債務名義の話し(その3) ー そして、連帯保証の怖さ

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「強制執行認諾文言(執行受諾文言)付き公正証書」とか、聞いたこと無い
かも、だな。
「公正証書」くらいは、あるいは聞いたことあるかもだな。
世の中には、一定の事実や法律関係について、公に「確かに、そうなって
いる」と認証して欲しいという需要が存在している。
訴訟のように、当事者が徹底的に主張・立証を尽くして、その結果が「判決」
という裁判所の判断となった、という程度に至らなくても、ある程度の確実性で
公権力を背景に一定の判断が示されていれば、当面はそれに従っていれば、まあ
それほど間違いは生じないからだ(何か問題が生じれば、「訴訟」で決着すれば
足りる)。
そこで、「公証人」制度と言うものを設定し、運用している。
「公証人(こうしょうにん)とは、ある事実の存在、もしくは契約等の法律行為
の適法性等について、公権力を根拠に証明・認証する者のことである。
日本においては公証人法に基づき、法務大臣が任命する公務員で、全国各地の
公証役場で公正証書の作成、定款や私署証書(私文書)の認証、事実実験、確定
日付の付与などを行う。2000年9月1日現在、日本全国で公証人は543名、公証
役場数は299箇所ある。」と言ったものだ。
どんな人が職に就いているのかというと、
「公証人法の原則からすると、公証人には、公証人試験に合格した後、公証人
見習いとして6ヶ月間実施修習を経た者から、法務大臣が任命することになって
いる(公証人法12条)。
しかし、公証人法に定める試験は実施されたことがない
(「公証人規則」時代は試験記録が残されている)。公証人法には他の資格試験
のように「1年に何回以上試験を行わなければならない」という規定がないため、
下記の法曹・学識経験者から任命されることが、慣習として定着している。
公証人は、司法試験合格後司法修習生を経て、30年以上の実務経験を有する
裁判官(簡易裁判所判事は除く)、検察官(副検事は除く)、弁護士、および
法務局長経験者から任命される。これらの者の場合は、試験と実地修習は免除
される。
高等裁判所、地方裁判所および家庭裁判所の裁判官の定年は65歳だが(裁判所法
第50条)、公証人は70歳まで勤務することができるため裁判官、検察官、および
法務省を退職した後に就くことが多い。1989年度は、全国530人の公証人のうち、
判事経験者150人、検事経験者240人、法務局長など法務省職員OBが140人を占め、
弁護士出身者は1人しかいない。」と言った感じだ。
まあ、一定の法務省の覚えがめでたいヤメ判やヤメ検やヤメ法務省職員の中
から、退官後に任命して、一定の報酬を保証して退官後の生活の面倒をみる、と
言った感じか。
待遇に関しては、「公証人は公務員だが、指定された地域に自分で役場(公証
人役場)を開き、書記らを雇って職務を遂行する。国家から俸給を得るのでは
なく、依頼人から受け取る手数料が収入源の独立採算制である。手数料は公証人
手数料令(平成5年政令第224号)で定められている。当然、扱い件数の多い東京
や大阪などの大都市では、年収3,000万円を超える公証人も多数存在する。」と
言った感じで、大都市の公証人になると手数料収入で結構オイシイものらしいな。
※※では、※※近くの※※地方法務局の建物の向かいに司法書士が何人か
事務所をかまえているビルがあって(ビルの名前までは、知らない)、そこに
「公証人役場」という看板が出てる。だから、そこに「公証人」が居るん
だろう。
こういう公証人が公証役場で作成したものが、「公正証書」だ。公証人は、
公務員の一種なんで、文書の性質は「公文書」となる。
金銭消費貸借契約書を公正証書として作成しておくと、その内容は公証人が
認証したものとなるので、証拠力としては強力だ。
さらに、「債務者は、本証書記載の金銭債務を履行しないときは直ちに強制
執行に服する旨陳述した」との一文を加筆したものが、「強制執行認諾文言付き
公正証書」となる。単に、一定の金銭債務を負っている旨だけでなく、支払わ
ない場合は強制執行されても異存は無い旨が認証されているので、さらに強力な
ものとなる。
こういう文書が執行機関に提出されると、執行機関としては、債権・債務の
存否の争いに関わること無く執行しても問題ないはずなんで、直ちに執行する
ことにしてある。
世の中には、こういうものも存在している。よく問題になったのは、連帯保証
人と執行認諾文言付き公正証書のコンボだ。
まず、「保証人」について少し説明する。
「保証人について、民法446条では「保証人は、主たる債務者がその債務を履行
しないときに、その履行をする責任を負う」と定めている。簡単にいうと、保証人
は債務者が借金を返さない場合のみ、借金を肩代わりする義務を負うわけだ。
この場合、取り立ての順番は、債務者が先、保証人が後だ。
この順序がおかしくならないように、保証人には2つの権利が認められている。
まず「催告の抗弁権」(民法452条)。これは保証人が借金の肩代わりを求められ
たとき、債権者に対して「借金した本人が破産したり行方不明になっていない
ので、保証人より先に本人から取るべき」と抗弁できる権利をいう。もう一つは、
「検索の抗弁権」(民法453条)。これは「借金した本人に財産や収入があること
を証明するので、まず本人から取るべき」と抗弁できる権利だ。
その他、保証人には「分別の利益」(民法456条)も認められている。これは
保証人が複数いる場合、保証人は債務額を人数で割った金額までしか保証しなく
てもいいという決まりだ。」
どれも、まあ常識的な話しで、普通の人でも分かる話しだ。
ところが、「連帯保証人」となると、話しが違ってくるんで、要注意だ。
「連帯保証になると、あたりまえのことが通用しなくなる。連帯保証人には、
催告の抗弁権や検索の抗弁権がない(民法454条)。つまり借金した本人に支払い
能力があっても、債権者は連帯保証人に返済を迫ることができる。また過去の判例
では、複数の保証人がいても、債権者は一番取りやすそうな一人に借金をすべて
肩代わりさせることもできる。
こうなると、連帯保証人が背負う責任は、借金した本人とほとんど変わらない。
メリットはないのにリスクだけは目一杯背負う。それが連帯保証の怖さだ。」と
いうことになる。
まとめて言い換えると、本来の保証人から、催告の抗弁権・検索の抗弁権・
分別の利益を排除したものが「連帯保証人」だ、ということになる。
なんでそんなものを法が認めているのかというと、物的な担保(土地や建物、
価値のある動産なんか)を準備できない人でも、財産を有している人を探し出し
て融資を受けることを可能にするため、という目的だ。前にも言ったように、
財産法関係は私的自治の原則が適用されるから、その人が了解しているならば、
法はあまり介入しないという建て前で運用されているんだよ。
だから、連帯保証契約を公正証書で作成し、そこに強制執行認諾文言を入れ
られると、本来のお金を借りた人(主債務者)に財産があろうと、直ちに自分の
財産に強制執行されても文句は言えない、ということになる。
「そういうことは、知りませんでした…」と言ったところで、「勉強不足で
したね」で終了だ…(前にも、同じようなことを言ったことあったよな)。
だから、「連帯保証人」には、即時に自分の全財産に強制執行を掛けられても
異存は無い、という場合しかなってはいけない。そういう覚悟があって初めて
なるものだ。その結果、全ての財産を失ってスッテンテンになることもある
かも…だ。

『強制執行と債務名義の話し』(その2)

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強制執行に至るには、大きく分けて「民事訴訟手続」と「民事執行手続」とい
う二段階構成になっているという話しは、した。
民事執行手続きは、債権・債務の存否の「争い」から切り離して、一定の文書
が執行機関に提出された時は、有無を言わせず執行するという建て前にしている。
そう言う強制執行が開始される契機(キッカケ)となる文書のことを、「債務名義(さいむめいぎ)」と言う。
まあ、債権債務が確かに存在していることを証明している文書、と言ったような
意味だ。
最も代表的なものは、「確定証明書付き判決正本」だ。
「判決」は、一般用語なんで説明の必要もなかろうと思うが、裁判所に訴状を
提出して訴訟が開始され、ガチャガチャ訴訟手続が進行していって、最後に原告
の請求の当否について裁判所が判断を下したものだ。原告の勝訴の場合は、「被
告は原告に金○○円を支払え。」とかなるし、原告敗訴の場合は、「請求を棄却
する」となる。
「正本(せいほん)」と言うのは、こういう裁判所が下した判決の「原本(げ
んぽん)」は、1個しかなく、厳重に裁判所に保管されている。そういう「原本」
を、裁判所外に持ち出す訳にはいかず、しかしそれだと何かと不便なので、法律
的には原本と同じ効力のある写しを作成して、それで用を足すことにしてある。
こういうものを、「正本」と言う。
「確定証明書付き」と言うのは、日本の裁判制度は、基本的に三審制だ。しか
も、事実審(法律効果の存否に関わる、事実関係を争う審理手続き)を二回まで
はやっても良いことにしてある。
実体法というものの構造は、「法律要件」と「法律効果」で構成されている。
一定の「法律要件」が充足されると、一定の「法律効果」が発生すると実体法の
条文は記述されている。
例えば今まで金銭債権の代表みたいに記述してきた、金銭消費貸借による金銭
債権については、民法587条に条文があって、
「第587条 消費貸借は、当事者の一方が種類、品質及び数量の同じ物をもって返
還をすることを約して相手方から金銭その他の物を受け取ることによって、その
効力を生ずる。」と規定されている。
「法律要件」として分析すれば、
1、当事者の一方(借り手)が
2、種類、品質及び数量の同じ物をもって返還をすることを約して
3、相手方(貸し手)から金銭その他の物を受け取ることによって
消費貸借契約が成立して、効力が生じるということになってる訳だ。
だから、貸し借りの対象物は、別に金銭に限らず、「種類、品質及び数量の同
じ物をもって返還をすること」が可能なものであれば、成立する契約だというこ
とになる。まあ、米の貸し借りや、灯油の貸し借りなんかが考えられるのか
…。実際には、金銭消費貸借以外に判例なんかで見たこと無いけどな…。
それと、目を引くのは、「金銭その他の物を受け取ることによって」成立する
と規定されている点だ。こういう、単なる約束(契約)の他に物のやり取りを必
要とする契約を、「要物(ようぶつ)契約」と言う。
だから、この観点からは、天引き契約(100万円を貸し付けたことになって
いるが、実際には利息の天引き(前払い)とか言って20万円を差し引いて、8
0万円しか渡さない。契約上は、100万円貸したことになっていて、利息も1
00万円を基準にして計算する、と言ったもの)が問題になる。確か、判例があ
って(オレも、大昔にやった話しなんで、もはやうろ覚えだ)、契約は100万
円として成立させ(無効ではない)、利息の計算で加算して(天引きされた20
万円は、利息の支払いとして計算する)解決してたはずだ。
こんな風に、実体法の構造が、法律要件 → 法律効果 となっていることから、
債権・債務(権利関係)の存否を巡る争い(訴訟)は、一定の法律要件該当事実
を主張し、それを相手側が争えば、証拠をもって証明していく、というものにな
る。
例えば、100万円の金銭を貸し付けたんで、支払えと主張する場合は、
1、何月何日に100万円の金銭を1年間貸し付ける旨の契約を締結し、
2、利息年5%を付けて返還すると約束し、
3、その時、確かに金100万円を引き渡した
4、しかるに、1年後の何月何日になっても、支払いがなされていない
5、よって、元金100万円と利息1年分の5万円と支払われるまでの遅延損害
金年5%分を請求する、なんてな訴訟を提起して、支払いを請求していく。
被告の方は、契約締結は代理人名義でされているようだが、そもそも、その代
理人として表示されている者には、代理権が授与されていないとか、金は受け取
ったが、借りたものではなく、こっちが貸してた金の支払いを受けたものだとか、
果ては、仮に金銭消費貸借が有効に成立したとして、既に時効(消滅時効)が成
立している、とかいろいろ主張する訳だよ。
そうやって、被告側に争われると、原告としては、契約書を提出したり、銀行
通帳を提出したり、証人を呼んだりして、いちいち立証していく訳だよ。
そういうのが、訴訟手続だ。
裁判所としては、争点を整理して、争いとなっていることを明確にして、期日
を指定して、あらかじめ準備書面(期日にいきなりある主張をされても、即時に
対応できない場合があるんで、主張・立証を書面で準備させる、ということを行
う)を提出させたりして、期日を重ね、判決に熟したと判断した場合は、判決期
日を指定して原告・被告を呼び出して、判決を言い渡す、という段取りになって
いる。
だから、大変なのは、「債務名義」を獲得するまでの訴訟手続の方だ。長く掛
かる場合もある。数年に及ぶ場合もある。
こういう法律要件該当事実の主張・立証を行う審理手続きを「事実審」と言い、
日本の裁判制度では、2回までやっても良いことにしてある。
だから、第一審(1回目の裁判)で判決が出されたとしても、控訴されると、もう一回事実関係を争えるんで、その判決はまだ確定していない、とされる。
一審判決が出されてから、二週間以内に控訴しないと判決は確定すると定めて
いるんで、二週間経っても控訴されないで、初めて判決は「確定」することにな
る。
そういう事情は、裁判所の職員である裁判所事務官が精通しているので、請求
すれば「確定証明書」ってのを判決正本に付与してくれることになっている。
こういう証明書が付いたのが、「確定証明書付き判決正本」というもので、こ
れを執行機関に提出すると、有無を言わせず強制執行が開始されることになって
いる。
強制執行を開始させることのできる文書である「債務名義」は、まだいろいと他にもある。
興味があったら、まあ、ここら辺でも見といて。
( https://saimu4.com/attachment/24194/ )

『強制執行と債務名義の話し』(その1)

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ここまで、簡単に金銭債権を持っていると、すぐにも強制執行を掛けて、債務
者(金を借りてる人)の財産を強制的に換金できるような感じで記述してきた。
しかし、そう簡単な話ではない。
と言うのは、「私は、○○さんに対して金銭債権を有しています(100万円
のお金を貸しています)。」と言ったところで、本当かどうか分からないからだ。
さらに、その話が本当だとして、実際に強制執行を制度として運用していく
には、迅速に、しかも債務者(金を借りてる人)に知られないように執行していく
(強制執行の「密行性」と言われる)必要がある。債務者が、財産を隠したりして
執行されることを妨害することも、予想されるからだ。
そこで、本当に金銭債権なんかを有しているのか確定する手続きと、確定した
場合に実際に強制執行を実現していく手続きを別々にして、それぞれ制度を組み
立てている。
前者が「民事訴訟手続」で、後者が「民事執行手続」だ。それぞれ、「民事
訴訟法」と言う法律と「民事執行法」と言う法律で、主に規定されている
豆知識として、あの三島由紀夫(本名「平岡公威(ひらおかきみたけ)」)
は、学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となった。後に、東大法学部に進学
し、独法(ドイツ法)を専攻したという変わり種だ(親父は、高等文官試験合格の
内務官僚だ)。
『東京大学法学部に在学中、團藤重光(だんどうしげみつ)(※ 戦後、刑事法の
大斗。戦後の刑事訴訟法は、この人が作ったと言われている。最高裁の裁判官も
務めた。2012年6月26日に死去(98才だった))から刑事訴訟法を学び、その
論理的な体系に大きな感銘を受けたのは有名な話だ。
一方、團藤のほうは、三島が刑法も学んでいれば、あのような最期とはなら
なかっただろうと語っている。論理性を貫徹できる手続法と現実の問題に直面する
実体法とは、確かに異なる。…
観念の世界では、論理をいかようにも駆使できる。しかし、現実の世界は非合
理に満ち溢れ、人々はそれと向き合い、なんとか折り合いをつけて生きている。
論理によって現実を完全に支配しようとするのは、無謀で破滅的な行為である。
…』という話しもある。紹介しとくぞ。
まあ、民事訴訟法の方は、民事法関係全体が「私的自治の原則」ってのに貫か
れていて(要するに、自分の財産関係は自分が自由に処分できるという原則だ)、
刑事法関係と比較すると、相当弾力的なんだがな。それが、手続法たる民事訴訟
法にも反映されていて、ゴリゴリの杓子定規なものでもない。だから、精緻な
論理性で組み立てられている、という程のものでもない。三島も、民事法をやれば
良かったのにな…。

『債権と物権、そして奴隷制の話し』

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債権と言うのは、「一定の行為をすることを、要求できる法律上の地位」と言った感じのものだ。。
例えば、人にお金を貸したとする。当然、「返せよ」と言える(金銭債権を有している状態だ)し、返さなければ強制執行を掛けて、その人の財産を差し押さえて、無理やり換金することができる。
しかし、不動産(まあ、土地だな。建物も不動産だが、競売するとなれば、二束三文だ。あまり高くは競売できない。築30年以上だと、却って解体費用が掛かったりする)に「抵当権」が設定されていると、競売した時に、まず抵当権の方(抵当権付きの金銭債権)から、充当していくんだよ(債権しか持ってない人は、後回しにされてしまう)。
抵当権って、「担保物権」だ。前に「賃借権」の説明のところで、「物権は、債権を破る(物権は、債権に優先する)」ってことを説明したと思うが、担保物権も物権の一種で(金銭債権の担保のための物権で)、一般の金銭債権に優先するという風に法律上構成されてる(そう取り決められてる)んだよ。
物権(物に対する直接の支配権)の親玉は、「所有権」だ。この所有権と言うものは、すべての「物権」の源泉だ。所有者は、その物を煮て食おうと焼いて食おうと自由だ。破壊して廃棄することも、認められている(建物所有者は、建物を解体して木材にして、それを売り飛ばしても、自由だ)。
土地の所有権を有していると、その土地を自由に利用できる。他人に所有権の権能の一部を与えることも、自由だ。
例えば、土地の利用権を与える(「地上権」という物権を設定する)ことも自由だし、「抵当権」という担保物権を設定することも、自由だ。
担保物権という物権は、ちょっと分かりにくいが、要するに普段は今まで通り、所有者(金を借りてる人)が自由に使っていても良いが、いざ借りた金を返さないとなれば、競売に掛けて換金して、そこから優先的に支払いを受ける権利をキープしている、と言った物権のことだ。
イメージ的には、「所有権」(物権の親玉)を有していると、様々にその権能の一部を切り出して、その一部を他人に与えることができる。切り出された権能の一部(所有権の権能の一部が制限されているようなものなんで、「制限物権」と言ったりする。所有権の権能の一部しか備えていない点からは、「一部所有権」とも表現できようか…)は、「物権」としての性質を有していて、純粋の債権に優先する、と言った感じか…。
ただし、「どんな物権を切り出すのか」は、自由にはできない。物権の種類は、決められていて(一定の型が法定されていて)、自分で勝手に”型”を作り出すことは、できない(「物権法定主義」と言う)。
物権は、強力な(約束ー契約ーしていなくても、その支配を脅かす他人に対しては、それが誰であっても主張できる)権利だから、みんながそれぞれ勝手な”型”を作り出すと、収拾が付かなくなるんだよ。それで、予め「型」を決めといて、「こういう物権は、こういう権利」と言うことを決めておくことにしてある。
そもそも、何で物権が債権に優先する(と取り決められている)のか、と言えば、物権が物に対する「直接の」支配権と構成されているからだ。
「直接の」と言うのは、「人を介さないで」という意味だ。
これに対して「債権」は、約束したその人に対してしか主張できない権利と構成されている。貸した金返せよ、と言えるのは、借りた人(返すと約束した人)に対してだけしか、主張できない。
これが物権だと、物を直接支配してる権利だから(法律上、そういう風に構成されている)、その物に対する様々な権能を脅かす全ての人に対して主張できる。
例えば、土地の所有者は、その土地を不法に占拠してたりする人全てに対して「オレの土地からどけよ」と主張できる。何らかの約束を、していなくてもだ。
こういう風に、物に対する支配と人に対する権利と二本立てで処理をしていくやり方は、実は人に対する、人の人格に対する尊重でもあるんだよ。
物は人格を有しないから、煮て食おうと焼いて食おうと自由にしても良いが、人に対しては、そうは行かない。あくまで、約束をベースにして、約束したから権利を主張できる(「約束したから、約束したことを守れよ」と言える)と言う風にしてあるんだよ。
こういう処理に至るまでには、長い歴史が掛かっている。人類の歴史上、人を物のように扱うということは長く行われてきた。「奴隷制」なんてのは、その典型だ。「奴隷」は人では無く、物に近いものとして、(法律上は)処理されてきた。
アメリカ南部の奴隷制は、南北戦争で北軍が勝利するまで続いたんだぞ(1865年に終結だ。たかだか、153年前の話しだ。日本で言えば、幕末のペリー来航の後の話しだ。
1865年は慶応元年で、「5月に土佐勤王党の頭目・武市半平太が処刑される。
坂本龍馬が薩摩藩の支援を得て、亀山社中を設立する。」なんてな出来事が起こっている。薩長同盟の成立は、翌1866年だ。だから、そんなに大昔の話しじゃないんだよ。
ローマだって、奴隷制に立脚してる。「自由人」と「奴隷」の厳然とした区別があった。「剣奴」なんてものも、存在した。「スパルタカスの反乱」とか、聞いたことあるだろ?
ギリシャも、奴隷制に立脚している。労働は、ほぼ奴隷任せだった。だから、ソクラテス・プラトンのギリシャ哲学も、奴隷の労働無しには成立しなかった。労働は奴隷任せだったから、自由人は思弁的な思考に集中できたという訳さ。
スペイン・ポルトガルの南米での植民地支配も、現地人(インディオとか、インドでも無いのに「インド人」とか勘違いで呼んでた)を人扱いしなかった。キリスト教(カトリック)も、そういうことに加担した。
日本でも、九州のキリシタン大名の一部が、鉄砲の火薬に必要不可欠な硝石欲しさに、自国の領民をほぼ奴隷として売り飛ばした(女子、それも若い女子が喜ばれたー商品価値が高かった)。
帝政ロシアの農民は、「農奴」とも評価されている。
別に、過去の話だけではない。現在では、さすがに表だって「奴隷制」を正面から採用することは、はばかられる風潮になっている。
しかし、形を変えて似たような形態は存在している。中国共産党の二重戸籍制なんてのは、農民を奴隷化するものとも評価できる。
北朝鮮の海外労働者も、国家によるある種の奴隷の輸出とも評価できる。
日本でもサラ金全盛期には、貸した金を返せないとなると、若いねーちゃん・奥さんはフーゾクに沈めたり、オッサンやにーちゃんはたこ部屋に送って働かせたり、果ては「腎臓2個あんだろ。1個取っても、命に別状ないだろ? 」とムリヤリ臓器を取ったりした…。
アメリカ建国は、表向きは本国で迫害された「ピューリタン(清教徒)」の「ピルグリム・ファーザーズ」が建国したということになっているが、実態はイギリスやヨーロッパで食い詰めて借金を背負って、貸し主に無理やり送りこまれた白人の「債務奴隷」が建国した、という説を言ってる人もいるんだよ。
オーストラリアやニュージーランドも、ご同様だ。特に、この2国は、イギリスの流刑地でもあった。
だから、オーストラリア人やニュージーランド人と知り合いになる時、自分の祖先は流刑にされた囚人でもないし、借金背負った債務奴隷でもないって話しを長々とやり出す人もいるんで、メンドくさくて、大変だ…、という話しも聞くぞ。
人間、欲に駆られると、そういうことを平気でやらかすし、やらかしてきたのが人類の歴史なんだよ…。

『中国国有企業2100社倒産、負債総額がGDPの159%に到達 約1396兆8750億円』

https://ameblo.jp/michiru619/entry-12396115508.html

元記事は、これ。
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/180806/soc1808060007-n1.html

北戴河(ほくたいが)会議が開催されたようだ。王滬寧は、姿を見せていない
と報じられている。

この際だから、「債務」と「責任」について説明しとく。
「債務」とは、「人」(自然人、法人を含む)に対して、何らかの行為を要求
できる法律上の地位(「債権」)に対応して、負っている法律上の義務のことだ。
大方は、約束である「契約」に基づいて発生する(「いついつまで返すという
約束で、カネを借りて、返さないといけない義務を負う」とか、「いついつまで
貸しておく、その代わりに借賃を支払うという約束(賃貸借契約)に基づく、貸
し主の貸しておく義務、借り主の借り賃を支払う義務」とか、いろいろある)。
稀に、当事者間に何らかの契約が無くても、事故において過失があった場合に
発生する、不法行為に基づく損害賠償義務(債務)なんてものもある。原発事故
では、多くの賠償義務が発生してしまったのは、ご存知の通りだ…。
「法律上の」とは、債務者が任意に債務を履行しない場合には、国家が強制的
にでも履行させる(履行したに等しい措置を講じてくれる)という意味だ。
債務の内容によっては、例え国家権力と言えども強制的に履行させるのは不可
能というものもある。
例えば、物を借りて、その物を壊してしまった(あるいは、管理が悪くて盗ま
れてしまった)ような場合だ。
あるいは、高名な画家が肖像画を描くと約束したような場合だ。こういう債務
は、国家権力と言えども強制的に履行させるのは、無理だろ?
こういう、債務を負っているのに、違法に履行しない(または、履行できないー
「債務不履行」と言う)場合は、最終的には金銭を支払うことで、履行の代わり
にするということで決着を図ることになっている(まあ、最後は「金で解決」っ
て訳だ)。
だから、どんな形の債権・債務でも、最終的には「金銭債権(金銭債務)」に
変形させて、債務者の財産に強制執行をかけていくことで決着が図られることに
なっているんだよ。これが、「法律的な」ということの意味するところだ。
そういう訳で、債権・債務の、こういう最終的には債務者の財産に掛かって行
って、債権者の満足を図る側面に着目した見方を、「責任」と言うんだよ。
「債務」が、一定の行為を行うという側面に着目しているのに対して、「責任」
は、最終的には債務者の財産から満足を図るという側面に着目した観点であると
も言える。
だから、ある「債権」を持っているということは、債務者の財産を最終的には
換価・処分できる法律上の権利を有している(逆に言えば、債務を負っていると
いうことは、最終的には自己の全財産を差し出す責任を負っている)、ってこと
でもあるんだよ。
前に紹介した民法の大家である我妻栄さんの有名な論文に、「近代法における
債権の優越的地位」ってのがあるんだが、そこには、「…金銭債権は、担保物権
と結合することによって、近代法において優越的地位を有するに至る…」、とい
うようなことが書かれている。wikiの説明を、紹介しておこう。
『「近代法における債権の優越的地位」は1925年から1932年に発表された論文を
収録したもので、債権論と所有権論がテーマとなっているが、その内容は以下の
とおりである。
前近代的社会においては、物資を直接支配できる所有権こそ財産権の主役であ
ったが、産業資本主義社会になると、物資は契約によって集積され資本として利
用されるようになり、その発達に従い所有権は物資の個性を捨てて自由なものと
なり、契約・債権によってその運命が決定される従属的地位しか有しないものと
して財産権の主役の座を追われる。
これが我妻の説く「債権の優越的地位」であるが、その地位が確立されること
により今度は債権自体が人的要素を捨てて金銭債権として合理化され金融業の発
達を促す金融資本主義に至る。我妻は、このような資本主義発展の歴史をドイツ
における私法上の諸制度を引き合いに出して説明し、このような資本主義の発達
が今後の日本にも妥当すると予測した。
我妻は、金融資本主義の更なる発達によって合理化が進むと、企業は、人的要
素を捨てて自然人に代わる独立の法律関係の主体たる地位を確立し、ついには私
的な性格さえ捨てて企業と国家との種々の結合、国際資本と民族資本との絶え間
なき摩擦等の問題を産むと予測し、企業論において、会社制度の発展に関する研
究によって経済的民主主義の法律的特色を明らかにするはずであったが、その一
部を含む後掲『経済再建と統制立法』を上梓したのみで全体像は未完のままとな
っている。
上掲のとおり我妻の予測は現代社会にそのまま当てはまるものも多く、「近代
法における債権の優越的地位」は日本の民法史上不朽の名論文とされている』、
というものだ。
オレも図書館から借りだして、読んだよ。
しかし、その時は、正直あまりピンとこなかった…。
無理も無い…。その時は、まだユ○○の金融資本のこと、グローバリズムの危
険性、資源の争奪戦…なんてことの知識があまり無かったからな…。
そういう知識の修得が徐々に進むにつれて、ジワジワ上記論文の凄みが感じら
れるようになって行った…。
ちなみに、この我妻栄さんと東大法学部の首席の座を常に争っていたのが、
「岸信介」だ。現首相、安倍晋三さんの母方の祖父さんだ(岸信介の娘と結婚し
たのが、親父の安倍晋太郎さんだ)。
我妻栄も岸信介も、まあ「怪物」と言ってもいい人物だが(実際、岸信介は新
聞なんかで、「妖怪」と言われてた)、二人の首席争いは凄まじく、交互に首席
と次席を取り合ってた…という話しだ。
日本の歴史においても、「荘園」「名主」「大名」なんかの大地主が形成され
て行く一幕があるが、必ずしも戦って取得したものばかりでは無いのでは…。
「寄進地系荘園」とか有名だが、そこにおける「寄進」に至る動因・誘因の解
析は、あまりなされていない気がする…。どういう社会的な力学が働いたのか、
掘り下げた分析がなされていない気がする…。せいぜいが、「寄らば大樹の陰と
いう心理が、働いた…。」程度のものだよな? 。
金貸しが借金の抵当(かた)に取り上げた方が、多いのでは…。そういう金貸
しは、常に権力と結託して、自分たちに有利なように取り計らって行ったのでは
…。そういう視点って、出てるのか?
「金貸しは、国家を相手に金を貸す」ってタイトルのブログも、あるぞ…。