選挙の予想が大外れしたエリートが「愚民」をバカにしているという「悲惨すぎる現実」

選挙の予想が大外れしたエリートが「愚民」をバカにしているという「悲惨すぎる現実」

https://gendai.media/articles/-/142149

 ※ (一部抜粋。)

『2024年は、「知性ある人々」にとって不幸な一年だったようだ。「愚かな人々」が社会で存在感を増したためである。

さかのぼること7月7日、東京都知事選挙が行われたが、結果が望み通りではなかったらしい人々の中にはSNSで次のように嘆く者がいた。

反知性の愚民化ってのは、本当に下品だけど、いい作戦なんでしょ。相手は賢いよ。
今回愚民ではない市民と街で会えた。これは蓮舫さんのおかげだよ。
愚民をつい馬鹿にしちゃう我々のクセ、これはもっと深く研究し、改善しなくちゃ。(※1)
事情はよくわからないが、たぶん投稿者が推す候補が「愚民」たちに支持される候補に負けてしまったのだろう。』

『11月5日には米国の大統領選挙が行われた。接戦になると言われていたが、結果は共和党のドナルド・トランプが予想外の勝利を収めた。その最中、ある映画評論家はなぜか、不意にSNSにこんな投稿をする。

残酷な事実:アメリカの赤い州(共和党が強い州)は州民の大卒率が全米平均の大卒率43.1%より低く、平均より大卒者が多い州は青い州(民主党が強い)になる。大卒率が全米平均くらいの州は共和党と民主党が拮抗する「接戦州」になる。(※2)』

『さらには11月17日には兵庫県で県知事選が行われ、パワハラの疑いなどで告発され県議会が不信任を議決し、失職していた前知事の斎藤元彦が二度目の当選を果たした。これもやはり予想外の結果だったが、SNSの影響が大きかったとも指摘されている。そしてやはりこの結果にがっかりしたらしい元官僚は、SNSでこう嘆いた。

「バ○は死ななきゃ治らない」とは言わない。学べば治る。賢くなれる。斉藤を当選させた兵庫県民も。(※3)』

『今日、「愚民」たちにイラつくエリートはかれらに限らない。世界中で、愚かで下品な「愚民」たちを軽蔑するエリートと、その「上から目線」に反発する大衆の分断が起こっている。それは、エリートに批判的な英国の論客、オーウェン・ジョーンズの言葉を借りるなら「文化戦争」である(※4)。

ただジョーンズは同時に、インテリにこうアドバイスしている。「英国で左派に将来があるなら、労働者階級の人々の生活やコミュニティとの文化的、政治的な断絶に向かい合わなければならない」。

日本にとっても他人事ではない。とくにインテリ層によって構成される左派は、過去にも「愚民」たちとの付き合いに失敗してきたからだ。』

『そのような現象を記録した人間の一人に、戦中から戦後にかけて東京都八王子市の農村に暮らしたきだみのる(1895~1975年)を挙げていいだろう。きだは開成中学・慶應大学を経てパリの現ソルボンヌ大学で学んだエリートだが、農村を観察し、貴重な資料を多く残している。

きだの元には戦後、東京から農村の観察や教化を試みる左翼の大学生や大学教員が訪れることがあった。だがきだは彼らの農民への姿勢に反発を覚える。「そこには農民に対する侮辱のようなものを感じた。家に金があるため進学した者が大学で先生やオルグの口や舌を通じて覚えたことを、農民にくり返して農民を啓蒙し導く。……失敗するのは明らかだよ」。

鋭いきだは、インテリたちの農民に対する態度が単なる蔑視にとどまらず、もう少し複雑であることも見抜いていた。「農民……という言葉が出ると途端に同情的、感傷的、嘆息的になって『農民(或いはニコヨン)』はええですなあ」『労働が激しくてほんとにお気の毒ですよ』『全く相すまんですよ』と口先でいうくせがある」(ニコヨンとは日雇い労働者のこと)。今風に書くと、「上から目線」ということになるだろうか。

そしてきだは言い放つ。「インテリが農民に救いを与えられる、そんな筈はない。その考えは身の程知らずだ」(※5)。』

『きだに限らず、ある世代までのエリートたちには、知的な格差の認識とエリートとしての自覚が明確にあり、それを隠さなかったし、ときに知的な格差が社会を突き動かすことも理解されていた。たとえば戦後を代表する知識人である政治思想史学者・丸山眞男(1914~1996年)が、1947年に東京大学で行った講演で、「インテリ層と国民一般との知識的乖離」が日本でのファシズム成立に大きな役割を果たしたと強調したことはよく知られている(※7)。』

『ただし注意すべきは、こういったかつての知識人たちのエリートとしての自覚は安っぽい「上から目線」ではなく、ある種のノブレス・オブリージュというか、社会と大衆への強い責任感に支えられている点だ。だから彼らの批判の矛先は「愚民」たちよりも、むしろ自らを含むインテリ層に対して向けられる。

たとえば、インテリの自覚と責任から逃れようとする者に手厳しい丸山は私的なノートでこうつぶやく。「インテリの『大衆』にたいする負い目の感情とないまぜになったものわかりのよさは、私にむかつくような嫌悪感を与える」。

さらに、東大紛争の年にはこうも書いた。「中年男が、――もっとひどい場合には白髪男が――助平面で『反抗する若者たち』にすりよって……いる光景ほど、日本のインテリの『知性』なるものの底の浅さをあらためて証明したものはなかろう」(※8)。

そして丸山はこう結論する。大衆が情報に流される現代で知的エリートであることの意味とは、決して特権ではない。そうではなく「大衆への奉仕ですよ」(※9)。』

『現在の高学歴エリートたちに、「大衆への奉仕」の意識はあるだろうか。むしろ「大衆への蔑視」のほうが先に立ってはいないか。』

『こうして知的格差の存在は忘れられ、同時にエリートからエリートとしての自覚と責任感、大衆への奉仕の意識も消えた。残ったのは中途半端な「上から目線」だけである。』
『だがしかし、知的な格差は今も明らかに存在している。その一面に過ぎない学歴の格差だけを見ても、実は日本人の3割ほどしかいない(四年制)大卒層とマジョリティである非大卒層にはさまざまな格差があることがわかっている。社会学者の吉川徹は、そんな日本社会を「学歴分断社会」と呼び、「大卒層と非大卒層には、就いている職種や産業……賃金において明らかな格差があります。さらに、ものの考え方や行動様式も異な」ると書いている(※11)。

これほど知的に分断された日本社会で、知的に不調な層を「愚民」で片づけていいものだろうか。あるいはそもそも、彼らは本当に「愚民」なのか? ひょっとして、おかしいのは「愚民」ではなく高学歴エリートのほうではないか? 「愚民」たちとの「ものの考え方や行動様式」の違いに耐えられていないだけだったりはしないか。

もし「愚民」でないなら、そんな反省をする程度の知性はあっていいだろう。そして分断を煽るだけの「上から目線」を乗り越えるために欠かせないのは、日本社会が忘れた知的な格差を見つめなおすことである。幸い、材料はたくさん残されている。』