嫉妬と尊敬は紙一重

嫉妬と尊敬は紙一重
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『人間が持つ最も原始的な感情、そしてもっとも自分では見つめにくい感情が「嫉妬」です。

創世記には楽園から追放されたアダムとエバの息子、カインとアベルの話が書いてあります。

ある日カインとアベルが神を礼拝するときのことです。
農業をいとなむカインは「地の作物」を、牧畜に従事したアベルは「羊の初子」を、
それぞれささげものといたしました。
すると神さまは、弟アベルと、そのささげ物には目を留め、
一方兄のカインと、そのささげ物には目を留められなかったのです。

どうしてかというと、「羊の初子」はイエス・キリストにひたすら頼るいけにえを意味し、
農作物は人間の熱心と苦労のいけにえを意味するのですが、
「いくらおまえらが頑張って苦労してもだめで、ひたすらキリストに頼らなければいけない」
と神はいいたかったのです。

(のんびりとした神道の世界にいるわりにけっこう勤勉な私たちには、
なかなか理解が難しい一神教の神様ですね・・・)

自分の熱心と努力の成果が受け入れなかったカインは顔を伏せて怒り、
弟アベルを野に連れ出して殺しました。

これが(聖書上の、ですが)人類最初の殺人です。
兄弟間の嫉妬からこの殺人はおきたのです。

岸田秀という人が、嫉妬についてこう定義をしています。

「あるひとが「自分がもつべきもの、もらえるもの、もらって当然なもの」を持っておらず、
それを第三者が不当に所有していたり、あるいは所有しようと企みたりするときに、
その第三者に抱く憎しみの感情」

カインは頑張って苦労した対価である農作物をこそ、神が尊ばれるだろうと思っていたのです。
しかし受け入れられたのは、自分よりはるかに劣っているとばかり思っていたアベルのほうでした。

嫉妬という気持ちがなぜ人に受け入れられないのか、というと実は、そこには相手に対する「尊敬」があるからです。

相手を優れたものとして認めることと、自分の劣等を認めることはやや近いのです。

上のエピソードでは神に受け入れられるささげものを正しく選んだアベルに対して、
「まいったな」という尊敬心がカインには生じたはずです。

優者になってしまった頼りなかったはずのアベルと、劣等になってしまった優秀だったはずの長男カイン。
この逆転がカインにはとうてい認めがたいので、それで殺してしまったわけです。

「自分がもつべきもの、もらえるべきもの、もらって当然のもの」がそれほどしたものでない場合、
(たとえばゴルフのドラコンの商品とか、カラオケ大会の優勝トロフィーとか)人間は笑ってすますことができます。
「イヤー負けちゃったな。すごいね君は!」

しかし失うものが、その人の自我をささえる重要な、なくてはならない対象の場合、
あるいはさらに、それらがあってはじめて自分を是認し尊敬できることができる場合、
—恋人、名声、ポジション、才能、資産、家庭などがそうですがー
あまりに自分が傷つきすぎて、傷ついた自我が全面的に崩壊をおこしそうに感じるため、
相手の優越をすなおに認めることはとてもできないのです。

恋愛、尊敬、崇拝と嫉妬は、とても近い感情です。

裏切られた恋愛、見捨てられた尊敬、無視された崇拝が嫉妬です。

この葛藤、見苦しさ、やりきれなさが本人もわかっているから、嫉妬という感情を人は直視することができません。

嫉妬という感情を持っていることを相手にも周りにもなるべく悟られたくはないのです。
嫉妬を明らかにする人は、だからそうとうの自信家です。

だから嫉妬心は多くの場合、

1)心配=相手が失敗する期待 2)正義=周囲の同意を得ての非難
のどちらかの仮面をかぶります。

あなたがうまくいきだしたときに近寄ってきて、さりげなく心配や正義を持ち出す人がいたら、
ちょっとだけご注意ください・・・』