コムギのタネが生んだ富と争い 人類変える農業の魔力

コムギのタネが生んだ富と争い 人類変える農業の魔力
植物が動かした世界史(1)植物学者 稲垣栄洋
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUD125MH0S5A310C2000000/

『2025年4月2日 5:00 [会員限定記事]

人類の歴史の陰にはいつも植物があった。農業によって、定住が可能になり、文明が生まれた。収穫によって得られる食料や富は、ときに争いの種ともなった。人を幸せにし、不幸にもしてきた植物たち。植物学者の稲垣栄洋氏が、植物から世界の歴史をひもとく。

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コムギの収穫が描かれたエジプト・テーベのメンナ墓の壁画(紀元前1400年ごろ)=ユニフォトプレス提供

来る日も来る日も仕事、終わらせても終わらせても次の仕事がやってくる。誰もが懸命に働いているはずなのに、貧しい者と富める者の格差は広がるばかりだ。人々は富に翻弄されているように見える。

どうして、こうなってしまったのだろう。歴史に思いを馳(は)せてみよう。

始まりは農業だ。

農業はどのような場所で発展を遂げるだろう。恵まれた場所の方が、発達しやすいと思うかもしれないが、そうではない。自然が豊かな場所では、農業という労働をしなくても十分に生きていくことができる。そのため発展しにくい。一方、自然の貧しいところでは、重労働と引き換えにしてこそ食べ物を得ることができる。そのため、人々は農業を選択するのである。

農耕の起源とされるメソポタミアは、砂漠地帯だ。始まったのは「肥沃な三日月地帯」と言われるが、そこは砂漠の中での肥沃地帯である。つまり、食べ物を得られるような豊かな自然はないが、農業をすれば食糧を得られる地域である。

約2万年?1万年前頃になると、地球の気候が変化し、乾燥化や寒冷化が進む。各地に分散していた人々は生活環境の良い場所を求めて川の周りに集まってきた。厳しい環境の中で、多くの人々が生き抜くための術を身につけた。それが「農業」である。
ウシとコムギの茎が彫られた南メソポタミアから出土した陶片(紀元前3300?2900年ごろ)=ユニフォトプレス提供

メソポタミアで、最初に発達したのは家畜を飼養する牧畜だった。狩りの対象であったウシやヤギなどの草食動物を、飼うことができれば、いつでも肉や乳製品を手に入れることができる。草原にはイネ科の植物が生えているが、人間は茎や葉を食糧にすることができない。草食動物に食べさせて、その動物を食糧にするほかなかったのである。

一方、イネ科植物の種子は炭水化物を含む魅力的な食糧ではあるが、熟すと地面に落ち、効率よく集めることができなかった。ところが、あるとき、人類は重大な発見をする。それが、種子が落ちない突然変異を起こした株である。

熟した種子が地面に落ちないと、子孫を残すことができないから、この性質は、植物にとって致命的な欠陥である。しかし、人間にとっては違う。種子が落ちずに残っていれば、収穫して食糧にできるのだ。

さらに、種子を採って育てれば、種子の落ちない株を増やすことができるかもしれない。こうして、コムギの祖先種である「ヒトツブコムギ」の栽培が始まったと考えられている。

種子は優れた食糧だ。肉や果実は腐るため、食べきれない分は分け合うしかない。ところが、種子は長く保存しておいても腐らない。食べきれなくても貯(た)めておくことができるのだ。こうして、タネを持つ者と持たないものの格差が生まれた。

農業は過酷な労働を必要とするが、人々は少しでもタネを多く持とうと、コムギの栽培に力を入れた。胃袋が食べる量には限界があるが、農業によって得られる富と権力には、歯止めがない。人々は食べる以上のたくさんのコムギを作り、もっともっとたくさんのコムギを作ろうとした。

やがて、農業によって人類は人口を増やし、力を持った権力者たちは村を作り、国を作った。そして、人類は文明を築いたのである。農業は文明を育て、文明によって農業技術や品種改良は進展した。

その代表的な例が古代エジプトだ。紀元前1400年ごろのテーベのメンナ墓にはコムギの農作業を行う様子が描かれた壁画が残されている。

タネは「富」を生み、人々は富を求めて奪い合い、争い合うようになった。そして今、私たちは、食べる以上の豊かさを求めて、働き続けなければならなくなったのである。

現在、コムギは世界中で栽培されている。しかし、どうだろう。植物にとっては「食べさせて分布を広げる」というのは常套(じょうとう)手段である。果実は鳥や動物に果肉と一緒に種子を食べさせて、糞(フン)として排出されることで種子を移動させている。

そして、コムギもまた、食べられることで世界中に分布を広げている。人間はコムギを思うがままに利用しているつもりでいるが、もしかしたら、コムギが人間を思うがままに利用しているかもしれないのだ。

いながき・ひでひろ 1968年、静岡県生まれ。植物学者。農林水産省、静岡県農林技術研究所などを経て、静岡大学教授。著書に「弱者の戦略」「はずれ者が進化をつくる」「面白くて眠れなくなる植物学」など多数。 』