アイデンティティをカネで買うのは悪いこと?
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20250908/1757333629
『2025-09-08
昨日の続き。アイデンティティをカネで買って何が悪い? という話です。
アイデンティティの話をすると、ときどき「アイデンティティをカネで買うのは悪いことだ(卑しいことだ)」といったコメントをいただくことがある。
アイデンティティは、人間の心理的欲求の対象と社会関係や社会活動を結びつけて理解するのに適した概念モデルだから、臓器のように手で触れられるわけではない。
けれども人間の欲望と心理的安定性について社会と関連付けて考える際には有用なモデルだと思う。
人は、アイデンティティに相当する対象を必要としていて、アイデンティティに相当する対象をとおして「私」の自己イメージをかたちづくっている。
ただし、アイデンティティを必要としているからといって必ず意識されるとは限らないし、まして、必ず商品選択や消費活動をとおして購買しなければならないわけでもない。昔は、アイデンティティをカネで買うのはそんなに多くないことだったと思う。
でも、今はそうじゃないし、カネで買っちゃいけないと言い過ぎてもきりがない。
かつて、アイデンティティは資本主義の「外部」にあった
アイデンティティについて書かれた古典的な書籍を読み返しても、「商品選択や消費活動をとおしてアイデンティティを買う」などといった、資本主義くさいことは書いてない。
幼児期と社会 1
幼児期と社会 1
作者:エリク・H・エリクソン
みすず書房
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古典にして原点であるエリクソン『幼児期と社会』を読んでも、アイデンティティは買い物するものとは書かれていない。
同書におけるアイデンティティの確立は、思春期モラトリアムにおける仲間集団への所属や忠誠、あるいは学校や仕事といった活動領域などをとおして獲得・確立されていく、そういうものだった。
この本で描かれる古き良きアメリカ社会では、高校や大学を卒業してしばらくすれば仕事やパートナーが確定し、やがて家庭を持つなかで「私」の輪郭がかたちづくられるとみなされていたし、それがスタンダードだったのだろう。
こうしたアイデンティティ確立のプロセスは、高度経済成長期~バブル崩壊までの、比較的豊かで安定していた頃の日本社会にもかなり当てはまる。
この昔話を思い出すうえでのポイントは、ここでいう活動領域や社会関係が、資本主義の、とりわけボードリヤールが『消費社会の神話と構造』に書いたような差異化を促す資本主義の機構とは関連がない点だ。
『消費社会の神話と構造』が1970年のフランスで出版されたのに対し、『幼児期と社会』は1950年のアメリカで出版されている。この時代のアメリカにおいて、友達をつくること・地域で暮らすこと・家族を持つこと・趣味を選ぶこと、等々は、まだそれほど資本主義の機構に侵食されていない。
アメリカは大恐慌の前に金満時代を経験済みだから、奢侈の記号を購入する営みが絶無だったとは思えない。
けれども『幼児期と社会』に描かれているアメリカ人の心理発達の舞台には資本主義のにおいがあまり立ち込めていない。
むしろ、人間の心理発達に必要とされる社会関係や社会活動の多くは、資本主義の内側というより外側、資本主義的なロジックよりも前-資本主義的なロジックで説明できるもののように読める。
『幼児期と社会』にまで遡って考えるなら、商品選択や消費活動を介してアイデンティティを買わないってのはマトモなことで、当時はそう書けば十分だったのだと思う。
今日でも、地方の町村部に育ち、地元の社会関係や社会活動でなにもかもが完結していて、インスタグラム的な消費のあぎとにとらわれていない人はそのようにアイデンティティを獲得し、大人になっていける場合がある……と地方暮らしの私はみている。
消費個人主義の波は地方の町村部にも打ち寄せているが、分厚い文化資本の壁と文化的アロドクシアの壁が波消しブロックのように作用して、良くも悪くも町村部の人々は消費個人主義の荒波から遠ざけられている。
社会関係や社会活動が充実していればアイデンティティについて考えない
そうした町村部に生まれ育った人に限らず、アイデンティティについて自覚せず、よってアイデンティティについて意識もしないから「私はアイデンティティなんていらないです」なんて述べる人ってのは現代の令和社会にも実はそれなりにいる。
アイデンティティについて考えないで済む人とは、意識するまでもなくアイデンティティの構成要素が凝集している人、そして「私」についての自己イメージにあまり悩まずに済んでいる人だ。
自分のありようや自分の社会活動、自分が他人にどう見られているのかについて悩まずに済む人なら、アイデンティティについて悩む必要もないし、悩まないから意識されない。
思春期の前にも後にも自分の能力や活動を承認されてきた人たちはアイデンティティについて悩まない。
アイデンティティは自分で選ぶもののように思えるが、実は、かなりのところまで他人の承認と社会集団への所属に依存するかたちでできあがっている。
私は(マズローの)承認欲求や所属欲求の話とアイデンティティの話を繋ぎ合わせて話すことが多いが、それは、アイデンティティの成立や確立が表向きは自己選択のように見えても、実際には他者や社会からの目線に依存していることを踏まえてのものだ。
たとえば、アイデンティティの構成要素として「絵を描くのが得意な私」「将棋を指すのがうまい私」を獲得するためには、実際に他人よりも絵を描くのがうまかったり将棋を指すのがうまかったりしなければならない。
「ゲームがうまい私」なら、いまどきはオンラインランキングで上位ランカーになっていなければならないだろうし、その場合、ゲームがうまくないその他大勢の存在が必要になるだろう。
「○○大学卒の私」「××社の社員としての私」といった、メンバーシップへの所属を要するアイデンティティの構成要素もある。
もっとローカルには、クラスのなかのスクールカースト上位集団の一人とか、地元でいっぱしの若者と認められているとか、閉鎖的な招待制クラブの正会員とみなされているとか、そういったものがアイデンティティの構成要素になることもあるだろう。
家族やパートナーシップについてもそうだ。承認ベースにせよ所属ベースにせよ、これらのアイデンティティは他者をとおして成立する社会的なことがらである点は、もっと知られていいように思う。
だから、伸び伸びと技能を習得し、それがだいたい他者に認められてきた人や、学校や職場や地域で仲間や同僚に恵まれてきた人は、アイデンティティの構成要素についてあまり悩まずに済むし、「私」の輪郭がぼやける頻度も少ない。
いつも他者に認められてきた人、社会関係や社会活動のなかで居場所を見つけてきた人はアイデンティティに悩む必然性が乏しく、「何者かになりたい」などと思わずにも済む。
何者かになりたい
何者かになりたい
作者:熊代亨
イースト・プレス
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逆に言うと、「何者かになりたい」という願いは、なんらかアイデンティティの構成要素に困っている人、なんらかアイデンティティの構成要素に不満を持っている人のものでしかない。
地元の社会関係と社会活動に満足している人は地元を飛び出して何者かになろうなどとは考えないし、技能習得に承認や所属がいつでも結びついてきた人も「私っていったいなんだろう?」などと悩まなければならない度合いは低い。
少なくとも理屈のうえでは、仕事や趣味が充実し、それらを介した社会関係や社会活動が充実していれば、「私」の輪郭について悩むことはなく、アイデンティティについても「なにそれ食えるの?」ぐらいの感覚しか持たずに済むはずだ。
資本主義、生活の隅々に入ってきているよね?
でも、そこまで順風満帆な人は少ないし、2025年の大都市圏や地方都市で暮らしていれば、順風満帆な人でさえ資本主義に攻囲されているのも事実だ。
『幼児期と社会』をはじめ、アイデンティティについて記された書籍、特に発達心理学方面の真剣な書籍には、「アイデンティティをカネで買う」とか「アイデンティティと資本主義」なんて話はついぞ登場しない。
万が一登場するとしても、それはアイデンティティ拡散*1の兆候として扱われるかもしれない。
でも2025年の現実をみれば、アイデンティティの獲得や確立の相当な部分は商品選択や消費活動を介して行われているし、それに目を向けないのもアンバランスだと私は思う。
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BANDAI SPIRITS(バンダイ スピリッツ)
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『機動戦士ガンダム』シリーズもその最たるものだ。今日日、ガンダムがアイデンティティの一部になっている人はあちこちにいて、こないだの『機動戦士ガンダムジークアクス』の放送中は(番組への賛否はさておき)ガンダムおじさんやガンダムおばさんがそこらじゅうから沸いてきた。ガンプラをはじめ、ガンダムに関連した商品はほとんどひとつの産業になっていて、ガンダムファンにとって交換不可能なアイデンティティの宛先になっている。
でもって、ガンダム並みに愛され続け、人々のアイデンティティの宛先になっている商品は日本社会にはいくらでもあるわけだ。
たとえば私にとって『新世紀エヴァンゲリオン』は消えない烙印となって私自身の構成要素となっている。対戦格闘ゲーム、新海誠のアニメ作品、ミステリー小説といった(商品)ジャンルがアイデンティティの構成要素になっている人も少なくないだろう。
何年、何十年も愛され続けるユースカルチャー、そのコンテンツとコミュニティは、アイデンティティの構成要素として馬鹿にならない。
アニメやゲームを愛し続けていて、その気持ちを共有できる仲間がいるってのは、ある程度まではさきほど述べた「社会関係や社会活動」に相当するが、ある程度からは商品選択や消費活動に相当する。
ファンとして優れていたい、アニメ愛好家やゲーム愛好家として「わかっている」自分でいたい、などという気持ちに駆られてコンテンツを熱心に消費しているなら、それはそれで差異化の欲望にとりつかれし者であり、ボードリヤール『消費社会の神話と構造』の掌の上にあるとしか言いようがない。
この部屋から東京タワーは永遠に見えない (集英社文庫)
この部屋から東京タワーは永遠に見えない (集英社文庫)
作者:麻布競馬場
集英社
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それとは別に、麻布競馬場の物語のような、消費個人主義社会の命ずるままむさぼるようにモノを買い、商品を選択し、果てない上昇志向と優越感ゲームにとりつかれた人々は2025年にもいる。
こうした、インスタグラムで一喜一憂するタイプの人々は、アニメ愛好家やゲーム愛好家に比べていっそすがすがしいほど差異化の記号を買い求め、消費個人主義社会を正面きって生きている。
こうした人々の生きざまを批判する言葉はいくらでも見つかるし、彼らは消費個人主義社会の重力に魂を奪われた人間には違いない。
だけど、麻布競馬場や東京カレンダー的な顕示的消費と、たとえば「推し活」に夢中になっている人々の違いはどの程度のものだろう?
あるいはアニメ愛好家やゲーム愛好家として「わかっている」自分でいるために、熱心にアニメやゲームを選択・消費している人々との違いはどの程度のものだろうか?
ぶっちゃけ、みんな消費個人主義社会の機構の内側で、それぞれが最も好ましいフィールドで商品選択や消費活動をがんばっていて、それで「私」のかたちを、ひいてはアイデンティティの宛先を選択しているだけなんじゃないんですか?
今日では、創作活動と呼ばれるものも消費個人主義社会のあぎとを逃れきれていない。
控えめに言っても、創作と消費の中間領域は存在する。
コミケや赤ブーブーで創作物を頒布するとは、創作という一面と消費という一面を併せ持っている。
はてなブログ、note、カクヨム、小説家になろうで書く行為も同様だ。
書くために本を買ったり読んだり選んだりしている限り、あるいは映画を観に行ったり旅行先で素材を集めたりしている限り、それは創作であると同時に消費でもあり、ボードリヤールのパースペクティブ、消費個人主義社会に紐付けられた差異化のゲームの内側からちっともはみ出していない。
そもそも、創作をとおしてなんらかのモチベーションやプレステージを獲得しようとしていたらそれも差異化のゲームに動機づけられているとボードリヤールなら言うだろうし、儲けが目当てで創作しているなら、それもそれで資本主義の機構にとらわれていると言わざるを得ない。
だから、私たちのアイデンティティ、ひいては心の拠り所の相当な部分は消費個人主義社会のメカニズムに則って動いているとみるしかなく、それはもう、そういうものとして受け入れるしかないんじゃないの? と最近の私は思う。
アイデンティティをカネで買ったっていいじゃないか、それで経済だって回っているなら結構なことじゃないか、と思ってみてはどうでしょうか。
なかには商品選択や消費活動にアディクトされ、生活が破綻するまで買い続ける人、趣味で身上を潰す人もいるだろう。
でも、どんな社会にだってやりすぎてしまう人、制御と加減のきかない人はいたわけで、そういう人がいるからといって、アイデンティティをカネで買うということ、ひいてはアイデンティティの小さくない部分が資本主義と結託している現状を頭ごなしに否定していいかといったら、それは違うと私は思う。
欲望を喚起してやまない資本主義の性質を踏まえると、これは手放しに肯定できるものではないが、ある程度までは「今の時代のアイデンティティは資本主義に紐付けられているよね」と思っておいて、認めておいたほうが実地に即していると今の私は思う。
ビジネス寄りの心理学が、私たちを統治しているなら
あと、蛇足かもしれないけれど、ビジネスとか経営の領域では、心理学的な概念やモデルってもっと資本主義と結託している……というか資本主義の小道具として使われていますよね。
魂を統治する 私的な自己の形成
魂を統治する 私的な自己の形成
作者:ニコラス・ローズ
以文社
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人間性の心理学―モチベーションとパーソナリティ
人間性の心理学―モチベーションとパーソナリティ
作者:A.H. マズロー
産能大出版部
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アドラーやマズローは臨床心理の領域ではあまり目立たないが、ビジネスや経営の領域では目立っていて今でも利用されている。
それらは人の心を理解するための心理学であると同時に、人の心の理解をとおして人を動かす心理学、人を転がす心理学でもあった。
この点において、ドラッカーのカリスマ的著書の隣にアドラーやマズローが並んでいても違和感はない。
ときどき、マズローの心理学、ひいては欲求段階ピラミッドを「生物学的にナンセンスだから」という理由で批判する人がいるが、それは不十分な批判だと私は思う。
確かにマズローの欲求段階ピラミッドは古臭いし、たぶん生物学的にはケンリックのピラミッドのほうがそれらしく見えるだろう。
でも、マズローの心理学の真骨頂はそこじゃあるまい。
マズローの心理学とあの欲求段階ピラミッドは、働く人間をもっと働かせるのに適した心理モデルとして流通し、動員され、今に至るまではびこっているのだと私は理解している。
マズローの欲求段階ピラミッドでは、生理的欲求がみたされたら所属欲求や承認欲求をみたしたがるようになり、いつかは自己実現欲求に目覚めるかもしれない……という建てつけになっていた。
この建てつけは、人間の欲求の優先順位を非常におおざっぱに示しているが、それより重要なのは、承認欲求や自己実現欲求といった概念がビジネスマンを彫琢するうえで、ひいては経営者が労働者を転がすうえで好都合なモデルだったから、ひいては消費個人主義社会の機構にとっても好都合なモデルだったことは、想定しておいたほうがいいと思う。
「どの心理学者の欲求モデルを聖典とみなすか」の選定にあたり、アドラーやマズローが選ばれ、なおもはびこっているのは、学術上の精確性を買われてとはまったく思えない。
経営学的に都合が良いから、ひいては消費個人主義社会の機構にあわせて人を動かすのに適していたから、なのではないかと私はまず思う。
してみれば、アドラーやマズローを理系学問の評価尺度でみるのは間違っている。
文系学問、それも、人の統治という最も文系くさい領域のツールとして批評すべきものだと思う。
それは、心理学の経済学への身売りとみえるかもしれない。
資本主義の機構にひざまずき、その靴をなめているアドラーやマズローのイラストをAIに描かせたくもなる。
でも、本当にアドラーやマズローだけがそうだと言えるんですか? たとえばマインドフルネスなんかも資本主義の機構にひざまずき、靴をなめていませんか? もっと臨床寄りの心理学はどうでしょう? それから精神医学は?
ある理論、あるモデルが(どこか時代遅れな部分があってさえ)支持される背景には、その社会、その時代に即したなんらかのニーズに応えている部分があるはずで、心理学の理論やメソッドも例外ではあるまい。
だとしたら、アイデンティティが消費個人主義社会に即したかたちで買い求められているだけでなく、もっと根深い次元でも私たちの心は資本主義の機構にかたどられ、(資本主義の機構に)内部化されていると思わずにいられなくなる。嗚呼!
嘆かわしいといえば嘆かわしいことではある。でも、割り切って考えるならこれは面白い現象だし、今日の時代精神を理解するうえで避けて通ってはいけない勘所だとも思う。
だからさ、こういう状況を嘆いてみせるより、こういう状況を興味深く眺めて、あわよくば追い風にしようよ。ブロガーとしての私は、まずそう受け取ります。だって、これって変な社会じゃん、変な社会状況ですよね。だから私はこの資本主義の歯車がゴンゴンと音を立てている社会と、そのなかの人間についてもっと知りたい。私たちはとても面白い社会状況に立ち会っている。
*1:注:この文章のなかでは、「アイデンティティの確立や獲得がうまくいっていない状態」と解釈していただければさしあたりOKです』