宗教と信仰

宗教と信仰
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/33062337.html

『中東で起きている紛争を眺めていると、なぜ、あれだけ争い、相手を徹底的に破壊せずには、いられないのだろうかと考えてしまいます。武器で殺し合っていなくても、アメリカの福音派などのキリスト教原理主義派などは、基本的に宗教観に反する事は、一切受け入れません。何しろ、学校で進化論を教えるから、子供を学校に通わせず、家庭教師を雇ってホームスクールで勉強させて、認定試験で学歴を構成するガチ勢もいるので、それは徹底しています。州によっては、進化論を教える事自体を違法にしているところもありますし。聖書で「神が生命を作った」とあれば、それが真実で、それに疑義を差し挟む考え方は、全て間違っているのが決まっているのです。また、審判の日が来ると、深く信心していた敬虔な教徒だけ選ばれて、災厄で地獄と化した地上から救済されると本気で信じている人もいます。キリスト教が契約の宗教と言われる所以です。

これは、イスラム教も同じで、5回/日の定時の礼拝から、ラマダンという断食をする月が存在し、それは、あらゆる他の条件に優先されます。コーランに書かれている事を絶対視するのも、解釈の違いで宗派が別れたりしますが、大枠では一緒です。主な目的としては、同じタイミングで、貧富や環境の差にかかわらず、同じ体験をする事で、宗教の下での一体感、空腹や乾きの苦役を味わう事で、恵まれない人々を思いやり、改めて平安の有難さに感謝し、より自身を清めようとする心を養うものです。ムスリムにとってラマダンは欲望や悪を遠ざけるとても神聖な実践なのです。また、女性にヒジャブの着用を強制するのも、欲望の抑制という目的があります。本来、イスラム教は抑制を柱にした宗教です。
多くの宗教と言われるモノの特徴は、戒律があり、それを守る事で、神との誓約が果たされるという考え方がある点です。つまり、最終的に戒律を遵守する事で、望みや希望が「神の力で」果たされるという契約の代償として設定されています。なので、違う宗教と衝突した時、戒律を取り下げるのは、神との誓約を破る事になるので、絶対に譲れないのですね。信心の根本部分が崩れるからです。そういう宗教同士が衝突した場合、相手が改宗するか、相手を完全に滅ぼすしか無いのです。それか、絶対不可侵の国境を設定して、互いに不干渉である事を宣言するか、つまり交わるという事ができないのは、構造的に決まっています。

つまり、比重の違う水のようなもので、何をしても溶け合う部分は、全体の僅かな部分です。仮に、同じコップの中の2種類の液体をスプーンでかき回しても、時間が経過すれば、比重の違いで液体が分離してしまうように、戒律を止める事が誓約に違反する限り、信者からすれば容認できる事では無いわけです。だって、約束された平和なり、幸福なりを神から受けられなくなるわけですからね。

これと根本的に違うのが仏教や神道などの信仰です。時に、哲学に例えられる事もありますが、宗教の価値観と違って、お経を読んだり、神社にお参りした事によって、その代償として神が何かを与えてくれるというスタンスではありません。基本的には、「信心によって感謝の心を持つ事で、自身の行いを正し、苦難の多い人生を、自身の努力で幸福に生きる」目的で行うものです。

いや、仏教や神道でも、お賽銭やお布施で、ご利益を祈願する事があるではないかと言えますが、これは、私は場所代と考えています。眼の前が真っ暗になる程の人生の苦難に遭った時、生涯で一度も祈った事が無いような無神論者が、藁にも縋る思いで神仏に頼ったら、憑き物が落ちたような感覚を味わって、曇った目が開いたみたいな話は良く聞くじゃないですか。私は、霊的な力が、そこに宿っているとは考えませんが、理屈でどうしようも無くなった時、自分の寄って立つ土台が崩れた時、心を裸にして良い脱衣所みたいな場所が用意されている事が大事だと思っています。神社で祈っていても、「おかしい人」とは思われないわけですよ。そして、そういう習慣の無い人が、理屈抜きで、とにかくやってみたら、何かしらの変化が起きたりします。心は人の行動に影響しますが、また、行動も人の心に影響を与えるからです。そういう場所を維持する場所代と考えたら、お布施もお賽銭も、戒律に対する誓約とは、存在の意味が違うと考えられます。

つまり、基本的に、神が人を救うのではなく、自身で救う為の作法・考え方の話が仏教・神道になるのかと思います。なので、境界が薄く、液体では無く気体で緩く存在しているのではないかと。液体に比べると、混じり合う敷居が低く、今までに無い習慣が入り込んでも、さほど拒否する事無く、自分以外が勝手にやるぶんには、それを許さないとか排除するという事も少ないと感じます。いわゆるアニミズム的な土着の信仰は、宗教より下に見られる事が多く、宗教が流入してくると信仰は滅ぼされる事が多いのですが、それは軍隊のようにガチガチに戒律に対する誓約という構造になっていないからです。その分、結束力は弱く、訓練された精鋭の宗教というものには敵わないのです。なので、世界三大宗教と呼ばれるキリスト教・イスラム教・仏教の中で、仏教の衰退は著しいです。日本に神道が生き残っているのも、外国に完全に支配された事が無く、「支配者の宗教」が伝播しなかったからです。

宗教と信仰の違いというのは、そこにあり、日本は島国だったので、信仰が完全に破壊されなかったと考えています。島国でも、文明の差があって、弓矢で戦うところに鉄砲で攻めてきた場合には、完全に支配下に置かれて、支配者の宗教が強制的に押し付けられます。宗教VS信仰では、上記の理由で、必ず信仰が負けるので、その宗教が支配的になってしまいます。そうならなかったのは、一つには運が良かったからです。植民地支配を良しとしていた西洋と比べて、さほどの文明の差が無かったので、抵抗し切る事ができました。日露戦争で日本が勝利して、ロシア帝国が負けた事が、歴史的な一大事として認識されているのは、圧倒的な文明の差で圧勝するという、それまでの法則が覆ったからです。そういう準備をする時間を、島国で極東に位置する日本が稼げたというのは、幸運としか言いようが無いです。

なので、我々は宗教が激しくぶつかり合う諸外国の行動が、肌感覚では理解できません。彼らにしてみれば、自分の存在理由を賭けた戦いなのですが、そういう感覚は信仰には少ないものです。』