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『2026年8月8日 14:30
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目を覚ますと、次郎は手足を回してからベッドを抜け出し、洗面所に行った。人感センサーのついたヒーターが足元を温める。洗顔をすませ、小用をたし、食堂に行ってストーブに火をつけた。
それから玄関に新聞を取りに行き、戻ってくると朝ごはんの準備にとりかかった。
冷蔵庫から生卵と作り置きの五目豆の鉢を取り出す。
ストーブに乗ったやかんが音を立て始めた。汁椀に入れた味噌玉に湯を落とす。刻んだわかめ、油揚げ…
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『ストーブに乗ったやかんが音を立て始めた。汁椀に入れた味噌玉に湯を落とす。刻んだわかめ、油揚げ、小葱が、ゆらゆらと立ち上ってきた。
飯椀に冷や飯を盛る。小鉢に卵を割り入れて溶き、醤油を垂らしてまぜる。それを冷や飯にふわりとかけて、全体をまぜてから搔きこむ。五目豆は、卵かけごはんが三分の一程度になったころに加えて、味の変化を楽しんだ。味噌玉を溶かした即席味噌汁をすすりながら、次郎は朝刊に目を落とす。
あいかわらず世界情勢は不安定で、円は売られて、高齢者ドライバーへの風当たりはきつい。嘆かわしいのは医療費や薬価の負担増が取りざたされていることで、ただでさえ生きづらい高齢者はますます生きにくくなるだろう。社会面では有識者が、老人の「徘徊」を「ひとり歩き」と呼び変えるべきか否かについて意見を述べていた。
食事を終えた次郎は、食器類を流し台で水につけ、洗面所に行って歯磨きをし、部分入れ歯を嵌めこみ、出かける支度を始めた。
出がけに玄関脇の鏡を見る。
あごに手を当てて数回撫で、以前に比べて格段に柔らかくなったひげの存在を感じる。ホルモン治療の影響か。じつは、ひげが薄くなる反面、抜け毛が減るとも聞いていて、以前、胡桃に「髪が増えた」と指摘されて、若干動揺したのだった。
増えるのは悪いことではないが、もとが「薄かった」と言われるとたいへん気になる。「あなたは自分の脳天を見たことがないでしょう」と胡桃は言ったが、長年、同世代に比して豊かな髪であることを自負していたため、若干プライドが傷ついた。
まあ、それも過去のことだ。現在の自分は、髪が豊かでひげが薄い。それも悪くない。
手のひらで両頰をはたいて外に出た。駐車場へ向かう足取りが軽いのを感じて笑いがこみ上げる。「満願」という太宰治の短編を思い出した。
今日は胡桃の退院日なのである。
(完) 』