薮中三十二

薮中三十二
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日本の旗 日本の官僚
藪中 三十二
YABUNAKA Mitoji
第1回日米戦略的開発協調会合[1]
にて記者会見(2005年9月28日)
生年月日 1948年1月23日(76歳)
出生地 大阪府
出身校 大阪大学(中退)
コーネル大学
前職 外交官
現職 外務省顧問
立命館大学国際関係学部客員教授[2]
称号 瑞宝重光章
日本の旗 外務事務次官
在任期間 2008年1月17日 – 2010年8月20日
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藪中 三十二(やぶなか みとじ、ラテン文字化: YABUNAKA Mitoji 1948年1月23日 – )[3]は、日本の外交官。立命館大学客員教授。シカゴ総領事、外務省アジア大洋州局長、外務審議官等を経て、外務事務次官を最後に退官し、外務省顧問及び立命館大学特別招聘教授に就任。

来歴・人物

大阪府出身[4]。自称「隠れ阪神タイガースファン」で、少年時代、草野球ではいつもピッチャーを務めたという。

大阪府立住吉高等学校卒業後、大阪大学法学部へ進学。大学在学中は英会話サークルのESS部長。3回生当時の1968年(昭和43年)に、外務省専門職の採用試験に合格。そのため、大阪大学法学部は中退している。

1969年(昭和44年)4月に外務省へ入省後、上司の勧めで外務省上級職(外務キャリア)を受験し合格。翌年外務省上級職となる。上級職としては、小嶋光昭、国枝昌樹、小野正昭、西田芳弘(外務省中南米局長)らが同期。

1971年(昭和46年)、英語研修で南イリノイ大学、コーネル大学に留学。1973年(昭和48年)、コーネル大学卒業。コーネル大学での2年間は最も勉強した時期であり、その成果として、英語は日本語並みのペースで読める。

1973年(昭和48年)6月、最初の在外公館勤務として在大韓民国日本国大使館二等書記官となる。デモ隊が大使館に乱入[5]、大使のボディーガード役を務める。

本省を経て、1981年(昭和56年)8月、在インドネシア大使館一等書記官、1983年(昭和58年)6月、在アメリカ合衆国日本国大使館一等書記官を経験。

1986年(昭和61年)8月、経済局国際機関第二課長(OECD担当課長)として本省に戻る。1987年(昭和62年)1月から約3年、北米局北米第二課長として日米の経済関係を担当し、日米貿易摩擦から日米構造協議へと実務レベルの経済交渉に臨む[6][7]。

1990年(平成2年)9月、これまでの計7年近い日米経済交渉の現場を離れ、ロンドンの国際戦略研究所(IISS)の上級研究員を約1年間務める。1991年(平成3年)から3年間、在ジュネーブ国際機関日本政府代表部参事官(公使参事官)を務める。

1995年大阪大学客員教授。1996年(平成8年)7月、外務省大臣官房総務課長から局長級の大臣官房総括審議官に昇進。早稲田大学講師。1997年(平成9年)8月、アジア局審議官を兼任。

1998年(平成10年)10月から在シカゴ日本国総領事館総領事。翌年4月・5月の小渕恵三訪米時、首相のシカゴ訪問をサポートし、野球の始球式をセッティング(小渕がピッチャー役、サミュエル・ペラルタ・ソーサ選手がキャッチャー役)。シカゴ市内の公立小学校ララ・アカデミーでは一日校長を務めた。

2001年(平成13年)外務省機密費流用事件に関し減給処分を受ける。

2002年(平成14年)4月、シカゴ総領事を離任し、日本に帰国。12月、外務省アジア大洋州局長に就任。対北朝鮮外交、対中国外交での拉致被害者の返還交渉と北朝鮮核問題における交渉担当者(六者会合第1回、第2回、第3回の日本代表)。

2005年(平成17年)1月に経済担当外務審議官。

2007年(平成19年)1月に政務(政治)担当外務審議官。

2008年(平成20年)1月17日、谷内正太郎の後任として、本命の条約局ルートを歩んできた海老原紳(内閣官房副長官補→駐インドネシア大使→駐英大使)を制して外務事務次官に就任。

2009年(平成21年)9月、自公から民社国への政権交代に伴う事務次官会議の中止につき、若干の感慨があるとコメントした。

また11月に予定されていたバラク・オバマ大統領の初来日に際し8月、「演説で言及されていた“核なき世界”への期待を抑えなければならない、広島訪問があるか否かは注目の的となっており時期尚早で控えるべき」と駐日大使ジョン・ルースに伝えていた事が2011年9月にウィキリークスの文書暴露で判明[8][9]。

2010年退職。外務省顧問に就任。

同年10月立命館大学国際関係学部特別招聘教授及び株式会社野村総合研究所顧問に就任。
2011年川崎汽船株式会社取締役、三井不動産株式会社アドバイザリー・コミッティ委員[10]、2012年三菱電機株式会社取締役(指名委員・報酬委員)、2012年4月2014年株式会社小松製作所取締役[11]。

2014年4月より、大阪大学大学院国際公共政策研究科に開設された公益財団法人稲盛財団による寄附講座のスタッフとして参画。

2022年、瑞宝重光章受章[12]。

その他の活動

大阪大学特任教授 - 1995年(平成7年) 現在。
シカゴ日本商工会議所(JCCC)名誉会頭[13] - 2002年(平成14年)1月現在。
世界基金支援日本委員会(FGFJ)委員[14] - 2006年(平成18年) 7月現在。
日本ユネスコ国内委員会委員[15] - 2008年(平成20年)12月現在。
立命館アジア太平洋大学(APU)支援組織「アドバイザリーコミッティー(AC)」メンバー[16] - 2008年(平成20年)12月現在。
NPO法人グローバルリーダーシップ・アソシエーション(GLA)発起人[17] - 2009年(平成21年)6月現在。
日米教育委員会 日本側共同名誉議長[18] - 2009年(平成21年)現在。
薮中塾グローバル寺子屋 塾長(代表理事)[19]- 2013年(平成25年)現在。

著書
著書

『対米経済交渉 摩擦の実像』サイマル出版会 1991
『国家の命運―外交の修羅場で考えた危機と希望』新潮新書 2010
『日本の針路 ヒントは交隣外交の歴史にあり』岩波書店 2015
『世界に負けない日本 国家と日本人が今なすべきこと』PHP新書 2016
『トランプ時代の日米新ルール』PHP新書 2017
『世界基準の交渉術 グローバル人財に必要な5つの条件』宝島社 2019
『外交交渉四〇年 薮中三十二回顧録』ミネルヴァ書房 2021

共著

『核と戦争のリスク 北朝鮮・アメリカ・日本・中国動乱の世界情勢を読む』佐藤優共著 朝日新書 2017

参考文献

1999年(平成11年)

北米総領事便り 在シカゴ総領事 藪中三十二 1999年6月 日本国外務省

2002年(平成14年)

藪中三十二 在シカゴ日本国総領事 離任ご挨拶 4. 2002 シカゴ日本商工会議所(JCCC)

2005年(平成17年)

(私の視点)アフリカ支援 サイレント津波にODAを 薮中三十二 2005.02.17 朝日新聞朝刊 14頁 オピニオン2 財団法人 日本国際交流センター世界基金支援日本委員会(FGFJ)
East Asian Regional Response to HIV/AIDS, Tuberculosis, and Malaria (FGFJ TOKYO, June 2005) 米国法人 日本国際交流センター(JCIE)

2006年(平成18年)

藪中外務審議官インタビュー 「サンクトペテルブルク・サミットを振り返る」(2006年7月24日収録) 日本国外務省

2007年(平成19年)

阪大NOW 2007年4月号 トピックス 薮中外務審議官が卒業式で講話 大阪大学
阪大ニューズレター 2007/Summer 「地球上のさまざまな問題に向き合い、自分の専門分野で世界に貢献してほしい」 外務審議官 薮中三十二 大阪大学
外務次官に藪中氏 谷内氏留任を固辞 産経新聞 2007年12月27日

2008年(平成20年)

北朝鮮通、日本外交の表舞台へ 中央日報 2008年1月18日
「藪中外交」について考える 2008-04-09 外務次官・藪中三十二氏とは何者か? - ウェイバックマシン(2015年6月22日アーカイブ分) 株式会社 原田武夫国際戦略情報研究所 公式ブログ
薮中外務事務次官による第4回アフリカ開発会議横浜開催記念講演が開催されました 2008年5月 横浜市立大学
仙台市 2008年度分記者発表資料 「国際情勢セミナー 今後の日本外交の課題と方向性」講師略歴 仙台市
日本外交の現状と課題「日本の国際戦略を考える」 基調講演 (2008年11月5日 於: 早稲田大学) 早稲田大学総合研究機構 プロジェクト研究所

2009年(平成21年)

百年超の歴史、事務次官会議に幕 トップ官僚の感想 朝日新聞 2009年9月14日

関連項目

大阪大学の人物一覧
32
日米構造協議
関税および貿易に関する一般協定(GATT)
ウルグアイ・ラウンド
政府開発援助(ODA)
主要国首脳会議シェルパ
鈴木宗男
サイレント津波(Silent Tsunami)
親米保守

脚注

^ 共同発表(仮訳) 日米戦略的開発協調会合 2005年9月17日 於: ニューヨーク 「the U.S.-Japan Strategic Development Alliance」の、日本の外務省による仮訳。第1回会合は9月28日。
^ “客員教授一覧 | 学部紹介 | 国際関係学部 | 立命館大学”. www.ritsumei.ac.jp. 2022年1月9日閲覧。
^ 略字体は薮中三十二。
^ 『読売年鑑 2016年版』(読売新聞東京本社、2016年)p.350
^ 文世光事件#その後の日韓関係も参照。
^ 多くの課員が月170時間超の残業をし、その手当は規定の3分の1という環境で勤務していた。そのような条件の中、薮中課長は日米間の経済摩擦の渦中、担当課長として連日の徹夜交渉をした。その他、夕食抜きの折衝後のサプライズ、午前4時の交渉決裂、最終電車を気にするアメリカ側に対する徹夜要求など、その実像は自著に詳しく書かれている。
^ 3年間で33回のワシントンD.C.訪問となった。
^ オバマ氏広島訪問、薮中前次官が「尚早」 09年米公電 朝日新聞2011年9月27日
^ Roos, John V. (2009 September 3, 06:28 (Thursday)). “Ambassador's Aug 28 Meeting with Vfm Yabunaka Part 2: Potus Visit, North Korea, Child Abduction”. WikiLeaks.
^ 「第6期アドバイザリー・コミッティ委員を決定」三井不動産株式会社
^ 「人事、コマツ(3)」日本経済新聞2014/2/14
^ 『官報』号外第97号、令和4年5月2日
^ シカゴ日本商工会議所 2002年度会員総会・新年会を開催! シカゴ日本商工会議所(JCCC)
^ JCIE 事業報告 2004 2005 米国法人 日本国際交流センター(JCIE)
^ 日本ユネスコ国内委員会委員名簿 文部科学省
^ ニュース: 日本外交の課題 - 薮中外務事務次官特別講義を実施 2009-5-18 立命館アジア太平洋大学(APU)
^ GLA・発起人一覧 NPO法人 グローバルリーダーシップ・アソシエーション(GLA)
^ 日米教育委員会 委員の紹介 日米教育委員会(FULBRIGHT)
^ 薮中塾グローバル寺子屋 公式ホームページ

外部リンク

事務次官会見記録(要旨) 日本国外務省 - 歴代事務次官の記者会見一覧。

表話編歴

日本の旗 外務省

表話編歴

日本の旗 在シカゴ日本総領事 (1998年-2002年)

表話編歴

日本の旗 外務省アジア大洋州局長 (2002年-2005年)

表話編歴

日本の旗 外務審議官 (経済担当:2005年-2007年,政務担当:2007年-2008年)

表話編歴

日本の旗 外務事務次官 (2008年-2010年)
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最終更新 2024年3月17日 (日) 01:18 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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