『枕草子』の「をかし」と、『徒然草』の「俳諧性」のユーモアの質の違い、を。

『『枕草子』の「をかし」と『徒然草』の「俳諧性(はいかいせい)」は、どちらも日本文学を代表する「笑い」や「おかしみ」の概念ですが、そのユーモアの質には大きな違いがあります。 [1]

一言で言えば、「をかし」は宮廷という美しい檻の中の『肯定と共感のユーモア』であり、「徒然草の俳諧性」は世俗から一歩引いた『客観と全肯定(救済)のユーモア』です。

その違いを、4つの視点から明確に比較します。

1. 視点(どこから見ているか)

  • 枕草子(清少納言):内側からの目線

華やかな宮廷社会の「身内」として、知的でセンスの良い仲間たちと「これって素敵よね」「こういうのって面白いよね」と共感し合う視点です。

  • 徒然草(兼好法師):外側(高みの見物)からの目線

出家して社会の外に身を置く隠者として、世間の営みを一歩引いたところからじっと眺める観察者の視点です。

2. 対象(何をおかしいとするか)

  • 枕草子:洗練された美と知性の「きらめき」

「春はあけぼの」に代表されるように、自然の美しさや、人間関係のウィットに富んだ会話、センスの良い行動がおかしみの対象です。

失敗を描くときも、「スマートではないこと」を鋭く突く、やや辛口なセンス(ファッションチェック的な笑い)になります。

  • 徒然草:人間の不完全さと「トホホな失敗」

「仁和寺にある法師」のように、勘違い、悪乗り、欲に目がくらんだ姿など、人間の「カッコ悪さ」や「ズレ」そのものがおかしみの対象です。

「人間って本当に愚かで、愛おしいな」という泥臭い面白さです。

3. 笑いの性質(どんなトーンか)

  • 枕草子:知的でスノッブな「微笑(シャープな笑い)」

「センスが良いこと=正義」という美意識に基づきます。

相手の無教養や失敗に対しては、「まぁ、みっともない」と切り捨てる刃のような鋭さがあり、笑いの境界線(内と外)がはっきりしています。

  • 徒然草:哀愁と慈愛が混ざる「苦笑(マイルドな笑い)」

「人間なんて、どうせみんな失敗する存在だ」という諦念(あきらめ)がベースにあります。

そのため、他人の失敗を冷酷に突き放すのではなく、「自分もいつかやるかもしれない」という親近感を持った温かい笑いです。

4. 島内裕子説から見る「文学的な役割」の違い

放送大学の島内裕子教授の視点を交えると、この二つの違いはさらに鮮明になります。

  • 清少納言の「をかし」:

没落していく中宮定子のサロンを、せめて文学の中だけでも「完璧に美しく楽しい世界」として守り抜くための「美の防壁」としてのユーモア。

  • 兼好の「俳諧性」:

世俗のドタバタ劇をそのまま受け入れ、どんなに無様な人間であっても「それもまた人生の一幕」として包み込む「人間全肯定(救済)」のユーモア。


清少納言が「美しい世界のきらめき」を切り取ったのに対し、兼好は「泥臭い現実の愛おしさ」をすくい上げ、これがのちの江戸俳諧(芭蕉のわび・さびや、庶民の川柳)へと直接つながっていきました。

この二つのユーモアの質の違いについて、さらに深掘りしたい部分はありますか?

  • 枕草子で描かれる「みっともない失敗談」の具体例(例:大進の生昌への毒舌など)
  • 兼好がなぜ「完璧な美」よりも「未完成や失敗」を好んだのか(第82段「すべて、何も皆、事のととのほりたるは悪きことなり」の思想)
  • この二つの笑いが、江戸時代の「俳諧師たち」にどう受け継がれ、パロディ化されたか

次に進めたいテーマをぜひ教えてください。

[1] https://kazaana.net