不法移民の息づかいが残る地下中華街 敵意のルーツ探る
離散〜ディアスポラ 「排日移民法」100年㊤
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN220510S4A520C2000000/
『2024年6月10日 5:00
米国で「排日移民法」とも呼ばれた1924年の移民法成立から100年がたった。世界中から移民を受け入れ、成長のエンジンとしてきたはずの米国はいまなお惑いの中にある。せきを切ったようにあふれる敵意の源流をたどる。
ゼロから築いた地下チャイナタウン
10段程度の暗い階段をくだって足を踏み入れると、容赦なく太陽光が照りつける地表とは別世界の静寂が広がっていた。奧へ、奧へと、薄暗い部屋が連なる。湿っぽく重…
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『湿っぽく重たい空気には、ゼロから築いた地下都市で暮らした不法移民の息づかいが残っていた。
5月、メキシコ北部メヒカリ。米南部カリフォルニア州と隣り合う国境の町にある地下中華街「チネスカ」を訪れた。100年以上前に吹き荒れた「イエローペリル(黄禍論)」で米国を追われた中国系移民が流れ着いた安住の地だ。
「最盛期にはメヒカリの人口の75%が中国人移民でした。まだ発見されていない地下室も100以上ありますよ」
長く埋もれていた地下施設の発掘と保存活動を続けてきたルーベン・チェンは言う。日の光は満足には届かない。それでも食堂や学校、病院、教会のみならず、カジノやバーまで、地下のチャイナタウンには生活と娯楽に必要な機能が何でもそろっていた。
第2次世界大戦が終わった直後の1950年代まで人々の暮らしは続いた。多くが志半ばで夢の国を追われ、再起への決意を燃やして苦難の時代を生きた。
繰り返す「移民が血を汚す」発言
大統領選で再選を目指す野党・共和党のトランプは不法移民が「米国の血を汚している」と公言してはばからない。独裁者ヒトラーが著書「わが闘争」で使った表現とぴたりと重なる。
差別し、排斥する構図は100年前となんら変わらない。
1924年5月26日、米国で成立した改正移民法はドイツ系などに大きな枠を与える一方、日本人などアジア系を「帰化不能外国人」に分類した。
法的に移民する権利を奪い、19世紀後半から米欧に広がっていた黄禍論をあおった。
日系2.5世のビル・ワタナベ㊧と、3.5世のマイケル・オカムラ(5月、ロサンゼルスの日米文化会館で)
米国に渡った日本人や中国人は当時、南北戦争後に解放された黒人奴隷に代わる労働力として活躍していた。貧しかったアジアから新天地に渡った移民は昼夜を問わず、建設や農業の現場で熱心に働き通した。
ロサンゼルスに住む日系人、ビル・ワタナベ(80)の祖父は福島県から米国に移住し、収穫を請け負う農作業労働者として働いた。カリフォルニア南端のサンディエゴを起点に、カナダ国境の北の街シアトルまで稼ぎ歩いた。
こうした勤勉さは逆に「いつかアジア人に国を奪われるのでは」という疑心暗鬼を白人社会にもたらした。
20世紀初頭の日本は貧しかった。差別を受けながらも、ワタナベの祖父は日本への帰国は考えもしなかったという。「米国のほうがまだまし。生きるため、仕事のためならどこへでも行った」。祖父からは何度もそう聞いた。
困窮を抜け出すには自由の国へ行くしかない。動機は100年前もいまも変わらない。
2023年、正式な手続きを踏まずに米国に流入した不法移民は330万人に達した。多くは独裁政治などで経済が破綻した中南米諸国から極貧を抜けるためにやってくる。米国に入ってからも圧倒的に賃金の安い重労働に就く。
全米日系人博物館のクリステン・ハヤシ博士は「初めから多様性が米国の強みだったわけではない」と指摘する
「米国にはきっとチャンスがある。何でもやる覚悟はある」。メキシコ北部ピエドラスネグラスで3月、中米ホンジュラス出身のサンドラ・マジョルキンは言い切った。不法入国になったとしても米国をめざすという。
3月には米東部ボルティモアで橋崩落事故が起きた。このときに橋の保全作業を担っていった6人が海に落ちて死亡したが、全員がメキシコやホンジュラスなど中米出身者だった。
2060年に白人比率45%にまで減少
移民が米経済の屋台骨を支えている。100年前と同じように、そうした不都合な真実が米国民、とりわけ保守層の不安をかき立てる。全米日系人博物館の研究員、クリステン・ハヤシは「多様性が米国らしさと言うが、最初からそうだったわけでない。移民や有色人種に対する敵意も決して新しいものではない」と指摘する。
「白人のためのカリフォルニア(Keep California White)」。19世紀前半にかけて日本人排斥を推進した一人で、サンフランシスコ市長や連邦上院議員などを務めたジェームズ・フェランは選挙パンフレットに堂々と書いた。
だが当時と決定的に異なるのは、21世紀に入って大きく変わった米国の人口構成だ。
白人至上主義を訴える選挙パンフレット。ジェームズ・フェランはサンフランシスコ市長や連邦上院議員を務めた(パブリックドメイン)
米国勢調査局によると、米国の白人人口は2020年に初めて減少に転じた。反比例してヒスパニック(中南米系)人口は増え続ける。
同局の推計によると60年には白人の比率が45%(22年は59%)に落ち込む一方、ヒスパニック系は27%(同19%)に高まる。白人保守層が抱える焦りをトランプは巧みに吸い上げてきた。
大統領選の最新の支持率をみると、勝敗のカギを握る中西部ミシガンや南部ジョージアなど激戦7州のうち6州で前大統領がバイデン現大統領をリードしている。「バイデンの移民政策は国を壊す」。トランプは2月下旬、テキサス州の国境の町に乗り込むと、こうまくし立てて集まった支持者らの喝采を浴びた。
移民三世のワタナベが言う。「合法か不法かに関係なく移民も税金を払い、経済に貢献する。米国が提供するチャンスを大切にする彼らこそ、より良い国民になる」。米国は再び、自らのルーツに深く関わるパンドラの箱を開けようとしている。
◇ ◇
移民超大国である米国にとって、11月の大統領選挙は未来への分岐点だ。増え続ける「ディアスポラ(離散の民)」を受け入れるか、排斥するか。大きな決断を控える「自由の国」のいまに迫る。
迫害に息潜めた移民1世
日本語新聞「羅府新報」は1924年5月28日付の1面で、移民法の改正案成立を「国辱日」と表現した(同紙提供)
「国辱日。臥薪嘗胆(がしんしょうたん)、誓って辱を雪(そそ)がんことを期す」
1924年5月28日、米ロサンゼルス。「排日移民法」が成立した2日後、日本語新聞の「羅府新報」は米社会への怒りと待ち受ける過酷な迫害への不安をストレートに表現していた。
羅府はロスを意味する。創刊は1903年と古い。米国でも最古の日本語新聞として知られ、米国と現地で暮らす日系人コミュニティーの変遷を見つめ伝えてきた。
排日移民法の成立で日系人は揺れに揺れた。
約1カ月後の6月29日付の社説には「排斥される側にも理由があるのでは」との表現が見られる。法案成立当初の猛反発は一転して影をひそめた。
公然と人種差別を口にしても、とがめられることすらなかった時代だ。抗いようのない米国人の差別意識に対し、目立たないように生きる道を選んだ日系人の悲哀とあきらめの感情が透けてみえてくる。
アジア系移民への排斥論は1924年の移民法改正でピークを迎えたかにみえたが、41年の太平洋戦争の開戦でさらに過熱した。米国籍を持っていても日系人には「敵性国民」のレッテルが貼られ、強制収容所に送られる不遇が待っていた。
ロサンゼルス在住のマイケル・オカムラは戦後もしばらく息を潜めて暮らしていたことを思い出す。移民1世だった祖父は米国のニュース確認を欠かさず、祖母は毎日のように洋食をつくる。逆風はいつまた吹き荒れるかわからない。「子どもには200%米国人になってほしいと願ったのだろう」と振り返る。
当時は新聞や雑誌など紙媒体がマスメディアの主体で、圧倒的な少数派だった日系人が米国世論に訴えかける手段はほぼ皆無だった。日本政府の外交努力も響かない。移民法を改正した1924年は大統領選イヤーで、再選をめざしていた現職のクーリッジ大統領が白人層に配慮して法案に異を唱えなかったという見方もある。
太平洋戦争が終わってまもなく80年がたつ。
テクノロジーの進化でメディアは様変わりし、情報拡散のルートも個人主体のSNSなどネットに移った。多くの移民が越境の手段や渡航先の状況を知るために頼りにするのもスマートフォンだ。玉石混交のこうしたネット情報は身を助けることがある一方、時には受け入れ先各地の敵意に火を付けかねないリスクもはらむ。
(敬称略)
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