カテゴリー: 世界の地理、関連
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北の国から猫と二人で想う事 livedoor版:シリアでISがイラン支援のコッズ部隊民兵22人を殺害
https://nappi11.livedoor.blog/archives/5518917.html
ユーフラテス川とティグリス川流域
https://ameblo.jp/hathorhiroko/entry-12745150280.html

『シリアSyria中部でイスラム国IS(ISIS)とみられる武装集団がアサド派の民兵を載せた車両をミサイルで襲撃し、22人を殺害した。
最近、ロシア軍と政府軍の戦闘機がこの地域のISIS拠点を空爆した。ハマ、ホムス、ラッカ、デリゾールのシリア行政区にまたがるシリア砂漠は、2017年以来、国内で最も危険な地域となっている。
イギリスのNGO「シリア人権監視団」が2024年4月19日、明らかにした記事によると、事件は中部ホムスHomsThe-targeted-car東部郊外の集落で18日遅くに発生。
アサド政権とロシアが支援する民兵を乗せたバスが襲撃を受け、正体不明の武装集団はバスに向けて銃を乱射したり、爆弾を投げつけたと伝えられているが、詳細は不明だ。写真右上は政府軍
シリア人権監視団は声明で、「犯行声明を出した組織は確認されていないものの、目images撃者の話しなどから、IS(ISIS)が関与している可能性が高い」と指摘した。
国営シリア・アラブ通信(SANA)はアサド政権を支持する民兵少なくとも22人が死亡したと伝えている。国営ラジオは民兵とその関係者が死亡したと報じた。ホムスにはかつて、ISの拠点があった。
また、デリゾールDeir ez-Zorでも襲撃で政府軍兵士6人が殺害された。
シリアでは今も、IS掃討がデリゾールの砂漠、ホムス、ラッカ in the desert of Deir ez-Zor, Homs, and Raqqaで続いている。
デリゾールでは、砂漠はシリア政府が管理する地域間に分離されている。ユーフラテス川東ではクルド人のシリア民主軍(SDF)が、川西では政府軍とイラン支援の民兵組織が支配する。
この支配分裂により、ISISスリーパーセルは、過激派を募集し、上記勢力の支配下にある都市や村を標的とした作戦を開始するための新たな首都として砂漠を採用するようになった。
シリア内戦の犠牲者は50万~60万人と推定されているが、被害の全容は明らかになっておらず、調査が進む目途も全く立っていない。
国連によると、戦前の人口約2300万人の半分が国外に逃亡した。イランが支援する民兵組織が活動するシリアは最近、イスラエルから空爆を受けたばかりだ。 参照記事 英文記事
images jhthumbnail_iran_pic、、、
一般的分類でISはイスラム・スンニ派で、シリアの民兵はシーア派国イランの支援を受け、多くの組織がアサド政権の存続に軍事面で協力している。
シリアは今も、領土の一部をイスラエルに占領されている。
殺害されたのは、イランイスラム革命防衛隊(IRGC)傘下の民兵組織であるコッズ部隊Quds Force, a militia affiliated with Iran’s Islamic Revolutionary Guard Corps (IRGC)の戦闘員と別記事に在る。英文記事 』
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ベルギー
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC













『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ベルギー王国
Koninkrijk België(オランダ語)
Royaume de Belgique(フランス語)
Königreich Belgien(ドイツ語)
ベルギーの国旗 ベルギーの国章
(国旗) (国章)
国の標語:
L’union fait la force(フランス語)
Eendracht maakt macht(オランダ語)
Einigkeit macht stark(ドイツ語)
(日本語訳: 団結は力なり)
国歌:La Brabançonne(フランス語)
De Brabançonne(オランダ語)
Das Lied von Brabant(ドイツ語)
ブラバントの歌
Duration: 1 minute and 4 seconds.1:04
ベルギーの位置公用語 オランダ語[注釈 1]、フランス語、ドイツ語 首都 ブリュッセル市(憲法上) ブリュッセル首都圏地域(事実上) 最大の都市 ブリュッセル 政府 国王 フィリップ 首相 アレクサンダー・デ・クロー 面積 総計 30,528km2(136位) 水面積率 0.8% 人口 総計(2020年) 1159万[1]人(78位) 人口密度 382.7[1]人/km2 GDP(自国通貨表示) 合計(2020年) 4511億7700万[2]ユーロ (€) GDP(MER) 合計(2020年) 5149億2000万[2]ドル(25位) 1人あたり 44,688.462[2]ドル GDP(PPP) 合計(2020年) 5897億1800万[2]ドル(38位) 1人あたり 51,179.999[2]ドル 独立 - 宣言 - 承認 ネーデルラント連合王国より 1830年10月4日 1839年 通貨 ユーロ (€)(EUR)[注釈 2][注釈 3] 時間帯 UTC+1 (DST:+2) ISO 3166-1 BE / BEL ccTLD .be 国際電話番号 32 ^ a b “UNdata”. 国連. 2021年11月5日閲覧。 ^ a b c d e IMF Data and Statistics 2021年11月5日閲覧([1])ベルギー王国(ベルギーおうこく、蘭: Koninkrijk België、仏: Royaume de Belgique、独: Königreich Belgien)、通称 ベルギーは、西ヨーロッパに位置する連邦立憲君主制国家。
隣国のオランダ、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。
首都ブリュッセル(ブリュッセル首都圏地域)は欧州連合(EU)の主要機関の多くが置かれているため「EUの首都」とも言われており、その通信・金融網はヨーロッパを越えて地球規模である。
憲法上の首都は、19の基礎自治体からなるブリュッセル首都圏の自治体のひとつ、ブリュッセル市である。
概要
ベルギーは19世紀にネーデルラント連合王国から独立した国家で、オランダ語の一種であるフラマン語が公用語の北部フランデレン地域と、フランス語が公用語の南部ワロン地域とにほぼ二分される(このほかにドイツ語が公用語のドイツ語共同体地域もある)。
建国以来、単一国家であったが、オランダ語系住民とフランス語系住民の対立(言語戦争)が続いたため、1993年にフランデレン地域とワロン地域とブリュッセル首都圏の区分を主とする連邦制へ移行した。
国名
正式名称は、
オランダ語: Nl-Koninkrijk België.ogg Koninkrijk België[ヘルプ/ファイル](オランダ語発音: [ˈbɛlxiə][1] コーニンクレイク・ベルヒエ[注釈 4]) フランス語: Royaume de Belgique(フランス語発音: [rwajom də bɛlʒik] ロワイヨーム・ドゥ・ベルジク) ドイツ語 : Königreich Belgien(ドイツ語発音: [ˈkøːnɪçraɪç ˈbɛlɡiən] ケーニヒライヒ・ベルギエン)
英語表記は、Kingdom of Belgium(英語発音: [kɪ´ŋdəm ɔ´v be´ldʒəm][2] キングダム・オブ・ベルジャム)で形容詞はBelgian(ベルジャン)。ラテン語表記もBelgium(ベルギウム[3])である。
日本語の表記はベルギー王国。通称はベルギー。漢字による当て字で白耳義と表記され、白と略される。
オランダ語の「België(ベルヒエ)」に由来し、江戸時代にオランダ商人が来航した際に伝わったのをそのまま文字読みしたものである。
ベルギーという名称は、かつてのガリア北東部の呼称「ベルガエ」、もしくは同地に住んでいたベルガエ人に由来するとされる。
歴史
詳細は「ベルギーの歴史」を参照
古代
ベルギーと称される地域には、旧石器時代ごろより農耕と漁労を主とする人類の定着が見られる[4]。
新石器時代に入り、大西洋の海進によって温暖化が進むと中央ヨーロッパから移住してきた種族が定住を始め、牧畜技術の移入と農耕技術の革新をもたらした[5]。
こうした民族と文化の移入は紀元前1000年ごろまで続き、社会的組織の構築や金・銅・錫の生産、ドルメンといった文化移入の痕跡が見られる[5]。
また、エジプト産のビーズなども発見されていることから、この時代、地中海世界の広い範囲で行われた交易に参加していたとも考えられている[5]。
紀元前6世紀ごろにケルト人がライン川を渡って到来し、移住してくると、彼らによって火葬の文化や鉄器がもたらされた[5]。
紀元前後になるとローマ人との接触が始まり、ガイウス・ユリウス・カエサルが紀元前57年に著した『ガリア戦記第二巻』に、この地に居住する民族について初めて言及がなされた[5][6]。
カエサルは同地に居住するゲルマン人との共通性を持つケルト人の多くを総称してベルガエ族と呼んだ[5]。
ベルガエ族は多数の部族に分かれてベルギー地方で生活していたが、ガリア戦争を経て同地は紀元前51年にガリア・ベルギカとしてローマ帝国の属州となった[6]。
ローマはその版図をライン川まで広げてゲルマニアの征服へと乗り出し、その過程で遠征拠点の都市としてトンゲレン、トゥルネー、アルロンといった植民都市が築かれた[6]。
アウグストゥスの時代にベルギーを含むライン川左岸からフランス東北部にわたる地域がベルギカ州に組み込まれたが、ドミティアヌスは東部国境線を東進させてライン川沿いの地域をベルギカ州から分離させて上下ゲルマニアとし、今日のベルギーを構成する大部分の地域はこのとき下ゲルマニアに組み込まれた[7]。
3世紀に入り、海進によって居住地を失った人々が大規模な移住を始めた。
これによってフランク族がライン川を越えてローマ帝国へ侵入し、ライン川近郊の多数の都市が占拠されていくと、帝国の国境はブローニュとケルンを結ぶ軍用道路線まで後退した[6]。
こうして北部ではゲルマン人の定着に伴うフランデレン語が、南部ではワロン語が浸透していき、その結果生まれた境界線は以降のベルギーにおけるラテン系・ゲルマン系という民族紛争、言語戦争の起源となった[8][9]。
フランク族の侵入によって徐々に弱体化していったローマ帝国のフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスは、358年、サリ族のトクサンドリア定着を認めた。
中世
481年、次第に勢力を強めるサリ族の王に即位したクローヴィス1世はトゥルネーを首都とするメロヴィング朝を建国した[9]。
クロヴィス1世はその後、ローマ帝国ガリア地方の軍司令官シアグリウス、ライン地方のテューリンゲン族(ドイツ語版、英語版)、ルクセンブルク南部のアレマン族、ブルグント王国、西ゴート王国といった勢力を次々と打ち倒し、北海からピレネー山脈に至る広大な領地を獲得した[9]。
しかし、クロヴィス1世没後は王国領土が4人の遺子に分割相続され、内部対立による衰退が進んだ[10]。
7世紀中盤ごろになるとアウストラシアの宮宰としてピピン2世が頭角を現し始めた。
687年、テルトリーの戦いでネウストリアに勝利すると、フランク王国における支配権を確立した。
732年、カール・マルテルの時代にトゥール・ポワティエ間の戦いにおいてウマイヤ朝に勝利、751年にはピピン3世がクーデターを断行し、メロヴィング朝に代わり、カロリング朝が興った。
754年、ランゴバルド王国を討伐して獲得したラヴェンナを教皇に寄進することにより宗教的後ろ盾を得ることとなり、フランク王国は宗教的国家という特色を持つようになった[11]。
カール大帝の時代になるとフランク王国は今日のフランス・ドイツ・イタリアに相当する地域を統一し、東ローマ帝国を凌ぐ大国となった[11]。
800年、サン・ピエトロ大聖堂においてレオ3世より西ローマ帝国の帝冠を授与された(カールの戴冠)。
民族大移動以来、混成していた西ヨーロッパが東ローマから独立した存在としてまとまり、ギリシャ・ローマ的要素、キリスト教的要素、ゲルマン的要素が融合して新しい文化圏を形成した中世ヨーロッパ世界が確立した[12]。
カール大帝が没し、ルートヴィヒ1世の治世が終わった843年、ヴェルダン条約によって王国は東フランク王国、西フランク王国とロタリンギアに分けられた。
さらに870年のメルセン条約によってロタリンギアは東西フランクに分割吸収され、この結果、ベルギー地方はスヘルデ川を境として分裂することとなった[13]。
また、9世紀初頭より始まったノルマン人襲来の脅威から身を守るため、各地で地主や司教たちを中心としてフランドル伯領、ブラバント伯領、リエージュ伯領、エノー伯領、ナミュール伯領、リンブルク伯領、ルクセンブルク伯領といった封建国家が誕生した[13]。
中でもフランドル伯領は、リンネルの交易によって「ヨーロッパの工場」としての地位を築き上げ、ブルッヘやヘントといった都市を中心に繁栄を誇った[14]。10世紀に入ると城や砦に隣接して誕生した居住地(ブルグス)の住民は共同体を形成するようになり、キヴェスやブルゲンセスといった呼称で統一的に呼ばれるようになった[15]。
特にブルゲンセスは何らかの特権を賦与された住民層を示す語となり、外来者や下層民らと自身を区別する意識を持つようになった。
彼らは土地の所有など一定の条件を満たす者同士で宣誓共同体(コミューン)を結成して法人格を持つグループを構成した[16]。
コミューンを通して領主との双務的契約の締結がなされるようになり、コミューンは金銭の支払いや領主への奉仕を交換条件として税の免除や一定の自治権の取得といった特権を獲得していった[17]。
こうして都市は領主と一部の特権階級者によって支配されるようになり、一般市民との対立を招く結果となった[18]。
14世紀以降
1337年、フランドル伯領の諸都市はイングランド王エドワード3世の支援を受けて反乱を起こした。
一時的に諸都市はイングランドとの通商や種々の特権を獲得することに成功するが、1381年にはフランドル伯の反撃を受け、ブルッヘが征服されてしまう。
この結果、フランドル地域はフランドル伯死後にブルゴーニュ公国に組み入れられることとなった[19]。
フィリップ豪胆公から始まるブルゴーニュ公国は、「飛び地」として獲得した豊かな産業を持つフランドル地方の経済力を背景として版図の拡大を図った[20]。
飛び地の解消を目指してフランス王国へと積極的な介入を見せたが、シャルル突進公の1477年、ナンシーの戦いにおいて敗北を喫すると逆にフランスからの侵略を受けることとなった。
シャルル突進公の戦死を受けて、娘マリーはかねてより婚約していたハプスブルク家のマクシミリアン大公(のちの神聖ローマ皇帝)に救援を要請し、結婚した[21]。
ここにブルゴーニュ公国は終焉を迎え、フランドル地方はハプスブルク家の支配下に組み込まれることとなった。
フランドル地方の統治権はフィリップ美公を経て1506年、カール5世に渡った。
カールは1464年に設置されていたネーデルラント全域を管轄する全国議会を存続させ、1531年にネーデルラントに軍事・立法・財務の各職掌に評議院を設ける[22]など統治に意を用いる一方、この地方の統合を進め、1543年にはゲルデルン公国を併合してこの地方を統一し、1548年には神聖ローマ帝国からこの地方を法的に分離してネーデルラント17州を誕生させた[23]。
この時期アントウェルペンはブリュージュに代わりフランドルの経済の中心となった。
しかしカールが1556年に退位し、ネーデルラントをスペイン王となったフェリペ2世が統治するようになると、強硬な異端取り締まりや自治の制限といった圧政に17州が蜂起し、1568年に八十年戦争が勃発した。
この戦争は当初はスペイン側が優勢に戦いを進め、1576年には大貿易港だったアントウェルペンをスペインが占領・劫掠する一方、17州側はヘントの和約を締結して結束を固めた[24]。
しかしこの和約は北部のカルヴァン派と南部のカトリックとの対立によって崩壊し、北部諸州はユトレヒト同盟を結んで独立の姿勢を鮮明にする一方、南部2州はアラス同盟を結んでスペイン寄りの姿勢を示し[25]、ここを拠点に進撃したスペイン軍が南部10州の支配を固め、ネーデルラントは南北に分離することとなった。
最終的に、北部7州は1648年のヴェストファーレン条約によってネーデルラント連邦共和国として正式に独立を承認されたが、南部諸州はスペイン領南ネーデルラントとしてスペインの支配下に留まった[26]。
18世紀
スペイン・ハプスブルク朝の断絶により生じたスペイン継承戦争(1701年 – 1714年)の結果、ラシュタット条約でスペイン領南ネーデルランドがオーストリアに割譲され、オーストリア領ネーデルラントが成立する。
1740年オーストリア継承戦争ではフランスが再度ベルギーを占領したが、アーヘンの和約によりマリア・テレジアに返された。
1778年にはカール・テオドールが、自身の領国バイエルン選帝侯領をオーストリア領ネーデルラントと交換しようと画策したがバイエルン継承戦争により失敗した。
1789年にハプスブルク=ロートリンゲン家の支配に対してブラバント革命が起こり、1790年には独立国家であるベルギー合衆国が建国されたが、短期間で滅ぼされた[27]。
ベルギーは、オーストリア領ネーデルラントとして再びハプスブルク家の支配下に戻った。
フランス革命戦争勃発後、ジャコバン派がフランス革命国民義勇軍を主導したが、その国民義勇軍の将軍ジュールダンと公安委員カルノーはベルギー戦線で、ロベスピエールの恐怖政治中の1793年10月、オーストリア軍を殲滅した。
翌1794年6月、ジュールダン将軍とベルナドット将軍は再度ベルギー戦線でオーストリア軍を殲滅した。このあと、フランス軍は南ネーデルランドを占領し、1795年にはフランスに併合された[28]。
独立と永世中立国化
ナポレオン戦争の終結後、ベルギーはフランス統治下を離れ、1815年のウィーン議定書によって現在のオランダとともにネーデルラント連合王国として再編された[29]。
しかしプロテスタント・オランダ語話者が多数派を占め経済の低迷する北部ネーデルラントに対し、カトリックが多数派でオランダ語話者とフランス語話者がほぼ同数であり、さらに産業革命の波が到達して経済が活況を呈している南ネーデルラントは反発を強めていき、ネーデルラント国王ウィレム1世の高圧的な姿勢がそれに拍車をかけた[30]。
こうして1830年に南ネーデルラントは独立革命を起こし、同年に独立を宣言する。
1831年にはドイツの領邦君主のザクセン=コーブルク=ゴータ家からレオポルドを初代国王として迎えた[31]。
しかしオランダはこれに反発し、1839年のロンドン条約を締結するまで独立を承認しなかった[32]。
同年に制定された憲法は、主たる納税者であったブルジョワジー(財産家・資本家)男子による二院制と、国王の行政や軍事など最高の国家行為には首相の承認(副署)を要することを規定した。
ベルギー憲法の、その首相副署主義は新しい立憲的制度であった。
これはカトリックのベルギーが、外から迎えるプロテスタントの国王、ザクセン=コーブルク=ゴータ家のレオポルド1世(在位:1831年 – 1865年)に対抗するためのものであった。
19世紀
ベルギーは大陸ヨーロッパでもっとも早く、独立直前の1820年代に産業革命が始まった。
独立後工業化はさらに進展し、1835年にメヘレン・ブリュッセル間の鉄道が建設されたのを皮切りに急速に鉄道建設が進んで、1840年代前半には国内の主要鉄道網が完成した[33]。次いで1846年にはチャールズ・ホイートストンとウィリアム・クックに電信の敷設を許可したが、1850年頃から政府が回線網の買収と拡大を進めるとともに、1851年には商業利用が認可された[34]。
こうしたインフラの整備を背景に、とくに南部のワロニア地方を中心にリエージュ、シャルルロワなどにおける石炭の産出が増加し、製鉄や機械工業といった重工業や、ソルベイに代表される化学工業が発達した[35]。
一方、内政においては学校教育の主体を巡り、公教育の充実を目指す自由主義派と教会による教育を重視するカトリック派の対立が続いた[36]ほか、工業化に伴う産業構造の変化によって労働運動が台頭し[37]、これに伴って1893年には男子普通選挙制が導入された[38]。
また1860年代以降、当時は独立以来唯一の公用語とされていたフランス語に対する、オランダ語の地位向上を目指すフランデレン運動が盛んになり、以後のベルギー政治を二分する争点となっていった[39]。
この時期、ベルギー政府は植民地獲得にまったく興味を持っていなかった[40]一方、第2代国王レオポルド2世は積極的に植民地獲得を目指しており、彼はアフリカ中部のコンゴ川流域に目をつけ、ヘンリー・スタンリーを派遣して現地の掌握を進めていた。
この動きを警戒した列強によって1884年にアフリカ分割のためのベルリン会議が開かれ、レオポルド2世は個人所有地としてコンゴ川流域の支配権を認められた[41]。
しかしこうして設立されたコンゴ自由国は現地で過酷な搾取を行い、さまざまな蛮行を行ったため列強から強い批判を浴び、1908年にはコンゴの統治権はレオポルドからベルギーへと移管された[42]。
20世紀以降
第一次世界大戦ではドイツ軍によってほぼ全土を占領されたが、国王アルベール1世を中心とする政府は亡命政府を樹立し頑強に抵抗した[43]。
戦後はドイツの脅威に対抗するためフランスと軍事協定を結んだが、1936年にはこれを破棄して中立政策へと回帰した[44]。
しかし1940年5月10日未明、ナチス・ドイツはベルギーと同じく中立を宣言していた隣国のオランダ、ルクセンブルグに侵攻を開始。
交戦状態となり[45]、再びドイツ軍によって国土を占領された。
ロンドンに亡命政権が立てられたが、 同年5月28日に国内に残った国王レオポルド3世は亡命政府の意向を無視してドイツの無条件降伏要求を受諾[46]。
立憲君主制下にある国王の権限を逸脱するものとして戦後に問題視されることとなった[44]。
戦後、レオポルド3世の行為は問題視され、1950年には君主制の是非を巡る国民投票が行われた。
この投票ではかろうじて君主制維持が過半数を占めたものの、とくに南部で批判票が強く、これを受けてレオポルド3世は退位し、ボードゥアン1世が即位した[47]。
1950年代には経済の復興が進む一方、1951年の欧州石炭鉄鋼共同体への参加以来、首相のポール=アンリ・スパークを中心に積極的にヨーロッパ統合の動きを推進し、のちにスパークは欧州連合の父の1人に数えられるようになった[48]。
1958年に成立したガストン・エイスケンス政権は学校教育問題の解決などで大きな成果を上げたが[49]、コンゴ植民地の独立時の対応を誤り、コンゴ動乱を招くこととなった。
1960年代に入ると、ワロン地域の経済低迷とフランデレン地域の経済成長によって両地域の経済的地位が逆転し、これに伴って言語問題が激化していった[50]。
これを解決するためにベルギー政府は分権化を進め、1963年には言語境界線が確定され、1970年には3つの言語共同体と3つの地域が成立し、1980年には言語共同体とブリュッセルを除く2つの地域に政府が設置され、1988年にはブリュッセル地域政府を設置した上で1993年には正式に連邦国家へと移行した[51]。
現在、首都ブリュッセルは欧州委員会などの欧州連合の主要な機関が置かれており、欧州連合の「首都」にあたる性格を帯びている。
ブリュッセルは2014年、ビジネス、人材、文化、政治、識字率などを総合評価した世界都市ランキングにおいて、特に「政治的関与」が高く評価され、世界11位の都市と評価された[52]。
政治
連邦議会議事堂
詳細は「ベルギーの政治(英語版)」を参照ベルギーは国民的立憲君主制を採用している。
国家元首である国王は、立法権を連邦議会とともに行使し、行政執行権を憲法に基づき行使する。
1990年に妊娠中絶が合法化される際に、当時の国王ボードゥアン1世は自身の信念に基づき中絶法案への署名を拒否したが、一時的に国王を「統治不能」状態として内閣が代行することにより、立憲君主制の原則を守ったという出来事があった。
連邦議会は両院制である。
上院である元老院は、地域議会および言語共同体議会を通じた間接選挙で選出される50議席と、間接選挙議員によって指名される10議席、国王の子女に割り当てられる3議席からなる。
下院である代議院の議席数は150で、比例代表選挙により選出する。いずれも任期は4年で、同日に投票が行われる。
連邦政府の長である首相は、議会の総選挙後に国王から指名された人物が組閣責任者となり、最大15名からなる内閣を組閣する(議院内閣制)。
組閣責任者は必ずしも第1党から選任されるとは限らない。
もしも、このあとに下院の承認を得られない場合は、国王に対して辞表を提出することになる。
1995年3月23日にホロコースト否認を認めないことを公式見解とし、非合法化する法律を制定している。
しかし国内にはVrij Historisch Onderzoek(ドイツ語版) のような否認主義組織も存在する。
政治空白
前回の総選挙は2010年6月に行われ、12の政党が議席を獲得した。
しかし北部のオランダ語圏と南部のフランス語圏の対立を背景とした連立交渉は難航を極め、正式な政権が541日も存在しないという事態となった[53]。
これは正式な政権が存在しない世界最長記録である[54]。
この政治空白の間の首相職は、総選挙で敗退したキリスト教民主フランデレン党のイヴ・ルテルムが引き続き暫定的に務めた。
2011年11月26日、新政権樹立の連立協議で、主要6政党が2012年予算案で合意に達した。
当時の国王アルベール2世は、ワロン系社会党のエリオ・ディルポ党首に組閣を指示[55]。12月5日、ディ・ルポを新首相に任命し[56][57]、政権は12月6日に発足した。
政治的な空白は2018年以降も発生。2018年12月に移民政策をめぐり与党内が対立、連立政権が崩壊すると2019年5月の下院選挙を経ても、どの党も主導的な立場を取ることができず暫定政権が続いた。
2020年3月、新型コロナウイルス感染拡大の緊急対策が求められる状況下で、ようやく小政党出身のソフィー・ウィルメス首相が率いる内閣を各党が容認。
ただし、ウイルス対策以外の政策決定はほとんど認められず暫定政権的な色合いが強く[58]、10月になってようやく7政党によるアレクサンダー・デ・クローを首相とする連立政権が発足した[59]。
主な政党
詳細は「ベルギーの政党」を参照
自由党、社会党、キリスト教民主党、環境政党がオランダ語系(フラマン系)とフランス語系(ワロン系)に分離するなど、地域で政党が分かれているのがベルギーの政党の特徴である。
オランダ語系政党
キリスト教民主フラームス(フラマン系キリスト教民主党) フラームス自由民主(フラマン系自由党) フラームス・ベランフ(移民排斥を掲げる極右政党) 社会党・別(フラマン系社会党) 新フラームス同盟 リスト・デデッケル フルン(フラマン系環境政党)
フランス語系政党
改革運動(ワロン系自由党) 社会党(ワロン系社会党) 民主人道主義中道派(ワロン系キリスト教民主党) エコロ(ワロン系環境政党) 国民戦線(移民排斥を掲げる極右政党)
国際関係
詳細は「ベルギーの国際関係(英語版)」を参照
「日本とベルギーの関係」も参照国家安全保障
ベルギー陸上構成部隊
詳細は「ベルギーの軍事」を参照1949年以降、ベルギーは中立主義を放棄し、北大西洋条約機構に加盟、集団安全保障体制を構築している。
軍は2002年に単一の統合軍に再編成されており、その下に陸上部隊COMOPSLAND(ベルギー陸上構成部隊)・海上部隊COMOPSNAV(ベルギー海洋構成部隊)・航空部隊COMOPSAIR(ベルギー航空構成部隊)・医療部隊COMOPSMED(ベルギー医療構成部隊)の4部隊が編成されている。
冷戦期までは徴兵制が敷かれていたが廃止された。
現在の兵力は現役約4万人、予備役約10万人。
また、ベルギーに駐留しているアメリカ軍(アメリカ合衆国連邦政府)とニュークリア・シェアリングをしており、独自の核戦力は保持していないが核抑止力を持っている。
地理
詳細は「ベルギーの地理」を参照
平野部の干拓地
一般的に北部のフランデレン地域は平野が広がっているのに対し、南部のワロン地域はアルデンヌ高地を中心に丘陵地帯が多い。
北部は豊かな土壌が広がり、野菜や果実などの近郊農業や、農耕飼料を必要とする養豚・養鶏業等が営まれているのに対し、南部はアルデンヌ高地を中心に冷涼な気候で、酸性土壌も多く、肉牛、乳牛などの放牧による畜産業や、ビート栽培などが主流である。
最高地点は東部ドイツ国境付近のボトランジュで、海抜693メートルに達している。
気候
ケッペンの気候区分による温帯(西岸海洋性気候)に属する。
これは暖流の北大西洋海流による。
晴天の続く夏期でも最高気温が30度を上回ることは多くない。
面積の小さな国だが、内陸になるほど大陸性気候の特徴が現れる。すなわち、夏の気温が上がり、冬期は寒くなる。さらに降水量の年変動が大きくなる。
首都ブリュッセル (ブリュッセル首都圏地域内のイクル、北緯50度42分、東経4度21分、標高100メートル)の年平均気温は10.2度[60]、最寒月は1月(平均気温3.1度)、最暖月は7月(同17.9度)。相対湿度の年平均値は81.6%(40年平均値)、もっとも湿潤なのは12月(88.4%)、もっとも乾燥しているのは5月(75.2%)。年平均降水量は823.0ミリ、もっとも雨が多いのは11月(79.5ミリ)、もっとも雨が少ないのは2月(53.1ミリ)である。
地方行政区分
詳細は「ベルギーの地方行政区分」を参照
ベルギーの地図
フラマン語共同体(黄)とフランス語共同体(赤)、ドイツ語共同体(青)
ベルギーは1993年の憲法改正により連邦制に移行した。
連邦は、ブリュッセル首都圏地域、フランデレン地域、ワロン地域の3つの地域と、フラマン語共同体、フランス語共同体、ドイツ語共同体の3つの言語共同体の2層、計6つの組織で構成される。
そして、フランデレン地域とワロン地域の2つの地域は、それぞれ5つの州に分かれている。
ただし、フラマン語共同体とフランデレン地域については、ブリュッセル首都圏を除き領域が完全に重なるため、現行憲法が施行されてまもなく、フラマン語共同体政府がフランデレン地域政府を吸収する形で統合された。
統合された自治体は単にフランデレンと呼ばれている。
つまり、現在のベルギーには連邦構成主体は憲法上は6つ存在するが、実際上は5つしか存在しない。
フランデレン地域とワロン地域の境界線は、国土のほぼ中央を東西に横切っており、言語境界線と呼ばれる。
共同体
フラマン語共同体 フランス語共同体 ドイツ語共同体
地域と州
ブリュッセルの旗 ブリュッセル首都圏地域 -フランス語、オランダ語両言語併用 フランデレン地域の旗 フランデレン地域 -オランダ語圏 アントウェルペン州の旗 アントウェルペン州 ウェスト=フランデレン州の旗 ウェスト=フランデレン州 オースト=フランデレン州の旗 オースト=フランデレン州 フラームス=ブラバント州の旗 フラームス=ブラバント州 リンブルフ州(ベルギー)の旗 リンブルフ州 ワロン地域の旗 ワロン地域 - フランス語圏、一部ドイツ語圏 エノー州の旗 エノー州 ナミュール州の旗 ナミュール州 ブラバン・ワロン州の旗 ブラバン・ワロン州 リエージュ州の旗 リエージュ州 リュクサンブール州の旗 リュクサンブール州主要都市
詳細は「ベルギーの都市の一覧」を参照
都市 州 人口
1 ブリュッセル 1,004,900
2 アントウェルペン アントウェルペン州 461,496
3 ヘント オースト=フランデレン州 233,120
4 シャルルロワ エノー州 201,456
5 リエージュ リエージュ州 187,086
6 ブルッヘ ウェスト=フランデレン州 117,224
7 ナミュール ナミュール州 107,178
8 モンス エノー州 91,221
9 ルーヴェン フラームス=ブラバント州 90,706
10 メヘレン アントウェルペン州 80,809経済
首都ブリュッセル
詳細は「ベルギーの経済(英語版)」を参照概要
2013年のベルギーのGDPは約5,065億ドルであり[61]、日本の九州とほぼ同等の経済規模である[62]。同年の1人あたりのGDPは4万5,383ドルで、世界的に上位に位置する。2016年の1人あたり国民総所得(GNI)は4万1,860ドルで、イギリスに次ぐ世界第18位となっている[63]。
製造業を中心に豊かな資本力を誇るものの、小国であるため貿易への依存傾向が強く、経済が安定しているとまでは言い切れない。1990年代は、上昇傾向にあったが、21世紀に入って停滞状態になった。物価は低水準安定。また、景気に左右されず、失業率は概して高い。
日本では、チョコレートやベルギーワッフルなど加工菓子の産地として知られているが、ルーヴェンにある世界最大のビール会社であるアンハイザー・ブッシュ・インベブや化学会社のソルベー、製薬会社のヤンセン ファーマなども有名である。
日本との関係
松方正義はベルギー国立銀行をモデルとして日本銀行を立ち上げた。
明治憲法はプロイセン憲法を原案としているが、そのプロイセン憲法はベルギー憲法の貧弱な国王大権を拡大したものであった。
ブリュッセル金融網の発展に伴い、ベルギー憲法は断続的に改正された。
日本との経済的関係は、地理的問題(2001年から2015年まで空路の直行便がなかった[注釈 5]など)や、文化的交流が少ないなどの理由により、その存在は日本では一部企業を除きそれほど注目されておらず、特に銀行はバブル崩壊によりその多くが撤退した。
ただし、確かな技術力を持つ企業が多いこと、またコーディネーションセンターに代表される外国企業に対する優遇税制措置が設けられていること、物流拠点としても立地が最適であること、かつ英独仏の主要国に近いこと、EUの本部所在地であることなどから大手自動車メーカーなどが欧州統括本社などを置いており、2015年10月時点で240 – 250社がベルギーに進出している[64]。
在留届を提出している邦人は6,000人近くに達し、在留日本人の総数は欧州の中でも上位に位置する。
工業
色と面積で示したベルギーの輸出品目(2009年)
ベルギーは人口規模・面積ともに小さい国(世界人口の0.1%、陸地面積の0.02%)であるが、中世に起源を持つ繊維産業や石炭の採炭と関連して長くヨーロッパ域内でもっとも工業の進んだ地域であった。
第二次世界大戦以前から鉄鋼業、機械工業、石油化学工業がよく発達していた。
しかしながら、石炭産業の斜陽化に従い、1980年代前半まで長期的な低迷傾向が見られた。
その後、EC域内貿易の発展や財政再建によって再び工業が興隆し、石油化学工業、非鉄金属工業、自動車、食品工業を中心とした発展が見られる。
ベルギー工業は輸入原料を加工し、半製品、製品として輸出する加工工業が中核となっている。
貿易依存度は輸出87.1%、輸入81.1%[65]に達し、ヨーロッパ域内でもっとも貿易に依存した経済であるといえる。
おもな工業都市は、アントウェルペン(石油化学工業、工業用ダイヤモンド製造業)、シャルルロワ、リエージュ(製鉄業)、テムス(造船業)、クルトレ、ブルッヘ、ブリュッセル、ヴェルヴィエ、ヘント、メヘレン(繊維業)、ヴァルサンランベール(クリスタルガラス工業)である。
世界シェアの高い工業製品は、世界第7位のプラスチック(670万トン、世界シェア3.3%)、同第8位のスズ(8,900トン、2.9%)である。
世界シェア1%を超える品目を一覧すると、石油化学、非鉄金属、自動車、繊維、食品といったさまざまな分野においてバランスの取れた発展を見せていることが分かる。
石油化学 軽油(1,246万トン、世界シェア1.2%)、重油(760万トン、1.3%)、ナフサ(205万トン、1.1%) 非鉄金属 亜鉛(26万トン、2.6%)、銅(38万トン、2.4%) 自動車製造業 自動車(90万台、1.4%) 繊維 毛糸(1.3万トン、1.3%) 食品 バター(12万トン、1.5%)、ビール(17億リットル、1.1%)、豚肉(101万トン、1.0%) その他 苛性ソーダ(水酸化ナトリウム、54万トン、1.2%)
鉱業
石炭採掘の歴史は古く、すでに12世紀から採掘が始まっていた。
現在でも石炭は埋蔵されているが、品質面で国外の石炭と競争できないため、生産が急速に落ち込んでいる。1973年の採掘量は880万トンだったが、2002年時には17万トンまで下がっている。
南北の経済格差
工業・サービス業が発達した北部のフランデレン地域と、石炭・鉄鋼業が衰退した南部のワロン地域では失業率に2倍以上の開きがある(後者の方が失業率が高い)。
労働者の需給にギャップが生じても、ワロン地域はフランス語以外話せない住民が多数であるため、ワロン人がフランデレン地域で就労することが困難であり、失業率の格差が縮まらない一因となっている。
またブリュッセルは移民が多く、低技能労働者が多いことから、失業率はやはり高い。
また、南北の経済格差も深刻で、フラマン系の裕福な北部と、比較的貧しい南部という図式が定着している[66]。
ベルギー建国時はこの図式は逆であり、南部のフランス語圏が工業地帯として発展しており裕福で、北部が貧しかった。
しかし、今や北部のフラマン地域が裕福であり、北部が南部を見下している状態にある[67]。
交通
詳細は「ベルギーの交通(英語版)」を参照
「ベルギーの鉄道」および「ベルギーの空港の一覧」も参照国民
詳細は「ベルギーの人口統計(英語版)」を参照民族
住民はフラマン語を話すフラマン人が58%、フランス語を話すワロン人が31%、その他混血などが11%である。
近年、特に首都ブリュッセルは中東系を中心とした移民が多く、近年ではアラブ系の「Mohammed」がブリュッセルで生まれる男子でもっとも多く名付けられる名前となっている。
「ベルギー人」も参照言語
「オランダ語連合」も参照言語話者(ベルギー)
フラマン語
58%
フランス語
31%
その他
11%ベルギーの国土は、憲法により使用言語別で主に3つの地域に分かれており、それぞれに地方公用語がある。
北部のフランデレン地域はフラマン語共同体に属し、フラマン語が公用語である。
同語は「オランダ語の一方言」と例えられることもあるが、実際にはベルギーという国家内における社会言語学的な呼称であり、ほとんど差異はない。
また、フローネン、ネーメン、コミーヌなどはフランス語地域である。
当地域では、老若男女を問わずフランス語とのバイリンガルが多い。また、英語やドイツ語等も話す人も多い。
フランデレン地域にはアントウェルペン、ヘント、ブルッヘ、ルーヴェン、メヘレン等の都市が立地している。
南部のワロン地域は大部分がフランス語共同体に属し、フランス語が公用語であるが、実際には一方言であるワロン語が主として話される。
ワロン語は発音・語彙に若干の特徴があるが、標準フランス語と大きな差はない。
ほかにピカルディ語、シャンパーニュ語、ロレーヌ語などのオイル語系諸方言が西部のフランス国境地域で話されている。
また、南東部のルクセンブルク国境地域では、ルクセンブルク語が少数話されている。
フランデレン地域と比べて、フラマン語や英語などの第二言語を習得している者は非常に少ない。ワロン地域にはシャルルロワ、リエージュ、ナミュール、モンス等の都市が立地している。
ワロン地域の北東ごく一部のドイツ国境地域(オイペン、ザンクト・フィート付近)はドイツ語共同体に属し、ドイツ語が公用語である。 ブリュッセル首都圏地域は公式に二言語地域とされており、フラマン語共同体とフランス語共同体の双方が自治権を持っている。
だが、元々はフランデレン地域に位置するフラマン語圏であったが、19世紀にワロン地域やフランスからの移民を中心として都市が拡大しフランス語圏へと変化していきフランス語話者が8割以上を占める言語的な孤島状態となっている。
同国最大の首都で国際都市であることから移民の受け入れも多いがたいていはフランス語に同化されていく等フランス語化がさらに進みつつある。
郊外のフラマン語圏に住みフランス語圏のブリュッセル市内へと通勤通学するフラマン人も多く、周囲に住むフラマン人にとってフランス語とのバイリンガルであることが求められてきた。
フランデレン地域の人々とワロン地域の人々の間には「言語戦争」と呼ばれるほどの文化的な対立が存在し、連邦制が施行されて以降も、対立意識は完全に無くなってはいないと言われる。
例として、2006年12月13日に公共放送RTBFが「フランデレン地域が独立を宣言して、前国王アルベール2世がコンゴ民主共和国(旧ベルギー植民地)に亡命した」というフェイクニュースを流したところ、一時国内が混乱に陥り、地域間の溝の存在を露呈する結果となった(のちに、議論を喚起する目的があったと釈明した)。
婚姻
婚姻の際に姓が変わることはなく、夫婦別姓である[68][69]。
また、同性同士の結婚(同性婚)も2003年より可能となった。
宗教
詳細は「ベルギーの宗教(英語版)」を参照
ベルギー国民が信仰する宗教は、ローマ・カトリックが75%、プロテスタントが25%である。
1994年の統計では、イスラム教が3%となっている。このほか、ユダヤ教などを信仰する者もいる。
「ベルギーにおける信教の自由(英語版)」も参照
日本でも西日本を中心に布教活動をしているカトリック修道会の淳心会は、ベルギー・ブリュッセル郊外のスクートで設立された(スクート会とも呼ばれる)。
教育
詳細は「ベルギーの教育(英語版)」を参照
保健
詳細は「ベルギーの医療」を参照治安
詳細は「ベルギーにおける犯罪(英語版)」を参照ベルギーは日本に比べると治安が悪いと言われることが多いものの、近年では同王国内及びブリュッセル市内の犯罪認知件数が減少傾向にある。
しかし、若年層を中心に麻薬類の使用事犯が増加している問題点をはじめ、スリや置き引きやひったくり(主に邦人の被害率が高い)、偽警官による詐欺等の犯罪が依然として後を絶たない点が目立ち、強盗や侵入犯罪の被害に遭うケースも見受けられている。
加えて、運転マナーの悪い運転手が多く、同市内では法定速度を遥かに超えて走行する車両が多いことから事故も多発している現状が続いている[70]。
人権
「ベルギーにおける人権(英語版)」を参照
マスコミ
詳細は「ベルギーのメディア(英語版)」を参照
「ベルギーの通信(英語版)」および「ベルギーの新聞の一覧(英語版)」も参照
文化
詳細は「ベルギーの文化(英語版)」を参照
食文化
ベルギー製が有名なお菓子ワッフル
「ベルギー料理」を参照ベルギービール ベルギーチョコレート
文学
「ベルギー文学」を参照音楽
「ベルギーの音楽(英語版)」を参照15世紀後半から16世紀にかけてのルネサンス音楽の時代には、フランドル楽派が栄えた。18世紀、ベートーヴェンの祖父で同名の音楽家であったルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (1712-1773)はメヘレン出身であったといわれ、ルーヴェンやリエージュで活動した後、孫の生地であるボンへ移住した。19世紀には作曲家セザール・フランクを輩出しているが、活躍地であるフランスの音楽史の中で語られることが多い。ちなみにフランクの家系はドイツ系であり、ドイツ音楽の強い影響をフランス音楽に持ち込んだ一派の指導的存在とみなされている。
ブリュッセル音楽院では特にヴァイオリン奏者を多く輩出しており、シャルル=オーギュスト・ド・ベリオとその門下であるアンリ・ヴュータンやウジェーヌ・イザイなどフランス語圏ベルギー人作曲家が「フランコベルギー楽派」と呼ばれる作風および演奏様式を確立した。20世紀の大指揮者の一人アンドレ・クリュイタンスも、やはりフランスの指揮者として語られることが多いが、ドイツ音楽とフランス音楽の両方で高い評価を受けた。その他、ヨス・ファン・インマゼール、フィリップ・ヘレヴェッヘ、クイケン兄弟、ルネ・ヤーコプスなど古楽系演奏家を多く輩出している。
20世紀後半の作曲家では、トータル・セリエリズムへの道を開いたカレル・フイヴェールツ、前衛的な作風で電子音楽の分野でも活躍したアンリ・プッスールが知られる。なお、ポピュラー音楽においては、ジャンゴ・ラインハルトやルネ・トーマ、ジャック・ブレルなどが挙げられる。
映画
「ベルギーの映画」を参照
美術
「ベルギーの芸術(英語版)」を参照ベルギーには長い芸術的伝統があり、その歴史は中世にまで遡る。中でも絵画においては、多数の画家を輩出して来た歴史を持つ国であり、フーベルト・ファン・エイク、ヤン・ファン・エイク、ハンス・メムリンク、ヒエロニムス・ボス、ピーテル・ブリューゲル、ピーテル・パウル・ルーベンス、フロリス・ファン・ダイク、アンソニー・ヴァン・ダイク、ヤーコブ・ヨルダーンス、ポール・デルヴォー、ルネ・マグリット、フェルナン・クノップフなどが挙げられる。
また、ファッションにおいてはマルタン・マルジェラ、ドリス・ヴァン・ノッテン、アン・ドゥムルメステール、デルヴォー、キプリングなどが知られる。
建築
「ベルギーにおける新古典主義建築(英語版)」を参照
世界遺産
詳細は「ベルギーの世界遺産」を参照ベルギー国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が9件ある。
祝祭日
「ベルギーの祝日(英語版)」を参照備考欄の※は、祝日ではないが官庁や公共機関、学校などの施設は休みとなる日。祝祭日が土曜または日曜と重なった場合、翌月曜日が振替休日となる。
日付 日本語表記 オランダ語表記 フランス語表記 ドイツ語表記 備考
1月1日 正月 nl:Nieuwjaar fr:Nouvel An de:Neujahr
移動祝日 復活祭 nl:Pasen fr:Pâques de:Ostern
移動祝日 復活祭の翌日の月曜日 nl:Paasmaandag fr:Lundi de Pâques de:Ostermontag
5月1日 メーデー nl:Dag van de arbeid fr:Fête du Travail de:Tag der Arbeit
移動祝日 キリスト昇天祭 nl:Onze Lieve Heer hemelvaart fr:Ascension de:Christi Himmelfahrt 復活祭39日後
移動祝日 聖霊降臨祭 nl:Pinksteren fr:Pentecôte de:Pfingsten 復活祭50日後
移動祝日 聖霊降臨祭の翌日の月曜日 nl:Pinkstermaandag fr:Lundi de Pentecôte de:Pfingstmontag
7月11日 フラマン語共同体の祝日 nl:Feest van de Vlaamse Gemeenschap Fête de la Communauté néerlandophone de Belgique ※
フラマン語圏のみ
7月21日 建国記念日 nl:Nationale feestdag fr:Fête nationale de:Nationalfeiertag
8月15日 聖母被昇天祭 nl:Onze Lieve Vrouw hemelvaart fr:Assomption de:Mariä Himmelfahrt
9月27日 フランス語共同体の祝日 fr:Fête de la Communauté française de Belgique ※
フランス語圏のみ
11月1日 万聖節 nl:Allerheiligen fr:Toussaint de:Allerheiligen
11月11日 休戦記念日 nl:Wapenstilstand fr:Jour de l’armistice de:Waffenstillstand 第一次世界大戦終結の祝祭日
11月15日 ドイツ語共同体の祝日 Fête de la Communauté germanophone de Belgique de:Tag der Deutschsprachigen Gemeinschaft Belgiens ※
ドイツ語圏のみ
12月25日 クリスマス nl:Kerstmis fr:Noël de:Weihnacht
スポーツ
詳細は「ベルギーのスポーツ」を参照
「オリンピックのベルギー選手団」も参照
サッカー
詳細は「ベルギーのサッカー(英語版)」を参照
ベルギーでは絶大な人気を誇るエデン・アザールベルギー国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツである[71]。今から120年以上前の1895年に、サッカーリーグの「ベルギー・ファースト・ディビジョンA」が創設されている。同国では2010年代に入って以降、ビッグクラブで活躍する世界的に有名なサッカー選手が数多く出現しており、ヴァンサン・コンパニ、トーマス・フェルマーレン、マルアン・フェライニ、エデン・アザール、ロメル・ルカク、ケヴィン・デ・ブライネ、ティボ・クルトゥワなどが挙げられる。
ベルギーサッカー協会(KBVB)によって構成されるサッカーベルギー代表は、これまでFIFAワールドカップには13度出場しており、3大会ぶりの出場となった2014年大会ではベスト8に進出した。そして、続く2018年大会では過去最高位となる3位に輝いている。UEFA欧州選手権には6度出場しており、2016年大会と続く2021年大会では2大会連続でベスト8の成績を収めた。さらに2018年に新設されたUEFAネーションズリーグでは、2020-21シーズンに4位となっている。
自転車競技
ロンド・ファン・フラーンデレンベルギーで自転車競技はサッカーの次に人気のスポーツとなっており、国技として挙げられることもある[72]。主要なレースとして、ロンド・ファン・フラーンデレンやリエージュ〜バストーニュ〜リエージュがある。同国の著名なロードレース選手としては、エディ・メルクス、ヨハン・ムセウ、トム・ボーネン、フィリップ・ジルベールが知られている。
著名な出身者
詳細は「ベルギー人の一覧」を参照脚注
[脚注の使い方]
注釈^ ベルギーで用いられるオランダ語はフラマン語とも呼ばれる。 ^ 1999年までの通貨はベルギー・フラン。 ^ ベルギーのユーロ硬貨も参照。 ^ Wikipedia:外来語表記法/オランダ語#原音を重視した表記例に従った場合の表記例。 ^ かつてはサベナ・ベルギー航空が直行便を運航していたが、2001年に同社が倒産してしまったために廃止されてしまった。なお、2015年10月にANAが直行便を開設している。成田=ブリュッセル線の開設について(2015年6月1日 ANAプレスリリース)
出典
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外部リンク
小島健(2004年). “ベネルクス関税同盟の設立”. 2010年1月19日閲覧。 小島健(2005年). “ベルギーにおける連邦制の成立過程”. 2010年1月19日閲覧。 正躰朝香(2006年). “ベルギーの連邦化改革をめぐる国内政治過程(1) - 言語問題の政治化と国家再編への緒”. 2010年1月19日閲覧。 正躰朝香(2006年). “ベルギーの連邦化改革をめぐる国内政治過程(2) - 二種類の連邦構成主体の創出と連邦制への移行”. 2010年1月19日閲覧。 若林広(2007年). “ベルギー国家の再編 - 政党政治の変容期における最近の展開”. 2010年1月19日閲覧。 ベルギー観光局 ワロン・ブリュッセル. “ベルギーの基本情報 - 歴史”. 2010年1月20日閲覧。
関連項目
ベルギー関係記事の一覧 ベルギー国王の一覧 シェンゲン圏、シェンゲン協定 ベルギーの作曲家 ベルギーの画家 ベルギーのファッションデザイナー
外部リンク
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カテゴリ:ベルギーヨーロッパの国現存する君主国王国連邦制国家先進国欧州連合加盟国国際連合加盟国NATO加盟国経済協力開発機構加盟国フランコフォニー加盟国フランス語圏 最終更新 2024年3月9日 (土) 07:38 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。
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『キエフでは、夏は快適で、一部曇り、冬は長く、凍えそうに寒く、降雪が多く、風が強く、ほぼ曇りです。 1 年を通して、気温は -7°Cから 26°Cに変化しますが、-17°C 未満または 31°C を超えることは滅多にありません。
観光点に基づき、1 年のうちキエフにおける温暖気候での活動に適した時期は、6月中旬から8月下旬までです。
キエフ における気候
キエフ における月別の気象 詳細については、各チャートをクリックしてください。
ADVERTISEMENTキエフ における平均気温
暖かい季節は、5月15日から 9月7日まで 3.7 か月続き、1 日平均の最高気温は 20°C を超えます。 キエフ における 1 年の最も暑い月は 7月で、平均最高気温は 25°C、最低気温は 16°C です。寒い季節は、11月17日から 3月11日まで 3.8 か月 続き、1 日当たりの平均最高気温は 4°C 未満です。 キエフ における 1 年の最も寒い月は 1月で、平均最低気温は -6°C、最高気温は -1°C です。
キエフにおける平均最高・最低気温
1 日平均の高温(赤線)と低温(青線)ならびに 25%~75% 帯および 10%~90% 帯の気温。 細い点線は、対応する平均体感温度です。
平均 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
高 -1°C -0°C 6°C 14°C 20°C 23°C 25°C 24°C 19°C 12°C 4°C 0°C
気温 -4°C -3°C 2°C 9°C 16°C 19°C 21°C 20°C 14°C 8°C 2°C -2°C
低 -6°C -6°C -1°C 5°C 10°C 14°C 16°C 14°C 10°C 4°C -0°C -4°C
以下の数字は、1 年を通した時間ごとの平均気温の特徴を 1 目でわかるように表示しています。 横軸は日付で、縦軸は時刻、そして色はその日と時刻の平均気温です。ADVERTISEMENT
キエフの 1 時間ごとの平均気温
毎時の報告された、帯に色分けされた平均気温。 影付きのオーバーレイは、夜間および市民薄明を示しています。
Montrose、アメリカ合衆国(7,530 キロメートルの距離)は、非常に異質な場所であり、気温はキエフに最もよく似ています(比較を参照)。マップマーカー© OpenStreetMap contributors
キエフ を他の都市と比較:
都市や空港を検索
マップ雲
キエフでは、空を覆う雲量の平均割合は、1 年を通して大きな季節変動があります。ADVERTISEMENT
1 年を通したキエフにおける晴の部分は、4月21日から始まり、10月14日まで 5.8 か月続きます。
キエフ における 1 年の最も晴れが多い月は 7月であり、平均すると 67% の確率で、快晴、ほぼ晴れ、または一部曇りです。
1 年のうちより曇天が多い季節は 10月14日頃始まり、4月21日頃に終わるまで 6.2 か月続きます。
キエフ における 1 年の最も曇りが多い月は 12月であり、平均すると 71% の確率で、本曇りまたはほぼ曇りです。
キエフにおける雲量カテゴリー
空が雲で覆われた割合で分類された、各雲量帯における経過時間の割合。
割合 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
より曇り 69% 69% 62% 54% 45% 41% 33% 34% 44% 52% 68% 71%
より晴れ 31% 31% 38% 46% 55% 59% 67% 66% 56% 48% 32% 29%降水量
降水日とは、少なくとも 1 ミリメートルの降雨または水換算で降水があった日のことです。 キエフにおける降水日の確率は、1 年を通して変化します。
より降水が多い季節は、5月11日から 8月5日まで 2.8 か月続き、特定の日が降水日になる確率は 23% 以上多くなります。 キエフ における最も降雨日の多い月は 6月であり、平均すると 1 ミリメートル以上の降雨量のある降雨日が 9.3 日あります。
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より乾燥する季節は、8月5日から 5月11日まで 9.2 か月続きます。 キエフ における最も降雨日の少ない月は 1月であり、平均すると 1 ミリメートル以上の降雨量のある降雨日は 4.8 日しかありません。
降水日のうち、雨のみ、雪のみまたはそれら 2 つの混在かが区別されます。 この区分に基づくと、キエフにおける最も一般的な降水形態は、1 年を通して変化します。
2月14日から 1月12日の 11 か月は、雨のみが最も一般的です。 キエフ における雨のみの日が最も多い月は 6月であり、平均 9.3 日あります。
1月12日から 2月14日の 1.1 か月は、雪のみが最も一般的です。 キエフ における雪のみの日が最も多い月は 2月であり、平均 1.9 日あります。
キエフの 1 日当たりの降水確率
少量の降水を除く、各種の降水があった日の割合: 雨のみ、雪のみ、混在(同一日に降雨と降雪の両方)
日数 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
降雨 1.9日 2.0日 3.5日 5.8日 7.8日 9.3日 8.6日 7.0日 6.4日 5.6日 4.0日 2.7日
みぞれ 1.0日 0.9日 0.5日 0.2日 0.0日 0.0日 0.0日 0.0日 0.0日 0.1日 0.8日 0.9日
雪 1.9日 1.9日 0.8日 0.0日 0.0日 0.0日 0.0日 0.0日 0.0日 0.1日 0.9日 1.9日
任意 4.8日 4.8日 4.9日 6.1日 7.8日 9.3日 8.6日 7.0日 6.4日 5.8日 5.7日 5.5日
ADVERTISEMENT降雨
月合計だけでなく、月内の変化も表示するため、各日付を中心とした 31 日間のスライド累積降雨量を示します。 キエフでは、月間降雨量に大きい季節変動があります。1 年のうち、雨季は、2月17日から 12月27日までの 10 か月続き、スライド 31 日間の降雨量は少なくとも 13 ミリメートルになります。 キエフ における最も降雨の多い月は 6月であり、平均降雨量は 64 ミリメートルです。
1 年間の最も降雨量が少ない期間は、12月27日から 2月17日までの 1.6 か月です。 キエフ における最も降雨の少ない月は 1月であり、平均降雨量は 10 ミリメートルです。
キエフにおける平均月間降雨量
対象日を中心とする 31 日間のスライド期間における平均累積降雨量(実線)ならびに 25%~75% および 10%~90% 帯の降雨量。 細い点線は対応する平均降雪量です。
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
降雨 9.8mm 12.5mm 17.0mm 30.3mm 43.2mm 63.8mm 56.0mm 43.3mm 38.6mm 31.4mm 24.1mm 15.7mm降雪量
降雨量と同様、1 年間の各日付を中心とした 31 日間のスライド累積降雪量を考慮します。 キエフ では、月間の降雪量に大きな季節変動があります。
1 年のうち降雪期間は、10月27日から 4月4日の 5.2 か月続き、少なくとも 25 ミリメートルのスライド 31 日間降雪量があります。 キエフ における最も降雪量の多い月は 12月であり、平均降雪量は 119 ミリメートルです。
1 年のうち降雪がない期間は、4月4日から 10月27日までの 6.7 か月です。 最も降雪量が少ないのは 7月26日を中心とする期間で、平均合計累積降雪量は 0 ミリメートルになります。
キエフ における 1 月当たりの平均降雪量
対象日を中心とする 31 日間のスライド期間における平均累積降雪量(実線)ならびに 25%~75% および 10%~90% 帯の降雪量。 細い点線は対応する平均降雨量です。
ADVERTISEMENT1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
降雪量 113.8mm 104.1mm 58.9mm 12.8mm 0.5mm 0.0mm 0.0mm 0.0mm 0.0mm 7.2mm 72.5mm 119.1mm
太陽
キエフにおける 1 日の長さは、1 年にわたり極度に大きく変化します。 2024年では、最も短い日は 12月21日で、昼間時間は 8 時間 0 分です。最も長い日は 6月20日で、昼間時間は 16 時間 27 分です。キエフにおける昼間時間および薄明時間
太陽が見える時間(黒線)。 下(最も黄色)から上(最も灰色)へ、色帯は白昼、薄明(市民、航海、天文)、夜間を示します。
時間 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
昼間 8.6時間 10.1時間 11.9時間 13.8時間 15.5時間 16.4時間 15.9時間 14.4時間 12.6時間 10.7時間 9.0時間 8.1時間
最も早い日の出は、6月17日の 4:45で、最も遅い日の出は、それより 3 時間 13 分遅い 12月30日の 7:58です。 最も早い日の入りは、12月11日の 15:53で、最も遅い日の入りはそれより 5 時間 20 分遅い 6月24日の 21:13です。2024年 年のキエフでは、夏時間(DST)は春の 3月31日に始まり、秋の 10月27日まで 6.9 か月続きます。
キエフにおける日の出および日の入りと薄明時刻ならびに夏時間
2024年年を通した太陽日。 下から上へ、黒線は前回の正子、日の出、正午、日の入り、次の正子を示します。 昼間、薄明(市民、航海、天文)および夜間は、黄色から灰色の色帯で示されています。 夏時間へまたは夏時間からの遷移は「DST」ラベルで示されています。
ADVERTISEMENT以下の図は、報告期間における毎日、毎時間の太陽仰角(地平線上の太陽の確度)および方位角(太陽の磁針方角)のコンパクト表現です。 横軸は日付で、縦軸は時刻です。 ある日のある時間において、背景色は、その時点の太陽の方位角を示します。 黒い等値線は、一定の太陽仰角の等高線です。
キエフ における太陽仰角と方位角
2024年 年を通した太陽仰角と方位角。 黒い線は、一定の太陽仰角(度で表す地平線上の太陽の角度)の線です。 塗りつぶされた背景色は、太陽の方位角(磁針方角)を示します。 基本方位の境界にある薄い色の部分は、中間方位(北東、南東、南西、北西)を示します。
月
以下は、2024年の主な月のデータを簡潔に示す図です。 横軸は日付で、縦軸は時刻、そして色が付いた部分は月が地(水)平線上にあることを示します。 灰色の縦棒(新月)および青い縦棒(満月)は、月相を示します。キエフにおける月の出、入り、月相
月が地(水)平線上にあるとき(薄青色)の時間と新月(濃灰色の線)および満月(青い線)を示す。 影付きのオーバーレイは、夜間および市民薄明を示しています。
ADVERTISEMENT湿度
湿度快適性は、露点に基づいています。なぜなら、露点は汗が皮膚から蒸発し、身体を冷却するかどうかを決定するからです。 露点が低ければ乾燥していると感じられ、高ければより湿気を感じます。 昼間と夜間で大きく変化する気温と異なり、露点の変化はより緩慢なので、気温が夜に下がっても、湿度の高い日は湿度の高い夜に続くことがよくあります。キエフにおける、湿度快適性レベルが蒸す、蒸し暑いまたは不快の割合で測定する体感湿度レベルは、年間を通してあまり変化せず、4% から 4% の範囲に収まります。
キエフにおける湿度快適性レベル
露点で分類された各湿度快適性レベルにおける経過時間の割合。
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
高湿日 0.0日 0.0日 0.0日 0.0日 0.1日 0.9日 2.3日 1.2日 0.1日 0.0日 0.0日 0.0日
風
このセクションは、地上 10 メートルにおける時間ごとの広域平均風ベクトル(風速および風向き)を説明しています。 特定の場所で発生する風はその地域の地形やその他の要素に大きく左右され、瞬間の風速や風向きは時間平均より大きく変化します。キエフでは、風速は、1 年を通して大きな季節変動があります。
1 年で最も風が強い期間は、10月7日から 4月22日の 6.5 か月で、平均風速は 時速 15.3 キロメートルを超えます。 キエフ における最も風が強い月は 2月であり、時間当たりの平均風速は 時速 17.5 キロメートルです。
ADVERTISEMENT
1 年間のうちより穏やかな期間は、4月22日から 10月7日の 5.5 か月です。 キエフ における最も穏やかな月は 7月であり、時間当たりの平均風速は 時速 13.2 キロメートルです。
キエフの平均風速
時間平均風速(濃い灰色の線)ならびに 25%~75% および 10%~90% 帯の風速 。
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
風速(kph) 17.3 17.5 17.4 15.8 14.2 13.8 13.2 13.3 14.8 15.7 16.3 16.6
キエフにおける支配的な時間当たりの平均風向きは、1 年を通して変化します。4月1日から 4月26日まで、3.6 週間の頻度の高い風向きは南風で、4月6日に 28% と最大になります。 4月26日から 8月17日まで、3.7 か月の頻度の高い風向きは北風で、7月9日に 36% と最大になります。 8月17日から 4月1日まで、7.5 か月の頻度の高い風向きは西風で、1月1日に 42% と最大になります。
キエフの風向き
平均風速が 1.6 km/h 未満の時間を除く、平均風向きが 4 つの基本方位のそれぞれであった時間の割合。 境界区域で薄く色づけされた領域は、中間方向(北東、南東、南西、北西)の時間割合です。
ADVERTISEMENT1 年のうち訪問に最適な時期
1 年を通してキエフの気候がいかに快適であるかを特徴づけるため、2 つの旅行点数を計算しました。観光点は、晴れまたは降雨のない、体感気温 18°C~27°Cの日が高くなります。 この点数によると、年間で一般的な屋外観光活動のためにキエフを訪問する最適な時期は、は6月中旬から8月下旬まで8月の第 1 週です。
キエフにおける観光点
最適時期観光点(塗潰し区域)およびその内訳:気温点(赤線)、雲量点(青線)、降水量点(緑線)。
砂浜/プール点は、晴れまたは降雨のない、体感気温 24°C~32°Cの日が高くなります。 この点数によると、年間でサマーアクティビティのためにキエフを訪問する最適な時期は、7月上旬から8月中旬までであり、中でも最高点は7月の最終週となります。キエフにおける砂浜/プール点
砂浜/プール点(塗潰し領域)およびその内訳:気温点(赤線)、雲量点(青線)、降水量点(緑線)。
ADVERTISEMENT方法論
分析期間(1980年~2016年)中、毎日8:00~21:00の毎時間、体感気温、雲量、合計降水量について独立した点数が計算されます。 これらの点数は、時間ごとに単一の総合点に組み合わされ、その後、日ごとに集計され、分析期間の年ごとに平均化されます。
雲量点は、晴天の場合 10、ほぼ晴天は 9、全天曇天の場合は 1 と直線的に下がります。
対象時間を中心とする 3 時間の降水量に基づく降水点は、降水がない場合に 10、わずかな降水量の場合 9、1 ミリメートル以上の降水量は 0 と直線的に下がります。
観光気温点は、10°C以下の体感気温の場合 0、18°Cの場合 9、24°Cの場合 10 と直線的に上がり、27°Cの場合 9、32°Cまたはそれ以上の暑さの場合 1 へと直線的に下がります。
砂浜/プール気温点は、18°C未満の体感温度の場合 0、24°Cの場合 9、28°Cの場合 10 へと直線的に上がり、32°Cの場合 9、38°Cまたはそれ以上に暑い場合に 1 と直線的に下がります。
成長季
成長季の定義は世界中で様々ですが、このレポートにおいては、1 年間(北半球では暦年、南半球では 7月1日~6月30日)における非凍結気温(≥0°C)の連続した最長期間と定義しています。
キエフにおける成長季は通常、4月10日頃から 10月16日頃まで 6.2 か月(190 日)続き、3月23日以前または 4月28日以降に始まったり、9月29日以前または 11月3日以降に終わったりすることは滅多にありません。
キエフにおける様々な気温帯および成長季で過ごす時間
各気温帯における経過時間の割合。 黒線は、特定の日が成長季に入る確率をパーセントで示しています。
ADVERTISEMENT成長度日とは、植物や動物の成長を予測するために使用される年間の熱の蓄積量であり、最高気温を超える分を除外した、基準温度を超える暖かさの積分値と定義されています。 このレポートでは、基準として 10°C を、上限として 30°C を使用します。
成長度日のみに基づくと、キエフにおける最初の春先の開花は 4月24日頃となり、4月16日前または 5月7日後となることは稀です。
キエフにおける成長度日
25 ~ 75 パーセンタイルおよび 10 ~ 90 パーセンタイル帯の年間積算平均成長度日。
太陽エネルギー
本セクションでは、1 日の長さの季節変動、太陽の地平線上の高さ、雲による吸収その他の大気条件を全面的に考慮した、広範囲における地表へ到達する 1 日の合計入射短波太陽エネルギーについて考察します。 短波日射には、可視光および紫外線が含まれます。
1 年間を通して、1 日当たりの平均入射短波太陽エネルギーには、極めて大きい季節変動があります。
1 年間のより明るい期間は、4月30日から 8月21日の 3.7 か月続き、1 日の平方メートル当たりの平均入射短波エネルギーは 5.4 kWhを上回ります。 キエフ における 1 年の内で最も明るい月は 6月であり、平均エネルギーは 6.4 kWh です。
1 年間のうちより暗い期間は 10月26日から 2月17日の 3.7 か月で、1 日の平方メートル当たり平均入射短波エネルギーは 1.9 kWh を下回ります。 キエフ における 1 年の内で最も暗い月は 12月であり、平均エネルギーは 0.8 kWh です。
キエフにおける 1 日当たりの平均入射短波太陽エネルギー
地表に達する 1 日の平方メートル当たりの平均短波太陽エネルギー(オレンジ色の線)ならびに 25%~75% および 10%~90% 帯の太陽エネルギー。
1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
太陽エネルギー(kWh) 1.1 1.9 3.2 4.6 5.9 6.4 6.4 5.5 3.9 2.4 1.2 0.8
ADVERTISEMENT地形
このレポートのため、キエフの地理座標は緯度 50.455 度、経度 30.524 度、標高 188 mです。キエフから 3 キロメートル以内の地形の標高差は、僅かで、最大標高差は 121 メートル、平均標高は海抜 134 メートルです。 16 キロメートル以内の標高差(146 メートル)も、僅かしかありません。 80 キロメートル以内の標高差(158 メートル)は、僅かです。
キエフから 3 キロメートル以内は 人工面(75%)、水面(14%)で覆われ、16 キロメートル以内は 人工面(45%)、樹木(23%)で覆われ、80 キロメートル以内は、農地(51%)、樹木(25%)で覆われています。
データソース
このレポートは、キエフにおける 1980年1月1日~2016年12月31日の時間当たりの気候レポート履歴の統計分析およびモデル再構築に基づく代表的な気候を示しています。気温および露点
キエフにおける気温および露点予測に寄与できる十分な近さにある測候所は 3 つあります。それぞれの測候所に対して、レコードはその測候所とキエフの標高差について国際標準大気(International Standard Atmosphere)およびMERRA-2 衛星時代再解析において 2 か所間に存在する相対的な差異に従い補正されます。
キエフにおける予測値は各測候所からの個々の測定値の重み付き平均として計算されます。重みはキエフと当該測候所の距離に反比例します。
この推定に寄与した測候所は、以下のとおりです。
Kyiv Zhuliany International Airport (UKKK、78%、8 km、南西、高度差 -10 m)
ホストーメリ空港 (UKKM、11%、29 km、北西、高度差 -31 m)
Kiev Boryspil International Airport (UKBB、11%、29 km、南東、高度差 -58 m)
情報源のマップ
UKKK、78%
8 km、-10 m
UKKM、11%
29 km、-31 m
UKBB、11%
29 km、-58 m
© OpenStreetMap contributors
これらのデータソースのどのくらいが一致しているかの感覚を 得るには キエフ と気温履歴や気候の推定に寄与した測候所の比較を見ることができます。 それぞれのデータソースの寄与については、高度や MERRA-2 データに存在する相対的な変化によって調整されていることに注意してください。その他のデータ
太陽の位置(日の出や日の入りなど)に関するすべてのデータは、ジャン・メーウスの著作、Astronomical Algorithms 2nd Editionの天文計算式を使用して計算されています。雲量、降水量、風速および風向き、大要束などのその他すべての気候データは、NASA のMERRA-2 Modern-Era Retrospective Analysis からのものです。 この再解析は、最先端の全地球気候モデルにおける広範にわたる各種測定値を組み合わせ、全世界を 50 キロメートルのグリッドに区分した 1 時間当たりの気候履歴を再構築したものです。
土地の使用データは、国際連合食糧農業機関が公開したグローバル土地被覆 シェア(Global Land Cover SHARE)データベースに基づいています。
標高データは、NASA のジェット推進研究所が公開しているシャトルレーダートポグラフィーミッション(SRTM)に基づいています。
場所および空港の名前、位置、タイムゾーンは、GeoNames 地理情報データベースからのものです。
空港と測候所のタイムゾーンは AskGeo.com に基づいています。
地図は、©OpenStreetMap の提供によるものです。
免責条項
このサイトの情報は、正確性または特定の目的への適合性への保証なしにもそのままの形で提供されます。 気候データには誤り、不備、その他の瑕疵が発生しがちです。 本サイトで提供された内容に基づくいかなる決定についても責任を負いません。多くの重要なデータ系列による、MERRA-2 モデルに基づく再現性への依存については、特に細かい注意を払っています。 これらの再現モデルには時間的および空間的な完全性による大きな利点がある一方、(1)モデル由来のエラーの可能性が避けられないコンピュータモデルに基づいている、(2)50 kmごとのグリッドでの密度の粗いサンプリングのため、多くの微小区域における気候変動を再現できない、(3)特に小さな島などの沿岸地域における気候については困難が伴うという特徴があります。
また、当社の点数は、それが基づくデータの質に依存しており、特定の場所および時点の天候には予測不能で変動的な面があること、点数の定義には、特定の読者が同意しないかも知れない特定のプリファレンスを反映していることに十分注意する必要があります。
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今日
春夏秋冬
1月2月3月4月5月6月7月8月9月10月11月12月
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雲
降水量
太陽
月
湿度
風
訪問に最適な時期
成長季
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スロバキア
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曖昧さ回避 「スロバキア共和国」はこの項目へ転送されています。その他歴史上の「スロバキア共和国」については「スロバキア共和国 (曖昧さ回避)」をご覧ください。
この記事の項目名には以下のような表記揺れがあります。













スロバキア スロヴァキア
スロバキア共和国
Slovenská republika
スロバキアの国旗 スロバキアの国章
(国旗) (国章)
国の標語:なし
国歌:Nad Tatrou sa blýska(スロバキア語)
稲妻がタトラの上を走り去り
Duration: 34 seconds.0:34
スロバキアの位置
公用語 スロバキア語
首都 ブラチスラヴァ
最大の都市 ブラチスラヴァ政府 大統領 ズザナ・チャプトヴァー 首相 ロベルト・フィツォ 面積 総計 49,036km2(126位) 水面積率 0.1% 人口 総計(2020年) 5,460,000[1]人(115位) 人口密度 113.5[1]人/km2 GDP(自国通貨表示) 合計(2018年) 902億[2]ユーロ (€) GDP(MER) 合計(2018年) 1,066億[2]ドル(62位) 1人あたり xxxドル GDP(PPP) 合計(2018年) 1,913億[2]ドル(69位) 1人あたり 35,136[2]ドル 独立 1993年1月1日 通貨 ユーロ (€)(EUR)[3] 時間帯 UTC+1 (DST:+2) ISO 3166-1 SK / SVK ccTLD .sk 国際電話番号 421[4] ^ a b “UNdata”. 国連. 2021年10月11日閲覧。 ^ a b c d IMF Data and Statistics 2020年5月23日閲覧([1]) ^ スロバキアのユーロ硬貨も参照。 ^ 1997年まではチェコと共に42。スロバキア共和国(スロバキアきょうわこく、スロバキア語: Slovenská republika、通称スロバキア)は、中央ヨーロッパの共和制国家。首都はブラチスラヴァで、北西にチェコ、北にポーランド、東にウクライナ、南にハンガリー、南西にオーストリアと隣接する。
概要
国体が常に激しく変化して来た歴史を持つ国家の一つである。
古代にはサモ王国[注釈 1](623年 – 658年)・モラヴィア王国として独立を保った期間もあったが、この地のスラブ人は1000年間少数民族としてハンガリー王国の支配下に置かれていた。
ハンガリーにとっても歴史的に重要な地域であり、多くのハンガリー人の出身地、ハンガリー貴族の発祥地でもある(元来スラブ系で、ハンガリー文化に同化した者も多い)。
第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国からチェコと合併するかたちで独立し、1989年のビロード革命による共産党政権崩壊を経て、1993年1月1日にチェコスロバキアから分離独立し現在に至る。
国名
正式名称(スロバキア語)はSlovenská republika[注釈 2]、通称 Slovensko[注釈 3]。
日本語の表記はスロバキア共和国、通称スロバキア。英語表記は Slovakia、国民・形容詞ともSlovak。漢字表記は斯拉仏克。
スロバキア語で「スロヴェンスコ」という国名は「スラヴ人の地」を意味する。
スラヴに語源を持つのはスロベニア共和国やクロアチアのスラボニア地方とも同じであるため、これらは類似した国名になっている[1]。
歴史
詳細は「スロバキアの歴史」を参照
先史時代
ケルト人のハルシュタット文化を受け入れたイリュリア人と、より古いプロト・スラブ人(イリュリア人系統)のルサチア文化が栄えていたが、鉄器時代末期にウーニェチツェ文化西部群の後継であるラ・テーヌ文化に属するケルト人(コティニ人(英語版)・ボイイ族)の侵略によって崩壊し、プコフ文化(英語版)に転換した。
古代ローマ
1世紀ごろゲルマン人、ダキア人が侵略し、ローマ帝国の拡大でプコフ文化が消滅した。
マルコマンニ戦争のパンノニア遠征(168年 – 169年)。
民族移動時代
「民族移動時代」も参照2世紀および3世紀にフン族が、5 – 6世紀ごろにゲルマン人(東ゴート人、ランゴバルド人、ゲピド人、ヘルール人)がパンノニア平原に移住してきた。
568年にはアヴァール人が占領し、アヴァール可汗国を樹立。623年、スラブ人の反乱が成功してサモ王国(623年 – 658年)が樹立された。
大モラヴィア王国
モラヴィア王国の版図(緑、870年)。緑の線がスヴァトプルク1世による最盛期(894年)
9世紀に現在のスロバキア、モラヴィア、ボヘミア、シレジア地方に大モラヴィア王国が成立。
スロバキアでは大モラヴィア王国がスロバキア人による王国であると主張する者もいるが、歴史学的には証明できる事実ではない。
また、この地域のスラブ人が現在のように簡単にチェコ人、スロバキア人などというように分類できない面があった。
ハンガリー王国時代
12世紀のハンガリー王国
マジャル人が用いていたとされる『羊飼いの斧(英語版)』と呼ばれる武器の木製レプリカ。
独特の装飾が施されている。
10世紀になるとマジャル人の侵入を受け、ハンガリー王国が成立すると、この地域は北部ハンガリーと呼ばれ、ハンガリーの一地域として扱われるようになる。
ただしハンガリーに比べてスラヴ人の多い地域であった。
さらにオスマン帝国がハンガリーに侵入すると、王領ハンガリーの一部としてオーストリア大公国の支配を受けるようになり、ブラチスラヴァ(ポジョニー)にハンガリー王国の首都が移され、ハンガリーにとっても北部ハンガリーは重要な地域とみなされるようになった。
この首都移転は北部ハンガリーの人口バランスを狂わせるもので、増加したマジャル人に対して北部ハンガリーのスラヴ人の反感は高まった。
この時期、チェコはハプスブルク家を皇帝とするドイツ人諸邦連合である神聖ローマ帝国の一員(首都が置かれたことすらある)であったが、スロバキアはハンガリーとともにハプスブルクの支配は受けつつもその枠外とされていた。
すなわち、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国内(現在のオーストリア、チェコ、北イタリア)と外にまたがって版図を持っていたことになる。
オーストリア帝国時代
19世紀半ば、オーストリア帝国時代、民族主義の流れによって周辺のスラヴ人がそれぞれクロアチア人(「クロアチアのスラヴ人」から)、ボヘミア人(「ボヘミアのスラヴ人」から)と呼び名を変えていく中で、北部ハンガリーでは自らの地域・北部ハンガリー地域のスラブ語に転化したスロバキアと名づけ、自らをスロバキア人、自分たちが話す言語をスロバキア語であると主張するようになった。
またこのころ、勢力の大きいマジャル人に対して、チェコ人(チェック人)とスロバキア人の連合が主張され始めるようになった。
チェコスロバキア独立
戦間期のチェコスロバキア
詳細は「チェコスロバキア」を参照
オーストリア・ハンガリー二重帝国体制下においてはチェコ、スロバキアはともに連邦国家構想を支持していたが、第一次世界大戦の終了とともにオーストリア・ハンガリー帝国は崩壊した。
1918年、独立運動の指導者トマーシュ・マサリクは、チェコスロバキアは民族自決の対象となる単一のチェコスロバキア人国家として独立を宣言した。
さらにハンガリーに侵入し、北部ハンガリーのほとんどの地域をハンガリーから収奪した。
これが現在のスロバキア国家の基本的な領土となっている。
しかしこの行動はハンガリーなどで領土回復運動が高まるきっかけとなった。
スロバキア共和国(1939年 – 1945年)
スロバキア共和国。赤がハンガリーに割譲された地域
詳細は「スロバキア共和国 (1939年-1945年)」を参照
1938年9月29日、ミュンヘン会談。ハンガリーのスロバキア領要求が列強に確認される。 1938年11月2日、第一次ウィーン裁定。南部スロバキアをハンガリーに割譲することが決まる。 1938年11月9日、スロバキア自治政府が成立。 1938年11月30日、チェコスロバキアの国名がチェコ=スロバキア共和国(英語版)に変更される。 1939年3月14日、ナチス・ドイツの支援により、ヨゼフ・ティソを国家元首としてスロバキアはチェコ=スロバキアから独立(チェコスロバキア併合)し、ドイツの保護国としてスロバキア共和国が成立した。ほぼ同時に東部のカルパト・ウクライナ地方も独立を宣言するが、ほどなくハンガリーに占領される。 3月23日、ハンガリーがスロバキアに侵攻(スロバキア・ハンガリー戦争(英語版))。ドイツの仲介により、南部スロバキアをハンガリーに割譲(ハンガリー領カルパティア・ルテニア)。第二次世界大戦後はソビエト連邦領になる。現在はウクライナ領ザカルパッチャ州。 1939年9月1日、ポーランド侵攻に参加し、枢軸国として第二次世界大戦に参戦。 1944年8月29日、スロバキア民衆蜂起。 1945年4月4日、ブラチスラヴァをソ連赤軍が占領。 「スロバキアにおける虐殺の一覧(英語版)」も参照共産党体制下のチェコスロバキア(1945年 – 1989年)
共産党体制下のチェコスロバキア
詳細は「チェコスロバキア」を参照
1945年チェコスロバキア亡命政府が帰国、チェコスロバキア共和国が再興される。 1948年 共産党政権が成立(二月政変)。 1960年 国名をチェコスロバキア社会主義共和国に改称。 1969年 「プラハの春」とソ連を含むワルシャワ条約機構5か国の軍が介入(チェコスロバキア侵攻)後、分権化の要求に応えて連邦制が導入され、チェコスロバキア社会主義共和国(国名は変わらず)を構成する「スロバキア社会主義共和国」が発足。しかし、スロバキア人のフサーク政権が推進した「正常化」路線で連邦政府への再度の中央集権強化が行われたため、両共和国の権限は形骸化した。
民主化から連邦解体へ(1989年 – 1992年)
1989年11月、ビロード革命。共産党政権が解体される。 1990年3月、スロバキア社会主義共和国が国名を「スロバキア共和国」に改称。 1990年4月、ハイフン戦争の末、チェコスロバキア社会主義共和国が国名をチェコおよびスロバキア連邦共和国に改称。 1992年11月、チェコスロバキア連邦議会でチェコ共和国とスロバキア共和国の連邦解消法が可決成立する。
スロバキア共和国(1993年 – )
1993年1月1日、チェコとの連邦を解消(ビロード離婚)。 2000年12月、経済協力開発機構(OECD)加盟。 2004年3月29日、北大西洋条約機構(NATO)加盟。 2004年4月17日、新大統領に元国会議長のイヴァン・ガシュパロヴィッチが当選。 2004年5月1日、欧州連合(EU)に加盟。 2006年6月、総選挙が行われる。 2006年7月5日、イラク派遣部隊を撤退させる方針を確認。2003年に地雷処理部隊など約100人をイラクに派遣していた。3人が死亡。 2009年1月1日、ユーロを導入。EUで16か国目。
政治
大統領宮殿
詳細は「スロバキアの政治(英語版)」、「スロバキアの政党(英語版)」、および「スロバキアの憲法(英語版)」を参照
歴代の国家元首に関しては、スロバキアの大統領の一覧を参照
スロバキア国民議会で1992年に採択され、翌年1月の連邦制解消とともに発効した新憲法は、スロバキアを議会制民主主義国家と規定している。
国家元首は任期5年の大統領である。当初は議会により選出されていたが、1999年に直接選挙による選出となった。
立法府であるスロバキア共和国国民議会は任期4年、定数150の一院制。首相は国民議会の獲得議席数がもっとも多い政党から大統領が指名し、与党が議席の過半数を占めることができない場合は、改めて次点の政党から指名する。
2010年国民議会選挙では、中道左派政党のスメル(方向)・社会民主主義(SMER-SD)が議席数を伸ばして第一党の座を維持した一方、連立を組んでいた民族主義政党のスロバキア国民党(SNS)やポピュリスト政党の人民党・民主スロバキア運動(ĽS-HZDS)が惨敗し、ロベルト・フィツォ連立政権が崩壊。SMER-SD党首のフィツォは選挙後、ガシュパロヴィッチ大統領から最初に首相指名を受けたものの、過半数を占める連立政権を組むことができなかったため、第二党で中道右派政党のスロバキア民主キリスト教連合・民主党(SDKÚ-DS)選挙対策本部長を務めたラジチョヴァーが代わって首相指名を受け、中道右派の自由と連帯(SaS)、キリスト教民主運動(KDH)およびハンガリー人政党のモスト(橋、MOST-HÍD)による連立政権が発足した。
2011年11月の欧州金融安定ファシリティ機能拡充条約批准にSMER-SDが協力した際の合意に基づき、2012年3月に繰り上げ総選挙が実施された。その結果、SMER-SDが単独で議席の過半数を獲得し、政権を奪回。SMER-SD党首のロベルト・フィツォが首相となった。
2019年ズザナ・チャプトヴァーが同国初の女性大統領になる[2]。
2020年国民議会選挙では、与党を担っていたスメル(方向)・社会民主主義(SMER-SD)・スロバキア国民党(SNS)・「架け橋」(Most-Hid)が大敗し、中道右派の「普通の人々・独立した人達」(OLaNO)を第1党とする右派連立政権が誕生した。
この政権交代は、スメル(方向)・社会民主主義党議員とマフィアの関係を追っていたジャーナリストのヤン・クツィアクが2018年2月に婚約者とともに殺害された事件により、国民の信頼が損なわれたことが背景にある[3]。
国際関係
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詳細は「スロバキアの国際関係(英語版)」を参照歴史的に反露で知られるバルト三国やポーランド等の周辺東欧諸国とは異なり国民の間の対露関係は良好で親露的とされている。
これはウクライナ西部からスロバキアにまたがって在住してきたルシン人やルテニア人が、ロシアとの一体を求める汎スラヴ主義であり、歴史的にウクライナ西部のザカルパッチャ州に多く住み、親ナチスの反共主義と共闘してきたウクライナ民族主義からの迫害を受け、スロバキアのナチスドイツ支配からの開放をもたらしたのはソ連赤軍であったという側面も大きい[4]。
日本との関係
詳細は「日本とスロバキアの関係」を参照
地理
スロバキアの地形図
ゴータトラ山
詳細は「スロバキアの地理(スロバキア語版、英語版)」を参照気候
スロバキアの国土は東西400キロ、南北200キロという比較的小規模なものである。
しかしながら、国土面積に比べて気候は変化に富んでいる。
基調となっているのは大陸性気候である。
首都ブラチスラヴァの位置する西部はケッペンの気候区分でいう西岸海洋性気候(Cfb)、中央部は温暖湿潤気候(Cfa)、東部は湿潤大陸性気候(Dfb)である。
ブラチスラヴァの平均気温は-0.7度(1月)、19.1度(7月)。年平均降水量は649ミリである。高度が上がるほど雨量が増し、中央北部のタトラ山地では2,000ミリに達する。
このような気候を受け、国土の3分の1が森林であるほか、ステップ性の草原も残っている。
生物多様性
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この節の加筆が望まれています。スロバキアでは150種以上の植物が絶滅の危機に瀕している[5]。また、外来種は国内に自生する植物の24%を占めており、同国では平均して年間3〜5種類の外来植物が生息している状態となっている。
「スロバキアの固有植物種(英語版)」および「スロバキアの植物相(スロバキア語版)」も参照
地方行政区分
図中の番号は本文の括弧内のものと対応する
詳細は「スロバキアの地方行政区画」を参照スロバキアは連邦制解消後の1996年に大規模な地方行政区分の再編が行われ、現在は8つの県[6](Kraj)が設けられている。
スピシュスキー城(スピシュスケー・ポドフラジエ)
西部スロバキア地方 ブラチスラヴァ県の旗 ブラチスラヴァ県(1) トルナヴァ県の旗 トルナヴァ県(2) トレンチーン県の旗 トレンチーン県(3) ニトラ県の旗 ニトラ県(4) 中部スロバキア地方 ジリナ県の旗 ジリナ県(5) バンスカー・ビストリツァ県の旗 バンスカー・ビストリツァ県(6) 東部スロバキア地方 プレショウ県の旗 プレショフ県(7) コシツェ県の旗 コシツェ県(8)第二次世界大戦前のチェコスロバキア時代はkrajより上位のKrajina(州)区分があり、「スロバキア州」(krajina Slovenská)が設けられていた。
戦後は6県、のち3県に再編されたあと、ブラチスラヴァ、西部スロバキア、中部スロバキア、東部スロバキアの4県体制が1990年まで続いた。
県の下位には78のOkres(郡)および138のMesto(市)と、4つのVojenský obvod(軍区)を含む2,883のObec(村)が設けられている。
主要都市
詳細は「スロバキアの都市の一覧」を参照
都市 県 人口(2019年)[7]
ブラチスラヴァ ブラチスラヴァ県 437,725
コシツェ コシツェ県 238,593
プレショフ プレショフ県 88,464
ジリナ ジリナ県 80,727
バンスカー・ビストリツァ バンスカー・ビストリツァ県 78,084
ニトラ ニトラ県 76,533
トルナヴァ トルナヴァ県 65,033
トレンチーン トレンチーン県 55,383
マルチン ジリナ県 54,168
ポプラト プレショフ県 51,235経済
首都ブラチスラヴァ
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詳細は「スロバキアの経済(英語版)」を参照工業国のチェコに比べ、スロバキアは昔から農業国だったが、最近ではフランスのPSA・プジョーシトロエンや韓国の起亜自動車が工場を設立している。
2009年1月1日に通貨をスロバキア・コルナからユーロに切り替えた。
鉱業
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この節の加筆が望まれています。スロバキアはマグネシウムを中心とした無機鉱物資源に恵まれている。
マグネシウムの産出量は2016年時点で世界第7位、シェア4.5%の50万トン。
鉄鉱、金鉱も採掘されている。
有機鉱物資源は342万トンの亜炭・褐炭が中心である。ただし、原油の産出量は4.6万トンに留まる。
交通
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詳細は「スロバキアの交通(英語版)」を参照道路
「Category:スロバキアの道路」および「スロバキアの高速道路(英語版)」も参照鉄道
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詳細は「スロバキアの鉄道(英語版)」を参照空港
「スロバキアの空港の一覧」も参照国民
詳細は「スロバキアの人口統計(スロバキア語版、英語版)」を参照
住民東スロバキアの民族衣装を着た人々
2010年に撮影
スロバキアの民族衣装をまとった女性(1920年)2021年の国勢調査による民族構成は、スロバキア人が83.82%、マジャル人(ハンガリー人)が7.75%、ロマ人が1.23%[8]、チェック人が0.53%、ルシン人が0.44%である[9]。
このほか、チェック人ではなくモラヴィア人、シレジア人としてのメンタリティーを持っているもの、ルテニア人・ウクライナ人、ドイツ人、ポーランド人、クロアチア人がいるがその総数はおよそ2%である。
ロマ人は、スロバキアの全人口の約9%を占めるという報道もあり[10]、世界銀行による推計では、人口に占めるロマ人の割合は約9%から約11%に達するとみられている[11]。
現代のスロバキアは比較的均一性の高い国民国家としての性格を有している。
ただし現在のような民族構成になったのは第二次世界大戦以降である。
スロバキアは歴史的経緯から、マジャール人、ドイツ人(ドイツ植民)、ルテニア人(ハンガリー王国に流れ込んだウクライナ人)、ロマ(ジプシー)も多く、入り組んで住んでいた。
さらにはユダヤ人のコミュニティも多かった。スロバキアのすべての町村にスロバキア語以外にハンガリー語の名称があり、また多くの都市がドイツ語名を持っているのはこのためである。
マジャル人が多いのは、かつてスロバキアが北部ハンガリーとしてハンガリー王国の領域に完全に組み込まれていたためである。
スロバキア人は元来山岳民族であり、特にハンガリー平原に連続する南部平地部の住民はほとんどすべてハンガリー系住民であった。
またドイツ人については、その移住の時期・理由(植民、鉱山労働、宗教的迫害など)はさまざまである。
1919年のサン=ジェルマン条約でオーストリア・ハンガリー帝国が、1920年のトリアノン条約でハンガリー王国の解体が行われ(この解体に反対するものも多かった(ドナウ連邦構想))、汎スラヴ主義に荷担したスロバキア人はかつての「ハンガリー王国による圧政」への報復として、ハンガリー人・ドイツ人の居住地を大きくえぐり取り、チェコと合併した形で独立を果たした。
この過程でマジャール人とドイツ人の一部がスロバキアから追い出されている。
以降マジャール人に関してはその後も一定数を占め、現在でもスロバキアにおいてもっとも大きいマイノリティー集団となっている。
ドイツ人については最終的に第二次大戦後にそのほとんどが強制的に追放された。
ユダヤ人については、ほかの中東欧諸国と同じように、第二次大戦を境にしてコミュニティのほぼすべてが消滅した。
言語
言語はスロバキア語が公用語である。また、一部でハンガリー語も使われている。またドイツ語が話せる世代も多い。英語は通じないことが多い[12]。
婚姻
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この節の加筆が望まれています。宗教
詳細は「スロバキアの宗教(英語版)」を参照2021年の調査によるとカトリックがもっとも多く55.8%を占める。
次いでルーテル派が5.3%、カルヴァン派が1.6%、ギリシャ・カトリックが4%、東方正教会が0.9%などである。
無宗教は23.8%、無回答は6.5%であった[13]。
「スロバキアにおける信教の自由(英語版)」も参照
教育
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詳細は「スロバキアの教育(スロバキア語版、英語版)」を参照義務教育は10年となっている。1990年代以降は教会所有の私立学校も増えて来ている。
「スロバキアの大学の一覧(英語版)」も参照
保健
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詳細は「スロバキアの保健(英語版)」を参照スロバキアは伝染病に悩まされている面を持つ。伝染病による死亡率は2015年時点で、ヨーロッパにおいて4番目(人口10万人あたり35人)の高さを示している。
医療
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詳細は「スロバキアの医療(英語版)」を参照社会
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この節の加筆が望まれています。スロバキアはヨーロッパで17番目に汚職の多い国であり、海外諸国から「政治および司法制度が腐敗している」との激しい批判があった。
特に、2011年12月に発生したゴリラ・スキャンダル(英語版)においては抗議運動が生起するほどの騒動となった。現在も、ヨーロッパにおいて汚職が目立つ国家の一つとして注視されている面がある。
「スロバキアにおける汚職(英語版)」も参照
法律
詳細は「スロバキアの法律(英語版)」を参照
「スロバキアにおける終身刑(英語版)」も参照治安
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この節の加筆が望まれています。スロバキアの治安は同国内務省の発表によれば、2019年中の犯罪件数が58,829件で、前年と比較して2,563件減少しているとされる。
近年、スロバキアの犯罪件数は減少傾向にあり、近隣諸国と比べて治安情勢が悪いということはないものの、犯罪の類型としては、置き引きや集団スリ、車上荒らし、空き巣などの一般犯罪が目立っており、同国に滞在する際には特にこれらの犯罪に注意を払う必要が求められている[14]。
「スロバキアにおける犯罪(英語版)」も参照
警察
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この節の加筆が望まれています。スロバキアにおける公安任務は、現地警察(警察隊(スロバキア語版)と市町村警察)および憲兵によって実施されている。
人権
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この節の加筆が望まれています。
詳細は「スロバキアにおける人権(フランス語版)」を参照
マスコミ
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この節の加筆が望まれています。
詳細は「スロバキアのメディア(英語版)」を参照
「スロバキアの通信(英語版)」も参照
文化
詳細は「スロバキアの文化(英語版)」を参照
食文化
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詳細は「スロバキア料理」を参照ワインについてはスロバキアワイン、ビールについてはスロバキアのビール(英語版)を参照。
文学
リュドヴィート・シュトゥール
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詳細は「スロバキア文学(英語版)」を参照リュドヴィート・シュトゥールは、オーストリア帝国出身のハンガリー人だが、スロバキアの言語学者として活動していた
音楽
スロバキア舞踊を披露する人々
フヤラはスロバキアの伝統的な木管楽器であり、羊飼いの笛が基となっている
詳細は「スロバキアの音楽(英語版)」を参照スロバキアの音楽は近隣国家地域の音楽文化の影響を受けている面を持っている。 また、歴史的に数々の音楽家や楽団を輩出して来ている。
「スロバキアの民俗音楽(英語版)」も参照作曲家
アレクサンデル・モイゼス エウゲン・スホニュ ヤーン・ツィケル ヴラディミール・ゴダール ペテル・マハイジック
オーケストラ
スロバキア・フィルハーモニー管弦楽団 スロバキア放送交響楽団 スロバキア国立コシツェ・フィルハーモニー管弦楽団
「スロバキアにおけるポピュラー音楽(英語版)」も参照
美術
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この節の加筆が望まれています。
詳細は「スロバキアの芸術(スロバキア語版)」を参照
「スロバキアの美術館の一覧(英語版)」も参照
映画
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詳細は「スロバキアの映画(英語版)」を参照建築
ボドルジャル(スロバキア語版、チェコ語版)に在る聖ニコラス教会(スロバキア語版、チェコ語版)
この木造教会は、ルシンの民俗建築の一例であり、世界遺産にも登録されている。
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この節の加筆が望まれています。
詳細は「スロバキアの建築(スロバキア語版、英語版)」を参照
「スロバキアの民俗建築(スロバキア語版)」、「スロバキアの木造建築(スロバキア語版)」、および「野外博物館 (スロバキア)(スロバキア語版)」も参照
世界遺産
詳細は「スロバキアの世界遺産」を参照スロバキア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が4件、さらにウクライナにまたがって1件の自然遺産、ハンガリーにまたがって1件の自然遺産が存在する。
ヴルコリニェツ ヴルコリニェツ バンスカー・シュチャヴニツァ バンスカー・シュチャヴニツァ スピシュスキー城 スピシュスキー城 バルデヨフ バルデヨフ トゥヴルドシーンの諸聖人教会 トゥヴルドシーンの諸聖人教会 アグテレク・カルストとスロバキア・カルストの洞窟群 アグテレク・カルストとスロバキア・カルストの洞窟群 カルパティア山脈のブナ原生林 カルパティア山脈のブナ原生林
祝休日
詳細は「スロバキアの祝日(英語版、スロバキア語版)」を参照国家祝休日および記念日法(スロバキア共和国国民議会1993年法律第241号)に定める国家の祝日[注釈 4]、国民の休日[注釈 5]は次の通り。
国家の祝日
日付 日本語 スロバキア語 備考
1月1日 スロバキア共和国記念日 Deň vzniku Slovenskej republiky チェコスロバキア連邦制解消(1993年1月1日)にともなう主権国家スロバキア共和国の誕生を記念
7月5日 聖キュリロスと聖メトディオスの日 Sviatok svätého Cyrila a svätého Metoda キュリロスとメトディオスがキリスト教とキリル文字をもたらしたことを記念
8月29日 スロバキア国民蜂起記念日 Výročie Slovenského národného povstania 1944年8月29日にナチス・ドイツ傀儡政権(スロバキア共和国)に対して蜂起したスロバキア国民蜂起(SNP)を記念
9月1日 憲法記念日(スロバキア語版) Deň Ústavy Slovenskej republiky スロバキア国民評議会(SNR)による1992年の同日のスロバキア共和国憲法の採択と制定を記念
11月17日 自由と民主主義のための戦いの日 Deň boja za slobodu a demokraciu 1939年11月17日にナチス・ドイツに抵抗して殺害されたチェコ人学生と、1989年の同日に始まったビロード革命を記念(旧・国際学生記念日)過去の国家の祝日
日付 日本語 スロバキア語 備考
10月28日 チェコスロバキア国家独立記念日 Deň vzniku samostatného česko-slovenského štátu 1918年のチェコスロバキア第一共和国独立を記念。1993年以降、記念日として平日扱いに変更。
11月1日 和解の日 – 政治的暴力犠牲者追悼の日 Deň zmierenia – Pamiatka obetiam politického násilia 2回の世界大戦における戦死者を追悼。1990年以降、「諸聖人の日」(Sviatok všetkých svätých)として国民の休日に変更。
国民の休日
日付 日本語 スロバキア語 備考
1月6日 公現祭(三賢人の日) Zjavenie Pána (Sviatok Troch kráľov)
3月 – 4月 大金曜日(聖金曜日) Veľký piatok ヴェリュカー・ノッツ(Veľká noc、復活祭)
3月 – 4月 復活祭の月曜日 Veľkonočný pondelok イースターマンデー(復活祭後最初の月曜日)
5月1日 労働の休日 Sviatok práce メーデー
5月8日 対ファシズム勝利の日 Deň víťazstva nad fašizmom 1945年5月8日のナチス・ドイツ傀儡政権(スロバキア共和国)降伏と欧州戦線終結を記念
9月15日 聖母マリアの日 Sedembolestná Panna Mária
11月1日 諸聖人の日 Sviatok všetkých svätých 社会主義時代は「和解の日」(Deň zmierenia)
12月24日 豊かな日 Štedrý deň クリスマス・イヴ
12月25日 第一クリスマス休日 prvý sviatok vianočný クリスマス
12月26日 第二クリスマス休日 druhý sviatok vianočný ボクシング・デー
記念日国家祝休日および記念日法に定める記念日(Pamätné dni)は次の通り。平日扱いとなる。
日付 日本語 スロバキア語 備考
3月25日 人権のための戦いの日 Deň zápasu za ľudské práva 1988年にブラチスラヴァ市でカトリック教徒が開いた反体制集会が強制的に排除解散させられた事件を記念
4月13日 不当迫害の日 Deň nespravodlivo stíhaných 1950年にチェコスロバキア共産党によって国内の修道院の大半が強制的に廃止された事件を記念
5月4日 シュテファーニク追悼記念日 Výročie úmrtia M. R. Štefánika チェコスロバキア独立運動の中心となったスロバキア人軍人ミラン・ラスティスラフ・シュテファーニク(1919年事故死)を記念
6月7日 スロバキア民族の覚書記念日 Výročie Memoranda národa slovenského 1861年にスロバキア人の自治地域を要求してマルチンで宣言された「スロバキア民族の覚書」(Memorandum národa slovenského)を記念
7月5日 在外スロバキア人の日 Deň zahraničných Slovákov 国家祝日の「聖キュリロスと聖メトディオスの日」に合わせ、国外在住のスロバキア人移民をたたえる
7月17日 スロバキア共和国独立宣言記念日 Výročie deklarácie o zvrchovanosti SR 1992年にスロバキア国民議会(現・スロバキア共和国国民議会)が行ったスロバキア共和国の国家主権宣言採択を記念
8月4日 マチツァ・スロベンスカーの日 Deň Matice Slovenskej 1863年にマルチンで設立された民族文化団体「マチツァ・スロベンスカー」(Matica slovenská)を記念
9月9日 ホロコーストと人種差別暴力犠牲者の日 Deň obetí holokaustu a rasového násilia 1941年9月にナチス・ドイツが設置したガランタ郡セレジュ市の強制収容所におけるユダヤ人およびスロバキア人の犠牲者を追悼
9月19日 スロバキア国民議会の日 Deň vzniku Slovenskej národnej rady スロバキア民族の独立を目指して1848年に設立された「スロバキア国民議会」(第一議会)を記念
10月6日 デュクラ峠犠牲者の日 Deň obetí Dukly 1944年にスロバキア解放を目的にスロバキア・ポーランド国境のデュクラ峠でソ連軍が行った対ドイツ戦の犠牲者を追悼
10月27日 チェルノヴァーの悲劇の日 Deň černovskej tragédie 1907年にチェルノヴァー村(現・ルジョムベロク市チェルノヴァー街区)でスロバキア人神父が率いるデモ隊にハンガリー憲兵隊が銃撃し殺害された15人を追悼
10月28日 チェコスロバキア国家独立記念日 Deň vzniku samostatného česko-slovenského štátu 1918年にプラハで行われたチェコスロバキア国家独立宣言を記念。1992年までは国家の祝日
10月29日 シュトゥール誕生の日 Deň narodenia Ľ. Štúra 1843年にスロバキア語の文語を作り普及させた言語学者リュドヴィート・シュトゥールの誕生日を記念
10月31日 宗教改革の日 Deň reformácie 1517年にマルティン・ルターがローマ教会の堕落に抗議して95ヶ条の論題を公表したことを記念
12月30日 スロバキア教会管区分離の日 Deň vyhlásenia Slovenska za samostatnú cirkevnú provinciu 1977年にローマ教皇パウロ6世がスロバキアの教会管区昇格を宣言したことを記念スポーツ
詳細は「スロバキアのスポーツ(英語版)」を参照スロバキアではサッカーが国技であり、圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。さらにカヌー競技の強豪としても知られており、国際大会で主流の人工コースなどの練習環境が充実している。そのため、羽根田卓也のように自国から練習拠点を移す選手もいる[12]。スキーやアイスホッケーなどのウィンタースポーツも盛んであり、近年はペーター・サガンの活躍から自転車競技の人気も高まるなどしている。
サッカー
詳細は「スロバキアのサッカー(英語版)」を参照1993年にプロサッカーリーグのフォルトゥナ・リーガが創設された。サッカースロバキア代表はチェコとの分離独立後、FIFAワールドカップには2010年大会で初出場しベスト16の成績を収めた。UEFA欧州選手権でも2016年大会で初出場しベスト16となっている。同国ではセンターバックのポジションに世界的な選手を輩出しており、リヴァプールで長年活躍したマルティン・シュクルテルや、インテル・ミラノで活躍するミラン・シュクリニアルなどが非常に有名である。
著名な出身者
詳細は「スロバキア人の一覧」を参照脚注
[脚注の使い方]
注釈^ 7世紀の最初のスラブ人の政権のこと。 ^ スロバキア語発音: [ˈslovɛnskaː ˈrɛpublɪka] ( 音声ファイル)(スロヴェンスカー・レプブリカ) ^ スロバキア語発音: [ˈslovɛnsko] ( 音声ファイル)(スロヴェンスコ) ^ スロバキア語: Štátne sviatky ^ スロバキア語: Dni pracovného pokoja
出典
^ 柴、ベケシュ、山崎、p.16 ^ 京都新聞2019年4月1日朝刊 ^ エッカート・デアシュミット (2020年3月5日). “総選挙で連立与党が大敗、第1党の中道右派政党に組閣を委任へ(スロバキア)”. 独立行政法人日本貿易振興機構(ジェトロ). 2020年5月23日閲覧。 ^ 石川晃弘「中欧諸国民のロシア観―最近の世論調査結果から―」『文学部紀要 社会学・社会情報学』第30巻、中央大学文学部、2020年2月、1-14頁、CRID 1050571239993654016、ISSN 0529-6803、2023年10月4日閲覧。 ^ Viac ako 150 druhom rastlín na Slovensku hrozí. dennikn.sk (Bratislava: N Press),Dostupné online [cit. 2021-05-26]. ISSN 1339-844X. ^ 佐藤雪野「増補スロバキア・地方行政」 『東欧を知る辞典』p797、平凡社、2001年 ^ “Number of the Population by Sex - Municipalities (yearly)”. Statistical Office of the Slovak Republic. 2023年10月4日閲覧。 ^ “Roma political and cultural activists estimate that the number of Roma in Slovakia is higher, citing a figure of 350,000 to 400,000”. Slovakia.org. 2013年8月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年11月25日閲覧。 ^ “Census 2021”. scitanie.sk. 2024年3月26日閲覧。 ^ 瀬能繁 (2011年4月6日). “EU、ロマ人の統合促進で国別戦略策定へ”. 日本経済新聞. オリジナルの2021年8月16日時点におけるアーカイブ。 ^ “About the Roma”. 世界銀行. オリジナルの2006年8月24日時点におけるアーカイブ。 ^ a b 。父に感謝の銅メダル=カヌー初の快挙、羽根田卓也選手〔五輪・カヌー〕:時事ドットコム[リンク切れ] ^ “Roman Catholics represents 56% of the population”. SODB 2021. Štatistický úrad slovenskej republiky. 2022年4月6日閲覧。 ^ “スロバキア 安全対策基礎データ”. 外務省. 2021年12月19日閲覧。
参考文献
柴宜弘、アンドレイ・ベケシュ、山崎信一編著『スロヴェニアを知るための60章』明石書店、2017年9月10日。ISBN 978-4-7503-4560-4。
関連項目
スロバキア関係記事の一覧 ハプスブルク家 鉱山 ブラチスラヴァ フッガー家 ドイツ植民 ハイフン戦争
外部リンク
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スロヴァキア、スロバキア
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ヨーロッパの国と地域
表話編歴
欧州連合の旗 欧州連合加盟国
表話編歴
経済協力開発機構加盟国
表話編歴
フランコフォニー国際機関 フランコフォニー国際機関
表話編歴
ポルトガル語諸国共同体
表話編歴
チェコスロバキア(Československo / Česko-Slovensko)の変遷 (1918–1992)
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カンボジア
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曖昧さ回避 「カンボジア王国」はこの項目へ転送されています。1954年に成立し、1970年に滅亡したカンボジア王国については「カンボジア王国 (1954年-1970年)」をご覧ください。
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カンボジア王国
ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា
カンボジアの国旗 カンボジアの国章(画像無し)
(国旗) (国章)
国の標語:ជាតិ សាសនា ព្រះមហាក្សត្រ(クメール語)
国家、信仰、国王
国歌:បទនគររាជ(クメール語)
王国
Duration: 1 minute and 31 seconds.1:31
カンボジアの位置
公用語 クメール語(カンボジア語)
首都 プノンペン都
最大の都市 プノンペン政府 国王 ノロドム・シハモニ 首相 フン・マネット 上院議長 サイ・チュム(英語版) 下院議長 クオン・スダリー(英語版) 面積 総計 181,035km2(87位) 水面積率 2.5% 人口 総計(2020年) 16,718,971[1]人(68位) 人口密度 94.714[2]人/km2 GDP(自国通貨表示) 合計(2020年) 54兆8010億[3]リエル GDP(MER) 合計(2020年) 252億9100万[4]ドル(99位) 1人あたり 1,512.728[5]ドル GDP(PPP) 合計(2019年) 754億1600万[6]ドル(103位) 1人あたり 4,574.403[7]ドル 独立 フランスより 1953年11月9日 クメール共和国成立 1970年3月18日 民主カンプチア成立 1975年4月17日 カンプチア人民共和国成立 1979年1月10日 王政復古、現カンボジア王国成立 1993年9月24日 通貨 リエル(KHR) 時間帯 UTC+7 (DST:なし) ISO 3166-1 KH / KHM ccTLD .kh 国際電話番号 855カンボジア王国(カンボジアおうこく、クメール語: ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា)、通称カンボジアは、東南アジアのインドシナ半島南部に位置する立憲君主制国家[8]。東南アジア諸国連合加盟国であり、通貨はリエルである[8]。人口1671万人、首都はプノンペン都。
南はタイランド湾に面し、西はタイ、北はラオス、東はベトナムと国境を接する。
国民の90%以上が、クメール語(カンボジア語)を話し、仏教(上座部仏教)を奉ずるクメール人(カンボジア人)である。国歌は『王国』である。
国名
正式名称は、クメール語で ព្រះរាជាណាចក្រកម្ពុជា(発音:プレアリアチアナーチャッカンプチア、ラテン文字表記:Preăh Réachéanachâkr Kâmpŭchea)。プレアは王の称号。リアチアは「王」、ナーチャックは「国」で、両方合わせたリアチアナーチャックは「王国」を意味する。隣国のタイの正式名称とよく似ている。
カンボジアではアンコール王朝以後、国名をカンブジャと呼んでいる[9]。
チャム語で書かれた948年のバクセイ・チャムクロン碑文はリシのカンブ・スヴァーヤンブヴァと天女メラーの婚姻による建国伝説を伝え、カンブジャとはカンブの子孫を意味すると説明される[10]。クメール語では「カンプチア」に近く発音される。
公式の英語表記は「Kingdom of Cambodia」である。略称は「Cambodia」(カンボーディア)と読ばれる。日本語では「カンボジア王国」、「カンボジア」と称する、漢字による表記は「柬埔寨」。
傍らで「クメール」という言葉も使われる。
本来は「カンボジア」は主に民族、「クメール」は言語を指していたが、現代では区別があいまいになっている[11]。
20世紀前半までの中国およびベトナムでは「高棉」(拼音: Gāomián、ベトナム語: Cao Miên)とも呼ばれた。
歴史
詳細は「カンボジアの歴史」を参照
古代
詳細は「扶南」、「真臘」、および「シャイレーンドラ朝」を参照
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この節の加筆が望まれています。扶南はインド文化を強く受けていた。また、扶南の従属国であった真臘が扶南を占領、滅亡させたが、インドの文化はそのまま残った。
クメール朝
アンコール・ワットはアンコール遺跡のひとつで、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれている
詳細は「クメール王朝」を参照
9世紀初頭にクメール王朝が成立し、12世紀から13世紀にかけて最盛期を迎え、アンコール遺跡が建造された。
カンボジアの暗黒時代
詳細は「カンボジアの暗黒時代(英語版)」を参照
16世紀ごろに、ポルトガルの商人やカトリック教会の宣教師が最初にカンボジアに到来した西洋人であったと考えられている。続いてスペイン人、オランダ人、17世紀半ばからフランス人が到来した[12]。
保護国時代
1863年にフランス帝国の保護国となり、1887年にフランス領インドシナの一部となった。
フランス保護下でも形式的に王国体制は存続し、1904年にシソワット王が、1927年にシソワット・モニヴォン王が即位した。シソワット・モニヴォン王の下で1940年から1941年にかけての間にタイ・フランス領インドシナ紛争が勃発し、東京条約によってフランス領インドシナを構成していたカンボジアのナコーン・チャンパーサック県(タイ語版)(現在のチャンパーサック県、プレアヴィヒア州)、ピブーンソンクラーム県(英語版)(現在のウドンメンチェイ州、シェムリアップ州、バンテイメンチェイ州)、プレアタボン県(英語版)(現在のバタンバン州)がタイ王国に割譲された。
1941年に即位したノロドム・シハヌーク王の治下では、第二次世界大戦中に日本軍に占領されるも、明号作戦によってフランス領インドシナが解体されたあと、大戦末期の1945年3月13日に独立を宣言した。
1945年8月にシハヌーク王を後見していた日本が連合国に敗北したあと、フランス領に復帰するも、1949年にフランス連合の枠組みの中で独立を認められ、1953年に完全独立を達成した。
独立と内戦
仏印内東隣のベトナムは共産主義の北ベトナムと反共資本主義体制の南ベトナムに分かれて独立した。
北ベトナムおよび南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)は、ラオスおよびカンボジア領内の「ホーチミン・ルート」を経由して南ベトナムへのゲリラ攻撃を行う。
これに対してアメリカ合衆国は軍事介入を行い(ベトナム戦争)、1968年にはアメリカ軍がカンボジア・ラオス領内のホーチミン・ルートへの空爆を開始する。
1970年には親米派のロン・ノル将軍がクーデターによりシハヌーク元首を追放し、クメール共和国を樹立した。
これに対して北ベトナムがカンボジアへの侵攻を開始すると、ロン・ノル政権は国内のベトナム系住民に対する迫害・虐殺を行う。
また、中華人民共和国の北京に亡命したシハヌークは、共産主義勢力クメール・ルージュなどを含む反米・反ロンノル勢力の武力共闘を呼びかけ、カンプチア王国民族連合政府の樹立を宣言。カンボジア内戦が始まる。
ロン・ノル政権下でも米軍による空爆は拡大し、数十万人のカンボジア人が犠牲となり、数百万人が難民となった。
米軍と南ベトナム軍による地上侵攻も行われている。(カンボジア作戦)
ベトナム戦争が北の勝利で終結することが間近となった1975年4月17日、カンボジアではクメール共和国が打倒され、民主カンプチアを樹立したクメール・ルージュ政権はシハヌークとペン・ヌートをそれぞれ国家元首と首相に推戴するも、実権はポル・ポトに掌握されていた。
クメール・ルージュの権力掌握から1979年1月6日の民主カンプチア崩壊までの3年8か月20日間のポル・ポト政権下にて、原始共産制の実現を目指すクメール・ルージュの政策により、旱魃、飢餓、疫病、虐殺などで100万人から200万人以上とも言われる死者が出た。
この死者数は、1970年代前半の総人口は700万人から800万人だったとの推計の13 – 29%にあたり、大量虐殺が行われた。
教師、医者、公務員、資本家、芸術家、宗教関係者、その他イデオロギー的に好ましくないとされる階層のほとんどが捕らえられて強制収容所に送られた。
生きて強制収容所から出られたのはほんの一握りであった。
それゆえ、正確な犠牲者数は判明しておらず、現在でも国土を掘り起こせば多くの遺体が発掘される。
なお、内戦前の最後の国勢調査が1962年であり、それ以後の正確な人口動態がつかめておらず、死者の諸推計に大きく開きが出ている。
この時期のカンボジアの人口推計として1976年の国際連合のもので835万人、1978年にイエン・サリ副首相兼外相(当時)が発表した776万人(1976年時点)とする数字がある[13]。
1978年12月25日に中ソ対立の文脈の中でソ連寄りのベトナム社会主義共和国の正規軍とカンプチア救国民族統一戦線が、対立していた中国寄りの民主カンプチアに侵攻。
翌1979年1月、ポル・ポト政権を打倒して親越派のヘン・サムリンを首班とするカンプチア人民共和国を樹立した(カンボジア・ベトナム戦争)。
なお、このベトナムによるカンボジアへの侵攻をきっかけに、同1979年2月に中華人民共和国がベトナムに侵攻し、中越戦争が勃発している。
その後、ポル・ポト派を含む三派とベトナム、ヘン・サムリン派との間で内戦が続いた。
1982年6月、カンボジア・タイ国境地帯に逃れたポル・ポト派、クメール人民民族解放戦線(KPNLF、ソン・サン1979年10月結成)、独立・中立・平和・協力のカンボジアのための民族統一戦線(FUNCINPEC、シアヌーク1981年3月樹立)の三派が民主カンプチア連合政府(CGDK)(英語版)を樹立した。カンプチア人民革命党と反ベトナム三派連合政府の対立が継続する[14]。1989年にベトナム軍が撤退、1991年10月にパリ和平協定が締結された。
制憲議会発足
1992年3月から国際連合カンボジア暫定統治機構による統治が開始され、1993年5月には国際連合の監視下で民主選挙が実施された。
このときの国連の代表が日本の明石康である。
6月2日、国連安全保障理事会は、選挙が自由・公正に行われたと宣言し、選挙結果を尊重するよう全会派に呼びかける決議をした。
さらに6月10日には、選挙結果の確定を承認し、制憲議会を全面支持する旨を決議した[15]。
9月に制憲議会が新憲法を発布し立憲君主制を採択、ノロドム・シハヌークが国王に再即位した。
憲法は「複数政党制に立脚した自由な民主主義」を憲法原則のひとつとした。制憲議会は国民議会に移行した。
1999年4月に10番目の東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国となった。
2009年12月18日、カンボジア特別法廷[16] は、キュー・サムファン元国家幹部会議長を大虐殺(ジェノサイド)罪でも訴追することを通知した。
法廷は、16日までにヌオン・チア元人民代表議会議長、イエン・サリ元副首相の2名にも大虐殺罪適用を決定している。[17]
2013年カンボジア国民議会選挙では与党のカンボジア人民党が僅差でカンボジア救国党に勝利し、フン・セン首相の続投が決まった。
2023年7月26日にフン・センは首相を辞任し、長男で元陸軍司令官のフン・マネットに後を継がせた。
政治
首都プノンペンの王宮
カンボジア国民議会議事堂
詳細は「カンボジアの政治(フランス語版、英語版)」を参照政体
詳細は「カンボジア君主・国家元首一覧」を参照
国家体制は国王を元首とする立憲君主制である。
選挙君主制であり、ノロドム家(英語版)とシソワット家(英語版)のメンバーから、王室評議会(英語版)が国王を選出する。
王室評議会は、首相、両院の議長、両院の副議長(それぞれ2名ずつ)、上座部仏教の2つの宗派の代表(それぞれ1名ずつ)の合わせて9名からなり、秘密投票で国王を選出する。
国王の地位は終身である。1993年にカンボジア王国が成立した際、初代国王にノロドム・シハヌークが選出され、2004年10月の国王退位を受けてシハヌークの実子であるノロドム・シハモニが選出された。
行政詳細は「カンボジアの首相」を参照
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この節の加筆が望まれています。立法
立法府たる議会は両院制を採用しており、定数125議席からなる国民議会(下院)議員は直接選挙で選出され、定数61議席からなる元老院(上院)議員は間接選挙と国王からの任命によって選出される。
「カンボジアの選挙(フランス語版)」も参照
1998年7月末に総選挙が実施され、総議席数122で投票率90.7%で、人民党64議席(41.4%)、フンシンペック党43議席(31.7%)、サム・ランシー党15議席(14.3%)、その他議席なしで得票率13.6%。
人民党が第1党になったが、フンシンペック党とサム・ランシー党選挙結果に異議申し立てていたこともあり、単独で組閣することができず(総議席の3分の2以上の信任票が必要とカンボジア王国憲法第90条)連立政権が成立した。
2003年7月に総選挙が実施され、総議席123、投票率86.7%。人民党73議席(47.4%)、フンシンペック党26議席(20.8%)と大敗、サム・ランシー党24議席(21.9%)、その他なし(10.0%)。連立をめぐり紆余曲折を経て、翌年7月にようやく2党連立の新政権が発足した[18]。
2013年の選挙で野党人民救国党が躍進した。
2017年に最大野党の人民救国党の党首が国家反逆罪により逮捕され、党は裁判所の命令で解党され、所属する政治家も政治活動が禁止された。
翌2018年の総選挙では有力野党不在の選挙となり、与党人民党が下院全議席の125議席をとって事実上の一党独裁状態となった[19]。
政党
詳細は「カンボジアの政党」を参照
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この節の加筆が望まれています。憲法
1993年、制憲議会を創設するための選挙が行われ、総議席数120で投票率89.04%で、人民党51議席(38.2%)、フンシンペック党58議席(45.5%)、仏教自由民主党10議席(3.8%)、自由モリナカ闘争1議席(1.4%)であった。制憲議会は、1993年9月の「カンボジア王国憲法」が発効を受けて国民議会に移行した。
「カンボジア憲法議会(英語版)」も参照
カンボジア王国憲法には、内政不干渉、紛争の平和的解決、永世中立が明記されている。
法律カンボジアでは、クメール・ルージュ[注釈 1] 時代にほとんどの法律家(裁判官、検察官、弁護士)が殺害され、法律およびその資料も廃棄された。
カンボジアが近代国家として再生、発展していくためには、0に近い状態から民法や民事訴訟法などの基本法典を整備し、それらを運用する裁判官、弁護士などの法律家を育成することが不可欠であり、日本はこれらの法整備支援を行っている[20]。
民事訴訟法は2007年7月から適用を開始しており、民法も2007年12月8日に公布され[21]、2011年12月21日から適用が開始された[22]。
国際関係
詳細は「カンボジアの国際関係(英語版)」を参照
日本との関係
詳細は「日本とカンボジアの関係」を参照
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この節の加筆が望まれています。ベトナムとの関係
詳細は「カンボジアとベトナムの関係(英語版)」を参照
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この節の加筆が望まれています。フランスとの関係
詳細は「カンボジアとフランスの関係(フランス語版、英語版)」を参照
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この節の加筆が望まれています。アメリカとの関係
詳細は「カンボジアとアメリカの関係(英語版)」を参照
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この節の加筆が望まれています。中国との関係
詳細は「カンボジアと中国の関係(英語版)」を参照
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この節の加筆が望まれています。国家安全保障
詳細は「カンボジア王国軍」を参照カンボジア王国軍は陸軍、海軍、空軍の三軍から構成される。
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この節の加筆が望まれています。地理
カンボジアの地図
カンボジアの地形図
詳細は「カンボジアの地理(英語版、フランス語版)」を参照カンボジアの中心には湖と河川の複合体であるトンレサップ湖があり、その河川部分は国土の東部を縦貫する国際河川たる大河メコン川の支流となっており、水運と漁業・農業を支えている。
この平野部にカンボジア人口の3分の1が居住している。
トンレサップ湖の北辺にはクメール王朝の遺跡として世界的に有名なアンコール・ワットやアンコール・トムといったアンコール遺跡(1992年、世界遺産登録)が存在する。
国土の大部分は海抜100メートル以下であるが、東北部にアンナン山脈(ラオス・ベトナム国境となる)につながるモンドルキリ高原(モンドルキリ州)がある。
北部には切り立ったダンレク山地(タイ東北部との国境付近)、プノンペン西方にカルダモン山脈(英語版)(クロワーニュ山脈)が連なり、その山系に最高峰アオラル山(1,813メートル)がある。
気温と降雨量
詳細は「カンボジアの気候(フランス語版)」を参照
北緯11度から15度にまたがり、熱帯気候、モンスーン気候帯に属し、5月から10月が雨季(暖かく湿った南西の季節風)、11月から4月が乾季(乾いた浦東風が吹く)である。
降雨のピークは9月(海岸地域は8月)。
雨季にはタイ湾からの風で気温は22度まで下がり、乾季には北東風で40度まで上がる。
プノンペンでは、年間平均気温が27度、乾季と雨季の境目の4月が最高気温(35 – 25度)で、乾季の11月に最低気温(30 – 23度)である。
雨季のメコン川の増水でトンレサップ湖に逆流し、湖面積がほぼ10倍に拡大する。
降雨量は地域によって差が大きい。
その地域区分は、中南部の平野地域、トンレサップ湖地域、南西部の海岸地域、北東部の高原山岳地域の4地域である。
海岸地域がもっとも年間降水量が多く、次いで高原地域がやや多い。
これらの降雨量が農業生産を左右する最大の要因である。
しかし、年間降雨量は年によって変わる。
そして、雨季が始まってからの7月から8月にかけて1 – 2週間雨が降らないことを小乾季といい、この田植えの時期に小乾季が続くと作付や成育に大きな影響をもたらす[23]。
「カンボジアの気候変動(英語版)」も参照
生態系
詳細は「カンボジアの野生生物(英語版)」を参照カンボジアの野生生物は非常に多様で、少なくとも162種の哺乳類、600種の鳥類、176種の爬虫類(89種の固有種を含む)、900種の淡水魚、670種の無脊椎動物の存在が確認されている[24][25]。
しかし、カンボジアに生息する野生生物(いくつかの固有種を含む)の多くは、 森林伐採や生息地の破壊、密猟、野生生物の違法取引、同国内の農業、漁業、林業の発展によって、その存在が危ぶまれている。これにより現地の野生生物は国際自然保護連合(IUCN)によって、危急種や絶滅危惧種(或るいは絶滅寸前種)として認定されている。
「カンボジアの樹木の一覧(英語版)」および「カンボジアにおける森林破壊(英語版)」も参照
「カンボジアの保護地域の一覧(英語版)」も参照地方行政区分
カンボジアの地方行政区画
カンボジアの地図
詳細は「カンボジアの地方行政区画」、「カンボジアの地方行政」、および「カンボジアの都市の一覧」を参照カンボジアは、首都(クメール語: រាជធានី : reach theany)と24の州(クメール語: ខេត្ត : khett)に分かれている[26][27]。
首都(クロン)-区(カン)-町(サンカット)
プノンペン(クメール語: ក្រុងភ្នំពេញ、英: Phnom Penh)
州(カエト、24州)-市(クロン)/郡(スロック)-町(クム(郡のみ)/サンカット)
バンテイメンチェイ州(クメール語: បន្ទាយមានជ័យ、英: Banteay Meanchey)
バタンバン州(クメール語: បាត់ដំបង、英: BattamBang)
コンポンチャム州(クメール語: កំពង់ចាម、英: Kampong Cham)
コンポンチュナン州(クメール語: កំពង់ឆ្នាំង、英: Kampong Chhnang)
コンポンスプー州(クメール語: កំពង់ស្ពឺ、英: Kampong Speu)
コンポントム州(クメール語: កំពង់ធំ、英: Kampong Thom)
カンポット州(クメール語: កំពត、英: Kampot)
カンダール州(クメール語: កណ្ដាល、英: Kandal)
ココン州(クメール語: កេាះកុង、英: Koh Kong)
クラチエ州(クメール語: ក្រចេះ、英: Kratie)
モンドルキリ州(クメール語: មណ្ដលគិរី、英: Mondol Kiri)
ウドンメンチェイ州(クメール語: ឧត្តមានជ័យ、英: Otdar Meanchey)
プレアヴィヒア州(クメール語: ព្រះវិហារ、英: Preah Vihear)
プレイベン州(クメール語: ព្រៃវែង、英: Prey Veng)
ポーサット州(クメール語: ពោធិសាត់、英: Pursat)
ラタナキリ州(クメール語: រតនគិរី、英: Ratana Kiri)
シェムリアップ州(クメール語: សៀមរាប、英: Siem Reap)- アンコール遺跡
ストゥントレン州(クメール語: ស្ទឹងត្រែង、英: Stung Treng)
スヴァイリエン州(クメール語: ស្វាយរៀង、英: Svay Rieng)
タケオ州(クメール語: តាកែវ、英: Takeo)
ケップ州(クメール語: កែប、英: Kep)
パイリン州(クメール語: បៃ៉លិន、英: Pailin)
シアヌークビル州(クメール語: ព្រះសីហនុ、英: Preah Sihanouk.)
トボンクムン州(クメール語: ខេត្តត្បូងឃ្មុំ、英: Tboung Khmum)2013年設置非行政単位
サンカット内に村(プーム)首都と州の知事および区長、郡長、市長は、首相から任命される。 首都と州および区や市、郡の職員は、内務省からの国家公務員。 2001年、クムやサンカット評議会選挙法、クムやサンカット行政運営法(クム行政法)を制定。18歳以上のカンボジア国籍者が投票権を有する。 2002年2月の選挙で全国に1621のクムおよびサンカット評議会が設置された。
経済
首都プノンペン
カンボジアの農村では高床式住居が主流である詳細は「カンボジアの経済(英語版、フランス語版)」を参照
国際通貨基金(IMF)によると、2014年のカンボジアのGDPは約165億ドルである[28]。一人当たりのGDPは1,080ドルであり、世界平均の10%に満たない水準である。 2011年にアジア開発銀行が公表した資料によると、1日2ドル未満で暮らす貧困層は828万人と推定されており、国民の半数を超えている[29]。国際連合による基準に基づき、後発開発途上国に位置づけられている[30]。
主要産業は農業、漁業、林業などの第一次産業である。近年は観光産業と縫製産業が成長し、最貧国ではあるものの外国からの投資も大きな伸びを示している。
「カンボジアの観光(フランス語版、英語版)」も参照おもな鉱物資源として燐(未開発)、マンガン(未開発)、宝石がある。塩を4万トン生産する。経済成長率は、2004年に10%、2005年に13.4%、2006年には10.4%に達した(カンボジア政府の統計)。
首都プノンペンの経済発展は著しく、2020年現在、先進国に匹敵する数の高級車が街中を走っている。
農業
詳細は「カンボジアの農業(英語版)」を参照
国土の約3割が農地として利用されており、その8 – 9割は水田である。次に多いのは「チャムカー(畑)」と呼ばれる畑地で、およそ農地の10 – 15%程度とみられている。さらに、「チャムカー・ルー(上の畑)」と呼ばれる畑があり、農地の10 – 15%程度を占めているとみられている。これら3種の農地のほかに、焼畑、ゴムの木のプランテーションがある。
食料作物と主要な工芸作物の作付面積を見ると米が圧倒的に多い。
トウモロコシ、キャッサバ、甘薯、野菜類、緑豆などの食料作物、落花生、大豆、胡麻、サトウキビ、タバコ、ジュートなどの工芸作物の作付面積は非常に狭い[31]。
カンボジアの国土に占める農地面積は21.6%に及び、人口の34%が農業に従事している。
生産年齢人口が人口の55.8%であることを考慮に入れると、カンボジアの主産業は農業である(以上、2002年時点)。しかしながら、労働生産性が低いため、農産物は国内需要を満たすにすぎない。主要穀物では米(417万トン)の生産に特化している。商品作物の生産では葉タバコと天然ゴム(4.6万トン)が目立つ。
外国貿易
主要輸入品目は、石油製品(8.2%)、タバコ、オートバイ。主要輸出品目は衣類(77.8%)、天然ゴム、木材である。主要輸出先はアメリカ合衆国(36.8%)、シンガポール、タイ王国。主要輸入先はタイ(15.6%)、香港、シンガポールである。
カンボジア製の衣類は日本にも2000年代以降多く輸出され始めている。たとえば、ユニクロを運営するファーストリテイリングの子会社であるジーユーが販売している一本990円という低価格のジーンズなどがカンボジア製である。人件費の安さなどを武器とし、経済成長の緒に就いている。
隣国とのGDP比較
国
GDP(単位:100万ドル)
タイ王国の旗 タイ
ベトナムの旗 ベトナム
カンボジアの旗 カンボジア
ラオスの旗 ラオス
出典:IMF[32] 2014年の名目GDP近年、中国が経済進出し、カンボジア首相府のビル建築や南部シアヌークビルのインフラ整備にも多額の資金援助を行っている。
法環境一方、ソフト面でのインフラストラクチュアというべき法律分野における法整備支援では、民法および民事訴訟法の起草や裁判官、弁護士の人材育成を支援する日本のプレゼンスが大きい[33][34]。
通貨
通貨はリエルが存在するが、カンボジア経済の実情と比較してリエルの為替レートは高い。特に輸出に不利なため、一部を除いては通常は米ドルが使用される。カンボジアではポル・ポト政権下の1978年に、原始共産主義的政策の一環としてすべての通貨が廃止された。同政権崩壊後の1980年にリエルは復活した。地方、シェムリアップ西部のクララン周辺以西、以北、アンロンベンやプレア・ヴィヘアなどのタイ国境に近い地域ではリエルよりもタイの通貨バーツが使用される場合もあるが、1B=100Rで使用できる。
交通
詳細は「カンボジアの交通(フランス語版、英語版)」を参照
道路
詳細は「カンボジアの高速道路(英語版)」を参照
鉄道
詳細は「カンボジアの鉄道」を参照
航空
詳細は「Category:カンボジアの航空」および「カンボジアの空港の一覧」を参照
国民
詳細は「カンボジアの人口統計(フランス語版、英語版)」を参照民族
カンボジアの民族分布(1972年)
ヒンドゥー教の神話に登場する女神「アプサラ」に扮したクメール人女性
詳細は「カンボジアの民族(英語版)」を参照クメール人が86%、ベトナム人が5%、華人が5%、その他4%がチャム族などの少数民族である。日系カンボジア人も少数ではあるが存在し、著名な人物として猫ひろしや後藤忠政が挙げられるが、その多くは起業や投資のためにカンボジア国籍を取得した元日本国籍者である。
言語
詳細は「カンボジアの言語(フランス語版)」を参照
カンボジアでは約20の言語が話されている。カンボジア国内でもっとも話されている言語はクメール語(カンボジア語)である。
公用語は1993年公布のカンボジア王国憲法第5条で規定され、同6条では「王国は、必要に応じカンボジア語を擁護し、発展させる義務を有する」となっている。少数民族が話す言語にはチャム語などがある。
高齢者や特別な職業(医師など)の間ではフランス語がある程度通じるが、若者の間でもっともポピュラーな外国語は英語となっている。
「カンボジアにおけるフランス語(英語版)」も参照
婚姻
詳細は「カンボジアの婚姻(英語版)」を参照婚姻しても、夫婦別姓であり、姓が変わることはない[35]。
宗教
詳細は「カンボジアの宗教(フランス語版、英語版)」を参照上座部仏教が憲法で国教と定められているが、信教の自由が保障されている。人口の9割以上が上座部仏教の信徒であり、チャム族を主とする4%ほどがイスラム教徒(カンボジアのイスラム教)である。
クメール・ルージュ政権時代には宗教活動が禁止され、多くの仏教寺院やモスクなどの宗教関係施設が破壊され、多くの僧侶が還俗させられ、あるいは虐殺された。
教育
王立プノンペン大学
詳細は「カンボジアの教育(フランス語版、英語版)」を参照若年層の識字率は低くないが、45歳以上の識字率はクメール・ルージュ時代に教育が禁止された影響もあってか21.0%とかなり低い水準である。2004年の15歳以上で読み書きができる者は男性84.7%、女性64.1%。2005年の初等教育純就学率91.9%、中学校教育就学率男子57%、女子16%(1998 – 2002年)(ユニセフ『世界子供白書2005年』ほか)。内戦の影響で学校の鐘として砲弾などの兵器が使われており、2018年に政府は禁止の指示を出した[36]。
王立プノンペン大学 カンボジア工業大学 王立法律経済大学 国立経営大学 国立教育研究大学 王立農業大学 カンボジア健康科学大学(フランス語版) カンボジア大学 アンコール大学
保健
詳細は「カンボジアの保健(英語版)」を参照
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この節の加筆が望まれています。治安
詳細は「カンボジアにおける犯罪(英語版)」を参照カンボジアの治安は非常に危うい状況に置かれている。カンボジア内務省の犯罪統計によると、同国における2018年の犯罪総件数は2,995件で前年と比較して8%の増加と発表されているが、これはいわゆる氷山の一角ではないかとも言われていて、統計に含まれていない案件も多数あり、実際の犯罪発生件数はこれよりも多いのではないかと考えられている。
外国人の犯罪被害も報告が多数挙がっており、たとえば日本人が被害にあう犯罪の大多数が金品目的のひったくり、スリを含む窃盗、「いかさま賭博」詐欺で占められ、他には空き巣などの住宅関連の犯罪が挙げられている[37]。
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この節の加筆が望まれています。汚職問題
詳細は「カンボジアにおける汚職(英語版)」を参照カンボジアはアジアにおいて汚職の度合いがかなり高い方に位置する。世界経済フォーラムが2018年に公表した『世界競争力報告(Global Competitiveness Report)』では、カンボジアは腐敗指数が21.0で世界で5番目に腐敗している国と認定される[38]。
地雷
国内にはベトナム戦争中のカンボジア作戦や、それに続くベトナム・カンボジア戦争、カンボジア内戦の影響で多くの地雷と不発弾が埋まっている。危険地域の多くには危険標識が立てられているものの、カンボジアの子供たちは母語であるクメール語の文字が読めないことが多く、誤って危険地帯に入ってしまうという問題があった。そのため日本地雷処理を支援する会(JMAS)などの日本のボランティア組織は、子供でも理解できるポスターを作ったり、わかりやすい地雷の標識を設置するなどの活動をしている。
現在、地雷地域の処理が進んでおり、かつてに比べると各都市部は安全になったものの、地方部では西部タイ国境周辺以外での地雷処理は行われていない。
人権
詳細は「カンボジアにおける人権(英語版)」を参照
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この節の加筆が望まれています。マスコミ
詳細は「カンボジアのメディア(英語版)」を参照
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この節の加筆が望まれています。通信
詳細は「カンボジアの通信(英語版)」を参照
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この節の加筆が望まれています。
「カンボジア郵政省(英語版)」も参照文化
詳細は「カンボジアの文化(英語版、フランス語版)」を参照
食文化
カンボジア料理の一例
詳細は「カンボジア料理」を参照
文学
詳細は「カンボジア文学(英語版)」を参照民話 - 民話は、カンボジアでも人から人へと語り継がれてきた民話が多く残っており、19世紀ごろにはヤシの葉に書かれたという。20世紀になるとフランス人研究者が同地研究者らとともに「クメール風俗習慣委員会」を設立し、民話の採取と編集を始めた。その事業を仏教研究所が引き継ぎ、同研究所の『カンプチア・ソリヤー』に1932年から連載した。その後、『クメール民話集』(全249話、全9巻、1959 - 1971年)が刊行された。何度も復刻版が出され、誰もが手にする民話集になっている[39]。 古典文学作品 - カンボジアを代表する古典文学作品は、『リアムケー』[40]、『ジャータカ』[41]、『50のジャータカ』[42] などの長編物語があげられる。[43]
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音楽
詳細は「カンボジアの音楽(英語版)」を参照ロ・セレイソティア チュット・ソヴァン・パンニャー
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舞踊
クメールのアプサラス・ダンサー
詳細は「カンボジア舞踊(英語版)」を参照
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美術
詳細は「カンボジア美術(英語版)」を参照カンボジアでは20世紀半ばから現代美術の伝統が始まった。20世紀後半にはクメールルージュによる芸術家の殺害など、いくつかの原因から伝統芸術と現代芸術の両方が衰退していたが、同国政府やNGO、外国人観光客からの支援が増えたため、21世紀になってその存在が再生を迎えることとなった。
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「クメール彫刻(英語版)」も参照
映画
詳細は「カンボジアの映画(英語版)」を参照
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衣類
詳細は「クメールの伝統衣装(英語版)」を参照
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建築
詳細は「クメール建築(フランス語版、英語版)」を参照
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祭礼
新年を祝うクメール人女性水祭り - 2010年11月に300人以上が死亡する事故が起きた。100メートル、幅6メートルの橋の上には見物客約7,000人から8,000人がおり、橋が揺れたのが原因と見ている。24日の政府発表では、死者数は347人だった[44]。
世界遺産
詳細は「カンボジアの世界遺産」を参照カンボジア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件、暫定リストが8件存在する。[45]
アンコール遺跡 アンコール遺跡 プレアヴィヒア寺院 プレアヴィヒア寺院
無形文化遺産
カンボジアには、ユネスコの無形文化遺産リストに登録された文化が4件存在する。
カンボジアの王宮古典舞踊(2003) クメールの影絵劇(英語版)(2005) 綱引き(2015) 注:ベトナム・フィリピン・韓国との共同申請 Chapei dong veng(2016)
祝祭日
詳細は「カンボジアの祝日(英語版)」を参照
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スポーツ
詳細は「カンボジアのスポーツ(英語版、フランス語版)」を参照
サッカー
詳細は「カンボジアのサッカー(英語版)」を参照カンボジア国内でも他の東南アジア諸国同様に、サッカーが最も人気のスポーツとなっており、1982年にはサッカーリーグのカンボジア・リーグが創設されている。さらに2018年には、元日本代表の本田圭佑がカンボジア代表のGMに就任し話題となった。
2019年には、”2022 FIFAワールドカップ・アジア2次予選”のイラン代表戦で、0対14で大敗し、カンボジア史上ワースト記録での敗戦となった。なお、FIFAワールドカップへの出場経験はないものの、AFCアジアカップでは1972年大会でベスト4に進出した事もある。また、東南アジアサッカー選手権には8度の出場歴をもつが、全大会でグループリーグ敗退となっている。
ボッカタオ
アンコール・ワットボックは「激しく叩く」タオは「ライオン」を意味し、両方合わせてボッカタオは「ライオンを激しく叩く」を意味する。名称は2000年前にライオンが人々の村を襲った時、ある武人が膝の技でライオンを倒したという伝説に由来するという。アンコール・ワット建造のころから伝わる武術とされ、かつてはアンコール王国(クメール王国)の軍隊で行われていたという。ボッカタオは東南アジアを支配したアンコール王国の強さの源泉と考えられ、12世紀終盤には王であるジャヤーヴァルマン7世によって推奨された。しかし王国の衰退と共にボッカタオも衰退していく事となる。
さらにその後のフランスによる植民地支配、ポル・ポトやクメール・ルージュ時代の弾圧によってボッカタオの運命は風前の灯となる。この失われつつあった伝統武術の復興を試みたのがサン・キムサンである。キムサンは素手の武術や槍術・棒術などを学んでいたが、ポル・ポト時代にタイに亡命し、その後アメリカでハプキドーの師範として暮らしていた。しかしキムサンは自国の武術復興を志し、国内の情勢が安定した2001年に帰国。師範を集めて組織を整備し、2005年にそれまで名前が忘れられていたこのカンボジア武術を「ボッカタオ」と仮に名付けた。
オリンピック
詳細は「オリンピックのカンボジア選手団」を参照
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著名な出身者
詳細は「カンボジア人の一覧(英語版)」を参照
脚注
[脚注の使い方]
注釈^ Khmer Rouge、KRと略、フランス語、元来はシアヌークが左派を一まとめにして呼んだ言葉、近年は国際社会でポル・ポト派を指す用語となっている。天川直子「誰をどう裁くのか」/上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 210-213ページ
出典
^ “World Bank Open Data” (英語). THE WORLD BANK. 2021年11月5日閲覧。 ^ “World Bank Open Data” (英語). THE WORLD BANK. 2021年11月5日閲覧。 ^ “World Bank Open Data” (英語). THE WORLD BANK. 2021年11月6日閲覧。 ^ “World Bank Open Data” (英語). THE WORLD BANK. 2021年11月6日閲覧。 ^ “World Bank Open Data” (英語). THE WORLD BANK. 2021年11月6日閲覧。 ^ “World Bank Open Data” (英語). THE WORLD BANK. 2021年11月6日閲覧。 ^ “World Bank Open Data” (英語). THE WORLD BANK. 2021年11月6日閲覧。 ^ a b “カンボジア基礎データ”. Ministry of Foreign Affairs of Japan. 2022年3月5日閲覧。 ^ 石澤 2013, p. 125. ^ 石澤 2013, pp. 175–176. ^ 石澤 2013, pp. 38–39. ^ 岡田知子「インドシナの枠組みの中で」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 173ページ ^ カンボジアの人口は七百七十六万人『朝日新聞』1978年(昭和53年)7月18日朝刊、13版、7面 ^ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 205ページ ^ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 207ページ ^ 大虐殺の審理始まる 2009年2月18日『しんぶん赤旗』 ^ キュー・サムファン大虐殺罪で訴追『しんぶん 赤旗』2009年12月19日(土曜日)版 ^ ここまで上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 217ページ ^ “カンボジアで見たしなやかな、強権政治に対する抵抗”. 2019年3月10日閲覧。 ^ 宮崎朋紀「各国法整備支援の状況-カンボジア」 ^ カンボジアが新しい民法を公布 | プレスリリース(2007年) | ニュースとお知らせ - JICA ^ カンボジアで民法の適用開始 | トピックス(2011年度) | ニュースとお知らせ - JICA ^ 高橋美和「季節のリズム」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 78-80ページ ^ “Cambodia Clearing House Mechanism Species Database”. 2022年6月3日閲覧。 ^ Reptile Database, accessed 3 March 2013 ^ “カンボジアの国土政策の概要”. 国土交通省国土政策局. 2020年2月4日閲覧。 ^ “カンボジア住所の日本式表記について”. 在カンボジア日本大使館. 2020年2月4日閲覧。 ^ カンボジアのGDP World Economic Outlook Database, April 2015 ^ アジア開発銀行 Poverty in Asia and the Pacific: An Update ^ 外務省 後発開発途上国 ^ 天川直子「米をつくる」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 344ページ ^ IMFの2014年の各国のGDPデータ ^ 「特集 法整備支援の課題」『法律時報』2010年1月号(日本評論社) ^ 特集 日本の法整備支援 ^ Valerie Ooka Pang & Li-Rong Lilly Cheng. Struggling to Be Heard: The Unmet Needs of Asian Pacific American Children. SUNY Press (1998), p51. ISBN 0-7914-3839-2. ^ 「砲弾などを鐘として使わないで」 カンボジア政府、各学校に指示AFP、2018年7月30日閲覧。 ^ “カンボジア 危険・スポット・広域情報”. 外務省. 2022年6月3日閲覧。 ^ 世界で最も腐敗している国 ワースト29 | BUSINESS INSIDER JAPAN ^ 岡田知子「ウサギの裁判官」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 52ペー ^ インドの『ラーマーヤナ』のカンボジア版で「リアム」(ラーマ)王子の栄光という意味。 ^ 最終話第547話「布施太子物語(モハーウェサンドー)」、釈迦前世の物語 ^ カンボジア、タイ、ラオス、ミャンマーにのみ残る ^ 岡田知子「天界の喜びから農民の苦しみまで」/ 上田広美・岡田知子編著『カンボジアを知るための60章』明石書店 2006年 58ペー ^ 転倒現場で追悼式=死者347人に修正―カンボジア 朝日新聞 2010年11月25日 ^ ユネスコ世界遺産センター カンボジア
参考文献
石澤良昭『〈新〉古代カンボジア史研究』風響社、2013年。ISBN 9784894891708。
カンボジアを扱った関連作品
柳瀬房子(著), 葉祥明(イラスト)『サニーのおねがい 地雷ではなく花をください』自由国民社 1996.9 柳瀬房子(著), 葉祥明(イラスト)『続・地雷ではなく花をください サニーカンボジアへ』自由国民社 1997.7 地雷を踏んだらサヨウナラ(1999年日本)
関連項目
Portal:東南アジア
ポータル 東南アジアカンボジア関係記事の一覧 カンボジア君主一覧 日本とカンボジアの関係 駐日カンボジア王国大使館
外部リンク
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憲法(英訳) 民法、民事訴訟法(逐条解説付)、民事訴訟法要説など - 日本の法整備支援を受けて起草された各法令の日本語訳や解説が掲載されている。 企業法(英訳) 外国産業財産権制度情報 - 特許庁のウェブサイト。特許法(特許,実用新案証及び意匠に関する法律)、商標法の翻訳を掲載。 雇用労働関係法令 - 労働関係法令の概要を解説。 カンボジア投資ガイド - 労働法、土地法、破産法、知的財産権法などにも言及。 カンボジア王立裁判官・検察官養成校民事教育改善プロジェクト成果 - 民事第一審模擬裁判記録、不動産仮差押模擬記録・同マニュアル、民事保全頻出質問集を掲載。裁判官・検察官養成過程で用いる教材であり、日本の法整備支援を受けて作成された。 神木篤「カンボジアにおける判決調査報告書」 - 法整備支援の一環として、弁護士に委託して行われた調査。 カンボジアの投資環境 - 国際機関日本アセアンセンター
日本政府関係
日本外務省 - カンボジア (日本語) 在カンボジア日本国大使館 (日本語) JICA - カンボジア(日本語) Cambodge(日本語) 法務省法務総合研究所国際協力部 - カンボジア法整備支援 (日本語) 国土交通省国土政策局 - カンボジアの国土政策の概要 (日本語)
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カテゴリ:カンボジアアジアの国王国現存する君主国フランコフォニー加盟国国際連合加盟国後発開発途上国 最終更新 2024年3月9日 (土) 14:08 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。』
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南オセチア紛争 (2008年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E3%82%AA%E3%82%BB%E3%83%81%E3%82%A2%E7%B4%9B%E4%BA%89_(2008%E5%B9%B4)





『出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2008年南オセチア戦争
南オセチア紛争及びアブハジア紛争中








ジョージア、アブハジア、南オセチア、ロシアカフカース北部の位置関係図
時 2008年8月7日 – 8月16日[1]
場所 南オセチア、ジョージア、アブハジア
発端 ジョージアによるツヒンヴァリ攻撃





結果 ロシア・南オセチア・アブハジアの勝利。南オセチアとアブハジアが共和制独立国であることが一部承認された[2]。南オセチア、コドリ渓谷からグルジア系住民が追放された[3][4][5][6]。
領土の
変化 ジョージアがアブハジアおよび南オセチアの一部にあった支配権を喪失。
衝突した勢力
ジョージア (国)の旗 ジョージア ロシアの旗 ロシア
南オセチアの旗 南オセチア
アブハジアの旗 アブハジア
指揮官
ジョージア (国)の旗 ミヘイル・サアカシュヴィリ [7]
ジョージア (国)の旗 ラド・グルゲニゼ
ジョージア (国)の旗 ダヴィード・カゼラシュヴィリ [7]
ジョージア (国)の旗 ザザ・ゴガヴァ
ジョージア (国)の旗 マムカ・クラシュヴィリ(英語版) [8]
ジョージア (国)の旗 ヴァノ・メラビシュビリ(英語版)
ジョージア (国)の旗 アレキサンダー・ロマイア(英語版)ロシアの旗 ドミートリー・メドヴェージェフ [9]
ロシアの旗 ウラジーミル・プーチン
ロシアの旗 アナトーリー・セルジュコフ
ロシアの旗 ニコライ・マカロフ
ロシアの旗 ウラジーミル・ボルドゥイレフ
ロシアの旗 アナトリー・フルリョフ (戦傷)[10]
ロシアの旗 ヴャチェスラフ・ボリソフ [11]
ロシアの旗 マラート・クラフメートフ [12][13]
ロシアの旗 ウラジミール・シャマノフ(英語版)
南オセチアの旗 エドゥアルド・ココイトゥイ
南オセチアの旗 ミハイル・ミンザエフ(英語版)
南オセチアの旗 Vasiliy Lunev[14]
アブハジアの旗 セルゲイ・バガプシュ
アブハジアの旗 メラブ・キシマリヤ
アブハジアの旗 Anatoliy Zaitsev[15]
戦力
ジョージア (国)の旗 グルジア軍概算 : 兵員 9,000-16,000[7][16][17]。(2007年の統計によると全関係者は37,000名[18])人数は不明だがジョージア警察 (Georgian Police) も臨時に動員されている。 ロシアの旗 ロシア軍概算 : 2008年8月13日、少なくともジョージア領内に15,000名が進入[19]、それに加えてロシア領内、海上に補給部隊、後詰部隊があり。
南オセチアの旗 南オセチア軍 : 正規兵3,000、予備役15,000;[20] 他に義勇兵あり。
アブハジアの旗 アブハジア軍 : 人数は不明だが、アブハジアが有する45,000名の義勇兵の一部が参加[21]。合計少なくとも23,000名
被害者数
ジョージア (国)の旗ジョージア発表:
兵169名死亡, 17名不明, 42名捕虜 1,964名負傷;[22][23][24]警官14名死亡、22名不明[24][25][26] ロシア発表:
ロシアの旗 64名死亡, 283名負傷, 3名不明[27]
南オセチアの旗南オセチア:
約150名死亡(義勇兵も含む)[17] 41名捕虜
アブハジア発表:
アブハジアの旗 1名死亡, 2名負傷[28]民間人の犠牲:
南オセチア: 南オセチア及びロシアの発表によれば、2,000名が死亡[29][30][31][32]。なお、戦闘中には1,492名以上が死亡したと発表されていた。これらの数字はヒューマン・ライツ・ウォッチ、メモリアル (Memorial) (ロシアの人権団体)、グルジア側から異論が出ている[33][34]。ヒューマン・ライツ・ウォッチはロシア、南オセチアのいう300から400という数字は最低限と考えるべきだろうと主張[35][36]。
ジョージア: 公式発表によると少なくとも228名のジョージア民間人が死亡[37]、ジョージア当局の当初の発表によると872名の民間人が行方不明[26][38]; 外国人1名死亡、3名負傷[24][39]。
難民:
少なくとも158,000名の民間人が移住を余儀なくされた[40]。その内、3万人の南オセット人がロシア北オセチア共和国へ、5万6千人のグルジア人がゴリからグルジアへ、1万5千人のグルジア人が南オセチアから国際連合難民高等弁務官事務所に保護された[41][42]。一方、グルジア人による人道支援団体によると、難民は最低でも230,000人である[43][44][45]
74名のロシア兵が死亡したと伝える報道もある[46]
2008年の南オセチア紛争(みなみオセチアふんそう、South Ossetia conflict)または南オセチア戦争(South Ossetia War)、別名ロシア・グルジア戦争(Russian-Georgian War[47][注釈 1])は、2008年8月7日から8月16日にかけて起こったジョージア(グルジア)とロシア連邦間の戦争。
ロシア側には分離派の南オセチアやアブハジアも参戦した。21世紀最初のヨーロッパの戦争とされる[50]。陸戦、航空戦、海戦の全てが行われた。
名称は他に、グルジア・ロシア紛争[51][52]という名称もあり、別名8月戦争(August War)[53]、5日間戦争(Five-Day War)ともいう[54][55]。日本では単にグルジア戦争ともいう[56]。
概要
かつての1991年から1992年にかけての南オセチア紛争(英語版)は、グルジア人とオセット人(オセチア人)との間に起こったものであり、ジョージア国内の非政府支配地域である南オセチアをロシアに帰属させるかどうかが争われたものであった。
この戦争後も、南オセチア内にはグルジアの支配下にある地区があり、グルジア系住民も残った。
同じジョージア領内のアブハジアも似たような状況だった(アブハジア紛争 (War in Abkhazia (1992–1993)) )。
そのような背景があり、2008年の夏には関係地域でかなりの緊張が高まっていた。
2008年8月7日の午後、グルジア軍は南オセチア地区の首都ツヒンヴァリに陸軍、空軍を投入して大規模な軍事攻撃を行った。
ロシアはグルジア軍の動きを受けて南オセチアに軍を差し向け、グルジア領内への爆撃を開始した[57][58]。
この戦闘開始時、ロシアのメドヴェージェフ大統領は休暇中、プーチン首相は2008年北京オリンピックの開会式に出席しており不在であった。
グルジア軍はこの隙を突いて攻撃したとも言われている[59][60]。
ともに出席していたブッシュ米大統領や五輪開催国の中国の胡錦濤国家主席と協議[61]したロシアのプーチン首相は帰国後、厳しく米国を批判した[62]。
一方、グルジア軍は先に軍事行動を起こしたのはロシア連邦軍だと主張している[63]が、スイスの外交官ハイジ・タリアヴィーニ(英語版)を団長とする独立委員会が欧州連合からの委託を受けて行った調査では、紛争の直接の原因は8月7日から8日にかけてグルジア軍がツヒンヴァリに行った攻撃であったと認定している[64]。
翌8月8日、ロシア海軍はグルジア沿岸を封鎖し、陸兵を展開し、パラシュート部隊も投入した。
ロシア軍とそれに同調するアブハジア軍は事実上の国境であるコドリ渓谷を越えてグルジア西部に進入した(コドリ渓谷の戦い(英語版))[65]。
この後5日間は激しい戦闘が行われ、グルジア軍は南オセチア及びアブハジアから撤退した。
ロシア軍は追撃の手を緩めず、これまでグルジアが支配していたポティやゴリといった都市を占領した[66]。
当時欧州連合理事会議長国であったフランスの仲介で8月12日に休戦提案が行われ、8月15日にはグルジアがトビリシで、8月16日にはロシアがモスクワで署名に応じた。
8月12日にはロシアのメドヴェージェフ大統領から、ロシア軍のグルジア領内での軍事活動に対する停止命令が出ていたが[67]、そのときは実際の戦闘は停止していなかった[68]。
ロシア側の停戦受け入れ後、ロシア軍はグルジア領内からの撤退を開始した。
ただし完全なものではなく、アブハジアや南オセチアに接するグルジア領内のポティ、セナキ (Senaki) 、ペレヴィ (Perevi) に「軍事中立地帯」と称して軍を残した。
2008年8月26日、ロシアは国際的にはグルジア領とされている南オセチアとアブハジアの独立を承認した。
10月8日、ロシア軍は国際合意を受けてグルジア領内から完全に撤退した[69]。
ロシアは、この戦争前にグルジア軍が支配していた地域を含めたアブハジアと南オセチア領内に、同政府の合意の下、軍を残した[70]。
グルジアは2008年8月28日、これを「ロシア軍占領地域」と呼んでいる[71]。
この戦争後もグルジアとロシアの間では、軍事的緊張が続いている (2008-2009 Georgia–Russia crisis) 。
背景
詳細は「en:Background of the 2008 South Ossetia war」を参照
「南オセチア紛争」、「南オセチア」、「en:South Ossetian independence referendum, 2006」、および「en:2008 Georgia-Russia crisis」も参照
1995年のコーカサス地方の民族地図: オセット人は北および南オセチア、グルジア中央部に分布している。
この紛争の背景には、昔このあたり一帯をソビエト連邦が支配していたこと、そのソ連がいくつかの自治共和国による連邦制の形を取っていたこと、その区分がこのあたりに暮らしていたグルジア人、オセット人(オセチア人)、アブハズ人(アブハジア人)の居住地域と一致していなかったことと深くかかわりがある。
このあたりは19世紀初頭から徐々にロシア帝国に併合されていき、19世紀の終わりには完全にロシアの支配下に入った。
そのロシアが1917年に滅びたのを受け、グルジアは1918年に一時的にロシアからの独立を果たすものの、1922年にはロシア帝国の後を継いだソビエト連邦に再び併合された。
その際に南オセチアはグルジア・ソビエト社会主義共和国内の自治州となり、北オセチアはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国内の自治州となった。
1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連の指導者となって以降、ソ連からの独立を宣言する地域が続出し、南オセチア議会も1989年に独立を宣言する。
グルジアはそれに異議を唱えて1991年1月に南オセチアに軍を送って戦争となった。
この戦争での死者は2000人以上と見られている。
戦争中は両軍によって数々の残虐行為が行われた。
グルジアあるいは南オセチア内の住居を追われたオセット人は10万人に達し、一方で2万3千人のグルジア人が南オセチアに留まった[72][73][74][75]。
その結果、戦後の南オセチア人口は7万人に減り、グルジア人の割合は5分の1に上がった[76]。
グルジアは戦争中の1991年4月にソ連からの独立を宣言し、12月にソ連解体が決まったため正式に独立国となった。
1992年に停戦が合意され、南オセチアの中心都市ツヒンヴァリの周りに「グルジア・オセチア間紛争解決合同調整委員会」 (Joint Control Commission for Georgian-Ossetian Conflict Resolution) の管理下で、ロシア、グルジア、南オセチア3者による平和維持軍が置かれ、南オセチアは事実上独立状態になった[77][78]。
2003年11月、いわゆる「バラ革命」と呼ばれる政変でグルジアのシェワルナゼ大統領が失脚し、野党が政権を奪取。
代わって翌年1月にアメリカ合衆国と関係の深いミヘイル・サアカシュヴィリが大統領に就くと、彼は治安と軍事を含めた国内の支配力強化に乗り出した[79]。
一方で南オセチアでは2006年、独立に関する国民投票 (South Ossetian independence referendum) が行われ、完全独立に賛成する投票が99%に上った。
同時期、南オセチアで少数民族となるグルジア人らも彼らだけの住民投票を行い、こちらはグルジアへの残留が確認された。
グルジア政府はロシア政府に対し「南オセチアにエドゥアルド・ココイトゥイによる傀儡政権を立て、そこを国家として承認し、ロシア連邦保安庁とロシア陸軍を入れる行為は事実上の併合だ」と非難している[80][81][82][83][84]。
2007年にはグルジアは国内総生産(GDP)の6%を軍事費に回している。この短期間での軍事費上昇率は世界でも稀である[85][86]。
2008年5月にロシア連邦大統領となったドミートリー・メドヴェージェフは「ロシア市民が存在する限り、その生活と尊厳を守る」と宣言している[87]。
南オセチアではロシア人の人口比率が低いにもかかわらず(1989年の時点でオセット人60%、グルジア人20%、アルメニア人10%、ロシア人5%)、南オセット人の8分の7はロシアのパスポートを所有している[88]。
ロイターは「南オセット人の3分の2はロシアで収入を得ており、ロシアがなければ生活が立ち行かない。特にロシアの大ガス会社ガスプロムの新ガスパイプライン建設により、南オセチアは数百万ドルの金とエネルギー供給を受けている」と報じている[89]。
2008年の4月中旬、ロシア外務省は、ウラジーミル・プーチン首相の談話として、ロシア政府はアブハジアと南オセチアに対し、他のロシア連邦の地方区分と同様の経済、外交、行政関係を結びたいと発表した[90]。
ロシアはそれらのグルジアで分離独立運動が盛んな地域との結びつきを強めようとしたが、それらの地域はアメリカ合衆国とも繋がりが深く、アメリカはグルジア軍に対して鉄道や装備の援助を行った [91]。
グルジアには石油やガスの備蓄が乏しかったため、この援助によってグルジアは西側諸国からの物資供給を受けるのが容易になった[92]。
アメリカにとっては、2005年に完成したアゼルバイジャンとトルコを結ぶバクー・トビリシ・ジェイハンパイプラインが、ロシアやイランを経由せずに中東の石油を得るための重要な手段であったため、その中継地であるグルジアの援助は非常に重要であった[93]。
ロシアとの対抗上、グルジアのサアカシュヴィリ大統領はグルジアのNATO加盟を目指した。
2008年4月、NATOは実施時期は未定としながらもグルジアの加盟に合意した[91]。
ロシアはそれに対して、これはNATOの東側への拡張行為であり脅威を感じている、と発表した[94]。
ロシアのプーチン首相も、NATOの拡張主義にロシアは反対する、との談話を発表した[95]。
というのも1990年、当時のアメリカ国務長官ジェイムズ・ベイカーがソ連のゴルバチョフ書記長に対して、ソ連がドイツ再統一を認めるのであれば、NATOは東側に1インチも進まない、と語っていたからである。
ただしベイカーの談話は外交上あいまいな表現を含ませたものであった[96][リンク切れ]。
2008年5月、ロシア平和維持軍の兵力は、アブハジアで約2,000人、南オセチアで約1,000人になっていた[97]。
戦争の前兆
「en:Timeline of the 2008 South Ossetia war」も参照軍の拡張
戦前の南オセチアの範囲
2008年になって以降、グルジアとロシアは互いに相手が戦争準備を進めているとの非難を始めた[97][98]。
2008年4月、ロシアは、グルジアがアブハジア東部のコドリ渓谷に1500名もの兵士と警官を動員し、アブハジアに侵略しようとしている、との見解を発表した。
ロシアは、グルジアのそのような行為は南オセチア地域でも動乱の原因になるだろう、とも語った[99]。
それに対してグルジアの内閣報道官であるShota Utiashviliは「グルジアが軍を増強したという事実は一切無い。ロシアの声明は率直に言って間違いだ」と発表した[100]。
後のことになるが、国際連合グルジア監視団(UNOMIG)は、コドリ渓谷及びアブハジア周辺での軍備増強は、ロシア・グルジア双方ともに無かったと発表している[101][102]。
同じく4月、ロシアはアブハジアの平和維持軍を、数百のパラシュート部隊を投入して2,542人にまで増強した。
ただし、1994年の独立国家共同体首脳会議時の取り決めに基づいて、3千人以内には抑えている[103][104]。
ロシアの外交部長セルゲイ・ラブロフは「ロシアはまだ戦争準備ができていないが、攻撃されれば報復することになるだろう」との声明を発表した[99]。
EUの外交政策部長ハビエル・ソラナも「たとえ取り決めの範囲内であろうとも、我々はこの地で緊張が高まるのを望んではおらず、現時点で兵力を増やすのは賢明な判断とは言えない」との声明を発表した[99]。
その後、グルジアはロシア軍がアブハジア上空を飛行するグルジアの無人偵察機を打ち落としたとして非難を表明した。
しかしロシアはこの問題への関与を否定し、アブハズ人の反政府組織によるものだろうと答えている[97]。
グルジアの内務長官がイギリスBBCのビデオ録画に公式な立場で参加して、ロシア軍がアブハジアで公然と軍を展開したとの談話を発表した。
グルジア側は「ロシア軍の動きを見れば、彼らが平和維持軍とは程遠いものだとすぐに分かる」と反論し、さらにロシアはその見解を否定した[105]。
南オセチアに軍事機を飛ばしたことに対して、双方が停戦合意違反だと批判しあった[106]。
2008年の6月から8月初旬にかけて、両国は共に軍事演習を行っている。
グルジアはアメリカと共に2008年初頭演習 (Immediate Response 2008) を行い、ロシアはコーカサス軍事演習 (Caucasus Frontier 2008) を行っている[107][108]。
それぞれの演習が終わった8月2日にも、ロシア軍は自国に戻らずにグルジア国境に居座り続けた[102]。
8月5日、ロシア大使 (Ambassador at Large) のユリ・ポヴォフ(Yuri Popov)は、同地域で緊張が高まっているとの談話を発表した[109][110]。
駐ロ南オセチア大使のドミトリー・メドイェーェフ (Dmitry Medoyev) はモスクワに対し、北オセチアを中心とする義勇兵が続々と南オセチアに集まりつつあると公表した[111][112]。
ロシアNGOである軍事技術総合研究所 (Centre for Analysis of Strategies and Technologies) 発行の英文雑誌『モスクワ防衛の真実』 (Moscow Defense Brief) は「8月初旬、グルジア軍は秘密裏に、南オセチア紛争地帯にあるグルジア支配下の飛地に多くの軍事力を集めつつあった。
グルジア軍が投入したのは第2、第3、第4歩兵旅団全部と砲兵旅団、第1旅団の一部、ゴリ戦車大隊、あわせると軽歩兵大隊9、戦車大隊5、大砲大隊8、その他特殊部隊であり、兵力1万6千名である」と報じている[17]。
小規模な衝突
2008年8月初旬、南オセチア紛争地帯では小規模な砲撃や衝突が頻発し、両軍に多数の死者が出た。これに関してグルジア、南オセチアの双方が、相手側の暴力から始まったものだと主張した。
南オセチア側は1992年に設立されたグルジア・オセチア紛争解決合同調整委員会 (Joint Control Commission for Georgian-Ossetian Conflict Resolution) の分科会として、8月6日に南オセチアの首都ツヒンヴァリにて、グルジア、南オセチア、ロシア、北オセチア(ロシアの一地域)それぞれが委員を選出しての話し合いを提案した。
これに対してグルジアは、グルジア以外の3地域がいずれもロシア側であることから、この提案には応じなかった[113]。
ロシアの新聞ネザヴィシマヤ・ガゼタは目撃情報として、グルジア軍が8月6日、南オセチアの首都ツヒンヴァリに未統制ながらも激しい砲撃を開始したと伝えた。
それによれば、用いられたのは迫撃砲、大砲、狙撃銃である。
南オセチア軍は公式に、グルジア陸軍がツヒンヴァリ全域を攻撃する準備をしているとの推測を伝えている。ロシア紙からの特派員は、ツヒンヴァリに一晩中迫撃砲と大砲による砲撃が続けられたと報じている[114]。
戦争の経緯
8月7日
グルジア政府の8月7日午後2時頃(以後全て現地時間、UTC+4、JST-5)の公式発表によると、「同日夜明け前、南オセチアのアブネヴィ (Avnevi) からグルジア軍陣地に向けて、オセチア軍による大砲攻撃が数時間にわたって行われた」とされる。
グルジアの首相ラド・グルゲニゼは、この攻撃によってグルジアの平和維持軍兵士が2名死亡したと主張している[7]。
午後3時、欧州安全保障協力機構(OSCE)の監視員がパトロール時に、南オセチア国境沿いであるゴリ北方に、多数のグルジア軍の大砲とBM-21ロケットランチャーを目撃している[7][115]。
午後7時、グルジアのサアカシュヴィリ大統領は停戦合意を一方的に宣言し、グルジア州長官のテルミ・ヤコヴァシュヴィリ (Temuri Yakobashvili) を通してロシアの平和維持軍司令官マラート・クラフメートフに伝言した。
なお、ヤコヴァシュヴィリはロシア側主席交渉人のユリ・ポポフ(Yuri Popov)、およびオセチア代表にも会おうとしたが叶わなかった[102][115][116]。
グルジア軍によれば、停戦を宣言した後も紛争はますます激化したという[117][118]。
一方、南オセチアは「グルジア軍やグルジア支配地域に砲撃を加えた事実はない」と反論している。
またツヒンヴァリのOSCE監視グループのひとつからも「グルジア側からの砲撃前に南オセチア側から砲撃が開始された事実は無い」との報告が出ており[7][115]、ドイツの週刊誌デア・シュピーゲルの報道によればNATOの公式声明でも「小規模な戦闘は別にしてグルジアを挑発するような行動はなされていない」と報告されている[119]。
ロシア及びオセチア政府は、サアカシュヴィリの停戦宣言はグルジア軍が本格的な攻撃をするための配置に付く時間稼ぎでしかないとの見解を示している[7][120]。
午後11時からのニュース報道でグルジアのサアカシュヴィリ大統領は「グルジアの村が砲撃を受けているが、グルジア政府は南オセチアにおける犯罪者による統治から秩序ある政治体制へと強権を発動してでも回復する」との談話を発表した[115][118]。
午後11時30分、グルジア軍はツヒンヴァリへの本格的な攻撃を開始した[121]。
11時45分、OSCEの監視員は、ツヒンヴァリに15〜20秒おきに砲撃が起こっていると報告している[121]。
グルジア軍が使用したのはロケットランチャー27台で、152mm砲やクラスター爆弾も使用された。3旅団が夜通し攻撃を行った[119]。
グルジア側は、先にロシア軍が仕掛けてきたからそれに対応したのだと主張しているが、その主張は国際的には支持されていない[16]。
グルジアの報道機関[63] 及びロシアからの情報によると、グルジアからの攻撃よりも前、ロシアの第58軍 (58th Army) の一部がロキトンネル経由で南オセチア領に移動しているとされるが[122][123][124][125][126][127]、11月6日のニューヨーク・タイムズが報じたところによるとグルジアやその同盟国は、ロシア軍がグルジア攻撃前に越境した事、オセチア内のグルジア人居留地区に対してグルジア軍が介入しなければならないほどひどい状況に置かれていた事を示す証拠を提示していない[115]。
ツヒンヴァリの戦い
詳細は「en:Battle of Tskhinvali」を参照
攻撃を受けたツヒンヴァリのロシアJPKF基地
破壊されたグルジア軍のT-72戦車8月8日の早朝、グルジア軍はツヒンヴァリに向けて、作戦名「地域一掃作戦」(Tsminda Veli, 英: Operation Clear Field)[128][129] と呼ばれる軍事行動を開始した。
グルジア軍はツヒンヴァリ周辺の高地にある南オセチア支配下の村をいくつか占領した[102][130]。
8時、グルジア軍の歩兵および戦車がツヒンヴァリに侵入し、駐留するオセチア軍およびロシア軍と激しい戦闘になった[17][131]。
朝の内に、グルジアは声明を発表し、ツヒンヴァリを包囲し、南オセチアの8つの村を占拠したと伝えた[132][133]。
グルジアの公式発表によると、10時には1500人のグルジア陸軍がツヒンヴァリの中央部に進入した。ただし、それ以上の進軍は阻止され、3時間後にはロシア軍の大砲と空爆により退却を余儀なくされた[7][131]。
一方グルジア側は、午前10時頃、ロシア軍の航空機がグルジアの領空を侵犯したと発表している[134]。
昼の12時15分、南オセチアの合同平和維持軍(Joint Peacekeeping Forces, JPKF)のロシア人司令官マラート・クラフメートフ将軍はOSCEに対し、自分の部隊が攻撃を受けており、死傷者が出ていることを報告している[115]。
ロシア軍の公式報道によると、ツヒンヴァリに配置されたロシア平和維持軍兵士13人が死亡、35人が負傷した[135]。
南オセチアにはロケット砲を含む激しい砲撃が加えられ[136]、ツヒンヴァリの多くが破壊された。
ロシア側のメディアが報じたところによると、グルジア軍によるツヒンヴァリへの攻撃は広範囲にわたっている。
ロシア軍は平和維持軍基地が攻撃され、「グルジア軍による殺戮行為」を受けた南オセチア市民を守るための行動を開始すると発表した[137]。
その発表によると、グルジア軍の砲撃によるツヒンヴァリでの死者は2,000名以上である[138]。
そのうち民間人が何人であったかは情報源により異なっているが、ツヒンヴァリにある病院の医者は、44名の死者が運び込まれたと証言している。
その医者によれば、病院は18時間にもわたって火災に襲われた。ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)の報告によると、病院はBM-21ロケットランチャーによる攻撃を受けている[139][140]。
BBCはグルジア軍がツヒンヴァリを攻撃するに当たって、民間人を意図的に攻撃したという確かな証拠が見つかったと報じている[141]。
ヒューマン・ライツ・ウォッチは、グルジア軍が民間人避難用の地下シェルターに対して攻撃したとの証拠をつかんだと発表している[142]。
午前2時頃、国際報道機関はロシアの戦車がロキトンネルを通じて進んでいることを報じた[143]。
ロシアの上級報道官によると、8月8日の夜明け前、ロシア軍の初動部隊として第135連隊に対し、ロキトンネルを通ってツヒンヴァリのロシア軍を強化するよう命令が下り、実際にロキトンネルを通過した時刻は午後2時30分頃であった。
ツヒンヴァリに到着したのは日没後であり、そこでグルジア軍による激しい抵抗にあったという。
一方でグルジア側は、トンネル付近でロシア軍と激しい戦闘になったのは、8月8日の夜明けより大分前とのことであった[144]。
8月8日夜の間中、ツヒンヴァリを中心とした南オセチアで激しい戦闘が行われた[145]。
南オセチアの町や村での戦闘には、地元義勇兵や志願兵も加わり、ロシア軍はグルジア本軍との戦闘に当たった。
ロシア軍はグルジア軍の砲兵隊も攻撃し、ロシア空軍はグルジア軍の司令部を爆撃した。
ロシアの特殊部隊が報じたところによると、グルジア軍はロキトンネルの破壊を企て、南オセチアに援軍が行くのを防ごうとした[146]。ロシア軍がロキトンネルを通って進軍する間にもグルジア軍としばしば遭遇した[17]。
8月9日、ツヒンヴァリでは激しい戦闘が続き、グルジア軍からも戦車部隊による激しい反撃があった[17]。
徐々に戦闘は激化し、この日の終わりには南オセチアではロシア軍はグルジア軍の2倍にまで増えた[102]。
ロシアの英文雑誌『モスクワ防衛の真実』によると、8月10日の朝、グルジア軍はツヒンヴァリの大部分を押さえ、オセチア軍とロシア平和維持軍を北方へと追いやった。
しかし、時間が経つにつれロシア軍が優勢となり、これがこの戦争の転換点になった。
8月10日の夜にはツヒンヴァリからグルジア軍は一掃され、市の南方に引き下がった。
要地であるプリシ高地(Prisi heights)もまたロシア軍が占拠した。
グルジアの砲兵隊も大部分が敗れた。
その間にオセチア軍はロシア軍の支援を受け、アケアベチ(Achabeti)、ケヒヴィ (Kekhvi) 、クルタ (Kurta) 、タマラシェニ (Tamarasheni) といった、南オセチア北部からツヒンヴァリまでの地域を占領した。
グルジア軍の残存部隊もやがて沈黙した。
最後に残ったツヒンヴァリ北部のツェモ=ニコシ(Zemo-Nikosi)のグルジア軍も破られた。
その後もグルジア軍は数箇所の高地からツヒンヴァリに砲撃を加えた。
それも8月11日の終わりには完全に駆逐され、南オセチアからグルジア軍は撤退した。
ロシア軍は翌朝には南オセチア外のグルジア領内にまで侵入した。グルジアの残存部隊は、ツヒンヴァリとグルジアの首都トビリシの間にあるゴリに集結した[17]。
一方、グルジアの防衛長官によると、ツヒンヴァリへの侵攻は3回行われた。最後の攻撃は、グルジアの公式発表によると地獄さながらであった[7]。
結局、ツヒンヴァリの占領は3昼夜で終わり、グルジアの砲撃隊は全滅または撤退し、ツヒンヴァリ市外へと撤退した[146]。
ゴリへの爆撃と占領
「en:Occupation of Gori」も参照
グルジア議会の周りには、ロシア軍によって破壊されたゴリの町の写真が並べられている。時は開戦時にまで遡る。
南オセチア国境に近いツヒンヴァリから25キロメートル南にあるグルジアの主要都市ゴリは、グルジア軍のツヒンヴァリ攻撃拠点であった。
開戦後、ロシア空軍により数回に分けて爆撃された[147][148]。
ロイターが報じたところによると、8月9日の午前6時ごろ、ロシアの戦闘機2機が、ゴリ付近のグルジア砲撃地点を爆撃した[149]。
2機目による爆撃で、オランダ人ジャーナリストが1名死亡した[150]。空対地ミサイルはゴリの病院を破壊した[151]。
ロシア軍によると、爆弾3発がグルジア軍の貯蔵施設及び5階建て建築物のひとつに直撃した。
それにより軍貯蔵施設の爆薬に引火して大爆発が起こった[152]。
一方グルジア政府の報告によると、ゴリのアパートに直撃した爆弾により60人の民間人が死亡した[153]。
8月10日の夜、多数の民間人がゴリ市外へと逃げ出した[154]。
翌日までに5万6千人がこの地区から離れた。
8月11日の午後5時、ツヒンヴァリでの敗戦を受けて、ゴリのグルジア軍も混乱の中、撤退を始めた[155]。
イギリスの新聞タイムズが報じたところによると、ゴリに残された住民の証言として、グルジア軍の撤退は突然のように始まったと伝えている[155]。
ロシアの英文雑誌『モスクワ防衛の真実』によると、ゴリを放棄したグルジア軍は混乱の中、一路グルジアの首都トビリシに向かっていったと伝えている[17]。
イスラム系の報道局アルジャジーラの記者は、ロシア軍の猛烈な砲撃が撤退するグルジア軍の戦車に直撃したのを目撃している。
国際人権団体の ヒューマン・ライツ・ウォッチ (HRW)は、この攻撃の際、ロシア軍がグルジアの民間人居留地域にクラスター爆弾を使用し、無差別殺人を行ったと告発した。
HRWによると、8月12日のゴリへのクラスター爆弾投下で、少なくとも民間人8名が死亡し、12名が負傷したとのことである[156]。
ゴリの住宅の寝室にほぼそのままの形で残ったロシア軍のミサイル。
ロシア軍はゴリに残るグルジアの残存部隊の掃討を開始した[157]。
8月13日頃、ロシア陸軍がゴリに到着した[155][158][159]。
この頃にはグルジアの残存部隊もいなくなり、完全にロシア軍により制圧された。
8月14日、ロシア国防省の公式報道として、ロシア軍の司令官ヴャチェスラフ・ボリソフは、ゴリの町はグルジア警察 (Georgian Police) とロシア軍の合同部隊によって統治されたと発表した。
ボリゾフは、ロシア軍を2日後に出発させるとも発表している[160]。
ロシア軍はゴリ郊外の軍貯蔵所から軍事物資と爆薬を運び出したと発表した[161]。
ロシア軍はトビリシに続く道路にも進軍したが、トビリシから1時間の位置で北方へと転進し、そこで宿営した。このときグルジア軍はトビリシまであと10キロメートルのところまでを押さえていた[162][163]。
ロシア軍は、ゴリ市民のための人道援助活動の申し出を断っている。
国際連合はゴリの絶望的な状況に対して最低限の食料援助を実現するよう要請している[164][165]。
8月15日、ロシア軍はいくらかの人道支援受け入れを認めたが、ゴリの封鎖はここが戦略拠点であることを理由に解かなかった[166][167]。
8月17日、ヒューマン・ライツ・ウォッチは、ゴリからきたグルジア人にインタビューし、周辺の村を調査して、南オセチア軍が民間人の車を破壊し、戦闘予定地域から民間人を強制退去させ、ロシア軍の進軍を助けた。
ゴリ付近の村に残った住民の電話インタビューによると、南オセチア義勇軍による略奪や放火を目撃したが、住居を空けると義勇軍に襲撃される恐れがあるためそこを離れられなかったという[165]。
あるロシア軍の士官は、まだ戦闘中であり、ロシア軍は統制が取れているのだがオセチア人が略奪をしているのだと語っている。
別のロシア士官は「我々は警察ではなくあくまでも軍なので、警察活動をしないのだ」とも語っている[168]。
ロシアの人権団体メモリアル (Memorial (society)) は、南オセチア義勇軍の攻撃はほとんど虐殺行為のようなものだと解説している[169]。ロシア軍の占領は8月22日まで続いた[170]
アブハジア方面
「en:Battle of the Kodori Valley」も参照8月8日同日、黒海艦隊旗艦のミサイル巡洋艦「モスクワ」、カシン型駆逐艦「スメトリーヴイ」、揚陸艦、コルベット等がアブハジア沖へ派遣された。ロシア艦隊は、アブハジア沿岸のパトロール、スフミへの兵員・武器等の輸送活動に従事した。
8月10日、兵員を乗せてノヴォロシースクからスフミへ向かう揚陸艦2隻、コルベット2隻(対潜コルベットとミサイルコルベット)から成るロシア艦隊は、スフミへ入港する直前、グルジア海軍戦闘艇5隻の襲撃を受けたが、ナヌチュカIII型ミサイルコルベット「ミラーシュ」の反撃により、グルジア哨戒艇「ゲオルギー・トレリ」を撃沈、もう1隻の哨戒艇を破壊し、グルジア海軍部隊はポティへ逃走した。
これは1945年以降、ロシア海軍が海戦を行った初の事例である(アブハジア沖海戦)。
8月9日、ノヴォロシースク第7空挺師団、プスコフ第76空挺師団、黒海艦隊の第20機動ライフル部隊と2軍団からなる9,000人をアブハジアの主戦線外に配置した。その助力もあり、アブハジア軍はコドリ渓谷からグルジア軍を追い出すのに成功した。
8月10日、アブハジアは全軍を投入して、コドリ渓谷に残っていた1,000人のグルジア軍を駆逐するのに成功したと発表した[171]。
翌8月11日、ロシア軍はアブハジアに落下傘部隊を送り、グルジア支配地域の軍事施設を破壊して、グルジア軍のこの地域からの南オセチア方面への支援を防いだ。
ロシア軍はほとんど抵抗を受けることなくセナキ (Senaki) 付近のグルジア軍基地を11日中に破壊した。
ロシア軍機もセナキ基地のグルジア軍ヘリコプターを破壊している[17][172]。
ロシア軍はグルジア支配地域のポティの港湾施設も占領した[173]。
8月12日、アブハジアはグルジアに反抗してのコドリ・ゴーグ地域の軍事行動 (Battle of the Kodori Valley) を開始したと発表した[171][171]。
同日グルジア軍は、この撤退はあくまでもグルジア側に積極的な攻撃の意思が無いことを示すためであったと発表している[174]。
グルジア軍とアブハジア軍の戦闘は8月13日の終わりまで続き、コドリ渓谷のグルジア軍はそこに住む1500人のグルジア系住民と共に撤退した[175][176]。
ポティの占領
詳細は「en:Occupation of Poti」を参照
8月12日、ロシア海軍特殊部隊(スペツナズ)を乗せた揚陸艦2隻はポティ港内へ進入、停泊していたグルジア海軍のミサイル艇「ディオスクリア」「トビリシ」、その他の哨戒艇を爆破し、グルジア海軍は壊滅した。
8月14日、ロシア軍はポティに入り、軍事設備を破壊した[177][178]。
さらにポティとグルジアの首都トビリシを結ぶ高速道路も支配した[179]。
4日後、ロシア軍はポティに近づいたグルジア軍22名を捕虜とした。
この捕虜はロシア軍が占領したセナキ (Senaki) のグルジア軍基地に連れて行かれた[180]。
ロシアの英文雑誌『モスクワ防衛の真実』によると、8月13日から15日にかけてロシアのパラシュート部隊がポティに次々と降り立ち、軍事物資を外部に運び出している[17]。
6項目和平案
この地方の事実上の独立地域であるアブハジア、南オセチア、 ナゴルノ・カラバフ
アブハジアのロシア軍基地ツヒンヴァリがロシア軍に奪還された8月10日、国外の大方の見方 (International reaction to the 2008 South Ossetia War) では戦闘は終結すると思われていた[181]。
欧州連合とアメリカ合衆国は、停戦の調停に乗り出そうとした[182]。
ところがロシアは、先にグルジアが南オセチアから完全撤退して今後南オセチアとアブハジアに武力を用いないことを宣誓しなければ和平交渉に応じないとした[183]。
ゴリの町で戦闘が行われていた8月12日、ロシアの大統領メドヴェージェフは、グルジアでの軍事行動を終結するよう命令を出したとの談話を発表した。
メドヴェージェフは「作戦は成功裏に終結し、平和維持軍と民間人の立場も回復した。侵略者は多大の損害を受けて消えうせた」と語っている[184][185]。
同じ8月12日の遅く、メドヴェージェフは欧州連合の理事会議長、フランス大統領のサルコジと面談し、サルコジの提案した6項目からなる和平案に同意した。
その日の夜遅く、グルジア大統領のサアカシュヴィリも同意した[186]。
サルコジの最初の計画では、和平案は4項目だったが、ロシアが残り2項目を追加した。
グルジアは追加の2項を付帯事項にするよう要望したが、ロシアが拒絶したため、サルコジがグルジアを説得して同意に漕ぎ着けた[187]。
8月14日、南オセチアの大統領エドゥアルド・ココイトゥイとアブハジアの大統領セルゲイ・バガプシュも和平案にサインした[188]。
武力行使を用いない。 (No recourse to the use of force.) 敵対行為の完全停止。(Definitive cessation of hostilities.) 人道支援の保障(Free access to humanitarian aid) ただし「難民の帰還」(and to allow the return of refugees)については合意できなかった。 グルジア軍は開戦前の場所まで撤退する。(The Armed Forces of Georgia must withdraw to their permanent positions.) ロシアから来た軍は開戦前の場所まで撤退する。ただし国際的な対応機構ができるまではロシア平和維持軍は引き続き残る。(The Armed Forces of the Russian Federation must withdraw to the line where they were stationed prior to the beginning of hostilities. Prior to the establishment of international mechanisms the Russian peacekeeping forces will take additional security measures.) ただし「6ヶ月以内に」(six months)という文については合意できなかった。 南オセチアとアブハジアの安定策、及び最終的な平和達成について国際的な会議を開始する。(An international debate on the future status of South Ossetia and Abkhazia and ways to ensure their lasting security will take place.) ただし「国際連合及び欧州安全保障協力機構の決定に基づいて」(based on the decisions of the UN and the OSCE)という文については合意できなかった[187][189][190]。ただし停戦合意後にも戦闘は続いた。
『モスクワ防衛の真実』によると、グルジア軍の武器の鹵獲及び破壊のための攻撃は続けられ、「グルジア軍の完全非武装化」の行動が続けられた[17]。
イギリスのガーディアンの記者は8月13日、ロシア軍と非正規の軍が進軍を続けている以上「停戦がなされたと言うのはおかしい」と語っている[68]。
8月14日にはグルジアとロシアの合同警察によるゴリの治安維持も破綻した[191][192][193]。
ロイターが伝えた8月15日の情報によると、ロシア軍は戦争中とほぼ同じトビリシから55キロメートルの地点まで迫っている。
ロシア軍は重要な道路交差点であるイゴエチ(Igoeti)北緯41度59分22秒 東経44度25分04秒まで進軍した[194]。
同日、アメリカの国務長官ライスはトビリシに向かい、グルジア大統領サアカシュヴィリはその目の前で6項目の合意にサインした[195][196]。
ロシアとグルジアは8月19日に捕虜の交換を行った。グルジアによると、ロシアの軍人5人と、民間人2人を含むグルジア人15人が交換された[197][198]。
停戦後
2008年8月17日 インテルファクス通信によると、グルジアのイングリ水力発電所をロシア平和維持軍が掌握。 2008年8月20日 アメリカが人道支援を名目に、アメリカ海軍第6艦隊旗艦ブルー・リッジ級揚陸指揮艦マウント・ホイットニー、同艦隊所属アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦(イージス艦)マクファール、アメリカ沿岸警備隊所属ハミルトン級巡視船ダラスの3隻を黒海に派遣することを決定。 2008年8月21日から22日にかけて アメリカ、ドイツ、ポーランド、スペインの各国海軍の艦艇がボスポラス海峡を通峡し黒海に入った。
それぞれO.H.ペリー級テイラー、ブレーメン級フリゲートリューベック、アルバロ・デ・バサン級フリゲート(イージス艦)アルミランテ・ファン・デ・ボルボーン、O.H.ペリー級ゲネラウ・カジミェシュ・プワスキであり、黒海での演習を行いブルガリアやルーマニアの港湾に寄航する予定である。
NATOは、これら艦艇の派遣は2007年10月時点で計画されていたものであり、今回の紛争とは関係無いとしているが、ロシア側は「情勢安定化につながるとは思えない」と懸念を示している [5][6][7]。
2008年8月22日 ロシアが南オセチアとアブハジア以外のグルジア領内からの軍の撤退を完了したと発表。
ただし、アメリカ、フランス、グルジアなどはまだロシア軍がグルジア領内に残っていると反論。
ロシアによる南オセチアとアブハジアの独立承認
2008年8月25日 ロシア上院が全会一致で南オセチアとアブハジアの独立を承認するようメドヴェージェフ大統領に求める決議。 2008年8月26日 メドベージェフ大統領が南オセチアとアブハジアの独立を承認。ロシアにグルジアの領土保全の意思がないことが明らかに。この一方的な独立に対する西側諸国の批判に対してメドベージェフ大統領は「欧米諸国はコソボ(の独立)は特殊な例だと説明してきたが、南オセチアやアブハジアも同様だ。我々は欧米がコソボ独立を承認したのと同様に行動したまでだ」と述べた[199]。 2008年8月27日 ロシア海軍黒海艦隊のスラヴァ級ミサイル巡洋艦モスクワおよび1241型大型ミサイル艇R-334イヴァーノヴェツとR-109は、アブハジア共和国首都スフミへ入港した。同日、ノヴォロシースク海軍基地司令官セルゲイ・メニャイロ中将は、スフミで記者団に対し「ロシア海軍は、黒海東部海域において、これ以上艦艇を増大しない」と伝えた。 2008年8月28日 プーチン首相が米CNNに対し「武力衝突は大統領選で(ロシアへの強硬姿勢で知られる)共和党マケイン候補を有利にする為に、ブッシュ政権がグルジアを煽ったものだ」[注釈 2] と厳しく米国を批判した[200]。
国交断絶
2008年8月29日 グルジアがロシアと断交。 2008年9月3日 グルジア議会が、8月9日に宣言された「戦時状態」を解除。南オセチアやアブハジアなどの一部地域では「非常事態」を宣言[201]。 2008年10月22日 南オセチアの新首相に、2006年までソ連国家保安委員会(KGB)やロシア連邦保安庁(FSB)に所属していたアスランベク・ブラツェフが就任[202]。 2009年2月23日 ロシア政府の批判者ならびに軍事アナリストであるパーウェル・フェルゲンハウアーが、南オセチアに作られたロシア軍の基地からサアカシュヴィリ政権を倒すためにロシアがグルジアに侵攻する予定であると主張した[203]。 2009年5月5日 グルジアで軍によるクーデター未遂事件が発生。クーデター勢力はロシアの支援を受けていたとされる[204]。 2009年6月19日 グルジア軍兵士がロシアへ亡命。その兵士の話によると、グルジアはロシアとの戦争に備えているという[205]。 2009年6月29日 ロシア軍がグルジアに隣接する北カフカス地方で大規模軍事演習を開始。2008年の戦争はロシア軍の大規模軍事演習直後に発生した。パーウェル・フェルゲンハウアーは「ロシア軍は軍事演習を利用して新たな戦争を準備している」と述べた[206]。 2012年3月2日 ロシアとグルジアの断交状態が続く中、ロシア政府がグルジア側に対して外交関係の回復を提案[207]。
脚注
[脚注の使い方]注釈
^ 「ロシア・グルジア戦争」の英語表記としては Russia-Georgia War[48]、Russo-Georgian War[49]がある。 ^ 正しくはグルジア紛争の原因について、「米大統領選で、候補者のうちの一人を有利にするために米国の誰かがわざと起こした疑惑がある」と述べた。
出典
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参考文献
木村汎「グルジア-ロシア紛争が生んだ亀裂」2008/11/07、イミダス、集英社
関連項目
新冷戦 カティア・ブニアティシヴィリ:ジョージア出身のピアニスト。本紛争に端を発し、ロシア国内およびゲルギエフなどのプーチン政権に肯定的な演奏家との共演を拒否している。 オーガストウォーズ
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、南オセチア紛争 (2008年)に関連するカテゴリがあります。
ウィキニュースにはグルジアに関連するニュースのカテゴリがあります。『南オセチヤ紛争』 - コトバンク 表話編歴
ポスト冷戦時代のヨーロッパの紛争
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カテゴリ:
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キール (ドイツ)
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紋章 地図
Wappen Kiels Lage der kreisfreien Stadt Kiel in Deutschland
基本情報
連邦州: シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州
郡: 郡独立市
標高: 0 から 74.2 m
面積: 118.6 km²失業率: 11.1 % (2008年9月現在)
人口:
246,243人(2021年12月31日現在) [1]人口密度: 2,076 人/km²
市外局番: 0431
郵便番号: 24103-24159 (旧: 2300)
ナンバープレート: KI
自治体コード: 01 0 02 000
市庁舎の住所: Fleethörn 9
24103 Kiel
ウェブサイト: http://www.kiel.de
行政
上級市長: Ulf Kämpfer [2]
多数派政党: SPD/Grüne座標: 北緯54度19分31秒 東経10度8分26秒キール(ドイツ語: Kiel, ドイツ語発音: ˈkiːl)は、バルト海に面したドイツ北部の都市。シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の州都で最大の都市である。人口は約24万人。
キールは、ハンブルクのおよそ90キロメートル (56 mi)北、フレンスブルクの70キロメートル (43 mi)南東、リューベックの60キロメートル (37 mi)北西に位置する。
ドイツ北部の、ユトランド半島の南東、バルト海の南西という地理的条件により、キールはドイツ海事の中心地の1つとなった。
また、国際セーリングイベントでも知られ、世界最大のセーリングイベントのキール・ウィーク(英語版)も開催される。ベルリンオリンピックやミュンヘンオリンピックでは、セーリング競技がキールで開催された[3]。
地勢
キール湾は地形的にはフィヨルドであり、水深が深く港の立地に適している。
しかし、北海に出るためにはユトランド半島を大きく迂回しなければならなかった。この不便を解消するため、1895年にキール湾と北海を直通するキール運河が掘削された。キール運河は、国際航路で、ヨーロッパの重要輸送ルートである。
歴史
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出典検索?: “キール” ドイツ – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2016年3月)1233年から1242年の間にシャウエンブルク家のアドルフ4世により建設される。
キール周辺のみがザクセン領であり、西と北はデンマーク領で、東にはスラブ系民族が住んでいた。
町の中心に位置する修道院とニコライ教会はこの頃の設立。
1283年にハンザ同盟に加入するもフレンスブルクとリューベックとに挟まれ商業都市として発展することはなかった。
1329年に町の城壁が建設されてから16世紀末まで町は現在の旧市街のあたりに限定される。
1460年にデンマークによって併合され、1544年にデンマーク王家の分家ホルシュタイン=ゴットルプ家のホルシュタイン=ゴットルプ公領の首都となる。
1665年にクリスチャン・アルブレヒトによりキール大学が設立される。ホルシュタイン=ゴットルプ家からは1751年にスウェーデン王家、1762年にロシア帝国の皇帝ピョートル3世が出ている。
1773年よりデンマーク王がホルシュタイン=ゴットルプ公を兼ねた。
第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争と普墺戦争を経て、1866年にプロイセン王国へと併合された。
1918年、第一次世界大戦の末期に、この地の軍港で起こった水兵の反乱が各地に広がり、ドイツ革命へと至る。
第二次世界大戦では市街の80%以上が破壊された。戦後、修復作業が進められたが、取り壊されて現代的な街並みに変わってしまった地区もあり、かつての風情は取り戻していない。
1902年のキール港のパノラマ(2枚のポストカード)
観光
旧市街の俯瞰
ホルステン通りは、ドイツで最も長い商店街の1つ
市内で最も古い建築物は、13世紀の聖ニコラス (Nikolaikirche) 教会であり、前にはGeistkämpferと呼ばれるエルンスト・バルラハによる彫刻がある。キールは、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の商業の中心地であり、旧市街は主要な観光地となっている。キールのホルステン通り(Holstenstraße) は、ドイツで最も長い商店街である。町役場 (Rathaus) は、1911年に建造され、パーテルノステルやタワーのデザインは、ヴェネツィアの基礎の1つとなった。町役場の前の広場には、湖とオペラハウスが隣接する。町の中心には、湖や公園が数多くあり、例としてSchreven公園 (Schrevenpark) がある。旧植物園(英語版)と新植物園(英語版)の2つの植物園が存在する。
キールは、海に近く、北にはシュトランデ(英語版)、キール=シルクセ、Möltenort(英語版)、ラーボエ(英語版)といったビーチがあり、春と夏には人気の場所となる。
キール・ウィーク(英語版) (Kiel Regatta) は、世界最大のセーリングイベントであり、毎年6月最終週に行われる。すべての種類、時代の何千ものボートがパレードに参加する。キール・ウィークは、海事イベント、フォルクスフェスト(英語版)、フェアでもある。
キールには、多くのスポーツ会場があり、最も著名なのは、世界で最も成功したハンドボールクラブの1つであり、多数のドイツチャンピオンを獲得したTHWキールが本拠とするスパルカッセン・アリーナ(英語版)(以前はバルト海ホール (Baltic Sea Hall) やオストゼーホール (Ostseehalle) として知られていた)である。
キールには、現在ブンデスリーガサッカークラブは存在しないが、ホルシュタイン・キールは、ホルシュタイン・スタディオン(英語版)でプレイする。絵のような風景に、多くのヨット、セーリングクラブがある。
さらに、キールには多くの博物館があり、動物学、地質学、歴史、美術、産業及び軍事博物館が含まれる。有名なのは、市海事博物館 (Stadt- und Schifffahrtsmuseum Warleberger Hof) であり、museen am meer協会に属している。絵画のある漆喰の天井のある16世紀からの建築、歴史的な部屋の保存に加え、19、20世紀の都市・文化的展示品を展示する[4]。特に興味深い展示は、キールのカーニバルの歴史についてである[4]。ラーボエには、第二次世界大戦の潜水艦、U995のある人気の観光地、ラーボエ海軍記念碑がある。
エルンスト・バルラハによるNikolaikircheの前のGeistkämpfer
エルンスト・バルラハによるNikolaikircheの前のGeistkämpferキール・オペラハウス(英語版) (Opernhaus Kiel) と市庁舎 (Kieler Rathaus)
キール・オペラハウス(英語版) (Opernhaus Kiel) と市庁舎 (Kieler Rathaus)Holstenstrasse Kiel (1917年、ウィリー・ルーカス)
Holstenstrasse Kiel (1917年、ウィリー・ルーカス)キール・ウィークの帆船
キール・ウィークの帆船キール旧植物園
キール旧植物園ラーボエのU995
ラーボエのU995市海事博物館 (Warleberger Hof)
市海事博物館 (Warleberger Hof)冬の植物園
冬の植物園オペラハウス
オペラハウス
経済キール港
キールの経済は、サービス業、交通、海事産業が主である。
また、ドイツ海軍の主要港の1つであり、軍事、造船においてドイツの最先端にあり、中心となっている。
キールには、1838年に設立された造船所で、潜水艦の構築で知られるホヴァルツヴェルケ=ドイツ造船が置かれる。HDWは、最初のドイツ潜水艦、ブラントタオハー(英語版)を1850年に建造し、今日では、ドイツの造船所主要グループである、ティッセンクルップ・マリン・システムズの子会社になっている。
2005年時点で、1人当たりのGDPは€35,618であり、ドイツ平均を大幅に上回っており、ヨーロッパ連合平均の159%である[5]。
2005 ユーロスタット[6] 1人当たりのGDP
キール €35,618
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の旗 シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州 €24,250
ドイツの旗 ドイツ €27,219
欧州連合の旗 EU27 €22,400交通
キール中央駅(英語版)は、ハンブルク、リューベック、フレンスブルク及びフースム(英語版)方面の列車が発着する。さらに、ICE (Intercity-Express)の乗り入れもあり、ベルリン、フランクフルト、ケルン、ミュンヘンを結んでいる。
キール港は、ドイツからスカンジナビア、バルト三国、ロシアへ向かう旅客船、貨物船の重要な港である。旅客フェリーは、スウェーデンのヨーテボリ(ステナライン、毎日、所要13.5時間)、ノルウェーのオスロ(カラーライン(英語版)、毎日、所要19.5時間)、リトアニアのクライペダ(DFDSリスコ(英語版)、毎週6便、所要21時間)へ運行されている。また、貨物フェリーは、ロシアのサンクトペテルブルク(DFDSリスコ(英語版)、毎週2便)、カリーニングラード(NSA、毎週1便)へ運行されている。
最も近い国際空港は、ハンブルク空港で、キールのおよそ90キロメートル (56 mi)南に位置する。ハンブルクとキール中央駅の間では、シャトルバス(KIELIUS)が運行されている。
A7(英語版)は、主要なヨーロッパ高速道路で、北ヨーロッパ、中央ヨーロッパと南ヨーロッパを結んでいる。
出身人物
ピョートル3世 (1728–1762)
マックス・プランク (1858–1947)、物理学者
トマ・アブツ(英語版) (1964-) – 画家
カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー (1912–2007) – 哲学者、物理学者
ブリッタ・カールソン(英語版) (1978-) – 女子サッカー選手
クリスティーナ (1573-1625) – スウェーデン王妃
オットー・クレッチマー (1912-1998) – Uボート指揮官
アンドレアス・ケプケ (1962-) – サッカー選手
オズヴァルト・コーレ(英語版) (1928–2010) – 性教育者
フランシスコ・コパド(英語版) (1974-) – チェス選手
カール・ツックマイヤー (1896–1977) – 劇作家
ピョートル3世 (1728–1762) – ロシア皇帝
エルンスト・ブッシュ (1900–1980) – 俳優
マックス・プランク (1858–1947) – 物理学者
アルフレッド・ブリンクマン(英語版) (1891–1967) – チェス選手
ジュディス・マリナ (1926-2015) – 女優
マライ・メントライン(英語版) (1983-)
アウグスト・レスキン(英語版) (1840–1916) – 言語学者
パウル・ローレンツェン(1915–1994) 哲学者、数学者、論理学者
姉妹都市
フランスの旗 ブレスト、フランス(1964年)
イギリスの旗 コヴェントリー、イギリス(1947年)
フィンランドの旗 ヴァーサ、フィンランド(1967年)
ポーランドの旗 グディニャ、ポーランド(1985年)
エストニアの旗 タリン、エストニア(1986年)
ドイツの旗 シュトラルズント、ドイツ(1987年)
ロシアの旗 カリーニングラード、ロシア(1992年)
ロシアの旗 ソヴィェツク、ロシア(1992年)
トルコの旗 サムスン、トルコ(2010年)
脚注
^ Statistikamt Nord – Bevölkerung der Gemeinden in Schleswig-Holstein 4. Quartal 2021 (XLSX-Data)
^ Oberbürgermeister Dr. Ulf Kämpfer
^ “General Information”. Kieler Woche. 2005年12月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年3月13日閲覧。
^ a b “Kieler Stadtmuseum Warleberger Hof”, City of Kiel webpage, in German
^ GDP per person 2005 in Euro
^ “Regional GDP per inhabitant in the EU 27” (PDF). Eurostat. 2008年8月19日閲覧。
関連項目
デンマーク王国
ホルシュタイン=ゴットルプ家
キール条約
ドイツ連邦共和国
ヴァイマル共和政
第一次世界大戦
キール市電(廃止)
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紋章 地図
Wappen der Kreisfreien Stadt Wilhelmshaven Lage der kreisfreien Stadt Wilhelmshaven in Deutschland
基本情報
連邦州: ニーダーザクセン州
郡: 郡独立市
緯度経度: 北緯 53度31分
東経 8度8分
標高: 海抜 約 2 m
面積: 106.91 km²
人口:
75,027人(2021年12月31日現在) [1]人口密度: 702 人/km²
失業率: 12.3% (2006年7月現在)
郵便番号: 26351 – 26389 (旧: 2940)
市外局番: 04421, 04423
ナンバープレート: WHV
自治体コード: 03 4 05 000
市の構成: 27 地区このうち一つは区議会を持つ自治区である
市庁舎の住所: Rathaus
26380 Wilhelmshaven
ウェブサイト: http://www.wilhelmshaven.de
行政
上級市長: エーベルハルト・メンツェル (Eberhard Menzel) (SPD)ヴィルヘルムスハーフェンのヴィルヘルム皇帝橋
ヴィルヘルムスハーフェン(独: Wilhelmshaven)はドイツ連邦共和国の都市。ニーダーザクセン州に属する。人口はおよそ8万5千人。
地勢・産業
北海に面しており、19世紀より軍港として栄えた港湾都市。近隣の都市として、30キロほど東にブレーマーハーフェン、50キロほど南にオルデンブルク、100キロほど南東にブレーメンなどがある。港のコンテナ取扱量は、ハンブルク、ブレーマーハーフェンに次いでドイツ第3位。
歴史
オルデンブルク大公国の領土だったが、1853年の条約に基づいてプロイセンが買収した。プロイセンはこの地に軍港を建設し、プロイセン海軍の重要な拠点とした。ヴィルヘルムスハーフェンという地名は、1871年に成立したドイツ帝国の初代皇帝、ヴィルヘルム1世にちなんだものである。
第一次世界大戦末期の1918年10月末、ヴィルヘルムスハーフェンにドイツ艦隊が集結した。指導部は、敗北が決定的になったにもかかわらず、敗戦後の交渉を有利に導くためイギリス艦隊への出撃を命じた(いわゆる「提督たちの反乱」)。これに対し、水兵たちは出撃を拒否し不穏な状況となった。抗議行動を続けていた一部の艦隊の水兵はキール軍港へ上陸、11月3日に大規模な反乱を引き起こし、ドイツ革命へと至った。
1956年以来、この地には北大西洋条約機構(NATO)の海軍基地が置かれている。
年表 ヴィルヘルムスハーフェン(Wilhelmshaven)の発展
年 ヴィルヘルムスハーフェン(Wilhelmshaven) ヘッペン(Heppens) ノイエンデ(Neuende) バント(Bant) ゼングヴァルデン(Sengwarden)
1869 ヴィルヘルムスハーフェンと命名 ヘッペン ノイエンデ – ゼングヴァルデン
1873 ヴィルヘルムスハーフェンが市に昇格
1879 ヴィルヘルムスハーフェン バント市が誕生
1911 三地域が合併してリュストリンゲン(Rüstringen)
1937 リュストリンゲン(Rüstringen)と合併
1938 クナイプハウゼン(Kniphausen)を併合して拡大
1948 ヴィルヘルムスハーフェン フェッデルヴァルデン
→ ゼングヴァルデン
1972 ゼングヴァルデンを併合して拡大姉妹都市
フランスの旗ヴィシー、フランス
アメリカ合衆国の旗ノーフォーク、アメリカ合衆国
ダンファームリン、スコットランド、イギリス
中華人民共和国の旗青島、中華人民共和国
ドイツの旗バート・ハールツブルク、ドイツ
ポーランドの旗ブィドゴシュチュ、ポーランド
出身有名人
詳細は「Category:ヴィルヘルムスハーフェン出身の人物」を参照
関連項目
SVヴィルヘルムスハーフェン
新世紀エヴァンゲリオン 作中、ドイツで建造されたエヴァ弐号機は、ここから日本へ向け移送された
引用
^ Landesamt für Statistik Niedersachsen, LSN-Online Regionaldatenbank, Tabelle A100001G: Fortschreibung des Bevölkerungsstandes, Stand 31. Dezember 2021
外部リンクウィキメディア・コモンズには、ヴィルヘルムスハーフェンに関連するカテゴリがあります。
街の公式ホームページ(ドイツ語)
ドイツ海軍博物館(ドイツ語)
典拠管理データベース ウィキデータを編集
表話編歴
ニーダーザクセン州の郡独立市および郡
カテゴリ: ヴィルヘルムスハーフェンドイツの主要都市ドイツの計画都市ニーダーザクセン州の行政区画ヨーロッパの港町
最終更新 2023年4月2日 (日) 06:38 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。
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出典検索?: “アイルランドの歴史” – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2009年10月)
曖昧さ回避 この項目では、「イギリスの歴史」の中でアイルランド島に関する歴史について説明しています。その他の地域については「 イングランドの歴史、ウェールズの歴史、スコットランドの歴史」をご覧ください。アイルランド島の衛星写真
アイルランド島はヨーロッパの北西、ブリテン島の西に位置するアイルランドの歴史(アイルランドのれきし)では、ヨーロッパ北西部に位置するアイルランド島における歴史を記述する。アイルランド史は隣り合うブリテン島におけるイギリスの歴史から多大な影響を受けてきた。近年の歴史学研究においては、イングランド、スコットランド、ウェールズの歴史とあわせて、ブリテンの歴史というカテゴリも用いられている。
概説
アイルランド島に初めて人類が居住したのは、紀元前7500年ごろ旧石器時代であるとされる。
紀元後600年ごろにキリスト教布教がおこなわれ、それまで信仰されていた多神教は駆逐された。
アイルランド語(ゲール語)は古代より島に居住した人々が用いてきた固有の言語であるが、ヴァイキングやノルマン人による影響も存在する。
イングランドによるアイルランドの植民地化は1169年のノルマン人侵攻に始まった。
イングランド王がアイルランド島の完全な支配権を手に入れるには1534年から1691年に至るまで多くの遠征を必要とした。
1782年から1800年にかけて、アイルランドは限定的な自治権を獲得したが、少数派の国教徒に対して大多数を占めるカトリックは刑罰法(Penal Laws、アイルランド語: Na Péindlíthe)によって厳しい差別を受けていた。
1798年の反乱鎮圧の後、イングランドはアイルランドの完全な植民地化を完成させる道を急ぐことになる。
1801年にはアイルランド議会が廃止され、アイルランドは連合法のもとグレートブリテンおよびアイルランド連合王国の構成国となり、完全に英国に併合された。
併合により幾分かのカトリック教徒の地位向上政策などが行われたが、経済・貿易の中心がロンドンへと移行したためアイルランド経済は更に停滞した。
1840年代にはジャガイモ飢饉が発生、飢餓や移民などにより1840年のピーク時には800万人を数えた人口は1911年に440万人にまで減少した。
第一次世界大戦後の1922年アイルランド独立戦争が発生した。
英愛条約による講和によって南部・西部アイルランドの26地方がイギリス・アイルランド連合王国から分離し、新たにアイルランド自由国を建国した。
1937年には名称をアイルランド(エール)と変え今にいたるが、一般的にはアイルランド共和国と呼称されている。
アイルランド島の残余部、プロテスタントが人口の過半数を占めていた北アイルランド6県は1922年の独立以後もイギリス統治下にとどまった。
アイルランド経済は独立以後の何十年もの間、経済不況と移民による人口減少に苦しみ続けたが、1990年代に入りアメリカのIT企業などからの積極的な投資を受け、ケルトの虎と称される経済の活況を呈するようになった。
一方北アイルランドでは、カトリック教徒が多数を占めるアイルランド民族主義者(ナショナリスト)とイギリスとの連合主義者であるプロテスタント(ユニオニスト)との対立がたびたび激化し、1960年代からはトラブルと称される北アイルランド問題が30年にわたり続いたが、現在は平和的解決へ向けて話し合いが進んでいる。
先史時代・古代の歴史(紀元前8000年 – 400年)
主要記事:Early history of Ireland
キリスト教布教以前のアイルランド人に関する記述はわずかしか残されていない。
古代ローマの記述家によるアイルランドの詩、神話などが残されている。
アイルランドにはじめて人類が居住したのは紀元前8000年頃、石器時代から中石器時代にかけ氷河が後退し気候が温暖になった以降である。
その頃の人々はヨーロッパ先住系のハプログループI (Y染色体)に属す人々と考えられる。
それから3000~4000年後には大陸から農業が導入され、ニューグレンジなどの巨石記念物に代表される新石器文化が繁栄した。
この農耕と巨石文明をもたらしたのはハプログループG2a (Y染色体)に属す人々と考えられる[1][2]。
現在痕跡が残る程度のこれらの文化は当時非常に栄えアイルランド島の人口も増加した。
紀元前2500年に始まる青銅器時代には金、青銅製の装飾品が多くつくられ、現在もその遺物を見る事ができる。この頃にはケルト系ハプログループR1b (Y染色体)が到達したと考えられる[3]。アイルランドにおける鉄器時代は紀元前600年に始まった。431年以降にはTuisceart、Airgialla 、Ulaid、Mide、Laigin、Mumhain、Cóiced Ol nEchmachtなどの王国が騒乱を繰り返した。
これらの王国は僧侶(ドルイド)たちにより支配されていた。ドルイドは教育者、科学者、詩人、占い師、法と歴史の担い手として働いていた。
イギリス、アイルランドの歴史家たちは、これらの古代アイルランド人の用いた言語はケルト語の一分派であるゲール語であり、古代のケルト族の侵攻によりアイルランドに定着したと考えてきた。
しかし20世紀に入りアイルランド固有の言語、文化は周囲から独立して発展してきたとする学説が台頭してきた。
これはケルトの侵攻を証明するような考古遺跡がいまだ発見されていないことを根拠としている。
近年おこなわれた遺伝学的調査からは、ケルト文化は後期青銅器時代に次第に吸収されたという仮説が支持されている。
ローマ人はアイルランドをヒベルニアと呼称していた。
また、プトレマイオスはアイルランドの地理、種族を記している。
アイルランドはローマ帝国に属することこそなかったものの、ローマから多大な文化的影響を受けていた。
タキトゥスはアイルランドの族長たちがブリテン島のアグリコラと同盟し、アイルランドの支配権を取り戻したと記している。
一方ユウェナリスによるとローマの支配はその国境を越え広がっていたとされる。
ローマ帝国が軍を進めていたならば、アイルランドにおける抵抗はたちどころに粉砕されたと思われる。
ローマとヒベルニアとの関係については現在も不明な部分が多い。
初期中世時代(800年 – 1167年)
主要記事:Early Medieval Ireland 800-1166
アイルランドの初期中世はヴァイキングの一派であるノルマン人の侵入から始まる。
9~10世紀はバイキングの来寇と後続のノース人が海岸に定住を開始した。
なかでも巨大な街となったのは、ダブリン、ウェックスフォード、コーク、リムリックといった街であった。
当時のアイルランドは半独立状態のツアサ(英語版)が複数存在し、アイルランド全土統一を目指して各ツアサによる内乱が続いていた。
9世紀から11世紀は北部を支配するアイルランド上王と南部を支配するウィ・ネイル朝(英語版)が分立していた。
ブライアン・ボルはウィ・ニールをアイルランド上王から引きずり下ろすと、マンスター王位継承とレンスター征服により、はじめて全島統一を達成した。
中世後期(1167年 – 1360年)
主要記事:Norman Ireland
ノルマン人の侵入
クィン付近の塔12世紀までに、アイルランド島は大小様々な王国によって分割統治されるようになっていた。
それらの内の一つレンスター王Diarmait Mac Murchada(英語名Diarmuid MacMorrough)は新たな上王Ruaidri mac Tairrdelbach Ua Conchobair指揮下の連合軍によって自身の王国から追放されていた。
彼は王国を取り戻すためにヘンリー2世の許可を得てノルマン人の協力をあおぐことにした。
1167年に1人目のノルマン人騎士Richard fitz Godbert de Rocheがアイルランドに上陸し、その後1169年にはウェールズおよびフランドルからのノルマン人主力部隊がウェックスフォードに到着した。
彼らの働きによりレンスター王国は復興し、ダブリンとウォーターフォードがレンスター王の支配下に入った。
王はノルマン人貴族のリチャード・ド・クレア(ストロングボウ)を養子にすえて自身の後継者としたが、これにはイングランドのヘンリー2世が反発した。
アイルランドにイングランドと相対するノルマン人王朝ができることに不安を持ったヘンリーはアイルランド侵攻を決意した。
ヘンリーは軍を率いて1171年にウォーターフォードに上陸し、アイルランド島へ上陸した初のイングランド王となった。
ヘンリーはウォーターフォードとダブリンを王領都市として宣言し、自身の息子ジョンにアイルランドの支配権Dominus Hiberniae(Lord of Ireland, アイルランド卿)を与えた。
ジョンが兄リチャード1世の後を継いでイングランド王位を継承すると、アイルランドもイングランド王国の支配下に入った。
アイルランド卿領
シャノン川沿いのジョン王の居城(12世紀建築)ノルマン人はアイルランド島の東岸地域ウォーターフォードから東アルスターまでを支配下においていた。
これらの地域のアングロ・ノルマンの伯爵たちはダブリンやロンドンからは独立していた。
アイルランド卿(Lord of Ireland)としてアイルランドを訪問したジョン王はこれらの伯爵家の軍事および統治上での独立を承認した。
その他のノルマン人貴族はジョンのもとに忠誠を誓っていた。
ゲール化とイングランドの後退
1315年にスコットランドのエドワード・ブルース(スコットランド王ロバート1世の弟)がゲール人の反イングランド貴族を味方につけてアイルランド王に推戴され、アイルランドに侵攻した。
エドワードが敗退するまでにダブリンを中心として多くの都市が破壊された。しかしこの戦乱を利用して、アイルランド人貴族たちはイングランドの占領によって奪われた土地の多くを取り戻した。
黒死病
1348年にアイルランドに上陸し、都市に住む植民者達の人口を激減させた1348年にはペスト(黒死病)がアイルランドへと伝染した。
主に田舎に住んでいたアイルランド人に対して、イングランド人やノルマン人の多くは都市部に居住していたため、ペストにより大きな犠牲を出した。
キルケニーの修道院に伝わる記録では、黒死病は“人類の絶滅と世界の終わりの始まり”であると書かれている。
ペストが去った後にアイルランド語とアイルランド土着の文化が一時的に勢力を取り戻した。この時期の英語圏はダブリン周辺のペイル地域のみに縮小している。
ペイル以外のアイルランドでヒベルノ・ノルマン人貴族はアイルランド語とその風俗を取り入れていた。
かれらはOld Englishと呼ばれ、「本来のアイルランド人よりもさらにアイルランド的である」と言われた。
以後の数世紀にわたり、彼らはイングランドとアイルランドとの対立の前面に立ち、カトリックの信仰を守り続けることになる。
イングランドはアイルランドのゲール化を憂慮し、キルケニーで開催した議会においてイングランド人がゲールの服を着、アイルランド語を話すことを禁止したが、ダブリンにおける行政府の権威が小さかったためこの命令はほとんど効果をあげなかった。
15世紀の後半にはイングランドで薔薇戦争が勃発し、アイルランドにおけるイングランドの影響力はほぼ消失した。
アイルランドにおける権威はキルデア伯フィッツジェラルド家が一手に握っていた。
宗教改革とプロテスタント支配の強化(1536年 – 1801年)
主要記事:Early Modern Ireland 1536-1691
1536年、イングランド国王ヘンリー8世により教皇権が否定されると、その影響はアイルランドにも大きな変化を与えることになった。
ヘンリーの息子のエドワード6世の時代に改革はさらに進み、イングランドの教会はカトリック教会からの完全な独立を果たした。
イングランドとウェールズ、後にはスコットランドがプロテスタンティズムを受け入れたのに対して、アイルランドではカトリックの教義をかたくなに守り続けた。
プロテスタントとカトリックの対立は、その後のイングランドによるアイルランド再占領と植民地化による対立を激化させることになった。
再占領と叛乱
当時アイルランドを統治していたキルデア伯フィッツジェラルド家はイングランドと協力関係にあったが、15世紀にはブルゴーニュ人部隊をダブリンに呼び寄せ、僭称者ランバート・シムネルをヨーク家の末裔としてイングランド王に即位させていた。
1536年にトーマス・フィッツジェラルドが叛乱を起こすと、叛乱を鎮圧したヘンリー8世はアイルランドを完全にイングランドの統治下におさめることを決意した。
ヘンリーは、それまでイングランド王のアイルランド君主としての称号であったアイルランド卿に代えて、アイルランドの有力諸侯が認めないにもかかわらずアイルランド王を称した。
イングランドによる支配権拡大にはその後、100年余りの時間が費やされた。
このイングランドによる再占領は、エリザベス1世とジェームズ1世の時代に一応完了した。
幾度かに及ぶアイルランドの叛乱を鎮圧すると、ダブリンに置かれたイングランドの行政府の全島に及ぶ支配権は確実なものになった。
16世紀中期から17世紀にかけてはイングランドの植民地化が進行した。
スコットランドとイングランドからの入植者がマンスター、アルスター地方へと移住し、カトリック刑罰法によりアイルランドの特権階級を形成した。
内戦とカトリック刑罰法
オリバー・クロムウェル
1649年から1651年にかけての遠征によりアイルランドの植民地化が進んだ17世紀はアイルランド史のなかで最も血塗られた時代である。
アイルランド同盟戦争(英語版)(1641年 – 1653年)、クロムウェルのアイルランド侵略(1649年 – 1653年)、ウィリアマイト戦争(1689年 – 1691年)により人口は激減、カトリックに対する刑罰法(Penal Laws)によってカトリックの地主階級が凋落し、差別が固定化する事になった。
17世紀中期のアイルランドでは、キルケニー同盟が蜂起したアイルランド反乱(英語版)(1641年)に端を発するアイルランド同盟戦争(1641年 – 1653年)が発生していた。
この戦争によりカトリック教徒はアイルランドの支配権を取り戻したが、1649年のオリバー・クロムウェルが率いた植民地主義的な侵略、いわゆるアイルランド遠征によってそれも終わりを告げた。
このイングランドによる侵略が引き金となり、アイルランドの人口の3分の1が死亡するか亡命したとされる。
1641年の反乱への懲罰として、ほぼ全てのカトリック地主の土地が没収され、イングランド人入植者へと与えられた。アイルランド人の地主たちはコノート地方へと移住させられた。
ジェームズ2世
ジャコバイトとして知られるアイルランドのカトリックたちはジェームズに味方し1689年から91年まで戦った
1689年、アイルランドは名誉革命の舞台となった。
カトリック教徒であるジェームズ2世がイングランド議会により廃位され、オランダ総督・オラニエ公ウィレム3世がウィリアム3世として即位すると、アイルランドのカトリックはジェームズを支援してイングランド王位に復位させようと試みた。
このウィリアマイト戦争でアイルランドはカトリックとプロテスタントに二分して相争ったが、1690年にボインの戦いでジェームズ軍が敗れると、アイルランドでもプロテスタント支配が強化され、カトリック刑罰法も以前に増して厳しく施行されるようになった。
国外植民地としてのアイルランド
主要記事:Ireland 1691-1801
アイルランド人のイングランドへの不満は植民地支配により経済情勢が悪化するにつれ激しさを増していった。
適当な地主の不在により農業生産は輸出品中心となり、国内消費に必要な農産物は不足した。
1740年代には2年にわたる寒波がアイルランドを襲い、アイルランド大飢饉と呼ばれる飢饉により40万人もの農民が死亡した。
イングランドの貿易法によってアイルランドの輸出物が関税をかけられるのに対して、イングランドの製品は無関税でアイルランドに流入した。
アイルランド人のカトリック信仰は続いていたが、17世紀には大きな反乱などが生じることはなかった。
18世紀になると、プロテスタントの特権階級の間でアイルランド人としての意識が芽生え始めた。
さらに1775年に勃発したアメリカ独立戦争の対処に追われたイギリスは、アイルランドに対して強硬策がとれなくなった。
こうした中、ヘンリー・グラタンにより率いられた党派は、イギリスとの貿易不均衡の改善やアイルランド議会の尊重を訴え、事実上立法権を回復させるなど、アイルランド議会の地位を向上させた。こうしたことから、この時期の議会はグラタン議会とも称される。
しかし、アイルランド人の結束が一枚岩であったわけではない。当時のアイルランド議会はプロテスタント系地主が中心であり、多くの人々はカトリック教徒の政治参加など一層の議会改革を求めていた。
1789年にフランス革命が勃発すると、アイルランドにおいても革命政権との連携を通じて急進的改革を図ろうとする動きがあり、革命の波及を恐れた英首相ウィリアム・ピットまでが、カトリック教徒の政治参加に理解を示す妥協的姿勢をみせた。
こうして、アイルランド議会のプロテスタント勢力は孤立し、イギリスへの完全併合をむしろ必要とするようになった。
一方1791年にはウルフ・トーンによって、信教の自由とイギリス支配からの独立を掲げるユナイテッド・アイリッシュメンが設立された。
この活動は1798年の反乱により頂点を迎えたが、タラの丘での戦闘などでイギリス軍により鎮圧された。
アイルランドで高まったフランス革命への共感は、フランスと対立するイギリス政府の大きな懸念材料となり、その解決策としてアイルランド併合が指向された。
カトリック教徒解放という公約を示した上で、1800年にグレートブリテン議会とアイルランド議会で連合法が可決され、翌1801年にグレートブリテンおよびアイルランド連合王国が成立し、アイルランドは国外植民地としての自主性も失い、完全にイギリスに併合された。
しかし、国王ジョージ3世の強硬な反対などもあり、カトリック教徒解放の公約は留保され続けた。
イギリス併合時代(1801年 – 1922年)
主要記事:イギリス併合時代のアイルランド
ダニエル・オコンネル
1801年、前年に可決された連合法を受けて、アイルランド王国はグレートブリテン王国(1707年にイングランド王国とスコットランド王国が連合して成立)へ併合され、グレートブリテンおよびアイルランド連合王国が発足した。
連合法可決前にアイルランドへの譲歩として約束されていたカトリック教徒やプレスビテリアンへの政治的差別解消は、当時のイギリス国王ジョージ3世の反対などもあり実現が遅れた。
結局、アイルランドの地位向上はナポレオン戦争の終結後となった。
「カトリック教徒協会」を率いたダニエル・オコンネルらの尽力によって1828年に審査法が廃止され、1829年にカトリック教徒解放法が定められた。
イギリスに完全に併合されたとはいっても、実際はそれ以前からイギリス国王がアイルランド国王を兼ねていたため、植民地であることには変わりなかったが、形式上連合王国の一員となったことで更なるイギリスへの同化圧力が加えられることになった。
1845年から1849年にかけてはアイルランドをジャガイモ飢饉が襲い、アイルランドからのアメリカ合衆国などへの移民を促進させる原因となった。飢饉以前に800万人を数えた人口は、1911年には410万人にまで減少している。
アイルランドの人口減少
1841年 – 1851年アイルランド語の使用は19世紀に急激に減少した。これは飢饉の影響に加え、イギリスによる国民学校(national school)の設立、当時のアイルランド人政治家による排斥などが影響している。代わって用いられるようになった英語は、イングランド本土の英語と文法的に相違があり、一種の方言と見なされている。これは、古英語に由来する文法の柔軟性が特徴的なアイルランド英語(ハイバーノ・イングリッシュ)として、20世紀前半のイギリス文学界にも一定の影響を与えた。J・M・シング、ジョージ・バーナード・ショー、ショーン・オケイシー、オスカー・ワイルドなどはその代表である。
1870年ごろにはアイルランド自治が再び取り上げられるようになった。政治活動を指揮したのはプロテスタントの大地主であったチャールズ・スチュワート・パーネルと彼が作り上げた自治同盟である。イギリスの首相ウィリアム・グラッドストンはパーネルと協力して1886年と1893年の2度にわたり自治法導入を図ったが、いずれも上院での反対により失敗に終わった。アイルランドにおけるパーネルの絶大な影響力は、彼が友人の妻と内縁の関係にあったことが発覚したことにより終わりを告げた。現在では「王冠なきアイルランド国王」と呼ばれるなど、アイルランドで最も尊敬を集める政治家の一人となっている。
これらの自治権付与への流れのなかで、アイルランド民族主義者(ナショナリスト)とイギリスへの帰属を求めるユニオニストの対立が激化していった。アイルランド島全体では圧倒的に優勢を占めていたナショナリスト・カトリック教徒が要求する自治に対し、北東部のアルスター6県で多数を占めていたユニオニスト・国教徒は自らの経済的、政治的特権が奪われることを恐れていた。
ナショナリスト中の過激派はイギリスから実力で独立を勝ち取ろうと目論んでいた。1803年にはロバート・エメットが率いる共和主義者が、1848年にはトーマス・フランシス・マハーなどのアイルランド青年団が反乱を起こした。そして1868年には後のIRAの前身となるアイルランド共和同盟(IRB)の暴動が発生した。これらの事件はみな鎮圧されたが、暴力的政治活動という伝統は以後のアイルランド史にも引き継がれることになる。
19世紀後半にはアイルランドの土地改革が図られた。マイケル・デイヴィットの率いる土地連盟は1870年頃から地主の所有地を分割し、小作農に分け与える政策を押し進めた。農村の状況が改善していったにもかかわらず、アイルランドの首都ダブリンでは当時のイギリス帝国最悪とも言われた貧富の差が発生していた。モントと呼ばれる治安の悪い歓楽街は、ジェイムズ・ジョイスを始めとする多くの小説の舞台となっている。
イースター蜂起と独立戦争
アイルランド共和国暫定政府の設立宣言書
イースター蜂起に際して発表された1914年9月、第一次世界大戦の勃発に際してイギリス議会はアイルランド自治法を成立させたが、当初この大戦は短期戦に終わると予想されたため、施行は一時停止された。大戦が終結するまでにイギリス政府は2度にわたり法律の履行を試みたが、アイルランドではナショナリストとユニオニストの両者ともにアルスター地方の分離に反対した。
1916年にはドイツの支援を受けたアイルランド義勇軍によりイースター蜂起が企てられた。不十分な計画のまま開始されたダブリン市内での蜂起は英軍によりただちに鎮圧されたが、英軍の軍法会議により首謀者が即刻処刑されたため、蜂起を企てたナショナリストへ同情が集まった。徴兵の導入が検討されるようになると、ナショナリストへの支持がさらに増した。戦後の1918年12月に行われたアイルランド総選挙では、イースター蜂起に関与したとされたシン・フェインが議席の4分の3を獲得した。翌1919年1月21日に開催されたアイルランド共和国議会(ドイル・エアラン)では自らの権限がアイルランド島全域に及ぶと宣言した。
ドイル・エアランの議員(1919年)国際法上はイギリス統治下にとどまっていたことに不満を持つナショナリストは、1919年から1921年にかけてのアイルランド独立戦争(英愛戦争)でアイルランド駐留英軍に対してゲリラ攻撃を行った。1921年にアイルランド側代表、イギリス政府は休戦に同意し、12月には英愛条約が調印された。これらの交渉には独立戦争の英雄であるアーサー・グリフィスとマイケル・コリンズなどがあたった。条約により南アイルランドにイギリス連邦下のアイルランド自由国が成立したが、アルスター地方のうち6県は北アイルランドとしてイギリスの直接統治下にとどまることになった。現在も続く北アイルランドの帰属問題は、この条約に始まっている。
自由国と共和国(1922年 – 現在)主要記事:History of the Republic of Ireland;アイルランド自由国;アイルランド共和国;Names of the Irish state
アイルランドの政治的な地図。
アイルランドを分断することになった条約が批准されると、アイルランド国内のナショナリストたちは条約賛成派と条約反対派に二分された。1922年から1923年にかけて両者の間にはアイルランド内戦が発生し多くの犠牲者を出した。この民族主義者間の分断は現在のアイルランドの政治にも影響を与えており、保守派はフィアナ・フォイル(共和党)とフィナ・ゲール(統一アイルランド党)に分裂している。しかし経済恐慌によりヨーロッパの多くの国で政治的な混乱が発生した際にもアイルランド自由国では民主主義が揺らぐことはなかった。内戦で多くの同胞を失ったエイモン・デ・ヴァレラの率いるフィオナ・フォイルは1932年の総選挙に勝利し政権を握った。このころのアイルランドは国家破産は免れたものの失業率と移民数は高い水準を維持していた。一方カトリック教会は政府、社会に対し影響力を保持し続けた。
1937年にはアイルランド憲法が公布され、国名をエールへ変更した。
女性隊員と握手するオ・デュフィアイルランドは第二次世界大戦の間イギリスやアメリカの再三にわたる連合国としての参戦要請を拒否して中立を維持したが、数万人の義勇兵が英軍に参加する一方でエオイン・オ・デュフィ(アイルランド語版)率いる青シャツ隊による親枢軸派も盛んでスペイン内戦ではフランコらの反乱軍に義勇兵として参加している。大戦が延びるにつれ周辺国との貿易の停滞により、食料や燃料の供給事情は年々悪化していった。最近の研究によるとアイルランドの連合国への関与は従来思われていたよりも大きく、D-デイの決行を決定付けた天候情報はアイルランドから提供されたと判明している。一方でダブリンには終戦時まで日本大使館が設置され、中立国公館としての立場で、在欧邦人の支援を行った。
1949年には共和制国家アイルランドの成立が宣言され、イギリス連邦から離脱した。
1960年代にはアイルランドはショーン・リーマス首相とT.K. Whitakerの下で経済体制の転換を図った。
1968年には教育相ブライアン・レニハンにより高等教育が無料化された。
1960年代初期から政府は欧州経済共同体への参加を希望したが、イギリス経済への過度の依存を懸念され、アイルランドが加盟を果たしたのはイギリスの加盟が実現した1973年のことであった。
1970年代の不況はジャック・リンチ首相の経済政策のミスによるものと見られている。しかしその後の経済建て直しとアメリカ、ヨーロッパ各国からの投資の増大により1990年代のアイルランド経済は世界でも有数の成長を記録した。アイルランドの経済成長はケルトの虎と称されるようになり、2000年代に欧州連合への加盟を果たした旧東側諸国の経済成長モデルとして注目された。
従来カトリック教会の影響により保守的傾向が強かったアイルランド社会だが、リベラルな傾向も見られるようになっている。離婚が合法化され、ホモセクシャルが犯罪ではなくなった。最高裁の判決により限定的な状況における避妊も認められた。カトリック教会内部で発生した性的、経済的なスキャンダルにより宗教的権威が低下しており、毎週末のミサへの参加者は半数に減少した。
北アイルランド問題(1921年 – 現在)
詳細は「北アイルランド問題」を参照
「プロテスタント国家」
詳細は「北アイルランドの歴史」を参照1921年から1971年にかけて北アイルランドは東ベルファストに基盤を置くアルスター統一党政府により統治されていた。創設者のジェームズ・クレイグ(英語版)は北アイルランドを「プロテスタントによるプロテスタント国家」であると述べている。
カトリック教徒が被っていた就職や住居そして政治上の差別は多数派に有利な選挙システムにより成り立っていた。1960年代アメリカ合衆国における公民権運動の活発化により差別撤廃への関心が強まった。カトリックによるデモが右派ユニオニストの影響下にあるロイヤル・アルスター警察(RUC)により暴力を用いて鎮圧されたため社会不安が増加した。騒乱を鎮めるために英軍部隊が北アイルランドに派遣され現地の警察に変わり街の警備につくことになった。
紛争は血の日曜日事件と血の金曜日事件が発生した1970年代前半に頂点を迎えた。これらの北アイルランド問題は英語ではシンプルにThe Troublesと呼ばれている。紛争に対しなす術のないストーモント議会(北アイルランド議会)は1972年に閉会し翌年正式に廃止された。北アイルランドではIRA暫定派、IRA、INLA、アルスター防衛同盟、アルスター義勇軍、RUCと英軍が互いに攻撃・テロを繰りかえし、これらの事件による死者は3,000名にも及ぶ。テロは北アイルランドのみならず、イギリス、アイルランドにも伝播していった。
直接統治以後の27年間、北アイルランドはイギリス政府に設けられた北アイルランド担当大臣による直接統治下に置かれた。この統治に要する主要な法律は通常の手続きに従い下院で可決・成立したが、多くの微細な取り決めは議会の審議を受けることなく枢密院令によって発布された。イギリス政府は地方分権を指向していたが、北アイルランド憲法法とサニングデール合意および1975年の北アイルランド憲政協議会などによる北アイルランド問題解決の試みは全て世論の支持を得られず失敗に終わった。
1970年代イギリス政府はアルスター化の方針のもとIRAに対する対決姿勢を維持した。IRAとの対立の最前線にはRUCおよび英軍予備役であるアルスター防衛隊があたっていた。政府の強硬姿勢によりIRAによるテロは減少したものの、長期的にはどちらの勝利も望めないことは明らかであった。IRAのテロ活動に反対するカトリックも存在したが、差別措置を撤廃しない北アイルランド政府に対して彼らが好意的になることはなかった。1980年代になるとIRAはリビアから大量の武器を調達して攻勢にでようとこころみた。IRAに浸透していたMI5の諜報活動によりこの計画が失敗すると、IRAはその目標を準軍事的なものから政治的な方向へシフトするようになる。IRAの”停戦”はこの動きの一部であった。1986年にはイギリスとアイルランド政府がアングロ・アイリッシュ協定を調印し政治的な解決を模索した。長期にわたる紛争により北アイルランドは高い失業率に苦しめられ、70年代から80年代にかけて行われたイギリス政府のてこ入れによる公共サービスの近代化も遅々として進まなかった。90年代に入るとイギリス・アイルランド両国の経済が好転し紛争も沈静化する傾向が見えてきた。近年北アイルランドではカトリックの人口が増加しつつあり、全人口の40%以上を占めるようになっている。
地方分権による北アイルランド問題の解決1998年4月10日のベルファスト合意(聖金曜日協定またはグッドフライデー合意とも)により北アイルランド統治に関する取り決めがなされ、ユニオニストとナショナリストの双方が北アイルランド政府に参加することとなった。しかし両党の党首と北アイルランド議会は総選挙の延期を決定した。現在は各テロ組織の武装解除、北アイルランドの政治体制の変革、イギリス軍基地の撤退問題などが注目されているが、これまでの和平を担ってきた穏健派のアルスター統一党(ユニオニスト)と社会民主労働党(ナショナリスト)両党よりも急進的な民主統一党とシン・フェイン党の党勢が拡大しており今後も予断を許さない状況にある。
参考文献
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脚注
[脚注の使い方]^ Eupedia1 ^ Eupedia2 ^ Eupedia
関連項目
ブリテンの歴史
アイルランド イングランド スコットランド
先史時代
ゲール人 ブリタンニア ピクト人
オニール時代 七王国 ダルリアダ
ノルマン朝イングランド王国 アルバ王国
プランタジネット朝
(国名同上。アンジュー帝国とも)
独立戦争
百年戦争
ステュアート朝
薔薇戦争
テューダー朝
アイルランド王国 イングランド王国 スコットランド王国
(国名同上) (国名同上) (国名同上)
清教徒革命、政教分離
イングランド共和国
王政復古
ステュアート朝(復興)
アイルランド王国 イングランド王国 スコットランド王国
(国名同上) 合同法(1707年)
グレートブリテン王国
ハノーヴァー朝
(国名同上) (国名同上)
合同法(1800年)
グレートブリテン及びアイルランド連合王国
サクス=コバーグ=ゴータ朝、ウィンザー朝
(国名同上)
英愛条約
アイルランド自由国 イギリス
アイルランド憲法公布による改名
アイルランド
関連項目:イギリスの歴史、ウェールズの歴史表話編歴 イギリスの歴史 アイルランド卿 アイルランド王国 表話編歴
ヨーロッパの歴史
表話編歴
アイルランドの旗 アイルランド関連の主要項目
カテゴリ:アイルランド島アイルランドの歴史ケルト 最終更新 2023年8月10日 (木) 19:46 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。 テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。
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