歌を忘れたアメリカ 大統領選が示す民主主義の衰退
国際報道センター長 吉野直也
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCB2353F0T21C24A0000000/
『2024年11月4日 9:30 [会員限定記事]
米共和党の大統領候補トランプ氏の支援者集会近くで抗議する人々(10月27日、ニューヨーク)=ロイター
大正時代につくられた童謡「歌を忘れたカナリア」の歌詞はこう始まる。〽歌を忘れたカナリアは後ろの山に捨てましょか いえいえそれはなりませぬ 今回の米大統領選から「歌を忘れたカナリア」の歌詞を想起することがある。
歌詞は、歌を忘れてしまったカナリアは何の価値もないのか、という問いに、そうではない、と続いている。意味を巡る諸処の解説の一つは「歌を歌う」本分を忘れてしまったことへの戒めだ。
中傷や嘘でゆがむ道徳的な価値
米国にとって伝道師と自任してきた民主主義は本分に近い。大統領選はそのお手本と称されてきた。対立候補への悪口雑言や噓をいとわない3度目の共和党大統領候補、トランプ前大統領は民主主義のお手本ではない。
「悪口は慎みなさい」「噓をついてはいけません」。大人が子供に教えてきた道徳的な価値と、トランプ氏の発言は相反する。道徳的な価値は民主主義を支える根幹だ。
トランプ氏の誹謗(ひぼう)中傷や噓に鈍感になるのは、信じてきた道徳的な価値の倒錯を受け入れることになる。社会はやがて規律と秩序を失い、混乱を深める。
トランプ氏は大統領在任中にナチス・ドイツの独裁者ヒトラーについて「良いこともやった」と言及していたという。大統領首席補佐官を務めたジョン・ケリー氏が米紙ニューヨーク・タイムズに明かした。
格差社会に変化を求めるトランプ氏支持層
10月中旬、米国を訪れた。首都ワシントンから120マイル(約193キロメートル)離れた激戦州、ペンシルベニア州の州都ハリスバーグで、街中の人に取材した。7人に声をかけ、4人が答えてくれた。
民主党大統領候補のハリス副大統領支持2人、トランプ氏支持1人、どちらも支持しないは1人だった。印象的だったのは黒人男性コインさん(41)のトランプ氏支持の理由だ。
政治に求めたのは変化である。「ハリス氏は国民の期待をあおるものの、我々には何の恩恵もないだろう」と説明した。
米国の実質国内総生産(GDP)はこの30年あまりで2倍に成長した。超富裕層との格差も生まれている。米アマゾン・ドット・コム創業者のジェフ・ベゾス氏、著名投資家のウォーレン・バフェット氏、米マイクロソフト創業者のビル・ゲイツ氏。
2017年のデータによれば、この3人の個人資産を合わせると、米国の下位50%の人たちの個人資産に匹敵する。
米国の23年の平均的な従業員の年収と最高経営責任者(CEO)の報酬には196倍の開きがあった。学歴に準じた所得格差も大きい。その不満が16年大統領選でトランプ氏を勝利に導いた。
20年大統領選でバイデン氏が勝ったにもかかわらず、トランプ氏の成功物語が続いているのは、民主党政権の失政にほかならない。トランプ氏の支持者はインフレや不法移民への対応を「明日のパン」の問題ととらえているからだ。
怒りを象徴するゴジラとトランプ氏
元青山学院大教授の会田弘継氏(共同通信客員論説委員)は近著「それでもなぜ、トランプは支持されるのか」で映画「ゴジラ」を用いてトランプ現象をひもといた。怪獣ゴジラは核実験で放射能を浴びて突然変異を起こした古代恐竜の一種で、南方で無念の死を遂げた戦死者の「亡霊」との筋書きだ。
会田氏は事実上の階級社会に絶望する支持者の怒りを代弁するトランプ氏と、戦死者の怨念を体現する「亡霊」ゴジラの類似性を指摘した。
もしトランプ氏がゴジラと同様に憎悪の成り代わりだとしたら、大統領選の勝敗に関係なく、その亡霊は徘徊(はいかい)する。
見過ごされた「炭鉱のカナリア」
日本は10月27日投開票の衆院選で自民、公明両党の与党は15年ぶりに過半数を割った。旧安倍派の議員を中心とする政治資金の不記載問題への反感が要因だ。衆院選は「明日のパンではなく、道徳的な価値」が争点になった。
構造改革が遅滞する日本の実質GDPはこの30年あまりで1.2倍とほぼ変わらず、「失われた30年」の「出口」はみえない。
日本に社長報酬額が従業員の100倍を超える企業はほとんどない。平均は9倍程度で、学歴による所得格差は米国と比較して小さい。独特の公平感が衆院選での関心を「道徳的な価値」に向かわせ、民主主義を機能させているとしたら、それも手放しで喜べない。
再びカナリアにまつわる話。「炭鉱のカナリア」は何らかの危険が迫っていることを知らせる前兆を指す。炭鉱で有毒ガスが発生した際に人よりも先にカナリアが察知して鳴き声を止めることで、警告を発する。
米国は8年前のトランプ氏の大統領選勝利を民主主義における「炭鉱のカナリア」と受け止めるべきだった。トランプ氏は20年大統領選の敗北を認めず、21年1月6日の米連邦議会議事堂の襲撃事件を扇動した罪で起訴された。
米国での民主主義の揺らぎは大統領選の候補選びにも表れた。共和党は終始「トランプ1強」、民主党はハリス氏が予備選を経なかった。
米国際政治学者ケント・カルダー氏は今回の大統領選を「両党とも民主主義の本質である競争に欠けていた。民主主義の機能が衰えた」と総括する。
「歌(民主主義)を忘れたアメリカ」になってしまうのか。米大統領選は接戦のまま11月5日の開票を迎える。
吉野直也(よしの・なおや) 政治記者として細川護熙首相から石破茂首相まで16人の首相を取材し、財務省、経済産業省、金融庁など経済官庁も担当。2012年4月から17年3月までワシントン駐在、12年と16年の米大統領選を現地で報じた。政治部長を経て23年4月から現職。ラジオNIKKEIのポッドキャスト番組「吉野直也のNIKKEI切り抜きニュース」を配信中
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