冷戦下、米国には200人以上のスパイがいた__ソ連への内通者「モグラ」を探せ! CIA対KGBの戦い
小谷 賢( 日本大学危機管理学部教授)
https://wedge.ismedia.jp/articles/-/33007
『冷戦時代、米ソ間では激しいスパイ合戦が行われた。米英はファイブ・アイズ同盟を結び、通信傍受によってソ連の秘密を入手していた。
米国家安全保障局(NSA)が中心となり行った「ヴェノナ」計画が有名で、これにより米国内で活動していた100人以上のソ連スパイや協力者をあぶり出した。
しかし、当時米国に浸透していたスパイや協力者は200人以上と見られており、その一部は米国中央情報局(CIA)の中枢までも浸食していたので、スパイ合戦ではソ連の方が一枚上手であったといえる。
1962年10月、ソ連がキューバに核ミサイルを配備したことで、「キューバ危機」が生じた。
この時、米国は通信傍受や偵察機による写真撮影によって、キューバに配備されるソ連のミサイル情報を収集していたが、決定的だったのは、ソ連軍参謀本部情報総局(GRU)のオレグ・ペンコフスキー大佐からの情報提供だった。
ペンコフスキーは、ソ連軍がキューバに建設したミサイル基地の詳細な情報をCIAに提供し、当時のロバート・ケネディ司法長官から「CIA設立以来の経費すべてを正当化するものだ」と絶賛されている。
しかし危機の最中、ペンコフスキーは情報漏洩を理由にソ連国家保安委員会(KGB)に逮捕され、翌年、銃殺刑に処された。
CIAをかき乱すKGBの「モグラ」
通説によると、ペンコフスキーの行為が発覚したのは、危機の最中に「偶然」KGBがペンコフスキーの漏洩に気付き、彼を監視し始めたとされるが、元CIA分析官、ピート・バグレーの最近の調査によると、CIAの中にソ連への内通者(モグラ)がおり、そこからKGBにペンコフスキーの存在が漏れたというものである。
61年4月にペンコフスキーがCIAの情報提供者となった直後から、既にKGBはモグラからその事実を掴んでいたが、KGBはすぐには動かなかった。
恐らくKGBはペンコフスキーを逮捕することで、モグラの存在がCIAに知られることを危惧したのだろう。
狡猾なKGBはCIAをかく乱させるために、KGB工作員のユーリー・ノセンコを米国に亡命させることにした。ノセンコの任務は亡命者を装ってCIAに偽情報を掴ませ、CIAがモグラの正体に行き着かないようにすることであった。そしてKGBの狙い通り、ペンコフスキーは「偶然」KGBの監視網に引っかかって逮捕されることになる。
このようにKGBは亡命者を装った工作員をCIAに送り込み、偽情報を刷り込むことで、CIAの調査能力を削いでいった。
名の知られている元KGBの亡命者は、アナトリー・ゴリツィンやイゴール・コチノフらがいるが、彼らの正体は曖昧なままだ。
逆にこれら亡命者の証言から、CIA内にモグラが潜んでいると確信していたのが、防諜部のジェームズ・アングルトンである。
彼はCIA内のモグラ狩りを熱心に進めたが、身内を疑うやり方は徐々に部内の反感を強め、しまいにはCIA長官のウィリアム・コルビーまでもソ連のスパイだと疑い出したことで、彼のスタッフとともにCIAを放逐された。
英語の造語「アングルトニアン」はアングルトンの行為を皮肉めいて形容した言葉で、「陰謀めいた、正気を失った」という意味で現在も使われている。』
『しかしアングルトンの懸念はある程度当たっており、その意思を継ぐ形で調査を進めたのが、先述したバグレーで、どうやらCIAの中枢にはKGBのモグラが潜んでいたようである。
特にCIAのソ連担当首席分析官であったジョン・ペイズリーには疑惑が付きまとったが、彼は78年に謎の海難事故で死亡している。
見つかった死体はペイズリーではなかったとバグレーは考えていたようだが、CIAが早々に火葬したため、真相は今でも闇の中である。
英国の二重スパイ フィルビーの暗躍
「007」のモデルで有名な、英国秘密情報部(MI6)もソ連の浸透を受けている。
英国では「ケンブリッジ・ファイブ」と呼ばれる、ケンブリッジ大学出身の5人のエリートが、学生時代に共産主義に共感し、そのままMI6などの政府機関に採用された事例が有名だ。
5人の中で最初にスパイに転向したのがキム・フィルビーで、あとの4人はフィルビーが引き込んだとされる。
亡命した外交官であるガイ・バージェスとドナルド・マクリーンとの関与について、記者会見を開いたキム・フィルビー(右)。いずれもケンブリッジ・ファイブのメンバーだ(J.WILDS/GETTYIMAGES)
フィルビーが学生時代を過ごした30年代は、世界大恐慌による資本主義への幻滅、ファシズムの脅威から、共産主義が魅力的に映った時代である。フィルビーら英国のエリートが共産主義に傾倒していったのはそれほど不思議なことではなかった。
第二次世界大戦が始まると、フィルビーはMI6に採用され、その能力の高さから部内での信頼は高かった。
フィルビーはMI6の活動をしつつ、裏ではソ連のスパイとして活動する二重スパイであったが、戦争中は全く疑われることがなかった。
むしろ彼がソ連に送っていた「完璧すぎる」リポートが、むしろ英国の欺瞞作戦ではないかとソ連側の疑念を増幅させたほどである。
48年にフィルビーはMI6の米国支局長にまで昇進し、将来の長官候補とまで見なされるようになる。
しかし米国は冒頭の「ヴェノナ」計画によって、英国政府機関内にモグラがいることを掴んだ。
これはケンブリッジ・ファイブの一人、ドナルド・マクリーンのことであり、まず米国のCIAからフィルビーに情報が伝えられた。
フィルビーは動揺したものの、密かにKGBに連絡し、同じケンブリッジ・ファイブのガイ・バージェスと、マクリーンの2人をソ連に亡命させることになる。
だが、この亡命劇によって、フィルビーにも疑いの目が向けられることになった。
CIAのアングルトンはフィルビーを擁護したものの、決定的だったのは54年にソ連から亡命してきたKGBのアナトリー・ゴリツィンの情報であった。
ゴリツィンはCIAにケンブリッジ・ファイブの存在を明かし、それによってフィルビーへの疑惑が決定的となった。翌年3月、追い込まれたフィルビー自身もソ連に亡命することになる。
その後、英国王室美術顧問のアンソニー・ブラントと第二次世界大戦中に英国の暗号解読に携わっていたジョン・ケアンクロスの名前が発覚することで、ケンブリッジ・ファイブの5人の名前が確定し、MI6に衝撃を与えた。
ただし英国でもフィルビーへの評価は複雑だ。
小説家のジョン・ル・カレはフィルビーを裏切り者と断罪しているが、かつてフィルビーの部下であった小説家のグレアム・グリーンは、同情的な意見を表明している。』