カテゴリー: 世界情勢
-
-
日韓の食器や食べ方の違い
https://www.ritsumei.ac.jp/campusasia/blog/article.html/?id=356




『10.25FRI2019
日韓の食器や食べ方の違い
【2期生】櫛比晶羽みなさんこんにちは!キャンパスアジア2期生の櫛比晶羽です。
早いものでもう1年と半年の留学生活が終わり、残す留学も韓国のみになりました。
振り返ってみると本当に早かったように感じます。今回の留学は留学の集大成として楽しみながら、自分の目標に近づけるように努めていきたいです!
さて、話は変わりまして、韓国と言えば「韓国料理」ですよね!
釜山にも海鮮やサムギョプサルなどの本当においしい料理がたくさんあります!ぜひ食べてほしいものばかりです!
(19)201910251jpgそして韓国と言ったら銀の箸と銀の器ですよね(^^)/
この前初めて釜山にあるスシローへ行ったのですが箸がまさかの銀色でとてもびっくりしました!その他にも、はじめて韓国に来た時、器を間違えて手で持って食べようとしてしまい、とても熱くてやけどしそうになりました…(笑)スプーンでご飯を食べるという文化を見た時とても衝撃的でした…!今回はなぜ日韓でこのような食器や食べ方に違いが出るのか気になったので記事にしてみました!
(19)201910252jpg
そもそも日本で箸文化が始まったのは624年の古墳時代からと言われています。この時代はヒノキで箸を作るのが一般的でした。縄文時代から古墳時代までは木や石で作ったスプーンが一般的だったといわれています。この表をみてわかるように、日本では割と昔から箸を木でつくる文化が定着し、箸のみを使う文化が定着していることが分かります。
(19)201910253jpg
次に韓国の箸文化を紹介していきたいと思います。この表によると韓国で初めて箸を使われたのは三国時代からと言われており、匙を含めて青銅のものが主流でした。そして匙のみを使うことはありましたが、箸のみを使う時代はありません。ここから二か国間では主に使われていた道具が違うことがわかりました。
次に日本はなぜ器を持って食べるのかという問題なのですが、日本では箸を使って食べるのが主流であるため、口に運ぶまでに落とす可能性があるため器を持つようになったといわれています。そして木で器や箸を作る文化があるため、器が熱くなりにくく、手で簡単に持つ事ができます。
韓国では汁気のあるものやごはんなどはスプーンを使う文化が定着しています。スプーンを使う事によって口まで運ぶのに食べ物をこぼしてしまう可能性が低く、器を持って食べる必要がありませんそれに加えて器が日本より大きいため、器を置いたまま食べるのが主流となったといわれています。
最後に、実はなぜ日本が箸だけを使う文化になったのか、なぜ韓国がスプーンと箸どちらも使用する文化になったのか、はっきりとした理由は実はまだ解明されていないんです!意外ですよね!でもこの研究を読んで、二か国の遠い昔の歴史が現代までこのような形で残っているという事を知りとても不思議に感じました。
これからも留学中に不思議に感じたことや当たり前だと思っていたことがなぜそうなのかをたくさん調べ、将来につなげていきたいと思います(笑)。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
参考文献
日韓の食事作法; 作法の相違とその作成形成の原因を中心に
言語と文化11巻 2007年 金 泰虎 』
-
韓国メディア「ソウルに120mmの水爆弾が来る! 危険だ!」……そこから見える日韓の違い、稲作の伝来元等のお話: 楽韓Web
https://rakukan.net/article/500116180.html※ 『あと朝鮮半島では米を匙で食べるのですが、あれはデンプン質の少ない(おいしくない)米は箸で食べることができないからなのです。
あれ、古い中国の風習なんですよね。中国から直接、そしてまだ品種改良されていない米が朝鮮に渡ったと考えるべき。』…。
※ なるほど…。「卓見」だ…。
※ 「邯鄲の夢」の故事も、「コーリャン粥」が煮えるまでの話しだったしな…。
※ 「粥」なので、匙で食べてたものなわけだ…。

『首都圏120㎜、釜山100㎜···明け方の水爆弾でソウルなど土砂崩れ警報「深刻」(マネートゥデイ・朝鮮語)
22日、中央災難安全対策本部(中対本)によると、山林庁は同日午後1時から土砂崩れ危機警報を「注意」から「深刻」に上方修正した。 (中略) 24日まで全国の大部分の地域で突風と共に雷·稲妻を伴う非常に強く多くの雨が予想される状況だ。予想降水量は首都圏は最大120㎜、湖南圏と釜山·慶南地域は最大100㎜水準だ。 行政安全部の韓昌燮(ハン·チャンソプ)次官(中隊本部長)はこの日、13の中央省庁・17の市道との会議で「明け方に強い雨予報があるだけに、一晩中徹底した備え態勢を整えてほしい」とし「関係省庁と地方自治体では避難が必要な地域はないかさらに調べ、必要ならば果敢かつ先制的に対応してほしい」と指示した。 続いて「都心に大雨が予想されるだけに地下駐車場など常習浸水地域に対する予察と同行パートナーなど避難助力者活動体系をもう一度点検してほしい」とも要請した。 (引用ここまで)
ソウルを含めた首都圏、および釜山にそれぞれ120mm、100mmの香水があるとして大雨予備特報が発令されています。
これ、1時間にではなく総雨量です。
韓国的にはこの降雨量であっても「大雨でやばい」との対応になる。それに沿って治水が行われているわけです。
このくらいの雨でも下水はいっぱいになるでしょうし、川が溢れる可能性すらある。
そりゃまあ、江南も水に沈みますよねって話なのですが。ここから「ああ、朝鮮半島では稲作なんてろくにやってなかったんだな」ってことが分かったりもするのです。
首都のソウルで総雨量100mmでぎゃいのぎゃいの言っている。
日本でも1日の総雨量が100mmなら大雨の類いですが、関東以西の太平洋側だったら年に数回は確実にある「日常」のレベル。
ま、ほとんどは台風ですかね。温暖湿潤気候でないと稲作はできません。韓国というか朝鮮半島の大部分は稲作に適した気候ではないのですね。
南側の沿岸、特に南西部くらいでしかまともに稲作はできない。実は倭寇が襲撃した半島の地点ってあまり釜山あたりにはなく、木浦あたりのほうが多かったりするのです。あれも米のあるところを襲撃しているんじゃないかなー、という感じ。
あと朝鮮半島では米を匙で食べるのですが、あれはデンプン質の少ない(おいしくない)米は箸で食べることができないからなのです。あれ、古い中国の風習なんですよね。中国から直接、そしてまだ品種改良されていない米が朝鮮に渡ったと考えるべき。
それに比べて日本は素戔嗚が川に箸が流れてくるのを見て「上流に集落がある」と考えるなど「主食である米は箸で食べる」のが基本。
もっちりとしたデンプン質が豊富な米は箸で食べられるのです。そのあたりを考えても「朝鮮半島からの稲作の伝来」はだいぶ怪しいんですよね。
と、降水量から見た日韓の違いなんかを考えてみました。Twitterで更新情報をお伝えしています。フォローはこちらから→Follow @rakukan_vortex 』
-
大学のランク差で圧倒的な賃金格差のある韓国、ところがある時点から賃金格差が一気になくなる……実は平等な社会……ってこと?
https://rakukan.net/article/500120639.html『「大学のランクで生涯賃金格差」という韓国人の社会通念、現実と合致していた(朝鮮日報)
学齢人口が急減したことで、過去80万人台を行き来していた修学能力試験(修能=日本の大学入学共通テストに当たる)の受験者数が2021学年度には50万人以下にまで低下した。しかし、入試競争はさらに激しさを増している。序列の高い大学であればあるほど良質の雇用として高額の月給を受け取れるといった認識のため、上位圏の大学に対する需要が増えたためだ。 そしてこのほど、こうした通念が現実に合致するという研究結果が出た。7月11日、韓国経済学会学術誌経済学研究2023年2号に掲載された「大学の序列と生涯賃金格差」によると、最上位圏大学の卒業生と最下位圏大学の卒業生の間では最大で50%の賃金格差が存在していることが分かった。 研究は1998-2017年、韓国労働パネルが提供した資料を利用して出身大学別に生涯賃金を追跡した。また、入試専門機関「進学社」から収集した全国の大学の学科別の修能平均点数に関する資料を基に、大学を5グループに分けた。グループ1は伽倻大、鮮文大、釜山外大、湖西大など49の大学が含まれた。ソウル大、高麗大、延世大、西江大、成均館大、漢陽大、中央大、韓国外大、ソウル市立大、梨花女子大、浦項工科大など16の大学は最上位グループ5に分類された。各大学の医学部は対象外とした。 分析の結果、ほとんどの年齢帯で高い序列の大学卒業生は低い序列の大学卒業生よりも賃金が高かった。具体的には、労働市場への進入段階からグループ5の大学卒業生はグループ1の大学卒業生に比べて24.6%多い賃金を受け取っていた。その後はこの格差が次第に顕著となり、40-44歳には50.5%にまで拡大した。以降、45-49歳から賃金格差が縮まり、50代以降は10%未満に落ち着く傾向を見せた。 論文は「こうした賃金格差の変化は働き口の特性と密接な関連がある」と論じた。上位グループの卒業生たちの多くは大企業に就職し、勤続年数に伴う賃金増加幅も高いため、生涯賃金も高い。しかし、45-49歳からは大企業での退職が本格化し、退職した勤労者たちが中小企業に再就職することにより、下位グループとの賃金格差が縮まる。 (中略) さらに研究は「一定年齢に至るまで大学序列に伴う賃金格差にはかなりの開きが見られ、これは働き口の特徴と関連があるということを発見した」とした上で「ただし個人の能力と学閥が格差に及ぼす程度については明確に区分することができなかった」とつづった。 (引用ここまで・太字引用者)
ソウル大学をはじめとしたグループ1とされる「上位大学」と、偏差値的に下位である「下位大学」を比較したら、就職時点で25%近い収入の差がある。
40〜45歳時点で50%の差が出るようになる……と。で、さらに45歳以降で差が広がるかというと、急速に差が縮まるそうです。
50歳以降では10%未満に収まるそうで。……いや、韓国人の生涯そのままですね。
45歳で肩たたきをされる。以降は中小企業に就職できればいいほうで、年金をもらえる63歳(将来的には65歳)になるまで店を開くなりで収入を得なければならなくなる。
45歳以降はディストピア的な意味で平等になるわけです。大企業で役員に成り上がることのできた0.8%だけが救われる……と。
それと定年まで勤めることができる公務員。
最近は公務員になることに対して忌避感が出ているそうですが、韓国ではどう考えても公務員が勝ち組だよなぁ。あと太字部分の医者は別。
そりゃ誰しも医者になりたがるわけだわ。大学のランクで収入が大きく変わることも、そして45歳以降で焼け野原になることも分かってはいましたが。
ホント、45歳以降の公務員と医者系以外の韓国人ってどう暮らしているんだろう。
まあ、99.2%は自営業か中小企業かの二択しかないのですけども。こうして数字に出るとすさまじいわ。「ヘル朝鮮」は伊達じゃないってことですね。
Twitterで更新情報をお伝えしています。フォローはこちらから→Follow @rakukan_vortex 』
-
NIDS 防衛研究所 National Institute for Defense Studies
- NIDSコメンタリー
第263号 2023年6月22日
中国から見たロシア航空戦力の使い方
http://www.nids.mod.go.jp/publication/commentary/pdf/commentary263.pdf
人民解放軍はウクライナ航空戦から何を教訓としつつあるのか
地域研究部米欧ロシア研究室 相田 守輝
はじめに
本研究の目的は、「中国人民解放軍(People’s Liberation Army : PLA)がウクライナ航空戦から何を教
訓としつつあるのか」について考究することにある。2回にわたるコメンタリーの第1弾目として、本稿
では「①中国から見たロシア航空戦力の使い方」について解説していく。続く第2弾目のコメンタリー
では「②中国が想定する将来の航空戦」について解説する。2022年2月24日にロシアによるウクライナ侵攻が開始され、間もなく1年半を迎えつつある。この
ウクライナ戦争では大方の予想を裏切り、軍事大国のロシアがウクライナを攻めあぐねL戦況は消耗戦
の様相を呈し、未だに沈静化の兆しは見えない。特に、ロシアの航空戦力は航空優勢を獲得できないまま
戦局全般に影響を及ぼしきれていないままである2。開戦当初からロシア軍の作戦機は多く撃墜され、自らの事故によっても損失を計上し続けている3。
□
シアの空軍機が防空軍の対空ミサイルによって撃墜されるケースも続発し’ 更にはロシア空軍のSu-34
戦闘爆撃機がウクライナ国境付近にあるロシアの都市(ベルゴロド)までも誤爆してしまうなど、ロシア
軍の作戦遂行における調整や連携の悪さが浮き彫りになってきた七これらの背景には、限られた軍事予
算、時代遅れの兵器技術、パイロットの少ない飛行時間、作戦機の低い可動率、調整されていない指揮、
精密誘導兵器の不足などの様々な要因が複雑に絡み合った結果とも言われている6。西側諸国ではロシアの航空作戦がうまく進揚していないと評価されているが7、中国側からはどのよう
に捉えられているのだろうか? とりわけ中国の軍事関係者による評価や議論は、将来的なPLAの戦略
/戦術にも適用されていく可能性も考えられるため注目に値する。しかしながらロシアがウクライナに
侵攻した直後から、PLA機関紙『解放軍報』や『国防報』などの公式報道では、ウクライナ戦争の教訓を
明示的に解説する記事を殆ど見つけることはできない。その反面、中国の一般的なメディアでは軍事関
係者による議論がしばしば見受けられるようになってきた。-1-
NIDSコメンタリー第263号本稿では、中国の軍事関係者がウクライナ航空戦におけるロシア軍をどのように見ているのかを紹介
した上で、その一端について議論していく。その際、少ないなかでも中国の議論を取り入れ、不足してい
る部分には欧米の議論をもって補いながら解説していくこととしたい。元PLA少将によるロシア空軍への評価の一例
元PLA少将の金一南(Jin Yinan)は、2023年2月に中国メディア『上観新聞』を通じて、ウクライナ
航空戦におけるロシア軍について言及している。この報道が『解放軍報』などのPLA系メディアによる
報道でないことに加え、金一南がすでに退役した軍人でもあることから、必ずしもPLAの公式な見解と
は言えないが参考にする価値はあろう。この元PLA少将は「ロシア航空作戦のレベルの低さは必然であ
った8」と次のとおり酷評する。ウクライナ紛争は貧弱な航空戦力(原文:空中力量薄弱)を露呈させただけでなく、
ロシアの特別軍事作戦全体に悪影響を与えた。仮にロシアがアントノフ空港の制圧に
成功し、70機以上の!1-76輸送機を順調に着陸させ(原文:70多架伊示ー76 J脈利降落)、
重火器をスムーズに空輸できていたのであれば、ロシアは速やかにキエフを占領し戦
局を決定的なものにできたであろう。しかしなカヾら、アントノフ空港近くのウクライ
ナ軍重旅団が、滑走路を破壊してロシア空軍輸送機の着陸を妨げたため、ロシア軍の
当初の作戦計画は大幅に修正を強いられる結果となった。彼らは明らかに準備不足で
あり、航空戦力も十分ではなかったことは明白だ七もし、米空軍がそのような任務をするならば、充分な敵防空網制圧(SEAD)と航空
阻止(AI)が行なわれたであろう。対照的にロシア空軍はヘリコプターを派遣するだ
けにとどまり、攻撃機を派遣せず(原文:没有出劫強缶机)、空港を占拠した空挺部隊
に必要な空中援護も行なわなかった(原文:也没有給占^机切的空降兵部(^提供有奴
的空中掩か)。そのまま特別軍事作戦は継続され、ロシア空軍の作戦能力が低いレベル
にあることを世界に露呈した1°。このような評価にはPLA強硬派として知られた金一南のパーソナリティーが前面に出ているものの”、
元PLA少将である人物がこれほどまでに公然とロシア空軍を酷評していることは珍しい。-2 –
NIDSコメンタリー第263号中国から見える問題点:旧態依然の戦法から抜け出せないロシア空軍
更に、ロシア空軍の作戦能力の低さが何に起因しているのかについて示唆する議論も現れ始めた。
そ
の中でも、中国の航空軍事誌『航空知識』(2023年3月)の論考「ロシア•ウクライナ戦争の1年」は、
新しい観点をもたらす評論として注目に値する立。この著者である上級編集者の老虎(E〇HU)は、これ
までもウクライナ航空戦について論考を掲載してきた人物でもあるが作、今回の論考ではロシアの作戦能
カの低さが何に起因しているのかを示唆している。現在のウクライナ航空戦が「理念なきロシア空軍による『古い戦争』の実態だ勺 と断じる老虎は、口
シア空軍が開戦当初から戦略的な攻撃目標ではなく戦術的な攻撃目標に対して、ただでさえ不足してい
る精密誘導弾を分散しながら使用していた(原文:俄空写始^将本不充裕的精日角制身弾萄分散使用)と痛
烈に批判した我。その原因として、ロシア空軍が第二次世界大戦からの「戦術」を踏襲しつづけ、地上戦を上空から支援
する作戦にのみ大半の作戦機を投入してしまい、航空戦力を集中するどころかむしろ分散させたままの
旧態依然の戦法(原文:作占戈祥式老套)に頼っているからだと指摘する如。つまり、ロシア軍の組織体質
に問題があり、ロシアの軍事ドクトリンにも悪影響を与えていると示唆しているのである。その一方で老虎は、米国発祥の空戦理論PFive Rings Model (原文:五壬不作占戈思想)17Jのような欧米
スタンダードとは一線を画すような「考え方」をロシア空軍は持っているはずであり、「ロシアにはロシ
アなりの戦い方があるのだ」とも擁護する七ロシア人が考える航空戦力の使い方が欧米スタンダードとは必ずしも一致しないという観点は重要で
あり、対象国の軍事ドクトリンを深く研究していかねばならない必要性を改めて認識させられる。この
老虎による指摘の妥当性は歴史的文脈からも裏付けることができる。伝統的な志向から抜け出せないロシアの航空作戦
ロシア人が航空戦力をどのように使ってきたかを少しばかり遡ってみよう。
第二次世界大戦時、ソ連
軍は東部戦線でドイツ軍と死闘を繰り広げていた。一方の米英軍も反対側にある西部戦線でドイツ軍と
戦闘を行っていた。著名な航空専門家であるマーチン•クレフェルト(Martin van Creveld)は、西部戦
線における空戦の状況と東部戦線における空戦の状況は明らかに対照的であったと指摘していた。
-3 –
NIDSコメンタリー第263号西部戦線での米英軍航空戦力による作戦では、ドイツ軍の補給線を破壊すべく航空阻止(Air
Interdiction : Al)が集中的に行われ、ドイツ軍車両による補給路の往来ができなくなるまで徹底された。これに対し東部戦線におけるソ連軍航空戦力による作戦では、ソ連陸軍を上空から支援する近接航空支
援(Closed Air Support – CAS)が優先的に行われていた。この結果、戦闘地域へ向かうドイツ軍や物資は
破壊されることなく補給活動は継続されていた也 ソ連空軍は他のどの飛行任務よりも「戦場支配(CAS
と同義)」を優先していたという点で、米英軍と異なっていたのである2°。このような傾向はソ連崩壊後のロシアにおいても同様に見られた。1999年秋に始まった第二次チェチ
エン紛争においてもロシア空軍は今次ウクライナ戦争で見られるような振る舞いを見せていた。チェチ
エン紛争に投入された航空戦力は、ロシア空軍第4航空軍の飛行部隊とモスクワ航空•防空軍管区
(Moscow Air and Air De能nse District)から派遣された防空軍で主に構成されていた”。これら航空戦力
は総じてCASに投入され、ロシア空軍のSU-24MフェンサーD戦闘爆撃機は携帯型防空システム
(MANPADS)の攻撃から防護するために高高度(3500m以上)を飛行し、精密誘導爆弾をしばしば投下
していた。一方、Su-25フロッグフット戦闘爆撃機をはじめとする大半の作戦機は低高度(1000〜3000
m)を飛行し、攻撃には非精密誘導兵器を使用することが常であった22。これら航空戦力の運用を十分に調整しないまま作戦を継続したロシア軍は、たびたび味方同士による
友軍相撃を経験することになった23。チェチェン紛争のような敵の航空戦力が殆ど存在しない相手に対し
ても、ロシアは航空作戦を済々と遂行できた訳ではなかったのである。作戦機を運用する「空軍」、対空
ミサイルを運用する「防空軍」、その他の部隊との間で十分な作戦上の調整が行なわれなかったことは2ゝ
のちにロシア軍の教訓にもなっていた。このような歴史的文脈を踏まえれば、ロシア人が考える航空戦力の使い方が、米国人が考える航空戦
カの使い方とは必ずしも一致しないことは明らかであろう。他の軍種/兵種との調整がとれないまま発
動される航空作戦は、「ロシア軍が旧態依然の戦法をとっていた」と評価されるに足りる理由を残してい
る。ロシア軍が伝統的に「地上戦」を中心に設計された軍隊であり25、その伝統的な志向から抜け出せて
いない姿を現しているとも言える。強大な戦車・砲兵戦力をもって敵の防御線を突破し、敵を包囲殲滅す
るといった軍事ドクトリンに基づいて陸軍が建設されたように、空軍においても陸軍を上空から支援す
べく建設されてきたのである。おわりに
本稿では、「PLAがウクライナ戦争から何を教訓としつつあるのか」を考究する一環として「①中国か
-4 –
NIDSコメンタリー第263号
ら見たロシア航空戦力の使い方」について解説した。ロシアが航空作戦を済々と行えていない背景には、限られた軍事予算、時代遅れの兵器技術、パイロッ
卜の少ない飛行時間、作戦機の低い可動率などの諸問題が影響していたことは言うまでも無い。しかし
ながら更に批判的に検討していくならば、「旧態依然の戦法から抜け出せないロシア空軍」の組織体質こ
そが、根本的な問題だと理解すべきであろう。一方で「ロシアにはロシアなりの戦い方がある」という中国の指摘も、柔軟な思考をもっためには必要
な観点であろう。つまり、欧米スタンダードの基準のみで「ウクライナ戦争」を見ていくことは厳に戒め
るべきなのである。チェチェン紛争の例からもわかるように、航空優勢獲得の主担当が作戦機を運用す
る「ロシア空軍」ではなく、対空ミサイルを運用する「ロシア防空軍」であった事実を踏まえれば、「ロ
シアにはロシアなりの戦い方がある」という中国の指摘に耳を傾ける価値もあろう。これら「気づき」に基づいて更に考えてみれば、ロシア軍が航空優勢を獲得できていない現状を、ロシ
アがさほど問題視していない可能性さえある。むしろ、ロシア軍がこれまでの作戦強度を数年間も持続
させながらウクライナ戦争を継続していくことの方が、ロシア軍にとって優先度が高いのかもしれない。改めて、諸外国に対する多角的な研究や幅広い知見に基づいた柔軟な思考が求められると言えるのでは
ないだろうか。続く第2弾目のコメンタリーでは、ウクライナ航空戦におけるロシア、ウクライナ双方の「航空優勢」
をめぐる攻防を踏まえながら、「②中国が想定する将来の航空戦」について解説していくこととしたい。
1相田守輝「中国空軍をめぐるデジタル・トランスフォーメーション:新しい整備管理システム導入から見える取り組み」『安全保障戦略研究』
第3巻第2号、2023年3月。
2 Justin Bronk, and Reynolds, Nick, Watling, Jack, “The Russian Air War and Ukrainian Requirements for Air Defence/1 2 3 4 5 6 7 The Royal United Services
Institute for Defence and Security Studies, November 7, 2022, https://rusi.org/explore-our-research/publications/special-resources/russian-air-
war-and-ukrainian-requirements-air-defence, accessed on June 7, 2023.
3 Phil Stewart, “What happened to Russia’s Air Force? U.S. officials, experts stumped/’ Reuter, March 2, 2022,
https://www.reuters.com/world/europe/what-happened-russias-air-force-us-officials-experts-stumped-2022-03-01/, accessed on June 7, 2023.
4 “Downed Russianjets ‘almost air taken out by Kremlin’s own air defence,z/ The Telegraph, December 30,2022, https://www.telegraph.co.uk/world-
news/2022/12/30/russian-jets-shot-sky-almost-downed-moscow-air-defence-systems/,accessed on June 7, 2023 ; “Friendly Fire: russian Air
Defense Strikes Own Helicopters Down,” Defense Express, May 13, 2023, https://en.defence-
ua.com/news/friendly_fire_russian_air_defense_strikes_own_helicopters_down-6697.html, accessed on June 7, 2023.
5 “Russia bombed its own city, Defense Ministry says,” The Washington Post, April 21, 2023,
https://www.washingtonpost.com/world/2023/04/21/belgorod-russia-bombed-own-city/, accessed on June 7, 2023.
6 Mykola Oleshchuk, nAir Power in the Russian-Ukrainian War: Myths and Lessons Learned,/z The Journal of the Joint Air Power Competence Centre,
Edition 35, February 2023, https://www.japcc.org/articles/air-power-in-the-russian-ukrainian-war-myths-and-lessons-learned/, accessed on June
7, 2023.
7 “One year on Russia Shocked/’ AIRFORCES, N〇.420, Seymour Distribution, London, March 2023, pp.30-43.
-5 –
NIDSコメンタリー第263号
8「俄M中突一周年,暴露了(1 那些1可題?金一南解^」『上双新i司』2023年2月24日、https://www.jfdaily.com/wx/detail.do?id = 586010, accessed
on June 7, 2023.
9 「俄与)中突一周年,暴露了「那些「可題?金一南解^」2023年2月24日。
10同上。
11歴史的にロシアから格下と見られながらもロシアの軍事技術依存に甘んじてきた「一世代前の将校」の心境が表れているようにも感じる。
12老虎「俄与占戈争一年祭」『航空知識』No.623, 2023年3月、20-21頁。
13老虎「瓜来兄弟下手黑?払一払俄4雨国的空中写カ」『航空知識』No.613, 2022年6月、参照。
14 「俄4占戈争一年祭」、20 —21頁。
15 「俄4占戈争一年祭」、20 —21頁。
16同上。
0湾岸戦争では、John Warden米空軍大佐の理論PFive Rings ModelJが実践され、第一波の空爆はイラク人指導者の住居、作戦指揮所、防空
早期警戒システム、C4ISRシステムに対するSEAD制圧が行われ、敵の「中枢」を破壊した。米軍の航空優勢を迅速に獲得するための要訣。
18 「俄与占戈争一年祭」、22頁。
19 Creveld, Martin van; Canby, Steven L,; Brower, Kenneth S., Air Power and Maneuver Warfare, CreateSpace Independent Publishing Platform,
August 1,2012, p.141.
2〇マーチン・ファン・クレフェルト『エア・パワーの時代』芙蓉書房出版、2013年、188—189頁。
21 Marcel de Haas, “The use of Russian Air Power in the Second Chechen War,” Airpower Review, Volume 6, No.1, Spring 2003, pp. 7-11.
22 Marcel, p. 6; Anatoly Kornukov, “Kontrterroristicheskaya operatsiya na Severnom Kavkaze: osnovnyye uroki i vyvody ¢Counter-terrorist
operation in the North Caucasus: basic lessons and outcomes] Voyennaya Mysl ¢Military Thought] , No. 4, July 2000, pp. 6.
23 Marcel, p. 7,14.
24 Charles Blandy, Chechnya: two Federal interventions: An interim comparison and assessment, Camberley: CSRC, January, 2000, pp. 34-35.
25小泉悠「軍事・安全保障研究から見るロシア・ウクライナ戦争」『東京大学FEATURES] 2023年2月22日、https://www.u-
tokyo.ac.jp/focus/ja/features/z0405_00006.html, accessed on June 7, 2023.
-6 –
防衛研究所 National Institute for Defense Studies
NIDSコメンタリー
NIDS
Tokyo Japan
第263号 2023年6月22日
PROFILE
守輝
地域研究部米欧ロシア研究室所員
専門分野:中国をめぐる安全保障本欄における見解は、防衛研究所を代表するものではありません。
NIDSコメンタリーに関する御意見、御質問等は下記へお寄せ下さい。
ただし記事の無断転載•複製はお断りします。
防衛研究所企画部企画調整課
直通:03-3260-3011
代表:03-3268-3111(内線 29177)
防衛研究所Webサイト:www.nids.mod.go.jp
-7 – - NIDSコメンタリー
-
領域横断作戦の観点からのロシア・ウクライナ戦争の教訓
https://www.mod.go.jp/gsdf/tercom/img/file1976.pdf高木耕一郎
ロシア・ウクライナ戦争は、将来の領域横断作戦を考察する上で重要な教訓
を生み出している。その戦況は未だ流動的であり、教訓も暫定的なものであ
る。しかし、将来への洞察を得る上で、戦況に応じて逐次分析行うことは価値
がある。ロシア・ウクライナ戦争においては、宇宙、サイバー、電磁波という新領域
に関する技術や無人兵器など、最新の科学技術が用いられている。その一方
で、ロシア軍の精密誘導兵器は枯渇し、5月から7月上旬まで、ウクライナ東
部における大規模かつ組織的火力戦という、伝統的な陸上戦闘主体の戦闘様相
となった。ロシア・ウクライナ戦争は、ロシア軍のウクライナへの3方向からの侵攻
(2022年2月24日〜3月上旬)、ウクライナ軍の反撃とロシア軍の戦線縮小
(2022年3月下旬〜4月頃)、ロシア軍のウクライナ東部ドンバス地方への戦
カ集中(2022年5月〜7月頃)、ウクライナ軍の反撃(2022年8月以降)と、
戦況が逐次推移している。特に、2022年9月以降、ウクライナ軍による反撃
の大きな進展が見られる。本稿は、こうした戦況推移のうち、2022年5月〜7月頃に行われたウクライ
ナ東部ドンバス地方における戦闘に関する分析を主体とする。この時期の戦闘
においては、ウクライナ軍の劣勢が伝えられ、ウクライナに対する欧米諸国か
らの支援の必要性に注目が集まった。また、米国においては、陸海空、宇宙、
サイバー、電磁波というそれぞれの領域に関して活発な議論がなされた。本稿
は、これらの各領域の能力を有機的に融合した領域横断作戦の視点から、同年
9月頃までに米国において発表されている分析等を踏まえ、その教訓を考察す
るものである。1 陸上領域:機動戦から火力戦への移行と野戦砲の火力差
2022年2月24日のロシア・ウクライナ戦争開戦当初、ロシア軍は3方向か
らの機動戦によりウクライナへ侵攻したが、その作戦は不調に終わり、ロシア
軍は多くの欠陥を露呈した。しかし、同年5月以降、ロシア軍は再編成を行
い、ウクライナ東部に戦力を集中した。そして野戦砲を主体とした大規模な火
力戦を行い、7月3日頃にはルハンスク州の占領に成功した1。
1 Institute for the Study of War. (July 3, 2022). Russian Offensive Campaign Assessment.
(https://www.understandingwar.org/backgrounder/russian-ofifensive-campaign-assessment-july-3)この間、ロシア軍の作戦には、大きな改善が見られた。それは、野戦砲を重
視した戦闘要領への転換であり、ロシア軍は圧倒的な野戦砲火力を狭い作戦範
囲に集中させることにより、局地的な攻撃前進に成功した2。6月の戦闘におい
てロシア軍が使用した砲弾数は、1日あたり約50,000発3とも、T0,000発4と
も言われている。ウクライナ軍の砲弾数はその約10分の1でしかなく、ロシ
ア軍は火力戦においてウクライナ軍を圧倒した5。この火力差により、ウクライ
ナ軍には1日あたり約200人の死者、約500人の負傷者が発生し、ウクライナ
は東部の自国領土を徐々に失っていった。ウクライナの外務大臣のドミトロ ・クレーバは、6月17日に『フォーリン・
アフェアーズ』誌に寄稿した論考において、「ウクライナには重火器がさらに
必要」と訴えた。「ロシア軍の火砲は、前線の重要な部分において、1対15で
ウクライナ軍を圧倒」しており、欧米諸国からの火力装備品の提供は「まだ少
なすぎる。」そして、「ウクライナが最も緊急で必要しているのは、何百もの多
連装ロケットシステムと155ミリ榴弾砲」であると訴えたのであるし
こうした圧倒的な火力差を埋めるため、欧米諸国によるウクライナ軍に対す
る火力装備品の支援が行われてきた。7月初めまでに、155mm榴弾砲126門
の支援が発表されるとともに8、合計8基のHIMARSがウクライナ軍の手に渡
った七 ウクライナ軍はHIMARSを用い、6月にはロシア軍の14の弾薬庫を
破壊し2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12.さらに7月下旬までに約50のロシア軍司令部と弾薬庫を破壊したと
いうろ ウクライナ軍は7月下旬には、HIMARSやMLRSなどの欧米から供
与された火力システムを効果的に活用し、ウクライナ南部港町ケルソンの奪回
に成功したん2 Stalano-Danlels, L. (June 19, 2022). Why Russia Keeps Turning to Mass Fire Power. Russian
artillery is an old tradition with brutal uses. Foreign Policy.
(https://fdreignpolicy.com/2022/06/19/why-russia-keeps-turning-to-mass-firepower/)
3 Ibid.
4 Gabbard, T. (June 27, 2022). Biden’s Endgame Shouldn’t Be Victory for Ukraine. Foreign Policy.
(https://fbreignpolicy.com/2022/06/27/us-ukraine-russia-war-endgame-victory-settlement-
negotiation-biden-putin-zelensky/)
5 Ibid.
6 Ibid.
7 Kuleba, D. (June 17, 2022). How Ukraine Will Win. Kyiv’s Theory of Victory. Foreign Policy.
(https://www.fdreignaffairs.com/articles/ukraine/2022-06-17/how-ukraine-will-win)
8 U.S. Department of Defense. (July 8, 2022). Fact Sheet on U.S. Security Assistance to Ukraine.
(https://www.defense.gov/News/Releases/Release/Article/3088006/fact-sheet-on-us-security-
assistance-to-ukraine/)
9 Detsch, J. (July 13, 2022). Ukraine Is Bringing a Big Gun to a Knife Fight. Foreign Policy.
(https://fdreignpolicy.com/2022/07/13/ukraine-himars-ammunition-russia-us/)
10 Ibid.
11 Klain, D. (August 2, 2022). Ukraine’s Battle for Kherson Could Be a Key Victory. Foreign Policy.
(https://foreignpolicy.com/2022/08/02/ukraines-battle-for-kherson-could-be-a-key-victory/)
12 Ibid.ロシア軍が野戦砲を主体とした火力戦を行っているのに対し、ウクライナ軍
に火力装備品を提供することは、対称的なアプローチであり、激しい消耗戦を
助長するという批判もあった、第二次世界大戦の開戦当初、強力なマジノ線
を構築して陣地戦を準備していたフランスに対し、ドイツは戦車を主体とした
機動戦により短期間でパリを陥落させた。こうした非対称的なアプローチの有
効性は、多くの戦例により示されている。しかしながら、機甲戦闘力を用いて機動戦を行うためには、十分な訓練と準
備が必要である。2014年以降、ウクライナ軍はドンバス地方の防衛のため、火
力を中心とした陣地戦を行うための防衛力整備に力を注いでおり、機甲戦闘力
を育成してこなかったという指摘もあった%このため、ウクライナ軍は機動
戦に優れておらず、当面の火力差を埋めるために、火力装備品を優先して要求
せざるを得なかったという見方である。こうした見方がある一方で、ウクライナ軍は、提供されたHIMARSを前線に
おける攻撃前進の支援に用いるのではなく、 ロシア軍の弾薬庫や司令部に対す
る攻撃に用いており、必ずしも対称的なアプローチを行ってはいない。ウクライ
ナ軍は、7月以降、ロシア軍の弾薬庫、司令部、兵站拠点、防空システムなどを
攻撃し、こうした攻撃によりロシア軍の継戦能力を徐々に削いでいった%これ
が、9月以降のウクライナ軍による主導権の奪回につながり、ロシア軍は無秩序
な退却を余儀なくされたのである。さらに、5月〜7月に行われたロシア軍による火力戦も、ロシア軍兵士の士
気の低下により、ロシア軍がやむを得ず行った戦い方であるという指摘もある
桂。すなわち、ロシア軍は、歩兵の士気が低いため、近接的な戦闘を避けて大
量の砲弾を用いるという戦い方をせざるを得なかったのである。このように、陸上領域においては、2月24日の開戦当初の機動戦から、5月
以降の野戦砲を主体とした火力戦に至るまで、ロシア軍の作戦に大きな変化が
見られた。ロシア軍は野戦砲を主体とした攻撃を行い、狭い範囲に大量の砲弾
を集中させ、局地的な攻撃前進に成功した。圧倒的な火力差を埋めるため、ウ
クライナは火力装備品を国際社会に対して要求し、それらは逐次ウクライナに
13 Clark, B., & Rough, P. (July 6, 2022). How to Equip Ukraine to Break the Black Sea Blockade.
Foreign Policy, (https://fbreignpolicy.com/2022/07/06/ukraine-war-russia-blockade-grain-exports-
black-sea-odesa-shipping-uav-gray-eagle-mq-1/)
14 Posen, B. (July 8, 2022). Ukraine’s Implausible Theories of Victory. Foreign Affairs.
https://www.foreignaffairs.com/articles/ukraine/2022-07-08/ukraines-implausible-theories-victory)
15 Detsch, J. (October 4, 2022). Russia’s Army Keeps Collapsing After Falling Back in Kherson.
Foreign Policy, (https://foreignpolicy.com/2022/10/04/russia-army-retreating-kherson-ukraine/);
Freedman, L. (September 23, 2022). All the Tsar’s Men. Why Mobilization Can’t Save Putin5s War.
War on the Rocks, (https://www.foreignaffairs.com/ukraine/all-tsars-men)
16 Detsch, J. (September 12, 2022). Ukraine’s Lightning Counteroffensive Approaches the Russian
Border. Foreign Policy, (https://foreignpolicy.com/2022/09/12/ukraine-advance-russia-border-war-
counteroffensive/)
提供された。こうした戦況を踏まえ、2022年5月〜7月頃の米国における分析は、ロシア
軍による火力戦の成果を強調し、ウクライナ軍の劣勢を懸念するものが多かつ
た。その中には、ウクライナ軍に対する火力装備品の提供に批判的な論調もあ
った。そうした中で、ウクライナ軍は、供与されたHIMARSなどの火力を用
いて、ロシア軍の弾薬庫などを根気強く攻撃し、ロシア軍の継戦能力を削いで
いった。そして、2022年9月、ウクライナ軍は大規模な反撃に成功したので
ある。ウクライナ軍の反撃が成功してからは、米国における論調も一転した。
ウクライナ軍の火力運用の巧みさを指摘するとともに、ロシア軍が行った火力
戦はロシア軍の歩兵の士気が低いためにやむを得ず行われたものという分析も
出現したのである。2 航空領域:「航空戦力のパラダイムシフト」
今般のロシア・ウクライナ戦争において、「航空戦力のパラダイムシフト」
が起きていると指摘されている七 これまでの戦闘において、ウクライナ軍、
ロシア軍の両陣営とも、一般的な意味での航空優勢を獲得できていない。20世
紀初めに航空戦力が戦争に使用されて以降、航空優勢の獲得は、陸上作戦、海
上作戦を行うにあたっての重要な要件であった。しかし、ロシア・ウクライナ
戦争においては、これまで両陣営とも航空優勢を獲得していない状態での戦闘
が続いている。ロシア軍の航空戦力は、これまでの戦闘において重要な役割を果たしていな
い。開戦から6月頃までに、ロシア軍機は96機撃墜されたお。ロシア軍の戦闘
機や爆撃機がウクライナ領空を飛行することはほとんどなく、飛行するとして
もレーダーの探知を避けるために低空を飛行している。しかし、低空を飛行す
れば、ウクライナ軍の対空砲やスティンガー携帯対空ミサイルの射程内とな
る。このため、これまでの作戦においてロシア軍が戦闘機、爆撃機を用いるこ
とは稀であると言われている。ロシア軍の航空作戦の失敗の原因として、ロシア航空宇宙軍の練度不足、精
密弾と照準センサーの不足、ロシア航空宇宙軍のリスク回避の傾向、統合交戦
区域の管理能力の不足などが指摘されている杓。また、NATO軍が近隣諸国上
17 Bremer, M. K., & Grieco, K.A. (June 15, 2022). In Denial About Denial: Why Ukraine’s Air
Success Should Worry the West. War on the Rocks, (https://warontherocks.com/2022/06/in-denial-
about-denial-why-ukraines-air-success-should-worry-the-west/)
18 Ibid,公刊情報に基づき6月!5日に発表された記事による。両陣営とも損害数は秘匿し
ており、この撃墜数は衛星画像又はソーシャルメディアへの投稿画像等から破壊を確認で
きた航空機(無人航空機を除く。)をカウントしたもの。19 Pietrucha, M. (August 11,2022). Amateur Hour Partll: Failing the Air Campaign. War on the
Rocks, (https://warontherocks.com/2022/08/amateur-hour-part-ii-failing-the-air-campaign/)
空を飛行するAWACSから得た情報をウクライナ軍に提供するなど、警戒監
視、情報収集の面においてウクライナ軍を支援しているという側面も大きい。
ウクライナ軍は、こうした情報を活用しつつ、長射程のS-300ミサイルと短射
程のスティンガー携帯対空ミサイルを組み合わせることにより、効果的な防空
作戦を行っている。このように、ロシア・ウクライナ戦争においては、航空機による航空優勢の
獲得よりも、陸上に設置された対空火器により相手方の航空機の領空への侵入
を阻止する「航空拒否」が主体となっている。これが「航空戦力のパラダイム
シフト」という指摘の理由である2°。1911年のイタリアートルコ戦争において
はじめて航空機が戦争に用いられて以来、航空戦力は重要な役割を一貫して果
たしてきた。そして、この100年間、航空機万能論が何度も出現してきた。こ
うした歴史を考えれば、ロシア・ウクライナ戦争における有人航空機の活動の
低調さは、時代を画する事象となる可能性もある。このように、有人航空機の活動が低調である一方、開戦当初においてウクラ
イナ軍の無人航空機の活躍が注目を集めた。しかし、5月以降ドンバス地方に
おける火力戦に移行してからは、ウクライナ軍の無人航空機の活躍が報じられ
なくなった。開戦当初に活躍したウクライナ軍の無人航空機は、トルコ製のバイラクタル
TB-2である。低速で飛行し、独特のレーダー断面形状を持つバイラクタル
TB-2は、通常の戦闘機を想定したロシア軍の防空システムのレーダーに探知
されず蜀、大きな戦果を挙げた。ただし、バイラクタルは、機体と地上管制装
置が通視線上のデータリンクにより接続されている必要がある。マニュアル上
の航続距離は約200マイルとされているものの22、地形上の障害物を考慮すれ
ば、地上管制装置と操縦士を前線近くに配置する必要があり、5月以降に行わ
れたような組織的な火力戦においては脆弱であった23。また、ロシア軍の電子戦部隊がウクライナ軍の無人航空機を効果的に妨害し
ているという指摘もある之%さらに、5月〜7月頃のロシア軍による大規模な火
力戦において、ロシア軍の砲兵部隊を妨害するにあたり、ウクライナ軍の無人
20 Ibid.
21 Ritter, J. (June 20, 2022). Getting Drones Ready for Conventional War. War on the Rocks.
(https://warontherocks.com/2022/06/getting-drones-ready-fbr-conventional-war/)
22兵器の諸元は米国において発表されている記事等の記述による。(これ以下の記述につ
いても同じ。)ただし、記事により記述されている諸元が異なる場合もあり、あくまでもそ
の中の一つを引用しているに過ぎない。また、ウクライナで実際に運用されている実際の
兵器の諸元は、公表されておらず不明である場合が多い。23 Ritter, Getting Drones Ready fbr Conventional War.
24 Clark, B. (July 30, 2022). The Fall and Rise of Russian Electronic Warfare. IEEE Spectrum.
(https://spectrum.ieee.org/the-fall-and-rise-of-russian-electronic-warfare)
航空機は、数量の観点から限界があった可能性もある。戦争初期に活躍したウクライナ軍のバイラクタルTB-2の性能上の限界が指
摘されたため、より航続距離の長い米国製の無人攻撃機、MQ-1グレイイーグ
ルに注目する意見もあった之七米国の支援策の一環としての供与が発表されたグレイイーグルは、バイラクタルの2倍の大きさで、強力なヘルファイヤミサ
イルを搭載し、人工衛星を介して遠隔地から操縦され、約25時間飛行する。しかし、ウクライナ東部ドンバス地方は、ロシア本国に隣接しており、ロシ
ア領内に高密度に配置されたS-300及びS-400対空ミサイルの射程内にある。このため、MQ-1グレイイーグルがロシア軍の対空ミサイルにより撃墜される
危険性が指摘された26。特に、グレイイーグルの価格は約1,000万ドルであ
り、安価なバイラクタルTB-2に比べ、撃墜される危険性の高い空域での運用
は、費用対効果が低いとされている。このように、今般のロシア・ウクライナ戦争においては、「航空戦力のパラ
ダイムシフト」が起きており、対空火器による航空拒否が主体となり、航空戦
カの活動が限定的となっている。ロシア軍の有人航空戦力の被害が大きく、そ
の活動は低調である。ウクライナ軍の無人航空機についても、開戦当初はその
活躍が注目されたが、ドンバス地方における組織的な火力戦に移行してから
は、活躍が報じられなくなった。そして、対空兵器の効果が大きく、双方の対
空兵器と電子戦兵器が、有人•無人の航空戦力の戦場への接近を阻止する状況
となっている。3 海上領域:ウクライナ軍の地対艦戦闘とロシア軍による海上封鎖
海上領域も、航空領域と同様に決定的な役割を果たしておらず、ウクライナ
軍とロシア軍の双方は膠着状態にある之,。これは、ウクライナが面している海
域が、閉鎖された内海に限定されているという、地理的特性によるところも大
きい。海上領域に関しては、ロシア軍によるウクライナの黒海航路封鎖が注目され
た。7月末には外交的な解決が図られたが、7月上旬までに約2,500万トンの
穀物がウクライナ国内に閉じ込められ、世界経済への影響と発展途上国におけ
25 Clark & Rough, How to Equip Ukraine to Break the Black Sea Blockade.
26 Detsch, J. (June 21,2022). ‘It’s Not Afghanistan5: Ukrainian Pilots Push Back on U.S.-Provided
Drones. Both the Biden administration and Ukraine are worried that American strike drones would
get shot down quickly. Foreign Policy, (https://fbreignpolicy.com/2022/06/21/ukraine-us-drones-
pushback/)
27 Johnson, D. (June 14, 2022). The Army Risks Reasoning Backwards In Analyzing Ukraine. War
on the Rocks, (https://warontherocks.com/2022/06/the-army-risks-reasoning-backwards-in-
analyzing-ukraine/)
る食糧危機が懸念された28。これらの穀物は、従来は低コストかつ大量輸送可
能な海上経路で輸出されており、鉄道などによる陸上輸送では代替困難であっ
た。このことは、大陸内部に位置し、黒海という内海にしか面していない国家
であっても、海上領域における優勢が極めて重要であることを示している。ウクライナ軍はこれまで、海上領域において戦果を挙げてきた。ロシア黒海
艦隊の旗艦「モスクワ」を始めとして、ウクライナ軍はいくつかのロシア艦船
を撃沈した。こうした地対艦攻撃は、商業衛星画像、スターリンク衛星ネット
ワーク、無人航空機バイラクタルTB-2、そしてウクライナ製の地対艦ミサイ
ルであるネプチューンによって行われた之%こうした地対艦攻撃の成功の結果、ロシア軍の海上戦力はウクライナの沿岸
に近づくことができない状態となった。しかしながら、ウクライナ軍の地上発
射型の地対艦ミサイルは、黒海全体を射程内に収めることができない。このた
め、海軍戦力をほとんど持たないウクライナ軍は、ロシア軍の黒海経路封鎖を
排除するができなかった。このように、海上優勢を獲得することは引き続き重要であるものの、ロシア
軍とウクライナ軍の双方ともそれを獲得できず、膠着状態が続いた。海上戦力
をほとんど持たないウクライナ軍は、地上発射型の地対艦ミサイルにより効果
的な戦闘を行い、ロシア海軍の沿岸への接近の拒否に成功した。しかし、その
射程には限界があり、ウクライナ軍は黒海全域を支配することができなかっ
た。4新領域(宇宙・サイバー•電磁波)
宇宙、サイバー、電磁波という新領域も、陸上戦闘の支援という側面におい
て重要な役割を果たしているものの、航空領域や海上領域と同様、ロシア・ウ
クライナ戦争において支配的な役割を果たしていないと言われている3〇。(1)宇宙領域
宇宙領域は、戦闘のない「聖域」であった冷戦時代、陸海空領域での戦いに
対する情報支援が盛んになった湾岸戦争以降の時代を経て、近年は戦闘そのも
のが行われる領域へと変化したと言われてきた31。すなわち、湾岸戦争以降、
宇宙領域による情報支援があまりにも効果的になったからこそ、敵の人工衛星
28 Clark & Rough, How to Equip Ukraine to Break the Black Sea Blockade.
29 Ibid.
30 Johnson, The Army Risks Reasoning Backwards in Analyzing Ukraine.
31福島康仁『宇宙と安全保障一軍事利用の潮流とガバナンスの模索』(千倉書房、2020
年)。
を破壊又は機能不全とし、戦闘において有利な態勢を獲得する必要性が高まっ
たのである。特に、2007年に中国が老朽化した自国の人工衛星に対するミサ
イルによる破壊実験を行って以降、その可能性が強く指摘されてきた。実際、今般のロシア・ウクライナ戦争においては、開戦当初にウクライナが
利用していたKA-SAT衛星がサイバー攻撃を受け、機能停止した。これは、初
めての宇宙領域に対するサイバー攻撃であるとして、注目を集めた。しかし、
ウクライナ政府の要請に対し、テスラ社のCEOイーロン・マスク氏が直ちに
支援を表明し、ウクライナにスターリンクが提供された。このため、結果とし
て、KA-SAT衛星への攻撃の影響は小さくなった。また、KA-SAT衛星へのサイバー攻撃のほか、宇宙領域における戦闘は発生
しなかった。ロシア軍は、人工衛星の物理的な破壊を行う能力を持っているに
もかかわらず、宇宙領域への物理的な攻撃を実施していない。すなわち、宇宙
領域そのものが戦闘空間となるというこれまでの予想に反し、宇宙領域そのも
のにおける戦闘はほとんど生起しなかった。ロシア軍がそうした攻撃を行わな
かった理由として、多量のデブリ発生に伴う自国の宇宙活動への影響と国際的
非難を考慮した可能性もある。また、スターリンクのような多数の人工衛星に
より構成されるシステムに対しては、物理的な攻撃が困難であるという側面も
ある。このように、ロシア軍が宇宙領域への大規模な攻撃を行わなかった結果、宇
宙領域は、ウクライナ軍の陸上及び海上領域の戦闘のための情報収集活動にお
いて、重要な役割を果たしている。特に、こうした情報収集活動にあたって
は、商業衛星が有用であることが示された’んウクライナ軍は、自国の宇宙戦
力がないにもかかわらず、欧米の商業衛星を活用した情報収集活動により効果
的な戦闘を行ってきた’七そして、商業衛星を用いた情報収集活動は、無人航
空機の普及と相まって、戦場を「透明」なものにしているのである。(2)サイバー領域
本年のロシア・ウクライナ戦争以前、多くの専門家が、戦争開始に伴いロシ
アが大規模なサイバー攻撃を送電網に対して行い、大規模な停電が起こる可能
性を指摘していた,んこうした「戦略的サイバー攻撃」は、ウクライナ人の士
気を低下させ、また陸海空、宇宙という物理的な領域の戦闘力を機能不全に陥
32 Johnson, The Army Risks Reasoning Backwards in Analyzing Ukraine.
33 Ibid.
34 Alperovitch, D. (January 28, 2022). How Russia Has Turned Ukraine Into a Cyber-Battlefield.
The Kremlin’s Hackers Are Already Targeting Kyiv. Foreign Afiairs.
(https://www.foreignaffairs.com/articles/russia-fsu/2022-01-28/how-russia-has-turned-ukraine-
cyber-battlefield)
らせるものであり、この10年間、その危険性が強く指摘されてきた。しか
し、前述のKA-SAT衛星へのサイバー攻撃以外、陸海空、宇宙という物理的な
領域に影響を及ぼすようなサイバー攻撃は成功しなかった。このような攻撃が成功しなかった理由として、米軍サイバー部隊や米八イテ
ク企業が重要な役割を果たし、ロシアのサイバー攻撃に対する防御に成功して
いたことが指摘されている35。4月6日に『フォーリン・アフェアーズ』誌に
掲載されたNATOのインテリジェンス及びセキュリティ担当事務次長補のディ
ヴィッド・カトラー氏の論考36によれば、「ロシアのウクライナに対するサイバ
ー攻撃の規模は大規模なものであったものの、米国のサイバー防御作戦により
それを防御することができた」という。また、マイクロソフト社のロシア・ウクライナ戦争に関する報告書によれ
ば、ロシアの活動のほとんどは、情報の窃取と世論への影響工作を目的とした
ものであり、情報システムを不能にしたり、物理的な影響を与えたりするもの
ではなかった37。このため、ロシアのサイバー領域における活動が、ウクライ
ナ軍の戦闘能力に影響を与えたという証拠は、公刊情報上において確認するこ
とができない。こうした点を踏まえ、「サイバー領域は、この戦争において重
要な役割を担っていない」という見方もある38。こうした指摘は、サイバー領域の重要性を損なうものではない。むしろ、ロ
シア・ウクライナ戦争は、サイバー領域の重要性の高まりを示している。ウク
ライナは、欧米諸国の政府とハイテク企業の支援を得て、開戦前からサイバー
領域の戦闘に関して多大な準備をしてきた。そして、開戦以降もロシアの大規
模なサイバー攻撃に対して、欧米諸国の支援を受けて的確な防御を行ってい
る。その結果として、ロシアのサイバー攻撃は、物理的な領域に対して大きな
影響を与えるような成果を得るに至っていないのである。(3)電磁波領域
電磁波領域については、ロシア軍の通信内容の盗聴や、ロシア軍幹部及び司
令部の位置を探知するにあたって、有益な役割を果たしている。ロシア軍の通
35 Detsch, J., & Yang, M. (March 30, 2022). Russia Prepares Destructive Cyberattacks. Foreign
Policy, (https://fbreignpolicy.com/2022/03/30/russia-cyber-attacks-us-ukraine-biden/)
36 Cattier, D., & Black, D. (April 6, 2022). The Myth of the Missing Cyberwar. Russia’s Hacking
Succeeded in Ukraine 一 And Poses a Threat Elsewhere, Too. Foreign Affairs.
(https://www.fbreignaffairs.com/articles/ukraine/2022-04-06/myth-missing-cyberwar)
37 Microsoft. (June 22, 2022). Defending Ukraine: Early Lessons from the Cyber War.
(https://query.prod.cms.rt.microsoft.com/cms/api/am/binary/RE50KOK)
38 Rovner, J. (July 19, 2022). Sabotage and War in Cyberspace. War on the Rocks.
(https://warontherocks.com/2022/07/sabotage-and-war-in-cyberspace/)
信インフラは性能が低く、特に最新の暗号通信機が不調であった39。このた
め、ロシア軍は民間の携帯電話などに依存し如、米国の諜報機関に通信内容を
傍受された。こうした情報収集活動により、ロシア軍の動きや位置、作戦計画
の内容などが米国を経由し、ウクライナ軍に提供された。米国は、こうした情
報を得てから30分から1時間以内にウクライナ軍に提供しているという41。こ
うした情報提供により、ウクライナ軍は多くのロシア軍将官の殺害に成功した。電磁波領域に関しては、ロシア軍は世界で最も経験豊富で、最も設備の整っ
た電子戦部隊を持っているとされてきた。実際、ロシア軍の電子戦部隊は、ウ
クライナ軍の砲兵の位置を特定するとともに、砲弾やロケット弾の誘導を行っ
ているという42。また、ウクライナ軍の無人兵器のレーダーと通信回線を妨害
し、ウクライナ軍がロシア軍の砲兵陣地を特定するのを妨げた。これに対し、
ウクライナ軍も、米国から提供された対ドローンシステムを使って、ロシア軍
のドローンのGPS信号を妨害し、また高出力マイクロ波により電子機器を損
傷させたりして、数百機を撃墜したという43。このように、現代戦においては、電磁波領域における戦闘の優劣は、戦局全
体に影響を及ぼすほど重要なものとなっている。しかし、ロシア・ウクライナ
戦争において、電磁波領域が十分な役割を果たしていないという見方もある
44〇それは、前述のように、ウクライナ軍とロシア軍双方の航空領域における
活動が低調であることと関連がある。すなわち、航空機を用いて電子戦を行う
ことに比べれば、地上型の電子戦兵器は、水平線以遠に電磁波を発射すること
が難しく 45、その影響範囲に限界があるという指摘がされているのである。以上のように、ロシア・ウクライナ戦争においては、ウクライナ軍とロシア
軍の双方が電磁波領域においても激しい戦闘を行っている。こうした戦闘の優
劣は戦局に大きな影響を及ぼし得る。ただし、ロシア・ウクライナ戦争におけ
る電磁波領域での作戦は、通信の傍受、砲兵の位置の特定、砲弾などの誘導、
無人兵器の妨害など、基本的には陸上における戦闘の支援が主体となってい
る。39 Abdalla, N. S, et al. (May 19, 2022). Intelligence and the War in Ukraine: Part2. War on the
Rocks, (https://warontherocks.com/2022/05/intelligence-and-the-war-in-ukraine-part-2/)
40 Detsch, J. (March 22, 2022). The Ukrainians Are Listening: Russia’s Military Redlines Are
Getting Owned. Foreign Policy, (https://fdreignpolicy.com/2022/03/22/ukraine-russia-military-
radio/)
41 Abdalla, Intelligence and the War in Ukraine: Part2.
42 Clark.rFhe Fall and Rise of Russian Electronic Warfare.
43 Ibid.
44 Ibid.
45ただし、電波伝搬特性は、周波数やその他の条件などにより異なる。5 ロシア・ウクライナ戦争の教訓事項
これまで述べてきたロシア・ウクライナ戦争における陸海空、宇宙、サイバ
ー、電磁波領域それぞれの状況を踏まえ、教訓を考察する。各領域の状況を踏
まえて得られる教訓としては、航空戦力の役割と戦力設計の再検討の必要性、
継戦能力の保持とハイテク兵器への依存の危険性、「透明化」する戦場への対
応の3つが考えられる。(1)航空戦力の役割と戦力設計の再検討の必要性
前述のように、ロシア・ウクライナ戦争においては「航空戦力のパラダイム
シフト」が起きていると言われているく&。すなわち、航空機による航空優勢の
獲得よりも、対空火器により相手方の航空機の領空への侵入を阻止する「航空
拒否」が主体となっている。こうした状況をもたらした原因の一つとして指摘されているのは、航空戦力
の高価格化である。例えば、歴代の米軍の戦闘機は、後継機が登場するたびに、
性能が向上しているものの、そのコストが平均約2.5倍以上になっているく,。
F22ラプターは1機約2億5,000万ドルであり、約6,500万ドルのF15イーグ
ルの約4倍である。40年前、ある米陸軍次官は皮肉を込めて言った48。「この
価格上昇が続けば、2054年には国防総省全体で年に1機しか購入できないだ
ろう。この航空機は空軍と海軍が週3.5日ずつ共有し、閏年にだけ海兵隊が使
うことができる。」これに対し、スティンガー対空ミサイルなど、対空兵器は比較的安価であ
る。この価格面の非対称性の結果、対空兵器の脅威下において、高価な最新鋭
戦闘機を運用することの費用対効果は、近年著しく低下している。この問題点は、航空戦力を無人化することによって解決されるものではな
い。航空戦力の無人化は、パイロットの人命を救うことにはなるが、高価な装
備品を安価な対空兵器によって撃墜されるリスクを低減するものではない。実
際、ロシア軍の対空兵器の脅威下において、米軍から供与される高価なMQ-1
グレイイーグルを運用することの危険性が指摘された49。一方で、バイラクタ
ルTB-2などの安価な無人航空機は、5月〜7月頃に野戦砲を主体とした組織的
な火力戦において、開戦当初のような活躍が報じられなくなった。こうした問題点は、回転翼機から成る陸上航空にも当てはまる。ロシア軍は
6月末までに170機以上の回転翼機を失ったとされており、両陣営とも回転翼
46 Ibid.
47 Bremer & Grieco. In Denial About Denial.
48 Ibid.
49 Detsch. cIfs Not Afghanistan\
機に関して甚大な損害を被っている5°。このため、米国においても、回転翼機
は「危機に瀕している」と言われている。例えば、米陸軍退役中将のデビッ
ド・バー ノは、ロシア・ウクライナ戦争の教訓を踏まえ、「将来の戦場におい
てヘリコプターが生存できない可能性を受け入れること」が必要であると指摘
している%ロシア・ウクライナ戦争の教訓に関する米軍の議論も暫定的なも
のであるが、今後米軍がどのような教訓を導き出し、どのように将来の戦力設
計につなげているかについても、注視することが必要であろう。(2 )継戦能力の保持とハイテク兵器への依存の危険性
ロシア・ウクライナ戦争は、「将来の戦争は短時間で決着がつく」という、
近年信じられてきた定説に疑問を投げかけるものである飛。2月24日の開戦以
来、半年以上が経過した9月末の時点においても、終結に至る兆しは見えてい
ない。開戦当初、ロシア軍は精密誘導兵器などの多くのハイテク兵器を用いたが、
既にその多くが枯渇していると言われている。また、ロシアは、経済制裁によ
り半導体の輸入を絶たれ、ハイテク兵器を補充する能力はない。このため、ロ
シアは、冷蔵庫や食器洗い機用の半導体を兵器に転用するなど、苦しい補給活
動を続けている53。継戦能力については、欧米諸国の支援を受けるウクライナ
側に分がある。欧米諸国の支援を円滑に受けるにあたっては、ウクライナ軍が
開戦前からNATO標準化を進めてきたという要因も大きい。ただし、ハイテク兵器の枯渇は、経済制裁を受けているロシア軍だけの問題
ではない。米国においても、ロシア・ウクライナ戦争のような消耗戦が生起し
た場合に、自国の継戦能力がそれに耐えられるかという点について、盛んに議
論が行われている。例えば、米国はウクライナに多くのジャベリン対戦車ミサ
イルとスティンガー対空ミサイルを供与したが、それを補充するのにジャべリ
ンは3〜4年、スティンガーは5年かかると言われているうんロッキード・マー
50 Barno, D., & Bensahel,N. (June 27, 2022). The Other Big Lessons That the U.S. Army Should
Learn from Ukraine. War on the Rocks, (https://warontherocks.com/2022/06/the-other-big-lessons-
that-the-u-s-army-should-learn-from-ukraine/)
51 Ibid.
52 Johnson, D. (July 5, 2022). A Modern Day Frederick the Great? The End of Short, Sharp Wars.
War on the Rocks, (https://warontherocks.com/2022/07/a-modern-day-frederick-the-great-the-end-
of-short-sharp-wars/)
53 Jentleson, B. W. (August 18, 2022). Who’s Winning the Sanctions War? The West has inflicted
damage on the Russian economy, but Putin has so far contained those costs. Foreign Policy.
(https://fbreignpolicy.com/2022/08/18/russia-ukraine-war-economy-sanctions-putin/)
54 Crane, C. (May 9, 2022) Too Fragile to Fight: Could the U.S. Military Withstand a War of
Attrition. War on the Rocks, (https://warontherocks.com/2022/05/too-fragile-to-fight-could-the-u-s-
military-withstand-a-war-ol-attrition/)
ティン社は5月にジャベリンの年間生産量を2倍にすると公表したが、レイセ
オン社は部品不足のため2023年までスティンガーを増産できないという%誘導兵器などのハイテク兵器が枯渇した結果、ロシア軍は5月以降、野戦砲
を中心とした火力戦へと戦闘要領を変換した。しかし、1日あたり約50,000
発以上の砲弾を狭い正面に集中させることにより、局地的な攻撃前進に成功し
た56。ただし、欧米の制裁措置によりロシア軍は野戦砲弾の補充も困難であ
る。このため、こうした戦い方の継続も、野戦砲弾の保有数に依存する。実
際、7月以降、ウクライナ軍が米国から供与されたHIMARSを活用してロシ
ア軍の弾薬庫を継続的に攻撃した結果、ロシア軍は火力戦を続けることができ
なくなった。このように、ロシア・ウクライナ戦争は、継戦能力を保持することの重要性
を示すものである。一度戦争が始まってしまえば、それが短期間で終結すると
いう保証はない。このため、十分な弾薬、装備品、整備用の補給品などを保有
することが重要である。ただし、高価な誘導弾などのハイテク兵器を、長期間の戦争に堪えられるだ
けの量を備蓄し、さらにその補充のための生産ラインを維持するためには、莫
大な予算が必要となる。実際、米国のような軍事大国ですら、ウクライナ軍が
大量に消費するジャベリンとスティンガーを十分に備蓄しておらず、増産もで
きていない。このため、高価な誘導弾のみに頼ることなく、野戦砲などを含め
た総合的、複合的な装備品と弾薬の保持が必要であろう。また、弾薬などの備
蓄や生産にあたっては、同盟国、パートナー国などとの提携や互換性の保持も
重要であろう。(3)「透明化」する戦場への対応
ロシア・ウクライナ戦争において、ウクライナ軍は、無人航空機と商業衛星
を活用した情報収集活動により、効果的な戦闘を行ってきた吃ロシア軍の侵
攻の数日後、ゼレンスキー大統領は、ウクライナ軍に高解像度の画像をリアル
タイムで提供するよう、欧米の大手民間通信会社に訴えた。商業衛星画像は、
ウクライナに対する国際社会の支持を集め、ウクライナ軍の作戦に情報を提供
し、ロシアの偽情報に対抗するのにも役立っている58。55 Brathwaite, K. J. H., & Konaev, M. (June 29, 2022). The Real Key to Victory in Ukraine. Foreign
Affairs, (https://www.fdreignaffairs.com/articles/ukraine/2022-06-29/real-key-victory-ukraine)
56 Ibid.
57 Ibid.
58 Lin-Greenberg, E., & Milonopoulos, T. (May 30, 2022). Boots on the Ground, Eyes in the Sky.
Foreign Affairs, (https://www.fbreignaffairs.com/articles/ukraine/2022-05-30/boots-ground-eyes-
sky)ロシア・ウクライナ戦争は、オープンソースの情報により、戦場が「透明
化」している。例えば、開戦直前の2月中旬、ロシア軍がウクライナ国境から
部隊を引き揚げ始めたと発表すると、NATO事務総長はオープンソースの衛星
画像を引用してそれを強く否定した。また、ロシア軍の侵攻が始まったことを
示す最も早い兆候は、インターネット上において確認できるベラルーシの交通
渋滞の情報であった。さらに、ロシア軍のブチャにおける残虐行為に関し、欧
米の報道各社は商業衛星画像を分析し、ロシア軍の撤退前に人体が路上にあ
り、集団墓地が存在していたことを立証した易。このように、ロシア・ウクライナ戦争においては、安価な商業衛星画像、ソ
ーシャルメディアへの膨大な投稿、スマートフォンの写真、商用ドローンの動
画など、オープンソースの情報が爆発的に増え、それらが活用されている。こ
うして、戦争史上前例のない方法で、ロシア軍の活動やその正確な位置が明ら
かになったと言われている%このような状況を踏まえ、米陸軍退役中将のデ
ビッド・バーノは、「将来の戦場においては、身を隠せない可能性があること
を認識すること」が必要であると指摘している用。商業用衛星の大規模な活用による上空からの監視に対処するため、デコイを
活用し、監視の目を欺くことも考えられる。しかし、現在の世界人口は増加の
一途をたどっており、その多くがスマートフォンを持ち、撮影された画像が直
ちにソーシャルメディアにおいて共有されている。こうした状況を考えれば、
将来の戦争において、兵器の偽装やデコイの活用により敵の目を欺くことにも
限界がある可能性がある。この状況を踏まえれば、古くから存在する「奇襲」の原則に関し、その実行
の可能性について精査する必要があるも?。戦術原則は、決して不変のものでは
ない。例えば、1866年の普填戦争において電信技術が広く用いられるまで、
国民軍のような大規模兵力を指揮する方策として、「内線」が戦術原則の一つ
であった。これは、伝令を使って状況を掌握するとともに、款下部隊に命令を
下すには、指揮官を中心として部隊を配置し、内線的な作戦を行うことが有利
であったためである。一方で、電信技術が用いられるようになると、人類史上
はじめて、外線作戦を実施しても命令の伝達と状況の掌握をできるようにな
り、敵を包囲できる外線作戦の本質的な有利さが生きてくる時代となったので
あるもん59 Ibid.
60 Barno & Bensahel, The Other Big Lessons That the U.S. Army Should Learn from Ukraine.
61 Ibid.
62 Johnson, The Army Risks Reasoning Backwards In Analyzing Ukraine.
63例えば、陸自教範「野外令」は、内線作戦と外線作戦の存在のみ記述しており、どちら
が有利であるといった記述はない。このように、19世紀初めには「原則」の一つであっ
このように、新技術の導入に伴い、これまでの歴史において戦術原則は変化
してきた。商業人工衛星、スマートフォン、商用ドローンの動画など、オープ
ンソースの情報の爆発的増加は、戦場の「透明化」をもたらしている。この変
化は、「透明化」した戦場に対応するための戦力設計、戦い方の開発に加え
て、戦術原則まで変化させ得るものである。ただし、奇襲の概念自体がなくなるわけではないだろう。兵器や部隊の物理
的な動作を伴う奇襲が困難になったとしても、非物理的な領域における奇襲、
技術的な奇襲は存在し続けるであろう。戦争の本質的な複雑性を考えれば、敵
の行動の全てを完全に予測することはできないのである。おわりに
ロシア・ウクライナ戦争は、新技術の実験場と化していると言われている
64〇ウクライナ軍は、無人航空機、徘徊型兵器、商業衛星などを効果的に活用
し、従来型戦力に優るロシア軍に対して互角以上の戦闘を繰り広げている。た
だし、ウクライナ軍が活用している新技術は、必ずしも最先端の高度な技術で
はなく、むしろ安価で導入しやすい、成熟した技術である%ウクライナ軍が優れているのは、技術そのものではなく、その運用要領であ
る。バイラクタルTB2は、安価であるものの、速度が遅いなど、必ずしも性
能の良い無人航空機ではない。しかし、ウクライナ軍はこれを火砲や装甲車な
どの速度が遅い目標、静止目標、海上目標への攻撃に際しての「目くらまし」
に用いるなどして、大きな戦果を挙げた&七技術そのものの優越ではなく、その運用要領が戦闘の勝敗を決することは、
歴史が証明している。1940年にドイツ陸軍が行った電撃戦の中心的技術は、
当時の最新兵器の戦車であった。しかし、戦車の保有数とその性能において
は、敗戦側のフランスが優れていた。同じく1870年〜71年の普仏戦争におい
て、当時の最新技術であった鉄道を用いて効果的に戦力を輸送したことが、プ
ロイセンの勝因の一つとされている。しかし、鉄道の性能と国内の線路の数に
関しては、敗戦側のフランスが優れていた。最新技術を開発し、それを取り入
れることは重要である。しかし、さらに重要なのは、如何にそれを運用するか
という、新たな用兵思想の開発なのである。た「内線」は、2 0世紀には原則ではなくなっている。
64 Kahn, L. (August 29, 2022). How Ukraine Is Remaking War: Technological Advancements Are
Helping Kyiv Succeed. Foreign Affairs, (https://www.fdreignaffairs.com/ukraine/how-ukraine-
remaking-war)
65 Ibid.
66 Ibid.また、ロシア・ウクライナ戦争は、ここ数十年で初めての陸上戦闘が主体の
戦争であると言われている67。ウクライナ軍は、ロシア軍が行った火力戦に対
し、宇宙、サイバー、電磁波などの新領域おいて効果的な戦闘を行うととも
に、米国から供与されたHIMARSを用いてロシア軍の弾薬庫を攻撃するな
ど、非対称的な戦闘を効果的に行った。しかし、ウクライナ軍は、ロシア軍に
奪われた領土を取り戻すため、最終的には陸上部隊を進軍させる必要があっ
た。如何に最新技術が発達したとしても、人々が生活する土地を守り、後世の
ために残すためには、従来型の陸上戦闘を行う能力は必要不可欠なのである。筆者紹介
高木 耕一郎(たかぎ こういちろう) 1等陸佐 教育訓練研究本部付(ノ、
ドソン研究所客員研究員)
陸上幕僚監部防衛部防衛課防衛班、統合幕僚監部運用部運用第1課防衛警備班
等を経て、現職。
67 Barno & Bensahel. The Other Big Lessons That the U.S. Army Should Learn from Ukraine. -
【動画】ロシア軍の実態に最新の調査手法で迫る 小泉悠氏
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20230721/k10014137751000.html
『2023年7月21日 19時12分
ロシアによるウクライナ侵攻をめぐり、衛星画像などのデータ分析を駆使した最新の調査手法が注目を集めています。
「オープンソースインテリジェンス=OSINT(オシント)」とよばれ、かつては各国の軍や情報機関が中心でしたが、いま、世界中の民間の研究者やメディアも取り組む、新たな潮流となっています。
日本でこの分野をけん引してきた1人が、東京大学先端科学技術研究センターの専任講師、小泉悠さんです。OSINTを駆使してウクライナ侵攻に迫る小泉さんの取り組みを取材しました。
(7月19日の「国際報道2023」で放送した内容です。
動画は9分38秒。データ放送ではご覧になれません)』 -
ロシア、連日の穀物施設攻撃 ウクライナは対抗措置
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB212GH0R20C23A7000000/『ロシアがウクライナ最大の港湾都市、南部オデッサへの攻撃を強めている。21日も穀物施設を連日ミサイル攻撃し、ウクライナに入港する船舶を攻撃する可能性も示唆する。同国産穀物の黒海ルートでの輸送妨害や、欧米による制裁の緩和が狙いだ。ウクライナは対抗措置を打ち出しており、黒海周辺の緊張は高まる。
「敵(ロシア)はエンドウ豆100トンと大麦20トンを破壊した」。オデッサ州知事は21日、ロシア軍のミサイルが…
この記事は会員限定です。登録すると続きをお読みいただけます。』
-
ポストアンコール時代
https://en.wikipedia.org/wiki/Post-Angkor_period※ 今日は、こんな所で…。















『(※ 翻訳は、Google翻訳)
カンボジアのポストアンコール時代(クメール語: ប្រទេសកម្ពុជាក្រោយសម័យអង្គរ )、中期とも呼ばれ、[1]は 15 世紀初頭からの歴史的時代を指します。 1863 年までの 1 世紀、フランスによるカンボジア保護領の始まり。信頼できる情報源(特に 15 世紀と 16 世紀のもの)は非常に稀であるため、科学界が満場一致で認めた、クメール帝国の衰退を示す具体的な出来事に関する擁護可能で決定的な説明はこれまでのところ生み出されていない。 。[2] [3]しかし、ほとんどの現代の歴史家は、宗教的、王朝的、行政的、軍事的性質、環境問題、生態学的不均衡[4]のいくつかの明確で段階的な変化がインドシナの権力の変遷と一致しており、解釈。[5] [6] [7]近年、学者の焦点は人間と環境の相互作用や、洪水や干ばつなどの自然災害を含む生態学的影響にますます移ってきています。[8] [9] [10] [11]
カンボジア王国
ក្រុងកម្ពុជាធិបតី (クメール語)
1431–1863
国旗
西暦1540年のカンボジアと東南アジア本土首都
スレイ・ソルチョル (1431–1434) チャクトムク (1434–1525) ロンヴェク (1525–1603) ルヴェア・エーム (1603–1620) ウドン (1620–1863)
共通言語
中期クメール (1777 年まで)
クメール語宗教
仏教
悪魔名
カンボジア人
政府
絶対君主制
君主- 1431 ~ 1463 年
ポンヘア・ヤット (最初) - 1860 ~ 1863 年
ノロドム (最後)
歴史的な時代
近世 - アンコール包囲戦
1431 - シャムの侵入
1594年 - フランス保護領
1863年8月11日
人口 - 1500
1,200,000 [要出典] - 1700
1,650,000 [要出典]
通貨
ティカル
ISO 3166コード
KH
前任者 成功したのは
クメール帝国
フランスのカンボジア保護領
今日はその一部
カンボジア
タイ
ベトナムクメール史の主要な資料であった寺院の石碑は、13 世紀を通じてすでに稀少であり、14 世紀の 30 年代に終わり、16 世紀半ばまで再開されません。王室年表の記録は、1327 年から 1336 年まで在位したジャヤヴァルマン 9 世パラメーシュワラ (またはジャヤヴァルマ=パラメーシュワラ) 王の時代に打ち切られています。200 年以上にわたり、王の名前さえも記録した現代の記録は一つも存在していません。記念碑的な寺院建築の建設と維持は、ジャヤヴァルマン 7 世の治世後に行き詰まっていました。著者マイケル・ヴィッカリー氏によれば、カンボジアの15世紀に関する外部情報源は中国の明実録のみであるという。(英語の真の記録) 年代記と最古のアユタヤ王室年代記[12]は、最大限の注意を払って解釈する必要があります。[13]
間違いなく現実を反映し、15 世紀全体の中心基準点となるこの単一の事件は、1431 年頃、首都ヤソーダラプラ(アンコール トム) で行われた、何らかの未公開の性質のシャムの介入です。歴史家は、この出来事を、カンボジアの政治的中心が南のプノンペンの河港地域とその後のロンベクへの移動に関連付けています。[14] [15]
16 世紀の資料はさらに多数ありますが、依然としてカンボジア国外からもたらされています。この王国はメコン川を中心としており、アジアの海上貿易ネットワークの不可欠な部分として繁栄しており[16] [17] 、実際にヨーロッパの探検家や冒険家との最初の接触がここを経由して行われた。[18]シャムとの戦争は西部の領土を失い、最終的には1594年に首都ロンヴェクを征服した。ベトナム人は「南進」してメコンデルタのプレイノコール/サイゴンに到達した。17世紀に。この出来事は、カンボジアが海へのアクセスと独立した海洋貿易を失うというゆっくりとしたプロセスを開始します。[19]
17 世紀から 18 世紀にかけてシャムとベトナムの支配が強化され、クメール君主の権威が臣下の状態に低下するにつれて権力の座が頻繁に移動する事態を引き起こしました。両勢力はカンボジア法廷に対して交互に服従と貢物を要求した。[20] 19世紀初頭、ベトナムとシャムの王朝が確立すると、カンボジアは国家主権を失い、共同宗主権下に置かれた。英国代理人ジョン・クロファードは、「…あの古代王国の王は、ヨーロッパ諸国の保護下に身を投じる用意がある…」カンボジアをベトナムとシャムに編入することから救うため、アン・ズオン王は植民地フランスの申し出に同意した。この保護法は、1863年8月11日にノロドム・プロンバリラク国王が署名し、フランス保護領を正式に承認することで発効した。[21]
コンテンツ
歴史的背景と原因編集
クメール帝国は、 8 世紀から 9 世紀の初期以来、東南アジア本土 の大部分に対して着実に覇権を獲得してきました。西の隣国、現在のビルマのモン族の異教王国との対立や戦争は、東のチャンパとの戦争ほど数も決定的でもありませんでした。クメール語とチャム語のヒンドゥー教 王国は何世紀にもわたって互いの封じ込めに気をとられており、クメールの軍事目標の一つは「アンコール王スーリヤヴァルマン2世とジャヤヴァルマン7世の治世下」だったと主張されている。チャム港の征服、「…当時の国際貿易において重要だった」。[22] 1177年のチャム族によるアンコール侵攻など、クメール人は多くの深刻な敗北を喫したにもかかわらず、1181年のチャム族都市国家ヴィジャヤ侵攻のときのように、帝国はすぐに回復し反撃することができた。[23] [24]
モンゴル人の中国南部への侵入と政治的・文化的圧力により、12世紀にタイ族とタイ族が南下し、チャオプラヤ川上流に定住しました。[25]スコータイ王国と後にアユタヤ王国が設立され、「…メナム渓谷の上部と中央のクメール人を征服し、その領土を大幅に拡大した…」[26]
軍事的挫折編集
カンボジア王室年代記やアユタヤ王室年代記[27]などの多くの資料には、軍事遠征や襲撃の記録が日付や君主や軍閥の名前とともに記載されているが、デイビッド・チャンドラーやマイケル・ヴィッカリーなどの影響力のある学者数人は、これらの文書の正確性と信頼性に疑問を抱いている。[28] [29] [30]ただし、他の著者はこの厳格な「全体的な評価」を批判しています。[31]
デビッド・チャンドラーは、『歴史執筆世界百科事典』第 2 巻の中で次のように述べている。「マイケル・ヴィッカリーは、1550 年より前の出来事を扱うこの本を含むカンボジアの年代記は検証不可能であり、多くの場合、タイに関するタイの年代記からコピーされたものであると主張した…」 [28] [32] 言語学者のジャン=ミッシェル・フィリッピは次のように結論づけている。コー。」[33]類似点は、ラムカムヘン論争の顕著な例として、タイの年代記にも当てはまります。[34] [35]
パラマヌチッチノロートのシャム王室年代記によると、衝突は1350年、1380年頃、1418年、1431年頃に起きた[36] [37] 。
「1350/1351年、おそらく1350年4月、ラマディパティ王は息子のラメシュヴァラにカンブジャ王の首都(アンコール)を攻撃させ、スパンブリーのパラマラジャ(ファングア)に彼を支援させるために進軍させた。カンブジャの首都は占領され、多くの家族が首都アユディヤに移送された。 当時[1380年頃]カンブジャの支配者がチョンブリーを攻撃し、地方から東方のチャンタブリーへ家族を連行し、[カンボジア軍とともに]カンブジャに戻った約6、7千人に達した。そこで国王はカンブジャを攻撃し、占領して首都に戻った。 それから[1418年]彼はカンブジャの首都アンコールを攻撃し、占領した。」
土地か人か?編集
シャムの情報源には、チェンマイやアンコールにある敗戦国の首都や文明の中心地からかなりの数の住民を捕獲する習慣が記録されており、これが文化の衰退を加速させたと考えられる。[37] [38]
中国絵画の18世紀のカンボジア人、謝隋作の 「定期供養の肖像」 。
著者のマイケル・ヴィッカリーは、著書『ビエンチャン王国の二つの歴史的記録 – 土地か人々か?』の中で、この主題の重要性について議論しており、「アンコールが単に豊かな農業資源を支配するのではなく、タイ中部での人的資源を望んでいたかどうかは、まったく確かではない」と述べている。そして、「…初期の東南アジアの政治経済の結果、統治者は土地の支配と人々の支配のどちらに関心を持つようになったのか…」そして「…この議論の双方が、その場限りの、ケースバイケースの宣言を提示し、それが呪文のように繰り返されてきました…この問題についての批判的な議論は長い間待ち望まれていました…」
反対の意見
著者のアキン・ラビバダナはラーム・カムヘンの言葉を引用し、「歴史的な東南アジア本土諸国の特別な特徴の一つは、人的資源の不足であった。人的資源の必要性は、タイと近隣諸国との間の各戦争後の出来事によってよく示されている。勝利した側は常に、征服された領土から多くの人々を連れ去った。しばしば村全体が征服者の領土に移され、そこで彼らは同化され、征服者の住民となった。」
デビッド・K・ワイアット:「他のものと同様に、タイムアンは、労働力と農業技術に関して土地が豊富な地域で人的資源を効率的に使用するための手段でした。」
そして、アウン=スウィンは次のように書いている。「初期の東南アジアの戦争の多くは、勝者が打ち負かした敵の人口の半分を奪い、後に彼らを自分の土地に再定住させる光景を目撃した。パガンはビルマの乾燥地帯に位置し、その経済基盤は主に灌漑農業に依存していた。土地は豊富だったが、労働力を得るのは極めて困難だった。」[39]
王朝的および宗教的要因編集
1863年まではカンボジア王国の国旗でした。初期のクメール王国から、ムン川渓谷のピマーイにあるダンレック山脈の西に始まったマヒダラプラ王朝 (初代国王ジャヤヴァルマン 6 世、1080 ~ 1107 年)の確固たる確立までの完全な移行は数十年続きました。一部の歴史家は、これらの王は絶対的な中央行政管理を獲得できず、地方資源へのアクセスも限られていたと主張する。王朝は「祭祀政策」と系図的伝統を廃止した。最終的には大乗仏教が容認され、スーリヤヴァルマン 1 世を含む数人の仏教王が出現すると、さらなる勢いが続きました。 ラジェンドラヴァルマン 2 世とジャヤヴァルマン 7 世。[41]
これらの統治者たちは神であるとは考えておらず、また自らを神であるとは考えていなかったので、王の権威、中央権力に対する認識の変化、そして外国の統治者に対する王朝の威信の喪失につながりました。事実上、王室臣下には、聖別された指導者「ヴァルマン」 ――守護王を擁する軍事的優位のヒンズー教国家からの注意と支援を、仏教寺院の相反する教えによる内なる世界のオルタナティブへと向け直す許可が与えられたのだ。インドラヴァルマン 3 世(1295 年頃 – 1308 年) は、上座部仏教を国教として採用しました[42]。これは、達成するための功績を蓄積する個人および個人の責任に対するさらに受動的で内向的な焦点を暗示していました。涅槃。[43]
ミリアム・T・スタークは、9世紀以来、王位継承、簒奪者、そして「二級」支配者を巡る競争と対立が王国の特徴となっていたと主張している。「地方レベルから統制を奪うことができたのは少数の統治者だけだったため、…統合と政治的分裂が交互に続いた」時代。[44]
王国が成長して外国の土地を占領するにつれて、帝国社会がどのように発展していったのかについては、依然として議論が続いている。著者らは、東南アジアの王と民衆の忠誠心、アイデンティティの性質と程度、マンダラの概念、国家宗教の変化の影響との関係について、数多くの理論を提示している。学者のベン・キーナンは、 『血と土:現代の虐殺1500-2000年』の中で著者ヴィクター・リーバーマンに言及し、民族や国家の概念に固執するよりも普遍的な宗教と同一視する傾向を強調している「[地方裁判所は]…支配者が臣民と同じ民族であることなどの正式な要求はない」 [45] [ 46 ]
環境問題とインフラの崩壊編集
歴史家は、アンコールのヤソーダラプラでの「…深く儀式化された精巧な水力工学システム…」 [47] の繊細な灌漑網と運河システムの生態学的不均衡が進行したことが衰退の原因となったという考えをますます主張している。最近の研究によると、灌漑システムが過剰に使用され、徐々に泥が堆積し始め、それが大規模な森林伐採によってさらに拡大したことが示されています。運河や堤防の代わりに恒久的な記念碑の建設プロジェクトや寺院の維持管理が王室の財源に多大な負担をかけ、何千人もの奴隷や庶民が公共労働力から流出し、税赤字を引き起こした [48] 。[49]
著者のヘン・L・トゥン氏は、『地質学とアンコールの衰退』の中で常識に言及し、次のようにまとめています。「…長い乾期に備えて水を蓄える必要性にクメール人が夢中になっていたこと。人間と獣の両方に飲料水と家庭用水を供給するため、各家庭に池が必要であった。アンコールのバライ[貯水池]は、単に都市人口の必要性の現れであった。水はアンコールにとって生命の泉であり、その供給の混乱であった」致命的だろう。」[50]
アンコールの最近のライダー(光検出と測距)ジオスキャンは、いくつかの「ユリイカの瞬間」を引き起こし、「アンコール地域の都市主義に対する私たちの理解を大きく変えた」新しいデータを生み出しました。[51]年輪年代学的研究の結果は、14 世紀から 15 世紀にかけて長期間の干ばつがあったことを示唆しています。[52]その結果、最近のこの時代の再解釈では、人間と環境の相互作用と生態学的影響がより重視されるようになった。[8]
チャクトムク時代編集首都ヤソーダラプラ[53]とアンコール遺跡群の放棄後、わずかに残ったクメール人生存者はシャム人の援助を得て、南東約200キロのメコン川とトンレサップ川の合流点、現在のプノンペンにあたる場所に新たな首都を設立した。このようにして、メコンデルタを経由して中国海岸、南シナ海、インド洋を結ぶ国際貿易ルートにアクセスし、クメールの中心地、シャム上流部、ラオス王国の河川貿易を支配した。。内陸部の前身社会とは異なり、この社会は外界に対してより開かれており、富の源として主に商業に依存していました。明王朝(1368 ~ 1644 年)に中国との海上貿易が導入されたことにより、王室貿易独占を支配していたカンボジアのエリート層に有利な機会が提供されました。[54]
首都が消滅しても、アンコール寺院はこれまでと同様に国家の中心であり続けたことに歴史家は同意しています。デビッド・P・チャンドラー:「1747年の碑文は、アンコール・ワットにおける最後の広範な碑文であり、フランス人によって「発見」されるわずか1世紀前に、カンボジアの宗教生活におけるこの寺院の重要性を明らかにしている。」[55]
ロンヴェク時代編集
ポルトガルの地図上のカンボジアの描写 (17 世紀)
アン チャン 1 世 (1516 ~ 1566 年) は首都をプノンペンから北のトンレサップ川岸のロンヴェクに移しました。貿易は重要な特徴であり、「 … 16 世紀にはアジアの商業圏において二次的な役割を果たしていたように見えましたが、カンボジアの港は実際に繁栄しました。 」そこで取引される製品には、貴石、金属、絹、綿、線香、象牙、漆、家畜(象を含む)、およびサイの角が含まれていました。
西洋とのファーストコンタクト編集
マラッカの征服者であるポルトガルの 提督 アルフォンソ・デ・アルブケルケの使者は1511年にインドシナに到着したが、これは記録に残るヨーロッパの船員との最も早い公式接触である。16 世紀後半から 17 世紀初頭まで、ロンヴェクは中国人、インドネシア人、マレー人、日本人、アラブ人、スペイン人、イギリス人、オランダ人、ポルトガル人の商人による繁栄したコミュニティを維持しました。[56] [57]
キリスト教の宣教活動は、1555 年にカンボジア王国に初めて足を踏み入れたポルトガルの聖職者修道士 ガスパール・ダ・クルス[58]によって始まりましたが、彼は「神の言葉を広めることができず、重病を患っていました[原文ママ]」。その後の試みでは会衆を実証できる結果は得られませんでした。[59] [60] [61]
シャムの侵入編集
オランダの地図製作者ヨハネス・ヴィンブーンズ による絵「カンボジアのホーフトシュタット、オーウェック – カンボジアの首都ロンヴェック」
詳細は「シャム・カンボジア戦争 (1591-1594)」および「カンボジア・スペイン戦争」を参照
カンボジアは1583年にタイの王子で軍閥のナレスアンによって攻撃され[62]、ロンヴェクは1594年に捕らえられ、これがこの都市にシャム軍総督の設立の始まりとなった。主権者の座が臣下の座に降格されたことにより、初めて王国に対してある程度の外国政治的支配が確立された。[63] [64] [65] [66]ロンヴェクでシャムが首都を占領した後、カンボジア王族は人質に取られてアユタヤの宮廷に移送され、永続的にタイの影響下に置かれ、君主の監視の下で互いに妥協し競争するまま放置された。[67]
当初は一部の王室メンバーがビエンチャンのラオス宮廷に避難することができた幸運な状況だったが、クメール王族の健康と誠実さにとっては多くの不吉な章の一つとして終わった。難民たちは請求を求めて戻ってくることはなかった。ラオスで生まれ育った彼らの息子たちは、予想のとおり疎外され、「適度に」操られながら、シャムの親族と対立し、下位の生まれで統治していた国王ラム1世をスペインとポルトガルの船員の助けで殺害させた。[68]
カンボジア・スペイン戦争で外国人の手、マレー人とチャム人が関与して彼らが殺害され敗北した直後。この王室の屈辱のパターンは、17 世紀、18 世紀、19 世紀に続いたことで顕著であり、フエのベトナム宮廷も王室劇のさらなる舞台として加わりました。[69]結婚政策への介入に成功した保護者たちによって促進され、画策された王室候補者の口論は、数十年にわたって、競争上の権威の効果的な国王を回復する機会をしばしば妨げた。[70] [71]
スレイ・サンソール時代編集
プレア ラム 1 世とプレア ラム 2 世は何度か首都を移転し、プノンペンの北東約 40 キロメートルのトゥール バサン (スレイ サントール)に王都を築き、その後ポーサット、ラベア エム、そして最後にウドンを築きました。1596年、マニラから来たスペイン人とポルトガル人の征服者たちがスレイ・サントールを襲撃し、破壊した。[73]
1597年、マレー系イスラム商人がカンボジアを征服しようとしたスペインの征服者を虐殺した。
ウドン時代編集
カンボジアの旧首都 プノン・ウドン。
17世紀までにシャムとベトナムは肥沃なメコン流域の支配権を巡って争いを強め、弱体化したカンボジアへの圧力を強めた。[74] [75] 17世紀はアンコール後のカンボジアとベトナムとの直接的な関係の始まりでもあり、ベトナム中部と南部を支配していたグエン諸侯と北部のチン諸侯との間の戦争である。[76]
アンリ・ムオ:「インドシナ中部の旅」1864年
音楽の音に合わせて行進します。そこには再び、黄色いマントをまとい、聖なる器を背負い、施しを求める一列縦隊の聖職者の一団がいた……人口全体の数は約12,000人だ。」[77]
メコンデルタの喪失編集
1683年 カンボジアを示す地図
1686年のカンボジア王国15 世紀後半までに、中国文明圏の子孫であるベトナム人は、チャンパ公国の領土の一部を征服しました。生き残ったチャム族の一部は1471年に離散を始め、多くはクメール領土に再定住した。[79] [80]しかし、カンボジア年代記は、17世紀になるまでチャム人のカンボジア到着について言及していない。チャンパに最後に残った公国パンドゥランガは 1832 年まで存続した[ 82 ] 。
伝統コース編集
1719年 カンボジアを示す地図
1620年、ベトナム人は南への拡大(Nam tiến)を続け、それまでクメールの領土であったメコンデルタに到達しました。また、1620年にクメール王チェイ・チェッタ2世(1618年~1628年)は、1428年から1788年までのレ王朝時代のほとんどでベトナム南部に影響力を持ったグエン諸侯の一人であるグエン・フック・グエン領主の娘と結婚した。3年後、チェイ・チェッタ王はベトナムがプレに税関を設立することを許可した。 y Nokor、現在のホーチミン市。ベトナムは中国から独立した後、中華帝国の辺境政策を独自に導入し、17世紀末までにこの地域はベトナムの完全な行政管理下に置かれた。カンボジアの国際海上貿易へのアクセスは、ベトナムの税金と許可によって妨げられていました。[83]
反対の意見編集
カンボジアの王がベトナムの王女と恋に落ち、王女がベトナムのメコンデルタであるカンプチア・クロムを要求し入手したという物語は民間伝承であり、学者によって無視され、王室年代記にも言及されていない。[84] [85]
王室の記録とそのかなり疑わしい内容を再解釈する過程で、マイケル・ヴィッカリーは、将来の出版物ではこれらの矛盾した事実が考慮に入れられると再び仮定している。「第一に、着実なベトナムの『南への進撃』(ナム・ティアン)という概念そのものが再考する必要がある。それは安定したものではなく、その段階は、継続的な南方拡大政策が存在しなかったことを示している。それぞれの動きは、特定の課題に対応してその場限りのものだった…」 [86 ]
1642年、カンボジアの王子ポンヘア・チャンがアウテイ王を打倒し暗殺した後、国王となった。カンボジアのマレー系イスラム商人が彼の乗っ取りを助け、その後彼は仏教からイスラム教に改宗し、名前をイブラヒムに変え、マレー人女性と結婚してラマティパディ1世として統治した。彼の治世は東南アジア本土におけるイスラム教徒支配の歴史の頂点を示した。
1770 年代のカンボジアの地図
ラマティパディは1643年と1644年のカンボジア・オランダ戦争の海戦でオランダ東インド会社を破った。 [87]会社の大使ピエール・ド・ロジュモルトは部下432人の3分の1とともに殺害され、ヨーロッパ人がカンボジア問題で重要かつ影響力のある役割を果たしたのは2世紀後のことだった。[88] 1670年代、オランダ人は1643年の虐殺の後、カンボジアで維持していた交易所をすべて放棄した。[89]最初のベトナム軍事介入は1658年から1659年にかけて行われた。その際、反乱を起こしたカンボジアの王子たち、イブラヒム・ラマティパディ自身の兄弟が、イスラム教徒の支配者を追放し仏教を復活させるための軍事支援を要請した。
シャムは、18世紀にベトナムの侵略に対して同盟国として取り扱われていたかもしれないが、ビルマとの長期にわたる紛争に巻き込まれ、1767年にシャムの首都アユタヤは完全に破壊された。しかし、シャムは立ち直り、すぐにカンボジアに対する支配権を再主張した。シャムがカンボジアのバッタンバン州とシェムリアップ州を併合している間、若きクメール王アン・エン(1779年~1796年)がウドンの君主に就任した。地元の支配者はシャムの直接統治の下で家臣となった。[90] [91]
19世紀初頭、カンボジアとメコン川流域の支配をめぐってシャムとベトナムの間で新たな争いが起こり、その結果、カンボジアの属国王に対するベトナムの支配がもたらされた。ジャスティン・コーフィールドは『仏領インドシナ』の中で次のように書いている:「[1807年]ベトナム人はカンボジアに保護領を設立して領土を拡大した。しかし[…]アン・ズオン王はカンボジアが[…]タイ[…]およびベトナム[…]から独立することに熱心で、シンガポールにいるイギリス人に助けを求めた。それが失敗すると、彼はフランス人の助けを求めた。」[92]
カンボジア人にベトナムの習慣を強制しようとする試みは、ベトナムの支配に対するいくつかの反乱を引き起こした。最も注目に値するのは 1840 年から 1841 年にかけて起こり、国の大部分に広がりました。
シャムとベトナムはカンボジアとの関係に関して根本的に異なる態度をとった。シャム人はクメール人と共通の宗教、神話、文学、文化を共有し、多くの宗教的および文化的慣習を取り入れてきました。[93]タイのチャクリ王たちは、理想的な普遍的統治者のチャクラヴァティン制度に従い、すべての臣下を倫理的かつ慈悲深く統治した。ベトナム人は、クメール人を文化的に劣っていると見なし、クメールの土地をベトナムからの入植者による合法的な植民地とみなしたため、文明化の使命を制定しました。[94]
メコンデルタの領土はカンボジア人とベトナム人の間で領土紛争となった。カンボジアは徐々にメコンデルタの支配権を失いました。1860 年代までにフランスの入植者がメコンデルタを占領し、フランス領コーチンシナの植民地を設立しました。
ウドン時代のベトナムのカンボジア侵攻編集詳細は「ベトナムによるカンボジア侵攻」を参照
ベトナム帝国がジアロンとミンマンの下で本土東部での地位を固めると、カンボジアは 1811 年にベトナムの侵略によって陥落した。この侵略は当初、統治国王であるアン チャン 2世 (在位 1806 ~ 1835 年) が、自分の兄弟で反乱を起こしていたアンスングオンとアンエムを鎮圧するよう、ジアロンに要請したことによって開始された。二人の兄弟はタイに逃亡し、アン・チャンはベトナムの臣下となった。[95] [96]
1820年にザロンが亡くなり、彼の四男ミンマンが王位を継承しました。ミン・マンも父親も儒教の熱心な信奉者でしたが、ミン・マンはサディスティックな孤立主義者で強力な統治者でした。彼は1832年にカンボジアとサイゴンの副王を解任し、 1833年に彼に対する親カトリックのレ・ヴァン・コイ反乱を引き起こした。タイ軍は反乱を支援するつもりで、カンボジアを占領するベトナム人に対する攻撃作戦を開始した。これにより、アン・チャンはラーマ3世としてサイゴンに逃亡しました。カンボジア王国を再建し、ベトナム王国の横暴を懲らしめると約束した。1834年、南ベトナムの反乱は鎮圧され、ミンマンは軍隊にカンボジアへの二度目の侵攻を開始するよう命じた。これによりタイ軍の大部分は西に追い出され、アン・チャンがプノンペンの傀儡王として再任され、後に娘のアン・メイ女王(在位1835~1841年)が跡を継いだ。[97]その年の後半、タイタン省が設立され、ベトナム人がカンボジアを占領し、ベトナムの直接支配が始まった。それから6年間、ベトナム皇帝は文化同化によってカンボジア人にベトナム文化を強制的に受け入れさせようとしていたが、これは歴史家デイビッド・P・チャンドラーの進歩だと評価された。カンボジアのベトナム化。[98]
1841年初頭にミン・マンが死去すると、カンボジアのベトナム化は止まった。[99] 35,000のタイ軍とともに、彼らはベトナムの悲惨な状況を利用してタイタン省に突入し、1845年末にベトナムの反撃をかわすことができた。新しいベトナム皇帝ティエウ・トリはシャムと和平を結ぶ準備を整え、1847年6月に和平条約が調印された。アン・ズオン統治下のカンボジア王国は、36年間にわたるベトナムによる残忍な占領とシャムの介入を経て独立を回復した。[100]
結果と結論編集
詳細は「植民地時代のカンボジア」を参照
詳細は「カンボジアのフランス保護領」を参照
カンボジアのノロドム 国王
ヨーロッパの植民地主義と英仏の対立編集レオナール・シャルナー提督は1861年7月31日、コーチシナ3州のフランス帝国への正式な併合を宣言し[101] 、東南アジアにおけるフランスの植民地時代が始まった。したがって、フランスのインドシナへの干渉は事実であり、植民地共同体はメコン川を拠点としたこの地域に商業ネットワークを確立し、理想的には中国南部の巨大市場と連携することを迫っていた。[102] [103]
オランダの作家、H.Th. ブッセメーカー氏は、この地域におけるフランスの植民地事業や買収は、英国の地理戦略や経済覇権に対する単なる反応または対抗措置にすぎないと主張した。「イギリスにとって、フランスがインドシナに介入することで、インドと中国におけるイギリスの拡張主義を弱体化させようとしていることは明らかだった。この狂った拡張主義の理由は、メコン川が中国国境まで航行可能であることが証明され、そうすればフランスの工業製品の巨大な中国市場が開かれるだろうという期待であった。」[104]王国の国家的アイデンティティと完全性を守るために、アン・ズオン王はナポレオン3世に宛てた書簡で秘密交渉を開始し、フランスとの何らかの保護に関する合意を得ようとした。
1884年6月、コチンシナのフランス総督チャールズ・トムソンはノロドムの首都プノンペンを訪れ、奴隷制度の廃止、土地の私的所有権の制度、地方都市へのフランス人居住者の設立などの広範な変革を約束するパリとの条約の承認を要求した。王はしぶしぶ協定に署名した。1874 年のフィラスター条約により、コーチン中国全土に対するフランスの主権が確認され、1887 年 11 月 16 日にインドシナ連合が設立されました。[105]見通し編集
ノロドムの戴冠式、1864年6月3日。
カンボジアの考古学はまだ初期段階にあると考えられています。LIDAR スキャンや発光年代測定などの新しい地質年代学の手法の導入により、気候に関する新しいセットや種類のデータや研究が明らかになり、環境の不均衡は近年さらに多くなってきています。2010年の米国科学アカデミーの論文で著者は、「歴史家や考古学者は、いくつかの顕著な例外を除いて、アンコールの歴史において環境と気候が果たした役割をほとんど考慮していない」と不満を述べているように、結果の反映には明らかに時間がかかる。[106]
幅広い矛盾が示唆するように、歴史学、文化主義、および歴史資料のその他の側面については、依然として広く議論されています。[107]おそらく最大の課題は、すべての研究を近隣諸国の結論と同期させることである。この歴史的時代に根ざしたデリケートな問題 (国境紛争、文化遺産) が存在しますが、それらは政治的に関連しており、解決にはほど遠いものです。合理的な文脈ですべての要因を考慮した最終的な結論は、明らかに将来の出来事です。[108]
ミリアム・T・スターク:「古代カンボジアのフナンからアンコールまで崩壊と再生」[109]
「...特定の連続性と不連続性が古代カンボジアを特徴付ける理由を説明することは、考古学的記録をよりきめ細かく理解することなしには依然として不可能です...体系的な考古学研究と批判的な文書分析を組み合わせた将来の研究は、回復力と変化の側面を明らかにすることができ、またそうすべきです...」
こちらも参照編集
flagカンボジアポータル カンボジアの仏教 カンボジア王室年代記 カンボジアの歴史 クメール帝国 カンボジアのフランス保護領 カンボジアの君主一覧 君主の家系図 デバラジャ 東南アジア本土
参考文献編集
“17 世紀カンボジアにおける殺人と騒乱 – から続くカンボジアの歴史のいわゆる中期 – 歴史のレビュー” . ロンドン大学高等研究大学院。2009 年 2 月 28 日。2015年 6 月 15 日のオリジナルからアーカイブ。2015 年6 月 14 日に取得。
「古代首都の崩壊が今日の都市について私たちに教えてくれること」スリナート・ペルル著。ガーディアン。2015 年 1 月 14 日。2015 年6 月 27 日に取得。
“15世紀のカンボジアとその近隣諸国、マイケル・ヴィッカリー” . マイケル・ヴィッカリーの出版物。2004 年 6 月 1 日。2015 年6 月 8 日に取得。
“科学者たちは黄金都市崩壊の答えを求めてアンコールを掘削し、上空を飛行 by ミランダ・ライトジンガー” . サンディエゴ・ユニオン・トリビューン紙。2004 年 6 月 13 日。2013年 12 月 24 日のオリジナルからアーカイブ。2015 年6 月 19 日に取得。
“クメール帝国の終焉の原因 K. クリス・ハースト著” . comについて 2015 年6 月 11 日に取得。
“アンコールの衰退” . Encyclopaedia Britannica, Inc. 2015 年6 月 11 日に取得。
「クメール帝国の出現と最終的な衰退は、農業を支えるインフラストラクチャーとともに、宗教イデオロギーの発展とその後の変化と並行して起こった。」(PDF)。アジアの研究。2015 年6 月 11 日に取得。
「レーザースキャンにより、カンボジアの 1200 年前の失われた都市の物語が具体化される」。クメール語。2015 年 6 月 14 日のオリジナルからアーカイブ。2015 年6 月 11 日に取得。
“クメール帝国の突然の滅亡について、新たな説明の可能性が判明” . 物理組織。2012 年 1 月 3 日。2015 年6 月 11 日に取得。
「クメール帝国の出現と最終的な衰退 – …帝国は 1340 年から 1370 年頃と 1400 年から 1425 年頃の 2 回の長い干ばつを経験しました…」(PDF)。アジア研究。2015 年6 月 19 日に取得。
ブレンダン・M・バックリー; アンチュカイティス、ケビン J. ペニー、ダニエル。フレッチャー、ローランド。クック、エドワード R. 佐野正樹; ナム、レ・カン。ウィチエンキーオ、アルーンルート。ミン、トン・ザット。ホン、チュオンマイ(2010年4月13日)。「カンボジア、アンコール遺跡の崩壊の一因としての気候」。米国科学アカデミーの議事録。国立科学アカデミー。107 (15): 6748–6752。Bibcode : 2010PNAS..107.6748B。土井:10.1073/pnas.0910827107。PMC 2872380。PMID 20351244。
“Mak Phœun : Histoire du Cambodge de la fin du XVIe au début du XVIIIe siècle” (PDF)。マイケル・ヴィッカリー 2015 年6 月 11 日に取得。
“東南アジア史研究の情報源としての明実録” . 明実録の東南アジア。2015 年 6 月 22 日のオリジナルからアーカイブ。2015 年6 月 12 日に取得。
“カンボジア王国 – 1431-1863” . グローバルセキュリティ。2015 年6 月 12 日に取得。
マーレー、ロス; ネハー、クラーク D. (1999)。愛国者と暴君: アジアの 10 人の指導者 ロス・マーレー、クラーク・D・ネーヒー著。ISBN 9780847684427。2015 年6 月 12 日に取得。
“ジョバンニ フィリッポ デ マリーニ、デッレ ミッショニ…第 7 章 – カンボジア王国の使命 – チェーザレ ポレンギ著 – 取引の機会として最も有名なものの 1 つと考えられています。豊富にあります…” (PDF )。サイアム協会。2015 年7 月 1 日に取得。
アンソニー、リード (2000 年 8 月)。アンソニー・リードによる近世東南アジアの形の図表。ISBN 9781630414818。2015 年6 月 14 日に取得。
“植民地時代初期の東南アジアの海上貿易” (PDF) . オックスフォード大学。2015 年6 月 12 日に取得。
チャーチ、ピーター (2012 年 2 月 3 日)。ピーター・チャーチ編集のMA Short History of South East Asia。ISBN 9781118350447。2015 年6 月 12 日に取得。
大井、キート・ジン (2004). 東南アジア: アンコール ワットから東方までの歴史百科事典…第 1 巻。ISBN 9781576077702。2015 年6 月 7 日に取得。
“ロンドン会社の使節はサイアムを陰謀” (PDF) . シャムの遺産。2015 年5 月 7 日に取得。
“ビエンチャン王国の 2 つの歴史的記録 – おそらくアンコール王スーリヤヴァルマン 2 世とジャヤヴァルマン 7 世の治世にカンボジア人がチャンパを征服した理由もこれでした。” (PDF )。マイケル・ヴィッカリーの出版物。2015 年6 月 30 日に取得。
「アンコール ワット: 1 世紀以上にわたりカンボジア文化の真髄と同等視される – チャム船団がメコン川を遡上…反応は非常に速かった…」 プノンペンポスト。2013 年 6 月 14 日。2015 年6 月 21 日に取得。
“バイヨン: マイケル・ヴィッカリーを再考した新たな視点” (PDF) . マイケル・ヴィッカリーの出版物。2015 年6 月 26 日に取得。
“東南アジア小史 第 3 章. モンゴルによる中国征服の影響 …その結果、タイ人民の南方への大規模な移動が起こった…” (PDF )。スタンフォード大学。2015 年6 月 26 日に取得。
ブリッグス、ローレンス・パーマー (1948). 「1430年以前のシャムによるアンコール攻撃」。極東季刊誌。アジア研究協会。8 (1): 3-33。土井:10.2307/2049480。JSTOR 2049480。S2CID 165680758。
“サイアム ソサエティ ブックス – アユタヤ王室年代記 – リチャード D. クッシュマンによる共観的翻訳” . サイアム協会。2015 年6 月 20 日に取得。
ウルフ、DR (2014 年 6 月 3 日)。歴史文書の世界百科事典、第 2 巻 – ティオウン クロニクル。ISBN 9781134819980。2015 年5 月 19 日に取得。
“地域研究におけるカンボジアの文化遺産考察 by 荒砥井久男” . googleusercontent.com 。2015 年3 月 12 日に取得。
「NHIM Sotheavin によるカンボジア王室年代記によると、14 世紀半ばから 16 世紀初頭までのカンボジアの歴史に関するエッセイ – これまでのところ、14 世紀半ばから 16 世紀初頭までの歴史の再構築は、ある種の未解決の状態に閉じ込められています。これは、地元の情報源が不十分であることが判明し、外国の情報源からの参照がほとんど役に立たないためです。」 (PDF )。ソフィアアジアセンター。2015 年 4 月 2 日のオリジナル(PDF)からアーカイブ。2015 年7 月 1 日に取得。
エリック・ブルドノー (2004 年 9 月)。「古代カンボジアの文化主義と歴史学:クメール史の資料の優先順位付けについて – エリック・ブルドノーによる古代カンボジアの歴史学における史料のランキングと文化主義的アプローチ – 29 また、この資料はまばらです…」 ムーソン。Recherche en Sciences Humanes Sur l’Asie du Sud-Est。プロヴァンス大学出版局 (7): 39–70。ドイ:10.4000/moussons.2469。2015 年7 月 3 日に取得。
“アユタヤの歴史的記録…1767 年の異教徒の侵入が非難され、アユタヤの過去の記録はすべて、ビルマの攻撃による陥落中に消滅したと考えられていた。” . クメールの遺産。2015 年 5 月 31 日。2015 年6 月 20 日に取得。
“アンコール ワット: 1 世紀以上にわたりカンボジア文化の真髄と同等視される – 神話の塔の裏側: カンボジアの歴史” . プノンペンポスト。2013 年 6 月 14 日。2015 年6 月 20 日に取得。
「王と石 – 19 世紀ですか、それとも 12 世紀ですか? タイ文字が最初に刻まれた時期は、ラーフル ゴスワミによって歴史がどのように政治的に利用されるかに大きく関係しています。」カリージタイムズ。2014 年 11 月 29 日。2015 年6 月 20 日に取得。
“レクリエーションの碑文 (2 2). 西部の碑文: ラムカムヘンの事件 by Jean-Michel Filippi” . カンポット博物館。2012 年 6 月 28 日。2015 年6 月 20 日に取得。
“アユタヤ王室年代記の要約 – 紀元 712 年、寅年…” (PDF) . サイアム協会。2015 年6 月 12 日に取得。
「アユタヤの歴史 – 王朝 – ラメスアン王」。アユタヤの歴史。2015 年6 月 20 日に取得。
「アユタヤ王室年代記の要約 – その後、彼はチェンマイを攻撃しに行きました。非常に多くのラオス人の家族が国会議事堂に連行されました。」(PDF)。サイアム協会。2015 年6 月 12 日に取得。
「ビエンチャン王国の二つの歴史的記録 (pp.2-5)」(PDF) . マイケル・ヴィッカリーの出版物。2015 年6 月 29 日に取得。
チャールズ・ハイアム (2014 年 5 月 14 日)。古代アジア文明の百科事典 チャールズ・ハイアム・マヒダラプラ王朝著。ISBN 9781438109961。2015 年6 月 18 日に取得。
マー、デヴィッド G. ミルナー、アンソニー・クローザーズ (1986)。9 世紀から 14 世紀の東南アジア、デビッド G. マー、アンソニー クローザーズ ミルナー編集。ISBN 9789971988395。2015 年6 月 18 日に取得。
“クメール帝国とヨーロッパの比較年表 上座部仏教が国教となった” (PDF)。オーストラリア政府教育省。2015 年6 月 20 日に取得。
「クメール帝国の出現と最終的な衰退 – 多くの学者は、アンコールの発展の停止は上座部の台頭のせいだと考えています…」(PDF)。アジアの研究。2015 年6 月 11 日に取得。
「フナンからアンコールまで古代カンボジアの崩壊と再生 ミリアム・T・スターク著 p. 162」(PDF)。ハワイ大学。2015 年 9 月 23 日のオリジナル(PDF)からアーカイブ。2015 年6 月 29 日に取得。
ベン・キーナン (2008)。血と土: 現代の虐殺 1500 ~ 2000 年。ISBN 9780522854770。2015 年6 月 11 日に取得。
「奇妙な類似点: 第 1 巻、本土の統合: グローバルな文脈における東南アジア、800 ~ 1830 年頃、ビクター・リーバーマン著」(PDF)。ミシガン大学。2015 年6 月 11 日に取得。
「カンボジア、アンコールの水管理ネットワーク ローランド・フレッチャー、ダン・ペニー、ダミアン・エヴァンス、クリストフ・ポティエ、マイク・バルベッティ、マッティ・クム、テリー・ルスティグ、アンコールおよびシェムリアップ地域保護管理局(APSARA)記念物考古学局チーム」 (PDF )。ワシントン大学。2015 年6 月 26 日に取得。
「世界で最も広大な中世の「水力都市」であるカンボジアの有名なアンコール遺跡の建築家たちは、無意識のうちにその環境崩壊を設計した。」サイエンスデイリー。2007 年 9 月 12 日。2015 年6 月 19 日に取得。
ダンメ、トーマス・ヴァン (2011 年 1 月)。「クメール帝国の崩壊」トーマス・ヴァン・ダム著。アカデミア教育。2015 年6 月 20 日に取得。
“地質学とアンコールの衰退 by HENG L. THUNG” (PDF) . カムクー。2016 年 6 月 29 日のオリジナル(PDF)からアーカイブ。2015 年6 月 29 日に取得。
エヴァンス、DH; フレッチャー、RJ; ポティエ、C; シェバンス、JB; スーティフ、D; タン、理学士。イム、S; え、D; ティン、T; キム、S; クロマティ、C; デ・グリーフ、S; ハヌス、K; バティ、P; クジンガー、R; 下田、私。ボルナジアン、G (2013 年 7 月 11 日) 「ライダーを使用したアンコール遺跡の考古学的景観の解明」。手順 国立 アカド。科学。アメリカ。110 (31): 12595–600。Bibcode : 2013PNAS..11012595E。土井:10.1073/pnas.1306539110。PMC 3732978。PMID 23847206。
“アンコールの崩壊 – 長期干ばつの証拠 – アンコールでの 14 世紀から 15 世紀にかけての長期干ばつ” . 教育について。2015 年7 月 3 日に取得。
“ヤソーダラプラ、文学で蘇る…クメール帝国最初の首都ヤソーダラプラ、シャム人に破壊される…” THE JAPAN TIMES LTD. 2007 年 9 月 23 日。2015 年6 月 27 日に取得。
「プノンペンの簡単な歴史 – チャクトムク…」 Canby Publications Co. 2015 年6 月 26 日に取得。
「アンコール ワットからの 18 世紀の碑文、デビッド P. チャンドラー著」(PDF)。サイアム協会。2015 年6 月 29 日に取得。
“17世紀カンボジアにおける殺人と騒乱” . 歴史研究所 (IHR) 。2015 年6 月 26 日に取得。
“植民地時代初期の東南アジアの海上貿易 …儲かる中国貿易をカンボジアに移管…” (PDF) . オックスフォード大学海洋考古学オックスフォードセンター。2015 年6 月 26 日に取得。
ジャスティン・コーフィールド (2009 年 10 月 13 日)。カンボジアの歴史。ABC-クリオ。12ページ–。ISBN 978-0-313-35723-7。
“カンボジアのイエズス会: カンボジアの宗教性についての考察 (16 世紀後半から 18 世紀前半) — 彼は神の言葉を広めることができず、重病を患い、大したこともせず、異教徒以上の洗礼も受けずにすぐにその地域を去りました。” (PDF )。メキシコ自治大学。2015 年7 月 1 日に取得。
ボクサー、チャールズ・ラルフ; ペレイラ、ガレオテ。クルス、ガスパール・ダ。ラダ、マルティン・デ (1953)、16 世紀の中国南部: ガレオテ・ペレイラ神父の物語である。ガスパール・ダ・クルス、OP[と]神父。Martín de Rada、OESA (1550-1575)、Hakluyt Society 発行の作品 106 号、Hakluyt Society 向けに印刷されたもの、pp. lix、59–63
「フィリピン諸島、1493 ~ 1803 年…1596 年のカンボジア遠征…」アーカイブ組織。2015 年6 月 26 日に取得。
ダニエル・ジョージ・エドワード・ホール (1981). 東南アジアの歴史。マクミランプレス。p. 148.ISBN _ 978-0-333-24163-9。
“1431 年にシャム王ボロモラジャ 2 世によってアンコールが略奪された後のカンボジアの主要都市、カンボジア・ロベック” . ブリタニカ百科事典。2015 年6 月 26 日に取得。
“1551年 – ラベックとの戦争 – 1549年のビルマによるアユタヤ包囲中、カンボジア王アン・チャン…”アユタヤの歴史。2015 年6 月 26 日に取得。
ターリング、ニコラス (1999)。ニコラス・ターリング編集の『ケンブリッジ・ヒストリー・オブ・サウスイースト』。ISBN 9780521663700。2015 年6 月 26 日に取得。
“タイとカンボジア: 愛憎関係” . 東南アジアの京都レビュー。2003 年 3 月 16 日。2015 年6 月 26 日に取得。
“Mak Phœun : Histoire du Cambodge de la fin du XVIe au début du XVIIIe siècle – 侵攻時、王室の 1 つのグループ、現国王と 2 人以上の王子が逃亡し、最終的にはラオスに避難しましたが、別のグループ、王の兄弟とその息子たちは人質としてアユタヤに連れて行かれました。” (PDF )。マイケル・ヴィッカリーの出版物。2015 年7 月 1 日に取得。
“Mak Phœun : Histoire du Cambodge de la fin du XVIe au début du XVIIIe siècle – 1616 年から 1618 年にかけて、皇太子ジャヤジェットとベトナム王女との結婚という形で最初の一歩が踏み出されたのは、実際にはスリヨバルム治世の終わり頃でした。” (PDF )。マイケル・ヴィッカリーの出版物。2015 年7 月 1 日に取得。
“Mak Phœun : Histoire du Cambodge de la fin du XVIe au début du XVIIIe siècle – 1616 年から 1618 年にかけて、皇太子ジャヤジェットとベトナム王女との結婚という形で最初の一歩が踏み出されたのは、実際にはスリヨバルム治世の終わり頃でした。” (PDF )。マイケル・ヴィッカリーの出版物。2015 年7 月 1 日に取得。
「1620 年の警告の物語 – カンボジアは 1593 年から 1594 年のアユタヤによるロベック侵攻から急速に回復しました。」(PDF)。マイケル・ヴィッカリーの出版物。2015 年6 月 26 日に取得。
“プレア・カーン・リーチ – クメール王の系譜、アン・チャン王の台頭、スダッハ・カーンの敗北” (PDF) . カンボサストラ。2015 年6 月 26 日に取得。
“歴史期間 1372 ~ 1432 年 チャクトムク市の放棄 60 年” . ロコモ組織。2015 年6 月 26 日に取得。
“ベン・キールナン、カンボジアの歴史と正義を回復 2年以内にスペインとポルトガルの征服者…”イェール大学。2015 年6 月 26 日に取得。
“中国の欺瞞オドン山の仏陀 by ボウ・サルウン作” . プノンペンポスト。2001 年 6 月 22 日。2015 年6 月 26 日に取得。
「プノン・バケン記念碑の歴史」(PDF) . クメール研究。2015 年 6 月 26 日のオリジナル(PDF)からアーカイブ。2015 年6 月 26 日に取得。
ノーマン・G・オーウェン (2005)。現代東南アジアの出現:新たな歴史。ハワイ大学出版局。117ページ–。ISBN 978-0-8248-2890-5。
“インドシナ中央部 (シャム)、カンボジア、ラオスの旅のプロジェクト グーテンベルク電子ブック (Vol. 1/2)、Henri Mouhot 著” . プロジェクト・グーテンベルク。2015 年7 月 3 日に取得。
ベン・キーナン (2008)。血と土:現代の虐殺 1500 ~ 2000 年 ベン・キーナン著 p. 102 ベトナムによるチャンパ破壊 1390 ~ 1509 年。ISBN 9780522854770。2015 年6 月 27 日に取得。
“チャム族:南シナ海の古代支配者の子孫、海上紛争を傍観する アダム・ブレイ著” . IOC-チャンパ。2015 年 6 月 26 日のオリジナルからアーカイブ。2015 年6 月 26 日に取得。
モート、フレデリック W. (1998)。ケンブリッジ中国の歴史: 第 8 巻、明第 2 部 1368 ~ 1644 年 デニス C. トゥイチェット、フレデリック W. モート著。ISBN 9780521243339。2015 年6 月 26 日に取得。
Vachon、M.、Naren、K. (2006 年 4 月 29 日)。チャンパの歴史。カンボジア・デイリー紙。2020 年 9 月 10 日取得、 https://english.cambodiadaily.com/news/a-history-of-champa-87292/より
ウェーバー、N. (2012)。カム資料から見たカンパの破壊と同化(1832~1835年)。東南アジア研究ジャーナル、43(1)、158-180。2020 年 6 月 3 日、www.jstor.org/stable/41490300 より取得
“15 世紀から 18 世紀までの南ベトナムの歴史を再概念化する広東省からカンボジアまでの海岸沿いの競争、ブライアン A. ゾットリ著” . ミシガン大学。2015 年6 月 26 日に取得。
“Mak Phœun : Histoire du Cambodge de la fin du XVIe au début du XVIIIe siècle – カンボジアの口頭伝承によると、この結婚は弱いカンボジア王が恋に落ちたためでした…” (PDF )。マイケル・ヴィッカリーの出版物。2015 年6 月 30 日に取得。
マイケル・アーサー・アウン・スウィン; ケネス・R・ホール(2011年5月13日)。東南アジアの歴史と歴史学に関する新しい視点: 継続的な探求。ラウトレッジ。158ページ–。ISBN 978-1-136-81964-3。
“Mak Phœun : Histoire du Cambodge de la fin du XVIe au début du XVIIIe siècle In: Bulletin de l’Ecole française d’Extreme-Orient. Tome 83, 1996. pp. 405-415″ (PDF )。マイケル・ヴィッカリーの出版物。2015 年6 月 30 日に取得。p. 157. キーナン 2002 年、p. 253. コーマック 2001、p. 447. リード 1999 年、p. 36. チャクラバーティ 1988、p. 497. フィールディング 2008、p. 27. キーナン 2008、 p. 158. キーナン 2002 年、p. 254.
オズボーン 2008、p. 45.
“戦争と貿易: カンボジアにおけるシャム介入 1767 ~ 1851 年、プアントン・ルングスワスディサブ著” . ウロンゴン大学。2015 年6 月 27 日に取得。
ノーラン、Cathal J. (2002)。『グリーンウッド国際関係百科事典: SZ』Cathal J. Nolan 著。ISBN 9780313323836。2015 年11 月 21 日に取得。
「第 IV 巻 – 革命の時代と帝国 1750 年から 1900 年 – フランス領インドシナ ジャスティン コーフィールド著」(PDF)。グロドノ州立医科大学。2015 年6 月 30 日に取得。
“「シャム国家儀式」第 15 章忠誠の誓い 197 の全文…初期のクメールの誓いと比較して…”インターネット アーカイブ。2015 年6 月 27 日に取得。
“南への行進 (Nam Tiến)” . クメール・カンプチア・クロム連邦。2015 年 6 月 26 日のオリジナルからアーカイブ。2015 年6 月 26 日に取得。
デヴィッド・チャンドラー(2018) [1986]. カンボジアの歴史。テイラーとフランシス。140–144ページ。ISBN 978-0-429-97514-1。
コーフィールド、ジャスティン J. (2009)。カンボジアの歴史。ABC-クリオ。p. 18.ISBN _ 978-0-31335-723-7。
デヴィッド・チャンドラー(2018) [1986]. カンボジアの歴史。テイラーとフランシス。146–149ページ。ISBN 978-0-429-97514-1。
デヴィッド・チャンドラー(2018) [1986]. カンボジアの歴史。テイラーとフランシス。150–156ページ。ISBN 978-0-429-97514-1。
デヴィッド・チャンドラー(2018) [1986]. カンボジアの歴史。テイラーとフランシス。157-160ページ。ISBN 978-0-429-97514-1。
コーフィールド、ジャスティン J. (2009)。カンボジアの歴史。ABC-クリオ。p. 19.ISBN _ 978-0-31335-723-7。
シャピュイ、オスカル (2000 年 1 月 1 日)。ベトナム最後の皇帝: トゥドゥックからバオダイまで。グリーンウッド出版グループ。p. 48.ISBN _ 9780313311703。2015 年4 月 3 日に取得。
ジョン・ダンモア (1993 年 4 月)。「フランスの航海と哲学的背景」。トゥアタラ。ビクトリア大学ウェリントン図書館。32.2015 年4 月 3 日に取得。
キー、ジョン (2005 年 11 月)。「メコン探検委員会、1866 – 68: 東南アジアにおける英仏の対立」(PDF)。アジア問題。ラウトレッジ。XXXVI (III) 。2015 年4 月 3 日に取得。
ブッセメーカー、H.Th. (2001)。「危機に瀕した楽園。西側植民地権力と日本の東南アジア進出、1905年から1941年」アムステルダム大学。2015 年4 月 3 日に取得。
ソヴァンナリス・ケオ (2014 年 12 月 14 日)。「カンボジアフランス保護領の存在意義」。2020 年7 月 2 日に取得。
「カンボジア、アンコール遺跡の崩壊の一因としての気候 – 歴史家と考古学者は、いくつかの注目すべき例外 (1、2) を除いて…」国立科学アカデミー。2015 年7 月 3 日に取得。
“古代カンボジアの文化主義と歴史学: クメール史の資料の優先順位付けについて – 古代カンボジアの歴史学における史料のランキングと文化主義的アプローチ by Eric Bourdonneau” . プロヴァンス大学を出版します。2015 年7 月 3 日に取得。
“カンボジアの考古学: クメール研究センターの考古学コンサルタント、ウィリアム A. サウスワースによる今後の研究への評価 – カンボジアの考古学の研究は最終的に完成しているというよりは…” クメール研究センター。2015 年7 月 1 日に取得。「フナンからアンコールまで古代カンボジアの崩壊と再生 ミリアム・T・スターク著 p. 166」(PDF)。ハワイ大学。2015 年 9 月 23 日のオリジナル(PDF)からアーカイブ。2015 年6 月 29 日に取得。
参考文献編集
チャクラバーティ、HR (1988)。ベトナム、カンプチア、ラオス、同志の絆: 古代から現代までのインドシナのパノラマ研究、第 2 巻。パトリオット出版社。ISBN 8170500486。2014 年2 月 16 日に取得。 ドン・コーマック (2001)。キリング・フィールド、リビング・フィールド:カンボジア教会の未完の肖像 - 死なない教会。寄稿者 Peter Lewis (再版)。クレーゲル出版。ISBN 0825460026。2014 年2 月 16 日に取得。 フィールディング、レスリー (2008)。『キリング・フィールドの前: カンボジアとベトナム戦争の証言者』 (イラスト版)。IBTauris。ISBN 978-1845114930。2014 年2 月 16 日に取得。 ベン・キーナン (2008)。血と土:スパルタからダルフールまでの虐殺と絶滅の世界史。メルボルン大学 出版。ISBN 978-0522854770。2014 年2 月 16 日に取得。 ベン・キーナン (2002)。ポル・ポト政権: クメール・ルージュ下のカンボジアにおける人種、権力、大量虐殺、1975-79年(イラスト版)。エール大学出版局。ISBN 0300096496。2014 年2 月 16 日に取得。 オズボーン、ミルトン (2008)。プノンペン : 文化史 : 文化史。オックスフォード大学出版局。ISBN 978-0199711734。2014 年2 月 16 日に取得。 アンソニー・リード(1999)。近世東南アジアの形状を図表で示します。蚕の本。ISBN 9747551063。2014 年2 月 16 日に取得。
外部リンク編集
ポストアンコール時代
ウィキペディアの姉妹プロジェクトでウィクショナリーからの定義 コモンズのメディア ウィキニュースからのニュース ウィキクォートからの引用 ウィキソースからのテキスト ウィキブックの教科書 ウィキバーシティのリソース ウィキボヤージュの旅行情報 ラーム・カムヘン碑文 - 実現しなかった偽物 古都の崩壊が今日の都市について何を教えてくれるのか 日本東南アジア研究センター クメール研究センター フィリピン諸島、1493 ~ 1803 年、インターネット アーカイブに掲載 奇妙な類似点 - グローバルな文脈における東南アジア ビクター・リーバーマン著 タイ湾の海上境界画定 - 暗黒時代にまで遡る複数の未解決の地域国境紛争に関する情報
最終編集日: Pichsambath 12 日前
関連記事カンボジアの歴史 東南アジアの歴史の側面 アン・ズオン カンボジアの国王 マイケル・ヴィッカリー アメリカの歴史家、作家
ウィキペディア
特に明記されていない限り、コンテンツはCC BY-SA 4.0に基づいて利用できます。 プライバシーポリシー 』
- 1431 ~ 1463 年
-










『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
カンボジアの歴史
扶南国 (68–550)
真臘 (550–802)陸真臘(中国語版) 水真臘(中国語版)
クメール王朝 (802–1431)
暗黒時代(英語版) (1431–1863)チャット・ムック時期(タイ語版) ロンヴェク時期(タイ語版) スレイ・サントー時期(タイ語版) ウドン時期(タイ語版)
フランス領インドシナ (1863–1953)
日本占領時期のカンボジア (1941–1945)
カンボジア王国 (1954–1970)1970年クーデター
クメール共和国 (1970–1975)
民主カンプチア (1975–1979)カンボジア・ベトナム戦争 (1975–1989) カンボジア大虐殺 (1975–1979)
カンプチア人民共和国/カンボジア国 (1979–1993)
カンボジア暫定国民政府/UNTAC/SNC (1991–1993)
カンボジア王国 (1993–現在)
年表
ポータルアイコン カンボジアポータル表話編歴
ポータル 歴史学/東洋史
カンボジアの歴史(カンボジアのれきし)について述べる。
有史以前
詳細は「有史以前のカンボジア(英語版)」を参照
古代
扶南王国
詳細は「扶南」を参照中国の書物によると、1世紀ごろ、ほぼ現在のカンボジア南部からベトナム南部のメコン・デルタ地帯に跨る地域に扶南(フナン)という王国があった。扶南を建国した人物は、インドからカンボジアに渡って扶南を建国したとする説と、インド出身のバラモン僧であり、マレー半島経由でカンボジアに渡り、王となったとする説がある外国人カウンディンヤである[1][2][3]。1942年フランス人考古学者ルイ・マルレ(フランス語版)によって、ベトナム南部アンザン省バテ山とその付近の港市跡オケオから、装身具や交易品多数が発掘された。当地の後背地では後期新石器時代から人々が居住していた。プレ・オケオ文化の土器や遺跡がアンザン省ゴーカイトゥン遺跡やロンアン省付近の遺跡から発見されており、そこから西方に拓かれていたカンボジア平原まで人々が居住し、往来があった。
3世紀までは未開の地であったが、インドと中国の中間地点にある水路の要衝に位置していたため外国文化が流入し、商業国家として繁栄した。稲作が発達していた。
真臘王国
詳細は「真臘」を参照
6世紀には、カンボジア国家の起源とみなされている国、すなわち中国史料にいう北方クメール人による真臘(しんろう、チェンラ)が勃興した。この国は扶南の属国であったが、7世紀には扶南を滅ぼし、さらに真臘王イーシャーナヴァルマン1世(フランス語版)(611年-635年)に影響を受けた地域がドヴァーラヴァティー王国から独立し、ラヴォ王国がロッブリーに出来た。[4]
真臘王国はジャヤーヴァルマン1世(フランス語版)(657年 – 681年)の治世の頃に最大となった。インド文化の影響を受けサンスクリット文字を使用したが、クメール文字も使われ始めた。真臘は、現在のカンボジアとラオス南部、つまりメコン川流域を領土としていたと推測されている。
シャイレーンドラ朝
しかし、ジャヤーヴァルマン1世の死後、古代カンボジアは、中国の記録に見える北の陸真臘(現在のラオスチャンパーサック県)と南の水真臘に分裂し弱体化し、8世紀には水真臘がシャイレーンドラ朝ジャワ王国の支配下に入った。シャイレーンドラは、その意味(「山の王家」)から、扶南のプノン(山)と関係があり、シャイレーンドラ朝とシュリーヴィジャヤ王国は何らかの意味で、扶南の後継者にあたるのではないかとする見方がある。
中世
クメール王朝
詳細は「クメール王朝」を参照クメール王朝
シャイレーンドラ朝からの独立は、ジャヤーヴァルマン2世(英語版)(802年 – 854年)により行われた。ジャヤーヴァルマン2世はプノン・クレン丘陵の頂上で即位[5]を行い、シャイレーンドラ朝からの解放を宣言した。これがアンコール王朝(クメール王朝)の始まりである。9世紀の末、ヤショヴァルマン1世(889 – 910年頃)がアンコールに新都城「ヤショダラプラ(英語版)」6を築いた。このときの勢力範囲は、現在の東北タイ地域まで広がっていた。その後何代かの王が続くが、勢力争いや逝去で、どの王朝も長くは続かなかった。
1113年、スールヤヴァルマン2世が即位し、国内各地の敵対勢力と戦い国内を統一、国外においても西方のチャオプラヤー川デルタのシャム人やモン人と戦い、南隣のチャンパ王国や東隣の李朝へ攻め入った。王国の範囲は、タイ中部、マレー半島、ベトナム南部に及び、また、彼は寺院建築にも熱心で、クメール美術の最高傑作であり、自身の墓でもあるアンコール・ワットを始め、トマノン、バンテアイ・サムレ(Banteay Samré)などのヒンドゥー教寺院を建築した。この王の治世も平穏安泰ではなかった。1150年頃死去した。
スールヤヴァルマン2世死後、王位を巡り争いが続いた。さらに1177年には、チャンパ王国の大軍が都であったヤショダラプラを破壊した。タ・プローム
1181年、チャンパに遠征していたジャヤーヴァルマン7世が帰国し、即位した。彼は粘り強く国づくりを進め、1190年には宿敵チャンパを降伏させた。また、8メートルの高さの堅固な城壁の「輝ける新都城」アンコール・トム(1190-1431)を都として造成した。アンコール王朝の最盛期であった。熱心な大乗仏教の信者であった王は、都の中心にバイヨンを建設し、バンテアイ・クデイ(Banteay Kdei)、1186年にタ・プローム(僧院)、1191年にプリヤ・カーンなどの仏教寺院を建設した。
また、ジャヤーヴァルマン7世は、国内に102箇所の病院と主要街道に宿場を建設し、庶民の生活も重視した。しかし、大規模な寺院建設と領土獲得の遠征のため、死後(1220年)は国力が衰退していったと考えられている。その後、インドラヴァルマン二世、ジャヤーヴァルマン8世(1243-1295)が継いだ。1283年にクビライのモンゴル帝国の軍がアンコール・トムに侵攻した。ジャヤーヴァルマン8世は、1285年と1292年に元朝に朝貢した。この治世に廃仏事件が起こり、ヒンドゥー教に由来する題材に彫り直された。1295年に仏教徒のインドラヴァルマン三世(英語版)がジャヤーヴァルマン8世を殺害し、王位に就いた。
13世紀にはいると元の侵攻が始まり、後半からは、シャム(アユタヤ王朝)の侵攻が始まった。
カンボジアの暗黒時代
詳細は「カンボジアの暗黒時代(英語版)」を参照
スレイ・サントー(1431年 – 年)
詳細は「スレイ・サントー(英語版)」を参照
1431年、シャムの度重なる侵攻により、首都アンコールが陥落し、栄光の時代は終わりを告げた。時の王ポニャー・ヤットはアンコール・トムからコンポンチャム州のスレイ・サントー(英語版)に遷都し、シャム(現在のタイ)に近いアンコールを含むトンレサップ湖の北部を放棄した。その後、首都は転々とした。
プノンペン(年 – 1553年)
詳細は「プノンペン」を参照
スレイ・サントーは河川の氾濫があまりにたびたび起こるのでプノンペンへ再遷都した。西洋の資料としては、1511年のポルトガル人による手記に記されるプノンペンがカンボジアについての最初の記録である。既に日本人との貿易が始まっていたことが記されている。
ロンヴェク(1553年 – 1618年)詳細は「ロンヴェク(クメール語版)」を参照
プノンペンとトンレサップ湖の中間地点にあたるロンヴェク(クメール語版、英語版、スペイン語版)(クメール語: កម្ពុជាសម័យលង្វែក Cambodia Longvek、1553 – 1618)へ遷都した。1593年にKing Sattha (1576–94) は、フィリピンのスペイン人総督(フィリピン総督領)に保護国になる依頼をおこなった。フィリピンから120名の兵士が送られたが、到着する前年にシャムに占領されていた。1597年にスペイン兵たちは、King Satthaの息子を王位に付けることが出来たが、二年後にマレー系の傭兵にスペイン兵たちは殺害された。1607年頃、呂宋助左衛門が通商を開始した。
ウドン(1618年 – 1866年)
詳細は「ウドン (カンボジア)」を参照
ロンヴェクから南へ5kmほどのウドン(1618 – 1866)へ遷都した。 17世紀から19世紀は、隣のシャムやベトナムの侵略や干渉がつづき、国内は混乱した。
16世紀に黎朝がヴィジャヤ王朝(英語版)(旧チャンパ王国のひとつ)を滅ぼしてチャンパの旧領を併合すると、大量のチャム族がクメール帝国領内に難民化して流出した。1623年、チェイ・チェッタ2世(英語版)(在位:1618年-1628年)は、オランダ東インド会社の介入した鄭阮戦争で阮氏広南国から流出した難民のためにプレイノコール(英: Prey Nokor、現ホーチミン市)に税関事務所を建設したが、これがベトナムの南下を許すことになった。1643年のカンボジア・オランダ戦争でオランダ人の虐殺がおこり、オランダはその後カンボジアから撤退した。1693年に広南国の阮福淍(明王)がパーンドゥランガ王朝(ベトナム語版)を征服。17世紀の終わり頃、ベトナムがメコンデルタ上流からフーコック島対岸周辺までのクメール人居住地域を占領。カンボジアは海へのアクセスを断ち切られ、海上貿易にはベトナムの許可が必要になった。
1765年から1769年にかけて清緬戦争や泰緬戦争が勃発し、1767年にアユタヤがコンバウン朝に占領されたが、戦後最も強勢になったのはタイだった。 1788年から1789年にかけて清越戦争が勃発し、西山朝が清の介入を撃退し、黎朝が滅んだ。しかし西山朝も数年で滅び、広南国の残党が阮朝を建てた。
1831年、タイがカンボジアの支配を狙って起こした第一次泰越戦争(英語版)では、タイはカンボジア北部に侵攻した後、南転してさらにベトナム南部のチャウドックとヴィンロンを蹂躙した。ベトナム(阮朝)が反撃に転じると、戦闘になる前にタイは撤退し、ベトナムがカンボジア全土を掌握した。タイとの戦争でカンボジアが弱体化すると、Prey Nokorは徐々にベトナム化し、名前も嘉定、のちにサイゴン(現在のホーチミン市)となった。
1841年、タイがカンボジアの支配を狙って再び起こした第二次泰越戦争(英語版)の結果、泰越両国でカンボジアを共有する平和条約が締結された。1848年にアン・ドゥオン王が即位し、ひそかにシンガポールのフランス領事を通じてナポレオン3世に援助を要請したが、事前にシャムに情報が漏れ、失敗に終わった。近代(植民地時代)
フランス領インドシナ
19世紀中頃からフランスによるインドシナ半島(インドシナ)の植民地化が始まった。
1863年8月11日、フランスはカンボジア王国との間に「修好、通商及びフランス国の保護に関する条約」を締結。カンボジア国王ノロドム は同王国に対するフランスの保護権を認めた。この保護国化は、隣国タイやベトナムの圧力に堪りかねたカンボジア側からフランスに要請された側面がある[7]。
プノンペン
詳細は「プノンペン」を参照
1866年にウドンからプノンペンにあるチャドモックに首都が移転される。
1867年7月15日、歴史的にカンボジアの宗主国であった暹羅(シャム=現在のタイ)国が、カンボジアに対するフランスの保護権を承認。(「カンボジア王国の地位を定めるためのフランス国暹羅国間条約」)
1887年にはカンボジアがフランス領インドシナに編入された。
1907年3月23日、フランスは暹羅との条約により、バッタンバン、シェムリアップ、シソポンの各地域をクラット港一帯の島嶼と交換し、カンボジア全土を獲得した。 1916年には地方から集まった4万人もの農民がプノンペンの王宮前に集まり、シソワット王に直訴した。 1925年にはコンポンチュナン州の農民たちが徴税中の理事官パルデスを暗殺した。この事件はフランス人たちを震撼させた。
1940年5月から6月にフランスはナチスに侵攻され、7月にヴィシー政権に移行すると、8月30日には日本との間に「政治軍事・経済協定」(松岡・アンリ協定)を締結し、9月からの日本軍によるフランス領インドシナ進駐を認めた。
11月23日、カンボジア、ラオスの領土をめぐりタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発。その後も紛争は拡大していったが、1941年5月9日、日本の居中調停によりタイ・フランス両国間で平和条約(東京条約)が結ばれ、カンボジアの一部、チャンパーサック県・バタンバン州及びラオスの一部、シェムリアップ州がタイに割譲された。
1941年11月、ノロドム・シハヌーク(18歳)が王位に就いた。 1945年3月12日、ノロドム・シハヌーク(シアヌーク)王は、日本軍の明号作戦に呼応する形で、カンボジアの独立を宣言。しかし、日本が連合国に降伏すると、1946年には再びフランスの保護下に戻り、独立は消滅してしまう。
シハヌークは粘り強く独立運動を続け、1947年には憲法を公布、1949年にフランス連合内での独立を獲得した。1953年には警察権・軍事権を回復し、シハヌークはフランス、アメリカ、タイを回って世界世論に訴えかけ同年11月に完全独立を果した。
現代
カンボジア王国(1953年 – 1970年)
1955年、アジア・アフリカ会議(バンドン会議、バンドン、インドネシア)において、シハヌークは非同盟・中立外交政策を表明した。王位を父ノロドム・スラマリットに禅譲し、サンクム・リアハ・ニヨム(人民社会主義共同体、サンクム)を組織した。「独立の父」として国民の人気を集めたシハヌークは同年の選挙で首相兼外務大臣に就任した。
1956年、東南アジア条約機構への加盟を拒否した。
1960年に王であるスラマリットが亡くなると、シハヌークは王位を空けたまま国家元首という新しい位を作って就任した。1965年5月、シハヌークは北ベトナムへの爆撃を行なうアメリカ合衆国との断交を宣言した。ベトナム戦争により国内は不安定となったものの、シハヌーク政権時代にはまだ爆撃・内戦は激化しておらず、食糧は豊富で輸入に頼らず大量の国内避難民も発生していなかった。
1967年4月、バタンバン州のサムロートで、政府による余剰米強制買い付けに反対する農民と地元政府の間で衝突が起こる[8][9]。1965年頃からカンボジアの余剰米の少なくとも4分の1あまりが北ベトナムとベトコンに買い上げられていたが、政府の買い付け値はこれより安く、地元共産主義勢力は反米反政府のビラを撒き暴動を煽動した[10]。サムロート周辺の鎮圧作戦は数ヶ月間続き、右派と左派の衝突は強まる。
クメール共和国(1970年 – 1975年)
1970年3月17日、親米のロン・ノルがシハヌークの外遊中にクーデターを決行し、シハヌーク一派を追放、クメール共和国の樹立を宣言した(10月9日)。ロン・ノルは政権を取ると、激しい反ベトナムキャンペーンを行い、南ベトナム解放民族戦線への支援が疑われるカンボジア在住のベトナム系住民を迫害・虐殺した。このためシハヌーク時代に50万人だったベトナム系住民のうち20万人が1970年にベトナムに大量帰還する事態となった。続いてロン・ノルは1970年4月、ホーチミン・ルートを粉砕するため、アメリカ軍と南ベトナム軍に自国を侵攻させた(カンボジア作戦を参照)。さらに、1968年から局地的に行われてきたアメリカ軍によるカンボジア空爆を、人口高密度地域を含むカンボジア全域に拡大させた。これにより数十万人もの農民が犠牲となり、爆撃からわずか一年半の間に200万の国内難民が発生した[11]。とくにカンボジアで人口の集中する東部地域は、都市も激しい爆撃を重点的に受けた[12]。ロン・ノル政権は国民の不人気を買い、反政府活動は激化していった。
クーデター後、シハヌークは中国(北京)へ脱出し、カンプチア民族統一戦線を結成し、反ロン・ノル諸派の共闘を呼びかけた。彼を助け、共にカンボジア帰国を果たしたのは、毛沢東主義に心酔したポル・ポト、キュー・サムファン、イエン・サリらの指揮する共産主義勢力「クメール・ルージュ」だった。10月、ポル・ポトはシハヌークを擁立してロン・ノル政権との間で内戦となった(カンボジア内戦参照)。
1971年1月、アメリカはロン・ノル政権支援のために南ベトナム派遣軍の一部をカンボジアへ侵攻させた。10月、ロン・ノルは軍事独裁体制を宣言し、1972年3月に新憲法を公布した。しかし1973年3月29日アメリカがベトナムから完全撤退したため、ロン・ノルは強力な後ろ盾を失った。
さらに、爆撃で農村インフラは破壊され、カンボジアの農業生産は大打撃を受けていた。カンボジアは1969年には耕作面積249万ヘクタールを有し米23万トンを輸出していたが、1974年には耕作面積5万ヘクタールに激減し28万2000トンの米を輸入し、米の値段は1971年10リアルから1975年340リアルにまで急騰した[13]。1971年アメリカ会計監査院の視察団はカンボジアの深刻な食糧不足を報告している[14]。こうした状況のなか、都市部は米国からの食糧援助で食いつなぐことができたが、援助のいきわたらない農村部では大規模な飢餓の危機が進行しつつあった。
民主カンプチア(1976年 – 1979年)
クメール・ルージュ政権終了から26年経った2005年度のカンボジア人口。25歳以上と24歳以下の人口が対照的である。
1975年4月1日、クメール共和国側が守っていた最後のメコン川の町Neak Leungが陥落し、その日のうちにロン・ノルは国外に脱出[15]、最終的にハワイへ亡命した。同年4月12日に在カンボジアアメリカ大使J.Gunther Deanはアメリカ大使館を閉鎖し、ヘリコプターでタイへ脱出した[15]。同年4月17日午前9時30分にクメール共和国は降伏し、クメール・ルージュが首都プノンペンに入城した[16]。プノンペン入城後クメール・ルージュは、都市部の住民を強制的に農村へ移住させる意図を持って、「B-52による爆撃を避けるため」というデマゴーグを理由にしてプノンペンから離れるよう強制した。プノンペンからの立ち退きに例外はなく、重病人や妊婦も強制的に立ち退かされた。住民は行き先も教えられないまま炎天下を何日も徒歩で移動させられたため行き倒れになる者が続出し、大量の死者が出た。1976年1月に「カンボジア民主国憲法」を公布、国名を民主カンプチア(Democratic Kampuchea)に改称した。
クメール・ルージュは貨幣制度廃止、都市住民の農村入植と強制労働といった極端な原始共産制社会への回帰政策を実行した。旧政権関係者、都市の富裕層や知識層、留学生、クメール・ルージュ内の親ベトナム派などは虐殺された。反乱の疑いのあるものは政治犯収容所S21(現トゥールスレン虐殺博物館)などに収容され虐殺された(カンボジア大虐殺)。1975年~1979年のポル・ポト時代の4年間は、中国の毛沢東主義を奉じた極端な農本主義政策が採られたものの、非効率的なやり方は大旱魃をもたらし、出生率が異常に低下する一方、飢餓と虐殺、マラリアの蔓延などで100万人を超えるともいわれる大量の死者を出した。
1975年当時、カンボジアの食糧事情は危機的状況にあった。同年4月にはUSAIDが「カンボジアの食糧危機回避には17.5万~25万トンの米が必要である」と報告[17]し、アメリカ国務省は「共産カンボジアは今後外国からの食糧援助が得られなくなるため100万人が飢餓にさらされることになるだろう」と予測[18]していた。クメール・ルージュの強制移住・重農政策はこうした状況で食糧増産を図ったものと思われるが、非科学的・非現実的な諸政策により結果的には食糧危機を一層増大・深刻化させる結果となった。この年5月、クメール・ルージュはベトナムのフーコック島を攻撃。
1978年1月、クメール・ルージュはベトナム領内を攻撃し、ポル・ポトはベトナムと断交した。この頃、ベトナムはソビエト連邦との関係を強化しており、中ソ対立の構図から、中華人民共和国と関係の深いポル・ポト政権と対立することとなった。4月から5月にかけベトナムのアンザン省バチュク村が攻撃され村民が虐殺された(バチュク村の虐殺)。5月には中央のポル・ポトへの反乱の疑いを持たれた東部軍管区(東部はベトナム系カンボジア人の住民が多い)を攻撃し、東部地区の大量のクメール・ルージュ将兵が処刑された。このため、ベトナムには10数万人にのぼる東部地区軍民の避難民が流入した(カンボジア・ベトナム戦争)。
サムリン政権(1979年-1991年)
1978年12月25日、ベトナム人民軍は、亡命カンボジア難民からカンプチア救国民族統一戦線を組織し、元クメール・ルージュ将校でベトナムに亡命したヘン・サムリンを擁立し、ポル・ポト打倒を掲げカンボジアに侵攻した。
1979年1月6日、ベトナム軍がプノンペンを攻略、幽閉に近い状態にあったシハヌークは再び北京へ逃亡、クメール・ルージュはタイ国境近くまで駆逐される。1月10日親ベトナムのカンプチア人民共和国(People’s Republic of Kampuchea)が樹立される。しかし、ヘン・サムリンのカンボジア人民党による政権は、ベトナムの傀儡政権であるとして世界各国の承認を得られなかった。
同年2月には中国人民解放軍がカンボジア侵攻の報復としてベトナムを攻撃した(中越戦争)。しかし、中国軍は実戦経験豊富なベトナム軍に完敗し、3月には撤収した。1981年6月にサムリンは新憲法を採択し、フン・センが閣僚評議会副議長(副首相)に就任する。
1982年2月、巻き返しを図る反ベトナム3派(ポル・ポト、シハヌーク、ソン・サン)は北京で会談を開き、7月には3派による「民主カンプチア連合政府」(The Coalition Government of Democratic Kampuchea:CGDK)が成立し、サムリン政権との内戦状態に入った。
1983年2月に開かれたインドシナ3国首脳会談でベトナム軍の部分的撤退が決議されたが、3月にベトナム軍はポル・ポト派の拠点を攻撃した。1984年7月の東南アジア諸国連合外相会談では、駐留を続けるベトナムを非難する共同宣言を採択した。しかし、ベトナム軍は内戦に介入し続け、1985年1月に民主カンプチア連合政府の拠点を攻略、3月にシハヌーク派の拠点を制圧した。
1988年3月、ベトナム首相ファム・フンが急死し、政変が起こると、6月にベトナムは軍の撤収をはじめ、1989年9月に撤退を終えた。その結果、当時首相に昇格していたフン・センはベトナム軍の支えを失って弱体化し、内戦はさらに泥沼化した。
1990年6月4日5日、東京でカンボジア各派が参加する和平に向けた直接対話の場として「カンボジアに関する東京会議」が開催された。続く1991年10月23日、最終合意文章に「国際連合カンボジア暫定統治機構(UNTAC)」の設置、武装解除と内戦の終結、難民の帰還、制憲議会選挙の実施などを含むカンボジア和平パリ協定が19か国により調印され、20年に及ぶカンボジア内戦が終結した。
現代「カンボジア王国」
カンボジア和平パリ協定でフン・セン政権と民主カンプチア連合政府を合わせた四派によるカンボジア最高国民評議会(SNC)が結成された。翌年1992年3月より、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC。事務総長は明石康)が平和を維持する活動を始めた。
1993年5月には国民議会総選挙が行なわれ、立憲君主制が採択された。選挙結果は、全120議席のうち、フンシンペック党 が58議席、カンボジア人民党が51議席、ソン・サンの仏教自由民主党が10議席、その他1議席であった。これにより「二人首相制」となり、フンシンペック党党首でシハヌークの二男 ラナリットが第一首相、カンボジア人民党のフン・センが第二首相に選出された。
同年9月23日、制憲議会が新憲法を発布した。9月24日、シハヌークが国王に再即位、カンボジア王国が、およそ23年ぶりの統一政権として誕生した。自由で公正な選挙、選ばれた議会の憲法発布・政府設立を見届け、UNTACの暫定統治は1993年9月に終了した。
1997年7月、プノンペンにてフンシンペック党とカンボジア人民党の軍隊が衝突するという事件が起こった。第一首相であったラナリットはパリに逃亡し、約半年後の1998年3月にシハヌーク王の恩赦で帰国、9月には国民議会の議長に就任した。同年7月の総選挙で、今度はカンボジア人民党が第一党となり、フン・センが第一首相に就任している。
カンボジアは東南アジア諸国連合 (ASEAN) への加盟が延期されていたが、1999年4月に加盟を果たした。
なお、ポル・ポトは1998年4月に山中で死亡しており、12月にポル・ポト派幹部が国民へ謝罪した。2001年1月、ポル・ポト派幹部を裁くカンボジア特別法廷の設置が国際連合との間で取り決められた。
2004年10月14日、シハヌークが退位、息子のノロドム・シハモニが国王に即位した。
2006年10月18日、フンシンペック党は、ラナリット党首を解任、駐ドイツ大使のケオ・プット・ラスメイを選出、第1副党首にはルー・ライスレン、第2副党首にはシソワット・スリウッド(シソワット王家の出身)が選出された。2006年11月16日、ラナリットは、ノロドム・ラナリット党(The Norodom Ranariddh Party)を設立した。
2007年3月13日にフィリピン・マニラに滞在中のラナリットに背任罪の実刑判決(禁固1年6カ月)が下っている。また4月の地方統一選挙を前にして、ラナリットが妻の告発で1月に姦通罪で訴追されていたことも発表された[1]。 カンボジアの法律により、禁固刑の判決を受けた者は刑期の3分の2を終えないと2008年度の総選挙に立候補できないため[2]、海外に滞在したままのラナリットの動きが注目されている。
脚注
^ ブリタニカ国際大百科事典『カウンディンヤ』 - コトバンク ^ 深見純生「混填と蘇物--扶南国家形成の再検討」『国際文化論集』第39号、桃山学院大学総合研究所、2009年3月10日、7-9頁、ISSN 0917-0219、OCLC 835763878。 ^ 黎蝸藤 (2020年5月7日). “漢化與夷化:「中國人早已被遊牧民族化」是否成立?”. 関鍵評論網. オリジナルの2020年6月15日時点におけるアーカイブ。 ^ Sdok Kok Thomの碑文 ^ 転輪聖王(正義をもって世界を治める王)として認知を受けた。 ^ 最初の都城はハリハララヤ(英語版)(802-889)。この都城「ヤショダラプラ(英語版)」には周囲16キロの環濠があったらしい。その築堤の遺構が残存する。巨大な貯水池東バライを造成、「ヤショダラタターカ(ヤショヴァルマ王の池)」と命名した。現在プノン・バケン寺院(護国寺院)を建立。国内各地に「アーシュラマ(僧房)」 ^ 宮家邦彦 (2013年5月24日). “文革がカンボジアに残した傷痕 歴史を直視しない中国~中国株式会社の研究”. JBpress 2013年5月24日閲覧。 ^ 清野 真巳子『禁じられた稲-カンボジア現代史紀行』連合出版、p.42 ^ 『NAM』同朋舎出版、見聞社編、p.532 ^ デービッド・P・チャンドラー,『ポル・ポト伝』めこん、p.131 ^ ダニエル・エルズバーグ著「ベトナム戦争報告」p174,筑摩書房 ^ エール大学Cambodian Genocide Program:http://www.yale.edu/cgp/us.html ^ 「インドシナ現代史」p103,連合出版 ^ 「インドシナ現代史」p104,連合出版 ^ a b Ben Kiernan, How pol Pot came to Power(second edition), p.414, 2004, Yale University Press, ISBN 0-300-10262-3 ^ ベトナムでは4月30日にサイゴンが陥落しベトナム戦争が終結した。 ^ 井上恭介、藤下超 著「なぜ同胞を殺したのか」p103,日本放送出版協会 ^ NHK取材班著「激動の河メコン」p32,日本放送出版協会
参考書籍
内田悦生・下田一太(コラム執筆)『石が語るアンコール遺跡』早稲田大学出版部〈早稲田大学学術叢書〉、2011年。 表話編歴
アジアの歴史
北アジアロシア1(ウラル連邦管区、シベリア連邦管区、極東連邦管区)
東アジア
大韓民国 中華人民共和国 香港 マカオ チベット 中華民国3 朝鮮民主主義人民共和国 日本 モンゴル国 台湾東南アジア
インドネシア カンボジア シンガポール タイ 東ティモール フィリピン ブルネイ ベトナム マレーシア ミャンマー ラオス
南アジア
アフガニスタン イラン インド スリランカ ネパール パキスタン バングラデシュ ブータン モルディブ
中央アジア
ウズベキスタン カザフスタン1 キルギス タジキスタン トルクメニスタン
西アジア
中東
地中海沿岸イスラエル4 シリア トルコ1 レバノン パレスチナ国3
ペルシア湾沿岸
アラブ首長国連邦 イラク オマーン カタール クウェート サウジアラビア4 バーレーン
紅海沿岸
イエメン2 ヨルダン
南コーカサス
アゼルバイジャン1 アルメニア1 ジョージア1 アブハジア1,3 アルツァフ1,3 南オセチア1,3
地中海
キプロス1 北キプロス1,3
海外領土等
アクロティリおよびデケリア1 イギリス領インド洋地域 クリスマス島 ココス諸島
各列内は五十音順。1 ヨーロッパにも分類され得る。2 一部はアフリカに含まれる。3国連非加盟の国と地域。4紅海の沿岸国でもある。
関連カテゴリ:Category:大陸別の歴史/Category:各国の歴史
カテゴリ:カンボジアの歴史 最終更新 2022年10月10日 (月) 01:24 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。
』


