黎明期の巨大コンピューター、「世界初の電子式」は80年前

黎明期の巨大コンピューター、「世界初の電子式」は80年前
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『2025年3月31日 5:00

米国ペンシルベニア大学でEDVACの実演をするエンジニアのトーマス・カイト・シャープレス。(Getty Images)

1940年代から1950年代にかけて、それまでにない規模で計算や演算を実行できるプログラム可能な機械が主に米国で開発された。巨大なこれらの機械は、いまのコンピューターの原型となった。代表的な5つの装置から開発の歴史をたどってみよう。

Mark I(1944年)
1936年、ハーバード大学の大学院生だったハワード・エイケンは、19世紀の英国人数学者チャールズ・バベッジの研究に触発され、プログラム可能なコンピューターの開発を決意した。1939年、エイケンはIBMから資金援助を得る。

2年後には米海軍が開発計画に加わった。海軍の狙いは、この機械を長距離弾の軌道という非常に複雑な計算に使うことだった。

1944年にMark Iは完成し、さまざまな用途に使用された。原子爆弾の爆縮の計算にも使われた。

機械式のMark Iはとにかく大きかった。装置は幅約15メートル、重さ5トン、部品の数は75万点に及んだ。部屋の奥に置かれた3台のパンチ(穿孔)テープリーダーでデータの入力や収集などが行われた。

MARK I。海軍の制服姿のハワード・エイケンがテープを確認している。(Sepia Times/Getty Images)

ENIAC(1946年)
1943年、米陸軍はペンシルベニア大学の2人のエンジニア、ジョン・モークリーとジョン・プレスパー・エッカート・ジュニアが率いるコンピュータープロジェクトに資金を提供した。目指したのは、機械式のMark Iよりも高速で信頼性の高い電子式計算機の開発だ。

ENIAC(Electronic Numerical Integrator and Computer)は縦横15メートル×9メートルの部屋を丸々占領するほどの大きさで、電子回路を組み込んだ40枚ものパネルは180センチを超える高さだった。

ENIACは1万7000本を超える真空管を搭載し、これらがMark Iの機械式スイッチをはるかに上回るスピードと効率で電気回路を制御した。

プログラミングは3台の外付けのファンクションボードから配線を組み替えるなどの手作業で行った。1秒当たりの加算はMark Iが4回にも満たなかったのに対し、ENIACは毎秒5000回可能だった。

1946年2月、ENIACは「世界初の電子式コンピューター」として一般に公開された。米軍はこれを水素爆弾の設計案の実行可能性を計算するのに用いた。

ENIAC(Bettmann/Getty Images)

EDVAC(1949年)

第2次世界大戦末期、英国人科学者アラン・チューリングが構想した「汎用コンピューター」の開発への関心が広がった。米国の数学者ジョン・フォン・ノイマンは、1946年に発表した先駆的な論文の中で、未来のコンピューターは、プログラムもデータと同じメモリーに格納されるだろうと記した。実際、現在のコンピューターはほぼこのノイマン型だ。
同年、ENIACを発明したモークリーとエッカートは、EDVAC(Electronic Discrete Variable Automatic Computer)の製作に取りかかった。1949年に発表されたEDVACは、その3カ月前に英国ケンブリッジ大学で製作されたEDSAC(Electronic Delay Storage Automatic Calculator)に続き、データと命令の両方をメモリー上に格納した世界で2番目のノイマン型コンピューターとなった。

EDVACには新たな情報記憶装置である「水銀遅延線」が採用された(水銀遅延線はトランジスタの登場以前に用いられた)。それによって、熱で頻繁に溶けていた真空管を減らすことができた。EDVACの専有面積は45平方メートルほどだった。

米国勢調査局で、UNIVACコンピューターの調整をするのが技術者ジョイス・ケードの日課だ。(Bettmann/Getty Images)

UNIVAC(1951年)

EDVACは軍事用の弾道軌道計算に使われたが、開発者の2人は民間用コンピューターの開発にも関心があった。1946年、モークリーとエッカートは米国勢調査局向けのコンピューターを開発する契約を獲得する。国勢調査局では、情報をパンチカード上に集計するのに19世紀後半から使っていたタビュレーティングマシン(作表機)に代わるものを待ち望んでいた。

その後、2人は資金難に陥り、会社はタイプライターメーカーのレミントン社に買収されたが、1951年にはUNIVAC(Universal Automatic Computer)を発表した。UNIVACでも電子回路のメモリーには水銀遅延線が使われ、真空管を5000本まで減らせた。

その結果、性能を保ったままコンピューターは小型化した。十進数の数字を毎秒7200個読み取ることができた。

情報はキーボードとコンソール(操作卓)を使って入力した。結果はパンチカードではなく、磁気テープに記録された。国勢調査局の職員は、こうした新しい技術の扱いに慣れるまで時間がかかったという。磁気テープに記録された情報は、連続したコンピューター専用用紙に印刷された。

米国勢調査局の様子。写真の中央(奥から手前へ順に)は副局長のA・ロス・エクラー、UNIVACのメインパネルを使うマクシーン・C・ワーナーとクライディア・ビープス。(Bettmann/Getty Images)

IBM 650(1953年)

コンピューターは、20世紀初頭からパンチカード機械の製造で成長してきたIBMをダイレクトに脅かした。そこでIBMは独自にコンピューターの開発に乗り出す。1953年、IBMは初の商用コンピューターを発表した。価格は、100万ドルだったUNIVACに対して、IBM 650は50万ドル。翌年から出荷し、8年間で1800台が売れた。

しかし、IBM 650は現代のコンピューターとは程遠い。ハードディスクはまだなく(1956年にIBMが採用)、記憶装置に磁気ドラムメモリーを採用していた。まだトランジスタではなく、真空管を使用していた(IBMのライバルだったベル研究所がコンピューターを完全トランジスタ化したのは1954年、IBMは1959年)。また、プログラムはパンチカードに記録されていて、カードは昔ながらのタビュレーティングマシンを使って挿入していた。
コンピューター科学者のドナルド・クヌース氏は、大学のコンピューティングクラスの発展はIBMのおかげだと評価する。「IBMは1950年代に、プログラミングのコースを教えることという条件を付けて、およそ100台のコンピューターを無償で寄付してくれました」

文=Editors of National Geographic/訳=夏村貴子(ナショナル ジオグラフィック日本版サイトで2025年2月23日公開)』