって関心の薄い「人気のない戦争」でもあり士気も上がらなかった[211][213]。ロシア陸軍は日本陸軍の攻勢に押されて後退を繰り返しており、太平洋艦隊の主力(旅順艦隊)は日本の連合艦隊によって旅順に封じ込められてしまう。1904年12月(新暦1905年1月)に旅順要塞が陥落して旅順艦隊は壊滅した。1905年2月(新暦3月)には陸上における決戦となった奉天会戦でもロシア軍は敗れて更なる後退を余儀なくされた。そして、5月に日本海海戦でバルチック艦隊がほぼ全滅する惨敗を喫する[214]。この時点で日本はほぼ国力を使い果たし、ロシアも国内の動揺によって戦争継続が困難になっていた[215]。日露戦争の敗勢はツァーリ体制にとって大きな打撃となり、反乱の可能性が増大した。1905年1月9日、皇帝への請願の為にサンクトペテルブルクの冬宮に向かっていたガポン神父に率いられた群衆に対してカザーク兵が発砲して多数の犠牲者を出す、血の日曜日事件が起こった[216]。この虐殺にロシアの大衆は激昂し、抗議のゼネストが全国に広がった[217]。
これが1905年革命(第一革命)の始まりとなった。1月に皇帝の叔父でモスクワ総督のセルゲイ大公が暗殺され[218]、6月には黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで反乱が起こる[219]。各都市に社会主義者たちが指導するソビエト(労働者評議会)が現れ[220]、自由主義者たちも立憲政治を要求する運動を広げた[221]。8月に政府は審議権のみを有する国会(ドゥーマ)の創設を含む改革案を発表して事態の鎮静化を図るが、国民は納得せず、ゼネストが拡大してロシアは麻痺化し、政府は絶望的状態になった[222]。
ニコライ2世はヴィッテを再起用して戦争終結に当たらせ、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介により、8月(新暦9月)にポーツマス条約が締結された。ロシアは賠償金の支払いは拒絶したが、朝鮮半島での日本の権益を認め、南樺太の割譲と遼東半島南部の租借権および長春 – 大連間鉄道の譲渡を余儀なくされた[223]。
ポーツマスから帰国したヴィッテは国内の事態を収拾するためニコライ2世に国民への大幅な譲歩を進言した[224]。1905年10月17日、ニコライ2世は十月詔書の発布を余儀なくされ、この詔書により、人格の不可侵、信教・言論・集会・結社の自由が認められた[225]。8月に創設が決められていたドゥーマの選挙権が拡大された上に、如何なる法律もドゥーマの承認なく施行できなくなった[225]。自由主義者はこれを歓迎したものの、社会主義者はこの妥協は不満足なものであるとして拒絶し、12月にモスクワで大規模な蜂起(英語版)を起こしたが、政府軍によって制圧された[226]。体制を立て直した政府が弾圧を強化して、事態は沈静化に向かった[227]。
「外見的立憲君主制」から帝政の終焉(1905年 – 1917年)
ニコライ2世のドゥーマ開会挨拶
1906年4月27日撮影
→詳細は「東部戦線 (第一次世界大戦)」、「ロシア革命」、および「2月革命 (1917年)」を参照
総選挙の実施を受けて、政党が結成され、主な政党には自由主義右派で政府寄りの10月17日同盟(十月党、オクチャブリスト)[228]と自由主義左派の立憲民主党(カデット)[229]がある。既に結成されていた社会主義者の社会革命党(エスエル)とボリシェヴィキは選挙のボイコットを決めており、1906年2月から3月に行われたドゥーマの総選挙では政府の選挙干渉にも関わらず立憲民主党が過半数を占めた[230][231]。一方、ニコライ2世と保守派は十月詔書での大幅な譲歩を後悔し始め、1906年4月にヴィッテを罷免した[232]。4月23日に国家基本法(憲法)が公布されたが、これは皇帝権が国会に優越する立憲君主制としては限定的なものであった[233]。4月27日に国会が開会されたが、立憲民主党が多数を占める国会が土地問題で紛糾したため、ニコライ2世は軍隊を投入してこれを強制的に解散させた(第一国会)[231][234]。ストルイピンが大臣会議議長(首相)に任命され、1907年に再び総選挙が行われたが、選挙に参加した社会革命党と社会民主労働党が躍進する、より急進的な国会となった(第二国会)[231][235]。ストルイピンはこの国会も解散させ、有権者の資格を大幅に制限した改正選挙法(6月3日クーデター(英語版))でオクチャブリストをはじめとする右派が多数を占める国会を成立させた(第三国会)[231][236]。この時期のロシアを観察したドイツの社会学者マックス・ヴェーバーはロシアの政治体制を「外見的立憲君主制」と形容している[237]。
ピョートル・ストルイピン
ストルイピンの時代には国内は騒然としており、水兵の反乱や農民暴動、そしてテロが頻発したが、彼は反政府運動を徹底的に弾圧しており、絞首台は「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれた[238]。その一方で、彼はさまざまな分野での改革に取り組んでおり、懸案であった農業改革にも着手した[239]。これはヴィッテが挫折した土地改革と目的を同じくしており、弊害が多く効率が悪い、そして革命運動の温床となっていた農村共同体を解体して富農(個人農)を育成し、農民を社会主義者から引き離させて体制の防波堤となそうとするものであった[240]。この改革は農民からの抵抗が強く、農村共同体(ミール)から離脱した農民は20%(うち半数は農地を手放して都市労働者になっている)に留まり、効果は限定的なものであり、かえって富農と貧農の対立構造を生みだしてもいる[241]。ストルイピンは強権で治安を安定させつつ社会改革を進めることを考えており[242]、この時期に農業生産が拡大し、重工業を中心としたロシア経済は活況を呈した[243]。ストルイピンは「二、三十年の内外の平静があればロシアは大きく変わる」と語っていたが[244]、1911年9月に訪問先のキエフで暗殺され、ロシア帝国自体にもその時間は与えられなかった。1914年6月15日(新暦6月28日)にオーストリア皇太子暗殺事件(サラエボ事件)が発生した。オーストリアは事件の背後にあると考えられたセルビアに対して強硬な内容の最後通牒を突きつけた。ロシアは汎スラブ主義の立場からセルビアを擁護する立場にあり、ニコライ2世は総動員令を命じる[245]。ドイツがこれに反応にして総動員令を発し、7月19日(新暦8月1日)に第一次世界大戦(1914年 – 1918年)が勃発した。開戦当初、ロシアでは愛国的熱狂が高まり、自由主義者だけでなく社会主義者の中からも戦争を支持する動きが多くみられた[246]。この一方で、ボリシェヴィキとメンシェヴィキの議員団は戦争反対を表明し、[247]、スイスに亡命していたレーニンは「戦争を内乱に転化せよ」と唱え、敗戦主義の立場をとった[248]。
パリへの電撃的進撃を続けるドイツ軍を背後から叩くべく、ロシア軍は東プロイセンへ侵攻するがタンネンベルクの戦いで包囲・殲滅されてしまう[249]。この後、ドイツ軍はロシア領内に攻め込み、ロシア軍はドイツ軍やオーストリア=ハンガリー軍、オスマン軍と攻防を繰り返した。開戦から2年間で530万人以上もの犠牲者を出しており[250]、国民や兵士の間に厭戦気分が広まった[245]。ドイツ軍がバルト海を、オスマン軍とドイツ軍が黒海を各々支配し、ロシアは国外からの支援および市場からも遮断されていた。
二月革命の発端となった女子労働者のデモ
1917年2月23日撮影
1915年中頃には戦争への意欲は失われていた。都市では食料と燃料が不足しており、インフレーションが激しくなり、各地で抗議デモやストが起こり、前線では兵士の脱走が頻発した[251]。ニコライ2世は自ら最高総司令官として戦争の指揮をとっており、内政については皇后アレクサンドラが摂政の役割を果たしていたが、皇后そして皇帝からも心酔されていた宗教家のラスプーチンの存在が醜聞化して広められ、皇帝の権威をひどく損なった[252]。ラスプーチンは1916年12月に貴族の一派によって暗殺されたが、失われた皇帝の権威を再生させることにはならなかった[253]。1917年2月23日、首都ペトログラード(1914年にサンクトペテルブルクから改名[254])で女子労働者のデモが発生し、それから1週間以内に市内のほとんどの労働者がストライキに入り、市内各所で衝突が起こった[255]。労働者たちは集会を開いて体制に対する反抗を示し、そして兵士たちは公然と労働者側に与した[256]。事態の急変を受けて国会はコノヴァロフ(英語版)そしてケレンスキーの努力によって国会臨時委員会(英語版)を組織して権力掌握に動く[257]。一方、ペトログラードの社会主義者たちは労働者および兵士を代表するソビエト(評議会)を結成し、国会臨時委員会との不安定な協調関係を構築して3月2日にリヴォフ公を首班とする臨時政府を樹立した[258]。モギリョフの総司令部にいたニコライ2世は武力鎮圧を試みるが失敗する[259]。3月2日、国会議長ロジャンコからの要請を受けたニコライ2世は退位と弟のミハイル大公への譲位を表明したが[n 12]、3月4日にミハイル大公が皇帝即位を辞退したことにより、300年続いたロマノフ朝は終焉した[260]。
後史:ソビエト連邦の成立(1917年 – 1922年)
『冬宮への突入』1920年の再現
→詳細は「十月革命」および「ロシア内戦」を参照
1917年3月2日に成立したリヴォフ公を首班とする臨時政府は官吏・将校が支持する国会臨時委員会と労働者・兵士が支持するペトログラード・ソビエト(メンシェヴィキ、社会革命党が主流[261])の二重権力状態になっていた[262]。国内では厭戦気分が広まっていたが、自由主義者を中心とした臨時政府は戦争の継続を決め、「無賠償・無併合の講和」を求めるソビエトと対立する。亡命先から帰国したレーニンは臨時政府をいっさい支持せず、ソビエト権力の樹立を目指す「四月テーゼ」を表明した[263]。臨時政府が戦争を有利に終わらせるべく始めた攻勢(ケレンスキー攻勢)は失敗し、兵士と労働者の不満が高まった[264]。7月にリヴォフ公が辞任して、ケレンスキーが首相になるが最高司令官コルニーロフ将軍が反乱を起こした。ソビエトがこの反乱の鎮圧に成功したことで、ボリシェヴィキの勢力が強まる結果となった[265]。トロツキーが指揮するボリシェヴィキ派(赤衛隊)が武装蜂起を決行、10月25日にペトログラードを制圧してケレンスキーの臨時政府を打倒した。メンシェヴィキや右派社会革命党といったソビエト右派がボリシェヴィキの行動の承認を拒否したことにより、ボリシェヴィキと左派社会革命党によるソビエト政権が樹立された(十月革命)[266]。11月に憲法制定会議選挙が行われたが、社会革命党が勝利し、ボリシェヴィキは第2党に留まった[267]。1918年1月に憲法制定会議が開かれると選挙結果を拒否するレーニンは即日解散させ、ソビエト大会で社会主義ソビエト共和国の成立を宣言した[268]。ロシアはソビエト政権とこれに反対する諸勢力との内戦に突入する。
即時講和を方針としていたソビエト政権はドイツとの和平交渉に入るが、ドイツ側は「無賠償・無併合」を認めずに難航した。国内の混乱で崩壊状態のロシア軍にはドイツ軍の攻勢を阻むことは難しく、1918年3月3日(新暦[n 13])にバルト地方・ベラルーシの一部・ウクライナといった広大な領土の喪失を引き換えとしたブレスト=リトフスク条約が締結され、ロシアは第一次世界大戦から離脱した[269]。左派社会革命党は講和に反対して連立から脱退し、ボリシェヴィキの単独政権となった[270]。
反革命派(白衛軍)の攻勢が強まり、さらにチェコ軍団救出を口実にイギリス・フランス・アメリカそして日本の連合国が干渉軍を派遣し、ソビエト政権はしばしば危機に陥っている。この内戦の最中の1918年7月17日(新暦)、ウラル地方のエカテリンブルクに幽閉されていたニコライ2世一家と従者合わせて11人はボリシェヴィキによって殺害された[271](ロマノフ家の銃殺)。1918年11月にドイツが大戦に敗れると、ソビエト政権はブレスト=リトフスク条約を破棄した[269]。トロツキーの指導のもとで強化されたソビエト軍は、1919年中の戦闘で白衛軍の攻勢の撃退に成功した。1920年のポーランドとの戦争には敗れたものの赤軍は国内の平定を進め、11月にはクリミア半島に残っていたヴラーンゲリ将軍の白衛軍が壊滅しており、1921年3月のクロンシュタットの反乱が鎮圧されたことでソビエト政権の勝利が確定した。
1922年12月30日(新暦)、ロシアとザカフカース連邦共和国、ウクライナ共和国および白ロシア共和国の四つの社会主義共和国によるソビエト連邦が成立した。
領域の拡大と統治
1906年に制定された国家基本法は第1条でロシア帝国を「単一不可分の帝国」であると明記している。加えて第26条では「ロシア皇帝位はポーランド王国ならびにフィンランド大公国と不可分である」とも述べている。18世紀はじめの大北方戦争(1700年 – 1721年)の勝利によってカレリアの大部分、エストニア、リヴォニア、イングリアなどを獲得したロシア帝国は以降も領土の拡大を続けている。18世紀後半のエカチェリーナ2世の時代にロシア帝国は大きく領土を広げ、三次に渡るポーランド分割によって現在のリトアニア、ベラルーシ、ウクライナ西部に相当する地域を併合し、南部ではクリミア半島を版図に納めている。またウクライナのヘーチマン国家を消滅させて直接支配に置いた。
19世紀はじめのナポレオン戦争(1803年 – 1815年)中にロシアはフィンランドをスウェーデンから分離させて属国(フィンランド大公国)となし、オスマン帝国からベッサラビアを割譲させ、さらにペルシアとの抗争に勝利してザカフカース(南コーカサス)に進出している。ナポレオン没落後のウィーン体制下ではポーランド王国を属国に加えた。19世紀後半にポーランドの自治は失われて直接支配になり、東方では中央アジアを侵略して領土に加えている。
これら領土の拡大により、ロシア帝国は多数の民族を支配するようになり、「諸民族の牢獄」と呼ばれた。これを非難するレーニンのボリシェヴィキは民族自決権の承認を党綱領に加えている[272]。
1917年の二月革命によって帝政が瓦解すると民族・地域単位での多数の国家が現れて独立や自治を要求したが、1922年のソビエト連邦成立以降に独立を保っていたのはフィンランド、バルト三国そしてポーランドのみであった。
バルト地方
黄色が戦前のスウェーデン領、緑色がロシア領、黄色地に緑の斜線がニスタット条約でロシアに割譲された地域、黄緑は1795年にロシアに併合されたクールラント公国。
スウェーデンが支配していたリヴォニア(英語版)(南部エストニアと北部ラトビア)とエストランド(北部エストニア)は大北方戦争(1700年 – 1721年)でのスウェーデンの敗北により、ロシアに併合された。1721年に締結されたニスタット条約により、バルト・ドイツ系貴族には相当程度の自治権が留保され、在地における教育、治安そして司法に関する特権とルーテル教会の地位保証が与えられた。ポーランド・リトアニア領内にあったクールラント・ゼムガレン公国は、1795年の第三次ポーランド分割の際にロシアに併合されている。この地方にはリヴリャンド県(英語版)、エストランド県(英語版)、クルリャンド県(英語版)が置かれ、ラトビア人の居住地のうちラトレガはヴィテプスク県に組み込まれた。ピョートル1世(在位1682年 – 1725年)は官僚制の整備拡充に際し、外国人専門家とともに沿バルト・ドイツ人貴族を重用しており[273]、女帝アンナ(在位1730年 – 1740年)の治世ではドイツ系貴族が政府の重職を占めて「ドイツ人の支配」とまで言われるようになっている[274]。女帝エリザヴェータ(在位1741年 – 1761年)の即位により「ドイツ人の支配」は終わったが、帝政期を通じてバルト・ドイツ人の登用は続き、19世紀前半のニコライ1世(在位1825年 – 1855年)の時代には高級官僚の3割から5割がドイツ系であった[275]。
タリン港はバルト海における主要港のひとつとなった。
Алексей Боголюбов画。1853年。
一方、エストニア人とラトビア人の農民はバルト・ドイツ人貴族の農奴となり、その生活は悪化した[276]。エカチェリーナ2世(在位1762年 – 1796年)はバルト地方の農民の権利を一部認めるように命じ、自由主義改革が志向されたアレクサンドル1世(在位1801年 – 1825年)初期の治世にはロシア本土に先立って農奴解放が実施されている[277]。もっとも、この農奴解放は不十分なもので農民の生活は改善されず、ドイツ人領主による実質的な土地支配は帝政終焉まで続くことになる[278]。19世紀後半ごろからエストニア人・ラトビア人の間から民族意識が芽生え始め、バルト・ドイツ人に対する反発という形で表出した[279]。1840年代にはバルト・ドイツ人やスウェーデン人に押しつけられた側面もあるルター派信仰を捨てて、正教に改宗する運動が起こっている[280]。リヴリャンド県ではバルト・ドイツ人はラトビア人の地方行政への参加を認めさせられている[281]。167年におよぶドイツ語行政そして教育が続いた後、1888年と1889年に発せられた法令により、治安および領地における司法権がバルト・ドイツ人貴族から中央政府の官吏に移管された。同じ時期にこの地方の行政機関、高等教育機関にもロシア化政策が推進され、ロシア語が教育言語と規定されて他の言語の使用が制限され、エストニアのタルトゥ大学は「ユリエフ大学」に改称されている[282]。またプロテスタントに対する規制の強化と正教の押しつけも行われた[282]。そして、これらロシア化政策に反発する民族主義運動や社会主義運動がエストニア人・ラトビア人の間で発達することになる[283]。
1905年革命の際にはバルト地方でも大規模なストライキと暴動が発生しており、政府はロシア化政策の緩和を余儀なくされたが、革命が収まると民族主義者に矛先が向けられ弾圧が行われた[284]。1914年に第一次世界大戦が勃発するとバルト地方は対ドイツ戦の前線となった。1917年の二月革命で帝政が瓦解するとエストニア・ラトビアの民族主義者たちは自治権拡大を要求する運動を展開させている[285]。エストニア・ラトビアの民族主義者たちはロシア国家内での自治を目標としていたが、十月革命でボリシェヴィキが権力を掌握すると危機感を持ち、完全独立に方針転換した[286]。ソビエト政権はこれを容認せず、赤軍が侵攻して独立戦争となった。ロシア革命に介入する連合軍そして休戦後も残留するドイツ軍を巻き込んだ複雑な様相の戦争となったが、1919年末までにエストニア・ラトビアのボリシェヴィキ派とこれを支援する赤軍は敗退した[287]。1920年2月にエストニア[288]、4月にはラトビア[289]がソビエト政権と平和条約を締結し、両国の独立が達成された。
フィンランド
フィンランド大公国の領域
→詳細は「フィンランド大公国」を参照
ナポレオン戦争中に起ったフィンランド戦争(第二次ロシア・スウェーデン戦争:1808年 – 1809年)でのスウェーデンに対する勝利の結果、1809年9月5日(新暦9月17日)に締結されたフレドリクスハムン条約により、フィンランドは自治大公国としてロシア帝国に組み込まれた(フィンランド大公国)。ロシア皇帝がフィンランド大公を兼ね、彼が任命した総督と大公国評議会(英語版)(セナーッティ:senaatti(芬語))を介する立憲君主として統治した。国家基本法第2条では「フィンランド大公国はロシア国家の分かちえない一部であり、その内政は特別法に基づく特別規則によって統治される」と規定されている。ロシア帝国はフィンランドの従来からある基本法(英語版)(憲法)[n 14]、身分制議会をはじめとする統治機構そしてルター派教会の存続を保証し、ロシアとは別個の国家として扱った[290]。司法部(最高裁判所)と経済部(内閣)からなる大公国評議会が設置され、形式的には皇帝の代理人である総督が議長となるが、実質的には大公国評議会が統治を司った[291]。
1890年から1900年頃のヘルシンキ
アレクサンドル2世(在位1855年 – 1881年)の大改革の際の1863年に身分制議会が約半世紀ぶり召集されて議会制度が機能しはじめ、この時期にフィンランド語の国語化、農民の地位向上、初等教育制度の確立といった諸改革が行われた[292]。1860年代から1870年代に自由主義的な規制緩和立法の元でフィンランドの工業生産は急成長して、ロシア帝国内で最も進んだ地域となった[293]。フィンランドの「特別な地位」についてはロシア国内では異論があり、ニコライ2世(在位1894年 – 1917年)は1899年に「二月宣言」を発して自治権を制限するロシア化政策を推進するが、フィンランド人はこれに反対する抵抗運動を組織した[294]。1905年革命の際にフィンランドでは「大ストライキ」が行われ、ニコライ2世は「二月宣言」の撤回を余儀なくされている。この結果、身分制議会に代わる一院制の国民議会が成立した。この議会は女性の参政権を認めるヨーロッパ2番目の議会であった[295]。だが、ロシア国内で体制を立て直したロシア政府は1909年以降、再びロシア化政策を行って弾圧を強化した[296]。
1917年の二月革命により帝政が倒れ、さらに十月革命でボリシェヴィキが権力を掌握するとフィンランドでは保守派を中心に独立論が高まり、11月23日(新暦12月6日)にフィンランド議会は独立を宣言した[297]。
ポーランド・リトアニア・ベラルーシ
第一次ポーランド分割(1772年)
ロシア併合地
プロイセン併合地
オーストリア併合地
第二次ポーランド分割(1793年)
ロシア併合地
プロイセン併合地
第三次ポーランド分割(1795年)
ロシア併合地
プロイセン併合地
オーストリア併合地
→詳細は「ポーランド分割」を参照
1697年にポーランド・リトアニア国王に選出されたアウグスト2世はスウェーデンに奪われていたリヴォニアを奪回すべくデンマークそしてロシアと北方同盟を結んで大北方戦争(1700年 – 1721年)を開戦するが、ポーランド・リトアニア共和国はカール12世率いるスウェーデン軍に蹂躙されて国土は甚大な被害を蒙り、最終的に戦争には勝利したものの、何ら得るものがなく終わっただけでなく、国王とシュラフタ(貴族階級)との対立に乗ぜられてロシアの影響力が強まる結果となった[298]。1733年にアウグスト2世が没するとマグナート(大貴族)の派閥対立が列強の干渉を招いてポーランド継承戦争(1733年-1735年)を引き起こした。その後もリベルム・ヴェト(自由拒否権)の濫用によってポーランド国会(セイム)は麻痺化していた[299]。『レイタン – ポーランドの滅亡』(Rejtan – Upadek Polski)
ポーランド分割を決議する国会への議員の入場を阻もうとするレイタン。
ヤン・マテイコ画。1866年。
1763年に国王アウグスト3世が死去すると、エカチェリーナ2世(在位1762年 – 1796年)は国王選挙に干渉して元愛人のスタニスワフ・アウグストを選出させたが、ロシアの意に反して積極的な国政改革を試みたため、改革反対派を利用して屈服させた[300]。ロシアの内政干渉に反対するバール連盟の蜂起が起こると軍事介入を行い、1772年にプロイセン、オーストリアそしてロシアによる第一次分割が実施され、ロシアは現在のベラルーシ東部にあたる西ドヴィナ川北東地とドニエプル川上流を併合、ロシアによる保護国体制が成立する[301]。スタニスワフ・アウグストはなおも国政改革継続を志していたが、ロシアがオスマン帝国そしてスウェーデンとの戦争に忙殺されるようになるとプロイセンと結んだ反国王派が支配する国会が権力を掌握した(四年国会)[302]。1791年、国会の改革派と国王の協力が成立して近代的な成文憲法である5月3日憲法を制定するが、ロシアは改革によって既得権益を失う保守派にタルゴヴィツァ連盟を結成させて軍事介入を行い、改革を粉砕した[303]。1793年にロシアとプロイセンによる第二次分割が実施され、北ドヴィナ川からドニエストル川の間の広大な地域(ベラルーシ中部と右岸ウクラナイ)がロシアに併合された[304]。翌1794年に発生したコシチュシュコ将軍が指導する武装蜂起が鎮圧されると列強国は第三次分割を行い、独立したポーランド国家は消滅した[305]。
18世紀のポーランド分割でロシア帝国が獲得した領土は現在のリトアニアの全土、ラトビア南部(クールラント)、ベラルーシ全土そしてウクライナの西部(右岸ウクライナ)にあたる。
ポーランド
→詳細は「ポーランド立憲王国」を参照
この時期にはフランス革命が勃発しており、亡命者たちはフランス軍に参加してポーランド軍団を編成し、ナポレオンの指揮下に入った[306]。第四次対仏大同盟戦争(1806年-1807年)でロシア・プロイセン連合軍に勝利したナポレオンは1807年にアレクサンドル1世(在位1801年 – 1825年)とティルジットの和約を締結、プロイセン領ポーランドの土地にワルシャワ公国を建国させた。ワルシャワ公国はフランス帝国の衛星国ではあるが、独自の軍隊を持ち、ナポレオン法典を範とした近代的憲法を制定していた[307]。ナポレオン軍の元帥として活躍したユゼフ・ポニャトフスキがこの時代の国民的英雄として知られる。ポーランド立憲王国の領域
ナポレオンの敗北により、列強国によるウィーン体制が構築されると、1815年にポズナンを除いたワルシャワ公国の領土にポーランド王国(便宜上、ポーランド会議王国またはポーランド立憲王国と呼ばれる)が建国された。ポーランド立憲王国はロシア皇帝を国王に戴く従属国ではあるが、自由主義的な憲法を持ち、ポーランド語での行政が行われ、独自の軍隊も有していた[308]。皇弟コンスタンチン大公が事実上の総督となって軍権を握り、王国内政を監督した。アレクサンドル1世はポーランド人に対して融和的な政策をとったが、即位早々にデカブリストの乱に遭い、自由主義者運動を弾圧したニコライ1世(在位1825年 – 1855年)はポーランドに対しても反動政策で臨んだ。ニコライ1世が憲法の破棄と王国軍の廃止を強行しようとするとポーランド愛国派は1830年11月に武装蜂起を起こした(十一月蜂起)。ポーランド国会はニコライ1世の廃位を宣言する[309]。ロシア軍は大軍を送り込んで蜂起を鎮圧し、憲法、王国軍そして国会が廃止された。皇帝が任命する総督府が置かれ、ロシア人官吏が送り込まれ、通貨、法律そして教育面でのロシア化が推進された[310]。
クリミア戦争(1853年 – 1856年)でロシアが敗れ、アレクサンドル2世(在位1855年 – 1881年)の諸改革が行われるようになるとポーランドでも融和的な改革が行われて規制が緩和されたが、再び革命の機運が高まり、各地でデモが頻発した。1861年2月と4月にはワルシャワで死傷者が出る衝突が起きている[311]。不穏な情勢下でポーランド人は急進派の赤党そして穏健派の白党の地下組織をつくり、1863年1月に蜂起した(一月蜂起)[312]。この蜂起は国際的な反響を呼び、蜂起軍はロシア軍に対してパルチザン戦で挑んだが、1864年4月には鎮圧された[313]。ロシアは反乱に参加したシュラフタの領地を没収し、蜂起軍と農民とを分断するためにロシア本土よりも条件の良い無償土地分与の農奴解放をポーランドで実施している[314]。
残されていたポーランドの自治機関は廃止されてポーランド王国は形骸化した[n 15]。1867年にはこの地域の名称自体がヴィスワランド(英語版)に改められ、県(グベールニヤ)単位に再編された。行政と司法でのロシア語の使用が強制され、ポーランド人に対するロシア化が推進されて学校教育でもロシア語の使用が義務付けられている[315]。大改革で創設されたゼムストヴォ(地方自治機関)はポーランド各県には設置されなかった。
1880年代のワルシャワ市街
ロシアの直接統治時代のポーランド経済は農業面では農奴解放によって小規模農家が多くなったことにより生産性が伸びず、農民の生活は苦しかったが、工業面では著しい発達を見せ、鉄道網が張り巡らされポーランドは帝国内の先進地域となった[316]。1905年革命ではポーランドでもゼネストが行われて混乱が広まったが、武闘路線のピウスツキのポーランド社会党と保守層からなるドモフスキ(英語版)の国民民主党(英語版)との対立が表面化して足並みが揃わなかった[317]。十月勅書によって諸規制の緩和とポーランド語の公的使用が認められ、新たに発足したロシアのドゥーマ(国会)には55人のポーランド議員団が送り込まれた[318]。
第一次世界大戦が勃発するとロシア領ポーランドはドイツ軍に占領された。1916年10月23日(新暦11月5日)、ドイツ皇帝とオーストリア皇帝はポーランド人を懐柔する目的でポーランド王国創設を約束する勅令を発し、これに対してニコライ2世(在位1894年 – 1917年)も1916年12月19日(新暦1917年1月1日)に再統一されたポーランドの実現を約束する宣言を行うが、それから間もない1917年の二月革命で帝政は崩壊した[319]。
ロシアの臨時政府はポーランドの再建に同意する宣言を行い、ポーランド独立にはアメリカ、フランスも関心を示した[320]。ドイツは占領区域に傀儡国家ポーランド王国を建国させ、内政自治を行う摂政会議が設けられた[321]。1918年春のブレスト=リトフスク条約でドイツは東部戦線における勝利を確定した。ポーランドはドイツの属国になりかけるが、西部戦線での攻勢に挫折したことでドイツ軍は力尽き、敗戦が確定的となった。反露闘争で知られる存在になっていたピウスツキがワルシャワに帰還すると摂政会議は彼に権限を委譲した。10月29日(新暦11月11日[n 16])にピウスツキを国家主席とする体制でポーランド国家が回復された(ポーランド第二共和国)[322]。
ピウスツキはかつてのポーランド・リトアニア共和国の領域を勢力圏とする多民族連邦国家(ヤギェウォ理念)を提唱しており[323]、東ガリツィアの西ウクライナ人民共和国とリトアニア、ベラルーシの一部を占領して赤軍と戦争に入った(ポーランド・ソビエト戦争)。戦争はポーランドの勝利に終わり、1921年のリガ平和条約でベラルーシ西部と東ガリッィアがポーランド領となった[324]。
リトアニア
ロシア帝国統治下のリトアニア。
コヴノ県
ヴィリナ県
スヴァルキヤ県
現代のリトアニアの国境
現在のリトアニアに相当する地域は1795年の第三次ポーランド分割でロシア領となり、コヴノ県とヴィリナ県、スヴァルキヤ県が置かれた。1569年のポーランドとの合同(ルブリン合同)以来、リトアニア貴族や聖職者のポーランド化が進んでおり、彼らはポーランド人としての意識が強く、リトアニア語を話すのは農民だけの状態だった[325]。このポーランドへの帰属感がリトアニアの民族意識の形成を遅らせることになる[326]。1830年のポーランドの十一月蜂起にはリトアニア貴族へも波及しており、このため反乱が鎮圧されると多数の貴族が財産没収のうえで流刑となり、ロシア語と正教を強制するロシア化が行われ、1579年に創立されたヴィリニュス大学も閉鎖された[327]。1864年の一月蜂起もリトアニアに波及して、この地でもロシア軍に対するパルチザン戦が展開されたが、ロシアによるさらに厳しい弾圧とロシア化を招く結果となった。ラテン文字が禁止されてキリル文字の使用が強制され、リトアニア語の出版物の発行は禁止された[284]。だが、この禁止措置が逆にリトアニア語を民族のアイデンティティとして意識させる結果となる[328]。
リトアニアではロシア本土と同じく1861年に農奴解放が行われた。土地を手放す地主が多く、農民たちは土地を手に入れたが、このために都市労働者の供給が滞ることとなり、リトアニア経済は農業林業が中心となり、工業が後れをとる結果となった[329]。弾圧の厳しいリトアニアからは住民の3分の1が北米をはじめとした国外に移住している[326]。
第一次世界大戦ではリトアニアはドイツ軍に占領されている。リトアニアの民族主義者たちはドイツの承認を受けてリトアニア評議会(英語版)(タリーバ)を組織し、1918年2月に独立が宣言され、ヴュルテンベルク家のミンダウガス2世を戴くリトアニア王国を建国することになるが、ドイツの敗戦が確実になると共和制に移行した[330]。1919年に赤軍の支援を受けたボリシェヴィキ派がヴィリニュスを占領してソビエト権力が樹立された。評議会派とボリシェヴィキ派との内戦の結果、評議会が勝利して1920年7月にロシア・ソビエト政権との平和条約が締結されて正式に独立が成立した[331]。リトアニア人が首都と主張するヴィリニュス周辺地域はポーランドとの係争地となり、戦間期を通じてポーランドによるこの地域の実効支配が続き、リトアニアとポーランドは敵対関係となった[332]。
ベラルーシ
現在のベラルーシに相当する地域はリトアニア大公国の領域に属しており、18世紀末のポーランド分割でロシア領に編入された。この地域の住民は東スラヴ系の白ロシア人(ベラルーシ人)で併合時には75%が合同派教会(東方典礼カトリック教会)に属していた[333]。ロシア併合後、ヴィリニュス大学を拠点にベラルーシ・シュラフタ(貴族)のポーランド化がいっそう進むという現象が起こっている[334]。1830年の十一月蜂起にベラルーシのシュラフタが多数参加した結果、ロシア政府はこの地域のロシア化を推進して合同派教会をロシア正教会に併合させるが、この時期からベラルーシ人に民族理念が芽生え始める結果となった[335]。19世紀末の段階でベラルーシ人の92%が農民であり、都市人口は5割以上がユダヤ人でベラルーシ人は僅かだった[336]。ベラルーシ人が独自の民族であるとする主張はこの時期に知識人の間から現れたものの[337]、都市人口の少なさが文化・情報媒体による民族理念の大衆への広がりを妨げていた[336]。
第一次世界大戦(1914年 – 1918年)ではベラルーシ西部がドイツ軍に占領された。1917年の二月革命で帝政が倒れ、十月革命でソビエト政権が成立する混乱の中でベラルーシ全土がドイツに占領された。ベラルーシの民族主義者たちは1918年8月にベラルーシ人民共和国の成立を宣言するが、ドイツ軍の承認は得られなかった[338]。ドイツの敗戦後に進駐した赤軍によってベラルーシ全土が制圧され、1919年1月に白ロシア・ソビエト社会主義共和国が建国された。ポーランド・ソビエト戦争(1920年 – 1921年)の結果、締結されたリガ条約でベラルーシ西部がポーランドに併合されている。
ウクライナ
ヘーチマン国家の領土
→詳細は「ヘーチマン国家」および「小ロシア」を参照ザポロージエ・カザーク
ユゼフ・ブラント画 19世紀
15世紀から16世紀にかけて、ドニエプル川中・下流域にウクライナ人の逃亡農民からなる軍事共同体(カザーク、英語読みではコサック)が形成された(ザポロージエ・カザーク)。16世紀後半にザポロージエ・カザークはポーランド・リトアニア共和国の統制下に入った(登録コサック)[339]。待遇の不満やカトリックによる正教への攻撃に対する反発から、カザークはたびたび反乱を起こしていたが、1648年にカザークの指導者ボフダン・フメリニツキーが大規模な反乱を起こした(フメリニツキーの乱)[340]。ドニプロ・ウクライナにヘーチマン国家を成立させたフメリニツキーはツァーリ・アレクセイに援助を求め、1654年にペレヤスラフ条約が結ばれ、ロシアはポーランドとの戦争に入る。1667年に両国間で講和が結ばれ、ポーランドは右岸ウクライナ、ロシアは左岸ウクライナを領有することが取り決められた[341]。左岸ウクライナのヘーチマン国家はロシアの自治国となったが、カザークによる自治は次第に制限されるようになった[342]。大北方戦争(1700年 – 1721年)においてスウェーデン王カール12世がロシア遠征を開始すると、ヘーチマン(棟梁)イヴァン・マゼーパは1708年にロシアから離反して、スウェーデンと同盟を結んだ。ピョートル1世(在位1682年 – 1725年)は直ちにこれに対応してヘーチマン国家の首都バトゥールィンを占領し、ザポロージエ・カザークの本営を破壊させた。カール12世とマゼーパは1709年のポルタヴァの戦いでピョートル1世に大敗を喫し、マゼーパはオスマン帝国領内で客死している。
マゼーパの離反後、ヘーチマン国家の自治に対する制約はさらに厳しくなった。ピョートル1世は小ロシア参議会を設けてウクライナの自治を破棄した[343]。エカチェリーナ2世(在位1762年 – 1796年)の時代にヘーチマン制、独自の地方行政制度(連隊制)が順次廃止されてヘーチマン国家は消滅し、小ロシアと呼ばれる直轄支配地域となった[344]。1795年の第二次ポーランド分割で右岸ウクライナがロシア領に編入されている。
19世紀に入ると「ウクライナのルネサンス」と呼ばれるウクライナ語による文化運動が起き、民族意識の覚醒が見られるようになった(ハリコフ・ロマン主義)[345]。19世紀中頃に活躍したシェフチェンコがウクライナを代表する詩人として知られるが、彼は農奴制の廃止やスラヴ民族の平等を唱えるウクライナ初の政治的秘密結社キリル・メソジウス団(英語版)に参加した容疑で1846年に逮捕され、シベリア流刑に処されている。この事件によって沈黙を強いられたウクライナの文化運動は1850年代末から1860年代にかけて再び活発化するものの、分離主義運動の温床になると判断したロシア政府による弾圧を受けるようになり、1863年にはヴァルーエフ指令が出されて純文学を除いたウクライナ語出版物の刊行不許可が通達された[346]。この通達を出したヴァルーエフ(英語版)内相は「小ロシア語(ウクライナ語)とされるものはポーランド語の影響を受けた(腐敗した)ロシア語の方言に過ぎず、その存在自体が疑わしい」と述べている[347]。1876年にはこれを強化したエムス法(英語版)が施行され、ウクライナ語によるあらゆる出版物の刊行・輸入、舞台・音楽・講演の公開、そして初等教育を禁止する措置が取られた[348]。
1900年頃のキエフ。
ロシア帝国領内での弾圧が厳しくなるとウクライナ人作家たちは比較的自由なオーストリア帝国領のガリツィアに活動の場を移した。「ウクライナのピエモンテ」と呼ばれたこの地が民族運動の政治的そして文化的中心地となった[349]。1890年には社会主義政党であるルテニア=ウクライナ・ラディカル党(ウクライナ急進党)が結成されている。20世紀に入るとウクライナでは革命運動が活発化した。1905年革命の際にはハリコフ、キエフなど主要都市でストライキが起きて労働者ラーダ[n 17]が結成され、農民暴動が広まった[350]。革命運動は海軍にも波及しており、黒海艦隊の戦艦ポチョムキンで反乱が起こっている。1907年に発足したドゥーマ(国会)ではウクライナ人議員団がウクライナ語の自由化を要求したが、実現しなかった[351]。
1917年の二月革命が起こると、中央ラーダがキエフで組織され、帝政期の政策を覆すウクライナ化を実施しようとしてロシア臨時政府と対立した[352]。十月革命でボリシェヴィキが権力を掌握すると中央ラーダはウクライナ人民共和国の成立を宣言する。ボリシェヴィキ派がハリコフでウクライナ・ソビエト政府を樹立、赤軍の支援を受けてキエフを占領するが、中央ラーダはドイツ、オーストリアら中央同盟諸国と単独講和を結び、独墺軍とともにキエフを奪回してボリシェヴィキ派を駆逐した[353]。ソビエト政権はブレスト=リトフスク条約によってウクライナの独立を承認させられたものの、ドイツ軍と中央ラーダ政府との協力は長続きせず、クーデターによって親独派政権(ウクライナ国)に代えられている[354]。
大戦に敗れたドイツ軍は1918年11月に撤退するが、その後のウクライナでは民族派(ペトリューラ派)、ボリシェヴィキ派、白衛軍そして農民軍(ウクライナ革命反乱軍)の間で内戦が繰り広げられた。キエフ、ハリコフ、オリョールを占領したデニーキン将軍の白衛軍(南ロシア軍)はモスクワを脅かす勢力となるが、赤軍と農民軍に敗れた。民族派はポーランドと結んで1920年5月にキエフを占領するが、赤軍に敗れ、ポーランドとソビエト政権との講和(リガ条約)が成立したことで勢力を失っている。クリミア半島に残っていたヴラーンゲリ将軍の白衛軍(ロシア軍)はイギリスの支援を頼りに抵抗を続けていたが、11月にクリミアを脱出し赤軍の南ロシアにおける勝利が確定した。協力関係にあったネストル・マフノの農民軍と赤軍は決裂し、農民軍はこの年の冬までに平定されている[355]。1922年にウクライナ社会主義ソビエト共和国がソビエト連邦に編入された。
クリミア・ベッサラビア・カフカース
→「ベッサラビア」も参照18世紀後半の黒海北岸部。
ロシア帝国
オスマン帝国
キュチュク・カイナルジ条約(1774年)でのロシア併合地。
独立時のクリミア・ハン国の領土。(1783年併合)
ロシアとオスマン帝国の勢力圏は南方で接しており、帝政期を通じて戦争を繰り返している。17世紀まではオスマン帝国の国力がロシアを圧倒していたが、18世紀後半のエカチェリーナ2世(在位1762年 – 1796年)の時代にロシアが優勢になり、黒海沿岸、バルカン半島そしてカフカースのオスマン帝国やペルシアの領域を蚕食しつつ南下するようになる。16世紀半ば、イヴァン4世がアストラハン・ハン国を征服したことにより、ロシアはヴォルガ水系を支配して、カスピ海北岸に進出する。イスラム教国がキリスト教国に併合されたことはオスマン帝国にとって衝撃的な事件であり、失敗に終わったもののオスマン帝国によるアストラハン・ハン奪回の試みもなされている[356]。
クリミア半島にはオスマン帝国宗主権下のクリミア・ハン国が存在しており、ロシアとの緩衝国の役割を果たしていた。ピョートル1世(在位1682年 – 1725年)はクリミア・ハン国領のアゾフ要塞奪取を図り、最初の攻撃はオスマン軍に阻まれたが、本格的な海軍を建設した1696年の再攻撃でこれを陥落させた。だが、大北方戦争(1700年 – 1721年)中に発生したプルト川の戦い(1711年)でピョートル1世はオスマン軍に敗北してしまい、アゾフの返還を余儀なくされている[357]。
1721年に大北方戦争に勝利したピョートル1世は当時内乱状態にあって弱体化していたペルシア領のカフカース東南部へ遠征を行い、バクーを占領した[358]。しかしながら、遠隔地の支配は当時のロシアにとっては困難であり、ピョートル1世の死後の1735年にペルシアに返還している[359]。
グリゴリー・ポチョムキン。
作者不明。1847年。
エカチェリーナ2世の時代にロシアは再び南下を始め、第一次露土戦争(1768年-1774年)に勝利したロシアは1774年のキュチュク・カイナルジ条約でクリミア・ハン国をオスマン帝国から独立させて保護国となし、1783年に併合した[360]。この結果、ムスリム(イスラム教徒)である多数のクリミア・タタール人がロシアの臣民となった。また、北カフカースのステップ地帯がロシアの統治下に入ることになった。エカチェリーナ2世の寵臣であるポチョムキンがクリミア半島の経営にあたり、ロシア人の入植と開拓が進められ、黒海におけるロシア海軍の根拠地となるセヴァストポリが建設された。1786年にエカチェリーナ2世はクリミアを行幸し、ポチョムキンは各地で女帝を盛大に歓待した。ポチョムキンが演出した歓迎する群衆や見せかけだけの立派な建物は「ポチョムキン村」と揶揄されることになる[361]。
オスマン帝国はクリミア奪回を目指して再度開戦した(第二次露土戦争:1787年 – 1792年)。この戦争ではロシア軍は苦戦を余儀なくされたが、1791年にヤシ条約が締結され、ロシアは南ブーク川からドニエストル川の間の黒海沿岸地域を獲得した[73]。ロシアはこの地にオデッサを建設した[73]。
ナポレオン戦争中に起った第三次露土戦争(1806年 – 1812年)の結果、締結されたブカレスト条約により、モルダヴィア東部とオスマン領ベッサラビアがロシアに併合された。ロシアはこの地域全体をベッサラビアと呼び、住民はラテン文字に替えてキリル文字を用いるようになった[362]。後に、この地域の多数派住民が(ルーマニア語とは異なる)モルドバ語を使用する独自のモルドバ人なのか、それともルーマニア人の1グループであるのかを巡って歴史的な論争が生じることになる。(モルドバの言語・民族性問題)
ロシア領ベッサラビア地方の領土変遷
1812年以前。ドニエストル川の東側がロシア帝国、西側にオスマン帝国の属国モルダヴィア公国が存在し、南部はオスマン領ベッサラビア(ブジャク地域に相当)だった。
1812年以前。ドニエストル川の東側がロシア帝国、西側にオスマン帝国の属国モルダヴィア公国が存在し、南部はオスマン領ベッサラビア(ブジャク地域に相当)だった。1812年のブカレスト条約により、プルト川以東のモルダヴィア公国領とオスマン領がロシアに併合された。さらに1829年のアドリアノープル条約でドナウ河口がロシア領となった。
1812年のブカレスト条約により、プルト川以東のモルダヴィア公国領とオスマン領がロシアに併合された。さらに1829年のアドリアノープル条約でドナウ河口がロシア領となった。クリミア戦争の結果、1856年に結ばれたパリ条約によってベッサラビア南部がモルダヴィア公国領(1859年にワラキア公国と同君連合、1861年にルーマニア公国)となる。
クリミア戦争の結果、1856年に結ばれたパリ条約によってベッサラビア南部がモルダヴィア公国領(1859年にワラキア公国と同君連合、1861年にルーマニア公国)となる。露土戦争にロシアが勝利し、1878年のサン・ステファノ条約でベッサラビア南部がロシア領に復帰した。
露土戦争にロシアが勝利し、1878年のサン・ステファノ条約でベッサラビア南部がロシア領に復帰した。
18世紀のザカフカース(南コーカサス:カフカース山脈の南側、現在のアゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの地域)は西グルジアをオスマン帝国が支配、それ以外をペルシアが支配していた。この地域はグルジア人が正教徒であり、アルメニア人は独自のアルメニア教会に属しており、イスラム教国の支配下に置かれていた。1783年にロシアはカルトリ・カヘティア王国(英語版)(東グルジア)を保護国となしたが、1794年に新興ガージャール朝ペルシアに征服されてしまう[363]。エカチェリーナ2世が死去するとロシアの影響力は一時的に後退したが、混乱状態になっていたカルトリ・カヘティアはロシアの保護を求め、1801年に併合が実施された[364][365]。イメレティ王国(英語版)(西グルジア)もロシアに従属し、1810年までにグルジアのほぼ全域が併合されている[366]。ペルシアとの戦争に勝利したロシアは1813年にアゼルバイジャン北部を併合した。ペルシアは再びロシアと開戦するが敗れ(第二次ロシア・ペルシア戦争: 1826年 – 1828年)、1828年のトルコマーンチャーイ条約により、ロシアはエレバン・ハン国(英語版)とナヒチェヴァン・ハン国(英語版)を併合してアルメニア州を設置した。露土戦争(1877年 – 1878年)に勝利したロシアはアジャール地方を獲得、グルジア征服を完了している。
一方、北カフカースでは山岳諸民族がロシアの支配に対する抵抗を続けており、1820年代末から1830年代にダゲスタン、チェチェンの地にイマーム国(英語版)を建設していた。第3代イマーム・シャミールの指導のもとで山岳諸民族は頑強に抵抗しており、ロシア軍との戦争は泥沼化して半世紀近く続くことになる(カフカース戦争:1817年-1864年)[367]。1856年にクリミア戦争が終わるとロシア軍は討伐を本格化させ、1859年にシャミールは投降し、1861年にカフカース全土が平定された[368]。農奴解放が行われた1860年代以降、ロシア人とウクライナ人の北カフカース入植が増え、先住の諸民族に対して数的に圧倒するようになっている[369]。
バクー油田。1915年撮影
ロシア帝国はグルジアのチフリス(トビリシ)にカフカス総督府(英語版)を置いてこの地域の支配の拠点となし、カフカース諸民族に対して徹底的な抑圧とロシア化政策を行った[365][370][371]。農奴解放は1866年にグルジア、1870年から1883年にかけてアゼルバイジャンとアルメニアで行われたが、ザカフカースの農民の多くが土地を失う結果となり、1917年の帝政崩壊時まで土地買戻金の支払いができずにいた[372]。この地域では1870年代以降、アゼルバイジャンのバクー油田が急速に発展し、20世紀はじめには世界の石油生産の半分を占めるまでになっている[370][373]。ザカフカースでは労働運動・社会主義運動が活発になり[374]、1905年革命やロシア革命の際にはバクー油田の労働運動が重要な役割を果たしている[370]。グルジア出身の革命家の中に後にソビエト連邦の指導者となるヨシフ・スターリン(本名ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ)がいた[375]。この一方で、この時期にムスリムとアルメニア人との衝突が起こっており、後の民族紛争の始まりともなっている[376]。
第一次世界大戦が勃発するとカフカースはロシア軍とオスマン軍との戦場になった。大戦中にオスマン領のアルメニア人が大量虐殺される事態になっている(アルメニア人虐殺)[377]。1817年の二月革命で帝政が倒れるとカフカース総督府も消滅した。
南カフカースでは、1918年4月に民族主義者たちがザカフカース民主連邦共和国を建国するが短命に終わり[378]、メンシェヴィキ政権のグルジア民主共和国、民族主義者によるアゼルバイジャン民主共和国とアルメニア共和国が成立し、ボリシェヴィキ政権はバクー・コミューンのみであった。オスマン帝国との戦争は継続しており、民族間の対立に加えて外国軍や白衛軍の干渉もあり、この地域では混沌とした状態が続いている。ボリシェヴィキがこの地域で権力を確立するのは1920年になってからで、4月にアゼルバイジャン、12月にアルメニアでソビエト権力が樹立された。ソビエト共和国に囲まれたグルジアのメンシェヴィキ政権のみが残されたが、1920年末にクリミアのヴラーンゲリ軍が崩壊したことにより孤立無援となり、1921年2月に赤軍に制圧された。ザカフカースにはソビエト連邦を構成するザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国が建国された。
北カフカースでは諸民族の連合による北カフカース山岳民族連合共和国(英語版)や北カフカース・アミール国が成立して独立を宣言するが、1919年から1920年までに赤軍によって占領・解体されている[379]。
十月革命後にベッサラビアはソビエト政権との合併を宣言するが、ルーマニア軍が進駐して1918年に列強国の承認を受けて併合された[380]。
中央アジア
1900年時点のロシア領中央アジア。(ロシア語)
ヒヴァ・ハン国(ロシア保護領)
ブハラ・アミール国(ロシア保護領)
→詳細は「カザフ・ハン国」、「コーカンド・ハン国」、「ブハラ・ハン国」、「ヒヴァ・ハン国」、および「トルキスタン総督府」を参照
現在のカザフスタンの地域には大勢力を誇ったカザフ・ハン国が存在していたが、17世紀にセミレチエ地方の大ジュズ、中部の中ジュズそして西部の小ジュズに分裂して弱体化している。小ジュズは18世紀中頃にロシアに従属し、この地域にロシア人が進出するようになった[381]。19世紀前半に中・小ジュズはロシアの直接支配下に入り、1860年代には大ジュズが併合された[382]。カザフスタン東部にはステップ総督府が置かれた。ロシア人の入植が進められると土地を収奪されたカザフ人は不満を持ち反乱を繰り返すようになり、その最大のものが40年間も続いたケネサルの反乱(1837年 – 1877年)である[383]。ロシア政府がカザフ草原地帯の統治の手段としてタタール人官吏・商人を活用したことにより、支配者層に留まっていたイスラム信仰が民衆にまで広まった[384]。1890年代以降、ロシア人やウクライナ人の入植が増え、1911年時点でスラヴ系移民が人口の40%を占めるようになったと推定されている[385]。現在のウズベキスタン、キルギス、タジキスタンそしてトルクメニスタンの地域には19世紀中頃までウズベク人支配のイスラム教国のコーカンド・ハン国、ブハラ・アミール国、ヒヴァ・ハン国が存在していた[386]。
ロシア帝国はイギリスの中央アジア進出を阻止すべく、この地域への軍事的侵略を開始した[387]。1850年代にカザフスタンに隣接するコーカンド・ハン国への侵攻を行っていたが、南北戦争(1861年 – 1865年)の影響によって発生した綿花危機により中央アジア産綿花の重要性が高まり、侵略を本格化させることになる[388]。ロシア軍は1865年にコーカンド・ハン国の中心都市タシケントを占領し、翌1866年にはブハラ・アミール国に侵攻した。1867年にトルキスタン総督府を設置し、1868年にブハラ・アミール国を従属させた[389]。ヒヴァ・ハン国は1873年に従属した。1881年までにロシアは遊牧民トルクメン人の住むトルクメニアを占領しており、この地域の征服を完了した[390]。コーカンド・ハン国は反乱を起こしたため1876年に滅ぼされたが、ブハラ・アミール国、ヒヴァ・ハン国は保護国として残された[391]。
ブハラのカーラン・ミナレット。
セルゲイ・プロクジン=ゴルスキー撮影の最初期のカラー写真。1905年から1915年頃。
この地方のムスリム(イスラム教徒)は異族人(英語版)に分類されて伝統的な風俗習慣に基づく自治が許され、総督府は治安と徴税のみに専念した[392]。トルキスタン総督府の地域では綿花産業を拡大させ、この地域はロシアのモノカルチャー植民地となった[393]。第一次世界大戦が起こると中央アジアへの食糧供給が滞り、さらに戦時追加税が課されたことで住民の生活は困窮した[394]。そして、これまで異族人として兵役が免除されていた住民への後方徴用が命じられたことを契機として1916年7月に大規模な民族暴動が発生している(1916年反乱)[395]。
1917年の二月革命で帝政が倒れると臨時政府が組織したトルケスタン委員会、ロシア人労働者と兵士のソビエト組織そしてモスリム諸勢力が乱立する状態となった[396]。十月革命でボリシェヴィキが権力を掌握すると中央アジアではソビエト組織がモスリム勢力のトルキスタン自治政府(コーカンド自治体)を崩壊させ[397]、1918年5月にトルキスタン自治ソビエト社会主義共和国が成立した。キルギスは1918年中にソビエト政権の支配に入り、カザフスタンには民族主義者や宗教指導者によるアラシュ自治国が成立したが、1919年1月に赤軍に制圧され、1920年にキルギス自治ソビエト社会主義共和国が成立した。ブハラ・アミール国、ヒヴァ・ハン国は1920年に革命勢力によって打倒され、ブハラ人民ソビエト共和国とホラズム人民ソビエト共和国がそれぞれ成立した[398]。これらの共和国はソビエト連邦に組み込まれるが、この地域のムスリムはバスマチ運動と呼ばれる抵抗を1930年代まで続けることになる[399]。
シベリア・極東
ロシア帝国の領域拡大
→詳細は「シベリア」、「ロシアのシベリア征服」、「シベリアの河川交通」、および「日露関係史」を参照
イヴァン4世の時代にイェルマーク率いるカザークの遠征隊の攻撃によってシビル・ハン国は大打撃を受けて16世紀末に滅亡したことにより、ロシアのシベリア進出の道が開かれた。毛皮採取を目的としたロシア人が東シベリアに進出して砦を築き、先住民ヤクート人、ツングース人そしてブリヤート人をロシアの統治下に組み入れていった[400]。ロシア人はイルクーツクの砦をシベリア経営の拠点となした。ロシア帝国が成立した18世紀はじめの時点でシベリアに居住するロシア人は先住民の2倍に当たる30万人を越えた[401]。シベリアでは入植したロシア人農民が農耕、漁業に従事し、先住民に対しては毛皮や家畜を納めるヤサクが課された[402]。進出するロシア人と清国との間で紛争(清露国境紛争)が起き、1689年のネルチンスク条約と1727年のキャフタ条約でスタノヴォイ山脈とアルグン川を国境とすることが定められた[403]。先住民からヤサクを徴収するロシア人。
19世紀画。
最初のシベリア学術調査はピョートル1世(在位1682年 – 1725年)が派遣したドイツ人博物学者メッサーシュミット(英語版)の探検隊であり[404]、18世紀前半にはベーリングが二次に渡る大規模な調査を行い、カムチャッカ半島を探検し、ユーラシアと北米との間の海峡(ベーリング海峡)の存在を確認した[405]。18世紀に入ると毛皮交易が衰え、農耕と鉱山開発が主体となった。農耕に適した南部タイガ、森林ステップ地帯に入植・開拓が進められるようになり、流刑囚を使った鉱山開発が行われて、アルタイ山麓には冶金工場が開設された[406][407]。1822年の行政改革により、西シベリア総督府(オムスク)と東シベリア総督府(イルクーツク)が置かれた。辺境防備のためカザークのシベリア入植がすすめられ、シベリア、アムール、ウスリーそしてイルクーツクといったカザーク軍団が成立している[408]。また、シベリア流刑も増大しており、デカブリストや社会民主主義者、ポーランド独立運動家といった革命家たちがシベリアへ送られ、家族を含めた流刑による移住者は約100万人といわれる[409]。彼らは教育や農耕の発展そしてシベリア研究に貢献したが、一方でこの地でも革命闘争を継続している[410]。
東シベリア経営の拠点となったイルクーツク。
1865年撮影。20世紀はじめ頃のウラジオストク。
ロシアは太平天国の乱そして英仏との戦争(アロー戦争)で弱体化していた清国に対して武力を背景に国境改定交渉を迫り、1858年のアイグン条約と1860年の北京条約でアムール川左岸およびウスリー川東岸を割譲させ、この地に「東方を征服せよ」[411]を意味するウラジオストクを建設した[412]。1882年に沿アムール総督府が設置された[409]。日本とは、1855年に日露和親条約を締結してクリル列島(千島列島)はイトゥルップ島(択捉島)とウループ島(得撫島)との間を境界となし、サハリン(樺太)は雑居地とすることが取り決められている。この後、サハリンでは日露住民間の紛争が絶えず、1875年にサンクトペテルブルク条約(樺太・千島交換条約)が結ばれて、ウループ島以北クリル18島は日本領、サハリン全島はロシア領となった。
19世紀後半には西シベリアは穀倉地帯となり、さらに1861年の農奴解放以降にシベリア移民が増大している[407]。またレナ川流域の金採取量が増大しており[407]、諸工業が発展し、産業プロレタリアート階級が形成された[407][413]。1891年にシベリア鉄道が東西同時に起工され、西シベリア部分は1896年に完成、1899年にはイルクーツクまで開通し、そして1901年にモスクワ – ウラジオストク間(バイカル湖区間はフェリー輸送)が開通しており、正規の全線開通は日露戦争中の1905年である[414]。19世紀末から20世紀はじめにかけて400万人がシベリアに移民し[415]、1905年時点のシベリア人口は約940万人に達した[407][416]。一方で産業の発展につれて、農民の反封建闘争や労働争議も頻発するようになっている[417]。
1898年に清国から遼東半島南部(旅順・大連地域)の租借と東清鉄道の敷設権を獲得した。1900年に義和団事件が勃発すると、大軍を派兵して満州を軍事占領している。だが、日露戦争(1904年 – 1905年)の結果、締結されたポーツマス条約によって、ロシアは日本へサハリン南部割譲、遼東半島南部の租借権および長春 – 大連間鉄道の譲渡を余儀なくされた。
1905年革命の際にはクラスノヤルスクとチタで武装蜂起が起こり、鉱山労働者のストライキに端を発した1912年のレナ金鉱銃殺事件はロシア社会に大きな衝撃を与え、各地で抗議行動が起こされ、革命的気分が高揚している[418]。
1917年に帝政が崩壊して、ボリシェヴィキが権力を掌握するとロシアは内戦に突入した。オムスクに社会革命党と立憲民主党によるシベリア共和国が樹立されるが、コルチャーク将軍の臨時全ロシア政府に吸収されている。
シベリア・極東地域は赤軍派パルチザンと白衛軍との角逐の場となり、これに日本・アメリカ・イギリスの列強干渉軍が介入した(シベリア出兵)。このためソビエト政権は日本軍との緩衝国として1920年4月に極東共和国を建国させた。外国干渉軍を平和裏に撤退させることを目的とした極東共和国はボリシェヴィキだけでなく、メンシェヴィキ、社会革命党、立憲民主党など諸政党も参加する民主主義国家の体裁であったが、実権はボリシェヴィキが掌握している[419]。
1921年には赤軍の勝利はほぼ確定した。干渉軍として最後まで駐留を続けていた日本軍も1922年10月にウラジオストクから撤兵すると、役割を終えた極東共和国は11月にソビエト連邦に結合され消滅した。サハリン北部を占領していた日本軍が撤退したのは1925年のことである。
北米・太平洋
1860年代のロシア領アメリカ
→詳細は「ロシアによるアメリカ大陸の植民地化」、「ロシア領アメリカ」、および「アラスカ購入」を参照
1741年、ベーリングの探検隊がヨーロッパ人として初めてアラスカに到達した。1787年にコディアック島に最初のロシア人入植地が築かれた。1799年に北米植民地経営と北太平洋貿易を目的とした国策会社露米会社が設立され、この地域での毛皮採取と鉱物開発の独占権が与えられた[420]。先住民との戦闘(シトカの戦い)に勝利したロシア人は1804年にシトカの入植地を建設し、アラスカ経営の拠点はコディアック島からここに移された[421]。北米大陸における境界は1824年と1825年に米英と取り決められている。露米会社はカリフォルニアにまで進出しており、サンフランシスコ北方のソノマ郡にロス砦(英語版)居住地を築き、1841年まで維持していた[422]。ロス砦跡。カリフォルニア州ソノマ郡。
露米会社は順調に利益を上げていたが[420]、中央政府はイギリスからの攻撃に対するアラスカ防衛の困難さを危惧し始めており、1867年にロシア領アメリカをアメリカ合衆国に売却した。売却時のアラスカの人口は約3万人で3分の2がエスキモーとインディアンであった[423]。1815年、ロシアの企業家シェッファー(英語版)博士はカウアイ島に渡航し、島の首長カウムアリイ(英語版)(ハワイ王カメハメハ1世の臣下)と保護条約を締結したが、ロシア皇帝は批准を拒否している。ハワイにはエリザベス要塞を含む居住地が築かれ、1853年まで維持されている[424]。
年表
皇帝
ツァーリ 西暦 ロシア帝国関連事項 参考事項
イヴァン5世/
ピョートル1世
(ツァーリとして共同統治) 1682年 ピョートル1世即位。
銃兵隊の反乱によりイヴァン5世との共同統治となり、ソフィアが摂政に就任。
1683年 第二次ウィーン包囲。大トルコ戦争(-1699年)。
1685年 ルイ14世、フォンテーヌブローの勅令を発してナントの勅令を破棄。
1688年 名誉革命。
大同盟戦争(-1697年)
1689年 モスクワ条約、ポーランド・リトアニアからキエフを獲得。
ソフィアが失脚。母后ナタリアが摂政となる。
ネルチンスク条約、清国との国境を画定。 イギリスで権利の章典が公布。
1694年 ピョートル1世親政開始。
ピョートル1世
(1721年までツァーリ) 1696年 イヴァン5世死去。ピョートル1世単独統治。
本格的な海軍を創設してアゾフ要塞を攻略。
1697年 ピョートル1世、西欧に視察旅行(-1798年)
1698年 銃兵隊の反乱。乱後に銃兵隊を廃止、ソフィアを幽閉。
1699年 ポーランド・リトアニア=ザクセンおよびデンマークとの北方同盟成立。 カルロヴィッツ条約。オスマン帝国がハンガリー、トランシルヴァニアなどをオーストリアに割譲。
1700年 大北方戦争(-1721年)
ナルヴァの戦いでスウェーデン王カール12世に大敗。ピョートル1世、軍制改革に着手。 リトアニア内戦。
1701年 スペイン継承戦争(-1714年)
1703年 サンクトペテルブルク建設開始。
1705年 徴兵令施行。
1706年 カムチャッカ領有。
1707年 ドン・カザークが反乱(ブラーヴィンの乱) イングランド王国とスコットランド王国が合併して連合王国が成立。
1708年 ヘーチマン国家の首領マゼーパが離反。
1709年 ポルタヴァの戦いでスウェーデン軍に大勝。
1711年 元老院を設置。
プルト条約でアゾフをクリミア・ハン国に返還。
1714年 ガングートの海戦、スウェーデン海軍に勝利。
1716年 享保の改革(-1745年)
1717年 参議会を設置。
1718年 元皇太子アレクセイ獄死。 パッサロヴィッツ条約、オスマン帝国が北部セルビアなどをオーストリアに割譲。
1720年 総主教位を廃止。
1721年 サンクトペテルブルクに遷都。
「聖務規則」制定。宗務院を設置。
ニスタット条約、スウェーデンからカレリア東部、イングリア、エストニア、リヴォニアを獲得。
元老院と宗務院がピョートル1世に皇帝(インペラートル)の称号を贈る。ロシア帝国成立。
1722年 官等表を制定。
カスピ海遠征。
1725年 ベーリングがカムチャツカ探検に出発。
エカチェリーナ1世 ピョートル1世死去。皇后がエカチェリーナ1世として即位。最高枢密院が実権を握る。
科学アカデミー設立。
ピョートル2世 1727年 エカチェリーナ1世死去。ピョートル2世即位。
キャフタ条約、清国との国境を画定。
1728年 ベーリングがユーラシアと北アメリカの間の海峡を確認。(ベーリング海峡)
アンナ 1730年 ピョートル2世死去。クールラント公未亡人アンナが即位。
1731年 最高枢密院を廃止。バルト・ドイツ人を重用(ドイツ人の支配)
1733年 ポーランド継承戦争(-1735年)
1735年 ロシア・オーストリア・トルコ戦争(-1739年)
1736年 ペルシアでサファヴィー朝滅亡、アフシャール朝成立。
1739年 ベオグラード条約、オスマン帝国が北部セルビアを回復。
イヴァン6世 1740年 アンナ死去。イヴァン6世即位。 オーストリア継承戦争(-1748年)
1741年 スウェーデンとのハット党戦争(-1743年)
エリザヴェータ 宮廷クーデターによりイヴァン6世廃位。エリザヴェータ即位。
1748年 モンテスキュー、『法の精神』を著す。
1750年 ペルシアでザンド朝成立。
1754年 フレンチ・インディアン戦争(-1763年)
1755年 モスクワ大学創立。
1756年 七年戦争(-1762年)
1757年 七年戦争参戦。 プラッシーの戦い、イギリスのインド支配本格化。
1760年 イギリスで産業革命(-1840年)
ピョートル3世 1761年 エリザヴェータ死去。ピョートル3世即位。
1762年 七年戦争から離脱。
貴族の解放令。 ルソー、『社会契約論』を著す。
エカチェリーナ2世 宮廷クーデターによりピョートル3世廃位。エカチェリーナ2世即位。
冬宮殿完成。
1764年 ウクライナのヘーチマン制廃止、小ロシア県設置。
聖界領地の国有地化実施。
1766年 エカチェリーナ2世、法典編纂委員会を組織して「訓令」を発する。
1768年 第一次露土戦争(-1774年)
1772年 第一次ポーランド分割。 スウェーデンでグスタフ3世がグスタフ3世のクーデターを起こし実権を奪取。専制体制に移行。
1773年 プガチョフの乱(-1776年) ボストン茶会事件。
1774年 キュチュク・カイナルジ条約、クリミア・ハン国を保護国化。
1775年 県行政令。 アメリカ独立戦争(-1783年)
1776年 ポチョムキンがクリミア経営にあたり黒海艦隊の拠点となるセヴァストポリ要塞を建設。 アメリカ独立宣言。
スミス『国富論』を著わす。
1783年 クリミア・ハン国併合。
1786年 エカチェリーナ2世がクリミアを行幸。
第二次露土戦争(-1791年) 寛政の改革(-1793年)
1787年 ウクライナの連隊制を廃止して、ヘーチマン国家を解体。 アメリカ合衆国憲法成立。
最上徳内、千島列島を探検。
1788年 第一次ロシア・スウェーデン戦争(-1790年)。
1789年 ウファにムスリム宗務協議会を設立。 フランス革命。
1791年 ヤシ条約、オスマン帝国にクリミア領有を認めさせ、オデッサ周辺を併合。
大黒屋光太夫がエカチェリーナ2世に謁見。 ポーランド・リトアニアが5月3日憲法を制定。
1792年 ラクスマン、日本に来航。大黒屋光太夫帰国。 フランス革命戦争(-1802年)
1793年 第二次ポーランド分割。
1794年 ポーランドでコシチュシュコが蜂起(-1795年) ペルシア、ガージャール朝成立。
1795年 第三次ポーランド分割、ポーランド国家消滅。
パーヴェル1世 1796年 エカチェリーナ2世死去。パーヴェル1世即位。 ペルシア、サファヴィー朝成立。
白蓮教徒の乱。
1797年 帝位継承法制定。
1798年 ナポレオンのエジプト遠征(-1801年)
1799年 第二次対仏大同盟戦争。
露米会社設立。 ブリュメール18日のクーデター、ナポレオン権力掌握。
1800年 対仏同盟から離脱、ナポレオンに接近。
1801年 東グルジアを併合。
アレクサンドル1世 宮廷クーデターによりパーヴェル1世殺害。アレクサンドル1世即位。
秘密委員会を設置。(-1803年)
カフカース総督府を設置。
1802年 参議会を廃止、省庁制[要曖昧さ回避]と大臣委員会を設置。 アミアンの和約。
1804年 ロシア・ペルシア戦争(-1813年)
シトカの戦い、アラスカ先住民に勝利。 ハイチ革命。
第一次セルビア蜂起。
ナポレオンが皇帝に即位。
1805年 第三次対仏大同盟戦争(-1806年)。
アウステルリッツの戦いでナポレオンに大敗。 ムハンマド・アリーがエジプト総督に就任。(ムハンマド・アリー朝)
トラファルガーの海戦。
1806年 第四次対仏大同盟戦争(-1809年)。
第三次露土戦争(-1812年) 神聖ローマ帝国解体。
1807年 ティルジットの和約、ナポレオンの大陸封鎖に参加。 ワルシャワ公国建国。
半島戦争(-1814年)
1808年 第二次ロシア・スウェーデン戦争(-1809年)。 間宮林蔵が樺太を探検。
1809年 フレドリクスハムン条約、フィンランド大公国を建国。
スペランスキー改革。(-1812年)
1810年 西グルジアを併合。 メキシコ独立革命(-1821年)
1811年 国家評議会設立。
ゴローニン事件、松前藩がロシア艦艦長を抑留する。
1812年 スペランスキー失脚。
ブカレスト条約、オスマン帝国からベッサラビアを獲得。
ナポレオンのロシア遠征(祖国戦争)。ボロジノの戦い。
モスクワ大火、ナポレオンの遠征軍は退却戦で大損害を出して壊滅。
ペルシアより、アゼルバイジャンを獲得。 米英戦争(-1814年)
1813年 諸国民戦争、ライプツィヒの戦いでナポレオン軍を撃破。
1814年 ロシア軍パリ入城。 ナポレオン退位。
ウィーン会議(-1815年)
スウェーデン=ノルウェー同君連合成立。
1815年 アレクサンドル1世の提唱による神聖同盟が結成される。(ウィーン体制)
ポーランド立憲王国建国。 ナポレオンの百日天下。ワーテルローの戦い。
第二次セルビア蜂起。
1816年 アラクチェーエフ体制(-1825年)
デカブリストの秘密結社結成。 アルゼンチン独立。
1817年 カフカース戦争(-1864年)
1820年 スペイン立憲革命。
1821年 アラスカ領有。 ギリシャ独立戦争(-1832年)
ワラキア蜂起
1823年 アメリカ、モンロー宣言。
ニコライ1世 1825年 アレクサンドル1世死去。ニコライ1世即位。
デカブリストの乱。 異国船打払令。
1826年 秘密警察「皇帝官房第三部」を設置。
アッケルマン条約、ドナウ二公国(モルダヴィア、ワラキア)をオスマン帝国と共同統治。 オスマン皇帝マフムト2世、イェニチェリを廃止。上からの近代化改革をすすめる。
1827年 ナヴァリノの海戦、英仏艦隊とともにオスマン=エジプト連合艦隊を殲滅。
1828年 ペルシアとのトルコマーンチャーイ条約でアルメニアを獲得。
露土戦争(-1829年)
1829年 アドリアノープル条約、ドナウ河口、カフカース地方の一部を獲得。ドナウ二公国を保護国とする。
1830年 ポーランドで十一月蜂起(-1831年)
『ロシア帝国法律大全』編纂。 フランス7月革命。
ベルギー独立。
天保の改革(-1844年)
1832年 イギリス第一次選挙法改正、腐敗選挙区を撤廃。
1833年 『ロシア帝国法典』発布。
1834年 ドイツ関税同盟成立。
1836年 オスマン帝国でギュルハネ勅令。西欧化改革(タンジマート)が始まる。
1837年 カザフスタンでケネサルの反乱(-1877年)
1839年 イギリスでチャーチスト運動。
第一次アフガン戦争(-1842年)
1840年 阿片戦争(-1842年)
1841年
1846年 ウクライナの秘密結社キリル・メソジウス団が摘発される。 米墨戦争(-1848年)
1848年 中欧の1848年革命に介入してハンガリー革命軍を粉砕。 マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を発表。
フランスとドイツ、オーストリアで革命(1848年革命)。
第1次イタリア独立戦争(-1849年)
1850年 太平天国の乱(-1864年)
1852年 ナポレオン3世即位。フランス第二帝政。
1853年 プチャーチン、長崎に来航。
クリミア戦争(-1856年)。
シノープの海戦、オスマン艦隊を撃滅。 ペリー提督が浦賀に来航。
1854年 セヴァストポリ包囲戦(-1855年)。
アレクサンドル2世 1855年 ニコライ1世死去。アレクサンドル2世即位。
セヴァストポリ陥落。
日露和親条約。
1856年 パリ講和条約、黒海を中立化。
1857年 沿海州設置。 インド大反乱(-1858年)
アロー戦争(-1858年)
1858年 清国とアイグン条約、アムール川左岸を獲得。
日露修好通商条約。
1859年 第2次イタリア独立戦争。
ルーマニア公国成立。
1860年 北京条約を締結、沿海地方を獲得し、ウラジオストクを建設。 清国で洋務運動(同治中興)
桜田門外の変。
1861年 ロシア軍艦対馬占領事件。
農奴解放令を発布。 南北戦争(-1865年)
イタリア王国成立。
1862年 リンカーンが奴隷解放宣言を行う。
1863年 ポーランドで一月蜂起(-1864年)
ヴァルーエフ指令、ウクライナ語出版物を規制。 薩英戦争。
1864年 地方行政改革、ゼムストヴォ(地方自治会)設置。
司法制度改革。 「国際労働者協会」(第一インターナショナル)結成。
1865年 コーカンド・ハン国を征服。 リンカーン大統領暗殺事件。
1866年 皇帝暗殺未遂事件(カラコーゾフ事件) 普墺戦争。
1867年 アラスカをアメリカ合衆国に売却。
トルキスタン総督府設置。 オーストリア・ハンガリー帝国成立。
マルクスが『資本論』第1部を刊行。
大政奉還。
1868年 ブハラ・アミール国を征服。 明治維新。
ボスニア蜂起。
1869年 スエズ運河開通。
第1バチカン公会議(-1870年)
1870年 パリ条約の黒海中立化条項を破棄。 普仏戦争(-1871年)
イタリア王国、ローマを占領。
1871年 ドイツ帝国成立。
パリ・コミューン。
廃藩置県。
1873年 ヒヴァ・ハン国を征服。
ドイツ、オーストリアとの三帝同盟成立。 スペイン第一共和政成立。
1874年 軍制改革、国民皆兵制を施行。
ナロードニキ運動が最高潮になる。「狂った夏」
1875年 サンクトペテルブルク条約(樺太・千島交換条約)。 ブルガリア4月蜂起。
1876年 ウクライナ語の使用を禁止するエムス法公布。
コーカンド・ハン国を併合。
第二次「土地と自由」結成。 オスマン帝国憲法発布。
1877年 露土戦争(-1878年) インド帝国成立。
西南戦争。
1878年 サン・ステファノ条約、オスマン帝国にセルビア、モンテネグロそしてルーマニアの独立と大ブルガリア公国の建国を承認させる。
ベルリン会議、列強国によるバルカン半島の国境改定、大ブルガリアを断念。 オスマン皇帝アブデュルハミト2世、憲法を廃止して専制体制に移行。
第二次アフガン戦争(-1880年)
1879年 「土地と自由」、「人民の意志」派と「土地総割替」派に分裂。 エジプトでウラービー革命(-1882年)
南アフリカでズールー戦争。
1881年 清国とイリ条約、中央アジアの境界を画定。 日本で国会開設の詔。
アレクサンドル3世 人民の意志派がアレクサンドル2世を暗殺。アレクサンドル3世即位。
ウクライナでポグロム(ユダヤ人虐殺)発生。
トルクメニスタンの征服を完了。
1882年 ステップ総督府設置。
1884年 清仏戦争(-1885年)
1886年 イギリスがビルマを占領。
1887年 独露再保障条約。 仏領インドシナ成立。
1889年 バルト・ドイツ人貴族の特権を廃止。 第二インターナショナル。
大日本帝国憲法発布。
1890年 三帝同盟解消。 日本で第1回帝国議会。
1891年 シベリア鉄道起工。
大津事件、皇太子ニコライ暗殺未遂。
1892年 ヴィッテが大蔵大臣に就任。ロシアの工業化が進展。
1894年 露仏同盟。 日清戦争(-1895年)
ニコライ2世 アレクサンドル3世死去。ニコライ2世即位。
1895年 三国干渉、日本に対して遼東半島の清国還付を要求。
1897年 大韓帝国成立。
アメリカ、ハワイを併合。
1898年 清国から旅順・大連を租借、旅順要塞を建設。
社会民主労働党結党、直後の弾圧で活動中断。 米西戦争。
清国で近代化改革が試みられるが失敗(戊戌の変法)。
1899年 二月宣言、フィンランドの自治権を制限。 ハーグ万国平和会議。
南アフリカでボーア戦争(-1902年)
1900年 義和団事件に介入して満州を軍事占領。
1901年 シベリア鉄道、モスクワ – ウラジオストク間開通。(バイカル湖迂回線は1904年開通)
社会革命党結成。
1902年 日英同盟。
1903年 社会民主労働党がボリシェヴィキとメンシェヴィキに分裂。
ベッサラビアでポグロム発生。ウクライナ・西部ロシアに広まる。(-1906年) ライト兄弟、初飛行。
1904年 日露戦争(-1905年)
旅順攻囲戦(-1905年)。
1905年 血の日曜日事件。1905年革命勃発。
奉天会戦。
日本海海戦でバルチック艦隊が壊滅。
戦艦ポチョムキンの反乱。
ポーツマス条約、日本に南樺太割譲、大連・旅順租借権譲渡、東清鉄道の一部譲渡。
十月詔書。
立憲民主党結党。
モスクワ蜂起。 第一次モロッコ事件。
イラン立憲革命(-1911年)
ノルウェー独立。
1906年 オクチャブリスト結党。
国家基本法公布。
第一ドゥーマ(国会)。自由主義派が優勢、土地問題で強制解散。
ストルイピンが大臣会議議長(首相)に就任。(ストルイピン改革)
フィンランドで普通選挙による一院制国会成立。
1907年 英仏露三国協商成立。
第二ドゥーマ。社会主義諸派が躍進、強制解散。
6月3日クーデター。
第三ドゥーマ。選挙法改正により保守派が多数を占める。
1908年 青年トルコ人革命。
ブルガリア独立。
1910年 韓国併合。
1911年 ストルイピン暗殺。 辛亥革命。
モンゴルでボグド・ハーン政権成立。
第二次モロッコ事件。
伊土戦争(-1912年)
1912年 レナ虐殺事件。
第四ドゥーマ。 中華民国成立。
バルカン同盟成立。
第一次バルカン戦争(-1913年)
1913年 第二次バルカン戦争。
1914年 第一次世界大戦(-1918年)
タンネンベルクの戦いでドイツ軍[要曖昧さ回避]に敗れる。 サラエボ事件。
パナマ運河開通。
マルヌ会戦。
1915年 ドイツ軍の攻勢、ポーランド・リトアニア・ベラルーシ西部を占領される。 ガリポリ上陸作戦。
ルシタニア号事件。
対華21カ条要求。
アルメニア人虐殺(-1923年)
1916年 ブルシーロフ攻勢、オーストリア・ハンガリー軍に大打撃を与える。
中央アジアで大規模な民族暴動(1916年反乱)
ラスプーチン暗殺。 ヴェルダンの戦い。
ソンムの戦い。
ユトランド沖海戦 。
アイルランドでイースター蜂起。
1917年 二月革命。ニコライ2世退位。帝政終焉。
脚注
[脚注の使い方]
注釈
^ 「ツァーリ」という古東スラヴ語の称号は、東ローマ帝国の皇帝、聖書で登場する聖人や君主、モンゴル帝国のハーンやハンたちに対して用いられていたものである。俗説によれば、1453年に東ローマ帝国のパレオロゴス朝がオスマン帝国に滅ぼされた後、1467年にモスクワ大公イヴァン3世はパレオロゴス朝最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスの姪ゾエ・パレオロギナを迎えて結婚し、ツァーリの称号を名乗る正統性を得たとされる。
^ ピョートル2世の治世に2年間(1728年-1730年)だけモスクワに還都している。
^ ロシアの農業奴隷は公式にはこれ以前の1679年に農奴に転換している。Welcome to Encyclopædia Britannica’s Guide to History
^ エカチェリーナ1世はリトアニアの農民の出身で、ピョートル1世の愛人になる以前はメーンシコフ将軍の愛人だったとされる(大野他(1974),p.178.)。しかしながら、彼女の素生については諸説あり真実は明らかではない(田中(2009),p.19.)。
^ ピョートル3世は性格破綻者・暗愚な人物とされて評価が低いが、これはエカチェリーナ2世によるプロパガンダの側面も大きく、近年では彼の治世や能力について再評価する研究動向もある。田中(2009),pp.31-33.
^ ピョートル3世は退位の1週間後に殺害された。エカチェリーナ2世の関与については不明である。土肥(2007),p.150.
^ 次弟のコンスタンチン大公はポーランド女性と結婚したため皇位継承権を放棄しており、末弟のニコライ大公が皇位継承者となっていたが公表されていなかった。岩間他(1979),p.283;矢田(1968),p.170.
^ アドリアノープル条約ではギリシャの自治だったが、ロンドンでの会議の結果、1830年に独立が決まった。田中他(1994),p.187.
^ 政府に対して買戻金の負債を課せられた元農奴は「一時的義務負担農民」と呼ばれた。49年賦を課せられたが、一時的義務負担農民にはこれを支払うことができず、結局1907年に全額廃止されている。岩間他(1979),pp.315-316.
^ 社会主義者のアレクサンドル・ゲルツェンはポーランド人の反乱を支持したが、彼の発行する機関誌の購読者数が激減する結果となった。松田(1990),p.72.
^ 革命家たちに対するエリート層の反応の分析は次を参照せよ。Manning, Roberta. The Crisis of the Old Order in Russia: Gentry and Government. Princeton University Press, 1982.
^ ロジャンコ国会議長はアレクセイ皇太子への譲位を進言し、ニコライ2世もこれに同意したが、アレクセイ皇太子が患っていた血友病の病状を心配して結局は弟のミハイル大公に代えている。田中他(1997),p.35.
^ ソビエト政権はグレゴリオ暦を導入し、1918年1月31日の翌日を2月14日としている。
^ フィンランド大公国では1772年に公布されたスウェーデンの基本法(憲法)がロシア併合後も維持された。
^ ポーランド王国の実態が消滅した後もロシア皇帝はポーランド国王の称号は保持し続けている。
^ 11月11日はポーランドの独立記念日に指定されている。伊東他(1998),p.253.
^ ウクライナ語で「評議会」の意味。
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関連図書
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関連項目
ロシアの歴史
ロシア・ツァーリ国
ソビエト連邦
ロシア皇帝
外部リンクウィキメディア・コモンズには、ロシア帝国の歴史に関連するカテゴリがあります。
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Library of Congress Country Studies: Russia
Russian Empire: All about Russian Empire and Russia (Russian).
The Empire that was Russia: color photographs from en:Library of Congress
Maps of the Russian Empire 1795-1914
表話編歴
ヨーロッパ史
先史ヨーロッパ
旧石器時代のヨーロッパ新石器時代のヨーロッパヨーロッパの青銅器時代鉄器時代のヨーロッパ
古典古代
古典ギリシア共和政ローマヘレニズムローマ帝国古代末期初代教会3世紀の危機ローマ帝国の衰退
中世
中世前期民族移動時代東ローマ帝国キリスト教化キエフ大公国中世盛期神聖ローマ帝国十字軍封建制中世後期百年戦争ルネサンス
近世ヨーロッパ
宗教改革大航海時代バロック三十年戦争絶対王政オスマン帝国ポルトガル海上帝国スペイン帝国ブルボン朝ポーランド・リトアニア共和国バルト帝国ネーデルラント連邦共和国イギリス帝国ハプスブルク帝国ロシア帝国
近現代史
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関連項目
ヨーロッパ遺伝史(英語版)西洋文明史地中海地域史ヨーロッパ軍事史西洋美術史ヨーロッパ海運史欧州連合の歴史
表話編歴
植民地帝国
カテゴリ: ロシア帝国
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グリーンランドだけではない 外国を何度も買ってきた、アメリカの歴史
https://globe.asahi.com/article/12766377

『更新日:2019.10.07 公開日:2019.10.07
In a photo from the National Archives, a map that accompanied President James K. Polk’s message to Congress in December 1848 suggested ways to divid the territory gained through the Treaty of Guadalupe-Hidalgo. Greenland officials have rebuffed President Trumpユs plan to buy the island, but the United States has a history of purchasing lands from other countries. (National Archives via The New York Times) — FOR EDITORIAL USE ONLY
1848年12月の米国議会に提出された、グアダルーペ・イダルゴ条約で線引きされた米国領の地図。大統領ジェームズ・ポークのメッセージが添えられている=National Archives via The New York Times/©2019 The New York Times
米国が外国の領土を、単に条約だけではなく金銭取引で手に入れたのはカリブ海のバージン諸島(訳注=バージン諸島のうちの西側を指す。東側は英領バージン諸島)が最後だった。1917年のことで、デンマークから購入した。
それから100年以上が過ぎた今日、大統領ドナルド・トランプが世界最大の島グリーンランドをデンマークから買い取りたいと意欲を示した。デンマークは拒否したが、同島を買おうとした大統領はトランプが初めてではなかった。1946年、当時の大統領ハリー・トルーマンが購入を提案した。デンマークはその時も応じなかった。
243年の歴史の中で、米国は何度も外国の領土を購入してきた。現在のアリゾナ、ニューメキシコ両州の大半はメキシコから、フロリダ州はスペインから、アラスカ州はロシアからそれぞれ購入した。
しかしながら、それは何世紀も前のことで、列強が戦争し、条約交渉をして新大陸の領有を争っていた開拓時代の話だ。
「もはやそんなことは通用しない」とノースウェスタン大学准教授のダニエル・イマバールは断言した。歴史学者で「How to Hide an Empire(帝国の隠し方)」の著者でもある。
彼によると、20世紀への変わり目で「フロンティア(辺境の地)はもはやなくなった」と認識され、所有権のない地域はほとんど残っていなかった。
「別の言い方をすれば、領土の拡張は他の強大な帝国の犠牲の上でしか成立しなくなったのであり、その地の先住民が犠牲になって勝ち取ったのではなかった」とイマバールは語った。
世界が手狭になっても、領土を拡大して帝国建設を進めたいとする野望が第1次世界大戦と第2次世界大戦の引き金になった。
イマバールは「第2次世界大戦後、世界地図は以前よりずっと固定化された」と述べるとともに、各国とも「広大な地続きの土地を併合しないまま世界に影響力を及ぼす方がより簡単にすむ」ことに気づいたのだ、と語った。
米国の主だった領土購入例のいくつかを取り上げてみると――
■1803年 ルイジアナ購入
米国は82万8千平方マイル(214万4510平方キロメートル)のルイジアナの地をフランスから1500万ドルで購入した。現在の価値だと3億4千万ドル(1ドル=105円換算で357億円)に相当する。
この地はミシシッピ川からロッキー山脈に及び、現在の15州――アーカンソー、コロラド、アイオワ、カンザス、ルイジアナ、ミネソタ、ミズーリ、モンタナ、ネブラスカ、ニューメキシコ、ノースダコタ、オクラホマ、サウスダコタ、テキサス、ワイオミングの各州――にまたがって広がっていた。
大統領トーマス・ジェファーソンは、フランスからニューオーリンズだけを買い取るため、ジェームズ・モンロー(訳注=後の大統領)を特使として派遣した。しかし、当時の統領ナポレオン・ボナパルトは、フランスのルイジアナ領全部を売却すると申し出た。
■1819年 フロリダ
1819年、スペインとの間でアダムズ・オニス条約が調印された。スペインは「ウェストフロリダ」と「イーストフロリダ」を割譲した。両フロリダは現在のアラバマ、ルイジアナ、ミシシッピとフロリダ・パンハンドル(訳注=フロリダ州北西部)にまたがる地で、スペインの植民地だった。
アメリカ独立戦争(訳注=1775~83年、アメリカの13の植民地が英国からの独立を成し遂げた)の間、両フロリダは英国の植民地だった。83年のパリ条約で独立が達成されると、両フロリダはスペインに戻された。
In a photo from the National Archives, Secretary of State John Hay signs the memorandum of ratification of the Treaty of Paris (1898) on behalf of the U.S. Greenland officials have rebuffed President Trump’s plan to buy the island, but the United States has a history of purchasing lands from other countries. (National Archives via The New York Times) — FOR EDITORIAL USE ONLY
1898年のパリ条約批准の覚書に署名する国務長官ジョン・ヘイ=National Archives via The New York Times/©2019 The New York Times1810年、ウェストフロリダのアメリカ人植民がスペインからの独立を宣言した。大統領ジェームズ・マディソンと米議会はこの反乱を好機ととらえ、同地は「ルイジアナ購入」で獲得した土地の一部であると領有権を主張。15年、当時の国務長官ジョン・クインシー・アダムズ(訳注=後の大統領)がスペイン特使のドン・ルイス・デ・オニスと交渉を開始した。
このアダムズ・オニス条約で、米国は反乱の代償として500万ドル、現在の価値だと1億100万ドル(同約106億円)を支払うことで同意した。さらに、「ルイジアナ購入」で得た地域の西側国境が画定された。また、スペインが領有権を主張していた「パシフィック・ノースウェスト(訳注=現在の米アラスカからカナダ太平洋岸を経て米北西部に至る太平洋岸北西部)を放棄させ、スペインにはテキサスの主権を承認した。
条約は21年に批准された。
■1848年 メキシコ割譲
アメリカ・メキシコ戦争(訳注=米墨戦争。米国が1845年にテキサスを併合、メキシコは外交交渉を拒否し、46年に戦闘開始、米軍が圧勝)は48年、米大統領ジェームズ・ポークがメキシコ市でグアダルーペ・イダルゴ条約に調印して終結した。メキシコは52万5千平方マイル(約135万9744平方キロメートル)の領土を1500万ドルの一括払い、現在の価値で4億8700万ドル(同511億3500万円)相当で米国に割譲した。
割譲した領土は今日のカリフォルニア、ネバダ、ユタ各州とアリゾナ、コロラド、ニューメキシコ、ワイオミング各州の一部。
条約はこれらの地域に残ったメキシコ人に自動的に米市民権を付与し、メキシコ系米国人はそれまでの財産を所有することも許された。
■1854年 ガズデン購入
米国務省歴史部によると、米国は現在のアリゾナ州とニューメキシコ州の一部を取り囲む3千万平方マイル(約7769万9643平方キロメートル)近くの地域を買い取るため、メキシコに1千万ドル、現在の価値で3億500万ドル(同約320億円)相当を支払った。
アメリカ・メキシコ戦争は1848年に終結したが、米国とメキシコの間では緊張が続いていた。両国ともニューメキシコ南部からテキサス西部にかかるメシーラ渓谷の領有を主張していたためだった。
米大統領フランクリン・ピアースはメキシコ担当相のジェームズ・ガズデンをメキシコに派遣、大統領アントニオ・デ・サンタ・アンナと交渉させた。新たな条約が結ばれ、米国の南側国境が策定された。
■1867年 アラスカ購入
米国は60万平方マイル(約155万3993平方キロメートル)近くの地域をロシアから720万ドル、現在の価値にすると1億2500万ドル(同約131億円)相当で買い取った。
アラスカ購入はロシアの北米への領土拡張に終止符を打った。ロシアのピョートル大帝は1725年にアラスカの地の探検に乗り出したが、永住植民者数が400人を超えることはなかった、と米国務省歴史部は記している。
ロシアはアラスカの天然資源に関心を持っていたが、植民のための主要支援策の資金に事欠いていた。クリミア戦争(訳注=1853~56年)に敗れた後、59年にアラスカ売却を申し出た。
買収の駆け引きは米国内の南北戦争(訳注=1861~65年)のために遅れ、67年に米大統領アンドリュー・ジョンソンが条約に調印した。アラスカは1959年まで州にならなかった。
■1898年 フィリピン諸島1898年、アメリカ・スペイン戦争(訳注=米西戦争。キューバの独立闘争に介入した米国とスペインの戦争。スペインが敗戦)が終結し、パリ条約が結ばれた。スペインは3世紀以上にわたって植民地にしていたフィリピンを米国に譲渡した。
このパリ条約でキューバの独立が認められ、グアムとプエルトリコも米国に割譲された。 米国はフィリピン譲渡に対してスペインに2千万ドル、現在の価値で6億1800万ドル(同約649億円)相当を支払った。
しかし翌99年、フィリピンの民族主義者たちが独立を要求して米軍に反乱を起こし、アメリカ・フィリピン戦争に発展。エミリオ・アギナルドに率いられたフィリピン民族主義者たちがすべての植民地支配からの独立を求めて抵抗した。
戦争は3年間に及んだ(訳注=フィリピン側の抵抗は米軍に武力鎮圧された)。米国がフィリピンの独立を承認したのは1946年だった。
■1917年 バージン諸島
In a photo from the Library of Congress, the American flag is raised in the Danish West Indies around 1918. Greenland officials have rebuffed President Trump’s plan to buy the island, but the United States has a history of purchasing lands from other countries. (National Photo Company Collection/Library of Congress via The New York Times) — FOR EDITORIAL USE ONLY
デンマーク領西インド諸島だった地に米国旗が掲げられた=1918年ごろ、National Photo Company Collection/Library of Congress via The New York Times/©2019 The New York Times130平方マイル(約337平方キロメートル)にまたがるカリブ海のバージン諸島は、デンマークから2500万ドル、現在の価値で5億100万ドル(同約526億円)相当で米国が買い取った。セントクロイ島、セントジョン島、セントトーマス島、その他いくつもの小島がある。
当時デンマーク領西インド諸島として知られていたが、米国は同諸島を獲得してカリブ海に影響力を及ぼしたいと1867年から画策していた。1917年になって大統領ウッドロー・ウィルソンが購入条約に署名し、バージン諸島は、正式に米国の領土として移管された。
(Mariel Padilla)©2019 The New York Times
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