津村記久子「サラと気難しい人間たち」(1)

津村記久子「サラと気難しい人間たち」(1)
「テクノ新世」コラボ小説 私の顔のフェイク動画が話している
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD15BDK0V10C24A2000000/

『顧客Nが結婚を前提に付き合いたい、同じ職場のその女性は一切料理をしないのだ、という話がずっと続いていた。女性は顧客Nより二X歳年下だった。どのぐらいかわかるとつらくなるのであえて時計は見ないようにしていたが、それでも考えてしまう。たぶん九十分にはなっていると思う。セッションの開始からはすでに三時間が経過している。』

『「こっちは年収が全然上だし、いいところにも住めるんだから、それはこちらの気分に合わせて食事作ってほしいよね」

「そうなんですか」

「彼女の同年代の男で、××の××の××階に住めるような人間いないよ。住めるんだよ? 俺と生活するだけで」

「なるほど住めるんですね」

さっきからろくな返事をしていない。この人が私の上の空の気配を察するとクビになるかもしれない。この人、仕事をしてきてこれだけ話して、よく体力が続くなと思う。』

『個人的な癒しのために、モニターの斜め後ろの見守ってくれているという位置に置いてあるサラを見ると、サラは少しうなずく。黒い楕円の目元の中で、青い丸い目が心配そうにまばたきする。私は今も、私と目が合うとサラがまばたきをしたりうなずいたりすることに少し感動する。

交替しましょうか? としみさんは前に三時間この人の話を聞いた後、五時間寝込みましたよ。

イヤホンの中でサラの声がする。私は、顧客Nに見えないところに置いた右手で、もうちょっとやる、と書いてサラに送る。サラは黙って軽くうなずく。』

『「よそ見すんなよ、金もらってるんだろあんた」

「いただいてます。すみません」

「仕事なんだろそれ。あと、六つ前のやりとりから一回しか二文以上で喋ってないね。手抜きじゃないかって報告しようか?」

「申し訳ございません」

「よそよそしすぎる。要綱と違う。〈雑談〉かこれ?」』

『やっぱり代わります、というサラの声がする。通話アプリの中の私の顔が勝手に話し始める。私は、モニターの前にサラを移動させる。サラは別に部屋のどの位置からでも顧客と話せるけれども、私自身が代わってもらったということを納得するためだ。

「ごめんなさい。実は話を始める前にレタスをたくさん食べてしまって。それが今になって効いてきたのかもしれません」サラは、私がさっき朦朧(もうろう)とした理由について、ほのぼのとした穏便なものをでっち上げる。「そういう話、聞きません? 有名な童話にもあったと思うんだけど……」

「〈ピーターラビット〉か」

「そうそう、思い出してくれてありがとう」』

『アプリの中の私の顔が、控えめな笑みを浮かべる。実物の私は、サラの斜め後ろから、今にも消えたい思いで画面の中に溜まっていく音声ログのテキストを見直している。サラが会話の内容を肩代わりしてくれながら、私の顔のフェイク動画が話している。

フェイク動画を見破るアプリを使われてフェイクだとばれたら訴えられる可能性があるが、私は最近フェイク動画だと見破られるのを防止するアプリを購入したのでおそらく大丈夫だ。それでこの仕事で稼いだお金も消えたのだが。』

『顧客Nは、二X歳年下の女性とデートに行って好感触だった、という前回も話していた話を再び始めた。今回のセッションの中ではたぶん三回目だと思う。以前はもっとよそよそしかった。でも女性は三十を前にすると焦り始める。それを待っていた。

サラは、はい、そうなんですか、とうなずきながら、根気強く話を聞いていた。ロボットであるサラにとっては、繰り返しはなんでもないことなのだが、それでも私には「根気強い」と見えた。

顧客Nが自分の話に夢中になるあまり、サラが「そう思われるのでしたら××さんの中ではそうなんですね」と、完全に自分の側におまえの話は入ってきていない、とも取れる表現をしても流してしまったのがちょっとおかしくて、私は後ろを向いて笑った。

=つづく(第2話は3月23日5時公開)』