命の〈価格〉をどのように決めるべきか? – 橘玲 公式BLOG
https://www.tachibana-akira.com/2023/12/15214
『今回は2021年7月15日公開の「命の〈価格〉はどのように決められるのか? 日常的につけられている人命の値札と公平性」です(一部改変)。』
『新型コロナのような感染症が蔓延して患者が病院に押し寄せると、すべてのひとを治療できず、誰を優先し誰を後回しにするかのルールを決めなくてはならなくなる。日本ではこのトリアージを正面から議論することを嫌い、病院の恣意的な判断を行政やメディアが黙認する不健全な状態が続いているが、日本よりはるかにリベラルな北欧やオランダなど北のヨーロッパでは高齢者に対し、「コロナに感染してもあなたは入院治療を受けることはできない」と通告している。
アルツハイマー型認知症の新薬がアメリカで条件付き承認されたことが大きなニュースになったが、治療費用は年間600万円かかるという。超高齢社会に突入した日本では、今後、認知症患者は確実に増えていくが、この新薬を保険適用して、巨額の財政支出で(あるいは増税して)治療費用を国が負担すべきなのだろうか。
このように、資源の制約があるなかで生命や健康の議論は金銭問題に直結する。トリアージとは、費用対効果の高い患者(若者)への治療を優先し、費用対効果の低い患者(高齢者)を後回しにすることだ。医療のコストとリターンを考えればこれは理にかなっているが、受け入れるのに躊躇するひともいるだろう。
誰もが目をそらしているこの問題に正面から向き合ったのが、ハワード・スティーヴン・フリードマンの『命に〈価格〉はつけられるのか』(南沢篤花訳、慶応義塾出版会)だ。著者のフリードマンはコロンビア大学准教授で、応用物理学の学士号、統計学の修士号、生体医工学の博士号をもつデータサイエンティストで医療経済学者でもある。原題は“Ultimate Price; The Value We Place on Life(究極の価格 わたしたちが人生につける価値)。』
『「9.11同時多発テロ」犠牲者の値段
フリードマンは最初に、この本のテーマとして4つの重要なことを挙げている。
1、人命には日常的に値札がつけられていること
2、こうした値札が私たちの命に予期せぬ重大な結果をもたらすこと
3、こうした値札の多くは透明でも公平でもないこと
4、過小評価された命は保護されないまま、高く評価された命よりリスクに晒されやすくなるため、この公平性の欠如が問題であること
このことがよくわかるのが、2001年の9.11同時多発テロ後にアメリカではげしい議論となった補償問題だ。』
『「統計的生命価値」を算出する3つの方法
9.11同時多発テロの補償に使われた「命の〈価格〉」の計算方法は「統計的生命価値(VSL:Value of Statistical Life)」と呼ばれる。これには大きく「仮想評価法」「賃金ベース」「顕示選好法」がある。
「仮想評価法(選好意識調査)」は、「何かに対して金銭を支払う意思、あるいは何かと引き換えに金銭を受け取る意思の度合い」を基準にする手法で、具体的には、「1万人に1人が死ぬ事例Xを避けるために、あなたはいくらなら払う意思がありますか?」などと質問する。その回答が9万円だったとすると、1万人がその金額を払った場合、1人の命を救うための値段は9億円になる。
この手法の問題として、調査回答者が全人口を代表しているわけではなく、抽象的な質問は根拠のない憶測や希望的観測(思いつきのいい加減な回答)を生むことが多いとか、不都合なデータポイント(極端な外れ値)を切り捨てているなどがあるが、もっとも深刻なのは「支払うことと支払われることはまったくちがう」だろう。「1000万円もらえるなら一定のレベルのリスクを負ってもいい」ことは、「そのリスクを減らすために1000万円支払ってもいい」ことと同じではない。
2つ目の「賃金によるVSL決定法」では、よりリスクの高い職業に就いた場合、いくら余計に支払われるかを見る。この超過収入が、ひとびとがリスクを受け入れてもいいと考える「価格」だ。
だがこの手法は、どの仕事を引き受けるかに関して求職者に選択肢があることが前提になっている。「求職者は、どの仕事にどれだけ死の危険があるかを知っていて、各仕事によるリスクの増減を理解した上で、よりリスクの高い仕事にはより高額の賃金を要求できなければならない」のだが、現実にはこの条件が満たされることはまれだろう。
さらに問題なのは、個人によってリスク許容度がちがうことで、まったく同じ死亡率の職業でも、上位5%の35億7000万円から下位5%の1億8000万円まで命の〈価格〉に34億円ちかい開きが生じた。
3つ目の「顕示選好法」では、何人の人がリスクを減らすために支払う意思があるか(支払意思額)を基準にする。自転車のヘルメットを例にとると、防護効果の低い安価なヘルメットではなく、高くても防護効果の高いヘルメットを購入するひとがどれくらい増えているかを調べ、「リスク軽減率の増加に対する、より高価なヘルメットに対して支払われる金額の増分の比」が命の〈価格〉になる。
この手法の問題は、購入者ごとに可処分所得の額が異なることを考慮していないことだ。その結果、リスクを減らすための支払い意思を調べたはずが、富裕層は命の〈価格〉が高く、貧困層は安いことを示しただけになってしまった。』