カテゴリー: 世界の地理、関連
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モルディブ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%96
※ 環礁のでき方を示す.gif。



政府 大統領 モハメド・ムイズ 副大統領(英語版) フセイン・モハメド・ラシーフ(英語版) 面積 総計 300km2(187位) 水面積率 極僅か 人口 総計(2022年) 390,164[1]人(176位) 人口密度 1,300.5人/km2 GDP(自国通貨表示) 合計(2020年) 576億300万[2]ルフィヤ(£) GDP(MER) 合計(2020年) 37億3800万[2]ドル(152位) 1人あたり 9888.651(推計)[2]ドル GDP(PPP) 合計(2020年) 74億4000万[2]ドル(161位) 1人あたり 1万9681.526(推計)[2]ドル 独立 - 日付 イギリスより 1965年7月26日 通貨 ルフィヤ(£)(MVR) 時間帯 UTC(+5) (DST:なし) ISO 3166-1 MV / MDV ccTLD .mv 国際電話番号 960


『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モルディブ共和国
ދިވެހި ރާއްޖޭގެ ޖުމްހޫރިއްޔާ
モルディブの国旗 モルディブの国章
(国旗) (国章)
国の標語:なし
国歌:ޤައުމީ ސަލާމް(ディベヒ語)
国家敬礼
Duration: 1 minute and 9 seconds.1:09
モルディブの位置
公用語 ディベヒ語
首都 マレ
最大の都市 マレ












『NASAによるモルディブの衛星画像
モルディブ共和国(モルディブきょうわこく、ディベヒ語: ދިވެހިރާއްޖޭގެ ޖުމްހޫރިއްޔާ, Dhivehi Raa’jeyge Jumhooriyya、英語: Republic of Maldives[3])、通称モルディブは、インド洋上のモルディブ諸島を領土とする島国。
インドとスリランカの南西に点在する1192の島から構成される[3]。
いずれも小さな島や環礁であり、国土面積の合計は298平方キロメートル[3]。
首都はマレ[3]。人口は約51万人で、うち外国人が13万人以上を占める[3]。
温暖で過ごしやすく、開発が進んでいないため自然に溢れており、「アジアの楽園」とも称される[誰によって?]。
国名
正式名称はދިވެހި ރާއްޖޭގެ ޖުމްހޫރިއްޔާ(ディベヒ語:ラテン文字転写はDhivehi Raajjeyge Jumhooriyyaa。読みはディヴェヒ・ラーッジェーゲ・ジュムフーリッヤー)。通称、Raajje。
公式の英語表記はRepublic of Maldives(リパブリック・オブ・モールディーヴズ)。通称、Maldives。
日本語表記はモルディブ共和国。通称はモルディブ、もしくはモルジブとも。
ディベヒ語名の「Raajjeyge」とは、島を意味する「rah」の複数形「Raajje」に所有格を表す接尾辞「ge」がついたもの。「Jumhooriyyaa」は共和国の意。「Dhivehi」は「島に住む人」の意。
英語名の「Maldives」はサンスクリットで「島々の花輪」を意味する「Malodheep(マローディープ。マーラー(mālā、माला。「輪」)+ドウィーパーハ(dvīpāḥ、द्वीपाः。「島々」))に由来するとされる。
これはモルディブの珊瑚礁の島々が輪を描くように並んで浮かんでいる様子を花輪にたとえたものである。
歴史
詳細は「モルディブの歴史(英語版)」を参照
約2000年前、インド亜大陸南部やセイロン島から移住してきた人々が暮らし始めた[3]。
当初は仏教徒が多かったが、中東に興ったイスラム教がインド洋沿岸各地にも布教され、1153年にイスラム教へ改宗し、以降スルターンにより統治されるようになった[3]。
イスラム世界の大旅行家イブン・バットゥータが1343年から翌年にかけて滞在し、政府高官として10ヶ月間勤務した。
大航海時代に入ると、アフリカ大陸南端を回ってヨーロッパ(欧州)諸国がインド洋に勢力を拡大。
1558年から1573年にかけてポルトガルがマーレを占拠。1645年から1796年はオランダの保護国となった。
欧州列強のうち、イギリスはインド洋沿岸各地に植民地を拡大(大英帝国)。モルディブも1887年に保護国として、イギリス領セイロンを通じて統治下した[3]。
1932年、最初の憲法が起草され、スルターン位が世襲制から選挙制に移行した。
第二次世界大戦では、モルディブ南端のアッドゥ環礁がイギリス海軍の基地として使われた。
戦後、大英帝国は植民地は相次ぎ独立した。
モルディブでは1953年に君主制が廃止され、共和制に移行。
アミン・ディディが初代大統領に就任したが、一年も経たずに政権崩壊。
王政復古により、ムハンマド・ファリド・ディディが第94代スルターンに選ばれた。
1959年には、アッドゥ環礁など南部にてアドゥアン人民共和国(後にスバディバ連合共和国に改称)が独立を宣言し、1963年まで存続した。
1965年[3]7月26日、スルターンを元首とするモルディブ・スルターン国として独立。
1968年[3]11月11日には、国民投票で世襲君主制を廃止して、共和制に移行した。
1978年11月11日、ナシル初代大統領に代わりマウムーン・アブドゥル・ガユームが第2代大統領に就任[3]。
1982年7月9日、イギリス連邦に加盟した。
2016年10月13日に離脱し[4]、2020年2月1日に再加盟した[5]。
1988年11月3日、国内実業家の雇ったタミル・イーラム人民解放機構 (PLOTE) の傭兵部隊によるクーデターが勃発(1988年モルディブクーデター)。
当時モルディブは軍を保有していなかったため、同日夜に輸送機によりインド軍が投入されて傭兵部隊は鎮圧された。
2004年、長期政権となっていたガユーム大統領と野党勢力の対立が続き、政治犯釈放を求めるデモが拡大し、非常事態宣言が出される。以後、政治の民主化改革が行われる。
同年12月26日、スマトラ島沖地震による津波の襲来を受け82名が死亡するなどの被害を受けた。
2007年9月29日、首都マーレで爆弾テロと見られる爆発があり、日本人2人を含む外国人観光客12人が負傷した。
2008年1月8日、北部のホアラフシ島で大統領暗殺未遂事件があり、15歳のボーイスカウトの少年が犯人を制止し、少年は腕を負傷した。
同年10月29日、民主化後初の大統領選挙が行われ、モハメド・ナシードが当選(11月11日就任)。
ナシード大統領は2012年2月7日に辞任し、モハメド・ワヒード・ハサン副大統領が、大統領に昇格した。
2013年、大統領選挙により親中派の[6]アブドゥラ・ヤミーン大統領が当選、ナシード前大統領は僅差で落選[7]。
ナシード前大統領は2015年2月に反テロ法違反の容疑で逮捕、懲役13年の判決を受ける[7]。
ヤミーンは、中華人民共和国(中国)の資金でインフラ整備を進め、政治では独裁色を強めた[6]。
2015年7月、首都マレにて独立50周年記念式典が行なわれた[8]。
同年9月28日、アブドゥラ・ヤミーン大統領暗殺未遂事件が発生した[9]。
2018年9月23日、野党統一候補のイブラヒム・モハメド・ソリ(ソーリフ)が大統領選挙に勝利[4]。
ソリは親インド派[6]で、同年12月17日にはインドを訪問して、14億ドルの融資枠と通貨スワップの提供をとりつけ、前政権の中国依存路線から修正を図った[10]。
その後もインドから橋や道路の建設費、2019新型コロナウイルスへの対策費などの支援を受けている[11]。
2023年9月30日の大統領選挙では、モハメド・ムイズが当選し[12]、ソリを破った。
ムイズはヤミーン政権の住宅・インフラ担当閣僚やマレ市長を務め、汚職などの疑いで禁錮刑判決を受けて大統領選挙に出馬できなかったヤミーンの「代役」とする見方もある[6]。
選挙戦では、インドが海洋監視や捜索救難のため航空機を貸与していることに伴う70人程度のインド軍駐留解消を掲げ、11月17日の大統領就任式典では「主権と独立を保つため、いかなる外国の部隊の駐留も許さない」と語り、翌日には式典に出席したインド政府のリジュジュ地球科学相にインド軍撤収を正式に要請した[6]。
対外関係
イギリス連邦に加盟している一方で、非同盟・中立政策を掲げ、各国との友好に努めている[3]。
だがインド洋の中央部という地政学的に重要な位置にあるため、北隣の大国であるインドのほか、インド洋進出を図る中国(「真珠の首飾り戦略」「一帯一路」参照)、西側諸国に重視されている。
上記の「歴史」節と、「政治」「軍事」節で後述するように安全保障や国内政局、経済も諸外国、特に中印の影響を強く受ける[6]。
近海の監視や救急搬送を担う航空機やヘリコプターを運用するため、国内に約70人のインド軍兵士が駐留しているとされる。
2023年11月に就任した親中国派のムイズ大統領は、就任演説で「主権と独立を保つため、いかなる外国の部隊も駐留させない」と訴え、撤退を要請した[13]。
ロシアへの半導体供給
2022年ロシアのウクライナ侵攻開始後、モルディブが対ロシア経済制裁の回避ルートとして使われており、ロシアにおける米国製半導体の輸入額はモルディブからが約75億円と香港を含む中国やトルコに次いで大きく、取引件数は2番目に多かったとの報道がなされた[14][15]。
日本との関係
詳細は「日本とモルディブの関係」を参照
モルディブは独立の2年後、1967年に日本との国交を樹立している。
その後長らく在スリランカ日本国大使館が在モルディブ日本国大使館としての業務を兼轄していたが、2016年にマーレに在モルディブ日本国大使館が開設され、同年7月には常駐としては初の在モルディブ日本国大使が着任した。
一方、駐日モルディブ大使館は2007年に開設された。
1987年にはサイクロンによる高波でマーレの首都機能が麻痺したことから日本政府に緊急援助・災害対策支援の要請があり、これを受けて1987年から2002年までの15年間に計5回(1987年-1989年にかけて緊急事業としてマーレ島南部、1994年からは第1次:西岸、第2次:東岸、第3次:南岸、第4次:北岸)に分けて約75億円をかけてODAによる護岸堤建設が行われた[16]。
完成後の2004年にはスマトラ島沖地震による津波が襲来してマーレの約2/3が冠水したが、津波による死者は出なかった[17]。
一方、2011年3月11日の東日本大震災に際しては、救援物資としてモルディブ政府からツナ缶8万6400個、市民が持ち寄った義援金700万ルフィア(約4,600万円)とツナ缶約60万個が送られている[17][18]。
市民が持ち寄った缶詰は、缶切りなしで開けられるよう同国内の加工業者がいったん引き取ってプルトップ缶に詰め替えた上で日本に送られた[18]。
軍事
詳細は「モルディブ国防軍」を参照
モルディブは長く軍事力を保有していなかったが、1558年にポルトガルに占領された後、抵抗軍が組織され、1573年には独力でポルトガル軍の撃退に成功した。
以降、17世紀中盤の数度のポルトガルによる再攻撃もすべて撃退し、19世紀後半には近代軍に移行したが、20世紀中盤以降は治安部隊(国家保安隊)に縮小されていた。
その後、国家保安隊が警察機能を兼任していたため、一国における単一組織の権限が大き過ぎることが懸念されるようになり、また1988年に同国の実業家が傭兵を使ってクーデター未遂事件を起こしたこともあって、2006年に警察機能を分離してモルディブ国防軍として再編成された。
なお、全方位外交を旨としていることから、安全保障条約なども締結していないが、諸外国軍との共同訓練などの軍事交流はある。
政治
詳細は「モルディブの政治(英語版)」を参照
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この節の加筆が望まれています。マレの独立広場
マウムーン・アブドル・ガユーム(1978-2008年)国家元首は大統領で、任期は5年。行政府の長を兼ねており、首相は1975年以来空席となっている。
議会が候補者を選出し国民が信任投票を行う。2003年10月の選挙ではガユーム大統領の続投(6期目)が決まった。
議会は一院制で「マジュリス(Majlis、国民議会)」と呼ばれる。全85議席で、任期は5年[19]。
伝統的に政治的集団を結成する習慣が無かったため政党は存在しなかったが、アジア最長と呼ばれるガユーム政権の打倒のために2003年11月10日にモルディブ民主党(MDP)が結成された。
これを契機にガユーム大統領が新党モルディブ人民党(DRP)を結成。
その他にもモルディブ進歩党(PPM)や共和党といった中堅政党、更にはイスラム民主党や正義党といった小政党が続々と結成され、徐々に政党政治へと移行しつつある(政党の一覧は「モルディブの政党」を参照)。
2008年8月7日には基本的人権や言論の自由、複数政党制などを初めてうたった新憲法が制定された。
そして10月8日、複数政党制の下での初めての大統領選挙が行われたが、過半数を得票した候補がおらず、1位のガユーム大統領と2位のモルディブ民主党のナシード元総裁で決選投票が行われることになった。
10月29日に決選投票の結果が発表され、ナシードが当選した。また、2009年には国民議会議員選挙も行われ、モルディブ民主党が第1党となった。
2013年の大統領選挙では、前年に大統領を辞任したナシードがアブドゥラ・ヤミーンと争った。
選挙はナシードが勝利するが最高裁判所の判断で選挙結果は無効とされ、再度行われた投票+では51.3%を獲得し、ヤミーンがナシードを破り大統領に当選した。
ヤミーン就任直後からナシードやガユームなど野党有力者を相次いで逮捕するなど、強権的な手法で反対派を押さえ込んでいる。
ヤミーンは、歴代政権が採ってきた親インド政策から距離を置き、中国に接近。
2015年には二国間で自由貿易協定を締結するなど経済関係を強化した。また、多額の資金供与を引き出してインフラ建設に乗り出した[20]。
2018年2月1日、最高裁判所は政治犯9人の釈放と、議員資格が停止中の野党議員ら12人の復権命令を発令した。
しかしこれをヤミーン大統領が拒否し、抗議活動が活発になったため2月5日には15日間の非常事態宣言を発令した。[21]その後、6日に最高裁は命令を撤回した[22]。
2018年9月23日、大統領選挙が行われ、ヤミーンは露骨に介入を行った。
しかし、結果としては野党候補のイブラヒム・ソリが当選。24日にヤミーンが結果を受け入れる声明を発表したため、政権交代は平和裡に行われた[4]。
地方行政区画
モルディブの首都マーレ
詳細は「モルディブの地方行政区画」を参照首都マーレと、7つの行政区の下で、20のアトル(atholhu。環礁を意味する英語の「atoll」に由来)に分かれる。
これは、26ある自然的意味における環礁を、行政管轄の観点から合一または分割し、20に再編したもの。
「環礁区」と日本語に訳されたり、「自然上の環礁」と「行政上の環礁」として両者を区別されたりすることもある。
首都マーレは、カーフ環礁の中にあるマーレ島とヴィリンギリ島の2島のみで構成される行政地区である。
地理
モルディブの環礁
リゾートアイランドの一つ、ランダーギラーヴァルにはフォーシーズンズ リゾートがある(バア環礁)
環礁の形成
詳細は「モルディブの地理(英語版)」を参照
「モルディブ諸島」も参照
スリランカの南西、イギリス領インド洋地域(チャゴス諸島)北側のインド洋に浮かぶ26の環礁、それらを構成する1192の島々から成り、そのうち有人島は約200。高温多湿の熱帯気候である。
海抜の最高が2.4mという平坦な地形であるため、地球温暖化に伴う海面上昇と珊瑚礁の死滅により、国土が消滅する危険にさらされている。
海面が1メートル上昇すると国土の80%が失われると言われる。
このためナシード大統領(2008年当時)は、モルディブの基幹産業である観光収入の一部を使って海外の土地(インドやスリランカ、オーストラリアなどが想定されている)を購入し、国民が移住できる土地を確保する意向を表明している[23]。
海面上昇対策として、国土を盛り土して水没を防ぐ[24]、移住先となる人工島の造成、海上都市の建設など様々なプランが検討されている。
実際にフルレ島の北北東に人工島「フルマーレ」の造成が進んでおり、最終的に国民の40%が移住する予定である[25]。
モルディブの海 モルディブの海 フィハルホヒ島のビーチ フィハルホヒ島のビーチ フィハルホヒ島のビーチ フィハルホヒ島のビーチ バタラ島 バタラ島
野生動物
サンゴ サンゴ サンゴ サンゴ コショウダイの仲間 コショウダイの仲間 オニイトマキエイ オニイトマキエイ ブダイ科 ブダイ科 トゲチョウチョウウオ トゲチョウチョウウオ クマノミ亜科 クマノミ亜科 ジンベエザメ ジンベエザメ アオサギ アオサギ タイマイ(バア環礁にて) タイマイ(バア環礁にて)
経済
色と面積で示したモルディブの輸出品目。大部分を水産加工品が占めている。
モルディブ港
かつては後発開発途上国(いわゆる最貧国)の一つであった(2011年、経済成長により指定解除)。
日本国外務省のウェブサイトによると、2016年のモルディブの名目GDPは42.24億ドル[3]、IMFによる2022年の実質GDPは113.85億ドル[26]。一人当たりの名目GDP15,097ドル(2022年)はロシアやチリに近い値で、南アジアでは最も高い。
主産業は漁業と観光業。観光部門がGDPの約3分の1を占めており、最大の外貨獲得源でもある[3]。
リゾート島は85 – 100もあるといわれる。2001年7月、政府は20年間で工業化促進を目指す『2020ビジョン』を発表。各島は、その機能が特定されていることが多く、「空港の島」「ごみの島」「囚人の島」「観光の島」など特化している場合が多い。
農業
2005年時点の農業人口は2万7000人。国土の43.3%が耕地となっている。
主要作物はココナッツ(1万6000トン、2004年)、バナナ(4000トン)、タロイモ(350トン)。ココナッツはコプラの原料となる商品作物である。
一方で、主食となる穀物は輸入している。
漁業
約5000隻の漁船を擁し、16万トン(2004年)の漁獲高をあげている。対象はマグロ、次いでカツオである。これらは最大の輸出品目となっている。
鉱業
モルディブには鉱物資源がほとんど存在しない。
工業
単一の食品工業、すなわちココナッツからのコプラ製造のみが確立している。2005年時点のコプラの生産量は2295トンであった。
観光
ヴェラナ国際空港に隣接するトランスモリディヴィアン航空のターミナル
リゾートアイランドの一つ、マドゥーガリ島。美しいターコイズブルーの海が特徴。1972年以前のモルディブは観光地としてほとんど知名度がなく、国内に宿泊施設は3軒しかなかった。
1972年に国内初のリゾートであるen:Kurumba Maldivesが開業すると、リゾート大国として急成長。2020年現在はリゾート159軒・ホテル13軒・ゲストハウス638軒を数える[27]。
人口を上回る数の観光客が訪れており1999年には年間43万人、2019年には年間170万人を超えた。観光客は中国、インド、ヨーロッパ、北米など、全世界から訪れられている。
またそれに伴い観光業は雇用も生み出しており1999年にはモルディブの就業人口の14%を占めている。
基本的に1つの島に1つのホテルが存在する形式で、ホテルによって滞在する島を選択することになる(リゾートアイランド)。
各島への移動はドーニーと呼ばれる木製のボートが使用されるが、高速艇(いわゆるモーターボート)や水上機も使用される。
外国人は特別に許可された場合を除いて観光が許可されている島以外には入ることができない。
Soneva Gilly、モルディブ Soneva Gilly、モルディブ リゾート リゾート ウォーターヴィラ ウォーターヴィラ ウォーターヴィラとスパ(湧水) ウォーターヴィラとスパ(湧水) ラヴィヤニ環礁、クレドゥの水上バンガロー ラヴィヤニ環礁、クレドゥの水上バンガロー 水上バンガロー 水上バンガロー モルディブの砂州 モルディブの砂州 ホワイトビーチ ホワイトビーチ ボリフューシ島 ボリフューシ島 ムーフューシ島 ムーフューシ島
労働力
失業率4.9%(2020年)[3]
国民
モルディブの人口変化
詳細は「モルディブの人口統計(英語版)」を参照民族
[icon]
この節の加筆が望まれています。モルディブでは固有の民族呼称は該当せず、人種構成としてはインド・アーリア人とドラヴィダ人を中心に、西北から移住したアラブ系と東南から移住したインドネシア・マーレー人種(インドシナ人種(古モンゴロイド系)とオーストラロイドの混血人種)などが混血して、モルディブの住民として成り立っている。
言語
公用語は、ディベヒ語(ディヴェヒ語とも表記され、モルディブ語とも呼ばれる)。観光関連では英語も通じる。リゾート島によってはフランス語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、イタリア語も話されている。
宗教
イスラム教のスンナ派が国教。住民のほぼ100%(推計値、正確な数値は不明)がイスラム教徒である。
文化
フヴァフムラ環礁で行われているマーヒフン(ラマダン入りを祝う祭り)
詳細は「モルディブの文化」を参照旧国歌『ガオミィ サラーム』は『蛍の光』と同じ曲、つまり、スコットランド民謡『オールド・ラング・サイン』の旋律を用いた曲であった。
祝祭日
詳細は「モルディブの祝日(英語版)」を参照
祝祭日 日付 日本語表記 現地語表記 備考
7月26日 独立記念日
11月11日 共和国記念日
ナショナルデー ヒジュラ暦第3月1日
ムハンマド生誕祭 ヒジュラ暦第3月12日
断食月明けの祭 ヒジュラ暦第10月1日より3日間
犠牲祭 ヒジュラ暦第12月10日より通常5日から7日間スポーツ
詳細は「モルディブのスポーツ」を参照
「オリンピックのモルディブ選手団」も参照サッカー
詳細は「モルディブのサッカー(英語版)」を参照モルディブ国内ではサッカーが最も人気のスポーツとなっており、2014年にプロサッカーリーグのディヴェヒ・プレミアリーグ(英語版)が創設された。
また、モルディブサッカー協会(FAM)によって構成されるサッカーモルディブ代表もあり、首都・マレにあるガロル国立競技場をホームスタジアムとしている。
クリケット
クリケットは他の南アジア諸国同様に高い人気がある。
1880年頃にイギリス領セイロンからクリケットの一種が伝わり、1920年頃に正式なクリケットのルールが導入された[28]。その頃にはクリケットのクラブが設立されており、当時のクリケットは宮殿の中庭や広場でプレーされており、エリート層のためのスポーツであった[28]。クリケットモルディブ管理委員会は、モルディブにおけるクリケット競技の発展と促進を目的として、1983年に政府によって設立された[28]。スリランカは1996年にアジアクリケット評議会、1998年に国際クリケット評議会に準会員として加盟した[28]。代表チームはクリケットモルディブ代表(英語版)とクリケットモルディブ女子代表(英語版)がある。
著名な出身者
詳細は「Category:モルディブの人物」を参照
脚注
[脚注の使い方]^ “Maldives”. ザ・ワールド・ファクトブック. 2022年8月13日閲覧。 ^ a b c d e “World Economic Outlook Database”. IMF. 2021年10月26日閲覧。 ^ a b c d e f g h i j k l m n o モルディブ共和国(Republic of Maldives)基礎データ 日本国外務省(2023年12月31日閲覧) ^ a b c “モルディブ大統領選挙での親中派現職の敗北―それでも中国の「楽園」進出は止まらない(六辻彰二)”. Yahoo!ニュース 個人. 2019年7月19日閲覧。 ^ Maldives returns to Commonwealth Feb 2020 | Commonwealth Parliamentary Association (英語) ^ a b c d e f 「インドに駐留軍撤退要請 モルディブ 親中派の大統領誕生」『日本経済新聞』朝刊2023年11月21日(国際・アジアBiz面)2024年1月1日閲覧 ^ a b INC, SANKEI DIGITAL. “楽園に民主主義を…敏腕妻が圧力 A・クルーニーさん、モルディブ元大統領の釈放成功”. 産経ニュース. 2019年7月19日閲覧。 ^ 中根外務大臣政務官の東ティモール及びモルディブ訪問 日本国外務省(2015年7月21日)2024年1月1日閲覧 ^ “モルディブで副大統領逮捕 大統領暗殺未遂の容疑”. フランス通信社(www.afpbb.com). 2019年7月19日閲覧。 ^ “インド、モルディブに融資枠14億ドル 中国をけん制”. 日本経済新聞 (2018年12月17日). 2018年12月19日閲覧。 ^ “インド、モルディブのインフラ事業に5億ドル提供 中国に対抗”. AFP (2020年8月14日). 2020年8月11日閲覧。 ^ 岸田総理大臣発ムイズ・モルディブ共和国次期大統領宛祝辞の発出 日本国外務省(2023年10月6日)2024年1月1日閲覧 ^ “インド軍撤収を正式要請 「親中派」大統領、印は関係継続模索―モルディブ:時事ドットコム”. 時事ドットコム. 2024年1月11日閲覧。 ^ “楽園モルディブが持つ別の顔 ロシアへの半導体供給地に”. 2023年7月28日閲覧。 ^ “Maldives is second-largest microcircuit supplier to Russia after China”. 2023年7月28日閲覧。 ^ “ODAちょっといい話 大津波からモルディブの首都住民を守った日本の防波堤”. 日本国外務省. 2019年9月16日閲覧。 ^ a b “モルディブの大津波から住民を守った日本の防波堤”. 国際協力機構. 2019年9月16日閲覧。 ^ a b “【モルディブ】「日本への恩返し」 特産のツナ缶60万個を提供”. 2019年9月16日閲覧。 ^ 「モルディブ共和国」『世界年鑑2016』(共同通信社、2016年)213頁 ^ “債務で主導権を奪う…中国の呪縛、はまったスリランカ、モルディブにも迫る”. Sankei Biz (2018年6月23日). 2018年12月1日閲覧。 ^ 「モルディブで非常事態宣言 政治犯の釈放拒否で混乱」産経ニュース(2018年2月6日) ^ 「インド洋の楽園混乱=非常事態宣言、最高裁長官を拘束-モルディブ」時事通信(2018年6月11日) ^ モルディブ新大統領「国土水没に備え移住用の土地確保」読売新聞オンライン(2008月11月11日) ^ 「モルディブ、盛り土で水没防げ 国土存亡かけ挑戦」共同通信(2011年1月4日) ^ 日本放送協会. “海に飲み込まれる国 モルディブ”. NHKニュース. 2021年11月11日閲覧。 ^ “Report for Selected Countries and Subjects” (英語). IMF. 2022年11月22日閲覧。 ^ “Tourism Yearbook 2021”. Ministry of Tourism (Maldives). 2022年11月22日閲覧。 ^ a b c d Cricket Board of Maldives 国際クリケット評議会 2023年9月19日閲覧。
参考文献
『現代アジア辞典』図書出版、文眞堂、2009年
関連項目
モルディブ関係記事の一覧
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、モルディブに関連するメディアおよびカテゴリがあります。政府
モルディブ共和国大統領府(英語)
在日モルディブ大使館(日本語)
日本政府
日本外務省 – モルディブ(日本語)
在モルディブ日本国大使館(日本語)
観光
モルディブ政府観光局 – ウェイバックマシン(2015年5月10日アーカイブ分)(日本語)
ウィキボヤージュには、モルディブに関する旅行情報があります。
その他
『モルジブ』 – コトバンク表話編歴
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パプアニューギニア独立国
Independent State of Papua New Guinea(英語)
Independen Stet bilong Papua Niugini(トク・ピシン)
Papua Niu Gini(ヒリモツ語)パプアニューギニアの国旗 パプアニューギニアの国章 (国旗) (国章) 国の標語:多様性は団結なり 国歌:O Arise, All You Sons(英語) すべての者よ、立ち上がれ Duration: 58 seconds.0:58 パプアニューギニアの位置 公用語 英語、トク・ピシン、ヒリモツ語、パプアニューギニア手話(英語版) 首都 ポートモレスビー 最大の都市 ポートモレスビー 政府 国王 チャールズ3世 総督 ボブ・ダダイ(英語版) 首相 ジェームズ・マラペ 面積 総計 462,840km2(53位) 水面積率 2.2% 人口 総計(2020年) 8,947,000[1]人(97位) 人口密度 19.8[1]人/km2 GDP(自国通貨表示) 合計(2019年) 841億900万[2]キナ GDP(MER) 合計(2019年) 248億2900万[2]ドル(103位) 1人あたり 2886.589[2]ドル GDP(PPP) 合計(2019年) 345億9200万[2]ドル(141位) 1人あたり 4021.652[2]ドル 独立 - 日付 オーストラリアの信託統治より 1975年9月16日 通貨 キナ(PGK) 時間帯 UTC+10 ~ +11 (DST:なし) ISO 3166-1 PG / PNG ccTLD .pg 国際電話番号 675パプアニューギニア独立国(パプアニューギニアどくりつこく)、通称パプアニューギニアは、南太平洋にあるニューギニア島の東半分及び周辺の島々からなる立憲君主制国家[3]。
東南アジア諸国連合 (ASEAN) の特別オブザーバーであるが、地理的にはオセアニアに属する。
オーストラリアの北、ソロモン諸島の西、インドネシアの東、ミクロネシア連邦の南に位置する。イギリス連邦加盟国かつ英連邦王国の一国であり、非白人が国民の多数を占める国としては英連邦王国のうち人口最多かつ面積最大の国である。首都はポートモレスビー。
国名
トク・ピシンにおける正式名称はIndependen Stet bilong Papua Niugini。通称 Papua Niugini。略称は PNG。
日本語の表記はパプアニューギニア独立国。通称はパプアニューギニア。他に、パプワニューギニア、パプアニューギニヤ、パプワニューギニヤ、という表記もされる。「パプア」と「ニューギニア」の間に、中黒(・)を入れることも多い。
パプアニューギニアは、元々あったパプアとニューギニアが合併してできた国である[4]。
パプアニューギニアの南側は、旧イギリス領(のちにオーストラリア領)で、メラネシア人の縮れ毛を指すマレー語の言葉から、パプア(オーストラリア領パプア準州)と呼ばれた[4]。
一方、北側は、旧ドイツ領(のちにオーストラリア委任統治領)で、メラネシア人がアフリカのギニア人に似ているところから、スペイン人の探検家がニューギニアと名付けた[4]。
なお、ニューギニア島の西半分はかつてはオランダ領ニューギニアであり、現在はインドネシアに併合され「パプア州」、「西パプア州」という名称である。
歴史
詳細は「パプアニューギニアの歴史」を参照
紀元前
ニューギニア島はオーストラリア大陸と共にゴンドワナ超大陸を構成していたが、白亜紀に始まった大陸分裂で、オーストラリア大陸と南極大陸は4500万年前に分離し、ヒマラヤ山脈と同じころにニューギニア中央山脈も形成された。
氷河期にはニューギニアとオーストラリアは地続きで、サフル(英語: Sahul、あるいはMeganesia – メガネシア)と呼ばれる一つの陸地であった。
この地域において、約6万年前の東南アジア方面から来たと思われる人類の痕跡が見つかっている。
約5000年前、ニューブリテン島中央部のタラセアにおいて、貝の貨幣「シェルマネー」が作られた。これが最古の貝貨とされている。
島の発見
1526〜27年ごろにポルトガル人のドン・ジョルジェ・デ・メネセスが、パプアニューギニアの主となる島を発見するに至り「パプア」と命名した。
1546年には、ニューギニア島北岸を航海したスペイン人のオルティス・デ・レテスが「ニューギニア」と命名した。
植民地時代
イギリス統治時代の農村 (1885年)
1884から1919年までのニューギニア島。ドイツ及びイギリスがニューギニア島の東半分を分割している。
1884年、イギリスへの東南ニューギニア併合時
19世紀の植民地主義の時代、1828年にニューギニア島を東西に分割し、1848年に西半分をオランダが併合、1884年には東半分をオーエン・スタンレー山脈、ビスマルク山脈で南北に分け、ニューブリテン島などを含んだ北半分をドイツ、南半分をイギリスが獲得した。
南部は1901年にイギリスから独立したオーストラリアに継承され、1902年にオーストラリア管理下での「パプア (準州)」となった。委任統治領期
1943年1月7日、ブナ・ゴナの戦いで日本軍を攻撃するオーストラリア軍。
1914年からの第一次世界大戦にドイツが敗北すると、ドイツ領ニューギニアであった島の東北部は、国際連盟によりオーストラリアの委任統治領(ニューギニア (信託統治領))となった。
1941年からの太平洋戦争では、日本軍が1942年1月22日、ニューブリテン島ラバウルに上陸、ニューブリテン、ニューアイルランド、ブーゲンビルなどの島嶼部やニューギニア本島の北岸を占領し、ポートモレスビー攻略を狙った。
しかし、1942年5月に行われた珊瑚海海戦の結果、海からのポートモレスビー攻略を諦め、1942年8月にはソロモン海岸からオーエン・スタンレー山脈越えでポートモレスビーを陸路攻略する作戦が実行された。
ここでも飢えとマラリアの為に多くの死者を出して撤退し、その後、制海権、制空権を失い補給を絶たれたニューギニアの日本軍は、「ジャワの極楽、ビルマの地獄、死んでも帰れぬニューギニア」[5]と評される凄惨な状況となった。
自治政府期
1949年、オーストラリアは南東部パプアと北東部ニューギニアを行政連合として統合して「パプア及びニューギニア準州(英語版)」とし、西部はオランダ領ニューギニア(1949年 – 1962年)となった。
1961年にオランダは島の西部を西パプア共和国として独立を認めたが、インドネシアが侵攻したため(パプア紛争、1963年–現在)、国連による暫定統治を経て、インドネシアへ併合されてイリアンジャヤ州となった。
1964年、自治政府初の選挙が行われ、54名が当選、1968年、自治政府2回目の選挙で、84名が当選。同年、禁酒法が廃止となる。
1971年に南東部パプアと北東部ニューギニアの行政連合として統合していた「パプア及びニューギニア準州」が「パプアニューギニア」とさらに改名し、自治政府が、国旗、国歌、国章などを採択。
1972年、第3回自治政府選挙で100名が当選。この選挙で、マイケル・ソマレが連立政権を樹立。
独立
1975年9月16日、独立の丘でオーストラリアの国旗を降ろし、パプアニューギニア国旗を掲揚する儀式を経て、「パプアニューギニア独立国」として独立した。
それまでの自治政府議会が国会となり、初代首相マイケル・ソマレは紛争を行うことなく平和的に独立を成し遂げた独立の父として「チーフ」と呼ばれて崇められ、通貨(50キナ札)にもその肖像画が描かれている。
1976年、地続きで国境を接しているインドネシアが加盟しているASEAN閣僚会議にオブザーバーとして初参加し、1981年には特別オブザーバーの地位を得ている。
1983年に各州における自治の失敗を受けて、中央政府の権力が強化。
1985年、民族的緊迫により、ポートモレスビーで非常事態宣言発令。
1986年のASEAN閣僚会議で東南アジア諸国連合に正式に加盟を申請して以降、現在まで加盟を希望しているが、パプアニューギニアが東南アジアではないことからASEAN諸国は正式加盟には否定的である。
ブーゲンビル危機
1988年にブーゲンビル島(ブーゲンビル自治州)でフランシス・オナ(英語版)を中心とするグループが、パングナ(英語版)の銅山(リオ・ティント傘下のBougainville Copper Ltdが所有)の閉鎖、ブーゲンビルの分離・独立(en:Republic of the North Solomons)を求めてブーゲンビル革命軍(BRA)を構成し、鎮圧を試みた政府軍との間に内戦が始まった。
1992年に政府軍は国境を越え、BRAへの支援を理由に ソロモン諸島のショートランド諸島を攻撃した。
当初、容易に鎮圧可能と見られていたブーゲンビル危機(英語版)は休戦と戦闘再開を繰り返し長期化した。
1997年には紛争鎮圧を狙ってイギリスの民間軍事会社サンドライン・インターナショナルと傭兵派遣契約を結んだことが国外のメディアでリークされ、現役の国防軍(英語版)司令官ジェリー・シンギロック(英語版)がジュリアス・チャン(英語版)(陳仲民)首相の退陣を求めてクーデター騒ぎを起こし、全国で戒厳令が発令されるなど泥沼化した(サンドライン・クライシス, en:Sandline affair)。
2001年8月30日に武器の放棄、紛争中の戦争犯罪に対する恩赦、ブーゲンビル自治政府(英語版)の容認、将来のパプアニューギニアからの独立に関しては住民投票で決定する、などの条項を盛り込んだ「ブーゲンビル平和協定」がアラワで調印され、平和への歩みが再開された。
ブーゲンビル自治領
2005年にはブーゲンビル自治領で初の大統領選挙が行われ、元ブーゲンビル革命軍のジョセフ・カブイ(英語版)が初代大統領(英語版)に就任した。
和平協定に盛り込まれた将来的な政治的立場を問う住民投票は、2019年11月23日から12月7日までの予定で実施されている[6]。
2019年12月11日、住民投票の開票結果が発表された。投票者の98%に当たる17万6928人が賛成票を投じ、パプアニューギニア残留に票を投じたのは3043人にとどまった。新国家誕生の可能性が高まった[7]。
政治
詳細は「パプアニューギニアの政治(英語版)」を参照
国家元首は、イギリスの国王(または女王)(2022年9月8日よりチャールズ3世)が兼任するパプアニューギニア国王。象徴的地位であり、任命などの権限は、議会や内閣の決定に従い行使される。その職務は、総督が代行する。
行政府の長である首相は、議会総選挙後、第1党党首が総督により指名される。閣僚は、首相の推薦に従い総督が任命する。
議会は、一院制。全109議席で、全国を89の小選挙区に分けられ、20議席は州の代表として、選挙によって選出される。
州代表の議席を獲得した国会議員は、国務大臣にならない限り、自動的に当該州の知事となる。任期5年。
政党は全て小規模で、単独で組閣が出来ないため、常に連立内閣となっている。
2007年の総選挙[注釈 1]で最多の国会議員を当選させ、連立の中心となって組閣した国民同盟党(NAP) でさえ、27議席であった。
政治は男性中心で、女性議員はこれまで数えるほどしか当選していない。
2007年総選挙でも多くの女性候補が男性中心の政治に挑戦したが、現職のキャロル・キドゥのみが再選され、現在女性国会議員は1名のみである。2008年には、選挙とは別に女性の代表を国会に参加させる法案が審議されている。
外交においては、旧宗主国であり、現在でも最大の援助国であるオーストラリアとの関係が最重要であるが、近年、オーストラリアから派遣の警察官のパプアニューギニアにおける治外法権が違憲と判決されて即時撤退を余儀なくされたり(ECPの撤退)、オーストラリアの依頼によってポートモレスビーで逮捕された隣国ソロモン諸島の検事総長を夜間、軍用機でソロモンまで逃がした事件(モティ事件)などの問題で関係がこじれていた。
2007年12月にオーストラリアで誕生したラッド政権は関係改善に取り組み、就任早々の2008年3月、ラッド首相のパプアニューギニアへの公式訪問が実現した(なお、前任のハワード前首相は11年の任期の内で一度もパプアニューギニアへの公式訪問が無かった)。
一方、中華人民共和国からは国際会議場や幹線道路などの整備支援を受けるほか、2010年代半ばに原油や天然ガスの価格が下落した際の穴埋めなどとして多額の借款を受ける関係となった。
2019年ごろの政府債務の総額は、国内総生産の3割相当にまで拡大。中国に対し約8500億円相当の借り換えを要請するに至った[8]。
国際関係
詳細は「パプアニューギニアの国際関係(英語版)」を参照
日本との関係
詳細は「日本とパプアニューギニアの関係」を参照
駐日パプアニューギニア大使館
住所:東京都目黒区下目黒五丁目32番20号 アクセス:JR山手線目黒駅西口徒歩17分 パプアニューギニア大使館全景 パプアニューギニア大使館全景 パプアニューギニア表札 パプアニューギニア表札
行政区画
詳細は「パプアニューギニアの地方行政区画」および「パプアニューギニアの都市の一覧」を参照
行政区画21の州 (province) と首都区から成る。各州は4つの地方 (Region) に分ける事が出来る。州都を後ろに記した。
山岳地方
シンブ州の旗 シンブ州 (Simbu; チンブ州とも) – クンディアワ(英語版)
西部山岳州の旗 西部山岳州 (Western Highlands) – マウントハーゲン
東部山岳州の旗 東部山岳州 (Eastern Highlands) – ゴロカ
南部山岳州の旗 南部山岳州 (Southern Highlands) – メンディ
エンガ州の旗 エンガ州 (Enga) – ワバック(英語版)
ヘラ州の旗 ヘラ州 (Hela) – タリ(英語版)
ジワカ州の旗 ジワカ州 (Jiwaka) – Minj島嶼地方
西ニューブリテン州の旗 西ニューブリテン州 (West New Britain) – キンベ(英語版)
ニューアイルランド州の旗 ニューアイルランド州 (New Ireland) – カヴィエン
東ニューブリテン州の旗 東ニューブリテン州 (East New Britain) – ココポ
ブーゲンビル州の旗 ブーゲンビル自治州 (Bougainville; 北ソロモン州とも) – 一時的にブカ(アラワに戻す予定)
マヌス州の旗 マヌス州 (Manus) – ローレンガウ(英語版)
モマセ地方
サンダウン州の旗 サンダウン州 (Sandaun; 西セピックとも) – ヴァニモ(英語版)
東セピック州の旗 東セピック州 (East Sepik) – ウェワク
マダン州の旗 マダン州 (Madang) – マダン
モロベ州の旗 モロベ州 (Morobe) – ラエ
パプア地方
ポートモレスビーの旗 首都区 (National Capital District) – ポートモレスビー
オロ州の旗 オロ州 (Oro; 北部州とも) – ポポンデッタ
西部州(パプアニューギニア)の旗 西部州 (Western; フライ州とも) – ダル
中央州(パプアニューギニア)の旗 中央州 (Central) – ポートモレスビー
ミルン湾州の旗 ミルン湾州 (Milne Bay) – アロタウ
湾岸州の旗 湾岸州 (Gulf) – ケレマ地理・地質
タブルブル火山
パプアニューギニアの地方
山岳地方
島嶼地方
モマセ地方
パプア地方
詳細は「パプアニューギニアの地理(英語版)」を参照パプアニューギニアはオセアニア州に属し、ニューギニア島東半分とビスマルク諸島、ルイジアード諸島、アドミラルティ諸島、ダントロカストー諸島など1万近くの島で成り立っている島嶼国家である。
ニューギニア島中央部は3000メートルから4500メートル級のビスマーク山脈およびオーエンスタンレー山脈となっている。最高峰はウィルヘルム山(標高4,509m)。赤道に近いが降雪がある。高山部分以外は熱帯雨林に覆われており、セピク川とフライ川を囲んで湿地が広がる。島嶼部も含め、海岸にはサンゴ礁が発達している。なお、ニューブリテン島などは火山島である。地質的にはいくつものプレートが衝突するエリアに位置するため、地震も頻発する。
主な島
ニューギニア島 - 首都ポートモレスビー ダントルカストー諸島 ノーマンビー島 トロブリアンド諸島 ルイジアード諸島 ミシマ島 デボイネ諸島 ビスマルク諸島 ニニゴ諸島 アドミラルティ諸島 マヌス島 ロスネグロス島 バルアン島 セント・マタイアス諸島(英語版) ムサウ島 (Mussau Islands) エミラウ島 ニューハノーヴァー島 (New Hanover Island) ニューアイルランド島 (New Ireland) (ドイツ領時代はノイメクレンブルク島 Neumecklenburg) ニューブリテン島 (New Britain) (ドイツ領時代はノイポンメルン島 Neupommern) デューク・オブ・ヨーク諸島(英語版) (Duke of York Islands) Vitu諸島(英語版) (Vitu Islands) ウンボイ島 グリーン諸島 ニッサン島 ソロモン諸島 ※国家としてのソロモン諸島ではなく地理的区分として ブーゲンビル島 ブカ島 タウー環礁 ヌクマヌ環礁経済
詳細は「パプアニューギニアの経済(英語版)」を参照
2020年現在、国内総生産は247億ドルである[3]。また、一人当たりGNIは2720ドルである[3]。
独立当時は産業は4C、即ちコプラ (Copra)、コーヒー(Coffee)、ココア(Cocoa)、銅(Copper)とされていた。
コーヒー栽培は、1990年代に干ばつがあり、大きな被害を受けた。
都市部の貨幣経済と村落部の自給自足経済の二重構成で、鉱業が輸出の中心をなしている。
最大援助国はオーストラリアで、影響力が非常に大きい。
対外債務は2007年12月31日時点で18億1400万米ドルである。
経済の成長率は、-3.5%であり、2003年から2019年までほぼプラス成長になっていたが、2020年はコロナ禍が影響しマイナス成長になっている[3]。
2018年時点で、教師に対する給料の未払いが発生しているほか、国際会議に駆り出された警官や兵士に手当が支払われず国会議事堂が襲撃されるなど混乱も見られている[9]。
通貨はキナ及びトヤである[3]。トヤはキナの100分の1の単位である[3]。
農業や林業としては、主に、パーム油、コーヒー、木材などがある。
工業・農業
パプアニューギニアは起伏に富んだ地形であること、熱帯という気候条件にあるため、畑作には向かない。
しかしながら、ヤシの栽培には適しており、工業もヤシを中心に形成されている。
ココヤシの胚乳から作るコプラとコプラを圧搾して抽出するパーム油は、いずれも世界第6位の規模である。2004年時点の生産量はコプラ(8.5万トン、世界シェア1.6%)、パーム油(33万トン、世界シェア1.2%)。
国内市場が小規模であること、輸送インフラの問題があるため、ヤシ以外の工業はいずれも自給をまかなう小規模なものである。中でも、粗糖、牛肉、豚肉、羊肉、鶏肉、ビールなどの食品工業が充実している。
鉱業
色と面積で示したパプアニューギニアの輸出品目
詳細は「パプアニューギニアの鉱業(英語版)」を参照2002年時点の輸出額15億ドルのうち7割以上を鉱物資源取引が占めており、パプアニューギニア経済にとって鉱業は重要な部門である。
上位3品目は金 (35.9%)、石油 (21.0%)、銅 (14.7%) である。化学工業、金属精錬はいずれも未発達であるため、全量が未精製の状態で輸出されている。
鉱業の主軸はまず金と銅から始まり、次いで1992年に輸出を開始した原油に移行してきた。
生産量、生産額が最も大きかった銅は、1988年に勃発したブーゲンビル島の独立運動のため、最盛期の1/3の生産量にとどまっている。
原油(日量42千バレル)と天然ガス(日量38万立方m)を生産している。
高地地帯の南部山岳州、西部州で生産・処理し、700km離れたポートモレスビーの液化・貯蔵施設まで送られてくる計画である。
同時に天然ガスの採掘や処理、貯蔵施設も建設中である。
2008年5月22日には、パプアニューギニア政府とエクソン・モービルを始めとする日本の新日本石油などの事業会社との間で液化天然ガス(LNG)工場の建設に向けての基本合意が取り交わされ、2014年5月15日には生産されたLNGの日本向け船積みが初めて行われた。
世界最大規模のLNGプラントであり年間生産量690万トンのうち約50%を東京電力や大阪ガスが購入者となっている。また、今後の生産については30年間の見通しがついている。[10]
一方、仏トタルもガス田開発中である。
金属鉱物資源では、珪長質な火成岩に伴って産出する銅(21万トン、世界シェア1.6%)、銀(75トン)、金(65トン、世界シェア2.6%)が有力。
交通
詳細は「パプアニューギニアの交通(英語版)」を参照
山がちな地形から都市間や地域間を結ぶ幹線道路が部分的にしか整備されておらず、全国的な道路網はないため、陸路での大規模移動は主に都市内で補完的に行われるに留まる。
そのかわり空路が発達しており、主要都市には近代的な空港が、地方の町村であっても小規模な飛行場が備えられている場合が多く、パプアニューギニア国内を移動する上で主要な手段となっている。なお、鉄道は存在しない。メディア
パプアニューギニアの主要放送局はEMTVであり、インターネットにおいてはDigicel PNGというプロバイダが主流である。 新聞は売店などでの販売が主流。
国民
詳細は「パプアニューギニアの人口統計」を参照
伝統的なペイントを施した住民
民族
パプアニューギニアの人々は伝統的に「ワントーク」と呼ばれる少人数の部族に分かれて生活していた。
たいていの部族は数十、数百人程度であり、それぞれの部族ごとに言語、習慣、伝統が異なっている。
かつては各部族同士で戦いを行うことがよくあり、その習慣は現在[いつ?]も一部残っている。
住民は多様な民族から成っており、主にメラネシア人、パプア人、ネグリト人、ミクロネシア人、ポリネシア人などで構成される。
その他にもクカクカ族、ラカライ族、ラオ・ブレリ族、エレマ族、en:Huli people、en:Asaro Mudmenなど多数の少数民族が存在する。
言語
詳細は「パプアニューギニアの言語(英語版)」を参照パプアニューギニアの言語分布
パプア諸語
トランスニューギニア語族
Engan
チンブ・ワギ語派(英語版)
南東パプア語派(英語版)(コイアリ語など)トランスニューギニア語族以外のパプア諸語(イマス語など)
オーストロネシア語族
言語は英語が公用語であり、教育、テレビ、ラジオ、新聞などは基本的に全て英語が使用されている。
また、共通語として、旧ニューギニア地域(ニューギニア本島北岸、ニューギニア高地や島嶼部)で主に使われているトク・ピシンと、旧パプア地域(セントラル、オロ、ガルフ州など)で主に使われているヒリモツ語(ともにピジン言語)がある。
首都ポートモレスビーはモツ語圏であるが、他地域からの移住者の増加に伴い、トク・ピジンの使用が広まっている。
国会では、英語、トク・ピジン、ヒリモツの3つの共通語を使うことが許可されており、それぞれの言語に同時通訳される。
2015年、4つ目の公用語としてパプアニューギニア手話(英語版)が追加された[11][12]。
パプアニューギニアは、世界で最も言語の豊富な国といわれている。
また、世界で最も言語の消滅の危険が高いといわれている国でもある。
険しい山岳地帯、湿地帯に阻まれて部族間の交渉が少なかったこともあり、小さなコミュニティが独自の文化・言語を発達させ、人口が600万人に対して、言語の数は800以上にもなる[13]。
そのうち130の言語の話者が200人以下であり、290の言語の話者が1000人以下である。
首都ポートモレスビーで話されるピジン語であるトク・ピシンとヒリモツ語の勢力は強く、隣接する地域で話されるコイアリ語(英語版)を圧倒しており、セピック川下流で話されているイマス語(英語版)も危うい状態である。ただし、女性たちは自分たちの言葉を守り続けている。
約16%はオーストロネシアン言語に属し、他の南太平洋の言語と共通する単語や文法を持つ。これらの言語は島嶼部やニューギニア本島の海岸沿いに多く見られ、モトゥ語(英語版)、クアヌア語、ハリア語(英語版)などが挙げられる。
その他の84%は一般的に非オーストロネシアン言語(パプア諸語)と呼ばれ、大きく13のグループに分けられるが、単語や文法など、相互関連性は皆無に近い。
パプア諸語のうち最も大きなグループはトランス・ニューギニア語族であり、エンガ語派(英語版)のエンガ語(英語版)、フリ語やチンブ・ワギ語派(英語版)のメルパ語(英語版)などが挙げられる。
これらの言語がどの時代にどこから入ってきてどのように発達したのかは大きな謎である。
宗教詳細は「パプアニューギニアの宗教(英語版)」を参照
国民の95%以上がキリスト教であり、主な宗派はローマ・カトリックが27.1%、ルーテル教会が19.5%、合同教会が11.5%、アドベンチスト教会が10.1%、ペンテコステ派が8.6%などとなっている。(2000年国勢調査による)
しかしながら、中小の村落などでは自然崇拝も根強く残っており、人の死や病気や事故などの不幸は魔女のせいだと、呪術師が魔女と認定した罪のない女性を火あぶりにする「魔女狩り」の風習が残っている。これらは犯罪であり、政府は魔女狩りを含む「黒魔術」による報復を法規制するなどの対策をとっているが、貧困と教育の不備にあえぐ地域では根絶に至っていない[14]。
文化
詳細は「パプアニューギニアの文化(英語版)」を参照
パプアニューギニア本土南東海岸の村Boga-Bogaの住民。
このガラガラは葉、種、ココナツの殻で作られており、踊り子の足首の周りに付けられ、音を出す。ビルム
20世紀の木製のアベラム族の祖先の像。パプアニューギニアには1000を超える文化的集団が存在すると推計されている。
この多様性のため、多くの文化的表現様式が生まれている。個々の集団は絵画、ダンス、武器、装束、歌、音楽、建築などにおいて独自の表現形式を作り出している。これらの文化的集団のほとんどは独自の言語を有する。人々は通常、自給自足農業に依存する村に住んでいる。一部の地域では、食物を補充するために狩りや野生の植物(ヤム芋など)の採集を行う。狩りや農業、釣りに秀でたものは尊敬を集める。
セピック川には、木彫りの伝統があり、植物あるいは動物の形で祖先の魂を表わしている。貝殻はもはやパプアニューギニアの通貨ではない(1933年に廃止された)。
しかしながら、この伝統は地域の慣習として現存している。一部の文化では、花嫁を迎える時に、花婿はある数の金で縁取られた貝殻を婚資として持ってこなければならない[15]。その他の地域では、婚資は貝貨、豚、ヒクイドリ、現金で支払われる。
高地の人々は、「sing sings」と呼ばれる色彩豊かな儀式に参加している。彼らは鳥や木、山の精霊を表わすために羽根や真珠、動物の皮で化粧をし着飾る。伝説的な戦いといった重要な出来事がこういった音楽的祭典で上演されることもある。
音楽
詳細は「パプアニューギニアの音楽(英語版)」を参照祝祭日
日付 日本語表記 現地語表記 備考
移動祝日 聖金曜日 Good Friday
移動祝日 イースターマンデー Easter Monday 復活祭の日曜日の翌日
7月12日 女王誕生日 Queen’s Birthday エリザベス2世の誕生日とは異なる。
7月24日 戦没者記念日 National Remembrance Day
9月16日 独立記念日 Independence Day
12月25日 クリスマス Christmas Day
12月26日 ボクシング・デー Boxing Dayスポーツ
詳細は「パプアニューギニアのスポーツ(英語版)」を参照
「オリンピックのパプアニューギニア選手団」も参照ラグビー
詳細は「パプアニューギニアのラグビーリーグ」を参照スポーツはパプアニューギニアの文化の重要な部分であり、ラグビーリーグが圧倒的に人気のスポーツとなっている[16]。
コミュニティーが離れ、多くの人々が最低生活水準で暮らしている国において、同リーグに対する熱狂は部族闘争を置き換えるものであったためであると説明されてきた。
多くのパプアニューギニア人は、国の代表となったり海外プロリーグに所属するとすぐに名声を得る。オーストラリアで毎年開催される『ステート・オブ・オリジンシリーズ』でプレーするオーストラリアの選手でさえも、同国の中で最も知名度のある人物となっている。ステート・オブ・オリジンはほとんどのパプアニューギニア人のその年の目玉である。しかし、応援が過熱し多くの死傷者も出ている[17]。ラグビーリーグパプアニューギニア代表は、オーストラリア首相選抜XIII(NRL)所属選手からの選抜チームと毎年、通常ポートモレスビーで対戦する。なお、オーストラリアンフットボールやラグビーユニオンも人気がある。
サッカー
詳細は「パプアニューギニアのサッカー(英語版)」を参照パプアニューギニアではラグビー以外ではサッカーが盛んであり、2006年にサッカーリーグのパプアニューギニア・ナショナル・サッカーリーグが創設された。リーグ開始年から2014年まで、ヘカリ・ユナイテッドFCが8連覇を達成している。さらにFIFAクラブワールドカップの2010年大会にも出場を果たしており、ヘカリは名実ともにパプアニューギニアを代表するクラブといえる。パプアニューギニアサッカー協会(英語版)によって構成されるサッカーパプアニューギニア代表は、これまでFIFAワールドカップには未出場である。しかしOFCネイションズカップには4度出場しており、2016年大会では準優勝に輝いている。
クリケット
クリケットも人気スポーツの一つである。1900年代初頭にロンドン宣教師協会の宣教師によってパプアニューギニアに導入された[18]。国内競技連盟であるクリケットPNGは1973年に国際クリケット評議会に加盟した[18]。クリケットPNGにはバラマンディス(男子)、ルイス(女子)、ガラムッツ(19歳以下)の3つの主要なナショナルチームがあり、バラマンディは2014年にワンデー・インターナショナル(ODI)に出場した[18]。
著名な出身者
詳細は「Category:パプアニューギニアの人物」を参照脚注
[脚注の使い方]
注釈^ 109の定数に約3000名が立候補、国民2000人に一人の割合で国会議員に立候補だから乱立といってよい。熾烈な選挙になり、時には暴動を起こし、死者まで出る。警備に1万人を超える体制が必要だった。(川崎一平「熾烈な国会議員選挙」/吉岡政徳・石森昭男編著『南太平洋を知るための58票 メラネシア ポリネシア』明石書店 2010年 80-82ページ)
出典
^ a b “UNdata”. 国連. 2021年10月11日閲覧。 ^ a b c d e “World Economic Outlook Database” (英語). IMF. 2021年10月16日閲覧。 ^ a b c d e f “パプアニューギニア基礎データ”. Ministry of Foreign Affairs of Japan. 2022年3月1日閲覧。 ^ a b c フジテレビトリビア普及委員会『トリビアの泉〜へぇの本〜 3』講談社、2003年。 ^ 春秋2014/7/12付 -日本経済新聞 ^ “新国家誕生なるか? パプアニューギニア・ブーゲンビル自治州で住民投票開始”. AFPBB News. フランス通信社. (2019年11月23日) 2019年11月25日閲覧。 ^ “パプア・ブーゲンビル自治州、住民投票で独立支持98% 新国家誕生へ前進”. AFPBB News. (2019年12月11日) 2020年1月5日閲覧。 ^ “中国に「8500億円貸して」借金頼みの南国、負の連鎖”. 朝日新聞DIGITAL (2019年8月8日). 2022年4月18日閲覧。 ^ “パプアの警官と兵士ら、APEC手当の支払い求め議事堂に乱入”. AFP (2018年11月20日). 2018年11月20日閲覧。 ^ PNG/LNG天然ガス開発プロジェクトから生産された初のLNG(液化天然ガス)の日本向け船積みが行われる ^ “Sign language becomes fourth official language of Papua New Guinea”. Radio Australia (2015年5月25日). 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月4日閲覧。 ^ “Sign Language, Next Official Language for PNG”. EMTV Online (2015年5月16日). 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月4日閲覧。 ^ “言語多様性の謎:パプアニューギニア |”. GNV. 2019年1月15日閲覧。 ^ 20歳女性「火あぶり処刑」で男女2人を逮捕、パプアニューギニア ^ “Papua New Guinea – culture”. Datec Pty Ltd. 1999年2月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2005年12月16日閲覧。 ^ Hadfield, Dave (1995年10月8日). “Island gods high in a dream world”. The Independent 2009年10月6日閲覧。 ^ “Three dead in PNG after State of Origin violence”. BrisbaneTimes.com.au (2009年6月26日). 2010年6月27日閲覧。 ^ a b c Cricket PNG 国際クリケット評議会 2023年10月1日閲覧。
関連項目
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外部リンク
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表話編歴
オセアニアの国と地域
表話編歴
コモンウェルス・オブ・ネイションズ(イギリス連邦)
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カテゴリ:パプアニューギニアオセアニアの国島国現存する君主国英連邦王国イギリス連邦加盟国国際連合加盟国 最終更新 2024年1月17日 (水) 09:03 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。
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ヨーロッパ世界
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E4%B8%96%E7%95%8C
※ 今日は、こんな所で…。
『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
この記事には複数の問題があります。改善やノートページでの議論にご協力ください。
出典がまったく示されていないか不十分です。内容に関する文献や情報源が必要です。(2022年4月) 独自研究が含まれているおそれがあります。(2022年4月) 出典検索?: "ヨーロッパ世界" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL
現在のヨーロッパ。地図のように各国が対等にひしめくようになったのは17世紀頃からである。
ヨーロッパ世界(ヨーロッパせかい)とは、ヨーロッパにおいて、ゲルマン人の大移動後、ゲルマン系諸民族の習俗と古代ローマの文明、さらにキリスト教信仰との融合(習合)、及び東ローマ帝国のビザンチン文化、キリスト教信仰とスラブ人の習俗との融合の結果できたと説明される世界についての歴史学用語である。
古代ギリシア、古代ローマによる地中海世界の後の西方世界を説明する際に用いられる。
ヨーロッパ世界の形成ヨーロッパ世界の形成はローマ帝国の東西分裂に伴い、西ローマ帝国の領域ではローマ教会が、東ローマ帝国の領域では正教会が大きな影響力を有しながら展開していった。
地中海世界との比較では、地中海世界が領域としていた北アフリカ地域がイスラム世界に組み込まれ、喪失する一方、地中海世界の外であった東ヨーロッパ、北ヨーロッパをその領域に組み込んでいることである。
この領域は現在「ヨーロッパ」と呼んでいる地域とほぼ一致する。
人種概念同様、純粋な学術的分類というよりはキリスト教的価値観を大いに含んだ概念と言える。
西ヨーロッパでのキリスト教世界の形成
パリのノートルダム大聖堂。西ヨーロッパによく見られるゴシック建築である。
ゲルマン人の大移動によって西方正帝が力を失うと、西ヨーロッパをゲルマン系諸民族が席捲した。
その際、ローマ人などのラテン系民族やガリア人(ブリトン人も含む)らケルト系諸民族からなる原住民との文化的融合が行われ、ゲルマン人はキリスト教を受容した。
やがて各地にゲルマン人を主体とする王国(征服王朝)が形成され、それらはフランク王国に収斂されて行った。
欧州の様々な民族から形成されたフランク民族の王カール大帝はキリスト教とローマ世界の庇護者としてローマ教皇によりローマ皇帝に戴冠され、キリスト教(カトリック)を重要な共通概念とする世界が構築された。
特にキリスト信仰は文明のバックボーンとなりマジャル人など東方系の民族もカトリックを受容した。
これに続き、ヴァイキング後に成立した北欧諸国のカトリック化によってほぼ現在の西ヨーロッパにおけるヨーロッパ世界が完成したと言える。
東ヨーロッパでのキリスト教世界の形成
「正教会」および「東ローマ帝国」も参照
アギア・ソフィア大聖堂。ビザンティン建築の典型であり、正教会を受容した地域に広まった
東ローマ帝国はローマ帝国分裂後も1000年近く命脈を保ったため、周囲の東ヨーロッパ、バルカン半島地域のキリスト教化によるヨーロッパ世界の展開は東ローマ帝国と正教会と移住してきたスラヴ人との闘争と融和によって進行されていった。
初期の東ローマ帝国の皇帝は西ローマ帝国での西方正帝の消滅後、「ローマにかわる第二のローマ」として「地中海帝国」の復活を目指した。
ユスティニアヌス帝のころ、ローマ帝国の領域をほぼ征服することに成功、地中海帝国の再興にこぎつけた。
しかし、神聖ローマ帝国の成立やヴァイキングの侵攻、スラヴ人の流入、イスラム世界の勃興など外部的要因で地中海帝国の維持には失敗し、ヘラクレイオス王朝の頃にはギリシア人の帝国として東ローマ帝国はバルカン半島、東ヨーロッパ地域の征服およびキリスト教の布教に専念するようになった。
一方、バルカン、東ヨーロッパ地域に移住してきたスラヴ人たちは、独自の王国を建設。
北方十字軍等の西ヨーロッパ世界の干渉や東ローマ帝国と激しく戦う一方で、正教会およびビザンツ文化を受容するようになっていった。ヨーロッパ世界の展開
ヨーロッパ世界の形成はキリスト教を支柱とする完成したが、同時に内外の要因によって多様性を深めていった。
また西ヨーロッパでは教皇と皇帝の対立、さらにシスマなど内部的要因で展開した。
東ヨーロッパではイスラム世界との接触および、モンゴル帝国の侵攻という外部的要因にさらされ展開した。
イスラム世界の影響は十字軍という形で東西ヨーロッパに影響を与えただけでなく、オスマン帝国による征服と圧力という形で長期的な影響を与え続けることになった。
東西教会の分裂
東西教会の分裂とシスマ(※ シスマ(ラテン語: Schisma、ドイツ語も同じ綴り)とは、「分裂」を意味する語で、特に宗教史における「宗教団体の分裂」を指す。)を参照
十字軍
十字軍を参照
モンゴル帝国とイスラム帝国の衝撃
モンゴル帝国を参照
二つの楕円
ヨーロッパ世界は二つの楕円式構造を有している。
カトリックと正教会
宗教において、カトリック教会と正教会という二つの中心を有しているのがこの世界の特徴である。この直接の発端は東西教会の分裂に始まるが、遠くはローマ帝国の東西分裂に由来する。
教皇と皇帝
カトリック教会を精神的支柱として西ヨーロッパ世界では、神聖ローマ帝国の成立以後、精神世界の頂点である教皇と世俗の頂点である皇帝との対立が生じた。
これは叙任権闘争によって顕在化することになる。また、性奴隷を虐める問題も勃発した。
ヨーロッパ世界の変質
ローマ教会と神聖ローマ皇帝が主導する西ヨーロッパのカトリック世界と東ローマ帝国とスラブ人王国が主導する東ヨーロッパの東方正教世界からなる「ヨーロッパ世界」は以下のような外部的要因と内部的要因によって変質していき、新たな局面を迎える。
特に大航海時代以降の展開は世界の一体化過程(近世における世界の一体化)において重要な役割をなし全世界に大きな影響を及ぼすこととなった。
東ローマ帝国の滅亡とオスマン帝国の圧力
ルネサンスと大航海時代、宗教改革
ルネサンス、大航海時代、宗教改革を参照
三十年戦争と「ウェストファリア体制」の成立
三十年戦争と神聖ローマ帝国を参照
関連項目
ヨーロッパ史 民族移動時代 ゲルマン民族の大移動 ゲルマン民族 アーサー王伝説 北欧神話 サガ 神聖ローマ帝国 フランク王国 キリスト教の歴史 - カトリック教会(西方教会)- 東方教会 - プロテスタント - ケルト系キリスト教 - 異教 ルーシ ノルマン人(ヴァイキング) スラヴ人 スラヴ民族の北東ルーシへの移動 イスラム世界 - イスラーム哲学 ロマネスク建築 ゴシック建築 ビザンツ文化 ビザンツ建築 ペスト(黒死病)
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カテゴリ:ヨーロッパヨーロッパ史世界の歴史 最終更新 2023年12月27日 (水) 01:34 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』
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パンノニア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%8E%E3%83%8B%E3%82%A2



『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パンノニア属州の位置(120年頃のローマ帝国)
パンノニア(Pannonia)は、古代に存在した地方名。
ローマ帝国の時代には皇帝属州であった。
北と東はドナウ川に接し、西はノリクムと上イタリア、南はダルマティアと上モエシアに接した。
パンノニアの領域は現在のオーストリア、クロアチア、ハンガリー、セルビア、スロベニア、スロバキア、およびボスニア・ヘルツェゴビナの各国にまたがる。
今日では、パンノニアという地名は、ハンガリーのトランスダニュービア地方(Transdanubia、ハンガリー語:Dunántúl)およびセルビア等に広がるパンノニア平原を指して使われる。
語源
言語学者ユリウス・ポコルニーによると、パンノニア(Pannonia)の語源は、インド・ヨーロッパ祖語で沼地や湿ったという意味を表す *pen- という言語要素から派生したイリュリア語である。
歴史
パンノニアの地図
パンノニアには、元々はイリュリア人に近い部族であるパンノニア族が住んでいた。
紀元前4世紀以降、この地域は多くのケルト人部族からの侵略を受けるようになるが、その頃の出来事についてはあまり知られていない。
紀元前35年、当時のパンノニアはダルマティア族と同盟を結んでいたが、初代ローマ皇帝アウグストゥスが侵攻してきてシスキア(Siscia、現シサク)を征服した。
紀元前9年、パンノニアは明確にローマ帝国の支配下に入り、イリュリクム属州に併合されて国境線がドナウ川まで広がった。
西暦6年、パンノニア族はダルマティア族など他のイリュリア人と連合して反乱を起こした。
激しい戦いが3年間続いたが、結局はローマ帝国のティベリウスとゲルマニクスによって制圧された。
この後にイリュリクム属州は新に二つの属州に分割され、北側がパンノニア属州、南側がダルマティア属州になった。
分割が正確にはいつ行われたのかは不明だが、20年から50年の間だと考えられている。
この地域の隣は攻撃的な蛮族(クァディ族、マルコマンニ族)の領域だったので、ドナウ川の川岸には大勢の軍が配備され(後年には7個軍団となった)、数多くの砦が建造された。
トラヤヌス帝によるパンノニア属州の2分割
102年から107年までのいずれかの年(2回にわたるダキア戦争の間)に、ローマ皇帝トラヤヌスはパンノニア属州を上パンノニア属州(西側)と下パンノニア属州(東側)とに再分割した。
学者プトレマイオスによると、このときの分割の境界線は北のアラボナ(Arrabona、現ジェール)から南のセルビチウム(Servitium 、現en: Gradiška)を結ぶ線だったが、後には境界線は東側に移された。二つの属州を合わせてパンノニアス(Pannonias、Pannoniae)と呼ばれることもあった。
上パンノニア属州はコンスル格の総督(レガトゥス)が支配し、この総督は駐留部隊として3個のローマ軍団の指揮権を有した。
一方の下パンノニア属州は、初めはプラエトル格の総督が駐屯部隊として1個軍団を持ち統治したが、皇帝マルクス・アウレリウスの後は軍団数はそのままにコンスル格の総督の担当地域に変更された。
ドナウ川の国境線を守るために、皇帝ハドリアヌスによってアエリア・ムルシア(Aelia Mursia 、現オシエク)とアエリア・アクィンクム(Aelia Aquincum、現en:Óbuda)の二つの植民市が築かれた。
皇帝ディオクレティアヌスの時代に、パンノニアは4つに分割された:
パンノニア・プリマ(Prima)– 北西部、首都はサウァリア(Savaria、現ソンバトヘイ) パンノニア・ウァレリア(Valeria)– 北東部、首都はソピアナエ(Sopianae、現ペーチ) パンノニア・サウィア(Savia)– 南西部、首都はシスキア(Siscia、現シサク) パンノニア・セクンダ(Secunda)– 南東部、首都はシルミウム(Sirmium、現スレムスカ・ミトロヴィツァ)
またディオクレティアヌス帝は、現在のスロベニアにあたる地域をパンノニアから除外し、ノリクム属州に編入した。
ディオクレティアヌス帝の死後は西ローマ帝国に属した。
5世紀の半ば、皇帝ウァレンティニアヌス3世の時代に、パンノニア属州はフン族に割譲され、ローマ帝国の属州ではなくなった。
フン族の王アッティラの死後、この地は次々と支配者が変わった:
東ゴート王国(456年-471年)、
ランゴバルド人(530年-568年)、
アヴァール人(560年代 – 約800年)、
スラヴ人(480年頃からこの地に居住しており、800年頃-900年頃は独立を果たした)、
マジャル人(現ハンガリー人)(900年または901年以降)、
ハプスブルク君主国、
およびオスマン帝国(1526年-1878年)。第一次世界大戦の後、この地域はオーストリア、ハンガリー、ユーゴスラビアに分割された。
主な都市
ゴルジウム・ヘルツリア(現ハンガリーのターツ)の航空写真
アクィンクムの航空写真原住民族の頃はいくつかの村が集まって州を形成していた。主な都市はローマ帝国の時代に作られた。前述した都市以外にも、次のような都市が存在した:
ソルヴァ(Solva、現エステルゴム) アクィンクム(Aquincum、現ブダペストのブダ地区) コントラ-アクィンクム(Contra-Aquincum、現ブダペストのペスト地区) アルバ・レギア(Alba Regia、現セーケシュフェヘールヴァール) アラボナ(Arrabona、現ジェール) シバレー(Cibalae、現ヴィンコヴツィ) ゴルジウム・ヘルクリア(Gorsium-Herculia、現ターツ) ムルサ(Mursa、現オシエク) マルソニア(Marsonia、現スラヴォンスキ・ブロド) スカルバンティア(Scarbantia、現ショプロン) タウルヌム(Taurunum、現ゼムン) クスム(Cusum、現ペトロヴァラディン) セルビヌム(Serbinum、現グラディシュカ) ウィンドボナ(Vindobona、現ウィーン)
地域の産業や経済のあらまし
この地域は元々かなり豊かであった。
広大な森林があり、木材も主要な出荷品目であったが、ローマ皇帝プロブスとガレリウス帝が森林地帯を開墾したことにより、農産物の出荷が増えてさらに豊かになった。
主要な農産物はオート麦や大麦で、それを原料としてビール(sabaea)も蒸留した。
一方で、ブドウやオリーブはあまり生産しなかった。
また、パンノニアは猟犬を産出することでも有名だった。
鉱物について記載された資料は見つかっていないが、鉄や銀の鉱山があった可能性もある。
水にも恵まれており、主な河川としてはドラーヴァ川、サヴァ川、ラバ川などがドナウ川に流れ込んでいた。
参考文献
Radomir Popović, Rano hrišćanstvo u Panoniji, Vojvođanski godišnjak, sveska I, Novi Sad, 1995. Petar Milošević, Arheologija i istorija Sirmijuma, Novi Sad, 2001.
関連項目
パンノニア平原 属州 ローマ帝国
外部リンク
Pannonia (英語) Pannonia (英語) Pannonia (英語) Aerial photography: Gorsium - Tác - Hungary (英語) Aerial photography: Aquincum - Budapest - Hungary (英語) 表話編歴
前期ローマ帝国の属州(3世紀以前)
表話編歴
後期ローマ帝国の属州(4 – 7世紀)
典拠管理 ウィキデータを編集
カテゴリ:古代ローマの属州ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史クロアチアの歴史スロベニアの歴史セルビアの歴史オーストリアの歴史スロバキアの歴史ハンガリーの歴史 最終更新 2021年3月13日 (土) 08:46 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
インドネシアの位置
本項では、インドネシアの地理(インドネシアのちり)について解説する。インドネシアはインド洋と太平洋に接する東南アジアの島嶼国家で、マレーシア、パプアニューギニア、東ティモールと国境を接する[1]。













国土
インドネシアの地図
スマトラ島、ジャワ島、カリマンタン島、スラウェシ島、ニューギニア島の主要島5島、そして小スンダ列島やマルク諸島といった群島から構成される[2][3]。
島嶼国家ゆえに国土の広大さに対して国境を接しているのは3か国のみとなっており、ティモール島で東ティモール、カリマンタン島でマレーシア、ニューギニア島でパプアニューギニアと接する[4]。
国境線の長さはそれぞれ253キロメートル、1881キロメートル、824キロメートル[1]。
また、海を隔ててフィリピン、シンガポール、オーストラリア、パラオなどと近接している[4]。
面積は2019年時点で191万6907平方キロメートル[5]で、2018年時点で31.2%が農地、51.7%が森林と推定されている[1]。
海岸線長は8万1000キロメートル程度でこれは世界第3位だが、うち3万キロメートルで侵食が発生しており、対策として護岸建設や植林が行われている[6]。
国土の範囲は北緯6度4分から南緯11度(南北1888キロメートル)、東経94度58分から141度1分(東西5110キロメートル)で、その範囲内に大小1万を優に超える島を抱えており[7]、島や地域ごとに異なる経済社会環境・自然生態系が見られる[2]。
地形・地質
地質
現在のインドネシアは中生代にゴンドワナ大陸から分離した大陸片がスンダランドに衝突した結果生じた弧状列島で、フィリピン含むこの地域は地球の中でも特に複雑な変動が進んでおり、6か所から7か所の衝突帯(英語版)、8か所の沈み込み帯、海溝が見られる[8]。
地質構成は山地は古生代と中生代の岩盤ないし第四紀の活火山から、丘陵地は第三紀の火山岩・堆積岩(特に石灰岩)から、平野は沖積層から成る[8]。
沖積層は特にスマトラ島、ジャワ島、カリマンタン島、イリアンジャヤに広く見られ、これら大陸棚に広がる低湿地の地盤は軟弱なことから開発上の課題となっている[8]。
高温多湿で岩石の風化侵食が著しく土壌形成は不活発だが、ジャワ島のように活火山に富む地域では火山性堆積物により土壌が更新されやすく、肥沃な生産地帯を成す[8]。
地震
インドネシアにおける地震(1900年-2019年)
「インドネシアの地震の一覧(英語版) 」も参照
地殻構造はインド・オーストラリアプレート、ユーラシアプレート、太平洋プレート、フィリピン海プレートで構成され、活発な地震活動がみられる[8]。
スマトラ島からバリ島にかけてのインド洋側ではインド・オーストラリアプレートが年平均50-70ミリメートルの速さでスンダプレートへ沈み込んでいるほか、ニューギニア島北側ではフィリピン海プレートがスンダプレートの小プレート群に干渉し、その小プレート群に向かって太平洋プレートが年平均120ミリメートルの速さで潜り込んでいる[9]。
前記したようにプレートが入り組んでいるインドネシアでは大津波を伴うプレート境界型地震がよく発生する[9]。
2000年までの55年間でマグニチュード6以上の地震が71回起きており、特にスマトラ島インド洋側からマルク諸島にかけての一帯が頻発地帯となっている[8]。
カリマンタン島では地震活動はそれほど見られないが、カリマンタン島以東の島嶼群(スラウェシ島やイリアンジャヤなど)では傍でフィリピン海プレートと太平洋プレートが合流して沈み込んでいる場所柄、しばしば地震や津波が起きる地帯となっている[10]。
2004年に起きたスマトラ島沖地震はこの地域で起きた初のマグニチュード9クラスの地震であり、1883年のクラカタウの噴火以来となる津波災害をもたらした[11]。
2004年以降もジャワ島中部地震(2006年)やスマトラ島沖地震(2009年)のように死者数千人規模の地震が発生している[12]。
建築物の脆弱性が被害の大きさに寄与していると考えられ、耐震化が望まれている[12]。
山インドネシアの最高峰はプンチャック・ジャヤで、標高は4884メートルである[1]。
インドネシアの主要火山
「インドネシアの火山」も参照
山はインドネシアの主要な地形の一つであり、現代においても活発な造山運動が進行している[13]。約400の火山を抱える世界有数の火山保有国で[14]、活火山の数は130前後[8][14]、年に10火山ほどが噴火している[15]。特にスマトラ島から小スンダ列島にかけての一帯は標高1000メートルから3000メートル級の火山が長く続いており、活発な火山活動が見られる[13]。中にはムラピ山やケルート山のように、火山活動に伴う火砕流や火山泥流で数千人から数万人規模の死者を出した火山や[14]、クラカタウやタンボラ山のような歴史に残る大規模な噴火で知られる火山もある[8]。
森林
2015年時点の森林率は53%で[16]、世界第3位の熱帯林保有国である[17]。森林の内訳としては51%が天然林、44%が天然生林、5%が植林地となっている[16]。政府は生態に応じて混交丘陵林、山地林、サバンナ・竹・落葉樹・モンスーン森林、泥炭湿地林、淡水湿地林、マングローブ林に6区分しており、このうち天然林で最もよく見られる混交丘陵林は木材生産上重要な立ち位置にある[18]。
年間を通じて降雨量が多いスマトラ島やカリマンタン島、イリアンジャヤなどの地域では熱帯多雨林が、明瞭な乾季が見られるジャワ島東部や小スンダ列島などの地域ではモンスーン林がそれぞれ発達し、その境目では移行帯として熱帯半常緑林が見られる[19]。標高1000メートルから3000メートルの地帯では山地多雨林が発達し、上部と下部で異なる形態を見せる[19]。塩水が混じる泥地や沖積地ではマングローブ林が発達し[19]、世界のマングローブ林面積の5分の1を占めるほど広大という特徴がある[16]。そのほかカリマンタン島にヒース林(英語版)、スマトラ島にマツ林が見られる[19]。
森林面積は1990年時点で約118万平方キロメートル(森林率63%)だったのが2020年時点で約92万平方キロメートル(森林率49%)と、年々減少している[18]。1970年代から1990年代にかけての開発や木材生産の活発化とともに森林減少がピークを迎えて以降も違法伐採や森林火災、土地転用の影響が見られる[20]。森林減少は温室効果ガスの主要排出源となっており[17]、森林減少の原因の一つである早成樹種の人工林やパーム油農園への土地転用は生態系にも影響を与えた[21]。
2007年に開催された気候変動枠組条約締約国会議では森林減少・劣化の抑制のほか、森林の保全や持続可能な経営などのための取り組みの重要性を明記したバリ行動計画(英語版)が採択され、以降インドネシアはREDD+(途上国の森林保全活動に基づく温室効果ガスの排出削減[22])実施の一環として、2011年から2016年まで天然林と泥炭地の新規開発を凍結したり、2012年に国家戦略を発表するなどして取り組んでいる[23]。新規開発凍結の影響で、2016年以降は森林減少の抑制が有意に見られる[21]。
「インドネシアにおける森林破壊(英語版) 」も参照
河川・湖沼
「インドネシアの河川の一覧(英語版)」および「インドネシアの湖の一覧(英語版) 」も参照
世界有数の湖沼大国で[24]、国内最大の湖のトバ湖(約11万ヘクタール)や、国内最深の湖のマタノ湖(英語版)(600メートル)など、約830の湖、735の池があり、合わせて計50万ヘクタールほどの面積を持つ[25]。
主要河川は5590本あると言われ、観光地や輸送手段として流域が栄えているものもある[26]。河川長が長い河川としてはカリマンタン島にあるカプアス川やマハカム川などがある[26]。アジアの中でも下水道が普及しておらず、未処理の汚染水が河川に流入しており水質改善が課題となっている[27]。河川の59%は産業廃棄物や家庭廃棄物で汚染されており、世界銀行から世界で最も汚染された川と称されたチタルム川(英語版)のような例もある[26]。
島嶼
「インドネシアの島の一覧」も参照
インドネシアはスマトラ島、ジャワ島、カリマンタン島、スラウェシ島、ニューギニア島の主要島5島、そして小スンダ列島やマルク諸島といった群島から構成される弧状列島である[2][3]。
プレートの沈み込みによる海溝に沿ってスマトラ島、ジャワ島、バリ島やフローレス島などの小スンダ列島が連なり、小スンダ列島の北にはジャワ海を挟んでカリマンタン島が、その東にスラウェシ島やイリアンジャヤなどの島々が見られる[10]。
島の数は一般的に1万7508とされてきたが、これは潮が高い時に水没する砂地や岩礁を含んだ数であり、地理空間情報局は2013年、国連海洋法条約に基づき1万3466島に命名・下方修正している[28]。しかしながらこの下方修正以降も島の数をめぐる論争は決着を見ておらず[29]、2017年8月時点では1万6056とされている[30]。
気候
ケッペンの気候区分で色分けされたインドネシアの地図
ケッペンの気候区分では多くの地域が熱帯雨林気候に当てはまり、ジャワ島やスラウェシ島の一部では熱帯モンスーン気候が、東ジャワから小スンダ列島にかけてはサバナ気候が、山岳地域では温帯湿潤気候が見られる[31]。また、イリアンジャヤには氷河や万年雪が見られる高山がある[32]。気温は年中摂氏25度から27度程度(山地はさらに低い)で、年較差は小さい[32]。
インドネシアの気候は乾季と雨季にはっきり分かれており、地域ごとに季節ごとの降雨量が著しく異なることによって特徴づけられる[8]が、赤道付近は乾季と雨季が不明瞭で年中多雨多湿である[31]。年降水量は500ミリ程度から6000ミリ以上と地域により大きな差があり、多くの地域では2000ミリを超える[33]。南東季節風が卓越する5月から10月にかけてが乾季、北西季節風が卓越する11月から4月にかけてが雨季となり、降水量を左右する季節風の影響は地域や地形によって様々である[31][注釈 1]。雨季では短期集中型の豪雨が見られ、農業上重要な水資源となる一方で水害が発生しやすい[35]。乾季では月降雨量が0に近いこともあり、干ばつとなる[35]一方、場所によっては地形や気流の影響で多雨となることもある[33]。
インドネシア各地の平年値(統計期間:1991年-2020年)
平年値
(月単位) スマトラ島 ジャワ島 小スンダ列島
バンダアチェ[36] メダン[37] パダン[38] プカンバル[39] ジャンビ[40] ブンクル[41] パレンバン[42] パンカルピナン[43] バタム島[44] セラン[45] ジャカルタ
(タンジュンプリオク)[46] チルボン[47] スマラン[48] スラバヤ[49] デンパサール[50] ビマ[51] ワインガプ[52] クパン[53]
平均気温
(摂氏) 最暖月 28.0(6月) 28.0(5月) 27.2(5月) 28.2(5月) 27.6(5月) 27.5(5月) 27.7(5,9月) 27.7(5,8,9月) 28.1(4,5月) 27.7(4,5,10月) 29.4(10月) 28.9(10月) 28.7(10月) 29.0(10月) 28.2(11月) 29.0(11月) 28.5(11月) 28.7(11月)
最寒月 26.3(12月) 26.6(12月) 26.2(8-9月) 26.9(1月) 26.7(12-1月) 26.4(12月) 26.7(1-2月) 26.3(1月) 26.9(12月) 26.9(2月) 27.8(2月) 26.6(2月) 27.1(1-2月) 27.2(7月) 26.3(8月) 26.2(7月) 25.6(7-8月) 26.0(7月)
降水量
(mm) 最多月 300.7(11月) 350.5(10月) 509.5(11月) 356.3(11月) 266.1(11月) 404.4(12月) 367.8(3月) 276.1(3月) 277.6(12月) 300.4(1月) 476.2(2月) 449.8(3月) 394.4(2月) 380.7(2月) 350.7(1月) 228.9(1月) 185.1(2月) 468.0(1月)
最少月 74.0(6月) 82.3(2月) 257.7(8月) 161.9(6月) 105.5(6月) 166.9(7月) 64.5(8月) 103.5(8月) 80.0(2月) 33.3(8月) 49.7(8月) 26.4(8月) 35.5(8月) 11.9(8月) 27.6(7月) 2.2(8月) 1.4(8月) 2.5(8月)
平年値
(月単位) カリマンタン島 スラウェシ島 マルク諸島 パプア島
ポンティアナック[54] パンカランブーン(英語版)[55] タンジュンスロル[56] バンジャルマシン[57] バリクパパン[58] ビトゥン[59] パル[60] ルウク(英語版)[61] バウバウ[62] マジェネ(英語版)[63] マカッサル[64] テルナテ[65] アンボン[66] サウムラキ(英語版)[67] トゥアル(英語版)[68] ソロン[69] ビアク[70] メラウケ(英語版)[71]
平均気温
(摂氏) 最暖月 27.5(5-6月) 27.2(5月) 28.2(5月) 27.9(5,9月) 27.9(5月) 28.3(12月) 27.8(5,10月) 28.5(1,11月) 28.2(11月) 28.4(10月) 28.2(10月) 27.5(3月) 27.8(12月) 28.7(11月) 27.8(11月) 27.6(2月) 27.4(5月) 28.2(12月)
最寒月 26.7(11-1月) 26.4(7,12月) 26.9(1月) 26.8(7月) 27.1(1月) 27.4(7-8月) 27.0(7月) 26.2(7-8月) 26.3(7月) 27.4(7月) 26.5(1月) 26.9(2月) 25.2(8月) 26.1(8月) 26.3(7月) 26.1(8月) 26.9(7月) 25.4(7-8月)
降水量
(mm) 最多月 377.2(11月) 468.2(5月) 344.5(1月) 433.4(12月) 329.8(6月) 226.7(2月) 225.9(10月) 184.9(7月) 320.6(12月) 234.7(12月) 750.6(1月) 240.7(1月) 669.8(7月) 333.2(5月) 398.8(1月) 448.2(7月) 275.9(3月) 376.4(3月)
最少月 211.4(3月) 135.5(9月) 205.7(7月) 67.9(9月) 173.6(8月) 69.1(9月) 57.6(12月) 43.2(10月) 27.2(8月) 37.4(8月) 19.3(8月) 109.3(9月) 84.2(11月) 4.1(9月) 85.0(8月) 152.1(1月) 183.3(11月) 28.3(9月)気候変動
「インドネシアにおける気候変動(英語版) 」も参照
今後懸念される気候変動の影響としては降水量の増加、それに伴う洪水や土砂災害の増加・激化のほか、特に沿岸地域に人口が集中するジャワ島をはじめとする島々では海面上昇も危ぶまれる[72]。これを受けて政府は2007年に気候変動対策行動計画を発表し、気候変動の緩和策としてエネルギー部門の二酸化炭素排出抑制や緑化推進を、洪水などの災害激化への対応策として一般への啓発、インフラ整備計画や設計基準の再検討などを挙げた[72]。
生物相
インドネシアには菌類やバクテリアなどの1万2300種を含み、約32万5000種の野生動植物が生息するといわれ、その生物多様性がメガダイバーシティ国家と呼ばれる所以となっている[73]。一方で、生物の主要生息地たる熱帯雨林は伐採や土地転用などの様々な理由で年々減少傾向にあり、国際自然保護連合のレッドリストに掲載されている種が少なくない[73]。
生物地理区では東洋区とオーストラリア区にまたがり[73]、ロンボク海峡からマカッサル海峡を通るウォーレス線を境に生物相が異なる[74]。ウェーバー線のような分布境界線も知られる[32]。
動物相
「インドネシアの動物相(英語版) 」も参照
動物は28万種程度いるとされ、内訳としては哺乳類が約500種、鳥類が約1500種、爬虫類が約2000種、両生類が約1000種、魚類が約8500種、昆虫類が約25万種、軟体動物が2万種となっている[73]。著名な種としてはオランウータンやコモドオオトカゲなどがいる[32][74]。
植物相
「インドネシアの植物相(英語版) 」も参照
植物は3万種程度いるとされ、内訳としては種子植物が約2万5000種(うち約1万種が木本[75])、シダ類が約1250種、苔類が約1500種、海草が1800種となっている[73]。植物地理学上ではマレシア植物区系区に属する[75]。標高の高い火山が多いため、気温の垂直差が顕著で、その気温差に応じてマングローブ林や常緑雨林から高山植物まで多様な植物相が発達している[32]。種子植物のうち4割程度が属レベルの固有である[75]。場所によっては植物相の調査が進んでいないところがあり、スラウェシ島はその例である[19]。
熱帯多雨林を構成する植物としてはフタバガキ科、マメ科、クスノキ科、カンラン科、アカテツ科、センダン科、ブナ科、ムクロジ科、トウダイグサ科、アカネ科、バンレイシ科、クワ科などで、低木層や草本層はあまり発達していない森林がある[19]。つる植物や着生植物なども種は豊富だが、林床はその暗さゆえに貧弱な植生であることが一般的である[19]。モンスーン林ではチークなどの落葉樹が主体で、巨大な木本性つる植物(英語版)も見られる[19]。
行政区画
詳細は「インドネシアの地方行政区画」を参照
インドネシアの州
インドネシアはまず州・特別州に分割され、さらに県・市に、さらに郡に、そして区・村に分割される[76]。州より大きい地方行政区分はないが、統計上はより大局的にスマトラ、ジャワ、小スンダ列島、カリマンタン、スラウェシ、マルク・パプアと6区分される[3]。
州は州知事と州議会による地方行政を有し、州知事は県と市の行政事務と補佐任務に対して指導・監督を行う[76]。2022年時点で37州あり、このうちジャカルタ首都特別州、ジョグジャカルタ特別州、アチェ州、パプア州、西パプア州は宗教的・民族的・歴史的な理由から特別な自治権を与えられている[76]。
県と市はそれぞれ県知事・県議会、市長・市議会による地方行政を有し、その違いは主な管轄区域が農村部か都市部かで、基本的に制度上の差異はない[76]。2021年6月時点で416県と98市がある[76]。
郡は区と村に対する指導監督などを担う郡長によって統率され、2021年6月時点で7274郡がある[76]。区は基本的に市内の郡の下に、村は基本的に県内の郡の下に置かれる行政単位で、2021年6月時点で8万3843村・区がある[76]。
このほか、中央政府により国益のための戦略上重要な特定の行政機能の実行を目的として州・県・市の下に特別地区が置かれることがある[76]。
インドネシアの州別人口・面積(2021年時点[77][注釈 2])
州 面積(km2) 人口(千人)
アチェ州 57,956.00 5,333.7
北スマトラ州 72,981.23 14,936.2
西スマトラ州 42,012.89 5,580.2
リアウ州 87,023.66 6,493.6
リアウ諸島州 8,201.72 2,118.2
ジャンビ州 50,058.16 3,585.1
ブンクル州 19,919.33 2,032.9
南スマトラ州 91,592.43 8,550.9
バンカ・ブリトゥン州 16,424.06 1,473.2
ランプン州 34,623.80 9,081.8
ジャカルタ首都特別州 664.01 10,609.7
バンテン州 9,662.92 12,061.5
西ジャワ州 35,377.76 48,782.4
中部ジャワ州 32,800.69 36,742.5
ジョグジャカルタ特別州 3,133.15 3,712.9
東ジャワ州 47,803.49 40,878.8
バリ州 5,780.06 4,362.7
西ヌサ・トゥンガラ州 18,572.32 5,390.0
東ヌサ・トゥンガラ州 48,718.10 5,387.7
西カリマンタン州 147,307.00 5,470.8
中部カリマンタン州 153,564.50 2,702.2
南カリマンタン州 38,744.23 4,122.6
東カリマンタン州 129,066.64 3,808.2
北カリマンタン州 75,467.70 713.6
北スラウェシ州 13,892.47 2,638.6
ゴロンタロ州 11,257.07 1,181.0
中部スラウェシ州 61,841.29 3,021.9
南東スラウェシ州 38,067.70 2,659.2
南スラウェシ州 46,717.48 9,139.5
西スラウェシ州 16,787.18 1,436.8
マルク州 46,914.03 1,862.6
北マルク州 31,982.50 1,299.2
パプア州 319,036.05 4,355.5
西パプア州 102,955.15 1,156.8
全国 1,916,906.77 272,682.5
人口インドネシアの人口ピラミッド(2020年)
州別に1平方キロメートルあたりの人口密度で色分けされた地図(2020年)。インドネシアの人口はジャワ島に集中している。
詳細は「インドネシアの人口統計(英語版)」を参照
2020年の国勢調査による総人口は2億7020万人程度で、中国、インド、アメリカ合衆国に次いで人口が多い国となっている[7]。生産年齢人口(15歳から64歳)の割合は70.72%で、このピークは2030年にかけて続くと見込まれている[7]。地域別ではジャワ島が1億5160万人と集中しており、次点でスマトラ島が5860万人、残る約2割の人口はスラウェシ島やカリマンタン島などの島に散らばっており[7]、人口密度の地域差が顕著である[3]。特に首都ジャカルタは国土の0.003%程度の極小地域ながら人口の3.9%が集中しており、結果として開発が集中し他地域との経済格差を生み出しているため、首都移転の理由の一つとなっている[78]。
環境保全
「インドネシアの環境問題(英語版)」も参照
インドネシアの環境保全行政の始まりは、1972年の環境計画作成・立案全国委員会設立であり、次いで1978年の環境担当国務大臣の任命、1982年の環境保全管理法制定、1990年の環境影響管理局設置などの動きがあった[79]。1993年に環境省[注釈 3]を設置して以降は、1997年の環境管理法制定、1999年の持続的な天然資源管理のための5か年計画策定、2002年の「戦略計画および行動プログラム」制定と環境政策に力を入れるようになり、また折の地方分権化により環境保全の軸足は国レベルから地方レベルへと移った[27]。
2016年時点では、地方政府の環境行政能力は地域差があるも改善を要する状況にあり、中央政府においても環境省が行政評価システムで厳しい評価を受けるなど、法執行上の課題が残っているほか、専門技術者の育成や市民の意識改革も取り組むべき事柄となっている[80]。
脚注
[脚注の使い方]
出典
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注釈
^ 乾季と雨季の期間は資料や地域によって異なる。例えばマルク州はアルリンドと呼ばれる湧昇流により生じる寒気の影響で、5月から7月が雨季に当たる[34]。江口 (1983)は最大降水量月が10月から2月の間か、3月から7月の間か、年変化における月降水量のピークが1回か、2回かでインドネシアを4区分している[33]。
^ 表中では34州だが、2022年6月30日にパプア州がパプア州、中部パプア州、山岳パプア州、南パプア州に分けられたことにより、以降は37州となっている[7]。
^ 2015年の省庁再編で環境林業省(英語版)となった[80]。
表話編歴
アジアの地理
北アジア
ロシア1(ウラル連邦管区、シベリア連邦管区、極東連邦管区)
東アジア
大韓民国中華人民共和国 香港マカオチベット中華民国3朝鮮民主主義人民共和国日本モンゴル国
東南アジア
インドネシアカンボジアシンガポールタイ東ティモールフィリピンブルネイベトナムマレーシアミャンマーラオス
南アジア
アフガニスタンイランインドスリランカネパールパキスタンバングラデシュブータンモルディブ
中央アジア
ウズベキスタンカザフスタン1キルギスタジキスタントルクメニスタン
西アジア
中東
地中海沿岸
イスラエル4シリアトルコ1レバノンパレスチナ国3
ペルシア湾沿岸
アラブ首長国連邦イラクオマーンカタールクウェートサウジアラビア4バーレーン
紅海沿岸
イエメン2ヨルダン
南コーカサス
アゼルバイジャン1アルメニア1ジョージア1アブハジア1,3南オセチア1,3
地中海
キプロス1北キプロス1,3
海外領土等
アクロティリおよびデケリア1イギリス領インド洋地域2クリスマス島ココス諸島
各列内は五十音順。1 ヨーロッパにも分類され得る。2 一部はアフリカに含まれる。3国連非加盟の国と地域。4紅海の沿岸国でもある。
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カテゴリ: インドネシアの地理
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ベッサラビア
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ベッサラビア
ベッサラビアの紋章
平野を流れるドニエストル川
ベッサラビア(英語: Bessarabia, トルコ語: Besarabya)、またはバサラビア(ルーマニア語: Basarabia, モルダヴィア語: Басарабиа, ウクライナ語: Бессарабія)[1]は、1806年の露土戦争の結果、ルーマニア人のモルダヴィア公国領を、当時宗主権を持っていたオスマン帝国がロシアに一部割譲した際に、割譲した公国東部地方をロシア側が指した名称である。
モルダヴィア公国の残余部分は1859年、ワラキア公国と同君連合を形成し、1881年にルーマニア王国となった。
1918年、ベッサラビアは革命後のロシアから独立を宣言。
第一次世界大戦終結時にはルーマニアと合併した。
第二次世界大戦初期の1940年、ソビエト連邦によって併合。
1941年から44年までのルーマニア占領期を経て、大戦末期の1944年、ソビエト連邦が再占領し、モルダヴィア・ソビエト社会主義共和国に再編した。
北部と南部の一部地域はウクライナ・ソビエト社会主義共和国に組み入れられた。
1991年、モルダヴィアはソビエト連邦から独立を宣言し、モルドバ共和国となった。
地理
ロシア帝国時代における中央ヨーロッパ領土の一部分で、現在のモルドバのほとんどと、現在のウクライナの一部を加えた地域である[1]。
基本的に中世のルーマニア側のモルダヴィア公国と同一であった。
高地の多い北側[1]と東側はドニエストル川で区切られ、西側はプルート川が流れ[1]河口付近でドナウ川と合流する。
低地の多い南側[1]は黒海に面している。
面積はおよそ45,600平方キロメートル。大部分は起伏のあるステップ(草原)であり、気候も温暖で[1]農業に非常に適した土壌である。
ベッサラビアでは主にテンサイ、ヒマワリ、小麦、トウモロコシ、タバコ、ブドウなどが栽培されており、牛の放牧[1]を中心とした酪農も行われている。
現在でもこの地域で盛んな産業は農業である。資源として亜炭や石材も産出する。
この地域の中心都市はモルドバの現在の首都であるキシナウ(キシニョフ)の他に、イズマイール、ティラスポリ、ビルホロド=ドニストロフスキーなどがある。
他に行政上、歴史上重要な都市としてホティン(英語版)、リプカニー(英語版)、ブリチェニー(英語版)、ソロカ(英語版)、バルツィ、オルヘイ(英語版)、ウンゲニ(英語版)、ベンデル、カフル(英語版)、レニ(英語版)、チリア(セルビア・クロアチア語版)などがある。
歴史
ベッサラビアの名称は、ワラキアをハンガリーから独立に導き、この地の南部を支配したこともあるバサラブ一族に由来する[1]と言われる。
元々はこの地の南部、現在のブジャクに相当する地域を指す名前であり、1484年にこの地の支配権を獲得したトルコ人によって最初に使われた。
15世紀から20世紀にかけて、この地はモルダヴィア、オスマン帝国(ブジャク地方のみ)、ロシア、ルーマニア、ソビエト連邦の支配を経て、現在はウクライナ及びモルドバ共和国の領土となっている。
古代
ベッサラビアの地では何千年もの間人間が定住していた。
紀元前2000年頃にインド・ヨーロッパ語族の侵入があった。
キンメリア人を最初に、スキタイ人[1]、トラキア人の一派のダキア人(もしくはゲタエ人)の順にこの地に住んだ[1]。
紀元前7世紀頃、ギリシャ人がこの地に植民地を築き周辺地域と黒海貿易を行っていた。
紀元前1世紀、ガイウス・ユリウス・カエサルと同時代人であったブレビスタによるダキア人の王国(紀元前70年 – 42年)が最初に国としてベッサラビア全体を領土に収めた。
その後、国家は細かく分けられて再統合は1世紀のデケバルスの王国(87年 – 106年)によってなされた。
この国は106年にローマ帝国に敗れたがベッサラビアはローマ領とはならず、ダキア人はローマ人の支配に抵抗した。ローマ人はスキティア地方を守るためにベッサラビアの南方に土壁を築いた。
ローマ帝国によるダキア地方のローマ化で、ダキア人はラテン語や慣習を身に付けていった。
ラテン文化やラテン文字はベッサラビアを含む古代ダキア人の地を支配していくように広がっていった。
270年にローマはゴート人やカープ人の侵入のためにダキアから軍隊を引き上げ始めた。
ゲルマン民族に属するゴート人は、ベッサラビア南部のブジャク地方を通過しローマ帝国に押し寄せた。
地理的な位置とステップという地形的特性により、5世紀以降フン族、アヴァール人、ブルガール人など多くの遊牧民族の侵略を受けた。
しかしローマ人は居残り、主に羊飼いや農民となり騎馬戦士などが侵入してこない地に住み着くようになった。ローマ人の影響は567年まで続くことになる。
民族大移動時代
3世紀から11世紀にかけて、この地にはゴート人、フン族、アヴァール人、スラヴ人、マジャル人、ペチェネグ人、クマン人、モンゴル人などの進入が相次いだ。
ベッサラビアには他の異民族が押し寄せると解体してしまうような短命の国が沢山興った。
不安定な国家状態と、民族の集団移動が、この数百年間の時代の特徴であり、後世では「暗黒時代」と呼ばれる。このような状況が終結するのは中世になってからである。
ベッサラビアにおいては6世紀までにスラヴ人が領土を形成し定住した。
スラヴ人の軍隊は小規模だが強力な騎馬戦士の集団であり、痕跡を残さずに移動することができた。
561年、アヴァール人が侵入し、支配者であったメサマーを処刑した。
582年には、ブルガール人のクトゥルグル(英語版)族がベッサラビア南部およびルーマニアのドブロジャ北部に住み着いた。
彼らは後にマジャル人の脅威からブルガリアのモエシア地方へ移動し、初期ブルガリアを形成した。7世紀には、トラキア人のベシ族(英語版)が移住した。
7世紀以降ハザール国が東方のカスピ海北岸に興り、異民族の侵入が衰えたことから、ようやくこの地に大きな国家を形成することが可能となった。
9世紀から13世紀にかけて、ベッサラビア北部はボロホベニ(英語版)、南部はブロドニチ(英語版)という国に属していた。
これらはヴラフ民族の国で、中世初期に成立した。
また、タタール人の侵入時に山岳地帯へ逃れなかったグループで、中世後期の歴史書にティゲチ(英語版)「共和国」と紹介されているものがある。この国は、ベッサラビアの南西部、現在のカフル(英語版)付近に位置している。
異民族の侵入で最後の大規模なものはモンゴル人とタタール人の侵入[1]であり、1241年(モンゴルのセルビア・ブルガリア侵攻)、1290年、1343年に起こった。
1390年代に追い出されるまで、彼ら異民族の小さな集団が、現在のオルヘイ周辺に住み着いていた。
モルダヴィア公国時代(オレンジ色)のベッサラビア(1800年)
モルダヴィア公国時代
1343年にモンゴル人に敗北した後、この地はモルダヴィア公国に編入された。
モルダヴィアは1392年までにチェタテア・アルバとチリア(セルビア・クロアチア語版)の要塞に支配権を確立した。東側の国境はドニエストル川である。
14世紀後半にこの地の南部が数十年の間ワラキアの領土となった。ワラキアの代表的支配者がバサラブと呼ばれ現在のこの地の名前の元となっている。
15世紀にこの地域のほとんどがモルダヴィア公国の領土となった。
モルダヴィア公シュテファン3世が支配していた1457年から1504年までの約50年の間にはオスマン帝国やタタール人などから32回も勝利を挙げ、敗北を喫したのはたった2回であった。
勝利の後にシュテファン大公は戦場の近くにキリスト教の修道院や教会を建てた。このような戦場、教会、要塞都市の多くはベッサラビアにある。
1484年にオスマン帝国が侵入し、チリアとチェタテア・アルバを攻略し、ベッサラビア南部の海岸線沿いを2地域に分けて併合した。
1538年にモルダヴィア公国の一部分だったベッサラビアはオスマン帝国の影響下に置かれることになる[1]。
1711年から1812年にかけてロシア、オスマン帝国、オーストリア間の戦争においてロシアはこの地を5回占領した。
1820年から1846年にかけて、ガガウズ人が長年のオスマン帝国の圧政に耐えかねてドナウ経由でロシアへ移住、ベッサラビア南部に定住した。
ノガイ・オルダにいたテュルク語族もまた16世紀から18世紀にかけてベッサラビア南部のブジャクに住み着いた。しかし1812年までにほとんどが追い出されてしまった。
ロシア帝国時代
1856年からベッサラビアからの葉書
1812年3月28日、露土戦争の結果として締結されたブカレスト条約により、オスマン帝国はモルダヴィア公国の東半分をロシアに割譲した。
この地はその時にベッサラビアと呼ばれた。この年以前においては南側の一部を占める部分の呼び名に過ぎなかった。
1814年、最初のドイツ人移民が到着し主に南部に住み着いた(ベッサラビア・ドイツ人(英語版))。また同地域にはブルガリア人も定住するようになり、ボルフラードなどの町を建設した。
クリミア戦争終結後の1856年、パリ条約の締結によりベッサラビア南部の2地域がモルダヴィア公国に返還され[1]、ロシアはドナウ川への進路を失った。キシナウを含む多くが国境地帯となった。
1859年にモルダヴィア公国とワラキア公国が同君連合を形成し、1866年立憲君主国を経て、1881年、ルーマニア王国となった。
ルーマニア独立戦争(露土戦争のこと)がロシアの支援の元1877年から1878年にかけて行われた。
この時ロシアとルーマニアの間で結ばれた同盟条約において、ロシアはルーマニアの領土を尊重し、戦後ルーマニアの領土に干渉しないことを約束したが、サン・ステファノ条約と戦後に開催されたベルリン会議では認められず、ベルリン条約によりベッサラビア南部は再びロシアに併合された[1][2]。
これにより民族意識が高まったルーマニア人はベッサラビア回復の衝動を大きく募らせることとなる[3]。
1903年4月6日、ベッサラビアの首都キシニョフ(キシナウ)に於いてポグロム(集団的迫害、ユダヤ人大虐殺)が行われた。
これは20世紀においてユダヤ人に対する最初の国家的行為で、47人ないしは49人のユダヤ人が殺され、92人が負傷し、約700軒の家が破壊された。
1911年の時点で、165の貸付組合、117の貯蓄銀行、43の貯蓄貸付組合、8のゼムストヴォ(ロシアの県単位の地方自治機関)の金融会社が存在し、資本は総計約1,000万ルーブルであった。また、89の政府貯蓄銀行もあり、預金総額は約900万ルーブルであった。
1917年のロシア革命後、ルーマニア人民族主義者の活動がベッサラビアにおいて進展し始めた。同年10月のロシア革命の混乱が広がるとベッサラビアに評議会(英語版)が設立され、120人がベッサラビアから、10人がトランスニストリアから選出された[注釈 1]。
1918年1月14日(旧1月1日)、第一次世界大戦のルーマニア前線から2つのロシア軍師団が撤退する間に、キシニョフがロシア軍に占拠された。
「キシナウ駅占領事件 (1918年)」も参照
ルムチェロド(英語版)委員会(ルーマニア(Румыния)戦線、黒海(Черное море)艦隊、オデッサ(Одесса)軍管区(ロシア語版、英語版)の労働者・兵士・船員ソビエトの中央執行委員会)がベッサラビアにおいて最高機関であると宣言した。
ルーマニア人の評議会は軍隊を招集することが出来ず、ルーマニア政府に援助を求めた。1月16日(旧1月3日)にルーマニア軍はキシニョフを制圧し、続いてドニエストル川沿いのベンデルも制圧。こうしてソビエトの支配は3日で終わった。
ルーマニア・ベッサラビアの統一宣言
10日後の1918年2月6日(旧暦1918年1月24日)、ルーマニア人の評議会はモルダヴィア民主共和国としてベッサラビアの独立を宣言した[1][注釈 2]。
しかし、ルーマニアをはじめとする、ドイツ、ウクライナ、ロシアら周辺強国による分離講和合意の調印から、モルダヴィアの民は次第にルーマニアとの連合を強く望むようになって行った。
これに促される形で議会はルーマニアとの連合の票決を問う姿勢を固めることとなる。
だが、その最中の2月26日(旧2月13日)、ルーマニア軍がモルダウィアの首都であったキシナウへ侵攻するという事態が発生する。
1918年4月9日(旧1918年3月27日)ベッサラビア議会(旧評議会)においてルーマニアとの統一を問う投票が行われ、賛成86票、反対3票、棄権36票で統一が可決された[1](ルーマニアのベッサラビア統一(英語版))。
1918年の時点で、鉄道の総延長は657マイル。ロシア方面へつながる本線は広軌であった。
鉄道車両・敷設用地の状態は劣悪だった。機関車は約400台で、うち使用可能なのは100台であった。290台の客車を有していたが、他に33台は修理が必要だった。
また、4,530台の貨車と187台のタンク車のうち、それぞれ1,389台と103台が使用可能であった。ルーマニア人が軌間を標準軌 (1435mm)に改修し、ヨーロッパ諸国と接続した。
ルーマニア領時代
ベッサラビア領有期のルーマニア(1920年~1940年)
1919年5月5日にボリシェヴィキによるベッサラビア暫定政府がオデッサに設立された。
1919年5月11日、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の自治領として、ベッサラビア・ソビエト社会主義共和国(英語版)の成立が宣言されたが、1919年9月、ポーランド軍とフランス軍により阻止された。
しかしながら1922年、ロシア内戦におけるボリシェヴィキの勝利の後、ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国が成立。1924年、ウクライナ領であるドニエストル川以東の一部地域が、モルダヴィア自治ソビエト社会主義共和国として成立を宣言した。
1920年に行われたパリ平和会議(パリ条約)で、ルーマニアとの統一連合はアメリカ、フランス、イギリスおよび西欧諸国に承認される[1]こととなり、その日にキシナウを含むベッサラビア地方がルーマニアに併合された。しかしソビエト連邦だけは承認しなかった[1]。
第二次世界大戦期
1939年8月23日、ドイツとソビエト連邦の間でモロトフ=リッベントロップ協定が調印された。
表向きの内容はドイツとソビエト連邦の不可侵条約であったが、付属する秘密議定書の第3条には、ベッサラビアをソビエト連邦の勢力範囲とし、ドイツはベッサラビアにおけるソ連の権益を承認することが定められていた[4][5]。
1940年6月26日、議定書の条件にもとづき、ソビエト連邦はルーマニアに対し、ベッサラビアと北ブコヴィナの割譲、および軍隊の4日以内の撤退(さもなくば軍事力を行使する)を要求する最後通牒を発出[1]、ルーマニア政府と国王カロル2世はこれを応諾せざるをえなかった[1][6][7]。
両地域合わせて広さ51,000 km2に及び、人口は375万人で大部分はルーマニア人であったが、ソビエト連邦は主にウクライナ人が居住しているものと主張した。
2日後、ルーマニア政府は軍隊の撤退を開始した。
ソビエト軍はベッサラビアに進駐し、ベッサラビアをソビエト連邦に併合、モルダヴィア自治共和国とウクライナ・ソビエト社会主義共和国に分割した。
ベッサラビアの北部および南部地域はトランスニストリア(ドニエストル川東部地域)と領土の交換がなされた。
この地域は領土交換前にはルーマニア人が大部分を占め、その他ウクライナ人とドイツ人で構成されていたが、今日ではウクライナ人とロシア人が大部分を占めている。
ソ連占領後のベッサラビアから鉄道で他国へ移住するベッサラビア・ドイツ人たち(1940年)
ソビエト連邦への支配権の移行に伴い、多くのベッサラビア人は処刑されるか、シベリアやカザフスタンへ強制移送された。
1940年8月2日、新たな領土を加え、モルダヴィア自治共和国がモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国に再編された。
同年9月、ベッサラビア在住のドイツ人住民は、ドイツ国内へ再定住するよう申し出を受けた。
ソビエト連邦の抑圧を懼れ、約93,000人のドイツ人住民のほとんどがこの申し出に同意した。
そして大多数の住民は、ドイツがポーランド侵攻により新たに併合した地域に再定住した[注釈 3]。再定住を拒否した場合、赤軍に殺された者も多かった。
1941年6月22日、バルバロッサ作戦により、ルーマニアを含む枢軸国軍のソビエト連邦への侵攻が開始された[8]。
ソビエト連邦はベッサラビアからの退却の際に焦土作戦を採用し、輸送可能な物資をすべて鉄道でロシアに輸送した。
7月の終わりには、1年間におよぶソビエト連邦の占領期間の後、ベッサラビアは北ブコヴィナと共に再度ルーマニアの支配下に戻った[9]。
ルーマニア兵は再占領作戦の途上、ベッサラビア在住のユダヤ人に対しポグロムを開始し、数千人の死者を出した。
1940年当時はヒトラーによるユダヤ人根絶政策は「解放」とみなされていたため、ソビエト連邦と手を結んでいるとされたユダヤ人は憎悪の対象となった。
同じ頃、ナチス親衛隊(SS)のアインザッツグルッペン[注釈 4]が、スパイ・破壊活動家・共産主義者等の口実のもとにユダヤ人を処刑した。
約20万人のユダヤ人がゲットーや強制収容所に入れられた後、1941年から1942年にかけてルーマニア占領下のトランスニストリアまで、死の行進をしたといわれる。
数年間の比較的平穏な期間の後、独ソ間の戦線は1944年にはドニエストル川まで後退した。
8月20日、90万人の赤軍は、ヤッシー=キシニョフ攻勢に転じた。
ソビエト連邦は二方面の攻撃により、5日のうちにベッサラビアを制圧した。
1942年から43年のスターリングラード攻防戦での敗北ののち再編成された約65万人のドイツ第6軍は、キシニョフとサラータ(英語版)での戦闘において全滅した。
ソビエト連邦の勝利を受けてルーマニアはドイツとの同盟を解消し、前線はルーマニア以西に転換した。
1944年8月23日、対独同盟に固執したルーマニア指導者のイオン・アントネスク元帥は退陣・逮捕され、国王ミハイ1世が復権した[8]。
ソビエト連邦時代
ソ連時代のモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国(赤色)
1944年、ソビエト連邦はベッサラビアを再併合[1]、また1947年、ブカレストに親ソ共産主義政権を樹立し、1958年までルーマニアを占領した。
ソ連軍占領下の社会主義共和国政権は、ベッサラビアとブコヴィナの領土問題をソビエト連邦に提起することはなかった。
「ルーマニア・ソビエト連邦関係におけるベッサラビア(英語版)」も参照
1969年から1971年にかけて、キシニョフにおいて秘密結社国民愛国戦線(英語版) (Nordul Bucovinei) が、数人の青年知識人を中心に組織され、そのメンバーは100人を数えた。
彼らはモルダヴィア民主主義共和国の建設と、ソビエト連邦からの離脱およびルーマニアとの統合に向けて戦うことを誓った。
1971年12月、ルーマニア社会主義共和国の国家保安委員会 (the Council of State Security) 委員長のイオン・スタネスク(ドイツ語版)から、KGB議長ユーリ・アンドロポフへの情報に基づき、アレクサンドル・ウサティウク=ブルガル(英語版)、ゲオルゲ・ギンプ(英語版)、ヴァレリュー・グラウル(英語版)の3人の国民愛国戦線指導者、および北ブコヴィナの秘密結社の指導者アレクサンドル・ソルトイアヌ(英語版)が逮捕され、長期刑を宣告された。
モルドバの独立
ソビエト連邦の弱体化を受け、1988年2月、キシニョフで最初の未認可デモが行われた。
ソ連政府に敵対的になった民衆は、ロシア語に代わりモルドバ語(ルーマニア語とほとんど同じ)を公用語とするように要求した。
1989年8月31日、4日前のキシニョフにおける60万人規模の大規模なデモ行進の影響を受け、モルドバ語がモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国の公用語となった。
1990年、最初の国会議員選挙が自由選挙で行われた。
候補者に野党も含まれていたが、勝利したのはその野党だった。フロントゥル・ポプラル(英語版)(Frontul Popular:人民戦線)の指導者の一人、ミルチェア・ドルク(英語版)による政府が組織された。モルダヴィア・ソビエト社会主義共和国はソビエト社会主義共和国・モルドバ (SSR Moldova) となり、後にモルドバ共和国となった。
1991年、モルドバ共和国が独立。国境線は1940年8月2日のモルダヴィア・ソビエト社会主義共和国成立時からほとんど変更されていない。
人口構成
第二次世界大戦以前の人口構成は、主にモルドバ人(ルーマニア人)、ウクライナ人、ブルガリア人、ドイツ人、ガガウズ人、ルテニア人、ユダヤ人からなっていた。このうちの多くはモルドバ人であった[1]。
1889年:1,628,867人 1897年:1,936,392人 1970年:モルダヴィアの人口の69%はルーマニア人で、そのうち98%がモルドバ語を母国語としていた。 1989年:モルドバ共和国の公式資料では、88,419人のブルガリア人が記録されていた。 1992年:モルドバ共和国からイスラエルへの移民は4,305人であった。これは1年間の旧ソビエト連邦からイスラエルへの移民の7.1%であった。 2004年:国勢調査によれば、トランスニストリアを除く地域に65,072人のブルガリア人が記録されていた。
1817年ロシア国勢調査(計482,000人)
ルーマニア人:83.848世帯 (86%) ルテニア人:6.000世帯 (6.5%) ユダヤ人:3.826世帯 (1.5%) リポバン(英語版)(ロシア正教会からの分派:古儀式派):1.200世帯 (1.5%) ギリシャ人:640世帯 (0.7%) アルメニア人:530世帯 (0.6%) ブルガリア人:241世帯 (0.25%) ガガウズ人:241世帯 (0.25%)
1856年ロシア国勢調査(計990,000人)
ルーマニア人:736.000人 (74%) ウクライナ人:119.000人 (12%) ユダヤ人:79.000人 (8%) ブルガリア人・ガガウズ人:47.000人 (5%) ドイツ人:24.000人 (2.4%) ロマ(ジプシー):11.000人 (1.1%) ロシア人:6.000人 (0.6%)
1897年ロシア国勢調査(計1,935,412人)
ルーマニア人:1.092.000人 (56%) ロシア人・ウクライナ人:373.000人 (18.9%) ユダヤ人:229.000人 (11.7%) その他(ドイツ人、ブルガリア人、ガガウズ人他):259.000人 (13.4%)
1930年ルーマニア国勢調査(計2,800,000人)
ルーマニア人:57% ロシア人:12% ウクライナ人:11% ユダヤ人:7% ブルガリア人:6% ドイツ人:3% その他(ガガウズ人、ロマ、ギリシャ人 、アルメニア人):1%
脚注
[脚注の使い方]注釈
^ トランスニストリアはドニエストル川以東に位置し、モルドバ人(ルーマニア人)が居住している。 ^ 首都となるキシナウはこの当時、まだ地方都市程度の扱いでしかなかった。 ^ 第9代ドイツ連邦共和国大統領ホルスト・ケーラー(在任2004年~2010年)の両親もその中に含まれる。 ^ ここではベッサラビアからコーカサス方面担当のアインザッツグルッペン-D。
出典
^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 『ベッサラビア』 - コトバンク ^ ポロンスキ 1993, p. 109 ^ ポロンスキ 1993, p. 128 ^ ポロンスキ 1993, p. 123 ^ 独ソ不可侵条約秘密議定書 - ウィキソース英訳版 ^ ポロンスキ 1993, p. 124 ^ ルーマニア、ソ連にベッサラビアを割譲『東京朝日新聞』(昭和15年6月28日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p384 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年 ^ a b ポロンスキ 1993, p. 126 ^ ポロンスキ 1993, p. 184
参考資料
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アントニー・ポロンスキ 著、羽場久浘子監訳、越村勲、篠原琢、安井教浩 訳『小独裁者たち 両大戦間期の東欧における民主主義体制の崩壊』法政大学出版局〈りぶらりあ選書〉、1993年2月15日。ISBN 4-588-02137-0。 『ポーランド・ウクライナ・バルト史 』/ 伊東孝之、井内敏夫、中井和夫。山川出版社、1998年12月(新版世界各国史;20)
関連項目
ベッサラビアの紋章の一覧(ルーマニア語版)
外部リンク
Довідник з історії України. За ред. І. Підкови та Р. Шуста. — Київ: Генеза, 1993.(ウクライナ語) 表話編歴
ウクライナの歴史的地域
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カテゴリ:ベッサラビア 最終更新 2022年11月13日 (日) 02:22 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』
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ゾロアスター教
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BE%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E6%95%99※ 今日は、こんな所で…。























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ゾロアスター教
基本教義ゾロアスター教
ズルワーン教
神々アフラ・マズダー
アムシャ・スプンタ
スプンタ・マンユ
ヤザタ、ミスラ
スラオシャ、ラシュヌ
ティシュトリヤ
アシャ・ワヒシュタ
ズルワーン
アナーヒター
ウルスラグナ
フラワシ
ジャムシード
ダエーワ
アンラ・マンユ
ジャヒー
アジ・ダハーカ
ザッハーク
アエーシュマ
ドゥルジ
サルワ
インドラ
聖典
アヴェスター
文学
シャー・ナーメ
人物ザラスシュトラ
カルティール
アルダシール1世
バハラーム1世
その他パールシー
ナオジョテ
沈黙の塔表話編歴
ゾロアスター教(ゾロアスターきょう、ペルシア語: دین زردشت Dîn-e Zardošt、ドイツ語: die Lehre des Zoroaster/Zarathustra、英語: Zoroastrianism)、祆教(けんきょう、拼音: xiān jiào シェンジャオ)または拝火教(はいかきょう)は、古代ペルシア発祥の歴史上最古の[要出典]宗教である。聖典は『アヴェスター』。
概要
聖火台跡(イラン)
チャクチャク (ヤズド州)イラン高原に住んでいた古代アーリア人はミスラやヴァーユなど様々な神を信仰する多神教(原イラン多神教[1])であった[2]。
この原イラン多神教を基に、ザラスシュトラ(ゾロアスター、ツァラトゥストラ)がアフラ・マズダーを信仰対象として創設したのがゾロアスター教のルーツである[3]。
紀元前6世紀のアケメネス朝ペルシア成立時、既に王家と王国の中枢をなすペルシア人のほとんどが信奉する宗教であったとも言われている[4]。
これに対し、3世紀のサーサーン朝成立まで、長らくアーリア人の諸宗教の一派に過ぎなかったとする見方もある。
このため21世紀初頭のゾロアスター研究では、古代アーリア人の諸宗教を記述することでアーリア人の民族宗教研究に奥行きを持たせようとする傾向がある[5]。
紀元前3世紀に成立したアルサケス朝パルティアでもヘレニズムの影響を強く受けつつアーリア人の信仰は守られた。
3世紀初頭に成立したサーサーン朝ペルシアでは国教とされ、王権支配の正当性を支える重要な柱とみなされた[4]。
サーサーン朝期には聖典『アヴェスター』が整備された。また、活発なペルシア商人の交易活動によって中央アジア・中国へも伝播していった。
7世紀後半以降、アラブ人イスラム教徒の支配でゾロアスター教は衰退し、その活動の中心はインドに移った。
17世紀以降、イギリスのアジア進出のなかで、イギリス東インド会社とインドのゾロアスター教徒の関係が深まり、現在も少数派ながらインド経済社会で少なからぬ影響力を持つ[6]。
聖地はイラン、ヤズド近郊に位置するチャクチャク[7]。
ゾロアスター教は光(善)の象徴としての純粋な「火」(アータル、アヴェスタ語: ātar)を尊ぶため、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれる。
ゾロアスター教の全神殿には、ザラスシュトラが点火したとされる火が絶えることなく燃え続け、神殿内には偶像はなく、信者は炎に向かって礼拝する[6]。
中国では祆教(けんきょう)とも筆写され、唐代には「三夷教」の一つとして隆盛した。
他称としてはさらに、アフラ・マズダーを信仰するところからマズダー教の呼称がある。
ただし、アケメネス朝の宗教を「ゾロアスター教」とは呼べないという立場(たとえばエミール・バンヴェニスト)からすると、ゾロアスター教はマズダー教の一種である。また、この宗教がペルシア起源であることから、インド亜大陸では「ペルシア」を意味する「パールシー(パースィー、パーシー)」の語を用いて、パールシー教ないしパーシー教とも称される。
今日、世界におけるゾロアスター教の信者は約10万人と推計されている[6]。インド・イラン・欧米圏などにも信者が存在するが、それぞれの地域で少数派にとどまっている。
その来世観・終末論がセム的一神教や仏教などに影響を与えたという説もある[8]。
善悪二元論を特徴とするが、善の勝利と優位が確定されている。「世界最古の一神教」とも言われることもある。
教義
ザラスシュトラの教え(原ゾロアスター教)がどのようなものだったのか、聖典『アヴェスター』が極めて難解なことから、今日では正確には分かっていない。
様々な宗教の影響を受けて、6~9世紀にようやく教義が確立したとする向きもある。
ここではゾロアスター教の主な教義を記述したのち、その教義史について概観する。
儀式
「ナオジョテ」も参照
ゾロアスター教で最重要の儀式とされるのがジャシャンである。
これは、「感謝の儀式」とも呼ばれ、物質界・精神界に平和と秩序をもたらすと考えられている[6]。
ゾロアスター教徒は、この儀式に参加することで生きていることの感謝の意を表し、儀式のなかでも感謝の念を捧げる[6]。
ゾロアスター教祭司は、白衣をまとい、伝統的な帽子をかぶり聖火を汚さぬよう白いマスクをして儀式に臨む[6]。ここでは清浄さが求められる。
7歳から12歳ころまでにかけてゾロアスター教入信の儀式「ナオジョテ(ナヴヨテ)」が行われる。儀式で入信者は純潔と新生の象徴である白い糸(クスティ)と神聖な肌着(スドラ)を身につけ、教義・道徳とを守ることを誓願する[6]。
守護霊
ペルセポリスにのこされたゾロアスター教の守護霊フラワシ像
ゾロアスター教の守護霊は、善を表し、善のために働く「フラワシ」である[6]。フラワシはこの世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在として神の神髄を表し、助けを求める人を救うであろうと信じられている[6]。
礼拝
ゾロアスター教の礼拝は、「拝火神殿」と称される礼拝所で行われる。
神殿は信者以外は立入禁止で、信者は礼拝所に入る前、手・顔を清め、クスティと呼ばれる祈りの儀式をおこなう。
クスティののち履物を脱いで建物に入り聖火の前に進んで、その灰を自分の顔に塗って聖なる火に対して礼拝を捧げる[6]。
葬送
ヤズド(イラン)の「沈黙の塔」
ゾロアスター教の葬送は、今日では珍しい鳥葬・風葬である[6]。
この葬送は、遺体を埋納せず野原などに放置し、風化ないし、鳥がついばむなど自然に任せるもので、そのための施設が設けられることもある[6]。
この施設は一般に「沈黙の塔(ダフマ)」と呼ばれ、屋根を設けず、石板の上に死者の遺体を置き、上空から鳥が降下して死体をついばむ構造となっている[6]。
ゾロアスター教の教義上、人間はその肉体もアフラ・マズダーなど善神群の守護のもとにあるため、清浄な創造物である遺体に対して不浄がもたらされないよう、鳥葬・風葬がされると説明されている[6]。
最近親婚
「フヴァエトヴァダタ」も参照
ゾロアスター教の聖典『アヴェスター』のヴェンディダード(除魔の書)などでは、自分の親・子・兄弟姉妹と交わる最近親婚を「フヴァエトヴァダタ」と呼び、最大の善徳と説いた。
アケメネス朝期の伝承を綴った『アルダー・ウィーラーフの書』では、ニーシャープールの聖職者ウィーラーフの高徳の中で、最も称賛されるのが7人の姉妹と近親婚したこととされる[9]。
また、彼は冥界の旅の中で天国で光り輝く者達を見たが、その中に住まう者として近親婚を行った者の姿があった。
反対に、近親婚を破算にした女が地獄で蛇に苛まれている記述があり、その苦痛は永遠に続くという。
ゾロアスター教の影響下にあった古代ペルシャでは、王族、僧侶、平民など階級の区別なく親子・兄弟姉妹間の近親婚が行われていた。
善悪二元論とゾロアスター教の神々
ゾロアスター教の教義の最大の特色は、善悪二元論と終末論である[6]。
世界は至高神アフラ・マズダー率いるスプンタ・マンユと悪の霊アンラ・マンユ(アフリマン)、およびそれに率いられる善神群(アムシャ・スプンタ)と悪神群(ダエーワ)の両勢力が互いに争う場で、生命・光と死・闇との闘争とされる[6][注釈 1]。
最初に2つの対立する霊があり、両者が相互の存在に気づいたとき、善の霊(知恵の主アフラ・マズダー)が生命・真理などを選び、それに対してもう一方の対立霊(アンラ・マンユ)は死・虚偽を選んだ[12]。
アフラ・マズダーは、戦いが避けられないことを悟り、戦いの場とその担い手として天・水・大地・植物・動物・人間・火の7段階からなるこの世界を創造した。
各被造物はアフラ・マズダーの7つの倫理的側面により、特別に守護された[12]。
対してアンラ・マンユは大地を砂漠に、大海を塩水にし、植物を枯らして人間や動物を殺し、火を汚すという攻撃を加えた。
しかしアフラ・マズダーは世界を浄化し、動物や人間を増やすなど、不断の努力でアンラ・マンユのまき散らす衰亡・邪悪・汚染などの害悪を、善きものに変えていった。
このように、歴史を創造された「この世界」を舞台とした2大勢力の戦いと理解した。
アフラ・マズダーと善神群
詳細は「アフラ・マズダー」および「アムシャ・スプンタ」を参照
アフラ・マズダー(右)より王権の象徴を授受されるサーサーン朝のアルダシール1世(左)のレリーフ(ナクシェ・ロスタム)
アフラ・マズダーは、ゾロアスター教の主神。
みずからの属性を7つのアムシャ・スプンタ(七大天使、不滅なる利益者たち)という神々として実体化させ、天空・水・大地・植物・動物・人・火の順番で創成した、世界の創造者である[6]。
アフラ・マズダーを補佐する善神(アムシャ・スプンタ)としては、次の7神がある。
スプンタ・マンユ : 人類の守護神。「聖霊」を意味する。アフラ・マズダーと同一視されることもある[6]。 ウォフ・マナフ : 動物界の統治者。「善なる意思」を意味し、アフラ・マズダーの言葉を人類に伝達する役割。常に人間の行為を記録し、やがて訪れる「最後の審判」でその記録を詠みあげるとされる[6] アシャ・ワヒシュタ(アシャ) : 「聖なる火」の守護神。「宇宙を正しく秩序づける正義」に由来し、天体の運行や季節の移り変わりを司る。虚偽の悪魔ドゥルジに対峙する[6]。 スプンタ・アールマティ : 大地の守護神。代表的な女神(女性天使)。「献身」「敬虔」の名の通り、宗教的調和や信仰心の強さ、さらに信仰そのものを顕現する。「背教」と「推測」の悪魔タローマティと対立する[6] クシャスラ(フシャスラ・ワルヤ) : 金属・鉱物の守護神。「理想的な領土ないし統治」に由来し、「天の王権」を象徴する。アフラ・マズダーによる「善の王国」建設のために尽力する[6] ハルワタート : 水の守護神。「完璧」を意味する女性の大天使。アムルタートとは密接不可分とされる[6] アムルタート : 植物の守護天使。主神アフラ・マズダーの子。名は「不死」に由る。ハルワタートと力を合わせて地上に降雨をもたらす[6]また、善神の象徴は炎とされ、そこから火の崇拝が生まれている
アンラ・マンユと悪神群
悪神アエーシュマの影響で成立したと考えられる。 善神と対峙する悪魔は、以下の通り。
アンラ・マンユ(別名:アフリマン、アーリマン) : ゾロアスター教における大魔王。虚偽・狂気・凶暴・病気など、あらゆる悪や害毒を創造する[6]。 アエーシュマ : 怒りと欲望を司り、人間を悪行にいざなう。天使スラオシャとは対立関係にある[6][注釈 2] アジ・ダハーカ : 3頭3口を有し、口からは毒を吐き出す。残忍でずる賢く、地上にあっては人間の姿をして善人をそそのかす悪魔である[6] ジャヒー : 女悪魔で売春婦の支配者。婦人に月経の苦しみをあたえたとされる[6] タローマティ : アヴェスター語で「背教」を意味する。女性天使アールマティと対立関係にある[6] ドゥルジ : 疫病をもたらす女の悪魔。天体運行をになうアシャとは対立関係にある[6] パリカー : 女悪魔の総称。ドゥルズーヤー、クナンサティー、ムーシュは、そのなかでも「三大パリカー」として恐怖の対象となった[6]
終末論と三徳
ゾロアスター教の歴史観では、宇宙の始まりから終わりまでの期間は1万2000年とされ、3000年ずつ4つに区切られ、「(霊的+物質的)創造(ブンダヒシュン)」「混合(グメーズィシュン)」「分離(ウィザーリシュン)」の3期に分けられ、現在は「混合の時代」とされる。
アフラ・マズダーによる「創造」によって始まった「創造の時代」は完璧な世界だったが、アンラ・マンユの攻撃後は「混合の時代」に入り、善悪が入り混じって互いに闘争する時代となる。
全人類は人生においてこの戦いに否応なく参加することになり、アフラ・マズダーやアムシャ・スプンタを崇拝して悪徳を自らの中から追い出し、善が勝つよう神々とともに悪に打ち克つ努力をしなければならない。
死後、楽土へ向かう「チンワト橋(選別者の橋)」でミスラの審判を受けて善行を積んできた者は、自分自身の意識が形となった美しい少女ダエーナーに導かれて[13]楽土(天国)へ渡り、悪を選んだ者は橋から落ちて地獄に向かう。
そして将来的には「治癒」(フラショー・クルティ、フラシェギルド)と呼ばれる善の勝利と歴史の終末が起こり、それ以後の「分離の時代」には善悪は完全に分離し、アンラ・マンユと悪を選んだ者たちは消滅し、世界は再び完璧で理想的なものとなって、「分離の時代」は永遠に続くと考えられた。
ゾロアスター教では、善神群と悪神たちとの闘争後、最後の審判で善の勢力が勝利すると考えられ、その後、新しい理想世界への転生が説かれる[6]。
そして、そのなかで人は、生涯において善思・善語・善行の3つの徳(三徳)の実践を求められる。
人はその実践に応じて、臨終に裁きを受けて、死後は天国か地獄のいずれかへか旅立つと信じられた[6]。
世界の終末には総審判(「最後の審判」)がなされる。そこでは、死者も生者も改めて選別され、すべての悪が滅したのちの新世界で、最後の救世主によって永遠の生命をあたえられる[6]。
自然崇拝的要素
ゾロアスター教は自然崇拝の原イラン多神教を母体とし、ザラスシュトラがそれを体系化したと考えられる[14]。
原イラン多神教の天の神ヴァルナの信仰は、ザラスシュトラらによって道徳的意味を付与されアフラ・マズダーという宇宙創造の至高神の地位をあたえられた[14]。
ゾロアスター教においては、火のみならず、水、空気、土もまた神聖なものととらえられている[14]
教義史
原ゾロアスター教の教義[15]
ザラスシュトラはアヴェスター語の口伝『アヴェスター』の『ガーサー』部分を遺しているが、その正確な意味は現在では失われている。
また『ガーサー』は世界に秩序をもたらす呪文に過ぎず、まとまった思想内容を見出すのは困難である。
以下にザラスシュトラが説いたと思われる思想を記述するが、これがどこまでザラスシュトラ本人によるものかは分からない。
紀元前500年ごろ(アヴェスター語が口語として機能していたと考えられる最後の時期)、神官たちによって口伝アヴェスターが一貫したストーリーとして編集され、以下のストーリーを成立させたとする説もある
最高神アフラ・マズダーから善の霊スプンタ・マンユと悪の霊アンラ・マンユが生まれ、相争う。
アフラ・マズダーは、混沌とした宇宙に秩序をもたらそうと苦労する存在として描かれ、スペンタとアンラの争いも傍観しているだけである。
原イラン多神教の神々は善側と悪側に再編され、それぞれスペンタとアンラに仕える存在とさせられた。
人間はそのどちらかにつく自由意志であり、善につけば天国、悪に就けば地獄へ死後向かうと定められた。
なお、ザラスシュトラはアフラ・マズダーのみを崇める拝一神教的な教えを説いたが、弟子たちによって原イラン多神教の神々が取り入れられたとする説もある[16]。
マゴス神官団の影響(後述)
イラン高原に住んでいたメディア王国では、マゴス族(マゴス神官団)が祭儀を担っていた。
ヘロドトスやストラボンによるとマゴスは鳥葬、清浄儀礼、悪なる生物の殺害、最近親婚など独自の儀式を持っていた。これらの教義がゾロアスター教に混入した可能性が指摘されている
ズルワーン教の教義(参照)
サーサーン朝時代には狭義のゾロアスター教(ザラスシュトラの教え)が国教となるが、外国語資料ではズルワーンが最高神として描かれる。
アフラ・マズダーはスペンタ・マンユと混同し、善神オフルマズドとして悪神アフレマン(アンラ・マンユ)と同格になった。
ズルワーン教にはヘレニズムやインド思想の影響が指摘されている。
二元論的ゾロアスター教の教義[17]
6~9世紀、ゾロアスター教から中立な最高神が消滅し、善なる最高神オフルマズドと悪の最高神アフレマンが並立する純粋な二元論が成立する。
この教義は豊富なパフレヴィー語資料によって現代まで詳細が伝わっており、善悪二元論として一般的にイメージされるゾロアスター教もこれに近いと思われる。
また、近年ではマニ教から二元論を取り入れたとする説もある[18]
聖典
詳細は「アヴェスター」を参照
ゾロアスター教の聖典は『アヴェスター』である。
ザラスシュトラの言葉と彼の死後に叙述された部分で構成され、サーサーン朝期に編纂されたと考えられる。
全21巻とされ、そのうち約4分の1が現存する[6][8]。
書籍化にあたり、古代アヴェスター語をパフラヴィー文字に書き換えるとき、表記できない音が合ったため、キリスト教パフラヴィー文字やギリシア文字を借用して、新たにアヴェスター文字が作られた。
アヴェスター語の方が遥かに古いものの、表記用の文字が発明されたのはパフラヴィー語の後塵を拝した[19]。
しかし、『聖書』や『クルアーン』のように当初から教徒の間で広くその権威が認められたわけではなかった。
『アヴェスター』が書かれたペルシア州の遠方では、8世紀になっても一般信徒の間で『アヴェスター』の存在が知られておらず(または理性的に語る聖典とは見られておらず)、ザラスシュトラも(少なくとも預言者としては)認識されていなかった。
さらに神官でも『アヴェスター』を知らず、それとかなり異なる教義を信じていた節がある[19]。
メソポタミア神話・エジプト神話・ギリシア神話の信仰が失われた今日、ゾロアスター教はヒンドゥー教と並び現存する世界最古の体系的宗教・経典宗教とも言われる[14]。
ただし、聖典の確立と明確な教義の整備という点では、後発のキリスト教・仏教・マニ教などに数世紀の遅れをとった[19]。
歴史
資料
ゾロアスター教に関する資料は以下の3時代に偏って存在する[20]
原ゾロアスター教時代(紀元前1000年前後数世紀) - 原始教団によって保存され、6世紀に文字化された『アヴェスター』(アヴェスター語) ズルワーン教時代(3〜5世紀) - 外部資料(パフレヴィー語・アルメニア語・シリア語・アラビア語)とわずかな内部資料(ペルシア語) 二元論的ゾロアスター教時代(6〜10世紀) - 豊富なパフレヴィー語資料
このうち原ゾロアスター教研究は未だ安定段階に達しておらず、『アヴェスター』その中でも特にザラスシュトラ直伝と思われる「ガーザー」の解釈については決定的な説が存在しない。
ズルワーン主義についても内部資料が少ないため正確なことは分かっていないが、現代にまで伝わる二元論的ゾロアスター教とはかなり差があると考えられる[20]
分類
アーリア人の宗教には様々な形態があり、時代によって大きな変化を遂げ、また地域差も大きかったと考えられている[5][21][1]。
ここでは、アーリア人の諸宗教について想定される宗派を一覧化する。
崇拝対象による分類 名称 崇拝対象 備考 出典
原イラン多神教 アフラ・マズダー
ミスラヴァルナなど 古代アーリア人によって信仰された宗教
マズダー教・原ゾロアスター教などの源流として想定されている 後述
マズダー教 アフラ・マズダー アーリア人の宗教のうち、特にアフラ・マズダーを崇拝した宗教
原ゾロアスター教の源流としても想定される
アケメネス朝の国教とする説もある [1]ミスラ教 ミスラ アーリア人の宗教のうち、特にミスラを崇拝した宗教
パルティア・アルメニアなどの国教とする説もある 後述ズルワーン教 ズルワーン アーリア人の宗教のうち、
特にズルワーンを最高神として崇拝した宗教サーサーン朝の国教とする説もある
地理・時代・民族による分類 名称 崇拝対象 備考 出典
原ゾロアスター教 アフラ・マズダー ザラスシュトラによって開かれたゾロアスター教のルーツ
ナオラタ部族国家の国教
狭義のゾロアスター教はこの流れを汲む宗派のみを指す 後述
アケメネス朝の国教 アフラ・マズダー アケメネス家に信仰されたマズダー教
狭義のゾロアスター教であるかは議論がある 後述
インドのイラン系宗教 ミヒラ(ミスラ?)など インドのイラン系アーリア人によって信仰された宗教
パールシー以前2、3の集団について記録が残っている 後述
パルティアの国教
パルティア的ゾロアスター教 ミスラなど? アルサケス家に信仰されたアーリア人の宗教
アルメニアの国教と近縁とされる
狭義のゾロアスター教であるかは議論がある 後述
アルメニアの国教
アルメニア的ゾロアスター教 ミスラなど 前1世紀 – 後4世紀にアルメニアの王族達に信仰されたアーリア人の宗教
ミスラの地位が高いため、ミスラ教ともされるアルメニアのキリスト教化に伴い衰退
ミヒラ教 ミヒラ(ミスラ?) アーリア系遊牧国家エフタルの王ミヒラクラが信仰した宗教
太陽崇拝を伴うミスラ崇拝と思われる
インドに残った集団はガンダーラ・ブラーフマガと呼ばれた [22]
サーサーン朝の国教
ペルシア的ゾロアスター教 アフラ・マズダー サーサーン家に信仰された狭義のゾロアスター教ペルシアのイスラム化に伴い衰退 後述
二元論的ゾロアスター教 オフルマズド 一神教的要素を排除したゾロアスター教
善の最高神オフルマズド(アフラ・マズダー)を崇める
サーサーン朝後期に成立したと思われる 後述メソポタミア的ゾロアスター教 ズール(ズルワーン?) サーサーン朝期にメソポタミアで信仰されたと思われるゾロアスター教(ズルワーン教?)
ズールなる神に生贄を捧げるホラーサーン的ゾロアスター教 イスラム統治時代初期にホラーサーンで信仰されたと思われるゾロアスター教
預言者も啓典もないとされるため、二元論的ゾロアスター教とは異なる [注釈 3]
パールシー アフラ・マズダー イスラムの支配を逃れインドに移ったゾロアスター教徒のグループ
狭義のゾロアスター教の国教の流れを汲む 後述ソグド的ゾロアスター教 ソグド人に信仰されたアーリア人の宗教
中国では祆教と呼ばれた中央アジアから唐代の中国まで広がった
中央アジアのイスラム化により衰退 後述宋代漢民族的ゾロアスター教 ソグド的ゾロアスター教が宋代までに漢化したもの
引き続き祆教と呼ばれた 後述
クルド人的ゾロアスター教 クルド人に信仰されていたアーリア人の宗教
詳細不明後にイスラム教と混濁してヤズィーディーに変化する 後述
原イラン多神教
「イラン神話#古代アーリア人の神話」も参照
ザラスシュトラは全く新しい宗教を創設したわけではなく、既存宗教(原イラン多神教)の祭司として『アヴェスター』で描かれる。
宗教は、「インド・イラン人の宗教」や「アーリア人の宗教」、「ヴェーダ型の多神教」、「先ガーサーの宗教(pre-Gathic religion)」などとも呼ばれ、多神教で太陽・火・水・雷・嵐などを崇拝していた。インド古代宗教との類似点も指摘される[1]。
そして「三大アフラ」として叡智の神アフラ・マズダー、火の神ミスラ、水の神ヴァルナが存在していた[注釈 4][注釈 5]。
メアリー・ボイスによれば、アフラ・マズダー(アスラ)、ミスラ、ヴァルナの3柱の「主」は、極めて倫理的な存在で、「自然法則」(イランではアシャ、インドではリタ、と称する)を擁護しつつ、自らもこれに従う。
こういった高度な観念は、原インド・イラン語族が早くも石器時代に発展させたものと考えられ、その末裔の宗教に深く織り込まれていると考えられる[24]。
そのため、単にアフラ・マズダーやミスラを信仰するだけでは、厳密にはゾロアスター教徒と言えない。
「異教時代」と呼ばれる過去のイラン人と区別するための判断基準は、ゾロアスター教信仰告白「フラワラーネ」にあらわれる。そこでは5条件が挙げられた[注釈 6]。すなわち、
アフラ・マズダーを礼拝すること ゾロアスターの信奉者であること 好戦的で不道徳な神ダエーワと敵対すること アフラ・マズダーが創造した偉大な7つ(ないし6つ)の存在アムシャ・スプンタ(「聖なる不死者」)を礼拝すること すべての善をアフラ・マズダーに帰すること
である。
この5つに加え、アフラ・マズダーを創造主と捉えたことが、原イラン多神教と著しく異なる。[注釈 7]。
原イラン多神教がいつどのようにザラスシュトラの創設した「原ゾロアスター教」へ引き継がれたのかは学説が分かれている。
「2段階説」では、原イラン多神教がザラスシュトラに直接引き継がれたことになっている。
これに対してザラスシュトラ以前からアフラ・マズダーを崇拝したマズダー教が存在したとして、原イラン多神教→マズダー教→原ゾロアスター教の順に成立したと見る「3段階説」もある。この説に従えば、ザラスシュトラ以降、3者が並存した時期がある可能性もある[1]
原ゾロアスター教
原ゾロアスター教の最高神と二元論[27]善の霊スプンタ・マンユ
叡智の神アフラ・マズダー
悪の霊アンラ・マンユ
太字は最高神
中立的なアフラ・マズダーが宇宙を秩序化
その下で善の霊と悪の霊が争う
詳細は「ザラスシュトラ」を参照ザラスシュトラの肖像(3世紀)。「ゾロアスター教」の呼称も彼の名に由来するが、その生涯は今となっては不明な部分も多い[6][8]
ゾロアスター教の開祖ザラスシュトラ・スピターマやゾロアスター教の成立に関しては、不明な部分が少なくない[8]。
ザラスシュトラの誕生地は、アゼルバイジャン説・スィースターン説・中央アジア説などがある。
活動時期は言語学的見地から紀元前1000年以前とする説と伝承などから紀元前1000年-前6世紀とする説がある。
ザラスシュトラは、原イラン多神教を改革し、倫理的要素を付加した二元論・終末論を軸とする新宗教(原ゾロアスター教)を創設した[1]。
ハエーチャスパ族の神官一家に生まれたザラスシュトラは、20歳で放浪の旅に出た[28]。
彼は、唯一神アフラ・マズダーの啓示を伝える使者を名乗り、この世界は善悪二神の争いの場であると説いた[12]。このような世界観は、一神教的二元論とも言われる[29]ザラスシュトラが42歳の時、ナオラタ族の王カウィ・ウィーシュタースパに登用され、宰相とも婚姻関係を結び権力の後ろ盾を得た。
ザラスシュトラの死後、娘婿(宰相)のジャーマースパ・フウォーグワが教団を引き継いだ。教祖が死んでも国家権力を背景としていた教団が揺らぐことは無かったと見られている[28]。
ゾロアスター教発祥の地と信じられているアフガニスタン北部の古代バルフ(Balkh、ダリー語・ペルシア語:بلخ)に、ザラスシュトラが埋葬されたと伝えられている。この地はゾロアスター教徒から神聖視されてきた。
ジャーマースパ以降、教団指導部は教勢拡大のためにザラスシュトラの急進的な教えを軟化させ、原イラン多神教の神々に独自の機能とそれに捧げる伝統的呪文を認めた。これにより原イラン多神教と原ゾロアスター教の融和を図ったが、両者の区別はあいまいになった[16]。
その後、ナオラタ部族国家は歴史から姿を消した。ゾロアスター教団は権力基盤を失い、弱い立場に立たされたと見られている。歴史資料にザラスシュトラが登場するのは、前5世紀のギリシア語文献に「偉人ゾロアストレス」として言及されるまで待たなければならない[30]。
アーリア人の諸宗教の展開
他宗教への影響と同様、ゾロアスター教の政治への影響力の大きさも、研究者によって意見が分かれる。
一般に古代の政治-宗教関係は密接であったため、他宗教への影響が大きいと考える研究者ほど、その政治的影響も強かったと考える傾向にある。
歴代王朝下でゾロアスター教は常に国教的役割を担ったと考える者もいるが、見解は統一されていない。
青木健は、古代アーリア人の諸宗教とゾロアスター教の境界は曖昧で、サーサーン朝成立まで、そのどちらとも取れるような諸宗教が人々に幅広く受容されていたとしか言えないと指摘している[31]。
マゴス神官団の台頭
ギリシアの歴史家ヘロドトスによるとアーリア系のメディア王国(前715年頃 – 前550年頃)にはマゴス族とよばれる神官たちがいた。
彼らは拝火儀礼、鳥葬、清浄儀礼、悪なる生物(カエル・サソリ・ヘビなど)の殺害、最近親婚、牛の犠牲獣祭といったメディア人の宗教行為を担っていたが、拝火儀礼・犠牲獣祭以外は原イラン多神教に見られない独自の風習であるとされる。
非インド・ヨーロッパ語族的な名称を持ち、独特な風習を持つことから、マゴスはアゼルバイジャン付近の土着民族であったとする説もある。
東方からメディアに来たと思われるゾロアスター教団はマゴス神官団の権勢に圧倒され、爬虫類殺害や最近親婚を取り入れ、葬式は土葬から鳥葬、犠牲獣祭も羊から牛に転換したとみられている[15]。
メディア王家の血を引くペルシア王キュロス2世(大王、在位前550年 – 前529年)は紀元前550年にメディアを滅ぼし、アケメネス朝ペルシア(前550年-前330年)を建国した。
キュロスは小アジアから中央アジアに至る空前の大帝国を建設し、史上初めてイラン高原とメソポタミア平原の両方を支配した[32]。
キュロス王家の信仰は不明なところが多い。
ボイスはキュロスがゾロアスター教徒であったと主張している。
また、考古学的な見地からはキュロスの建造した拝火壇やキュロスの墓はバビロニア的要素が含まれているとされる。
一方、キュロスの息子カンビュセス2世(在位前529年頃 – 前522年)は実姉アトッサや実妹ロクサーナと近親婚しており、マゴス神官団の影響がうかがえる。
また「マゴス神官団ガウマータ」が王族スメルディスに成りすましたとされていることから、キュロス王家ではマゴス神官団が重用されていたとみる向きもある[33]。
ただしキュロス王家は臣民たちに改宗を強制せず、キュロスがバビロンを征服した紀元前536年には、バビロン捕囚にあっていたユダヤ人たちを解放している。
また、進んだ文明を持つメソポタミアやエジプトの信仰を尊重し、政治的な中央集権と文化的な地方分権を敷いたとされる[34]。
このようなことから、キュロス王家がゾロアスター教徒だったとしても「支配者の宗教」という意味に限定される。
この結果、シンクレティズムが促されてユダヤ教エッセネ派が隆盛し、キリスト教に継承されたとも言われる[注釈 8]。
アケメネス朝期のギリシアにおけるピタゴラス教団・オルフェウス教、さらにペルシャ高原東部では大乗仏教伝播にともなう弥勒菩薩信仰と結びつき、マニ教もゾロアスター教の影響を強く受けたとされる[注釈 9]。
イスラム教もまたマニ教と並んでゾロアスター教の影響も受けており、啓典『クルアーン』(コーラン)にもゾロアスター教徒の名が登場する。
マズダー崇拝の台頭
ダレイオス1世によるベヒストゥン碑文。自らの即位の経緯と正当性を主張する文章とレリーフが刻まれている
キュロスの後継者カンビュセス2世は妹で妻のロクサーナを「殺害」、その後「自殺」した。
後継者として王の弟スメルディス(にそっくりの神官ガウマータ)が即位するも、カンビュセスの元親衛隊長ダレイオスに「偽物と見破られ」、殺害される。
その後、アケメネス朝傍流を名乗るダレイオスは、9人のライバルを倒し、ダレイオス1世(在位前522年 – 前486年)として大王(皇帝、諸王の王)に即位した。
これによりアケメネス朝直系のキュロス王家は途絶え、ダレイオス家に王位が移った[37]
ダレイオス王家の大王たちはアーリア人の宗教を信仰していた形跡があるが、その一派であるザラスシュトラの教え(狭義のゾロアスター教)に帰依していたかどうかには議論がある。なお、アケメネス朝の碑文にはアフラ・マズダー(正確にはアウラマズダー)のほか、ミスラやエラム・メソポタミアの神々の名が登場し、諸民族の多様な宗教に配慮していたことがうかがえる。仮にザラスシュトラの教えがその中に含まれていても、数ある中の一つに過ぎなかったと考えられる[38]
ダレイオス王家の歴代大王たちが、狭義のゾロアスター教に帰依していたとする根拠には以下のものがある。
ダレイオス1世は多くの碑文を残し、自ら「アフラ・マズダーの恵みによって、王となりえた」と神権授受を意味する告知を記した[8][12][39]。 ペルセポリスの宮殿にはアフラ・マズダーのシンボルやフラワシを刻んだ浮彫彫刻(レリーフ)が施された[8][39]。 「聖なる火」の祭壇の遺跡が多数存在する[8]。
これらの根拠に対して、以下のような反論も提出されている。
アケメネス朝の遺構・遺物は、ダレイオス1世がアフラ・マズダーを信仰する「マズダー教徒」だった証拠にはなっても、「ゾロアスター教徒」であった証拠とはならない[8][注釈 10]。 火の祭壇は、ザラスシュトラ以前から原イラン多神教で用いられる[注釈 11]。 アケメネス朝の古代ペルシア語の碑文にはザラスシュトラの名が1度も現れない[42]
ダレイオス1世の孫・アルタクセルクセス1世(在位前465年‐前424年)はダエーワ崇拝を禁止した。
これについてはペルシア人の崇拝対象をアフラ・マズダーに限定したと解釈できる[43]。
この政策はアルタクセルクセス2世(在位前404年 – 前358年)の頃に変更され、アナーヒターやミスラへの崇拝も奨励されるようになった[44]。アルタクセルクセス3世(在位前359年‐前338年)の代にはアナーヒター崇拝が省略され、アフラ・マズダーとミスラへの崇拝が奨励された[45]。なお、歴史家ヘロドトスは、「ペルシア人はこどもに真実を言うように教える」「ペルシア人は偶像をはじめ、神殿や祭壇を建てるという風習をもたない」と記している[12]。
しかし、古代メソポタミアのイシュタル信仰がペルシアにも影響してアナーヒター信仰と同一視されたのもこの時期である。
アナーヒター像を置いた神殿が築かれ、それまで竈の火を日々の儀式に使い、祭礼では野外に集まっていたペルシア人も、メソポタミアの偶像・神殿を伴う信仰に対抗して、火を燃やす常設の祭壇を設けた特別な建物を造るようになった。
やがて、こうした火・建物が神聖視されるのである(ただし、ゾロアスター教で寺院・偶像崇拝が認められたのは、ギリシア文明・インド文明の影響とする説もある[46])。
ミスラ崇拝の台頭
名前にミスラを含むパルティア大王、ミトラダテス1世のコイン
「ミスラ」、「パルティア#パルティア時代のゾロアスター教に関する諸見解」、および「アルメニア神話」も参照
紀元前4世紀後半、マケドニア王国のアレクサンドロス3世(大王、在位前336年 – 前323年)によってアケメネス朝が滅ぼされた。
後世の資料ではアレクサンドロスによって『アヴェスター』と『ザンド』の写本が焼かれたとされているが、アケメネス朝では文字の使用が一般化していなかったため、創作と思われる。
またギリシア神話とアーリア人の宗教が混濁し、ゼウスとアフラ・マズダー、アポロンとミスラなどが同一視された。
大王の死後、その王国は四分五裂し、セレウコス1世によって小アジアからペルシアに至るヘレニズム国家セレウコス朝シリア(前312年-前63年)が建国された。
セレウコス朝の歴史は、東方におけるギリシア人政治勢力の後退の歴史でもあった。
なお、ギリシア人によると、この頃のマゴス神官団はゾーロアストレース(ザラスシュトラ)、ヒュスタスペオス(カウィ・ウィーシュタースパ)、オスタネス(正体不明)の教えを奉じていたという[47]。
紀元前3世紀、ペルシア人と同系であるパルティア人の族長アルサケス1世がセレウコス朝の支配から自立し、ミフルダートキルト周辺にアルサケス朝パルティア(紀元前247年-紀元後226年)を建国した。
5代目ミトラダテス1世のときに東西に領土を拡げ、共和政ローマの侵攻やマカバイ戦争に忙殺されていたセレウコス朝からメディアとメソポタミアを奪った。そしてセレウコス朝の中核都市だったセレウキアの対岸に新首都クテシフォンを建設した[48]
パルティアの君主たちはアーリア人の宗教を信仰していた。
しかしパルティアの宗教資料は乏しく、「ゾロアスター教」と称しうる宗教が信仰されていたかは、なおも見解が分かれる[49]。
アルサケス朝にはティリダテス、ミトラダデス、アルタバノスなど、それぞれ「水星」、「ミフル(ミスラ神)」、「天則」の意味を持つ、原イラン多神教的な名がみられる。
また、アレクサンドロスの影響でアルサケス朝の君主たちは神を自称するようになり、後世のサーサーン朝にも影響を与えた。
ただし、アルサケス朝は自らの信仰を住民たちに強制せず、その影響は王族の私的領域に留まったと考えられている[50]
紀元前1世紀以降、アナトリアのカッパドキアやティアナなどで諸言語によってミスラ神に捧げた碑文が残されている。
古典的な説によれば、アナトリアに侵攻したローマ兵たちがミスラ神を持ち込みミトラス教に発展した[51]。
アルメニア的ゾロアスター教の神々
すべての父アラマズド
(アフラ・マズダー)貴婦人アナヒット
(アナーヒター)
ナナイ
(ナネー)ミフル
(ミスラ)
太字は最高神
神々の家族関係が強調
特にミフルが崇められたパルティアの宗教が隣国アルメニア王国では神々の一族関係が重視され、「すべての父」と称されていたアラマズド(アフラ・マズダー)とアナヒット(アナーヒター)が夫婦、ミフル(ミスラ)とナナイ(ナネー)はその息子・娘とされた。
ミフルは特に重要な地位を占めていた。アルサケス家のアルメニア国王ティリダテス1世(在位52年 – 58年、62年 – 82年)は、3000人のパルティア兵に護衛されながらローマ皇帝ネロ(在位54年 – 68年)と謁見したとき、跪いてギリシア語でミフルを崇めるようにローマ皇帝を崇めると演説した。
また、終末にはヴァン湖に潜むミフルが救世主として表れると信じられていた。ヴァハグン(ウルスラグナ)にはミフルと同じ太陽神の役割が与えられたため、混同が生じてしまった[49]。
青木健は、パルティアの宗教がアルメニア王国の宗教と非常に近いものであったと指摘している。
アルメニアの宗教にはパルティア語の借用が多用され、66年以降はアルサケス家がアルメニア王位を占めていたからである。
また両国では、後のゾロアスター教では避けられる偶像礼拝や土葬が行われていたと見られている[49]。
青木はアルメニアの宗教を分析し、アフラ・マズダーが尊崇対象となっている点ではゾロアスター教のようにもみえると前置きしつつ、ヤシュトの段階でやっと復権したヴァハグン(ウルスラグナ)やミフル(ミスラ)も崇拝対象になっていると指摘した。
特に宗主国ローマの皇帝をミスラになぞらえた点を重視し、アルメニア的ゾロアスター教≒パルティア的ゾロアスター教の主神はミスラであり、厳密には「ゾロアスター教」でなく「ミスラ教」と称すべき信仰であったと論じている[49]。
4世紀にアルメニアはキリスト教合性論派(アルメニア使徒教会)を国教化して、アルメニア的ゾロアスター教は衰退したが、近親婚などの風習は20世紀まで残っていたと言われている[49]。
ゾロアスター教の国教化
ナクシェ・ロスタム(イラン)に所在する「ゾロアスターのカアバ(英語版)」と称される遺構。建物の用途は不明だが、下部の壁面にカルティールによって書かれた長大なパフラヴィー語(中世ペルシア語)碑文がある
ペルシア州エスタフルの拝火神殿神官であったサーサーンは、ペルシス王国の有力豪族バーズランギー家と婚姻関係を結び、興隆の基礎を得た。その息子パーパクはパルティアに反乱を起こし、さらにその息子のアルダシール1世(在位226年 – 242年)はクテシフォンを征服してサーサーン朝ペルシア(226年-651年)を建国した[52]。。
サーサーン朝はアケメネス朝の後継者という地位とゾロアスター教に正統性を求めた。
そして非ペルシア的な異邦人王朝パルティアを倒して伝統的信仰を復興したと主張した。
実際にはパルティアの貴族階級・政治機構・文化・社会は多くの点でサーサーン朝に引き継がれていたが、このアケメネス朝-サーサーン朝を正統とする歴史観は後世のイラン世界にも大きな影響を与えた。なお、この時代の口語はパフラヴィー語に変質し、古代ペルシア語の口伝『アヴェスター』「ガーサー」は既に解読困難だったと考えられる。
この時代、隊商などペルシア商人の活発な活動で、中央アジア・中国へゾロアスター教が伝播し、西方に対してはローマ帝国など地中海世界との交流・抗争により、教義面などで互いの影響を受けたと考えられる。
サーサーン朝では実際に機能したかは定かではないが、神官たちは上から順に「神官」「軍人貴族」「農民」「商人・職人」の階級を想定していた。
この中で神官は官僚層である上級のモウベド神官、神殿の管理や庶民の宗教教育に携わる下級のヘールベド神官に分けられた。
農民たちは大地を耕すとして称賛されていた一方で、商人・職人たちは神官から蔑視されていた。
そのためアーリア人ゾロアスター教徒からあまり商人・職人が輩出されず、セム系やローマ人、ソグド人などに頼っていた。
また、このことが商人・職人層のキリスト教改宗を促進した面もある[53]。
260年、サーサーン朝はローマ帝国からキリスト教文化の中心都市エデッサを奪い取り、国内に多くのキリスト教徒を抱えた。
キリスト教会は長い歳月をかけて培われたセム人の書籍文化とギリシア人の活発な知的活動の成果を受け継いでおり、聖典の書籍化、神学の発展、知的水準などの面でゾロアスター教神官団は劣勢に立たされ、ゾロアスター教徒のキリスト教改宗が相次いだ(逆にローマでキリスト教徒がゾロアスター教徒に改宗したという記録は存在しない)。[54]。
このことが国教であるゾロアスター教にとって大きな脅威であり、4世紀(ローマでのキリスト教公認)以降、国家権力を背景とした迫害(339年-379年、420年-484年)やゾロアスター教の改革などが行われた。
皇帝崇拝の台頭
ナクシェ・ラジャブ磨崖レリーフのカルティールの肖像
70年に渡り君臨したシャープール2世の胸像
サーサーン朝はアーリア人の宗教を信仰していた形跡があるが、その一派であるザラスシュトラの教え(狭義のゾロアスター教)に一貫して帰依していたかはなおも異論がある。
少なくとも初期においてはザラスシュトラに関する記録が残されていないが、アルダシールが「マズダー崇拝者の神なるアルダシール、アーリア民族のシャーハンシャー、神々の末裔」と刻んだコインを発行した[55]ことから、マズダー崇拝者(詳細不明)のシャーハンシャー(皇帝、諸王の王)を神としていたことは分かっている[56]。アルダシール1世と大神官タンサールの元、ゾロアスター教は体系化されたとされる。サーサーン朝君主が発行する貨幣の裏面に拝火壇が刻印され、ゾロアスター教が世俗支配でも重要な役割を担っていたと推測される[8]。
アルダシールの息子・シャープール1世(在位242年 – 270年)はアルサケス朝と同じく首都をメソポタミアのクテシフォンに定めた。
しかしメソポタミアではセム系が多数を占め、ユダヤ教・キリスト教・マンダ教・グノーシス主義といった様々な宗教団体が乱立していた(結局メソポタミアのセム系庶民にゾロアスター教が定着することなかったと思われる)。
穀倉地帯で政治的経済的重要性も高いメソポタミアを安定的に統治するため、シャープールは穏当な宗教政策をとった。
そしてニシビスのユダヤ人指導者や新興宗教(後にマニ教と呼ばれる)の教祖マニを招き、彼らの宗教活動を容認した[57]。
サーサーン朝シャーハンシャーたちは先祖伝来の地ペルシア州に磨崖レリーフを造り、叙任の儀式を行っていた[52]。
バハラーム1世のリレーフにはオフルマズド(アフラ・マズダー)から支配権を委ねられた姿が描かれている。
バハラーム2世の造ったリレーフには、叔父のアルメニア国王ナルセ(ナルセ1世)らサーサーン家の面々と並び、神官に過ぎないカルティールが、それもかなり高い席次で描かれていた。
このことからシャープールの死後、カルティール率いる神官団が台頭していたことがうかがえる。
権勢を増し加えたカルティールは「バハラームの霊魂を救済するオフルマズド・モウベド神官」「エスタフルのアナーヒター拝火神殿の神官」の称号を得た。
シャーハンシャーの霊魂を左右し、サーサーン朝の祖先が務めていた神殿の神官職を名乗るようになったのである。
また、彼はマニを処刑するなど異教弾圧に熱心で「ユダヤ教徒・仏教徒・ヒンドゥー教徒・シリア系キリスト教・ギリシア系キリスト教徒・洗礼教徒・マニ教徒」を駆逐したとする碑文を帝国各地に建てた。
そして帝国各地に聖火と神官たちを派遣したと書き記しているが、具体的にどのような教えを信じていたのかは記録がない[58]。
ナルセがシャーハンシャーになるとカルティールは失脚したとみられる。「エスタフルのアナーヒター拝火神殿の神官」の称号はナルセに引き継がれた[59]。
カルティールの死後もゾロアスター国教化路線は維持された。
9代目シャープール2世(在位309年 – 379年)の時代には、大神官アードゥルバードのもと、口伝アヴェスターの結集と教義の確立が行われた[60]。
また、シャープールは見る人が限られるレリーフを造るよりも、自身の描かれた銀食器や胸像を帝国各地にばらまくことに積極的だった。これによりサーサーン家とペルシアの関係性は薄れ、シャーハンシャーの神秘性はかえって失われたと考えられている[61]。
ズルワーン崇拝の台頭
ゾロアスター教ズルワーン主義の最高神と二元論[27]
善神オフルマズド
(アフラ・マズダー)
時間の神ズルワーン
悪神アフレマン
(アンラ・マンユ)
太字は最高神
アフラ・マズダーが善神に降格
中立的な最高神ズルワーンのもと善神と悪神が争う
「ズルワーン教」も参照ただし国教化によっても、古来から続く帝国内の多様なアーリア人の諸宗教は均一化されなかった。
周辺の外国語文献によれば、サーサーン朝初期~5世紀頃まで、時間の神ズルワーンが崇拝されていた。
このズルワーン教と呼ばれるアーリア人の宗教の一派は、9~10世紀のゾロアスター教文献に記述がなく、両者の関係は分かっていない。
インド思想カーラ、ギリシア思想アイオーンの影響も指摘される。
完全に独立した宗教であるという説から、サーサーン朝初期~中期の国教であったという説まで様々な見解が存在する[54]。
ジャーヒリーヤ時代以降に書かれたアラビア語古詩には、バタバタと独特な歩き方をしながら、ズーンなる偶像神に牛を捧げ、熱心に祈るメソポタミアのゾロアスター教神官の姿が描写されている。
ズーンとはアラビアで信仰された魚の神、またはズルワーンがアラビア語で省略された形であるとみられる。
いずれにしろペルシア的ゾロアスター教とはかなり異なる「メソポタミア的ゾロアスター教」が信仰されていたと思われる。
その他の地域にも独自の宗教が存在したと考えられ、ペルシア州の官団を頂点にアーリア人の諸宗教をゾロアスター教の名で緩やかに統合していたとする説もある[21]。
ザラスシュトラ伝説の台頭
サーサーン朝(橙)とクシャーノ・サーサーン朝(青、紫)の領域
「ヤズデギルド2世」も参照サーサーン朝の分家クシャーノ・サーサーン朝では、シャーのバハラーム2世(在位360年頃)が「カイ・バハラーム・クーシャン・シャー」と刻んだコインを発行していた。
「カイ」とは、『アヴェスター』に関する伝承に登場するザラスシュトラの庇護者カウィ王朝の中世ペルシア語である。
このことから、クシャーノ・サーサーン朝では、ザラスシュトラ伝説を王権の正当性を支えるイデオロギーとして採用したと考えられている[62]。
その後、本家サーサーン朝のヤズデギルド2世(在位438年 – 457年)も「マズダー崇拝の神たるカイ」と銘打ったコインを発行している。
ヤズデギルドは東方遠征を繰り返したり、北魏(中国)に使節団を送って貿易を促進しようとするなど東方への関心が強かった。
こうした中で、中央アジアに残されたザラスシュトラ伝説やクシャーノ・サーサーン朝の国家イデオロギーに触れたものと思われる。
こうしてシャーハンシャーは神々の末裔を名乗ることを止め、ザラスシュトラの庇護者の末裔を称するようになった[62]。
二元論の確立
二元論的ゾロアスター教における最高神と二元論[27]
善の最高神オフルマズド
(元はアフラ・マズダー+ズルワーン)
悪の最高神アフレマン
(元はアンラ・マンユ)
太字は最高神
中立的な最高神が消滅
善の最高神と悪の最高神が争う6世紀のサーサーン朝は、ビザンツ帝国に借金をして東方の遊牧国家エフタルに朝貢するほど国力が衰えた。
カワード1世(在位488年 – 496年、498年 – 531年)はマズダク教を唱えたマズダクを宰相に登用して改革を試みた。
カワードは平等を説くマズダク教を利用してゾロアスター教神官団の抑え込もうとして大きな反発を食らい、かえって混乱を深めた[63]。
カワードの息子ホスロー1世(在位531年 – 579年)は税制・軍制改革に成功し、サーサーン朝の中興を果たした。
ホスローのもとでキリスト教パフレヴィー文字を参考にアヴェスター文字が発明され、口伝『アヴェスター』とそのパフレヴィー語注釈『ザンド』が書籍化された。
さらに西方からギリシア哲学を、東方からインド哲学をゾロアスター教に取り入れ、知的水準においてもキリスト教会に対抗できる体制を整えた[63]。
ホスロー1世の頃にゾロアスター教の一神教的要素(最高神としてのアフラ・マズダー、またはズルワーン)が排除され、善神オフルマズド(アフラ・マズダー)と悪神アフレマン(アンラ・マンユ)の対立を軸とした真の意味で二元論的な教義が確立したとみられている。
ゾロアスター教神官団はこれによって悪の存在を説明でき、その点でセム的一神教に優位に立てると考えた。
またズルワーン教の悲観的世界観・人間観から脱し、物質存在の肯定と楽観的な終末論が唱えられた[20]。
このような世界観は楽天的善悪二元論とも呼ばれ、台頭する一神教のキリスト教に対抗るするために、一神教要素を排除して二元論を強調したとする見方もある[64]。
東方での展開
ソグド的ゾロアスター教
ソグディアナはザラスシュトラの出身地に近いと考えられており、ペルシアよりもその教えが古い形で残っていたと考えられている。
また、ソグド語資料にはザラシュストラの物語が書かれており、『アヴェスター』の散逸部分のソグド語版である可能性もある。また、ソグド人はアフラ・マズダーやズルヴァーン、ミスラのほか、ヒンドゥー教の神々も祀っていた[65]。
祆教
詳細は「唐代三夷教」を参照
敦煌出土の祆教の女神像(広東語版)5世紀・6世紀頃、交易活動のために多数のペルシア人がトルキスタンから現在の甘粛省を経て中国へ渡り、華北の北周・北斉にゾロアスター教が広まったという[66]。
信者は相当数いたものと思われ、唐代には「祆教(けんきょう)」と称された[66]。
「薩宝(さっぽう)」「薩甫(さっぽ)」ないし「薩保(さほ)」(詳細不明)を指導者とする教団も存在した[66]。
隋・唐の時代、薩宝(薩甫、薩保)は官職と認められ、ペルシア人やイラン系の西域出身者(ソグド人など)に官位が授けられ、祆教寺院や礼拝所(祆祠)の管理を任された[66]。
首都長安や洛陽・敦煌・涼州といった都市に寺院・祠が設けられ、長安には5カ所、洛陽には3カ所の祆祠(けんし)があったと言われている。
しかし、ゾロアスター教徒は中国においてはほとんど伝道活動をおこなわなかったらしい[4]。
唐においては、景教(ネストリウス派キリスト教)・マニ教とあわせて三夷教、その寺を三夷寺と呼び、国際都市長安を中心に多くの信者を有した。
西北部に居住するトルコ族の国ウイグル(回鶻、現在の新疆ウイグル自治区)では、マニ教とともにゾロアスター教も広く信仰された。
吐火羅・舎衛などのペルシア人が古代日本にも訪れており、なんらかの形での伝来が考えられている。
松本清張は古代史ミステリーの代表的長編『火の路』でゾロアスター教が日本に来ていたのではないかという仮説を取り入れている。
イラン学者伊藤義教は、来朝ペルシア人の比定研究などをふまえて、新義真言宗の作法やお水取りの時に行われる達陀の行法は、ゾロアスター教の影響を受けているのではないかとする説を提出している[67]。
中国における祆教の信者は、多くの場合ペルシア人や西域出身者だったが、当初は隊商の商人が多数を占め、のちには唐に亡命政府を樹立したサーサーン朝からの難民などが加わったものと思われる[66]。
武宗の廃仏(会昌の廃仏)のときに、仏教とともに三夷教も弾圧を受け、以後は衰退していった。また、西域では11世紀 – 13世紀に西域のイスラム化が進行した。
宋の時代になると担い手の漢化が進み、「宋代漢民族的ゾロアスター教」ともいえる形態に変化した[5]。
祆教は、14世紀ころまで開封・鎮江などに残っていたと記録されているが、その後の消息は掴めていない[66]。
なお、唐代から元代にかけて対外貿易港だった福建省泉州市郊外に波斯荘という村があり、現在でもペルシア人の末裔が暮らしているという。
彼らは現在、言語・形質面では漢族に同化しているが、イスラム教を奉じており回族と認定されている。彼らの宗教儀式にはゾロアスター教の名残がみられるともいわれる[要出典]。
ゾロアスター教の衰退
「イスラーム教徒のペルシア征服」も参照ホスロー1世の孫・ホスロー2世(在位590年、591年 – 628年)は国力に余裕のある状態でシャーハンシャーになることができた。
しかし、即位当初から部下の反逆に遭い、求心力を高めるために新たな皇帝イデオロギーを創出する必要牲に迫られた。
そこで彼はキリスト教国家東ローマ帝国と戦争(602年-628年)を開始し、エルサレム攻略によってイエス・キリストが磔刑に処せられたとされる「ゴルゴタの聖十字架」を奪取し、穀倉地帯エジプトも占領。首都コンスタンティノープル対岸のカルケドンまで進軍して東ローマ帝国を滅亡寸前に追いやった。
この大勝利によってシャーハンシャーの威信は絶頂を迎え、ホスローがアフラ・マズダーよりも一段上位の台座に立つレリーフが建造された[52]。
なお、この頃はゾロアスター教からキリスト教への改宗が相次いでいた。特にゾロアスター教から軽蔑されていた商人・職人層に顕著で、職人団体の長にもキリスト教徒が多かった[68]。
東ローマ皇帝に即位したヘラクレイオス(在位610年 – 641年)は反転攻勢に出たが、シリア・メソポタミアからクテシフォン方面に向かうことはせず、623年にタウルス山脈沿いに進軍してシーズを急襲。拝火壇は破壊され、「シーズの聖火」のみ辛うじてクテシフォン近郊に避難された。これによりサーサーン朝の威信は大いに揺らいだ[52]。
この戦争により両大国の力は消耗し周辺国では自立の動きが活性化した。国力を浪費させたホスローは皇太子によって暗殺され、内乱に陥った[69]。
サーサーン朝の内乱を何とか平定したホスロー2世の孫ヤズデギルド3世(在位632年 – 651年)は、633年よりアラビア半島の新興世界宗教イスラム教を奉じるアラブ人の侵攻に直面した。
サーサーン朝側は長年の内戦で疲弊しており、637年には首都クテシフォンを奪われた。
ヤズデギルドは税収の3割を担っていたメソポタミアを放棄し、イラン高原で体制の立て直しを図った。
イラン高原に進軍したイスラム軍は連戦を重ね、ニハーヴァンドの戦いでサーサーン朝を打ち破った。
この時、落馬して捕虜となれば身代金を払って解放されるという当時の慣例に従って多くの将兵(封建領主と自由農民から成る)がわざと落馬したが、アラブ人はこのルールを知らず、必要以上に多くのペルシア軍が虐殺された。
これによってサーサーン朝の軍事組織とペルシア人の経済社会システムは崩壊し、サーサーン朝はイスラム勢力に抵抗する力を失った。
ヤズデギルドは逃亡中の651年にメルブで殺され、キリスト教徒シーリーンの孫であることから現地民によってキリスト教式に埋葬されたという。
ヤズデギルドの息子ペーローズ3世と孫ナルシエフは唐に逃れ、疾陵(所在不明)にサーサーン朝亡命政府を置くも、アラブ人イスラム教徒に占領され、ペルシア帝国復活の望みは完全に絶たれた[70]。
恭順
アラブ人イスラム教徒による侵攻時に、旧来の支配階級だったアーリア人たちは「イスラム教への改宗」「貢納」「徹底抗戦」の選択肢を余儀なくされた。
改宗者は少なく、多くが貢納によって信仰を維持したといわれる。アラブ人たちは宗教的に放任策で、従来の信仰はおおむね維持された[71]。
サーサーン朝崩壊から8世紀までゾロアスター教に関する資料はほとんど残っていない。
しかし8世紀になるとフーデーン・ペーショーバーイを中心とするゾロアスター教神官団たちがパフレヴィー語文献を精力的に執筆し、「パフレヴィー語文学ルネッサンス」と呼ばれる文化的発展期を迎えた。
知られる限り最初のフーデーン・ペーショーバーイであるアードゥル・ファッローバイは、イラン高原全体のゾロアスター教徒を指導しており、『デーンカルド』最初の著者でもあった。
彼の後継者たちも書簡集『リバーヤト』、『ブンダヒシュン』、『宗教問答集』など様々な文献を残している。
10世紀になるとアラビア語文献でしかフーデーン・ペーショーバーイの名が知られなくなる。
そして936年に処刑された祖父の跡を継いだエーメードを最後に、フーデーン・ペーショーバーイの記録は残っていない[72]。
なお、9~10世紀の文献には二元論的ゾロアスター教の世界観が描かれており、5世紀まで外国語文献で度々描写されていたズルワーン崇拝に関する記述が存在しないため、様々な議論を呼んでいる[73]。
ゾロアスター神官団を経済的に支えたのは、アルダフシール・ファッラフ-シーラーフを繋ぐ通商路であった。
この地はサーサーン朝崩壊後に建てられた拝火神殿が連なり、神官団と商人たちによって共同管理されたとみられている。
しかしこのルートがブワイフ朝の国家管理に置かれたことで寂れてしまい、10世紀後半の地震でシーラーフが壊滅したことによりとどめを刺された。
かつての通商路には廃墟と化した拝火神殿が点在する不毛の地となり、経済的基盤を失ったゾロアスター教神官団は消滅した。それによりパフレヴィー語文学ルネッサンスは終焉を迎え、『アヴェスター』も大半が散逸した[74]。
反乱
ウマイヤ朝からアッバース朝の転換期(アッバース革命)、アーリア人の宗教の信者たちによる反乱が相次いだ。この頃、ゾロアスター教神官のベフ・アーフリードが活躍した[75]。
反乱を起こしたイラン人にはホラーサーン周辺で原始的ゾロアスター教や太陽崇拝、マズダク教を旗頭にすることが多く、サーサーン朝崩壊後には様々なアーリア人の諸宗教が台頭していた可能性がある。しかし9世紀半ば以降は反イスラムを掲げた反乱も起こらなくなる[76]。
衰退
イスラム教徒の支配下でゾロアスター教徒たちは経済的利益や身の安全のため次々と改宗していった。
イスラム側は彼らを改宗させるため、ヤズデギルド3世の娘達が正統カリフ、アリー・イブン・アビー・ターリブの一族と結婚したという説話を流布させた。
ゴムではアーリア人への虐殺・追放が行われ、代わりにアラブ人の移住が促進された。
これによってこの街はシーア派の一大拠点となった。
10世紀にはゾロアスター教の牙城だったペルシア州でゾロアスター教徒の血を引くイスラム教徒のガーゼルーニーが布教活動を行った。
ゾロアスター教神官団は彼を暗殺・逮捕しようとしたが失敗し、最後の基盤も切り崩されていった。
12世紀にはこの地の農村部にもモスクが立つようになり、ペルシアのイスラム化は不可逆的に進んだ。
これに伴い、アーリア人の伝統的階級社会は解体され、民族の誇りも失われて自称が「アジャム(非アラブ)」と主体性のないものに置き換えられた。サーサーン朝の豊かな文化はイスラム文化に吸収された(イラン・イスラーム文化)[77]。
近代に至り、イラン社会も世俗化の流れの中でジズヤが廃止され、ようやくムスリムとは法的に対等の権利を得た。
パールシー
ムンバイ(インド)に建設された「沈黙の塔」
詳細は「パールシー」を参照イラン高原の政治勢力はインド亜大陸に度々進出しており、インドの歴史書では好戦的なパルサヴァ族(アケメネス朝のペルシア人?、前5世紀)、アーリア人の祭祀を無視しクシャトリヤから格下げされたパフラヴァ族(パルティア人?、前2・3世紀以降)、ムレーッチャ(塞外異民族)のパーラスィーカ族(サーサーン朝のペルシア人?、4世紀以降)などとして記録されている。
そうした中で、インドにもイラン系アーリア人の宗教を信じる集団がいくつか確認されている。サーサーン朝滅亡までに以下の集団がインドにおいて存在していた[22]
マガ・ブラーフマガ - 前1世紀頃、イラン高原東部からインドに移住。原イラン多神教の流れを汲むミスラ崇拝者と思われる ボージャカ - 6世紀前半-7世紀末にインド移住。原ゾロアスター教の流れを汲む。マガ・ブラーフマガと融合 ガンダーラ・ブラーフマガ - 5世紀半ば-567年に北インドを支配したエフタルの「ミヒラ教」祭司集団の残党。マガ・ブラーフマガと同一集団?
サーサーン朝滅亡後、イランのゾロアスター教徒にはインド西海岸グジャラートへ退避する集団があった。
彼らをパールシー(「ペルシア人」の意)という。Qissa-i Sanjanの伝承では、ホラーサーンのサンジャーン(英語版)から、4、5隻の船に乗りグジャラート南部のサンジャーン(英語版)にたどり着き、現地を支配したヒンドゥー教徒の王ジャーディ・ラーナーの保護を得て、周辺地域に定住したと言われる[78]。
グジャラートのサンジャーンに5年間定住した神官団は、使者を陸路イラン高原のホラーサーンに派遣し、同地のアータシュ・バフラーム級聖火をサンジャーンに移転させたと言われている[79]。
パールシーのコミュニティーは以後1000年間信仰を守り続けている。
彼らはイランでは多く農業を営んでいたと言われるが、移住を契機に商工業に進出し、土地の風習を採り入れてインド化していった[46]。
それに伴いグジャラート語を使用するようになった彼らの多くは、旧来のゾロアスター教資料を読めなくなった。
二元論・終末論といった教義への探求はほとんど行われなり、代わりに神官団は一般信徒にとって重要だった祭儀の継承に力を注いだ。
また知的活動を支える余裕が無くなったため、祭儀に関するものと残された書籍の写本作成を除いて、文献執筆はほとんど行われなくなった[79]。
パールシーはカースト制に組み込まれ、ひとつのカーストとしてパールシーのコミュニティ内で婚姻するようになった。このカーストと族内婚によってパールシーの人々は同化圧力の強いヒンドゥー教社会の中で独自性を維持することができた[79]。
ヤズィーディー教
詳細は「ヤズィーディー」を参照ヤズィーディー教は原イラン多神教と12世紀にスーフィーの指導者アディー・イブン・ムサーフィル(英語版)が作ったアダウィーア教団の教えが融合したクルド人の宗教である。
クルド人は言語学的に古代アーリア人の分派であり、ザラスシュトラ以前の教えを保存していると考えられている。
ヤズィーディー教の聖典には原イラン多神教とよく似た教義や物語が多く登場するが、固有名詞がイスラム風のものに入れ替わっているものが少なくない。
インドにおいては口伝の中にいくつも神々の名前を登場させ、改竄ができないよう注意を払われていたが、同じアーリア系でもイランではそのような注意を欠いていたことが原因であるとされている[80]
現代のゾロアスター教
信者の分布
トビリシ(グルジア共和国)のゾロアスター神殿近代以前からゾロアスター教が信仰されていた地域は、以下の通りである。
イラン:かつてゾロアスター教を国教としたサーサーン朝ペルシア帝国の中心地。ヤズドを中心に信徒数3万~6万人[81]。 インド:10世紀頃にイランを脱出したゾロアスター教徒がグジャラート州に移住。ペルシア人を意味するパールシー(教徒)と呼ばれる。現在はパールシーの経済的中心地・ボンベイ(ムンバイ)を主たる拠点として、信徒数7万5千人[81]。 パキスタン:英領インドがインド共和国とパキスタンに分離して独立国となった際、2,500人から6,000人のパールシーがパキスタンの領域に住んでおり、パキスタン国民となった。中心地はカラチである[81]。 アゼルバイジャン・ジョージア国・イラク:若干名
近代以降、多くのパールシー教徒が英語圏の各地に、イラン本国のゾロアスター教徒がドイツに移民として移住したことにより、信者の分布地域は拡大していった[81]。
イギリス:約5,000人[81]。 北米大陸(アメリカ合衆国・カナダ):約10,000人[81]。 オーストラリア:約2,500人[81]。 シンガポール・香港・日本・ドイツ:若干名[81]。
イラン
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出典検索?: “ゾロアスター教” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2015年11月)ヤズドのゾロアスター教神殿
イランのゾロアスター教は、イスラム化の進展によって少数派に転落した。
今日、小規模の信徒共同体が残存し、現代ペルシア語で「ゾロアスターの教え,ディーネ・ザルドゥシュト(دین زردشت)」と呼ばれる。
イラン中央部のヤズド、南東部のケルマン地区を中心に数万人の信者が存在する。ヤズドでは人口(30万人)の約1割がゾロアスター教徒とされる。ヤズド近郊にはゾロアスター教徒の村がいくつかあり、拝火神殿は信者以外にも開放され、1500年前から燃え続けているという「聖火」を見ることができる。
ダフメ(daχmah いわゆる「沈黙の塔」)による鳥葬は、1930年代にパフラヴィー朝のレザー・シャーにより禁止され、以後はイスラム教等と同様に土葬となった。現在は活用されず、観光施設として残されるにとどまる。
ゾロアスター教徒は近代化の進展によりムスリムと同等の法的権利を獲得したが、イスラム革命により再び隷属的地位におかれてしまう。
かつての世界宗教・ゾロアスター教はイスラーム教徒による宗教的迫害によって信徒資格を血縁に求める民族・部族宗教へと後退した。
現在、ゾロアスター教では信徒を親に持たない者の入信を受け入れていない。
一方で、シーア派が政治権力を握り人々を抑圧しているにもかかわらず、多くのシーア派が水面下で棄教・改宗したとする調査もある。
それによればイスラム教シーア派を自認する人は3分の1に満たず、国民の8%がゾロアスター教徒を自称した(イラン政府の公式発表では2万3000人)。
彼らはイラン発祥のゾロアスター教に誇りを持ち、アラブ人が持ち込んだとしてイスラム教に反発する者もいる。
また、火の回りで祈りをささげるゾロアスター式の結婚式が流行したため、当局によって禁止されている(2019年)。
水面下ではキリスト教や非シーア派のイスラム教も拡大しており、イラン政府の厳格な宗教政策が却ってシーア派から人々を遠ざけているとみられている[82]。
インドとパキスタン
詳細は「パールシー」を参照
インドにおけるパールシー入信のナオジョテの儀式[注釈 12]現在、インドはゾロアスター教徒数の最も多い国である。
今日では同じ西海岸のマハーラーシュトラ州ムンバイ(旧称ボンベイ)にゾロアスター教の中心地があり、開祖ザラスシュトラが点火したと伝えられる炎が消えることなく燃え続けている。
ゾロアスター教は、インドではペルシア人を意味する「パールシー」と呼ばれ、パールシー同士だけで婚姻し、周囲とは異なるパールシー共同体を形成している[14]。
少数ながら商業・貿易・知的職業に就く人が多く、裕福層や政治力をもった人々の割合が多い[14]。
インド国内で少数派ながら富裕層が多く社会的に活躍する人が多い点は、シク教徒と類似し、インド2大財閥のひとつタタ・グループは、パールシーの財閥である。パールシーは同じ教徒同士の堅固な結合と相互扶助もあって、彼らの社会には生活において貧窮する者がいないと言われる[14]。
神殿はマハラシュトラ州のムンバイとプネーにいくつかあり、ゾロアスター教共同体を作っている。神殿にはゾロアスター教徒のみが入ることができ、異教徒の立ち入りは禁じられている。神聖な炎は全ての神殿にあり、ペルシアから運ばれた炎から分けられたものである。神殿内には偶像はなく、炎に礼拝する。パールシーのほとんどはムンバイとプネーに在住している。またグジャラート州のアフマダーバードやスーラトにも神殿があり、周辺に住む信者により運営されている。
一方、パキスタン(人口1億3,000万人)のゾロアスター教徒は5000人で、主にカラチ一帯に居住しており、イランからの信者流入により教徒数は増加傾向にある。
東アジア19世紀後半から20世紀前半にかけては上海・広州などにインド亜大陸から渡来したパールシー商人が、租界を中心に独自のコミュニティを築いていた。現在でも香港には「白頭教徒」と呼ばれる数百人のパールシーが定住し、コーズウェイベイ(銅鑼灣)の商業ビル(善楽施大厦)の一角に拝火神殿が、ハッピーバレー(跑馬地)に専用墓地が存在する。マカオには現在パールシーは居住していないが、東洋望山に「白頭墳場」と呼ばれる墓地があり、香港が貿易拠点として発展する以前はパールシー商人が居留していたものと考えられる[要出典]。
近代の日本では、戦前からインド・ゾロアスター教徒により、神戸在住の貿易商として定住がはじまり、その子孫の人々は現在でも健在である。在日も3世代目ないし4世代目となり、日本生まれの日本育ちとしてすっかり日本文化にとけ込んでいるが、国籍はインドを維持し、祭祀の際などにはムンバイに帰ってゾロアスター教の儀礼に参加している[84]。
1990年代後半にプロの霊感占い師幹野秀樹[85]によって日本ゾロアスター教団[86]が設立されたが、2017年現在その活動は確認することが出来なくなっている。
欧米
19世紀以降、インドからのパールシーの移住に伴い、北米には18,000-25,000人の南アジア・イラン系の信者、オーストラリア(主にシドニー)には3,500人の信者が在住している。
1990年、アリー・A・ジャファリーによって、ロサンゼルスにおいてゾロアスター教系新興教団ザラスシュトリアン・アッセンブリーが設立された[87]。ガーサーのみを聖典とし、入信儀式を得れば民族・国籍問わずに誰でも会員となることができるとされている[88]。
歴代指導者原始教団
ザラスシュトラ - 教祖 ジャーマースパ・フォーグワ - ザラスシュトラの娘婿
以後、記録なし
大神官(サーサーン朝時代)[89]
カルティール - アードゥルバード - シャープール2世時代 ザルドシュルト - アードゥルバードの息子? アードゥルバード - ザルドシュルトの息子?。5世紀 アードゥル・ファッローバイ - ヤズデギルド2世時代 フダード - ヤズデギルド2世時代 アードゥル・ボーセード マルドブード -ペーローズ1世時代 アードゥルバード - マルドブードの息子
フーデーン・ペーショーバーイ(イスラム支配時代)[90]
アードゥル・ファッローバイ -アッバース朝マアムーン時代 ザルドシュルト - アードゥル・ファッローバイの息子。イスラム教に改宗 ジュワーンジャム マヌシュチフル - ジュワーンジャムの息子 エーメード - ジュワーンジャムの孫 アードゥルバード エスファンディヤール - アードゥルバードの息子。アッバース朝ラーディーにより936年処刑 エーメード - エスファンディヤールの孫
以後、記録なし
パールシー出身の著名人カイホスルー・シャプルジ・ソラブジ(イギリスの作曲家) フレディ・マーキュリー(ザンジバル生まれのイギリスの歌手) ズービン・メータ(インド人の指揮者) ジャムシェトジー・タタ(タタ・グループの創始者) ラタン・タタ(タタ・グループの会長)
逸話
日本では東芝が過去に電球や真空管などのブランド名として使用していた(ライセンス元のゼネラル・エレクトリックのブランド名でもある)「マツダ」の綴り Mazda は、アフラ・マズダーに由来する[91]。 日本の自動車メーカーであるマツダは、創業者の姓(松田)を冠しているとともに、その Mazda の綴りはゾロアスター教の主神アフラ・マズダーに由来している[92]。 フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』のツァラトゥストラは、ザラスシュトラのドイツ語読み。リヒャルト・シュトラウス作曲の同名の交響詩も同様。
脚注
[脚注の使い方]
注釈^ なお、ゾロアスター教の影響を受けたマニ教も徹底した二元論的教義を有し、宇宙は光・善・精神と闇・悪・肉体の2つの原理の対立に基づき、それぞれ画然と分けられていた始原の宇宙への回帰と、マニ教独自の救済とを教義の核心とする[10][11]。 ^ アエーシュマは、『旧約聖書』に登場するアスモデウスの前身とも考えられる[要出典]。 ^ イスラム統治時代初期のホラーサーンでは、イスラム教との比較で「我々には理性的に語る啓典も神から遣わされた預者者もない」と語るゾロアスター教徒のヘラート貴族の発言が残されている(パフレヴィー語文献ではザラスシュトラが預言者とされている)。そしてホラーサーンから原ゾロアスター教とマゴス神官団の教えを峻別し、後者を禁じたベフ・アーフリードが登場する。さらに彼は『アヴェスター』の存在を無視して、それとは別の聖典を独自に書こうとしていた。これらのことから、『アヴェスター』を軸とした国教たるペルシア的ゾロアスター教はイラン高原南部でのみでしか浸透しておらず、ホラーサーンには独自の「ホラーサーン的ゾロアスター教」が存在していた可能性が指摘されている。[21]。 ^ ゾロアスター教の至高神アフラ・マズダーは、バラモン教の聖典『リグ・ヴェーダ』で「アスラ(Asura)=主」と記された神で、『リグ・ヴェーダ』の詩句では、このミスラとヴァルナの下位の「主」は、次のような言葉で語りかけている。「あなたたち二神は、アスラの超自然的力を通して空に雨を降らせる。…あなたたち二神は、アスラの超自然的力を通して、あなたたちの法を守る。リタ(=自然の法則)を通して宇宙を支配する」(『リグ・ヴェーダ』5:6,3:7) ^ 青木健は、アフラ・マズダーをザラスシュトラが創案した神格であると述べている[23]。 ^ ヤスナに記されたフラワラーネは「私は自ら、マズダーの礼拝者であり、ゾロアスターの信奉者であり、ダエーワを拒否し、アフラの教義を受け入れることを告白します。アムシャ・スプンタを礼拝します。善にして宝にみちたアフラ・マズダーに、すべての良きものを帰させます」というものである[25]。 ^ ボイスによれば、ゾロアスター教信仰告白において、アフラ・マズダーは創造主として尊ばれているが、異教時代のイラン人にとって創造主とみなされていたとは考えられない、という。もし異教時代のイラン人が、どれか1つの神に創造的な活動を担わせようとするならば、その神は三大アフラのなかでおそらくは最も遠く離れてある「叡智の主」の命令を実行する神ヴァルナであったろうというのがボイスの見解である。さらに、このことがゾロアスターの教義のなかでも際立った特徴のひとつであったとも指摘している[26]。 ^ ボイスによれば、キュロスの宗教的寛容策により、「ユダヤ人はこの後もペルシア人に好感を持ち続け、ゾロアスター教の影響を一層受容しやすくなった」という[35]。ただし、ボイスが自著でその前提条件に次の点を挙げた。ザラスシュトラ出生が紀元前1500年~1200年であること、キュロスがゾロアスター教徒であったこと、そしてこの時既にゾロアスター教救済主思想が成立していたことである[36]。ただし、こうした前提条件は、見解の相違するところでもある。 ^ こうした影響に関する最新の論文として Werner Sundermann, 2008, Zoroastrian Motifs in Non-Zoroastrian Traditions, Journal of the Royal Asiatic Society vol.18, Iss.2, pp. 155-165を参照。 ^ ゾロアスター教徒の信仰告白の一節に「マズダー教徒でありゾロアスター教徒である私は」という言い回しがある[26]。マズダーはザラスシュトラ以前からアーリア人に信仰されており、マズダー崇拝だけではゾロアスター教徒と断定できない。またP・R.ハーツは、著書『ゾロアスター教』で、ダレイオス1世をゾロアスター教徒とみなしている。しかし、訳者の奥西俊介は「訳者あとがき」で次のように指摘している。現ゾロアスター教徒が自分たちの守護霊フラワシの像とみなしている有翼円盤人物像は、アケメネス朝の遺跡で多く確認される。しかし、多くの研究者は有翼円盤人物像をアフラ・マズダー像とみなしており、ダレイオス1世がマズダー信者だったとしても、ゾロアスター教徒であったかどうかは明白ではない[40]。 ^ ボイスは、ザラスシュトラ以前よりイラン人祭司は神々に対して礼拝式を捧げたが、火と水に対し決まった供物を捧げる儀礼自体は変わらなかったのではないかとしている[41]。 ^ 19世紀から続く神官一族ジャーマースプ・アーサー家の第6代カイ・ホスロウによる入信式[83]。
出典
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参考文献
出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2015年11月)
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青木健 「ゾロアスター教書籍パフラヴィー語文献『デーンカルド』第3巻訳注・その2」『東洋文化研究所紀要』 東京大学東洋文化研究所、第146号、2004年12月、pp. 72-41、NAID 120000872491。2011年1月6日閲覧。 青木健 『ゾロアスター教の興亡 - サーサーン朝ペルシアからムガル帝国へ』 刀水書房、2007年1月。ISBN 978-4-88708-357-8。 青木健 『ゾロアスター教史 - 古代アーリア・中世ペルシア・現代インド』 刀水書房〈刀水歴史全書 79〉、2008年10月 『新ゾロアスター教史』刀水書房〈刀水歴史全書 99〉、2019年3月。ISBN 978-4-88708-450-6。 伊藤義教 『ゾロアスター教論集』 平河出版社、2001年10月。ISBN 978-4-89203-315-5。 『ヴェーダ アヴェスタ』 伊藤義教訳、筑摩書房〈世界古典文学全集 3〉、1972年。ISBN 978-4-480-20303-8。::※原典の抄訳版 『原典訳 アヴェスター』伊藤義教訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、2012年6月、ISBN 978-4-480-09460-5。 ※1972年刊行の『ヴェーダ アヴェスター』から「アヴェスター」部分を抜粋 妹尾河童 『河童が覗いたインド』 新潮社〈新潮文庫〉、1991年3月。ISBN 978-4-10-131103-6。 堀尾幸司『キリスト殺しの真相 - ユダヤ・イエス・聖書』文芸社、2007年5月。ISBN 978-4-286-02838-5。 タルデュー, ミシェル(英語版) 『マニ教』 大貫隆・中野千恵美訳、白水社〈文庫クセジュ 848〉、2002年3月。ISBN 978-4-560-05848-0。 山本由美子 『マニ教とゾロアスター教』 山川出版社〈世界史リブレット 4〉、1998年4月。ISBN 978-4-634-34040-4。 山本由美子 「パルティアとゾロアスター教」『ヘレニズムと仏教 NHKスペシャル 文明の道 2』 NHK「文明の道」プロジェクト編、NHK出版、2003年7月。ISBN 978-4-14-080776-7。関連項目
ウィキメディア・コモンズには、ゾロアスター教に関連するメディアおよびカテゴリがあります。ペルシア哲学
外部リンク
PersianDNA-世界各地のゾロアスター教コミュニティへのリンク集 (英語) マズダ・ヤスナの会 (日本語) 『ゾロアスター教』 - コトバンク 表話編歴
ゾロアスター教
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カテゴリ:ゾロアスター教イランの宗教ザラスシュトラ 最終更新 2024年1月22日 (月) 11:39 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』
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アヨーディヤー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%A4%E3%83%BC

『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
アヨーディヤーの風景
アヨーディヤー(ヒンディー語: अयोध्या, ラテン文字転写: Ayodhyā, 英語: Ayodhya, アヨーデャーとも)はインドの古都。ウッタル・プラデーシュ州北部のファイザーバード県(英語版)に位置し、7 km西にファイザーバードの街がある。アヨーディヤとも表記されるが、現地語の名称では最後の音節は長母音である。
アヨーディヤーの名は「難攻不落の都城」を意味し、古代コーサラ国の初期の首都とされ、叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公ラーマ王子の故郷としても知られる。
歴史
アワド地方の位置古代にはサーケータという名でも知られ、ヒンドゥー教ではインドの七つの聖なる町の筆頭とされてきた。
この町を中心とした地域はかつて、アヨーディヤーの名をとって「アワド」という歴史的名称で呼ばれ、古来より数々の王朝がこの地を領して栄えた。
13世紀にデリー・スルターン朝が成立したのちも、アワドは重要な地域とされ、一時はデリーから独立したジャウンプル・スルターン朝が成立した。
16世紀以降、この地域がムガル帝国の支配下にはいるとアワド太守が設置され、18世紀初頭に帝国が衰退すると、アワド太守はこの地に地方政権を樹立した。
1992年12月6日、バーブリー・マスジド(モスク)でヒンドゥー教強硬派に扇動された暴徒によるバーブリー・マスジド倒壊事件(英語版)が起こり、この後インド各地でヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の間で宗派間暴動が頻発した。その後、その跡地にヒンドゥー教寺院のラーム寺院(英語版)が建てられ、2024年1月22日に落成式が開かれ、首相のナレンドラ・モディも出席した[1]。
またタイの古都アユタヤ、更にはインドネシアの古都ジョグジャカルタもアヨーディヤーの名に由来する。
脚注
^ “モスク跡地にヒンズー教寺院 印モディ首相、総選挙へ成果誇示:中日新聞Web”. 中日新聞Web (2024年1月22日). 2024年1月22日閲覧。
関連項目
ラーマーヤナ アワド太守 表話編歴
ラーマーヤナ ラーマーヤナ ラーマーヤナ
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スタブアイコンこの項目は、インドに関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(Portal:アジア / Portal:ヒンドゥー教 / プロジェクト:南アジア)。
座標: 北緯26.80度 東経82.20度
カテゴリ:ラーマーヤナウッタル・プラデーシュ州の都市インドの古都 最終更新 2024年1月22日 (月) 12:39 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』
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『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
シティ・オブ・ロンドンCity of London
シティおよびカウンティ
シティ・オブ・ロンドン(2019年12月)
シティ・オブ・ロンドン(2019年12月)
シティ・オブ・ロンドンの旗
旗 シティ・オブ・ロンドンの紋章
紋章
愛称: the Square Mile, the City
標語: Domine Dirige Nos
(”主よ我らを導き給え”)
グレーター・ロンドン内におけるシティ・オブ・ロンドン
グレーター・ロンドン内におけるシティ・オブ・ロンドン
座標:北緯51.5155度 西経0.0922度座標: 北緯51.5155度 西経0.0922度
地位 スイ・ジェネリス; シティおよびカウンティ
主権国家 イギリスの旗 イギリス
構成国 イングランドの旗 イングランド
リージョン ロンドンローマ人の入植 紀元後47年頃
(ロンディニウム)
ウェセックス再植民 紀元後886年
区 (Wards)
25区
[表示]
政府
• 議会 シティ・オブ・ロンドン・コーポレーション
• ロンドン市長 Andrew Parmley
• 市書記 John Barradell
• 行政府所在地 ギルドホール
• ロンドン議会議員 Unmesh Desai (Lab) (City and East区選出)
• 英国議会議員 Mark Field (Con) (Cities of London and Westminster区選出)
面積
• 合計 2.90 km2
最高標高
21 m
最低標高
0 m
人口(2011)
• 合計 8,072人
• 順位 325位(全326地区中)
• 密度 2,800人/km2
民族構成 (2011)[1]
• 百分率57.5% イギリス系白人 2.4% アイルランド系白人 0% ジプシー系白人またはアイリッシュ・トラベラー 18.6% その他の白人 0.5% 白人とカリブ系黒人の混血 0.5% 白人とアフリカ系黒人の混血 1.5% 白人とアジア系の混血 1.4% その他の混血 2.9% インド系 0.2% パキスタン系 3.1% バングラデシュ系 3.6% 中国系 2.9% その他のアジア系 1.3% アフリカ系黒人 0.6% カリブ系黒人 0.7% その他の黒人 0.9% アラブ系 1.2% その他の民族
等時帯 UTC (GMT)
• 夏時間 UTC+1 (BST)
郵便コード
EC, WC, E
ONSコード
00AA
市外局番 020
守護聖人 聖パウロ
警察機関 ロンドン市警察
ロンドン交通局ゾーン ゾーン1; コンジェスチョン・チャージ・ゾーン
ウェブサイト cityoflondon.gov.ukシティ・オブ・ロンドン(英: City of London)は、イングランドのロンドン中心部に位置する地区[注釈 1]である。
周辺地域とコナベーションを形成し[3]、現代のメトロポリス・ロンドンの起源となる地域で、範囲は中世以降ほとんど変わっていない[注釈 2]。
単にシティ(The City)、またはスクエア・マイル(Square Mile)とも呼ばれる[4][注釈 3]。
シティの行政はシティ・オブ・ロンドン自治体(City of London Corporation)が執行している[注釈 4]。この自治体の首班はロンドン市長(Lord Mayor of London)である[注釈 5]。2000年に再設置された大ロンドン庁のロンドン市長(Mayor of London)と異なる。
シティは英国のGNPの2.5パーセントに貢献しており[5]、ロンドン証券取引所やイングランド銀行、ロイズ本社等が置かれる金融センターとして[注釈 6]
ニューヨークのウォール街と共に世界経済を先導し[6]、世界有数の商業の中心地としてビジネス上の重要な会合の開催地としても機能している[7][注釈 7]。
1990年代初期に、IRA暫定派がシティ内に複数の爆弾を仕掛けて爆発させる事件が発生した[注釈 8][注釈 9]。
居住する人口はおよそ11,700人だが、金融業を中心に約31万6700人の昼間人口がある[9]。
地理
シティは面積と人口の点でイングランドの典礼カウンティにて最小であり、人口密度は4番目に高い。シティの境界には、市の紋章が描かれた黒いボラードと、ドラゴン境界標(英語版)の像が設置されている[10]。
シティの区割り(2003年以降)
テンプルバーの1849年オリジナルのドラゴン像 テンプルバーの1849年オリジナルのドラゴン像 石炭取引所の1849年オリジナルのドラゴン像 石炭取引所の1849年オリジナルのドラゴン像 Aldersgateの境界ボラード Aldersgateの境界ボラード ドラゴン像の拡大部 ドラゴン像の拡大部
現在のドラゴン像はロンドン市周辺に14体存在しており、オリジナルのままの像は2体で、石炭取引所と。テンプルバー付近に設置されている[11][注釈 10]。
歴史
マグナカルタまで
ローマ人によるブリテン島進出は、紀元前から行われていたが、紀元43年頃に、既にあったローマ人居住地間[注釈 11]の行き来を便利にするためにテムズ川に木造の橋が掛けられた(現在のロンドン橋)。
橋の位置はイングランド南部の比較的海に近い所で、幅・深さも海船が乗り入れるのに十分であり、国内外の物資輸送に好都合であった。
そこで紀元50年頃に川の北岸に居住地を作り、ロンディニウム(Londinium)と名付けた。
町の周囲には城壁が築かれ、ローマ軍が駐屯した。
3世紀末にローマ軍内部で反乱がおき(Carausian Revolt)、4世紀後半には北方のハドリアヌスの長城がケルト人によって破られた。
ブリテン島に軍隊を駐留させる費用は年々大きくなり、410年に皇帝ホノリウスは諸都市に自衛を命じてブリテン島から軍を撤収する決断をした。
6世紀に大陸から渡ってきたアングロ・サクソン人の部族国家が生まれ、七王国時代の幕開けとなった。
紛争が絶えなかったため、シティの市街地は長きにわたってローマ人の残した城壁の外側に広がることはなかった。
シティにおけるキリスト教団の拠点となるセント・ポール大聖堂が607年頃に建てられた。
当時のシティの建物は木造建築が主体で、しばしば火災が発生した。アゼルスタンがデーンロウの奪還に成功し、イングランドの基礎を築いた。
1078年、ウィリアム征服王は、城壁の南東角地に要塞の建設を命じた。これが後のロンドン塔の中核部分となり、イングランドの政治の中心地としての地位が固まった。
12世紀ヨーロッパ人、特に北イタリアのロンバルディア人が移住してきた(ロンバード・ストリート)。
このころシティ議会の原型が生まれた[注釈 12]。
1215年のマグナ・カルタはシティが国際市場化するきっかけとなった。
シティは、1203年までに24区に分けられていたが、1394年にファリントン区(Farrington Ward)が二分され25区となった[注釈 13]。
シティ参事会は各区長で構成され、そこから毎年の長を選んだ[12]。
区長は各区の市議会と行政を担った。参事会と市議会の双方に、同業者ギルドが多くの代表を出した。
国際金融市場の形成
1550年、シティに新しく一区が設けられ、全部で26区となった[注釈 14]。
5年後にモスクワ会社の前身が勅許を得た(Company of Merchant Adventurers to New Lands)。
1570年、トーマス・グレシャムと彼の国際人脈がシティに王立取引所を設けた。
これは欧州アントウェルペンのそれを模したものであった。
銘柄と郵便の国際化により、王立取引所の利便性は向上した。
1592年レバント会社が設立され(Levant Company)、その運営が東方問題を国際経済面で惹起した。
1616年ジョン・リーマン(John Leman)がシティの長となった。
1636年、チャールズ1世の御用金融家(Philip Burlamachi)が政府の手形交換所として中央銀行を構想した。
清教徒革命でシティは、軍事費を徴収されたり、娯楽を規制されたりした。
1666年ロンドン大火でフリート・ストリートが燃えた[注釈 15]。
1672年ホア銀行(C. Hoare & Co)が設立された。1712年、創業者がシティの長となった。
1720年、南海泡沫事件が起こる。
1725年、減債基金を流用していたロバート・ウォルポールのシティ選挙法が、民主的な市議会の決定を富裕な参事会が拒否できる権限を与え非難を浴びた。
1734年イングランド銀行が現住所のスレッドニードルへ移転してきた。
1750年にウェストミンスター橋ができたので、ロンドン橋がテムズ川唯一の橋でなくなった。
それから十数年、モスクワ会社のアンガースタイン(John Julius Angerstein)がシティで青年期をすごした[13]。
1760年、ジョージ3世の即位式に810人のマーチャント・バンカーが参加した。そのうち、少なくとも250人は外国人だったといわれる。
2年後ベアリングス銀行が設立された。
1773年にロンドン証券取引所が誕生した。
翌年ジョン・ウィルクスがシティの長となった。
このころイーストエンドのスラム化が社会問題であった。
シティの人口は1700年時点で20万人超であったが、1801年は13万人であった[注釈 16]。
19世紀初頭の大陸封鎖令に政府が対抗措置をとった。
これが疲弊したイギリス経済に追い討ちをかけた。
1810年マーチャント・バンカーのアブラハム・ゴールドスミッド(Abraham Goldsmid)が自殺した。ベアリングと並ぶ英国債引受者であった。
米英戦争が終わるとシティは世界一の国際金融市場となっていた[注釈 17]。
経済格差と人口流出
1822年10月、ヴェローナ会議で東方問題をめぐる交渉が決裂してイギリスは五国同盟を脱退した。
1823年、シティのブローカー兼ジョバーであったデヴィッド・リカードが死んだ。
1825年の恐慌(Panic of 1825)で、イングランド銀行総裁(Cornelius Buller)と姻戚であったポール・ソーントン銀行(Pole, Thornton & Co.)が中央銀行から支援を得たが倒産[14]、ウィリアムズ・ディーコンズ・バンクとなった。
1837年恐慌では「3W(the three W’s)」と呼ばれた三人のアメリカ人がイングランド銀行の資金注入を受けた[注釈 18]。
彼らは合衆国銘柄を株式公開したり、対米貿易金融のパートナーを募ったりして、非常な人気を博していた。
この1830年代にはスミスフィールドの市に対する課税額が引き上げられた。
1851年、海底ケーブルがドーバー海峡で開通した。
1854年、株式会社銀行がシティの手形交換所(LCH)へ加入することが認められた。以降、20世紀末まで人口減少が止まらなかった[15]。
保険と小口株式が広く資金をよびこみ、その資金が長期投資へ向かった。
シティの経済構造は、クリミア戦争の戦後不況からベアリングス銀行の救済劇までの19世紀後半に周期的な恐慌をもたらした。
シティを周辺地区と合併しようとする議論がおこり、1894年に王立委員会(Royal Commission on the Amalgamation of the City and County of London)が開かれたが、ウェストミンスターの意見変更により合併は行われなかった。
19世紀後半の経済構造は、ドーバー向かいのフランスをはじめとする欧州各国と関係しながら形成された。
シティのマーチャント・バンク事務員は徒歩で混雑に耐えながら通勤し、薄給から各種保険料を払いながら生活していた。
語学力のある通信士は高給取りであったが、しかし彼らの多くは外国人であった。両者の差は生涯賃金だけでなかった。
およそ10年ごとに襲い来る恐慌から逃れる術を分かるかどうかは、語学力や職場環境によったのである。
この経済格差を生じた期間には、スミスフィールドの市とシティの教区墓地が閉鎖となり、乗合馬車と鉄道が順に整備され、昼間人口が増えていった。
ロイズは、泡沫法が1824年に廃止されたことで海上保険業の独占を切り崩されていた(ロスチャイルド#ウィーン体制下)。
1902年、ロイズの家系で主要な引受メンバーでもあったパーシー・バーナンド(Percy George Calvert Burnand)が財政危機に陥った。
イギリスの造船業が19世紀後半にトップシェアを記録しつづけたので、海上保険市場は拡大していた。
建艦競争がドイツ帝国との間に起こることもあった。その陰で、ロイズは静かに凋落し変化していった。
金本位制を離脱するまで
1912年、金融スキャンダルが2件あった。
一つは昨年来ロンドン貴金属市場に参加していたサミュエル・モンタギュー(Samuel Montagu & Co.)というマーチャント・バンクが、イングランド銀行や政府と組んでインドの銀価格を操作して下げたという、タイムズの連載記事となったインディア・シルバー・スキャンダル。
もう一つはグリエルモ・マルコーニを優遇し大英帝国の無線網を構築させ、あまつさえ政府がマルコーニ社の米子会社へ資本参加していたというものであった(Marconi scandal)。
第一次世界大戦のシティは敵国との経済関係に打撃をうけた。
戦後モンタギュー・ノーマンが復旧に活躍した。彼は「シティの法王」とよばれ、また国際決済銀行の一員として金本位制を支持していた。
1924年6月、ノーマンはイギリスを金本位制に復帰させる委員会をつくり、翌月までに9回召集した。参加者は、オースティン・チェンバレン委員長、アーサー・セシル・ピグーやジョン・メイナード・ケインズといった経済学者、元財務大臣ロバート・ホーン(Robert Horne)、レジナルド・マッケナミッドランド銀行(現HSBC)会長、ロンドン手形交換所加盟銀行の代表者各位、商工会議所の代表団、そして経団連(Federation of British Industries)である[16]。
ここまでして金解禁した結果、イギリスは世界恐慌で未曾有の金流出に見舞われた。
1931年9月21日イングランド銀行が金本位制を離脱すると発表した。
1933年ソシエテ・ジェネラルのジョージ・ボルトン(George Bolton)がイングランド銀行の理事となった。
1932年6月イギリスは為替平衡勘定を創設して、過激にポンドを売り、正金とフランス・フランとアメリカ・ドルを買った。
後二者はすぐ兌換した。
これに耐えかねて1933年3月には連邦準備制度も金本位制をやめた。
まるで1月にドイツ首相となったヒトラーから逃れるように、フランス銀行から金が流れ出ていった。1936年9月25日フランスも金本位制を放棄した。
この同日に英米仏三国通貨協定が締結された。
これのためにボルトンやフランス銀行為替取引担当(Charles Cariguel)などの国際金融家が連携をとりあってきた。
この協定は、英仏が自国通貨の対ドル相場を安定させることを条件にアメリカが兌換を継続するというものであり、それまで行われてきた自国通貨の切り下げ競争にピリオドを打ってブレトンウッズ協定の礎となった。
1937年4月、英仏両政府がベルギーのパウル・ファン・ゼーラント首相に協定の実効性確保に向けた研究を依頼した。
英国病の発見まで
第二次世界大戦中の1940年、シティは火災に遭った(Second Great Fire of London)。
ほとんど全ての教会が損壊、そのうち11の教会は再建されなかった。
N・M・ロスチャイルド&サンズは戦中から組織改革をすすめ、1947年、節税を目的に新たな持株会社をつくった上で形式的な株式会社となった。
1950年、シティがウェストミンスターと国政選挙区を統合した(Cities of London and Westminster)。戦中のLLC(London County Council)権限拡大が統合の背景をなした。
1946年、イギリスはケインズの交渉で37.5億ドルの借款を得た(Anglo-American loan)ことと引き換えに、ブロック経済を放棄した。
それまでイギリスは貿易収支の赤字を貿易外収支の黒字で補っていたが、補填できなくなると金・ドル準備が減っていき、借款は世界的なドル不足によりわずか1年9ヶ月で費消された。
ポンドは1958年にドルとの交換性を回復したが[注釈 19]、1968年にシャルル・ド・ゴールの圧力で金の二重価格制が実現するまで値崩れしていった。
そもそもの原因は、1943年に37億ポンドに達したイギリスの対外債務である。
国際協定により対外債務はイングランド銀行に封鎖預金として累積された。
1945年35.67億ポンドに減った。このあとリバウンドして1964年54.76億ポンドに激増した。
1964年から1965年までに国際通貨基金から合計24億ドルを引き出し、また1964年には国際決済銀行と先進諸国から30億ドルの借款を得た。
英国病で保護しきれなくなったフォレスタルは1969年に解体された。
このような時代の1960年に、ボルトンはシティをユーロカレンシー取引市場として再興しようと言い出した。
交換性回復以前からシティにはユーロダラーが出回っていた。ファンド・オブ・ファンズのバーニー・コーンフェルドが営業のため世界を飛び回っていた。
ロンドン特別区として
シティの就業人口(昼間人口の大部分)は1961年に39.5万人であったが、1986年には28万人に減少した。
家賃の高騰が店舗やその他施設を市外へ移動させた[注釈 20]。
1961年から1986年という期間はグレーター・ロンドン・カウンシル(大ロンドン議会)のあった期間と重なっている。初代議長のビル・フィスケ(Bill Fiske)は、イングランド銀行とLLCで活躍した政治家であった。1966年末にポンド十進法化委員会の議長となり、翌年9月に男爵となった。この大ロンドン議会が廃止されてシティをふくむロンドン特別区が権限を回復すると、ビッグバンがスタートしてマーチャント・バンクとストックジョバー(Stockjobber)が次々と買収されていった。
ポンド十進法の採用は、完全な交換性を回復するためのステップであった。
1958年の交換性は、イギリス人と国内企業に保障されなかった。ブローカーとジョバーがそれぞれにカルテルを形成している伝統的な証券市場が生き延びることとなった。
しかしボルトンが育てたユーロカレンシー市場が情報革命という追い風を受けて、シティのジェントルマンに襲いかかった。
1971年ニクソン・ショックがおこり、8年後マーガレット・サッチャーが首相となってすぐポンドの取引規制を全面撤廃したのである。
1986年10月のビッグバンという規制撤廃もジェントルマンの古い聖域に踏み込んだものであった。
しかしブローカーとジョバーの兼業解禁は19世紀に逆戻りする考え方であって、利益相反を既成事実化するところは投信と癒着した米国大資本の手口にそっくりだった。
シティに投下された外資は弱い産業を育てることなく目先の利益を追求したから、経済効果もそれなりだった。
経済
バンク交差点 (Bank Junction) からロンドン金融市場の中心街ロンバード・ストリートを見る。左手に続く。しばしばNYウォール街と比較される。 バンク交差点 (Bank Junction) からロンドン金融市場の中心街ロンバード・ストリートを見る。左手に続く。しばしばNYウォール街と比較される。 フリート・ストリート、2008年。ウェストミンスター区チャリング・クロス(トラファルガー広場)から東に走るストランド (Strand) と西側区境で接続する。 フリート・ストリート、2008年。ウェストミンスター区チャリング・クロス(トラファルガー広場)から東に走るストランド (Strand) と西側区境で接続する。 Daily Express Building, 120 Fleet St, London(アールデコ調のデイリー・エクスプレス旧本社ビル、1932年築。フリート・ストリート [注釈 21]) Daily Express Building, 120 Fleet St, London(アールデコ調のデイリー・エクスプレス旧本社ビル、1932年築。フリート・ストリート [注釈 21]) 213 Strand, London. Date 21 August 2009(ストランドが走る区境界隈は厳密にはシティのテンプル地区 (Temple [注釈 22]) と接するウェストミンスター区オールドウィッチになる。界隈には歴史的建造物 GradeⅡ指定のShell Mex House, 通称"80 Strand"がテムズ河畔に建つ) 213 Strand, London. Date 21 August 2009(ストランドが走る区境界隈は厳密にはシティのテンプル地区 (Temple [注釈 22]) と接するウェストミンスター区オールドウィッチになる。界隈には歴史的建造物 GradeⅡ指定のShell Mex House, 通称"80 Strand"がテムズ河畔に建つ) 画像をクリックして拡大
三大金融市場の一つロンドン金融市場を抱える世界金融の中心地として、ロンドン証券取引所、世界的保険市場かつ法人名たるロイズ、イングランド銀行、2004年までゴールドの値決めをしていた”ニューコート (New Court)”と呼称されるロスチャイルド&カンパニー、スタンダード・チャータード銀行、”イギリス四大銀行”とされるロイズ銀行 (Lloyds Bank) を抱えるロイズ・バンキング・グループが本社機能を置く。
日本法人では野村證券、みずほフィナンシャルグループ、三井住友フィナンシャルグループ、三菱UFJアセットマネジメントなど三菱UFJフィナンシャルグループ等がEMEAの拠点機能を置いている。
2019年に入るとフィナンシャル・タイムズ本社が、テムズ川対岸のサザーク区内から、1980年代まで入居していたシティのブラッケン・ハウス (Bracken House) に戻った。
ブラッケン・ハウスには上記みずほも入居している。
また、ブラッケン・ハウスがあるキャノン・ストリート (Cannon Street) より西側を東西に走るフリート・ストリート (Fleet Street) には、かつて国内新聞各紙が集まっていたため、”フリート街”は国内新聞各紙を指す代名詞ないし換喩になっていた。
そのフリート街に”Daily Telegraph Building”があるが、ルパート・マードック率いるニューズ・コープ傘下ニューズ・インターナショナル(現News UK)で、オフセット印刷普及に反対する旧来型のライノタイプ印刷工が1986年に労働争議「ワッピング争議」(The Wapping dispute [注釈 23]) を起こしてから、デイリー・テレグラフ・グループ本社は西隣ウェストミンスター区ヴィクトリアに移転。その後、カタール王族の投資会社が所有し、ゴールドマン・サックスが入居した[17]。
テムズ川に沿ってシティの東側には再開発事業で造成された新興金融センターの「カナリー・ワーフ」が拡がる。
しかし、2020年のイギリスの欧州連合離脱により、金融拠点をフランクフルト、パリ、アムステルダム、ダブリンなどに移転する動きが加速している[18]。
その他、BTグループ (BT Group) 本社はシティ (81 Newgate St) にある。
GAFAを見ると、シティの北東側至近、ショーディッチのPrincipal Placeには、2017年からAmazon.com UK本社が入居した。Facebookはシティ西側カムデン区との境界界隈ウェストミンスター区のOne Rathbone SquareにUK本社があり、Google UK本社はカムデン区のキングス・クロス界隈にある。対してApple UKは、2021年にテムズ川南岸ワンズワース区バタシー発電所跡に主要本社機能を集約・移転予定。
公共サービス
警察
シティはグレーター・ロンドンのその他の地域を管轄するロンドン警視庁とは別に、独自の警察組織であるロンドン市警察 (City of London Police) を組織している。
ロンドン市警察は、スノーヒル、ウッドストリート、ビショップスゲートの3ヶ所に警察署を有し、813人の警察官と85人の特別巡査、および48人の補助警察官が職務にあたっている。
管轄区域はシティ・オブ・ロンドン全域のみで、イングランドとウェールズにある警察組織としては、管轄範囲と警察官の人員数の点で、共に最も小さい。
イギリスの大多数の警察官は銀色のバッジを着用するが、市警察のバッジは市の紋章を基調とした黒と金の意匠が施されている。
他にも、赤白のチェック柄のキャップバンドや、巡査や巡査部長の制服の上着の袖に着ける赤白のストライプ状の職務用腕章など、イギリスの多くの警察では白黒の配色であるところを、市警察の色である赤白の配色で作られているものがある。市警察の巡査と巡査部長は、徒歩によるパトロールの際、羽飾りのついたカストディアンヘルメットをかぶる。このヘルメットには、イングランドやウェールズの多くの警察用ヘルメットで使用されるブランズウィックスター[19]は付いていない。
消防
シティではセント・ポール大聖堂、オールド・ベイリー(英語版)、マンションハウス、スミスフィールド・マーケット、ギルドホール、その他多くの高層建築を含む、あらゆる建物や場所で火災の危険性がある。
しかし、シティ内にはダウゲートにロンドン消防庁の消防車が一台配備されているのみである[20]。
そのため、シティは周辺の区にある消防署に依存して、火災発生の際は消火活動等の支援を受けている。
統計によれば、シティ内で発生した火災に対応する1台目の消防車は平均で約5分以内に現場へ到着し、要請に応じて派遣される2台目は通報後約5分台後半で到着する。[20]
2006年度にシティで発生した火災案件は1,814件でロンドン32区の中では最小だった。2007年までの4年間は、シティで発生した火災による死者はゼロだった[20]。
教育
「:en:List of schools in the City of London」を参照初等学校(小学校)・中等学校・特別学校(特別支援学校)については、居住人口や学校が少ないため、近隣のイズリントン区、タワーハムレッツ区、シティ・オブ・ウェストミンスター、サザーク区などの学校に通わせている家庭が多い。
また2000年代以降、特に2010年代以降のイギリスの教育政策において、国公立の私立化の過程で「アカデミー」(en)が設けられた。各アカデミーが基金を募る[21]、インデペンデント・スクールの一種になる。
2022年1月現在、国公立の初等学校の39%、中等学校の80%、特別支援学校の43%がアカデミーに転換している[22]。
名所
シティの紋章
歴史的建造物火災、爆撃、そして第二次世界大戦後のロンドンの再開発はシティにも影響を及ぼしたが、著名な歴史的建造物の多くはこれらの災禍から無傷あるいは軽微な損傷にて免れたため、他の都市に比べて再開発の規模は比較的小さかった。
今日まで残存している建築は、以下の通り。
ロンドン大火記念塔(モニュメント) セント・ポール大聖堂 ギルドホール 王立取引所 ジョンソン博士の家(サミュエル・ジョンソンの旧居) マンションハウス シティに点在する教会群多くの教会(英語版)[注釈 24] ジ・オールド・チェシャー・チーズ
また、以下はテンプル地区への激しい爆撃に耐えた著名な建築である。ただし、これらは大規模な改修を受けている。
2キングズ・ベンチ・ウォーク(英語版) ヘンリー王太子の部屋(英語版)
ホルボーンのハイウェイ(Holborn Circus)西部にアルバート公子の乗馬像がある。デビアスのチャールズ・オッペンハイムが贈呈した。その他の著名な現代的高層建築や歴史的名所の数々を以下に示す。
ロンドン塔[注釈 25] イングランド銀行 オールド・ベイリー(英語版) スミスフィールド・マーケット バービカン・エステート(英語版) バービカン・アート・センター セント・ジャイルズ=ウィズアウト=クリップルゲート シティ・オブ・ロンドン・スクール(英語版) シティ・オブ・ロンドン女子学校(英語版) 法曹院[注釈 26] ロンドン・ストーン ロンドン・ウォール ロンドン博物館(英語版) ロンドン橋 ニューゲート監獄 ロンドン波止場 セント・バーソロミュー病院 セント・バーソロミュー・ザ・グレート教会 テンプル・バー(英語版) テンプル・オブ・ミトラス(英語版) テンプル教会超高層建築物
また、多くの高層建築物や超高層建築物がシティ内に存在し、主に金融ビジネス部門に利用されている。これらのほとんど全てはシティの中でも金融の中心である、スクエア・マイルの東側に集中している。それに比べてシティの北部にはバービカン・エステートの3つの居住用タワーと商業用のシティポイント・タワーが立つ小規模なビル群があるのみである。
シティ・オブ・ロンドン内で最も高い建築物の年表を以下に示す[注釈 27]。
名称
最高の高さを誇った期間
高さ(メートル)
高さ(フィート)
階数
ザ・リーデンホール・ビルディング 2014- 225 737 48
ヘロンタワー 2010-2014 202 663 46
タワー42 1980–2010 183 600 47
シティポイント 1967–1980 122 400 35
セント・ポール大聖堂 1710–1962 111 365 n/a
セント・メアリー・ラ・ボウ教会 1683–1710 72 236 n/a
ロンドン大火記念塔 1677–1683 62 202 n/a
サザーク大聖堂 1666-1677 50 163 n/a
旧セント・ポール大聖堂 1310-1666 150 493 n/a
ホワイトタワー 1098-1310 27 90 n/a現在シティ以内に立地している高さ100 m以上の建築物は以下の通り。
順位 名称 竣工 用途 高さ 階数 住所
メートル フィート
1 リーデンホール・ビルディング (“チーズグレイター”) 2014年 オフィス 225 737 48 リーデンホール・ストリート122番地
2 ヘロンタワー 2010年 オフィス 202 663 46 110 ビショップスゲート
3 タワー42 1980年 オフィス 183 600 47 オールド・ブロード・ストリート25番地
4 30セント・メリー・アクス(”ガーキン”) 2003年 オフィス 180 590 40 セント・メリー・アクス30番地
5 ブロードゲート・タワー 2008年 オフィス 164 538 35 ビショップスゲート201番地
6 20フェンチャーチ・ストリート (“ウォーキー・トーキー”) 2014年 オフィス 160 525 37 フェンチャーチ・ストリート20番地
7 シティポイント 1967年 オフィス 127 417 36 ロープメーカー・ストリート
8 ウィリス・ビルディング 2007年 オフィス 125 410 26 ライム・ストリート51番地
=9 クロムウェル・タワー 1973年 居住用 123 404 42 バービカン・エステート
=9 ローダーデール・タワー 1974年 居住用 123 404 42 バービカン・エステート
=9 シェークスピア・タワー 1976年 居住用 123 404 42 バービカン・エステート
12 セント・ヘレンズ (“アビバ・タワー”) 1969年 オフィス 118 387 28 セント・メアリー・アクス、アンダーシャフト
13 “ザ・ヘロン”[23] 2013年 居住用 112 367 35 バービカン、ミルトン・コート
14 セント・ポール大聖堂 1710年 教会 111 365 n/a ルドゲート・ヒル
15 99ビショップスゲート 1976年 オフィス 104 340 26 ビショップスゲート99番地
16 ストック・エクスチェンジ・タワー 1970年 (2009年再建) オフィス 100 328 27 オールド・ブロード・ストリート125番地シティ内で100 mを超える建築物または構築物のうち建設中あるいは建設が予定されているものを以下に挙げる。
名称 高さ 階数 住所 用途 状況
メートル フィート
ザ・ピナクル (“ヘルター・スケルター”) 288 945 63 ビショップスゲート22-24番地 オフィス 建設中
100ビショップスゲート 172 564 40 ビショップスゲート100番地 オフィス 建設地検討中[24]
ヘロン・プラザ 135 443 44 ビショップスゲート128-140番地 ホテル/居住用 建設地検討中[25]関係者
居住その他ゆかりある人物
「フリート・ストリート#著名な住人」を参照
ウィリアム・ハーヴェイ(解剖学者、医師。血液循環説) - 1604-1639年の期間、ラドゲイト・ヒル (Ludgate Hill) 界隈の St Martin's Church 境内に居住。 サミュエル・バーチ(英語版)(軍人) - ラドゲイト・ヒル (Ludgate Hill) 界隈に居住。アメリカ独立戦争時の大陸派遣イギリス軍唯一の竜騎兵連隊の連隊長。のち陸軍少将。 ネイサン・メイアー・ロスチャイルド(ロンドン・ロスチャイルド家の祖) - 1809年、一族の金融事業を商うため、ニューコート(2 New Court Street)、及びセイント・スウィジンズ・レーン(St Swithin's Lane)を賃借し、現在のロスチャイルド&カンパニーの基となる。1824年、ネイサンは保険会社 Royal & Sun Alliance (現 RSA Insurance Group) を設立した。
出身者
脚注
注釈
^ 現在、「ロンドン」の名はシティ・オブ・ロンドンに留まらず、より広範な地域を指して用いられており、もとの区域はしばしば単に「シティ」として知られるようになった。この用法は16世紀の記録にまで遡ることができる。その記録には、「シティ(“The City”)は通商と金融のコミュニティの象徴でもある」と記載されている。この前後には、シティが口語的にスクエア・マイルとして知られていたことも著述されている[2]。現代における「ロンドン」は、シティ・オブ・ロンドンと同様にシティ・オブ・ウェストミンスターなど32の区を抱える、おおよそグレーター・ロンドンの範囲に相当する広範囲のコナベーション地域を指す単語となっている。 ^ 約1マイル四方(厳密には1.12 sq mi (2.90 km2)) ^ これらの語は金融街としての安定したシティの長い歴史とも相まって、しばしばイギリスの金融業界を指す。 ^ これは英国内でも独特の制度であり、シティの区画境界を越えて権限や所有権を有する事項もあるなど、イギリスの地方自治制度としては一般的でない部分も少なからず含まれる。 ^ シティ・オブ・ロンドンの市長は、任期が1年であり、毎年9月29日のミカエル祭に選挙が行われる。自治都市の伝統から、英国国王がシティー内に立ち入る際には市長の許可を必要とするほどの格式を誇るが、実際は名誉職にすぎない。シティの市庁舎はギルド・ホールと呼ばれる。 ^ 他に、シティから東に4.0 km (2.5 mi)離れたカナリー・ワーフもロンドンの主要な金融地区である。 ^ シティは国際的な原料カルテルの化石である。銅や錫などの国際相場もここで決められる(London Metal Exchange)[8]。 ^ リング・オブ・スチールはIRAによる爆撃などテロリストの脅威への対抗策として開発された特に有名な方法である。 ^ 2004年5月にBBCのニュース番組「Panorama」において、2001年の米同時多発テロに匹敵する規模のテロ攻撃に対するイギリスの警察や消防などの緊急時対応機関の準備体制を調査したところ、シティ東部のビショップスゲートで化学薬品による爆破事件が発生するとのシミュレート結果が出された。 ^ 設置場所マップは https://wikimap.toolforge.org/?cat=City_of_London_Dragon_boundary_marks&subcats=true&subcatdepth=1 参照 ^ コルチェスターやセント・アルバンズ、リンカーンなど ^ 12世紀末にヘンリー・フィッツ・エイルウェン(Henry fitz Ailwin)がシティの長となった。 ^ 1348年のペスト流行でシティの人口は1/3に減った。 ^ このとき新設された区は1978年に廃止された。 ^ クリストファー・レンがシティ52教会の再建を指揮した。政府の都市計画は衛生面での実行が不十分であったが、美観を追及した建築規制だけは敷かれた。 ^ いわゆる土地貴族がラッセル・スクウェアやレスター・スクウェアといった、ウェストミンスターを中心とする街区を開発した。 ^ 19世紀初頭にドックが次々と建設され(West India Docks, East India Docks, etc.)、1801年にはロンドン証券取引所がシティ内のカペルコート(Capel Court)に移転した。 ^ 3Wの一人はトーマス・ウィルソン(Thomas Wilson)。後にアーサー・ウェルズリーと姻戚関係となる。他の二人を英名で示す(Timothy Wiggin, George Wildes)。 ^ ただし外国人・外国企業が対象。 ^ シティ内のバービカンでは再開発が進んだ。 ^ 現在の本社は、同じシティ内南東端、テムズ川沿いロンドン橋界隈のビリングスゲート (10 Lower Thames Street, Billingsgate)にある。ビリングスゲートは、大型魚市場や、1964年映画『メリー・ポピンズ』収録曲「古い鎖を断ち切って」(Sister Suffragette) (英語 - YouTube)で知られている地区。 ^ テンプル地区界隈は、王立裁判所、インナー・テンプルとミドル・テンプルの2つの法曹院などがある法曹街になる。北側至近はキングスウェイで接続するカムデン区ホルボーン界隈になり、残り2つの法曹院や大英博物館、ロンドン大学本部などがある。 ^ 「ニューズ・コーポレーション (1979-2013)#歴史」「インデペンデント#歴史」なども参照。 ^ その多くはセント・ポール大聖堂の設計でも知られるサー・クリストファー・レンの作 ^ ロンドン塔の位置は正確にはシティ内ではないが、シティの南東部に多くの観光客を呼び込む名所の一つとなっている。 ^ シティ内にあるがリバティと呼ばれる独立した自治体の地位を有する。シティの西部、特にテンプル地区とチャンスリーレーン地区では法曹界が主体となっている。 ^ ホワイトタワーとサザーク大聖堂は厳密にはシティの公式な境界の外にある。
出典
^ 2011 Census: Ethnic group, local authorities in England and Wales, Office for National Statistics (2012). See Classification of ethnicity in the United Kingdom for the full descriptions used in the 2011 Census. ^ Mills, AD (2001). Dictionary of London Place Names. Oxford ^ Beckett, J V (2005). City status in the British Isles, 1830–2002. Historical urban studies. Aldershot: Ashgate. p. 12. ISBN 0-7546-5067-7 ^ “City of London Resident Population Census 2001” (PDF). Corporation of London (2005年7月). 2011年6月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年4月10日閲覧。 ^ “Key facts”. Cityoflondon.gov.uk. 2012年6月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月30日閲覧。 ^ “Global Financial Centres 7”. Z/Yen (2010年). 2010年4月21日閲覧。 ^ Dunton, Larkin (1896). The World and Its People. Silver, Burdett. p. 24 ^ 地理用語研究会 編(2004):157ページ ^ “Research and statistics FAQ”. The City of London. 2011年9月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年2月23日閲覧。 ^ ウィキメディア・コモンズには、シティ・オブ・ロンドンに関するカテゴリがあります。 ^ “City of London Boundary Dragons”. www.seiryu.org.uk. 2020年4月23日閲覧。 ^ 14世紀後半から15世紀初頭にかけてはリチャード・ウィッティントン(Richard Whittington)がしばしば長となったが、なんとカレーのそれも兼ねることがあった。 ^ David Kynaston, City of London: The History, Random House, 2011, p.3. ^ Murray Newton Rothbard, An Austrian Perspective on the History of Economic Thought, vol.1, "Economic Thought Before Adam Smith", Ludwig von Mises Institute, 2006, p.227. ^ ウィキペディア・コモンズにグラフがある。右上の検索欄に斜体字をコピーアンドペーストすれば飛べる。File:Population of the City of London over time.png ^ Nahid Aslanbeigui, Guy Oakes, Arthur Cecil Pigou, Springer, 2015, p.120. ^ “Wework eyes Goldman Sachs Fleet street HQ for next site | Evening Standard”. Standard.co.uk 2021年3月31日閲覧。 ^ 混乱やリスク回避へ対応急ぐ 英国のEU離脱、日系企業への影響は?金融機関は拠点をEU内へ。製造業もリスク回避の動き。 週刊東洋経済「第2特集 誤算に次ぐ誤算のブレグジット騒動」2019年3月23日号、藤原宏成(東洋経済記者) ^ 一つの使用例として、ロンドン警視庁の旗が挙げられる。 ^ a b c “London Fire Brigade - City of London Profile”. London-fire.gov.uk. 2007年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年10月30日閲覧。 ^ “Academy and free school funding agreements”. Department of Education, UK Government (2020年12月1日). 2023年3月閲覧。 ^ Department for Education (2022年1月). “Schools, pupils, and their characteristics (Official Statistics)”. Schools, Pupils and their Characteristics. 2022年6月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年3月閲覧。 ^ Skyscrapernews.com Milton Court ^ Leytonstonia Great Portland Estates aims for 100 Bishopsgate construction start in 2011 ^ Skyscrapernews.com City of London Approves Heron Plaza
参考文献
地理用語研究会 編『地理用語集』山川出版社、2004年3月30日、337pp. ISBN 4-634-05790-5
外部リンク
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Corporation of London, シティの行政機関 Museum of London Visit the City, シティの観光案内その他
CityMayors.com profile of Corporation London, VisitTown.com地図
Ward boundaries map, Corporation of London Street map 表話編歴ロンドン
表話編歴
イギリスの旗 イギリスのシティの一覧
表話編歴
イングランドのカウンティ
表話編歴
証券取引所(金融商品取引所の一業態)
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カテゴリ:シティ・オブ・ロンドングレーター・ロンドンロンドンのシティロンドンの地区金融街ロンドンの経済ロンドンの地方自治中心業務地区イングランドの都市イングランドの州典礼カウンティイングランドのディストリクトイギリスの経済史 最終更新 2023年8月24日 (木) 07:48 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』











