もしかして、人類の推進剤はベクトルが違うだけで、妄想力だったりする?

もしかして、人類の推進剤はベクトルが違うだけで、妄想力だったりする?
http://blog.livedoor.jp/goldentail/archives/33042505.html

『 以前、複数の亜人類の中から、ホモ・サピエンスが抜け出て、他の全ての種を絶滅させた理由について、一つの考察を記事として投稿したことがあります。詳しくは、そちらを読んで欲しいのですが、結論だけ抜き出しますと、「その秘密は、ホモ・サピエンスだけが、抽象化する能力を手に入れた」からとしています。もちろん、これは、一つの推論です。この能力が稀有なのは、生活に実用的に必要な「群れ」という単位ではなく、一つの旗印・思想・カリスマを中心に数千~数万単位の集団が、まとまれるという事にあります。それと、同じ体験を共有しなくても、様々な事を知恵として、伝える事ができます。例えば、水場に獲物が集まる時間帯とか、天敵が活動する危険な場所などを、群れの中の一人が体験すれば、それを伝える事ができる。つまり、口伝の知恵として、知識を保存する事が可能という事です。

他の類人猿の場合、例えば群れのボスが誰であるかを示す為に、定期的に挑戦者を戦いで退けて、最強の個体である事を示す必要があります。なぜならば、その場で目撃したものを記憶する事でしか、カリスマを保つ事ができず、体験を共有しない者には、権威が伝わらないからです。ホモ・サピエンスの場合、組織が大きくなると、末端はトップの顔さえ見た事がなかったりしますが、ちゃんと組織を構成するのに必要な権威付けというのは行われ、目標に向かって努力を集約する事ができます。これは、抽象化する事で、体験せずとも、行うべき行動を想像する事ができるから可能です。さらに、巨大な集団になると、概念として、崇拝する対象とする事で、宗教や国家のように、数千万人の単位で、まとまる事も可能です。

で、最近思うのですが、例えば、ロシア・中国・北朝鮮で行われている個人崇拝的な独裁主義って、まぁ、我々から見ると愚かに見えるじゃないですか。見栄の塊みたいな巨大建築物や、国が傾く勢いで軍事費を使って軍備を拡張したり、まったく科学的な根拠の無い理由で政策を実施したりします。その根源にあるのは、崇拝の対処である独裁者に全ベットすれば、その後に豊かで平等な暮らしがおくれるという根拠の無い思い込みだったりします。狂信という事ですね。まぁ、神通力が切れてくると、国家なり宗教なりが、造反者に苛烈な罰を与えて、従わない事を許さなくなるわけですが、そもそもの根拠というのは、妄想の結果だと思います。

では、我々、民主主義陣営が、そういう事をまるで行っていないかと言えば、妄想のベクトルが違うだけで、同じじゃないかと考えるわけです。ここからは、思考実験みたいなものなので、あまり真面目に受け取られると困るのですが、割とオフザケではなく考えています。というのは、「素晴らしい」とされる多様性・多文化主義などの考え方なのですが、世界の民主主義国家で、国の運営が傾くくらいの難民が押し寄せ、反対意見を言うと「レイスト」「殺す」などの脅迫じみた罵倒が殺到する社会って似ているなぁと思うのです。「狂信」という意味で、同じじゃないかと。彼らも、恐らくは、その先に、今よりも良い世界が広がっていると考えて熱意を持って実行しているのでしょうが、それは根拠の無い妄想力によるものではないかと思うのです。

過激なベジタリアン、LGBTQ、BLM運動、環境活動家。彼らの目に余る同調圧力。時に、異常にも見える攻撃性って、どこから来るかと言うと、私には「将軍様~」と言って、泣きながらマンセーする北朝鮮の人民と重なって見えるのですね。政治の実効性について、色々と言いたい事があるのは、判りますが、民主主義って政治に参加する事で政策を変更する手段がシステムとして整備されているわけじゃないですか。デモは、主義主張を訴える保障された権利ですけど、何をしても良いというわけじゃない。合法的な手段が担保されているのであれば、それに向けての補助的な役割でしかないのです。デモ自体の力で、政治を誘導しようとするのであれば、それは武器を持っていないだけで、軍がクーデターを起こして超法規的に物事を決めるという事と同義になります。例えば、主義主張を通す為に社会が混乱しても良いとされると、それは違うでしょうという話になります。活動家って、主義主張の為に違法行為は許されるという行動をしがちです。環境活動家の道路封鎖デモなんかだと、自家用車で急病の赤ちゃんを病院へ搬送しようとして、救急車じゃないから妨害されるなんて事が起きています。死んだら、誰がどう責任をとってくれるんだという話です。

この抽象化・概念という能力は、恐らく文明を築いたり、科学を発展させるのに不可欠なもので、ホモ・サピエンスが生存競争に残った最大の武器なのですが、実は戦争の最大の原因だったりもします。一つのシンボルの下に、理由はともかくとして、結集する能力が我々を生かす力でもあり、対立する集団が自集団の為に相手の生存権を奪う原因にもなっています。前述の文で参照先の記事が「もしかしたら、ホモ・サピエンスが繁栄したのは、憎む事が得意だったから?」という題名になっていますが、この憎むというのは、個人的な感情ではなく、集団として対立する者を排除する意味で使用しています。その推進力になっているのは、シンボライズされている対象を、突き詰めれば、その先により素晴らしい世界が存在しているという妄想力だったりします。

故に、「革命」というのは、権力者が合法的な政治参加の手段を封鎖し、耐え難い圧政で市民を弾圧した場合にのみ許される最後の超法規的手段なのです。「あー、生活が楽にならないな。革命でも起きないかなぁ」みたいな感じで頼る手段ではありません。革命後の社会というのは、混乱と不条理がセットなので、既存の権力を打ち壊した後で、塗炭の苦しみを超えて、新しい社会を構築する覚悟が無いのであれば、民主主義社会では起こしてはいけない行動なのです。』