習慣で「非認知能力」は磨かれる
人生100年こわくない・マネー賢者を目指そう(熊野英生)
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB12BHJ0S4A610C2000000/
※ 今日は、こんな所で…。
※ 「愚者は、経験から学び、賢者は歴史から学ぶ。」…。
※ しかし、「文献」ばかり読み漁っていても、頭でっかちになるだけで、前には進めない…。
※ 結局は、「実践したモン勝ち。」であることも、付加しておこう…。
『2024年6月21日 4:00
前回の本コラム(5月12日号)で、経営や投資の成果を上げるには、非認知能力を高めることが重要だと説いた。読者からそれなりに反響をいただいた中で、「それってどうすればいいの?」と疑問が残ったという感想もあった。今回は続編として実践法を解説する。
よく経営者や管理職は「成果を出せ」とはっぱをかけて、KPI(重要業績評価指標)の数字を振りかざす。あまり賢いように見えない。ソリューションは各自で考えろ、…
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『ソリューションは各自で考えろ、と丸投げすると人はついてこない。自分ができないことを他人に押し付けても、心は離れるばかりになる。ソリューションのところまで経営者が降りて行かないから、従業員の心に響かないのだ。
成果を上げるためには「習慣をつくること」が大切だ。過去、多くの賢者たちが「習慣が人をつくる」と語っている。まず、英国詩人のジョン・トライデンは「はじめは人が習慣をつくり、それから習慣が人をつくる」と述べている。人のところを「成果」に替えて、「習慣が成果をつくる」にしても成り立つ。
「習慣が経営をつくる」「習慣が運用収益をつくる」「習慣が投資スキルをつくる」――。どれでも何となく筋が通る。
ルーティンで磨かれる
では習慣とは何を指すのか。英語にすると普通はハビット(habit)なのだが、ルーティン(routine)、オーダー(order)、ルール(rule)でもよい気がする。
毎日、決まった仕事の型を愚直に繰り返すと、いつの日にか卓越した能力を習得できる。
キャリアというものはルーティンの中で磨かれる。日々の多種多様な仕事の中で、何を自分のルーティンに定めるかで、最終的にそこで得られる能力が変わる。
習慣とは暗黙のうちに選択と集中が行われた結果なのだ。
現場では、能力のある人とそうでない人に見ていて分けられる。
能力がない人を見ると、無駄な作業に時間を費やしているケースがある。感情の赴くままに仕事を選んだり、保身のための活動をしたりしていると、集中できていないことになる。
これは組織のミッションが現場で意識されていないときに起こる。経営の失敗だ。ルーティンは、仕事の優先順位で決まる。
孔子は「習慣を深く身に付けると、生まれつき持っている天性のようになる(習慣は自然の如し)」と残した。
工場で作業をしている人の中には時々、効率的に動く姿が神々しく見える人がいる。おそらく長い期間、工程に工夫を重ねて、今の状態に行き着いたのだろう。同じ工程を繰り返しているうちに、能力が結晶化してその人の個性に化けてしまう。
人格そして運命が変わる
プラグマティズム(実用主義)で知られる哲学者ウィリアム・ジェームズはこう述べている。
「心が変われば行動が変わる。行動が変われば習慣が変わる。習慣が変われば人格が変わる。人格が変われば運命が変わる」
この中で「習慣が変われば人格が変わる」という話は、ここまで述べてきたことだ。
「人格=パーソナリティー(personality)=個性」である。いつも習慣づけている行動が、その人の性格にもにじみ出してくるということだ。
例えば筆者は家計簿を35年近くつけている。この話だけで何となく筆者のパーソナリティーが伝わってくると思う。
ジェームズの言葉の最後は「人格が変われば運命が変わる」というフレーズで締められている。
一読して心に刺さるのだが、頭を冷やして考えると、この部分だけ意味不明だ。自分の才能が際立つほどに鮮やかに輝くと、それで自然と運命が切り開かれるというのか。ちょっと論理的飛躍がある。
私見を述べると、人格を変えてもそれだけで運命は変えられない。
社会活動の中では、自分が持っている卓越した才能が誰かに見いだされ、より大きな役割を与えられることで、小さな才能が大きな才能へと脱皮していく。例えば経営者や上司があなたの才能に気付いて、次に飛躍できるポストに異動させてくれると、会社の中であなたは昇進していける。
残念ながら、発見されずに埋もれる人材の方が多い。
ならば、閉じた世界で活動するのではなく、オープンな人間関係で他人から才能を再発見してもらう方がよい。あなたがどのような人間関係に身を置くかで運命は変わることも付け加えたい。
成果を上げるためには、「非認知能力=顕在化しにくいスキル」を鍛え上げなくてはならず、その能力なくして継続的成功はない。
しかも、非認知能力を向上させることには再現性がなく、身に付かずに終わる人も多い。
それでもあえて、成果を上げるためには「習慣」こそが近道になると言いたい。
ヴェリタスの読者ならば、人生100年のスパンで投資利益を稼ぎ続けることを成果とするだろう。そのために何を「習慣」に設定すればよいかを考えてほしい。
教育と経験の役割
読者には成果を上げるために「習慣だけでよいのか」と、筆者の問題設定を疑ってほしい。疑うことで思考が深まる。
アリストテレスは「ニコマコス倫理学」の中で、習慣のほかに教育、経験を挙げている。
卓越性には倫理的なものと知性的なものがあり、それらは生来の本性として宿るものではなく、後天的に獲得されると述べている。まさしく非認知能力と同じものを指している。
ここではアリストテレスが倫理的卓越性(徳)を非認知能力に絡めたことに注目したい。おそらく人格という言葉にはこの倫理的卓越性が含められている。
現在でも多くの米国人が尊敬する人物に挙げるのが、100ドル札の肖像、ベンジャミン・フランクリンである。「フランクリン自伝」を読むと、人生で幾度も成功を手にしたフランクリンが禁欲的生活に徹し、それが成功につながったことがよくわかる。
反対に身を持ち崩して去っていた仕事仲間たちのエピソードも数多く登場する。彼らは倫理観を備えていなかったゆえに没落してしまったのだ。
この倫理観は、マックス・ウェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で繰り返し説いている禁欲的職業倫理(労働エートス)と共通するものだ。
デューイとウェーバーの著書
次に知的卓越性についてもみていきたい。
アリストテレスはそこで教育の役割を重視する。アリストテレスの言う教育とは決して学校教育だけではない。独学も教育の一形態だ。
他者からの教示のことを教育と言っているようだ。成果を上げるために他者の教えに従い内省してみると、自分の知性が飛躍する。
筆者は成長のため教えを請うことが、レバレッジ(てこ)にも似た効果を持つと考える。
言うまでもなく集団で学校で学ぶことの役割もまた重要である。
ジェームズと並び米国のプラグマティズムを代表するジョン・デューイの「学校と社会」をみてみよう。
デューイは学校とは小型の社会だと述べていて、生徒は学校の中で狭い功利性から解放されて活動し、人間の精神の可能性を高めるトレーニングを積むと指摘する。
デューイの唱える学校の役割は戦後日本の教育改革に強い影響を与え、日本の初等教育が倫理性を重視する基礎を作ったことは有名だ。
学校生活が人格形成の場だと言えば、デューイの考え方は納得しやすいと思う。
最後に、なぜ教育が成果の飛躍的向上を生むのだろうか。習慣を通じて習得した能力と違っている点はどこにあるのか。
教育の種類を区分すると、①専門教育②一般教育の2つがある。
専門教育が能力を飛躍させることは説明を要しないだろう。
議論を深める意味があるのは、一般教育がどうして飛躍に通じるのかという点だ。
この点は、「一般教育=実用目的から離れた教養=リベラルアーツ」の意義を問い直すことで分かってくる。リベラルアーツを特に重視したのは古代ギリシャ人たちだ。教養主義とも呼ばれる。
もし自分が経験したことだけから知性を得ているのならば、それは偏狭な知性でしかない。
多くの人は経験していないことでも知識を得て知覚できる世界を広げていける。
この知覚能力は優れた文学、文化、芸術に触れると徐々に養われていく。
学問の世界ではこの知覚能力を応用し、経験していないことでも深く理解することが可能になる。特に数学のように抽象化により理解を広げるトレーニングでは能力を飛躍させやすい。
以上が、顕在化していない非認知能力を高めるために、筆者が実践すべきだと考えることの要点である。
熊野英生(くまの・ひでお)
第一生命経済研究所首席エコノミスト。1990年横浜国大経卒、日銀入行。調査統計局や情報サービス局を経て、2000年に第一生命経済研究所入社。11年より現職。日本ファイナンシャル・プランナーズ協会常務理事。山口県出身。近著に「インフレ課税と闘う!」(集英社)。
[日経ヴェリタス2024年6月16日号]』