〈解説〉ドゥテルテ逮捕の衝撃 フィリピン・マルコス政権との政争、事実上の国外追放、しかしさらなるカリスマ化の懸念も
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/36980
『2025年3月18日
久末亮一( 日本貿易振興機構(JETRO)アジア経済研究所 副主任研究員)
国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状(3月7日付)が発行されていたフィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ前大統領が3月11日に逮捕され、即日、ICCがあるオランダのハーグに送致された。フィリピン政府は逮捕状執行のため、ドゥテルテの地盤ミンダナオ島ダバオを含め複数の帰国予想地に警察を配備していた。
ドゥテルテ前大統領は香港で政治集会に参加後にマニラへ帰国した際に逮捕された(AP/アフロ)
ドゥテルテは、滞在先の香港からマニラに帰国すると即座に拘束され、空軍基地で短時間の勾留後、政府がチャーターしたプライベート・ジェットに乗せられた。そして12日にオランダに到着し、早くも14日に予審準備が始まった。
逮捕容疑は、ドゥテルテがダバオ市長と大統領の在任中に陣頭指揮した麻薬犯罪撲滅作戦、いわゆる「麻薬戦争」の渦中で、超法規的殺人を容認・扇動・実行した「人道に対する罪」である。彼は長く務めたダバオ市長時代から治安回復を訴え、警察力だけでなく私的組織も用いて、麻薬犯罪に関連したと目される人々を殺害し、大統領への就任後は、これを国家レベルで実行してきた。しかし、中には麻薬犯罪と無関係であった者も多く含まれ、一連の超法規的殺害の被害者は、判明しているだけ6000人以上とされる。
そもそもフィリピンは、ドゥテルテ政権時の2019年に本件調査が契機となってICCから脱退しているが、今回の逮捕状執行について大統領府は、あくまでもICCの委託を受けた国際刑事警察機構(フィリピンも加入)の執行要請に国家警察が応じたもの、とする。だが逮捕・送致時の手際の良さを考えれば、現マルコス政権がICCの動きを利用して、対立の激化していた政敵ドゥテルテ一族と派閥を追い落とすため、機会を逃すまいとしていたことは明白である。』
『ドゥテルテの政治家としての歩み
ドゥテルテは1945年、法律家の父を持つ家庭に生まれ、幼いころに現地盤のダバオに移住した。破天荒なスタイルから庶民生まれのイメージがあるが、父は成功した法律家で、後にフェルディナンド・マルコス(現大統領の父)政権で内務相もつとめた。
たが、ドゥテルテ本人は殺人未遂を繰り返す暴力的な青春時代を送った後、大学院を出てからダバオ市検察官となる。その後、88年にダバオ市長に当選し、途中で多選禁止規定回避のため下院議員や副市長を務めた数年間も含め、四半世紀近くダバオの実力者として同地を支配した。
彼の市長時代、ダバオは治安や社会秩序を劇的に回復したが、それは先述のように正規の治安活動だけでなく、彼の支配下にあった警察や自警団による、超法規的殺人を含む非合法活動によって支えられていた。こうした行動は、2016年6月の大統領当選後に全国規模へと拡大した。さらにドゥテルテは、彼の人権無視を批判した米国などの諸外国や国連人権高等弁務官事務所と摩擦を強め、また今回の逮捕劇の端緒となるICCの予備調査にも反発して、19年にはICCを脱退する。
だが手法はどうであれ、治安や社会秩序の回復といった実績自体は国民から大きく評価され、20年9月の支持率は9割以上となるなど、高い人気を誇った。しかしフィリピン憲法は大統領任期を1期6年に制限しており、再出馬は不可能であった。このためダバオ市長時代の多選禁止回避で用いたように、娘のサラを出馬・当選させ、自らは副大統領となる構想を持ったが、国内から幅広い反発が巻き起こった。
マルコス派との協力と対立
一方で22年大統領選挙には、復権を目論むマルコス一族から、故元大統領の長男フェルディナンド・ジュニア(通称ボンボン)が出馬を目指していた。言うまでもなく彼は、フィリピン最高のエスタブリッシュメント出身ゆえに、支配層には厚い人脈を誇る。
一方、大衆民主主義の典型である同国では、国民大衆からの人気が高いとは言い難かった。そこでマルコス派はドゥテルテ派と取引し、22年大統領選挙ではボンボンへの支持とサラの副大統領出馬をセットにし、次期大統領選挙でのサラ出馬を支持する密約を結んだとされる。
だが大統領就任後、権力掌握によって禅譲を拒否しはじめたマルコス派に対し、ドゥテルテ派は反発を強めて政争が勃発し、対立が激化していった。この渦中の24年11月、サラは自身が殺害された時には、既に雇った暗殺者に対し、必ず大統領と妻、大統領のいとこで下院議長のロムアルデスを殺害して報復するよう命じたとする、父親譲りの過激な発言をした。
これに対してマルコス派は警察による捜査だけでなく、今年2月には下院での弾劾訴追案を成立させた。ただし巧妙なボンボンは、表面的には弾劾に賛成しないとして、自らに非難が向くことを避けようとしている。
こうした政争激化の中で、今回のドゥテルテ逮捕劇は発生した。すなわちマルコス政権にとっては、ドゥテルテ派を追い込みつつあるにしても、最後にして最大のリスクが、今でもカリスマ的人気を持つドゥテルテ本人であり、これをICCの逮捕状発行という好機を利用することで、事実上の国外追放にしたと言える。
オランダに護送される機内で、ドゥテルテは「すべての責任を負う」「私は国に奉仕しつづける」「これが私の運命」などと、淡々と語っている。』
『なぜドゥテルテは逮捕を甘受したのか?
しかし、政治的実利から考えれば、ドゥテルテが逮捕されることを選択したことは、実はしたたかな決断でもあった。すなわちICCで裁判に付されても、あくまでも自らの正当性を訴え、祖国への「殉教者」として振る舞うことで、支持者の信奉を維持するだけでなく、むしろ自らを「レジェンド」化させることも可能となる。
これは大衆にカソリックのロジックが深く浸透するフィリピンでは、効果的な戦略でもある。これにより、マルコス派との政争で追い込まれたドゥテルテ派は、政界での血脈を保つことも可能となるであろう。
なお、ドゥテルテは数年前から重症筋無力症を患い、年齢も重なり健康悪化が深刻とも言われている。そして、ICCでの裁判については、公判が始まるのは早くとも26年と言われ、さらに結審までには数年以上かかるといわれる。しかし、少なくともオランダでの拘置中の生活は、安全かつ人道的なものとなる。そのように考えれば、彼は毀誉褒貶ある政治家として、最も「政治的」な判断によって、自身の「終活」方法を選んだのかもしれない。
なお、逮捕前に香港に滞在していたことで、大統領在任中に異様に親密な関係を結んでいた中国へ亡命するとの噂もあった。実際は家事労働などで香港在住の約20万人のフィリピン人を目的に、中国・香港政府の黙認の下、9日に開催された「民主党・国民の力」(前政権連立与党)の政治集会に出席するためであったが、家族も帯同しており憶測に拍車をかけた。だがドゥテルテにとり中国亡命という選択肢は、国民の対中感情が悪化する中、「裏切者」の烙印を押されて一族や自派の政治的命脈が絶たれるため、あり得ないものであった。
終わらないフィリピン政治の宿痾
逮捕されたドゥテルテを追って、サラはオランダに渡航し、帰国の目途は立っていないと述べた。ドゥテルテ派は今回の逮捕が「政治的思惑」に基づくもので、「主権国家の元大統領を誘拐」したとして猛反発している。だが現在までのところ、国内での民衆による抗議活動は限定的となっている。
今後のマルコス政権は思惑どおり、最大の政敵派閥に打撃を与え、さらなる権力掌握を可能にすることで基盤を安定させ、ボンボン自身の支持率の如何を問わず、次期大統領選挙でも自派に有利な候補を擁立するであろう。
また、今回の一件は国際関係の視座から見ても、米中対立で火種の一つとなっている比中対立の構造を、決定的にするであろう。中国の一方的行動で激化する南シナ海の領土・領海紛争に加え、米軍が24年に訓練目的としてフィリピンに搬入した中距離ミサイルシステムの配備固定化など、比中間では摩擦が高まっている。
「フィリピンを中国の一つの省に変えることができる」「習主席を本当に愛している」などと述べ、徹底的な親中政策をとってきたドゥテルテの凋落は、中国には打撃である。一方で米国には、中国の海洋侵出を抑制する橋頭保としてのフィリピン確保は極めて重要で、親米政権の安定化・構造化が好ましい。
だが、これでドゥテルテ派が終焉した訳ではない。一族のダバオでの影響力はいまだ強大で、それはフィリピン政界の最重要要素である地縁政治という強固な構造に支えられ、生き残り続けるであろう。
そして、かつて独裁政権に反対するピープルズ・パワー革命によって国外追放されたはずのマルコス一族が、今や大統領として復権しているように、フィリピンの大衆民主主義は移ろいやすく、ドゥテルテ一族が将来に復権をはたすこともありうる。ゆえにドゥテルテは、ここで一族や自派の政治的命脈が決定的に絶たれることを避けなければならなかったのである。
フィリピン政治とは、その土壌に強く根付いた、本来は対立的要素である「一握りの上層・エスタブリッシュメント階級」と「うつろいやすくも力強い大衆民主主義」が、金権と暴力をベースとした地縁政治というアマルガム(結着剤)で結ばれ、その集合体が微妙な均衡の上でつねに揺れ動いている。仮に将来、マルコス元大統領のような独裁体制や、ラモス元大統領が背景とした国軍の政治的復活があったとしても、その政治の根本構造は変わることなき宿痾であり、登場人物は変わっても、いずれ同じことが繰り返されるであろう。
※本文内容は筆者の私見に基づくものであり、所属組織の見解を示すものではありません。』