うつろなインド経済成長 育たぬ製造業、遠い中国の背中

うつろなインド経済成長 育たぬ製造業、遠い中国の背中
編集委員 小柳建彦
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD127B30S4A610C2000000/

『2024年6月19日 5:00

4日に開票されたインドの総選挙は、モディ首相率いる与党・インド人民党(BJP)が大きく議席を減らす波乱の結末となった。

背景には、雇用創出力の強い製造業が十分に育たず、国民の多くが経済成長を実感できない経済構造がある。

今後30年程度続く見込みの人口ボーナス期の間に工業化を実現できないと、モディ氏が掲げる「先進国」はおろか、中国並みの上位中所得国になるのも難しくなる。実のある経済成長を前提にしている…

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『インド政府は総選挙最終投票日の前日の5月31日、2023年度の国内総生産(GDP)統計を発表した。実質成長率は8.2%と、新型コロナウイルス禍の反動が大きかった21年度を除けば、16年度以来久しぶりの8%台乗せを達成した。

発表をうけて早速、モディ首相はX(旧ツイッター)で高らかに宣言した。

「インドは世界の主要国の中での最速経済成長を続けていく。今はまだ予告編、これからが本番だ」

地元メディアの報道は首相の掛け声をそのままうのみにしたような楽観論であふれ、与党が圧倒的有利と報じていた。翌6月1日、モディ氏自身の選挙区であるヒンズー教の聖地バラナシの投票所に投票に来ていた有権者は口々に、治安改善や公共施設の建設などモディ政権の実績をたたえた。

50歳代の主婦は「モディ氏はインドだけでなく世界のリーダーとなった。多くの人はほとんど崇拝している」と話した。その日の夕方、全投票終了後に主要メディアが公表した出口調査結果は与党圧勝を伝えた。』

『ところが4日の開票結果は、14年の政権獲得後初めてのBJPの単独過半数割れという予想外のものだった。出口調査を外しまくったテレビ各社は、うろたえながら要領を得ない解説を試みた。翌日になって主要新聞や民間エコノミストなどの論評が積み重なり、おぼろげながら世論の実相が見えてきた。

主要経済紙のミントは簡潔に「(選挙を左右したのは)経済だった」と要約した。ヒンズー教至上主義的な人気取りの言説を繰り返した与党の選挙戦略は、生活が苦しい有権者に響かなかったとの見立てだ。』

『実際、インド経済の中身を因数分解してみると課題が山積みだ。まず全体の成長率が高くても、産業によって景気の明暗がキツい。

23年度の産業別の付加価値成長率をみると、就労人口の46%が従事する農林水産業は前年度の4.7%成長から大きく減速し、1.4%成長にとどまった。就労人口の12%が働く商業・観光も前年度の2ケタ成長から6.4%成長へ急減速。合わせると就労人口の6割近くを占める人々の肌感覚は、不景気か景気減速だったといえる。

逆に10%弱の成長率で全体をけん引したのは、公共投資拡大の追い風を受ける建設業と、需要がコロナ禍からの回復過程にある製造業だった。建設業に従事しているのは就労人口の13%、製造業も12%どまりで、2大好況業種は合わせても就労者の約25%にしかならない。しかも建設業就労者の賃金水準は低く、好況感とはほど遠い。

アクシス銀行チーフエコノミストのニールカント・ミシュラ氏は「政府や企業による投資主導のGDP成長で家計に勢いはない。コロナ禍で膨らんだ千万人規模の労働力余剰が解消されておらず、賃金が伸び悩んでいる」と指摘する。』

『確かに、国際労働機関(ILO)が3月に発表した「インド雇用報告書」によると、常用給与所得者の22年の実質月額賃金は10年前の12年に比べ14%減った。年率にすると1.6%減り続けた計算だ。農業従事者を含む自営業者の実質月収は19年からのデータしかないが、22年までの3年間で1%減った。

実質所得低下は仕事がある人々のトレンドだ。他方でそれ以前に、そもそもまともな仕事がない人が多いという、より大きい問題が横たわる。』

『政府統計によるインドの今年1〜3月期の完全失業率は6.7%と一見、9〜10%レベルだった18〜19年より改善している。だが、ILOの報告書の調査実務を担ったインド人間発達研究所所長で労働経済学者のアラク・シャルマ博士は「本当に生活に困っている人は(仕事をしない)完全失業者にさえなれない。インドの雇用不足は、きちんとしたフルタイムの仕事に就けない『不完全就労者』と『NEET(ニート=就労せず、教育も訓練も受けていない状態の人)』の多さに表れている」という。

ILO報告書によると不完全就労者と完全失業者(求職活動中の失業者)とを足し合わせた「不完全就労率」は22年、6億人弱である全労働力の16.8%に上った。12年の13.9%から上昇しており、実数にすると1億人弱が満足な仕事に就けていない。

また同報告書は22年現在、年齢層別人口に占めるNEETの割合を、20〜24歳で36%、25〜29歳で39%と推計する。実数にして合計約9400万人の20歳代がNEETになっている計算だ。その多くは職探しを諦めて、失業率や不完全就労者率の分母である労働力から脱落している。NEETは特に女性に多く、女性の労働参加率が32%と低迷する要因となっている。

つまり、両方合わせるとインドの実質的な雇用不足が1億〜2億人規模であることを示唆している。毎年1000万人規模で生産年齢人口が増えるのに、質を伴った雇用創出が追いついていないのだ。世界銀行の推計では、1日あたり購買力平価ベースで3.75ドル以下で暮らす「貧困」状態にある人の割合は10年前の6割超から減ったとはいえ、21年でまだ46%にのぼる。

シャルマ博士は原因について、「政府の掛け声とは裏腹に、大量の非熟練人材の雇用を生める製造業が大きくならない」と嘆く。』

『実際、インドのGDPの内訳をみると、モディ政権成立以前の11年度と23年度とでは、製造業の付加価値比率が17%から14%へとむしろ低下した。製造業の就労人口割合も14年の13%から直近では12%に低下した。農業はGDP全体の18%の付加価値しか生んでいないが、農業従事者の就労人口に占める割合は10年前の49%が今は46%と、ほとんど変わらない。』

『つまりインドでは、モディ政権誕生後も経済の工業化が進んでいない。より生産性の高い製造業を育て、農業から労働力を移動させないと、経済全体の生産性上昇による1人当たり所得の増大は望めない。』

『「ビクシット・バーラット(先進国インド)」――。昨年からモディ首相が政権のスローガンに掲げてきたのが、独立100周年に当たる47年までにインドが「先進国」になるというビジョンだ。その過程についてモディ氏は「成長はインド経済の自然な副産物だ」と言い、あたかも人口動態が自然に高成長をもたらすといわんばかりの思い込みを根拠としているようだ。

だが、ことはそんなに簡単ではない。23年度のインドの1人当たりGDPは政府推計で約2530ドル。経済協力開発機構(OECD)加盟国の1人当たりGDPの現状最低ラインである2万ドル程度に24年間で到達するには、単純計算で実質年率9%超で伸ばし続ける必要がある。ところがモディ政権ではコロナ禍以前もコロナ禍の特殊要因が一巡した22年度以降も、1人当たりGDPを実質年率で5〜7%程度しか伸ばせていない。』

『インドと同じような人口規模ながら、中国は1人当たりGDPを1990年の350ドルから2023年は1万2500ドルと、30年あまりで36倍に増やした。農業から輸出型製造業への大規模な労働力移動を実現し、90年代から20年以上にわたって10%前後の経済成長を持続した結果だ。』

『インド人経済学者で米コロンビア大教授のアービンド・パナガリヤ氏は、「歴史上かつて、非熟練労働力を大量に雇う労働集約的で輸出型の製造業を発展させないで、途上経済から中・高所得経済に脱皮した例は一つもない。インドも例外にはなれないだろう」と指摘する。「中国が独裁政治でなし遂げた急速な工業化を、民主主義で実行するのは容易でない」とも言う。』

『モディ政権は発足以来「メーク・イン・インディア」と製造業強化のスローガンを掲げてきたが、結果を出せていない。背景には複雑な規制が絡み合う労働法制改革の実施の遅れや、英国統治時代の搾取で受けたトラウマ(心傷)を引きずって捨てられない保護主義政策がもたらす製造業の国際競争力不足がある。いずれも既得権益層を中心に強い改革反対論が存在する。

1960年代から資本集約的な重工業を重視したがる産業政策の「クセ」も続いている。今もインド製造業の主役は石油化学や鉄鋼、自動車などの重工業で、最近力を入れるのは資本集約的な半導体産業の誘致だ。隣国バングラデシュが労働集約的な繊維産業を輸出の柱に育てて女性を含めた雇用を増やし、1人当たりGDPでインドを追い越したのと対照的だ。』
『3期目のモディ政権がインドの「先進国化」を本気で進めるには、既得権益層に不人気な貿易自由化や労働改革に加え、軽工業に力を入れて女性の社会参加も進め、労働集約的な製造業を育てる必要がある。その前提として、公教育の抜本強化による全階層にわたる人材の質向上も必須だ。

30年間という人口ボーナス期の残り時間は案外短い。従来の改革と成長のペースでは、先進国どころか中国並みの所得水準にも届かないまま高齢化局面に突入することだろう。』