ジョージ・ケナンが1946-2に国務省のボス宛てにモスクワ大使館内から発した5000語からなる「長文電報」は、…。
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『Fred Kaplan 記者による2024-12-23記事「A Newly Declassified Memo Sheds Light on America’s Post-Cold War Mistakes」。
ジョージ・ケナンが1946-2に国務省のボス宛てにモスクワ大使館内から発した5000語からなる「長文電報」は、その短縮バージョンが「X」のペンネームで『フォーリンアフェアズ』誌1947-6月号に寄稿されて世間周知となり、戦中の同盟者ソ連を戦後の米国はいかにあしらわねばならないかの指針を与えた。
ほぼその半世紀後、似たような「長文メモ」が作成されている。冷戦が終わってポスト冷戦期に遷移していた。混乱があるなか、米政府の対露政策はどの方向で維持されねばならないかを論じたものだ。しかし残念ながらビル・クリントンのとりまきは、ハリー・S・トルーマンの政府ほど賢明な聞き手ではなかった。
1994-3のこと。書いた人は、ウェイン・メリー。当時、在モスクワの米国大使館に勤務し、ロシアの内政を専門とする部長であった。
その要旨はクリントン政権の指向性に逆らっていたため、意見は無視されて、当人は冷や飯組に入れられた。そのメモは公刊されることもなかった。その内容が先週、初めて発掘された。
もし、ジョージワシントン大学内の私的研究結社が、情報公開法にもとづいて訴訟を起こさなければ、これからも、ずっと埋もれたままであっただろう。
エリツィンの経済自由化改革が混迷度を深めていたさなかであった。
その経済参謀長はイゴール・ガイダルだったが、酷いインフレと解職の嵐を招き、大衆は不満を募らせた。
議会が叛乱を企てたとして、エリツィンがモスクワ市中に戦車を動員する騒動にもなった。
このようなとき、ワシントンの高官たちは、エリツィンが依然として「ストロングマン」であると見ていた。そしてエリツィンとその経済参謀たち(ハーバード縁故の学者多数が含まれていた)の強引な社会の自由化運動は成功すると信じていた。
メリーら、大使館内の者に言わせると、それはおそろしい大誤解であった。
彼は説いた。米国政府が、ロシア国民に不評版な、がさつきわまる《経済改造》を強く後押しし続けることは、ロシア大衆内にまだ少しばかり残っている対米好感をゼロにしてしまい、のみならず、ロシア内部の非民主主義的な政治分子を盛り立てることとなり、その挙句、ロシア全体が「反欧米」の敵性陣営に再結晶するだけだと。
新時代の、国家の非侵略的外交と両立する、生産や金融の組織・機構は、ロシア人自身に作らせるようにしなくてはいけない。
そこを米国人が指導者面をして仕切ろうとしてはならない。
「民主主義」と「市場」とが同義語たり得ているのは今日のアメリカだけ。よその世界ではそうはならないのだ。ロシアの場合、「市場」とは「マフィア支配」と同義なのである。
ロシア人が74年間の「社会主義」から学んでいたことは「経済学理論と理論経済学者は信用ができない」ということだった。然るに米国からはオーバーツーリズムのように「専門家」がひきもきらず訪露し、助言者面で社会の分断と職場の破壊と社会保険の消滅に手を貸した。
エリツィンは、下々の有権者の意向を汲み上げて国政へ反映させるボトムアップ機能を有する政党を育てる気など、まったく無かった。ロシア組織は、トップダウンでなければ、うまくはいかなかった。
モスクワのメインストリートに英語のビルボードが乱立したのは、殊の外、まずかった。英語が読める住民はごく少数であった。そして、英語が読める親英米の住民でも、あの風景を見たら「じぶんたちは侵略されつつある」と思うに決まっていた。
メリーの作成したメモは、ワシントンに大使館の公式声明として発電することは許可されなかった。それは財務省のラリー・サマーズに心臓発作を起こさせるからダメだ、とメリーは言われた。代わりにそのメモは、国務省の「異見チャンネル」という目安箱に格納された。その私議ボックスはベトナム戦争中に創られていた。
ただしメリーは先輩から警告されていた。これを一回使ったら、お前のその後の昇進はなくなるだろう、と。
アルゴアはガイダルが選挙で勝つと信じて疑わずモスクワまでやってきたが、結果は大敗けだった。大使館の幹部たちは、エリツィンに選挙の無効を宣言させるようにクリントンに電話しようか、とまで、話し合っていた。
ウエイン・メリーはその後、ウィリアム・ペリーの力添えでペンタゴンの対露政策局に転職。しばらくして、引退した。』