放送大学の島内裕子教授は、「徒然草」の兼好の描き出す人物像に、物語の俳諧性を見出している。この点を、もっと詳しく解説して。

『国文学者であり、放送大学名誉教授の島内裕子氏は、著書『徒然草の変貌』などで、兼好法師が描く人物像に細川幽斎の言う「物語の俳諧性」がすでに深く息づいていることを指摘しています。 [1, 2]

兼好は完璧な人間ではなく、「失敗する姿」「欲に目がくらむ姿」「ズレている姿」を冷酷に突き放すのではなく、愛嬌のある愛すべき人間味として活写しており、これが俳諧の精神と直結しています。島内説の核心を3つのポイントで解説します。


1. 「失敗」や「無様な姿」に宿る愛嬌

兼好は、高名な僧侶や文化人が引き起こす「トホホな大失敗」を数多く書き残しています。島内氏は、ここに人間の「不完全さ」を愛でる俳諧性を見出しています。

  • 鼎(かなえ)を頭に被った法師(第53段):

お酒の席で悪乗りして足鼎を頭に被り、抜けなくなって鼻や耳が潰れそうになりながら医者に駆け込む法師の姿です。普通なら単なる愚行ですが、兼好はどこかコミカルで哀愁漂う「人間味」として描いています。

  • 木登りの名人(第109段):

高い場所では何も言わず、落ちそうな低い場所になって初めて「気をつけろ」と声をかける名人の言葉から、人間の心理の隙を鋭く、かつ面白みを持って切り取っています。

2. 「理想と現実のズレ」を楽しむ批評眼

登場人物が「格好良く見せよう」として失敗する「ズレ」を、兼好は温かいユーモアのフィルターを通して捉えています。

  • 仁和寺にある法師(第52段):

「一生に一度は石清水八幡宮を拝みたい」と旅に出たものの、山麓の寺を本堂と勘違いして帰ってきてしまい、仲間を前に「いやぁ、素晴らしかった!」と得意げに語るエピソードです。この「勘違い」による滑稽さは、まさに幽斎が末摘花に見出した「洗練された世界から一歩ズレた愛らしさ」そのものです。

  • 欲に駆られる人間の滑稽さ:

名誉や利益に執着して右往左往する人々を、兼好は一歩引いた視点から(カントの趣味判断のような距離感で)静観しつつも、それ自体を人間劇としての「俳諧(おかしみ)」に変えています。 [3]

3. 江戸時代の「俳諧文化」への決定的な橋渡し

島内氏は、兼好のこの「人間を多面的に、かつ面白みを持って見る視点」があったからこそ、『徒然草』が江戸時代の俳諧師たちに熱狂的に受け入れられたと分析しています。 [4]

  • 『徒然草』のランダム性と俳諧:

教訓、美しい有職故実、そして滑稽な失敗談がシャッフルされて配置されている『徒然草』の構造自体が、のちに五七五を次々に変化させていく「連句(俳諧の連歌)」の精神を先取りしているとされます。 [3, 5]

  • 芭蕉への精神的継承:

松尾芭蕉が『徒然草』を深く愛し、旅の指南書としたのも、兼好の持つ「俗なるもの(日常の失敗や滑稽さ)を、雅なるもの(高い文学性)へと昇華させる」という俳諧の真髄がそこにあったからです。 [6]


このように島内教授は、兼好を単なる「説教くさい隠者」ではなく、「人間のどうしようもない無様さをクスッと笑いながら全肯定した、元祖・俳諧マインドの持ち主」として描き出しています。

島内氏の解説や『徒然草』の特定の章段について、さらに詳しく知りたい部分はありますか?

  • 仁和寺の法師など、特定の章段における島内氏の詳しい現代語訳や評釈
  • 江戸時代に『徒然草』がどのようにパロディ化(俳諧化)されて大ヒットしたかの歴史的背景
  • 『枕草子』の「をかし」と、『徒然草』の「俳諧性」のユーモアの質の違い [3, 7]

ご関心に合わせて、さらに詳しくお答えできます。

[1] https://www.amazon.co.jp
[2] https://ja.wikipedia.org
[3] https://bookmeter.com
[4] https://sayusha.com
[5] https://www.otemae.ac.jp
[6] https://thewonder.it
[7] https://bangumi.ouj.ac.jp