米国における特殊作戦部隊の組織的基盤の形成
—ベトナム戦争から対テロ戦争までを中心に一
https://www.nids.mod.go.jp/publication/security/pdf/2024/202412_07.pdf








塚本勝也
<要旨>
米国の特殊作戦部隊は、第二次世界大戦から冷戦期を通じて発展を遂げてきたが、そ
の過程は必ずしも順調ではなかった。米軍内で特殊作戦部隊の存在は異端視され、ベトナ
ム戦争での対反乱作戦における重要な貢献にもかかわらず、組織的には冷遇されていた。
冷戦期における度重なる作戦上の失敗を契機に、文民政治家の政治的介入によって特殊
作戦部隊の強化が促されたが、米軍は組織的な抵抗を行い、その組織的基盤が確立され
るには、1987年に特殊作戦軍司令部(SOCOM)が設立されるのを待たなければならな
かった。
本研究は、特殊作戦部隊の組織的基盤が形成される過程について、改革を促す
議会とそれに抵抗する米軍に着目した分析を行い、200I年に米国で発生した同時多発テロ
事件後の対テロ戦争において特殊作戦部隊が主導的役割を果たすようになった経緯を説明
するとともに、今後の米国の安全保障の焦点である大国間戦争に向けたその役割の変化について展望する。
はじめに
米国の特殊作戦部隊は、第二次世界大戦時に編成された戦略情報局(Office of
Strategic Service: OSS)等を起源とし、冷戦期を通じて発展を遂げてきた[。とりわけ、ベト
ナム戦争で展開された対反乱作戦においては、米軍の一般部隊は対応に苦慮する一方で、
特殊作戦部隊は特有の能力を活かした活躍が認められ、その地位は安泰かと思われた。
だが、そのような見込みとは逆に、ベトナム戦争が終結すると、米軍はヨーロッパ正面での
高烈度紛争を重視する姿勢へと転換し、特殊作戦部隊の組織や能力は衰退していくことと
なった。
これは特殊作戦部隊が、その「特殊」という名称が示唆するように、米軍の内部
では異質な存在として認識されており、その強化を行うには強い組織的抵抗があると同時に、
1本稿で取り扱う米軍の特殊作戦部隊とは、陸軍のグリーン・ベレー、レンジャー部隊、デルタフォース、心理戦部隊、
民生部隊、海軍のシールズ(SEALS)、空軍の特殊航空部隊などを含む。なお、特殊作戦部隊の運用に関しては
秘匿されている部分も多く、デルタフォースやシールズの一部部隊については、存在すら秘匿しているものある0そ
れゆえ、本研究では米政府が公表している資料に可能な限り依拠しているものの、多くの部分を二次資料に基づい
ている0
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安全保障戦略研究 第5巻第1号(2024年12月)
何らかの強い圧力によって強化が果たされたとしても、継続が難しいことを示している。
他方、特殊作戦軍司令部(Special Operations Command: SOCOM)の設立によって、
特殊作戦部隊の組織的基盤が確立されると、200I年に米国で発生した同時多発テロ事件
を契機に、その実力が広く認識されるようになった。とりわけ、米国の新たな脅威となった国
際テロリズムへの対処のために特殊作戦部隊は世界各地に展開され、いわゆる対テロ戦争
の主力となった。
それ以降、特殊作戦部隊は人員や予算面で大幅な強化が図られるだけ
でなく、米軍内でも確固たる地位を築いた。この比較的短期間での組織的な発展は、米軍
内でサイバーや宇宙といった新たな領域の兵科を急速に戦力化するという組織改編のモデル
ケースとみなされるまでになっている%
それでは、米国の特殊作戦部隊の急速な発展はいかにして成し遂げられたのであろうか。
本稿では、米国の特殊作戦部隊が設立され、実戦に投入され始めた黎明期から冷戦後に
組織的基盤が確立されるまでの過程を分析する。特に、第二次世界大戦期に創設された
特殊作戦部隊は、冷戦期の文脈でもその活躍が期待されたものの、ベトナム戦争、イラン人
質救出作戦、グレナダ侵攻という3つの事例において期待された役割を果たせなかった。
そ
うした失敗にもかかわらず、米軍がそれらの問題を解決するために必要な改革を行わなかっ
たため、議会を中心とする政治的介入を招いたことを指摘する。
そして、政治的介入によっ
て実現された!987年のSOCOM設立に焦点を当て、特殊作戦部隊の組織的基盤の確立
とその後の影響について論じる。最後に、現在の特殊作戦部隊が直面する課題について、その組織的基盤の成立過程を踏まえて検討する。
1.冷戦期における特殊作戦部隊の投入と失敗
冷戦期には、特殊作戦部隊が一躍脚光を浴びる事例があり、具体的にはベトナム戦争、イ
ラン人質救出作戦、グレナダ侵攻の3つの事例において、中心的な役割を果たした。
しかし
ながら、それぞれの事例において、特殊作戦部隊は期待された役割を果たせず、その結果と
して米軍カミいかなる改革に取り組んだか、そしてそれに不満を持った政治的リーダーシップが
いかなる介入を行い、その介入に対して米軍が組織としていかに対処したかに焦点を当てる。
2特殊作戦部隊の急速な発展を可能にした原動力について分析したものとして、Susan L. Marquis, Unconventional
Warfare: Rebuilding U.S. Special Operations Forces (Washington, DC: Brookings Institution Press,1997)が
ある。また、特殊作戦部隊の組織的発展から得られた教訓を新設されたサイバー軍などに活かすという趣旨から
行われた研究として以下のようなものがある。 Christopher Paul, Issac R. Porche III, and Elliot Axelband, The
Other Quiet Professionals: Lessons for Future Cyber Forces from the Evolution of Special Forces (Santa
Monica: RAND, 2014); Christopher E. Paul and Michael Schwille, “The Evolution of Special Operations as a
Model for Information Forces/ Joint Force Quarterly, no.100,1st Quarter 2021,pp. 8-13.
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米国における特殊作戦部隊の組織的基盤の形成
(1)ベトナム戦争
米軍の特殊作戦部隊は第二次世界大戦時から存在しており、その活躍もマスコミ等を通
じて知られていた。だが、「特殊」という名称が示すように、米軍内では異端視され、その
位置づけや役割は定まらなかった3。とりわけ、冷戦期においてヨーロッパにおけるソ連の軍事
的脅威が高まっている時期には、当然ながら大規模通常戦争が主たる関心事であり、その
中でせいぜい補助的な任務を行う特殊作戦部隊はそれほど注目を浴びなかった。
しかし、ヨーロッパへのソ連の侵攻を抑止する目的で核兵器による報復を威嚇するという
「大量報復戦略」の信頼性をジョン• F ・ケネディ(John F. Kennedy)大統領が疑問視す
るようになると、東側の軍事行動の各段階に柔軟に対応し、抑止を強化するという「柔軟反
応戦略」が提唱されるようになった。
この戦略が登場したのは、ソ連が第三世界諸国に対
する軍事的関与を強化していた時期と一致しており、米国はこの新たな脅威に対応する必
要に迫られていたという背景もある。
この柔軟反応戦略の下、ケネディ大統領は「国家安全保障覚書(National Security
Memorandum) 57号」を出し、各軍種に独自の対反乱作戦能力を構築するよう明示的に
求めたんこの覚書が、対反乱作戦能力の中核的な戦力として初めて特殊作戦部隊が注目さ
れる契機になったと言ってよい。
これに対し、各軍は必ずしもその指示を完全に受け入れた
わけではないが、1961〜66年までの間に、特殊作戦部隊には3つのグループが追加され、
その人員は1,800人からI0,500人までおよそ6倍に膨れ上がった* 4 5 6〇
このケネディ大統領が強化した特殊作戦部隊にとっての試金石がベトナム戦争であった。
米国が関与を強めていた当時のベトナムでは、本格的な軍事介入を行う前から、特殊作戦
部隊が活動していた。
例えば、1957年から陸軍の特殊作戦部隊が派遣され、南ベトナム
軍の兵員に対する訓練を行っていた6。
そして、ケネディ政権の下で拡大されたのは、ベトナム
の地方における共産ゲリラの活動に対抗するために、中央情報局(CIA)との協力で編成
された民間非正規戦グループ(Civilian Irregular Defense Group: CIDG,民間不正規戦
グループとも呼称される)であった。
3塚本勝也「米軍の特殊作戦部隊の役割と課題ーーアフガニスタン・イラクにおける活動を中心に」『防衛研究所紀要』
第14巻第1号(2011年12月)66頁。
4 Phillip Lohaus, A Precarious Balance: Preserving the Right Mix of Conventional and Special Operations
Forces (Washington, DC: American Enterprise Institute, 2014), pp.14-15.
5 David Tucker and Christopher J. Lamb, United States Special Operations Forces, 2nd ed. (New York:
Columbia University Press, 2020), p. 86.
6 Francis J. Kelly, Vietnam Studies: U. S. Army Special Forces, 1961-1971 (Washington, DC: Department of
Army, 2004), p. 4.派遣されたのは沖縄に駐留していた第1特殊作戦グループであり、ここで訓練を受けたべトナ
ム兵が、その後の南ベトナムの特殊作戦部隊の中核となったという。
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安全保障戦略研究 第5巻第1号(2024年12月)
CIDGはCIAから資金提供を受け、陸軍の特殊作戦部隊によって運営されるものであり、
南ベトナムの少数民族を対象に農村レベルで民生支援を行うとともに、軍事教練を施し、共
産勢力の浸透を防ぐことを目的としていた。
1962年までにCIDGは効果的と判断され、30
万人もの少数民族をベトコン側に取り込まれることから防いだという評価すらあった,°
しかし、米軍は必ずしもこの状況を歓迎しているわけではなかった。CIDGが効果を発揮
すると、CIAはより多くの特殊作戦部隊の派遣を陸軍に要請するようになり、これに対して陸
軍は難色を示すようになった。
その理由としては、CIDGが米軍の重視する戦闘による敵の
撃滅という戦略に反しており、またその活動がCIAの関与も受けるという点で、本来の軍事
的な指揮統制とは異なる形で運用されていたからである8。
こうした状況を踏まえ、1962年7月にCIAと国務省がCIDGの権限を国防省に移管す
ることに合意すると、その運用は南ベトナム軍事援助司令部(MACV)に委ねられることになった。
そして、1963年II月にケネディ大統領が暗殺されると、特殊作戦部隊は強力な支持
者を失い、ベトナムにおける活動に変化カヾ現れた。
まず、教育・訓練を主任務としていた米
陸軍の特殊部隊は、国境警備やベトコンに対する攻撃任務を付与されるようになった。
さらに、
CIDGの下で訓練された現地住民も増えており、米軍の特殊作戦部隊と同様に、国境警備
や攻撃などに投入されるようになった。農村の防衛のために現地住民に対する軍事教練を
行ったにもかかわらず、その能力が高まると一般兵士のように扱われ通常戦力として投入され
るパターンは、ベトナム戦争を通じて繰り返されることとなった7 8 9〇
また、特殊作戦部隊がベトナムにおける対反乱作戦で期待された役割として、隠密作戦
(covert operations)の実施があったが、これも必ずしも効率的とは言えなかった。
MACV
の下に置かれた研究•監視グループ(Study and Observation Group)と呼ばれる特殊作
戦部隊には、北ベトナムに浸透し、情報収集や破壊工作を行う任務が与えられていた。そ
の目的は、北ベトナムから南ベトナムへの人や物資の流入を防く、、とともに、北ベトナムの安定
を脅かすことであった。しかし、この隠密作戦はほぼすべて失敗したと評価されている。
その主たる理由は、北ベトナムに浸透する人員は南ベトナムが提供していたが、その提供元の
組織は北ベトナムに浸透されており、情報が筒抜けだったからである10〇
ベトナム戦争における特殊作戦部隊の活動として特記すべきは、その末期に実施された
人質救出作戦であった。1970年II月、北ベトナムで収容されている米軍の戦争捕虜の奪
7 Thomas K. Adams, US Special Operations Forces in Action: The Challenge of Unconventional Warfare
(London: Routledge,1998), pp. 85-86; Lohaus, A Precarious Balance, p.16.
8 Tucker and Lamb, United States Special Operations Forces, pp. 84-85.
9 Adams, US Special Operations Forces in Action, p. 90.
10 Tucker and Lamb, United States Special Operations Forces, p. 86.
118 米国における特殊作戦部隊の組織的基盤の形成
還作戦が計画され、成功していれば戦争中に米軍捕虜の生存者を救出した最初の事例とな
るはずであった。ハノイ郊外のソン・ティ(Son Tay)に、米軍捕虜が収容されているとの
情報を得た米軍は、救出作戦を実施すべくタスク・フォースを編成し、綿密な計画立案と約
3か月にわたる訓練を行った”。「アイボリー ・コースト」作戦と呼ばれた本作戦は、部分的な
ミスはあったものの、北ベトナム軍の抵抗を排除し、任務部隊は捕虜収容所に到達したが、
結果的に捕虜は別の場所に移送されており、人質救出は果たせなかった。
この事例は戦術的な成功を収めたものの、マスコミを中心に捕虜の移送を事前に把握でき
なかったというインテリジェンスの問題、そもそもの目的である人質救出の失敗が批判されるこ
ととなったそこのため、ケネディ大統領カヾ強力に推し進めた特殊作戦部隊強化の路線は継
承されず、ベトナム戦争が終結すると米軍上層部はヨーロッパの戦場に重点を移し、通常戦
力の強化を重視するようになった。
こうした姿勢の背景には、ベトナム戦争というゲリラ戦争に米軍を投入したことがそもそも
誤っており、米軍内の士気の低下や規律の乱れを生み出したという、軍上層部の強い認識
があった。この認識ゆえに、米軍の本来の目的である大規模通常戦争に集中し、軍を再建
すべきという方針がとられたのである[3。この結果、例えば米陸軍の特殊作戦部隊の兵員はベ
トナム戦争終結時には約1万3,000人を数え、急激に高まった戦時の需要に応えたものの、
1974年には3,000人以下にまで削減され、戦後には急速に衰退していったのである11 12 * 14〇
(2)イラン人質救出作戦
ベトナム戦争後に戦力が低下した特殊作戦部隊にとって、最も重大な画期となったのは
1979年4月の「イーグルクロー」作戦であった。
本作戦は、1978年11月に起こったイラ
ン米大使館人質事件によって人質になった66名の米国人を救出することを目的とし、陸、海、
空、海兵の4軍の特殊作戦部隊による統合作戦であった。
この当時、人質救出作戦は特
殊作戦部隊の主要任務とはみなされておらず、本任務を担える特殊作戦部隊は、世界各地
で起こっていたテロリズムの脅威に対応するために1977年に設立された陸軍のデルタフォー
スしかなかった。デルタフォースは、イギリス空軍の特殊空挺部隊をモデルに創設され、人
11 Carroll V. Glines, “The Son Tay Raid,” Air and Space Forces Magazine, November 1,1995, https://www.
airandspacefbrces.com/article/1195raid/.
12 Adams, US Special Operations Forces in Action, p.154.
13ベトナム戦争以降に米軍の重点がヨーロッパにおける大規模通常戦争に移り、対反乱作戦能力が軽視されるよう
になった背景については、以下を参照。Richard Lock-Pullan, U.S. Intervention Policy and Army Innovation:
From Vietnam to Iraq (London: Routledge, 2006).
14 Adams, US Special Operations Forces in Action, p.157.
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安全保障戦略研究 第5巻第1号(2024年12月)
質救出も主要な任務の1つとしていた15 16 17〇
それゆえ、デルタフォースをイランに派遣し、人質と
ともに米国に帰還するために、長距離の飛行が可能な輸送機やヘリコプターを含め、大規
模な支援部隊が急遽編成されることになった。
この作戦では、集結地点のマシーラ島から、テヘランの約300km南方の砂漠にある「デ
ザートワン」と名付けられた中継地点まで強襲部隊をMC-130輸送機で輸送し、その後、
空母ニミッツから飛び立った海軍のRH-53ヘリコプターでテヘラン市内の大使館まで人質の
救出に向かう予定だった。
しかし、中継地点でRH-53の故障が判明して作戦が中止になる
と、現地は砂嵐で視界が極めて悪かったこともあり、部隊の撤退中にRH-53ヘリコプターの
ローターが駐機中のEC-130給油機に接触し、大火災が発生した。この事故により8名の
死者を出し、生存者は大混乱の中で残ったC-130輸送機で撤退したものの、遺体のみなら
ず、ヘリコプターなどの装備品や機密書類なども現地に残して撤退することとなった”。
この作
戦の失敗はイラン側の宣伝もあって世界中に報道され、明確に目に見える形の失敗であった
がゆえに米国内でも批判力ヾよりいっそう高まった。
トーマス・アダムス(Thomas Adams)は、この米国によるイラン人質救出作戦の失敗を、
特殊作戦部隊の能力と同国の通常紛争以外の形態の紛争への注目という面では最も低調
であったことを示すものと評している1?〇
すなわち、冷戦期におけるテロリズムや対反乱作戦と
いった、低強度紛争の脅威が高まる中で、その脅威に対応する戦力としての特殊作戦部隊
の戦力強化が果たせなかったことになる。
この作戦失敗の原因究明のために、ジェームズ・
ホロウェイ(James Holloway)海軍大将を長とする検証委員会(いわゆるホロウェイ委員会)
が設置され、急造の部隊編成が最大の問題だと指摘し、常設の統合部隊の設置を促すよう
な検証結果がまとめられた。
しかし、このような指摘を受けても特殊作戦部隊の能力を強化するという機運は高まら
なかった。例えば米陸軍では、作戦当時の陸軍参謀長であったエリック・メイヤー(Eric
Meyer)が、組織的な問題を解消するために、テロや対反乱作戦に対して複数の軍種を調
整する「戦略任務司令部(Strategic Services Command) Jを設置する提案を行ったが、
海軍や海兵隊は自らの特殊作戦部隊を取り込もうとする試みであるとみて抵抗した18〇その結
果、メイヤーの改革は陸軍内部にとどまり、第一陸軍特別作戦司令部をノースカロライナ州
15 Stavros Atlamazoglou, **Delta Force: The Elite Special Forces Unit Ready to Respond Anywhere, Anytime,”
National Interest Blog, September 3, 2024, https://nationalinterest.org/blog/buzz/delta-force-elite-special-
forces-unit-ready-respond-anywhere-anytime-212581.
16 Edward T. Russell, **Crisis in Iran: Operation EAGLE CLAW,’ in Short of War: Major USAF Contingency
Operations, 1947-1997, ed. A. Timothy Warnock (Montgomery: Air University Press, 2000), p.132.
17 Adams, US Special Operations Forces in Action, p.165.
18 Ibid., p.166.
120
米国における特殊作戦部隊の組織的基盤の形成
のフォート・ブラッグ(Fort Bragg)に設置することとなった。この改編は陸軍に所属する特
殊作戦部隊の強化につながったという評価を受けてはいるものの、米軍全体における特殊作
戦部隊の組織強化までには至らなかったのである19〇
図1「イーグルクロー」作戦の関係図
(出所)Edward T. Russell, “Crisis in Iran: Operation EAGLE CLAW,” in Short of War: Major USAF Contingency
Operations, 1947-1997, ed. A. Timothy Warnock (Montgomery: Air University Press, 2000), p.130 を基に筆者が
訳出。
(3)グレナダ侵攻
イラン人質救出作戦の失敗によって消極的な意味で注目を浴びた特殊作戦部隊にとって、
低強度紛争における実力を占う試金石となったのは、グレナダ侵攻であった。
1983年、左
翼勢力によるクーデターで混乱していたグレナダに対し、米国は自国民の保護(当時のグレナ
19 Paul, Porche, and Axelband, The Other Quiet Professionals, pp. 9-10.
121
安全保障戦略研究 第5巻第1号(2024年12月)
ダには米国の医学生が多数滞在していた)や同国の安定化などを目的として軍事介入を行
うことを決定した。
この軍事介入では一般部隊も動員されたものの、主作戦については陸軍
のレンジャー部隊やデルタフォース、海軍のシールズなどの特殊作戦部隊が投入された。そ
の理由として、グレナダに対して圧倒的な戦力で奇襲をかける必要があると同時に、グレナダ
で必要とされる任務には人質救出作戦なども含まれ、そうした軍事作戦には特殊作戦部隊
が適任と考えられたからである20〇
グレナダ侵攻作戦では、島内北部にあるパール空港とグレンヴィルを海兵隊が占領する一
方、特殊部隊には次の7つの任務が与えられた21 22〇
① シールズ・チーム6はポート•サリンス空港の偵察を行う。
② シールズ・チーム4は上陸作戦を行う海兵隊のために偵察を行う。
③ 第1•第2レンジャー大隊はポート•サリンス空港を奪取する。
④ 空軍第1特殊作戦航空団第16飛行隊に所属するAC-130 (「ガンシップ」と呼ばれ
る対地攻撃機)カヾ火力支援を実施する。
⑤ シールズの特設小隊がグレナダ兵によって公邸で監禁されている英国のグレナダ総督を
救出する。
⑥ 16人のチームからなるシールズ部隊がグレナダ政府のラジオ電波局を攻撃し、破壊せ
ずに無力化する。
⑦ デルタフォースの部隊が政治犯の解放に向け、首都に所在するリッチモンドヒル刑務所
を襲撃する。この部隊は第160任務部隊のUH-60ヘリコプターとレンジャー部隊によ
る支援を受ける。
しかし、この作戦は当初から様々な不測事態に遭遇し、必ずしも順調に進展したわけでは
なかった。
まず、シールズ・チーム6の第一陣が強風の中で荒れた海上において空挺降下
を行い、全員が行方不明になった。
次に、ゴムボートで海岸に向かった第二陣はエンジンが
高波をかぶったため、目的地に到達することなく退避せざるを得なくなった22。
20 Ronald H. Cole, Operation Urgent Fury: Grenada (Washington, DC: Joint History Office, Office of the
Chairman of the Joint Chiefs of Staff,1997), p. 21.
21 Adams, US Special Operations Forces in Action, pp.189-190.
22 Ibid., p.190.
122
米国における特殊作戦部隊の組織的基盤の形成
(出所)Ed Offley, **Fortunate Victory,M Naval History Magazine, October 2023, https://www.usni.org/magazines/
naval-history-magazine/2023/october/fortunate-victory-0 を基に筆者が訳出・修正0
次に、夜陰に乗じてポート•サリンス空港の奪取を目指したレンジャー部隊は、C-130輸送
機で空港に向かい、まず先導機に乗り込んだ隊員が空挺降下して滑走路を確保し、後続機
の隊員は確保された滑走路に着陸して降機する計画であった。だが、先導機の不具合で
到着が遅れ、海兵隊の攻撃よりもタイミングが遅くなったため、奇襲的要素が失われた。
また、
滑走路が障害物によって封鎖されていたがゆえに全員がパラシュート降下を強いられ、その
降下についても、空港周辺で待ち構えていたグレナダ側の対空砲火が予想以上に強力で
あったため、本来の高度よりも低いところから降下せざるを得なかった。
さらに着陸後の戦闘
でも、キューバ兵の支援を受けたグレナダ側による強力な抵抗に直面した。
こうした想定外の
事態に遭遇しながらも、レンジャー部隊はAC-130による火力支援を得て空港の確保に成功 *
23 Ibid., p.190; Richard W. Stuart, Operation Urgent Fury: The Invasion of Grenada, October 1983 (Washington,
DC: U.S. Army Center of Military History, 2008), pp.14-15, https://www.jcs.mil/portals/36/documents/
history/monographs/urgent_fury.pdf.
123
安全保障戦略研究 第5巻第1号(2024年12月)
グレナダ総督の救出にはシールズの2個チームが向かい、総督公邸の奪取には成功し
た。
しかし、間もなくキューバ兵とグレナダ兵が装甲兵員輸送車とともに現場に到着し、数
的劣勢にあり軽武装であったシールズは包囲された。
シールズは攻撃ヘリの支援を受けっ
つ、グレナダ側の反撃を斥け、北部から増援として投入された海兵隊部隊に救出された
のである24〇
政府ラジオ電波局の無力化を目指したシールズ部隊は、施設の機能を停止させることには
成功したものの、グレナダ側は代替施設を有していたうえ、少数のシールズが反撃を受けて
撤退を余儀なくされた25〇
最後に、リッチモンドヒル刑務所の政治犯の解放に向かったデルタフォースの部隊は、グレ
ナダ側が襲撃を既に察知していたため、ヘリコプターで現地に接近した際に強力な対空砲火
に見舞われ、降機すると地上でくぎ付けにされた。
結果として、優勢な敵に対してデルタフォー
スによる攻撃は失敗し、この間に少なくとも輸送ヘリコプター1機が撃破され、攻撃ヘリコプ
ター 2機も撃墜されたといわれている26 27 28〇
当初計画されていたこれらの任務に加え、レンジャー部隊が急遽、南部のカリビニーにあっ
たグレナダ軍の兵舎を空挺攻撃で奪取することを命じられた。この攻撃は、統合参謀本部か
らの命令で実施されたが、その責任者や理由は明確にされないまま、15分程度で計画され、
実行に移されたという27。レンジャー部隊がヘリコプターに分乗して現地へ向かうと、グレナダ
側の抵抗は小火器による散発的なものであったが、その数発が先導機に命中し油圧系統に
損傷を与え、先導機と2番機が接触して墜落した。次に、地面と接触してテールブームを破
損した3番機が操縦不能となり、先導機と2番機の残骸に衝突した。その間、3番機のロー
ターで3人のレンジャー隊員が死亡し、5人が重傷を負った28。結果的に、後続機の隊員が
兵舎を奪取したものの、兵舎はグレナダ側が既に放棄していたことが明らかとなった29〇
このように特殊作戦部隊の作戦には少なからず問題はあったものの、グレナダ侵攻に関し
ては、イランの人質救出作戦とは異なり、米国人やグレナダ総督の救出、あるいはグレナダ
の政情の安定化という当初の目的は達成された。
この作戦について、当時の統合参謀本部
議長であったジョン・ヴェッシー(JohnVessey)は、約48時間という非常に短期間で作戦
計画を立案し、十分な情報が不足していたこともあり必要とされる以上の戦力を用いたことは
確かであるが、比較的順調に実施されたと総括している。
また、問題はあったものの、全般
24 Adams, US Special Operations Forces in Action, p.190.
25 Stuart, Operation Urgent Fury, p.15.
26 Adams, US Special Operations Forces in Action, p.191.
27 Stuart, Operation Urgent Fury, p. 25.
28 Ibid., pp. 25-26.
29 Adams, US Special Operations Forces in Action, p.191.
124米国における特殊作戦部隊の組織的基盤の形成
的に作戦は成功であったとも評している3〇〇
他方で、本作戦中において数多くの不測事態に陥ったように、タイムリーな情報が不足し
ていたために特殊作戦部隊をかなりの危険にさらしたことも事実である31。
グレナダではほぼ
8,000人に近い米兵が参加し、19人が戦死、116人が負傷した32。特筆すべきは、そのう
ち特殊作戦関連の死者は16人、負傷者は少なくとも36人に上ったことであった33。
その原
因は、情報不足に加え、陸軍のレンジャーや空挺部隊と海兵隊の装備、運搬手段、近接
航空支援の手段が異なっており、それらの統合運用における指揮命令系統や通信手段など
の問題も作用したことである。それゆえ、グレナダ侵攻はイランの人質救出作戦ほど深刻な
失敗ではなかったとはいえ、文民政治家らが低強度紛争において特殊作戦部隊に期待して
いた能力からはほど遠く、議会関係者を中心に不満を募らせることになったのである30 * 32 33 34〇
2.特殊作戦軍司令部の設立
ベトナム戦争後の度重なる特殊作戦部隊の失態を踏まえ、新たな脅威への対応に向けた
特殊作戦部隊の改革へと政治的圧力が強まっていった。その中心人物の一人はダン・ダニ
エル(Dan Daniel)下院議員であり、彼は議会において長年にわたって特殊作戦部隊の
改革を主張し、個人的な働きかけや法的拘束力のない立法によって国防省側の改革を促す
努力を積み重ねてきた。
しかし、イラン人質救出作戦やグレナダ侵攻作戦における失態を経ても、特殊作戦部隊
をめぐる米軍の自主的な改革は進まなかった。例えば、グレナダ侵攻作戦後の政治的な圧
力を受け、1984年には統合参謀本部の下に統合特殊作戦庁(Joint Special Operations
Agency)を設置したが、そのトップは少将レベルにとどまるなど、米軍内において特殊作戦
部隊に対する権限はわず力、しかなく、ダニエル下院議員ら改革を望む政治家を満足させるに
至らなかった。
こうした状況を受け、1984年の終わりまでには、特殊作戦部隊の支持者は国防省の内部
から大幅な改革を期待するのは難しいと確信するようになった。その結果、彼らは改革を国
30 Cole, Operation Urgent Fury: Grenada, p. 65.
31ダニエル・ハウルマン(Daniel Haulman)は、「グレナダには政治的•軍事的なプレゼンスがなかったため、米
国は医学生の正確な場所、キューバ軍の戦力、ポート・サリンスにおける対空部隊数や滑走路の障害物に関する
戦術的情報が欠けていた。」と指摘している。DanielL. Haulman, “Crisis in Grenada: Operation URGENT
FURY,” in Short of War, ed. Warnock, p.143.
32 Cole, Operation Urgent Fury, p. 62.
33 Daniel P. Bolger, **Special Operations and the Grenada Campaign/ Parameters, vol.18, no.1(1988),
pp. 56-57.
34 Paul, Porche, and Axelband, The Other Quiet Professionals, p.10.
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安全保障戦略研究 第5巻第1号(2024年12月)
防省内部からではなく、外側から主導する可能性を模索するようになり、その一人であったダ
ニエルも議会による立法によって改革を実現することが必要だと確信するようになったという35 36 37〇
ダニエルは下院で同調者を増やすとともに、一部の国防省高官とも協力しつつ、特殊作
戦部隊を改革する法案を準備した。この法案は、中将をトップとする、特殊作戦部隊向けの
独立した予算を付与した国家特殊作戦庁(National Special Operations Agency)の設置
を含むものであった。これに対し、上院でも特殊作戦部隊の改革の遅さに不満を抱いていた
ウィリアム・コーエン(William Cohen)上院議員とサム•ナン(Sam Nunn)上院議員が
共同で法案を提出した。上院の法案では、大将をトップとする新たな統合軍司令部の設置
が謳われており、両法案の相違は小さくはなかったが、それぞれの議院を通過した後に調整
が図られ、通称「ナン・コーエン修正法(Nunn-Cohen Amendment)」として成立した’G。
1986年10月に成立したナン・コーエン修正法は、陸軍、海軍、空軍、海兵隊の独立
性を制限し、統合参謀本部議長の権限を強化して統合運用を重視したゴールドウォーター=
ニコルズ法を修正する形で制定された。
同法は、①全ての特殊部隊を管轄する大将クラス
の将官をトップとする統合司令部の設立、②特殊作戦・低強度紛争担当の国防次官補のポ
ストの創設、③国家安全保障会議(National Security Council)内に低強度紛争の調整
委員会の設置、④特殊作戦部隊向けの主要戦力プログラム(MSP-11)の創設を規定して
いる37。これにより、上院が求めた大将クラスの司令官と、下院が求めた予算権限の2つが
認められることとなった。
しかし、SOCOMの設立によって、米軍内で特殊作戦部隊の地位が完全に固まったわけ
ではなかった。米軍内にはSOCOM設立に反対する意見も根強く、ナン・コーエン修正法
の施行をめぐって、特殊作戦部隊やSOCOMの国防省内における組織的受容は必ずしも
順調に進まなかった。
まず、国防省では特殊作戦・低強度紛争担当の国防次官補の任命を優先課題と捉えて
おらず、最初の候補者が指名されるまでかなりの時間を要した。さらに、指名された候補者
も議会の提案に対し明確に反対の立場をとっていたため、当然ながら議会の承認は期待で
きず、その次の候補者はすぐに指名されなかった38〇
このような国防省の公然たる抵抗を察知した議会は、1987年12月に「公法100-180J
35 Marquis, Unconventional Warfare, pp.107-108.
36 Paul, Porche, and Axelband, The Other Quiet Professionals, pp. 12-13.
37 U.S. Special Operations Command History and Research Office, United States Special Operations Command
History, 1987-2007 (Tampa: U.S. Special Operations Command History and Research Office, 2007), p. 7,
https://irp.fas.org/agency/dod/socom/2007history.pdf.
38 Paul, Porche, and Axelband, The Other Quiet Professionals, p.15.
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米国における特殊作戦部隊の組織的基盤の形成
を通過させ、特殊作戦•低強度紛争担当の国防次官補が任命されるまで陸軍長官がその
職務を行うものとし、当時の陸軍長官であったジョン・マーシュ(John Marsh)が国防次官
補を兼任することになった。
その後、最初の国防次官補となったチャールズ・ホワイトハウス
(Charles Whitehouse)が任命されたのは、ナン・コーエン修正法が通過してから!8か月
後のことであった39〇
次に、国防省内では、特殊作戦部隊の予算の権限を誰が持つの力、について明確な合意
はなかった。
これに対し、議会はSOCOM司令官に権限を与え、この問題を解消しようとし
た。
しかし、国防省内ではSOCOM司令官は他の統合軍司令官と同じような予算や調達
の権限を持つのか、また調達•予算要求プロセスに加わるのかが明確になっていなかった。
これに対し、議会が再び介入し、1988年9月に「公法100-456Jを通過させ、特殊作戦
部隊司令官が国防長官に予算要求を提出することを可能にし、線下にある全ての部隊の予
算について権限の行使や監督•統制を実施することを規定した40 41〇
その後も、各軍種が一部の特殊作戦部隊をSOCOMに移管せず自らの組織内に残そう
と試みるなど、組織的抵抗は完全になくなったわけではなかった。
しかしながら、最終的に
はSOCOMに移管され、米国のあらゆる特殊作戦部隊を組織し、訓練や装備を与える役
割を担うことになったのである。
3.米国同時多発テロ事件後の特殊作戦部隊
特殊作戦部隊にとってのSOCOM設立の肯定的な影響については3つ指摘されてい
る哉。
まず、SOCOMによって米軍内で特殊作戦部隊の組織的な発言力が大きく高まったこと
である。SOCOMの司令官は大将であり、特殊作戦•低強度紛争の国防次官補もいること
から、国防省内での地位と影響力はかなり高まっている。第2に、SOCOMに予算要求の
権限が与えられたため、各軍種や議会に対してロビー活動を行わずに特殊作戦部隊のニー
ズを満たすことが可能になったことである。第3に、SOCOMの設立によって、異なる軍種
の特殊作戦部隊の間で協力が促されるようになったことである。また、SOCOMの下で特殊
作戦部隊の戦力強化、訓練、運用が統一的に行われるようになり、作戦における柔軟な指
揮統制が可能になるとともに、特殊作戦部隊に特化した形の経歴管理の道が開かれ、昇任
39 USSOCOM History and Research Office, United States Special Operations Command History, p. 7.
40 Paul, Porche, and Axelband, The Other Quiet Professionals, p.16.この法律により、特殊作戦部隊は、予算要
求において重要な「計画目的予算摘要書」(Program Objective Memorandum: POM)を作成し、国防長官に提
出することが可能となり、予算上の権限が強化された。
41 Ibid., pp. 20-21.
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安全保障戦略研究 第5巻第1号(2024年12月)
の要件として一般部隊に戻って勤務する必要がなくなったことも指摘されているく?。
さらに、2001年9月11日に米国で同時多発テロ事件が発生すると、国際的なテロリズム
が米国にとっての主要な脅威として注目されるようになり、世界的な対テロ戦争(Global War
on Terrorism)が主眼となった。
そして、その脅威に対抗する自然な手段として特殊作戦
部隊が脚光を浴び、その後は主戦力としてアフガニスタンを含め、まさしく世界各地に派遣さ
れるようになった。
当時の国防長官であったドナルド・ラムズフェルド(DonaldRumsfeld)は、
対テロ戦争においてSOCOMが独立して作戦立案を行い、必要に応じて地域別の統合軍
を含め他の統合軍からの支援も得られる権限を2002年に与えた。つまり、SOCOMは地
域別の統合軍を支援するだけではなく、逆に他の統合軍から支援を得られる統合軍へと立
場が格上げされたのである43。
そして現在では陸軍、海軍、海兵隊に並ぶ、米軍の「第5
の軍種」としての地位を確立したともいわれている料。
もちろん、SOCOMの設立によって、特殊作戦部隊の活躍が保証されていたわけではない。
SOCOMが創設され、特殊作戦部隊の戦力が強化されても、その本格的な活用は同時多
発テロ事件までは行われなかった。その背景として、特殊作戦の権威であるリチャード・シュ
ルツ(Richard Shultz)は、テロリズムが軍事的脅威ではなく犯罪として認識され、軍による
対応が遅れた点など、9つの要因を指摘しているくう。
それゆえ、SOCOM設立は特殊作戦
部隊が2001年9月11日以降の任務の増加に対応するための必要条件ではあっても、十
分条件ではなかったといえよう。
ただ、同時多発テロ事件以降は特殊作戦部隊力ミ実際に投入され、シュルツが指摘した要
因が解消された結果、特殊作戦部隊の活躍こそが対テロ戦争における米軍の戦い方を体現
したといっても過言ではない。さらに、アフガニスタンやイラクにおける大規模な軍事作戦に参
加するだけでなく、フィリピン、イエメン、ソマリアなどにも派遣され、大規模な米軍部隊を派 * * * *
42 Paul and Schwille, “The Evolution of Special Operations as a Model for Information Forces/ p.11.
43 Elizabeth Book, “Rumsfeld: Special Operations Command Slated for Growth,M National Defense Magazine,
February 1,2003, https://www.nationaldefensemagazine.org/articles/2003/l/31/2003february-rumsfeld-
special-operations-command-slated-for-growth.
44 Colin Jackson and Austin Long, “The Fifth Service: The Rise of Special Operations Command,” in US
Military Innovation Since the Cold War: Creation without Destruction, ed. Harvey M. Sapolsky, Benjamin H.
Friedman, and Brendan Rittenhouse Green (New York: Routledge, 2009), p.136.
45 Richard H. Shultz, Jr., **Showstoppers: Nine Reasons Why We Never Sent Out Special Operations Forces
After al Qaeda Before 9/11,” Weekly Standard, vol.9, no.19 (January 26, 2004), pp. 25-33.
シュルツは 9 つの
要素として、テロリズムは犯罪と認識していたことに加え、①テロリズムが差し迫った脅威ではないという感覚、②
ソマリア症候群、③法的権限の曖昧さ、④リスク回避、⑤米軍内における差別意識、⑥特殊作戦部隊の使用を避
けるべきという高級幹部による助言、⑦大規模な武力行使の重視、⑧インテリジェンスの不足を挙げている。
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米国における特殊作戦部隊の組織的基盤の形成
遣せずに対反乱作戦を効果的に支援できるようになったと指摘されている46。
このような活躍が
認められた特殊作戦部隊の人員や予算は、200I年以降一貫して増加している。
同時多発
テロ事件が起こった200I年時点でSOCOMの人員は約4万6,000人であったが、2023
年時点では約7万人となっており,ア、この間50%以上増加したことになる46 47 48 49〇
すなわち、対テ
ロ戦争における特殊作戦部隊の需要の増大に対応する上で、SOCOMが急増する予算や
人員の受け皿になったのである。
他方、特殊作戦軍の今後の動向に影響を与えると考えられるのは、米軍の焦点が国際テ
ロリズムや対反乱作戦ではなく、ロシアや中国を念頭に置いた大国間競争にシフトしつつある
点であろう。
これまで対テロ戦争において中心的な役割を果たしていた特殊作戦部隊は、口
シアや中国を相手とする大規模紛争では、その独特な能力を発揮できる場面は考えられるも
のの、通常戦力を支援する役割に回ると考えられる。
それゆえ、特殊作戦部隊は大規模通
常戦争における自らの貢献の方法を新たに見出す必要があろうく%
先述したように、米軍はベトナム戦争後に大規模通常戦争を主眼とする方針をとっており、
特殊作戦部隊がこのような状況に直面するのは新しいことではない。
他方、冷戦期と異なる
のは、対テロ作戦や対反乱作戦での特殊作戦部隊が有するユニークな強みや役割が自他と
もに認識され、それが組織の存在意義として確立されている点であろう。
さらに、SOCOM
は統合軍の1つである一方、ほぼ独立した軍種としての地位、すなわち強固な組織的基盤
を持つようになっている点も異なっている。
大規模紛争において特殊作戦部隊が単独で勝利をもたらすことは極めて困難であろう。
それゆえ、各地域の統合軍とより密接に統合され、調整していく必要が生じてくる。
そして、
対テロ戦争とは異なり、特殊作戦部隊が最も重要な戦力でないとすれば、膨張した組織や
人員の削減を求められることすらも想定される跡。その際、自ら役割を再定義し、それに合わ
46 Alice Friend and Shannon Culbertson, **Special Obfuscations: The Strategic Uses of Special Operations
Forces,° CSIS Briefs, March 2020, http://www.jstor.com/stable/resrep24261.
47 Office of Communication, United States Special Operations Command, **Fact Book 2023,” p. 6, https://www.
socom.mil/FactBook/2023%20Fact%20Book.pdf.
48 United States Government Accountability Office, *Report to Congressional Committees, Special Operations
Forces: Better Data Necessary to Improve Oversight and Address Command and Control Challenges,” GAO-
23-105163, October 2022, p.1,https://www.gao.gov/assetsZd23105163.pdf.
49 この点に着目した研究として、例えば、Hal Brands and Tim Nichols, **Special Operations Forces and Great-
Power Competition in the 21st Century/ American Enterprise Institute (August 2020), https://www.aei.org/
wp-content/uploads/2020/08/Special-Operations-Forces-and-Great-Power-Competition-in-the-21st-Century.
pdf?x85095 がある。
50現在の特殊作戦部隊が抱えるこれらの問題点を指摘したものとして、以下を参照。R. D. Hooker, Jr., “America’s
Special Operations Problem/ Joint Force Quarterly, no. 108, 1st Quarter, 2023, https://ndupress.ndu.edu/JFQ/
Joint-Force-Quarterly-108/Article/Article/3264605/americas-special-operations-problem/.
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安全保障戦略研究 第5巻第1号(2024年12月)
せた戦力設計が可能なのか。度重なる政治的介入を受けて成長してきた特殊作戦部隊の
歴史的な発展の経過を踏まえると、必ずしも楽観視はできないであろう。
おわりに
これまで見てきたように、米軍の特殊作戦部隊は冷戦期から重要性が認められながらも、
その特徴が活かせると思われたベトナム戦争、イラン人質救出作戦、グレナダ侵攻の3つの
事例で期待された役割を果たせなかった。
それに対して不満を持った文民政治家が、米軍
の取り組みが不十分だとして、特殊作戦部隊に関連する組織の改編を促した。しかし、米
軍が行った改革は限定的であり、議会による強力な介入がなければ、特殊作戦部隊を統
合するSOCOMの設立は実現されなかったと考えられる。
しかも、SOCOMが設立されて
以降も米軍の内部ではその権限を制限しようする動きがあり、それを議会が2つの法律を制
定して封じるということがなければ、SOCOMも期待された役割を果たせなかった可能性が
周い。
そして、2001年9月11日の同時多発テロ事件後、特殊作戦部隊は対テロ戦争の主力と
してその地位を固め、SOCOMは対テロ作戦の司令塔として他の統合軍から支援を受ける
立場となった。このような特殊作戦部隊が成し遂げた急速な発展は、1つの兵科を急速に強
化することが、他の兵科と予算や資源を奪うことになるため極めて難しい点を踏まえると、歴
史的にも比較的少ない成功例に数えられるであろう。
しかし、米国は現在、対反乱作戦やテロリズムではなく、ロシアや中国を対象とした大国
間競争へと安全保障上の重点をシフトさせている。
その中で、特殊作戦部隊が対テロ作戦
や対反乱作戦を自らの活動の焦点とし、独自の活動を続けていくのか。あるいは、大規模
通常戦争における貢献という形で、ベトナム戦争以前の役割に再び戻っていくのか。特殊作
戦部隊の組織的基盤が強固になるほど、大国間競争におけるその役割の再定義や戦力の
再設計は困難となり、再び強力な政治的リーダーシップが必要とされる可能性が高くなると考
えられ、今後の動向に注目する必要がある。
(防衛研究所)
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